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(短編集)
長崎乱楽坂
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長崎乱楽坂の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.72pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全25件 1~20 1/2ページ
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地方都市長崎にも、こんな時代があったのだ。荒々しい男達に常に翻弄され、行き辛い人生に、ある種の諦めと救いをもたらしたのが自死した叔父の気配だったと言うことか。運命に弄ばれる青年を描かせれば右に出る者がいないと私は思うが、今回の主人公は、一際脆く不安げで、手を差し伸べたいと何度も思った。弱くても、いいじゃない。 | ||||
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そうだったよね。そうなんだ。どんな世代でも楽しめる作品。ヤクザな世界知らなくても。「国宝」読む前の作品としては最適だと思います。 | ||||
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○ やくざ一家の暮らしが題材。素材が何よりも面白い。作者は、やくざ一家を描きたいのか、男たちの心意気を描きたいのか、滅びるものの悲哀を描きたいのか、あるいはそのすべてなのか? おそらくこのすべてを描きたかったのだろう。作者にとっては、やくざも哀惜の対象になるのだ。 ○ 連作短編の形になっている。全体として大きな物語になっている。全体を通して家の「離れ」が大事な役割を果たしているようだ。昔から何組もの男女を受け入れてきた。その男女の変遷がこの家の変遷を反映している。 ○ 素直な生き生きとした文章が魅力だ。文章は自己主張せず素材を生かすことに専念している。そこが技術なのだろうけれど。破綻がなく、魅力的な表現が多い。 | ||||
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中途半端な終わり方だった また続きが読みたいかと言われると、いやもういい感じ | ||||
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極道ものの大家族三村家の栄枯盛衰を、長男駿を中心に描く連作短編集。 小学校一年生の駿が大人になるまでのエピソードから、「家」という存在がどのように変貌していくかが窺い知れる。血気盛んな若い衆が集う得意絶頂の時代を経て、人々の身も心も離れてしまった終焉のときまでが淡々と語られていく。読み進めるうちに、「家」に漂う空気感の変化を感じることができるだろう。 本作品は、あくまで「家」が主役である。成長小説的な要素はなくて、主人公はその時々の「家」の様相をあらわすための視点でしかない。昔育った賑やかだった町並みが、風化していくような寂しさにとらわれてしまう。 「家」を取り巻く人々は実に生々しい。幽霊の哲也でさえも。ところが、家を離れてしまった人々は希薄な存在と化す。 「家」を離れようと試みながら、結局は雁字搦めにられてしまった駿は、「家」とともに朽ちていくようである。最終話では、駿の諦めに似た虚しさが弟 悠太の眼を通して感じられる。駿の「家」への思いは、この物語の幕引きの言葉として語られ、余韻を残していく。 それにしても、このカバーイラストは本作品の内容から外れているのでは.・・・ | ||||
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離れに現れる幽霊が見える、という設定が面白そうだと思ったが、その設定は果たして必要だったのか?(あまり幽霊が登場しない……。)主人公である兄は何故東京で生活せず地元でくすぶることになってしまったのか?はっきりとした説明が一切無い。個人的には理由をはっきり著してほしかった。結局兄は幽霊に縛られていたということなのかな?説明が足りないのではと思った。 | ||||
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あまり好きな内容ではなかった。 幼年期から青年に移る主人公の、どこか背徳的な匂いが常につきまとう 暗い青春。 こういうジャンルはご勘弁。 | ||||
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面白かったです、これが作者の自伝的小説としたら吉田修一が持つ暗さが理解できるような気がしました。 | ||||
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なぜ兄は東京に行かなかったのだろう。 恋人より母を選んだのか。 むしろ女より男たちを選んだのか。 社会的にはなんにもしないで生きる兄は作者のもしもの人生を生きているのかもしれないな。 | ||||
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零落れていく田舎ヤクザの家まわりの様子を、海難事故で夫と死に別れたその家の次女の息子たち二人の視点から描いた作品。もっとも二人とはいっても、最後の家の離れが焼けるエピソード以外は兄の視点だ。しかし、どうして「離れの幽霊」というタイトルにしなかったのだろう。登場人物の一人がその家の死んだ素人絵描きの三男で、要所で――直接描写はないものの――エピソードを締めているというのに…… 吉田修一特有の人生に対する閉塞感が良く出ていて、話の流れに無理がない。ただし、ラストの弟が幽霊を見るシーンは不用意だと思った。気持ちは理解できるが、彼に見えてはいけないんじゃないのか? 話の流れからいって…… もっとも弟までが――いなくなってしまった幽霊たちに――飲み込まれるのかと危惧させる効果を狙って描写されたのだろうとは推測はできる。 | ||||
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吉田修一の『パーク・ライフ』を以前読んだことがあったが、今では全く印象に残っていない。現代の若手作家のホープ的な存在になっているのだから、他の作品も読んでみよう、もしかしたら素晴らしい出来なのかもしれないと思い、そして今度長崎に旅行に行くので長崎に縁がある本を、ということで本書を手に取った。 本書は読みやすい。最早「純文学」という概念は存在しないのかもしれないが、「純文学」的な晦渋さは本書には皆無である。いや、むしろ読み物的な読みやすさだ。ヤクザの一族というアウトローの世界を描いており、物語もかなり大きく動くので読み進めるのは楽しい。しかしながら、私にはただそれだけだった。いい文学作品には必ずある、魂を揺り動かしてくれるメッセージは本書には見当たらない。最後の火事は余りにも短絡的な結末だし、時系列的に連なる短編を組み合わせて長編を構成していくという手法もあまり奏功していない。最後の章ではいきなり悠太が主人公となるが、それまでの章でのこの人物の性格付けが致命的なまでに弱いので、最後の章はどう読んでいいのか分からなかった。 というわけで、辛口の批評かもしれないが、本格的な小説と期待して本書を読まない方がいいだろう。 | ||||
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風呂上がりの火照った肌に鮮やかな刺青を躍らせた猛々しい男たちが、下穿き一つで集い、日々酒盛りに明け暮れる一家。人面獣心の荒くれどもの棲む大家族に育った幼い主人公は、ある日、若い衆が女たちを連れ込んでは淫蕩にふける古びれた離れの一隅に、幽霊がいるのに気づくのだった。 「なんもせんで生きとるのも、なかなか難しかとぞ」 | ||||
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任侠ものはどうも肌に合わないし血縁関係がややこしいと思って読み進めていました。この小説の面白さは後半にあります。まず、駿が東京に出ようとするところですが章が変わるとぶち切れます。そして、最後の一章だけ主人公が変わります。この後半の2章によってこの小説が平坦で安易なものでなく、その余韻を長く持ち続けられるものに昇華しているように思います。 | ||||
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長崎乱楽坂にある三村家というひとつの家を舞台に、駿という少年の生き方、時代の流れを描いた作品。 三村の家に出入りするやくざものの男たちの背中を見ながら駿は成長してゆく。 価値観の固定された大人のひとつひとつの言動に駿の心は揺れ動く。 子供が大人の世界を垣間みる、触れる時の心情や仕草がとてもうまく表現されている。 その中で、駿の成長とともに変化してゆく母屋とは異なる、 時代の流れを刻印してゆく離れが象徴的に描かれている。 ラストの情景描写で余韻の残る感動というか、儚さみたいなものを感じました。 人生の選択、時代の潮流のうねりを感じた人の生き方、時代の移ろい、 その描き方がうまいなあと。 個人的には「最後の息子」「パーク・ライフ」よりも好きです。 物語がとりまくひとつの空気みたいなものを 吉田修一氏はとても繊細に描いていると思いました。 | ||||
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ヤクザとして生きる男たちと それを支える女たちと一緒に暮らす 二人の兄弟、駿と悠太を取り巻く日々… 主に駿が主人公という感じです。 最初の読み始めは幼少期の描写で、 これが1冊まるまる続くと思ったので 正直少し飽きてしまっていたのですが、 第2章、3章となるにつれて だんだんと成長していきます。 つまりこの本は、少年たちの成長を綴った長編です。 吉田修一らしい生々しい描写で情景が浮かびやすく、 また、全体として何か作者の伝えたいことが胸に響いてきます・・ ラストがまた圧巻でして、一種の解放を感じました。 読後、不思議な気持ちになる作品。 吉田修一作品をまだ読んだこと無い人はぜひこれを機に読んでみてください! | ||||
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いかにも『昭和』の匂いのする小説だった。 本当に吉田修一の作品は読みにくいというか 合わないというか、 いや、嫌いというわけではないが、 肌にこうしっくり来ない、そんな作家である。 なのに何故か次の作品を求めてしまうから不思議だ。 この作品は任侠の世界に産まれた兄弟の話だが、 ほとんどを兄の視点から描いている。 兄は自分のいる場所が本当に自分のいるべき場所なのか、 幼いころから考え、 今の場所から逃げ出そうとするが、結局はその場から出て行くことは出来ず、 最後までその家に留まることになる。 反対に任侠の世界を肌に感じることのなかった弟が家を出て東京に行ってしまう。 最後には残された兄と母親は家の昔の面影を胸に抱いたまま同じ家で二人過ごすことを選ぶ。 何故兄は東京に出なかったのか。 そして亡き叔父が住まいとしていた離れで叔父と同じように絵を描いていたのか、 疑問は残る。 6章あるが、時間が飛び飛びで描かれているので そこまでに至る経緯が良く分からないのが惜しい、といえば惜しいが、そこに別の余韻も生まれてくる。 | ||||
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吉田修一が長崎出身であるということ以外、その足跡はほとんど知らないのだが、この作品は自伝的ニュアンスの濃い作品である。もしそうでないとしたら“自伝風”を仮想した小説だ。六章から成り立つが五章までが兄の駿の視点から、最終章だけが弟の悠太の視点から書かれている。実際の作者が兄・駿なのか弟・悠太なのかは知る由もない。 父は事故死し、幼い兄弟は母の実家で暮らしている。母の兄、つまり伯父はヤクザであり、家には年老いた爺さん婆さんや伯母のほか、伯父が拾ってきた女や若い衆たちが一緒に暮らしている。兄弟の幼少時、ヤクザ稼業は羽振りがよく毎日が酒盛りである。プライバシーなどまるでない家の中で“離れ”だけが唯一の聖域だ。ここは母と若頭の秘め事の場であり、自殺した母の弟、つまり叔父の幽霊と、駿の交感の場でもある。 やがてヤクザ稼業は傾き、人は離散し、家は解体するが“離れ”の空間だけは最後まで残っている。高校を退学し都会に出るつもりだった兄の駿は最後の最後でなぜか踏みとどまり、叔父の幽霊が住む“離れ”と共に家に呪縛されるのである。 この小説は“家”という動的な場と、そこに内包される静的な“離れ”という空間を基軸とする物語である。最近では他人が家に居るということがめったにないし、年代の違う者同士の交流の機会もないが、この小説の主人公である少年・駿は、年上の他人や従姉妹に、大人としての役目を割り振られながら少年から大人に成長していく。性的な体験にも年上の他人や従姉妹が介在している。 父親の居ない欠落感や、前近代的な家の物語の中での疎外感は、吉田修一の小説の、一筋縄ではいかない感じ、ざわざわとしたノイズ感、小骨が引っかかったような読後感に、どこかで影響していると思う。 また、この人の描写や表現が類型的でなく、かなり独特なものであることを今回読んで見てあらためて感じた。 | ||||
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舞台は長崎。性と暴力に渦巻く家に生まれついた2人の兄弟。彼らの住む家には、背中に美しい彫り物を施した男たち。ケンカと酒と女で、飽和状態になってしまった、この濁った水槽のような家で育つ二人は、その中でのみ、男を知り、女を知り、人生を知るしかない。 やくざの子といわれながら育つ二人だが、その血が濃く流れているわけではない、むしろ親族の中でタダ1人若くして自死したという噂の画家志望だった叔父の幽霊とともに、男たちをあるときは憎み、あるときは羨みながら、成長する。宿命に抗いながらも叔父の亡霊の住み着いた「離れ」から結局逃げだせない兄。その兄の庇護のもとに、結局は軽快に家を捨てていく弟。 成功や、未来や、夢などという、ボーナスポイントに全く縁のない兄の人生は、どうやっても水槽から浮き上がることはない。 でも、このおにいちゃん、私好きだな。そして、ちゃっかりした弟くんもかわいい奴です。作者の吉田修一は兄の駿でもあり、弟の悠太でもあるのだろう。 これっていつの話かなー、と思いながら読みましたが、文中のお店の名前とかから想像するにやはり私と10歳違いの作者と同じ時代を書いてますね。文だけ読んでいると、もうすこし前のような印象があります。(というのも私自身が長崎出身なので、吉田氏のほかのどの作品より、このお話への思い入れが最初っから強かったわけです。)長崎弁もなんのけれんもなく書かれていて、好感がもてます。 | ||||
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吉田修一が長崎出身であるということ以外、その足跡はほとんど知らないのだが、この作品は自伝的ニュアンスの濃い作品である。もしそうでないとしたら“自伝風”を仮想した小説だ。六章から成り立つが五章までが兄の駿の視点から、最終章だけが弟の悠太の視点から書かれている。実際の作者が兄・駿なのか弟・悠太なのかは知る由もない。 父は事故死し、幼い兄弟は母の実家で暮らしている。母の兄、つまり伯父はヤクザであり、家には年老いた爺さん婆さんや伯母のほか、伯父が拾ってきた女や若い衆たちが一緒に暮らしている。兄弟の幼少時、ヤクザ稼業は羽振りがよく毎日が酒盛りである。プライバシーなどまるでない家の中で“離れ”だけが唯一の聖域だ。ここは母と若頭の秘め事の場であり、自殺した母の弟、つまり叔父の幽霊と、駿の交感の場でもある。 やがてヤクザ稼業は傾き、人は離散し、家は解体するが“離れ”の空間だけは最後まで残っている。高校を退学し都会に出るつもりだった兄の駿は最後の最後でなぜか踏みとどまり、叔父の幽霊が住む“離れ”と共に家に呪縛されるのである。 この小説は“家”という動的な場と、そこに内包される静的な“離れ”という空間を基軸とする物語である。最近では他人が家に居るということがめったにないし、年代の違う者同士の交流の機会もないが、この小説の主人公である少年・駿は、年上の他人や従姉妹に、大人としての役目を割り振られながら少年から大人に成長していく。性的な体験にも年上の他人や従姉妹が介在している。 父親の居ない欠落感や、前近代的な家の物語の中での疎外感は、吉田修一の小説の、一筋縄ではいかない感じ、ざわざわとしたノイズ感、小骨が引っかかったような読後感に、どこかで影響していると思う。 また、この人の描写や表現が類型的でなく、かなり独特なものであることを今回読んで見てあらためて感じた。 | ||||
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絶賛です!!!呪縛をモチーフとした小説。 物語を通して、で続けるのは主人公のみです。 読み進んでいるさなかは、主人公と、それに関わる脇役の、淡白かついっときの描写に気抜けする感じでした。「なんなのか?描写が甘いのではないかな?」 でも、最後にそれは主人公のみに降りかかる呪縛を濃密にし、一時の関わりに過ぎなかった脇役の土地からの解放を悟らせるに容易い、真に無駄のない筆致でした。 結末は、主人公が呪縛からの解放されることを示唆したものでしょう。 非常に光明を見いだせる、結末でした。 ただの栄枯盛衰を描いた物語ではありません。 | ||||
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