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残像に口紅を
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残像に口紅をの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全99件 21~40 2/5ページ
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実験的な作品ですが、作者が本当に伝えたいこと(生い立ちの独白、官能表現など)は、このような制約的な環境だからこそ素直に表現できたと感じます。言葉と同時にものがなくなっていく、その儚い世界は滑稽ながら、「もののあはれ」すら感じます。 | ||||
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日本語表現のマエストロ的存在たる筒井康隆の実験的小説。 小説と書いたのはそれ以外に表す言葉がないからで、どのジャンルにも分けられない文章、作者が生み出す虚構との対話、或いは実験試行の記録というのが正解かもしれません。 内容は他の人が書いてる通りですが、作中では第四の壁、作者の思考さえも超越しているのでそこに辻褄や筋書きを求めるのはナンセンスかと思います。あくまで思考実験の記録。 | ||||
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この小説の主人公で作家の佐治勝夫は、自らが虚構内の存在であることを認識している。そしてひとつの試みを始める。虚構内で進行する出来事を描写するにあたり、ひとずつ使用できる音声を消していくというのだ。「あ」から始まった音声消去の試みは、果たして最後の音を消すまでにどのように進んでいくのか……。 ------------------------- 1989(平成元)年4月に中央公論社から単行本で出たこの『残像に口紅を』が、およそ30年が経過した令和の今、大きな注目を集めています。2017年11月に放送されたテレビ朝日系バラエティ番組『アメトーーク!』の中で、「読書芸人」としても知られるカズレーザー(お笑いコンビ「メイプル超合金」のボケ担当)が紹介したことがきっかけだそうです。 私は番組を見てはいませんが、文庫本『残像に口紅を』が確かに大型書店でも長期に渡って平積みされているのを目にしてきました。 主人公が自分は所詮、実世界では存在していないことをわかっていて、だからこその摩訶不思議な、突飛な実験で自らを縛っていくという奇想天外な話です。使用を禁止する音声の順番は恣意的なのかと思いきや、作者・筒井康隆氏による計画立案の課程は巻末に簡単に触れられていますので、それを読了後の楽しみにして読んでみるのも良いでしょう。(そういえば、シャーロック・ホームズの『踊る人形』とポーの『黄金虫』のどちらもが、英語の文字で一番使用頻度が高いのは「e」の文字だと言っていたのを思い出しました。ですから、使用を禁止されても困らない日本語音声が何かをある程度解明したうえで書き始めたことは容易に想像がつきます。) さて、日本語の音声の半分近くを削っても、物語はさほど描写や会話に困窮することがないので意外に感じました。使われていない音声が相当量にのぼっていることに、言われなければ気づかないほど、そこに書かれている日本語は一向に窮屈さを感じさせていきません。 ようやく3分の2を越えたあたりから、変化が顕著になってきます。使えない音声が多いので、同じ対象を表現する上で、使える音声を最大限活かして見慣れない単語に置き換えていく努力が続けられます。「こなたを睨む」「タクシーの天蓋」「眼下の展開が大観可能」など、戦前の日本文学を読んでいるような錯覚に陥ります。 主人公の佐治勝夫もさすがに弱音を吐き始めるのが第29章あたりからです。 「音が失われていくにつれ、誰のことばもどんどん遠回しになり何回になっていくようだと勝夫は思う」(191頁) そして制限された日本語によって紡がれる物語はというと、混迷を深めていく一方です。描かれる内容が人類の真実を映し出していくような深化を見せるということはなく、奇妙奇天烈さがいや増していくばかり。そういえばこの小説のかなり早い段階で作家・佐治自身がこんなふうに嘯(うそぶ)いていました。 「記号としての言語が表現する意味内容なんて、実にいい加減なもんだ」(17頁) あえて言うなら、言語を制限することによって生まれる物語の無味乾燥ぶりを露呈させることを目的とした小説、といえるのかもしれません。それを思うと、この小説の4年後(1993年)に断筆宣言をした筒井康隆氏の思想がすでにここに表れていたと捉えることもできなくはないかもしれません。 厳格な言語記号ルールにもとづいて描く特異な物語を最後にひとつ紹介しておきます。 ◆泡坂妻夫『 しあわせの書―迷探偵ヨギガンジーの心霊術 』(新潮文庫) :230頁もの間、とてつもない企みが目の前で常に展開されていながら、私自身、全く気がつかなかったことに大きな驚きを味わいました。たとえて言うならば、まつ毛が目に映らないかのような、その見事なトリックに呆然としました。 . | ||||
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子供の夏休みの宿題、読書感想文用に購入しました。子供曰くとても興味深く読めたとの事でした。 | ||||
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徐々に言葉が消えていって、消えた中で小説が進んでいくという発想や構成はすごいと思うけど、実際のストーリーが全然面白くないし、残った言葉で作れるワードだけを並べてるような感じで物語の繋がりやストーリーが面白くなさすぎて研究的な作品だと思った。 これがもっとストーリー制もあって話が面白かったらすごい。 | ||||
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キレイな状態で良かったです。安心しました。 | ||||
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少しずつ制限が多くなり、最後はどうなるのか気になって、 最後の最後まで一気に読み切ってしまいました。 名作です | ||||
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子供の後に読んでみようかなと思い購入しました。 | ||||
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アイデアと言葉の扱いについては、さすがに技術力が高いと思うが、作中でも述べられているように「ゲーム」のようであり「曲芸」を見せつけられているような気持ちになる。 なぜだろうか。 喪失(あるいは郷愁)というモチーフは、近代の小説が扱うものの一つだと(これも作中で触れられるが)思える。しかし作中の人物は喪失への恐れや不安といったものに対して耐性が高いように見える。批評や批判や哲学に日常的に晒されるとそのような耐性が備わるのかもしれない。読者による主人公への共感といったものは拒絶されているようだ。 作中冒頭にこの作品についてのルールのようなものが提示され、それとともに人物やイメージではなく言葉への共感、ソシュールが提示した「シニフィアン(意味するもの・能記)」への共感を求める為の手段としてそのようなルールに則る創作が必要だと主人公の佐治は述べていた(ソシュールは、シニフィアンとシニフィエ(意味されるもの・所記)との対応は隣接する或いは併置される語との関連で変化し、そのようなダイナミズムを備えた差異の体系として言語を考えていたようだ)。言葉への、シニフィアンへの共感というものが音の喪失によって齎され、それは登場人物の喪失と等価だと、この作品は示そうとし、或いは論理的要請として表現しているのかもしれないが、それが成功しているとはあまり思えないが、どうだろうか。 文学者や言語学者でない限り、多くの人の日常では言語使用を手段として捉えており、一方親しい人々との関係は目的と見なしているように思える。一般には前者は後者に資するものと捉えられているが、この作品ではどうもそのような関係性までをも転倒しようと目論んでいるようだ。それだからか、粂子や娘たちや瑠璃子との関係は希薄だと感じられ、(瑠璃子とは対称な)講演会での若者とも感情的な繋がりは薄い。 ストーリーが面白くないと思う読者は、登場人物が作中で経験することに共感したいと考えて小説を読むのだろう。謂わばアリストテレス『詩学』的な捉え方をしているのだろう(『詩学』では悲劇が主に扱われたが)。しかしこの作品は上で挙げたように、(作中で読者に媚びているようなことも述べられるが)それを拒否している。上での転倒と関連する点で見れば、ストーリーは面白くあってはならない、ということになる。その辺りも実験的であるように思う。 一方で、主人公によるシニフィアンへの共感といったものが経験として提示されていたのかは疑問だ。そもそも私にはシニフィアンへの共感、更に言えば差異の体系としての言語の構成要素であるシニフィアンへの共感といったものがどのようなものか想像できないと思っているが、気がついていないだけなのだろうか。所与としてのシニフィアンへの積極的な共感という描写は興味深いように思う。(いま読み返してみれば、冒頭のルール作りがそれかもしれない。) もう一点付言すれば、虚構性を言明しているこの作品は所謂リアリズムに対立するものだと捉えられる。第二節で恐らくスタンダールへの言及があり、それはリアリズムの抹殺を企てたものだろう。一方第三節では(プルーストと)フロイトに続きセルバンテス、セリーヌ、バーセルミ、漱石、秋声、瀬戸内晴美の諸作が挙げられているが、この対称性は何を暗示するだろうか。このような文学的な編みの目を手繰りつつ解きほぐすのも小説の楽しみの一つかもしれない。 | ||||
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難しい。でも面白く感じてしまった。 | ||||
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文字だけでこれだけ壮大な実験をするということがすごい。そして、幽遊白書に出てきたあのシーンの元ネタらしいです。 | ||||
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日本語の『音』が消えていく中で物語を紡ごうとする小説家の物語です。 物語といっても前提がメタフィクション小説ですし、また主人公には作者自身がかなり投影されているので、苦手な人は苦手だろうと思います。内容も面白いけれど別にすごい冒険をするわけではないから、そこで拍子抜けしちゃう人もいるかも。 この作品の面白さは『音』が消えていくという設定の中で、筒井康隆という小説家はどこまで「やれる」のかを楽しむことにあると思います。この縛りの中で生き生きと物語を紡ぐ筒井先生の手腕にはホントにビックリさせられます。特に『音』がだいぶ消えた段階から始まる濡れ場はホントに圧巻で、なんでここまで表現出来るのかと感嘆すると同時に一周回って最早笑ってしまいます。 筒井康隆という作家を堪能できる1冊であることは間違いないです! | ||||
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TikTokで話題!みたいな、ピンクの帯になんかめちゃめちゃに腹が立ちました、情緒もへったくれもない | ||||
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何を書きたいのか支離滅裂。前半と後半の世界観の違いについて行けなかった。 | ||||
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主人公(本来は関西人)の広島弁スピーチで吹き出しました。使えない文字が多過ぎるせいで、真面目な感じの講演会にも関わらず、不自然な広島弁で話す羽目に…。 | ||||
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Tiktokで話題になった実験作。 文章から文字が一文字ずつ消えていく。主人公がこの小説自体を書いていて、文字が減っていくのも自覚して書いているという、メタ展開。世の中に叙述トリックやメタ展開の話は数あるが、小説にしか書けない実験だなと思いました。話が面白いというより、実験の顛末を見ている感じです。 | ||||
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入院中の時間つぶしにと思って買ったが内容が複雑過ぎて読み切れなかった | ||||
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「文字が一文字消えていく物語」という設定で、構成される物語。 アイデアとしてすごく面白いなあと思う一方で、ほんとにそれ書き切れるの?という半信半疑のまま読み始めた。 どういう順番でどの言葉を消していくかは、もちろん分析や計算もあったと思うが、書く前から全ての文章が頭の中にあったわけでもないだろう。 これは著者自身が、自分の筆力に対する挑戦を試みた、という見方もできそうだ。 物語は冒頭、この小説で行おうとしている「試み」の説明がなされていく。まるでソシャゲのチュートリアルのような丁寧さ。 そこから、徐々に文字が消えていき、文字によって生まれていた物たちもその存在ごと消えていく... 物語の展開もさることながら、個人的には作中に登場する小説家「佐治」と、著者の「筒井康隆」がクロスオーバーする瞬間が面白かった。 まるでこの企画に挑む筒井の気持ちを代弁するかのように、難解さや面白さを語る佐治。この状況こそがまさに本のテーマで語られていた虚構=現実、現実=虚構の一端なのかと感心した。 一文字ずつ消えていくという設定の面白さもさることながら、何層にも連なったメタ構造をここまで行き来する小説は他にないだろう。 シンプルだが荒唐無稽な着想と、それをしっかり作品として昇華させる著者の筆力はさすがだ。 | ||||
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精神的・文学的SFにジャンル付けられそうな作品です。 だんたん音が消えていく。消えるだけでなく、その音で構成される存在自体が無くなる。 宇宙創生とは逆の、開いていたものが閉じていく方向に話が進みます。 発想としては誰もが考えつく水準ですが、 それを多彩な文学表現でデザインされた作品として読むのはなかなか興味深く、技術が問われる題材だと感じます。 オチとしては何もかもを忘れていく認知症患者のような終わり方。 抵抗してみたり、受け入れたりしながら、最後はごく自然に一種の死を迎えています。 人、人のふりをした何か、人を崩した何かに変わっていく過程と共に、 世界全体が虚ろな雰囲気に飲み込まれていく感覚は、好きな人にはとても心地よいだろうなと思います。 そもそもこの過程を主人公そのものが楽しんでいる節、メタ発言満載な部分もあり、 良くも悪くも実験として見ることしかできません。 さて、自分が認知症になったときにその状況を楽しめるかどうか。 | ||||
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本を読む事が少なくなった昨今。これからも素晴らしい本に出会いたい | ||||
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