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夏の闇
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夏の闇の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.50pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全44件 1~20 1/3ページ
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30年ぶりの再読 若かった時には気にも留めなかった表現などに、若干の胸やけも。 半面、日によっては胸やけではなく、語彙力に感動したり。 ストーリーを追うと、美しい文章を読み飛ばしがちになり 文章に夢中になると、ストーリーに感情移入しづらくなり。 五十路には気力と体力の必要な本だ。 女は愛人であり、恋人ではない。 女に感情移入してしまった、五十路(の私は女性)です。 おままごとが終わった時には涙が。 | ||||
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面白かった。 20年前に読んだ時は、性描写の濃厚さに読み進められず挫折。 久々に読んでみたら生き生きしたヒロインに惹きつけられ、あっという間に読了しました。 ヒロインの住む街、恐らくバドゴーデスベルクの街並みや学位論文のかたわらに営む日々の生活の描写が印象深い。 実在のモデルがいると言うのもさもありなん、特徴ある口癖や会話のテンポにリアリティがあり魅了されました。 モデル女性が若くして亡くなられたあと、友人が夏の闇には彼女の小さな癖が書かれていて懐かしいと振り返っている記事がありました。 作中後半のベトナム戦争のくだりはダレてきますが、そこから続くヒロインの独白がよい。 なかなかドギツい内容だと言うのに、ヒロインの魅力は損なわずに読ませる開高健の巧みさよ。 女性は、ドイツ語もわからず流れ着いたと言うのに大学で学位論文を仕上げる底知れないバイタリティがあり、知性も食欲も性欲も旺盛で作者自身と思しき主人公にひけをとらない存在。 描きようによっては深みが伝わらない貪欲な女性となるところを、ドイツの深い森や静けさ、簡素な清潔さを背景に清々しいヒロインとして浮かび上がらせています。 昭和文学の濃くて静かな余韻の残す一冊でした。 | ||||
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意識高い系の男が身勝手に女を捨てる話である。 男のモデルは作者。三年前にベトナム戦で死にかけた。安住を嫌うくせに生理的欲求を満たす外は眠ってばかりで、それを昔知り合った女が辛抱強く保護している。この小説はそんな男の自己弁護だけで成立していると言っていい。そして苦労の果てようやく安住をつかみかけた女性を潰し、捨てて出る直前で終わる。 いい気なもんだ、という言葉が二度現れる。一度は女が(p.175)、もう一度は男が(p.236)使う。女は男を、男はそこにいない第三者を言うのだが、作者には何らかの自覚が、意識下にでもあったものと思いたい。なぜなら私はこの言葉を、かつて彼の旅行記に対し嫌悪の表現として使い、また数日前にも姉妹作「輝ける闇」を、この言葉を用いて酷評しかけたのだ。 作品の発表当時、「意識高い系」という言葉はまだなかった。しかし男は、頭でどんなに理論武装しても、口ではどんなに洒落たことを言っても、はたまたベトナムの激戦地へこれから再度赴くのだとしても、所詮は自分しか念頭にない。苛烈な(作者の好きな言葉)場に身を置き、衝動に跪いて前進するしか頭にない。男の怠惰を今は休暇だからと許す女が所帯じみてくるのを恐れ、「駅の食堂」「スナック」(p.234)のように用が済めば顧みない、その罪深さを知覚すらできない(だから「系」である)。一体いつまでガキじみたハタ迷惑な「系」を続けるのか?現実の作者はやがて贅を尽くした安住に憩うのだ。 けれど作者はみな承知の上なのだろう(自己批判は女に言わせている)。だから読者が男の言動をどう解釈するかが、作品の印象を決める鍵になろう。もし解説でC.W.ニコル氏の言うような作品でしかないなら、私はこれを評価しない。しかし作者が自己分析を経て、戦争神経症の一病型として「いい気な」「意識高い系」を造形したのなら、最低でも疲れたヒモ男の内省小説として読むことができる。 | ||||
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ベトナム戦争に従軍した記者は、戦争の惨禍と苛烈さから精神の抜け殻となり戦場を離脱。ベルリンで旧知の日本人女と遭遇し、酒と女に埋没する。 開高式文学は“西欧”に身を置いたまま闇に沈みゆく。 | ||||
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実は学生時代に読んでいたのですが、いつの間にか紛失したので改めてこちらで購入 昔から本をよく読んでいて、15年前の結婚を機に本格的に読み始めました 今作は物語として面白いわけではありません。いわゆる純文学で、芸術性の高いもの 作品中に漂う独特の暗さは天下一品 独身時代に読んだのですが、当時の衝撃はいまも覚えています ねっとりどんより暗い・・ こんな本、今の作家は書けないんでしょうね・・ | ||||
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私が本作品を初めて読んだのは35年前のこと。 アジアを貧乏旅行している時に知り合った女性が、持参の文庫本を薦めてくれたのだ。 開高健なんて、ウイスキーを飲んで釣りをする太ったおっちゃん、程度の認識しか無かったが、日本語に飢えていたし時間は幾らでもあったから、ありがたく借りて読んだ。 文庫本は新品だったがカバーは外されていたので、粗筋も、『近代日本文学の金字塔』という当時の背表紙の賛辞も知らずに読み始めた。 冒頭の短い、けれど印象的な一文が、比喩では無く身体の奥底にストーンと落ちて行き、私はこれから、とてつもない小説を読むのだと確信した。 そんなことは長い読書生活で、後にも先にも、この時だけだ。 最後の一文を読んだ時のことも無論鮮明に憶えている。 そこはカトマンズの安宿で、外では雨が降っていた。 呆然としたまま出掛けて行ったチベット料理屋の水餃子の味さえ、この小説の余韻として残っている。 私の人生は終わった、と思った。 人生を始めるために出た旅行で、人生が終わってしまった。 それでも死なずに帰国して、この作家の本を片っ端から貪るように読んだ。 小説、ルポルタージュ、旅行紀、エッセイ、対談、人生相談まで。 惚れ惚れするような文章に幾つも出逢ったが、この『夏の闇』ほどの衝撃を受けることは無かった。 その後知り合った読書好きの人間幾人かに紹介したが、読後の感想は芳しくなかった。 特に女性には不評であった。 英訳もされているので、アメリカ人女性に勧めたら、「何故こんな本を薦めるのか」と怒られた。 それで漸く気付いた、これは女性が読むと、不快に感じる小説だと。 だが、それなら、みち子さん、貴女はどうして、あの旅行に、この文庫本を携えて来たのか。 私は今も時々そのことを思う。 過酷とも思えるハンディキャップを背負った貴女が、どのような人生を送り、この小説に出逢い、どんな思いでバックパックに詰め込んで日本を出て来たのか。 私は、その闇を思う。 こうしてレビューを投稿しようとしていながら、私は、この小説に関しては、もう誰とも話したくない。 ただ、このような小説が存在するということだけは、もっと知られて欲しい。 そして100年後も、500年後も残って欲しい。 この作品に出逢ってからの、私の読書の究極の目的は、もう一度、あと一度で良いから、自分という存在が一切消えて無くなるほどの体験をしたい、それだけだ。 | ||||
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この本は昔から大好きで、わたしの人生の本です。2冊目として買ったのですが、、、 写真と違う装丁でしかも表紙全面に汚れがあるものが届きました。。。。 星は本の中身の評価です。 でもAmazonで買わない方が良いかもしれません。 | ||||
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文学作品としての評価・世評については何一つ「足し」も「引き」もしない、近代日本文学のひとつの頂点であることに全く異論はない。しかし、個人的には「文章表現教本としての」この本の存在に更に深く魅かれる。 言葉が言葉と連結し絵の具を重ねるように重層的に重なり合い、あるいは離れて牽制し合い、その卓越したレトリックがあたかも汲みせど尽きない泉のように我々を刺激し続ける。 このあたりに関連して開高 健 本人は " オーパ、オーパ (モンゴル・中国 篇 スリランカ 篇) "で次のようにも書いている ■酒精の青い火にちろちろとあぶりたてられつつ、言葉を、煮たり、混ぜたり、切ったり、焼いたりにふける。言葉は事物の一つだけれど同時にその影でもある。気迫とか、精神のリズムとか、心の渇きとか、歩行でありつつ跳躍でもあるものとか、呼び名はいろいろ変わっても正体はつねにひとつであるサムシングが底を入れたとき、裏打ちしたとき、はじめて事物と影が一致する。それはしばしば作者が言葉に犯されて蝕まれて自我が霧散しかかったきわどい瞬間に決意が生じて一歩を踏み出す。 世に表現辞典やら関連する類語・連想辞典など数あれどほとんどモノの役に立たないのが素直な印象。いっそ版権ほか法的要件をクリア出来れば、それぞれの巻末にこの「夏の闇」全文(あるいはエッセンス)を加えれば・・・とも思うが、そうもいかないのであれば常に傍らにこの本を置き、日々の糧・インスピレーションの種にしたい。 | ||||
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ベトナム戦争を体験した主人公は廃人同然。 極限の生と向き合った男の心の居場所はない。 寝る、食う。女と寝る、怠惰な生活。 官能小説か純恋愛か。 そのどちらでもなく、苦悩、浮遊する男の精神。 深く,濃く、崇高な文体がこの小説の真骨頂。 | ||||
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別に有りませんですよ。 | ||||
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友人からの誕生日プレゼントに、貰ったのですが、まさか、新品で貰えるとは思いませんでした。 大ファンなので、嬉しかったです。 | ||||
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読み終わり、「すごい小説を読んでしまった」と思った。 繰り返し読みたい本に、久しぶりに出会った。 | ||||
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この「夏の闇」の単行本は既に持っているのですが,文庫本でカバン等に入れておき,気軽に読むために購入を決めました。商品が到着するまでは,中古品なのであまり期待はしていませんでした。しかし,到着した商品は,きちんとビニール袋で密閉されており,中身もほぼ新品同様に感じられ,あまりにも綺麗だったので,中古品である旨を伝えた上で,以前から読みたいと言っていた友人にプレゼントしました。 | ||||
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本書は 開高健(1930-1989)の 最高傑作『夏の闇』の 直筆原稿を51%に縮小し 凸撮りモノクローム(白黒)印刷したものです。 箱にはいった本書の写真はタテ長ですが 本じたいはヨコ長です。 1ページの大きさは実測で おおむねタテ13.5センチ×ヨコ18.5センチです。 縮小率を勘案すると、原寸の原稿用紙は おおむねタテ19センチ×26センチ くらいかと思われます。 これはA4サイズよりは明らかに小さく B5サイズに1センチくらいの余白をつけた感じです。 どこかで開高健自身が 「半ぺらの原稿用紙」と表現していたのは B5サイズをヨコにして タテ1行20字×ヨコ20行=400字 の原稿用紙であったろうかと思います。 その答えは 本書のもととなった 『特別限定愛蔵版 直筆原稿 原寸・四〇八枚 夏の闇』 (開高健記念会。2008年12月。構成・三村淳) を見れば確認できるでしょう (いまだ私は拝見したことがありません)。 本書は 『新潮』1971年10月号にまとめて掲載された 『夏の闇』全入稿原稿です。 その後、新潮文庫となった『夏の闇』とは 違っている点が多々あります。 その対照表(校異)も本書巻末に載っていますので 読者にたいし親切です。 直筆原稿を見ると 原稿用紙の右上にアラビア数字で 「1」から「399」までの番号が打ってあります。 たいへん読みやすい字です。 坂本忠雄氏(開高記念会会長)の解説 『直筆原稿による『夏の闇』をめぐって』によると 「完全原稿」でした。 坂本氏はそもそも担当編集者として 開高健の直筆原稿を最初に読んだ方とのことです。 『夏の闇』は 開高健の最高傑作であり 日本文学における最高傑作のひとつであり 葬儀で弔辞を読んだ 司馬遼太郎も 一番好きな作品であり最高傑作であると述べています。 上記の坂本氏の解説によると セシリア・セガワ・セイグルによる英訳 ユルゲン・ベルントによる独訳 カイ・ニエミネンによるフィンランド語訳 があり フィンランドでは文部大臣翻訳賞を受賞しています。 さらに ドナルド・キーン氏によると 英訳者のセシリア・セガワ・セイグル氏は 『夏の闇』をノーベル賞に推すために スウェーデン・アカデミーに対し推薦の手紙を書いたはずとのことです。 いずれにせよ ノーベル賞級の文学作品を直筆原稿で読めことができる というのはたいへん幸せなことだと感じます。 読者冥利に尽きます。 本書直筆原稿部直前の注意書きによると 原稿用紙は開高健自家製で 罫の色は薄いグレー。 執筆に使ったのは モンブランの万年筆 マイスターシュテュックNo.149 (ペン先の太さは不明)です。 インクの色は 235ページまでブルーブラック それ以降はブルー とのことです。 実はこのインクのくだりを読んで私はたいへん驚愕しました。 開高健は インクもモンブランのブルーブラック(確か業務用の瓶入り) を愛用していると エッセイに書いていました。 ブルーブラックはインクの王道であり 空気に触れて酸化することでだんだん黒くなり 水に濡れても大丈夫なよう長もちするので 外交文書の署名などに使われています。 インクの色を途中で変えていたとは 本当に心底、驚きました。 (芥川龍之介もインクの色についてはこだわりがあり セピア色あるいはブリューブラックについて うんちくを書いていたと思います) なぜ開高健は途中でインクの色を変えたのでしょうか? 残念ながら本書はモノクロームなので 色が変わったことによる印象の変化は分かりません。 どのメーカーのインクであるかにもよりますが ブルーブラックとブルーでは 視覚に訴えるものが相当違うように感じます。 ひいては気分や精神も変わってくるのではないでしょうか。 そう思いつつ 本書冒頭の写真 (『夏の闇』脱稿直後の著者 新潮クラブ一階和室にて)を見ると 両肘を机につき 右手を軽く丸めて(握って)右側頭部にあてた 開高健の(写真における)手前に インクの箱が写っています。 「Quink」というロゴが見えます。 パーカーのインク「Quink」と思われます。 Quinkは Quick+Inkの造語ですから 速く乾くのが特長です。 『夏の闇』を書き上げるころ 開高健はインクを乾くのももどかしいほど 速いスピードで書いていたのでしょうか? (根拠はありませんが考えにくいです) それともそもそも モンブランからパーカーに転向していたのでしょか? 本質的ではない 形而下的な疑問なので恐縮です。 そういうことに考えをめぐらし 想像にふけることができるのも 直筆原稿本だけが持つ楽しみだと思います。 多様な楽しみ方ができる本書を 多くの方にお勧めします。 | ||||
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最近、といっても昨年くらいから、昔読んだ本がやたら読みたくなって読んでいます。ひとつは、就職するまで、誰かにすこし多めのお小遣いをもらうと、「『年の名残り』は、お祖母ちゃんに買ってもらった本だ。」との記憶を残すためにその一部を必ず本代に当てていて、しかし、そういった係累に亡くなられることが最近とみに増えたからで、本書もそんな一冊です。 開高健は、三十数年前の高校時代、大江健三郎さんを読み始めたのとほぼ同時期に読んだはずですが、釣りにそもそもが肯定的なイメージを抱いていなかったことと、なにより安部公房や大江健三郎さん経由の外国の文学作品に傾倒していったために、大学浪人していた時に読んだ本書以来、おそらくその著作に接していないはずです。したがって、初めて読むも同然でありながら、所々細部に心当たりがあって、自分でも意外だったのですが、なかでも「独立排除的に」という言い回しが、お互いに相手をつなぎとめようとする符牒のように読めて、最終的に収斂していく結末と合わせて、とても切なかったです。 | ||||
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濃厚で粘つき、汚濁して、様々な強烈な臭気を放つ人々は愚かである反面、 溌剌と真摯に清廉に強く逞しく生きていく。 作者は敗戦当時の日本人の姿を遠い異国のベトナムで再発見したのかな? 全てを経て達観した筆者は、無感動無関心、無表情となり、愚かにも同じことを 繰り返し成熟し、やがて病み果てていく。 無味乾燥、無関心に生きている私を含めた現代社会に生きる人達は必読です。 | ||||
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本屋の棚にあったのですが、アマゾンで買いました。その気になったときに夜中でも注文できるので重宝しています。 | ||||
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大阪出身のいわゆる焼跡派世代の作家で突出しているのが手塚治虫と開高健。2人とも少年期の戦争経験を通過して、生涯を通じて人が生きるとは何か、を追求し続けた人だ。とりわけ開高はアイヒマン裁判の傍聴など戦争当時者の裁かれる現場、アウシュヴィッツなどのホロコーストの跡地などを訪ね続け、ついにはベトナム戦争の米軍に従軍して同行する中隊がほぼ全滅、という過酷な経験をする。その体験が昇華したのが『輝ける闇』と本作。輝ける闇は自らの従軍経験を主に書いており、その濃厚で密度の高い文体は恐らく世界中のベトナム戦争関係の文学でも屈指の内容を誇ると思われる。で、本作は戦争という極限状態で精神的にバーンアウトしてしまった男が書かれる。恐らくはこれも開高氏なのであろう。死を目前にした極限状況を経験した人間は、食べること、寝ること、交わることという本能的な行動以外に自己の存在を確認できなくなることさえあるということが濃密に書かれている。恋愛とかそういう話とは思えない。そして主人公が戦場へと戻ってしまうのは、その極限状況の中にしか自らの生を把握できなくなるということではあるまいか。湾岸戦争やイラク戦争などに従軍したアメリカ兵が帰国後に事件を起こしたり自殺したりするというニュースが時々入ってくるが、戦争とはそこまで過酷なものだ、ということを開高健が身を削ってこの作品に昇華させた、と私は考えます。近年質の低い政治家が、憲法改正、戦争上等、とやりたい放題をしていますが、戦争の現実はこういうことなのだ、と改めて思います。今のような時代であればこそ、きちんと読み返され、再評価されるべき作品でしょう。花終わる闇が未完で終わったのは、開高健の文筆はこれで燃え尽きたからではないかと思われます。オーパのシリーズも面白いのですが、こうした深みみたいなのは希薄になってしまいます。 | ||||
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日本文学の最高峰だと思う。個人的には『輝ける闇』はそれほど面白くないが、『夏の闇』は一年に一回程度読み返している。 男は興味関心があるものがない時はダラダラとしか過ごせないが、何か情熱を燃やせる対象にぶつかった途端に燃え上がって行動に出る。この本では、そういうことが言いたいんじゃないかな。 | ||||
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開高健はひたすら「書く」という行為、すなわち作家としての仕事から逃れようとし続けた人であった。それでいて、ひとたび筆をとればその文体は時として冗長すぎると批判を浴びるほど、とにかく書きたい人であった。本書も決してその例外ではない。 ただしそれでもこの作品は素晴らしい。いかに冗長であっても、これほど緊張感のある文体で書ける人はやはりこの人しかいない。『輝ける闇』を推す人もいるが、戦争という遠心力にまかせて書かれた『輝ける闇』よりも本書の世界は内向的で、したがって作家の全精力を傾けた作品と言って良いだろう。とりわけラストシーンは文学史に燦然と輝く見事なものである。 | ||||
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