■スポンサードリンク
夏の闇
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
夏の闇の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.50pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全52件 21~40 2/3ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本屋の棚にあったのですが、アマゾンで買いました。その気になったときに夜中でも注文できるので重宝しています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
食と性について開高の奥深い薀蓄が披瀝されていて、興味は尽きないが、社会との関わりが意外に乏しい。サルトルの「嘔吐」を手本にした作品だそうだが、実存への切り込みにおいても、サルトルの域に達していない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大阪出身のいわゆる焼跡派世代の作家で突出しているのが手塚治虫と開高健。2人とも少年期の戦争経験を通過して、生涯を通じて人が生きるとは何か、を追求し続けた人だ。とりわけ開高はアイヒマン裁判の傍聴など戦争当時者の裁かれる現場、アウシュヴィッツなどのホロコーストの跡地などを訪ね続け、ついにはベトナム戦争の米軍に従軍して同行する中隊がほぼ全滅、という過酷な経験をする。その体験が昇華したのが『輝ける闇』と本作。輝ける闇は自らの従軍経験を主に書いており、その濃厚で密度の高い文体は恐らく世界中のベトナム戦争関係の文学でも屈指の内容を誇ると思われる。で、本作は戦争という極限状態で精神的にバーンアウトしてしまった男が書かれる。恐らくはこれも開高氏なのであろう。死を目前にした極限状況を経験した人間は、食べること、寝ること、交わることという本能的な行動以外に自己の存在を確認できなくなることさえあるということが濃密に書かれている。恋愛とかそういう話とは思えない。そして主人公が戦場へと戻ってしまうのは、その極限状況の中にしか自らの生を把握できなくなるということではあるまいか。湾岸戦争やイラク戦争などに従軍したアメリカ兵が帰国後に事件を起こしたり自殺したりするというニュースが時々入ってくるが、戦争とはそこまで過酷なものだ、ということを開高健が身を削ってこの作品に昇華させた、と私は考えます。近年質の低い政治家が、憲法改正、戦争上等、とやりたい放題をしていますが、戦争の現実はこういうことなのだ、と改めて思います。今のような時代であればこそ、きちんと読み返され、再評価されるべき作品でしょう。花終わる闇が未完で終わったのは、開高健の文筆はこれで燃え尽きたからではないかと思われます。オーパのシリーズも面白いのですが、こうした深みみたいなのは希薄になってしまいます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
日本文学の最高峰だと思う。個人的には『輝ける闇』はそれほど面白くないが、『夏の闇』は一年に一回程度読み返している。 男は興味関心があるものがない時はダラダラとしか過ごせないが、何か情熱を燃やせる対象にぶつかった途端に燃え上がって行動に出る。この本では、そういうことが言いたいんじゃないかな。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
開高健はひたすら「書く」という行為、すなわち作家としての仕事から逃れようとし続けた人であった。それでいて、ひとたび筆をとればその文体は時として冗長すぎると批判を浴びるほど、とにかく書きたい人であった。本書も決してその例外ではない。 ただしそれでもこの作品は素晴らしい。いかに冗長であっても、これほど緊張感のある文体で書ける人はやはりこの人しかいない。『輝ける闇』を推す人もいるが、戦争という遠心力にまかせて書かれた『輝ける闇』よりも本書の世界は内向的で、したがって作家の全精力を傾けた作品と言って良いだろう。とりわけラストシーンは文学史に燦然と輝く見事なものである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『輝ける闇』の続編ということですが、かなり雰囲気は違います。戦場で虐殺される寸前の体験をした「私」は、10年後、「性か食か排泄のためにしかソファからおりな」い、すりきれかかった引きこもり人間になっています。 「たちどまってじっと凝視していたらたちまち崩壊してしまう。ときたま何かハッとする一瞬があるので、そのとき一言半句をつかむ。つかんだらすかさず眼をそらさなければいけない。じろじろ眺めていたらたちまち指紋でくもってしまうか、粉末になって散ってしまうかだ」、という作法で(おそらく)採集された言葉で書かれた、緊張感いっぱいの小説。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
当時の開高健の珠玉のエッセイ群を読んでいると、次の小説の冒頭の一行が書けない、という話が延々と繰り返されている。 で、この『夏の闇』の冒頭の一行である。 初出時に、はじめて読んだときは、その冒頭の一行が、酒というよりは水に近い印象を受け、 あれ? 開高センセ、悩みに悩んだ結果が、この一行でっか? と読みはじめ、読み進め、読み打ちのめされ、這々の体で読み終え、 息も絶え絶えに眼を閉じ、単行本を閉じて置き、そしておそるおそる再び本を開き、冒頭の一行を目にした瞬間、私の魂は、射精した。 あの開高健の、最高傑作。小説的言語の、最高到達点。 開高センセよ いまの時代に、天国から、なんか言葉くださいよ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これまでに読んだ小説の中で最もインパクトがあった。開高氏はビデオ「河は眠らない」の中で「食べ物のことと女のことが書けるようになったら小説家として一人前だ。」とおっしゃったが、この問いへの氏の解答が夏の闇であるとも感じられる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
対になっているもうひとつの闇「輝ける闇」を読んでから一ヶ月半ぶりに読み始めた。ここでは、まさに文体こそが主人公であった。喚起する文体。読むものの感性、想像力、行動までをも喚起することのできるアジテイティングな文体。 メッセージ性は希少であるのに、何をアジテイトするのか。いくつかの場所ので夕暮れ時の空気について描かれている。それらの描写に触発されて、私は今まで何千回も何も物思わず通過してきたその空気に浸るために外に出た。 高原の湖畔の牧草地での「赤い夕焼け」のなかで交わるシーンは、ヤッテいるのが中年太りの醜男であることを差し引いても、あらゆる小説のなかでも最も美しい情交場面のひとつではないだろうか。 この小説は、作者のもて自慢であり、性だけはむさぼろうとするスケベおやじの意地きたなさであり、魚一匹が釣り上げられたら、嘘のように機嫌がよくなる、ふてくされ中年の物語でもあり、そして「輝ける闇」と同様に、終に英雄的精神が立ち現れ、死地に赴かせようとするのだが。自分自身に対して死を賭してみせなければ精神のバランスを取ることが出来なくなっているかのように。 このあと開高はもう二度と「夏の闇」の達成の高みに到達することができなかった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
↓以下のレビューは読書メモ的側面があるため、未読である場合には一読してから読まれることをお勧めする。 文庫版の解説でCWニコル氏が指摘しているように(P264)、書き出しからして凝縮された表現(それは著者の深い教養に裏打ちされたものだ)が乱舞する小説である。 小説の舞台は(明示的に示されてはいないが)1968年夏のパリ。ベトナム戦争に従軍記者として取材経験をした小説家は、戦場で遭遇した凄惨な体験を経たのちに、人間関係の折り合いが付けられずにいる。終日、安宿の部屋に引きこもる。 かつて小説家と関係のあった女(可能性のない日本を捨て、知識人としてドイツと思しき国で成功をおさめようとしている)と再開し、食べて寝て交わっての「甘い生活」を繰り返す。舞台を女の生活するボンと思しき街に移しても、男の無気力は変わらない。女の今後の関係への「期待」と、小説家の「逃避」志向のギャップは、女を苛立たせ、感情を激発させる。 気分転換で訪れた山の湖で男はいつになく能動的になるが、山を降り東西分断下のベルリンで決定的なニュースを耳にする。 眠ること、性を貪ること、食べること。そして天候であるとか、一日の日の移ろいの描写の魅力。感情を激発させた女と小説家の間の会話は(P141〜147、P232〜236)、これでもかと言わんばかりに話法を変えることで、その瞬間の緊張感を否が応でも高める。 身勝手な男の小説? 確かに、そのようにも読むことができるだろう。話法を変えた痴話喧嘩の後の女の描写をみると、とくにそう思えてくる。だが、それだけだろうか? 戦場で究極的な体験をした小説家は、生きる実感を日常の中で得ることができずにいる。宮台真司のような言い方をすれば、<世界>に触れてしまったため<社会>を生きることができない。そしてまた<世界>へと回帰する。本書は、そんな小説なのである。 評論家江藤淳は、開高健の担当編集者である坂本忠雄氏が、開高健を見捨てたために作家生命を「殺した」のだという。 ほかならぬ坂本氏は、ホストを務める座談集「文学の器」(扶桑社)で本書を採りあげ、凝縮された表現ゆえに開高が苦しみぬいたという創作秘話を披露する。 一度ならず二度三度と、再読したい作品だ。その際、上記の「文学の器」の該当部分を参照すれば本作品の感興はさらに増すだろう。名作である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
得がたい読書体験である。均一・画一・整然の活字面で読んだはずの書物の頁が、突然、隆起して走り出す。開高健が走っている。一言一句の日本語と格闘し、節と節の間、文章と文章の間で呻吟し、時に停止し、時に後退しつつ、作家開高健は走っている。彼のじめじめした発汗と体臭が、読むものに伝わり、ゴールまで一緒に行く他ない。 「開高健の直筆原稿はいつも書き直しや消しの殆どない完全原稿でした」とは、巻末に収録されているかつての担当編集者の言であるが、編集者に渡す前に相当な書き直しや消しがあったであろうことは、想像に難くない。本書は印刷直前まで、その上に更に推敲を重ねた最終原稿で、活字本ではとうてい窺い知れないが、ゴールへ到達するまでは、白く平坦な道もあるけれど、峻厳な起伏に満ちた崖と谷が沢山あったことが生々しく披瀝される。字体は、誰にも親しみやすく丸みを帯びて、端麗・達筆とは程遠いが、丁寧である。 直筆原稿ならではの余談だが、「憂鬱」「薔薇」「川獺」「霞」という漢字は書き直しなくサスガと思わされる一方、何度も出てくる「正確」の「確」や、「破壊」の「壊」、「専門」の「門」、それに「膝」の漢字はどうみても教科書的にはマチガイである。こういうささやかなマチガイ探しも、伴走者にとって、密かな愉しみなのである。 一番収穫だったのは、有名な締めくくりの一行。当初の「明日の朝、南行きの席を予約する。」が、最終的に「明日の朝、十時だ。」と改められたことが分かる。「夏の闇」は、この締めくくり以外にはないと思わせられる名文であるが、ここに辿り着くまでに開高健は、どれだけの推敲の長丁場に耐えたことだろうか。― 繰り返しになるが、作家がその作品を産み出すまでにいたる苦吟のプロセスを生々しく感じとることの出来る、稀有な読書体験であった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
初めて読んだ時、読み終わるのが惜しくて行きつ戻りつしながら読んだ開高健氏の名作が直筆原稿版で読めるとあって、即購入しました。 完成度の高い原稿を入稿されるという開高氏ですが、それでも原稿用紙には表現に手を入れる過程、創作の過程が如実に見て取れ、繰り返し読んだ作品の舞台裏を知ることができ大満足です。 作家自身がこうした創作の舞台裏を明かされる事をどう感じるかは複雑なものもありますが、既に完成された作品で評価を築いた大作家だからこそ、その作品が生み出されるプロセスもまたファンとしては求めてしまいます。 直筆原稿版は、あたかも原稿を受け取った編集者が最初にその作品を読んだ時の様な気持ちを疑似体験できるという意味でも、非常に贅沢な時間を与えてくれます。開高健作品を愛読する人ならば、購入を迷う必要のない一冊。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「著者開高健の最高傑作!」とよくいわれる1冊である。が、私は決してそうは思わない。むしろ「オーパ!」のような釣り紀行のほうがはるかに清清しく、文章もすばらしい。 本書は、ヴェトナム戦争でトラウム状況に陥ってしまった哀れ小説家と、愛人女性との初老の恋の物語である。羞恥心から開放された二人の哀れ破廉恥痴話げんか夜話である。 「あちらのこちら」の話が出てくるまでは、本書の舞台がJR新大久保駅前の飲み屋街の一角にある安下宿の一室のことかいな、と思っていた。そうではなかった、吃驚! 「あちら」は、東ドイツであり、「あちらのこちら」は「西ベルリン」だったのだ。道理であのシュタインコップ先生が登場するし、その愛人秘書君も出てくるんだナ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本作はベトナム戦争を舞台とする「輝ける闇」の主人公と同一人物と思われる男が、再度主人公となる続編といってもよい作品だ。男はベトナムに従軍した後に現在は欧州のとある国で一日の大半を寝て過ごすような虚無的な生活を過ごしているが、そんな男のもとに10年前につきあって別れた女が現れる。二人とも40前後だろうか、異国で落ち合った二人は一夏を共に過ごすことになる。 このように書くと少しはノスタルジックで甘い男女の交情が描かれるかと思うが、全くそうはならない。男は自分も他人も愛することができない人間(あるいは自分を愛せないが故に他人を愛せない人間)で、自分と他人を冷静に観察することはできるが、他人と気持ちを通わせるといったことができず、「人格剥離」と呼んでいる動くことも話すこともできない無気力的な症状に突然陥る発作に悩まされている。従って、男は女が異国で苦労してきた孤独や怒りや苦しみを感知することはできても、観察するのみで共感したり慰めの手を差し伸べることは出来ないし、しようとはしないのである。 この男のどこまでが開高自身なのかはわからないが、少なからず投影されている気がする。人間の感情の奥底を精密に描いてこれでもかとさらけ出すこの作品には、読者を圧倒する力がある。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品は、先の輝ける闇 (新潮文庫)と、後の「花終わる闇」をもって3部作として構想されたが、3作目は未完に終わった。 それというのも、前2作があまりにも親密に呼応しあってるからではないかと、この2作を立て続けに読んだ後、痛感した。 この2作は、様々な面で見事な対照をなしているけれども、びっくりするくらい似てもいる。 時系列的には、「輝ける闇」から「夏の闇」につながるが、どちらを先に読んでも構わないと思う。 それは、陰と陽がお互いを追い求めながら永遠に回転する様を思わせる。 おそらく、作家が執筆中には意図していなかったことが、どこかで起こった。 この作品のエンディングで、東西をくぐり抜ける環状線の描写があるが、これは当初から計算されていた結末というより、作家が切り拓いた道を振り返る事で見えた情景だと思う。 この2作の凄い所は、どちらか一方だけを読んでも、十分な感銘を与えてくれる事だ。 3作目は、この2作に切り込みを入れ、交わるものとなったはずだが、それが果たせなかったのも、さもありなん、と思う。 読み切るのは楽ではないけれど、充分過ぎる位の見返りがあります。 ぜひセットで読んでみて下さい、お薦めです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
・・たった今し方「名作」と誉れ高い本書を読み終えたところだ・・・ 正直に書こう、全編に漂う言いようの無い「やるせなさ」「よるべなさ」とでも言えるであろうか・・一言「退屈」だった・・・ 開高の時代は、既に終わっている。時代は常に「変化」しており、「怠惰」を生きる生きられる「時代」では最早ないのである。これからは、「漂白」の時代になるのではないだろうか・・・ 深刻な「リストラ」相次ぐ「自殺」卑劣極まりない「殺人」潜伏する「偽装」横行する「詐欺」・・ETC。 開高は後に、自ら行き詰まる「文学」から足を洗い「フィッシュ・オン」へと変貌する・・その「中間点」が、本書ではないだろうか・・そう思えてならない・・謂わば、蝶へ脱皮する前の蛹の状態(段階)が本書ではないだろうか。まあ折り返し地点に位置する意味では、本書は「重要」な作品ではあると思う。 だが、遅れてきた一開高ファンとしては今度は開高が晩年に残した「珠玉」を読んで、それを改めて確かめたいと思っている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ベトナム戦争が行われていた頃に、進歩的文化人が現れて、人ごとに「お前は何もしなくていいのか」と叫びまくった。国中がベトナム戦争への個人の対応を巡ってヒートアップしていた。全人類的な言い方で、人々に「反米運動」をせまっていた。他国の戦争に。いまはどうか、イラクは?アフガンは?パレスチナは? ベトナムでの取材を経て無気力になった?目の前で人が殺されるのを見てくれば、それは衝撃かもしてない。しかし、それは普遍的な衝撃なんだろうか? この作品がすぐれているのは、圧倒的な日本語の表現力に尽きると思う。素晴らしいと思う。かれがもう一度ベトナムを目指すのは、正義感、義務感というものではない。血の流れる現場か阿片の現場にしか実存し得ないかれの精神構造からだ。「当時の男」と「普遍的な女」が同一時制で、かみあう筈もないのだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
もちろん、この「夏の闇」だけ読んでも素晴らしい作品であることに変りはないが、やはり「輝ける闇」を読んでから読むべき一冊だろうと思う。 主人公の「私」は何故怠惰な生活を送るのか、沈殿してしまうのか、絶望しているのか、そんな自分を嫌悪しながらもそこから抜け出そうとしないのか。そして、何故ベトナムに戻ることを決めたのか。その理由が、彼のベトナム戦争での経験にあるのは「夏の闇」でも触れられているが、経験そのものを作品化したのが「輝ける闇」だからだ。 「夏の闇」を読んでから「輝ける闇」を読み“だから「私」はこんな生活を送るようになったのか”と感じるよりも、“「私」がこんな生活を送ることになった必然性を理解したうえ”で、この作品を読む方が、より「私=開高健」の闇を感じることができるように思える。 開高健の文体は力強く男臭い。文章から開高の体臭が漂ってきそうだ。 この作品の舞台はドイツである。著者が、南北ベトナムに対する東西ドイツという意味でそうしたと勝手に推測しているのだが、わたしが勝手に抱くドイツからイメージされる色の「灰色」、そして、どんよりとした灰色の空。そんなイメージを抱く舞台で、心の闇を抱えた男と女の生活が濃密な文体で描かれるこの作品、読み終わった後の疲労感はかなりのものだ。 わたしが最も繰り返し読んだ著者の作品は「オーパ!」だが、やはり彼の代表作は「輝ける闇」と「夏の闇」。この2作だと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
開高先生の著書は、読んでおくべき本だと思っている。私も先生の著書を片っ端から読んで読んで読み漁った経験がある。 とにかく先生の描く世界にどっぷりとはまり、抜け出すためにまた読むといったことを繰り返していた。 私は迷った時に開高先生の本を手に取り、また池波正太郎先生の本を手に取るなど、両先生に何度も慰められたり、励まされたりしている。 自分自身の経験から息子にも読ませるために開高先生の全集を目に付くところに置いている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私小説は書かないと公言し、寓話小説を書き続けた開高健。 しかし、ベトナム戦争の現場で衝撃を受け私小説を書き始めた。 この本はより私小説としての色が濃厚になった「輝ける闇」の連作である。 「夏の闇」で特筆すべきは、選び抜かれ洗練された言葉と 鋭く真理を突いたストーリー。 恋愛小説として語られる事もあるが、恋愛も人生の一部と 捉えるのであれば、私はそれに反対しない。 醜い部分はオブラートに包まれがちなものであり、 「恋愛」のそれを剥がすと非情な真理が現れるのである。 それを目にしたときの衝撃は、計り知れない。 前作を読まずとも入り込めるので、 この素晴らしい言葉と真理の結晶を是非手にとって頂きたい。 間違いなく、日本文学の最高峰のひとつと言える傑作である。 私はもっと若いうちに手にしておけばと後悔している。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!