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もはや宇宙は迷宮の鏡のように
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もはや宇宙は迷宮の鏡のようにの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.33pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全3件 1~3 1/1ページ
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死後文学といううたい文句につられて購入したが、期待したような展開でなくガッカリ。スウェーデンボルグの霊界物語のほうがよっぽど良く書けていると思いました。白木3部作の最後をかざるには残念な内容でした。 | ||||
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この本は、著者「荒巻義雄」さん自身の遺書のようです。終章が「『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』あるいは遺書」となっているからです。 主人公は、病室で昏睡をつづける「わたし」白樹(シラキ)直哉。白木の棺を思わせる名前です。志賀直哉の「白樺の樹」も連想します。 この物語は、白樹の臨終の立会人として、ただ一人、呼ばれ、一人で通夜(ウェイク)を過ごした友人「遠藤照春」の夢で終わります。 この本は、面白い。ただただ面白い。 この本の面白いところを列挙してみますね。 迷宮の鏡のように、わけがわからないから、面白い。 わけがわからない場所として宇宙を出してくるところが面白い。 無限の宇宙に漂う「エンドー」の霊との「エンド(傍点あり)レスな連続」(高山宏の【解説】より)が面白い。ろくでもない(ななでもない)黙っていたら無限に繰り返しそうなオヤジギャグが面白い。 この本を「若い読者たちがどう読むか、面白い」(474頁)なんて悠長に解説に書いているオヤジさん(高山宏)も面白い。団塊世代の読者には「もはや先はない」とは直接的には言っていませんが、言っていると同じように感じられるところが面白い。 《おわかりか》「わかりません、ぜんぜん」(272頁)という、肩をすかした会話が無意味で、面白い。わかるわけねえよ、と投げ出さずに、超老人に素直に応える超猫の態度がかわいくて、面白い。猫にとって、わかる/わからないの問題ではないのに。《わからんかなあ……》と猫に嘆いてみても、夏目漱石先生のようで、面白い。問題は観測可能か/不可能かということらしい。難解。 パラドックスが面白い。自己矛盾する脳が面白い。堂々巡りになる無限化が面白い。 迷宮の鏡は、合わせ鏡になるので面白い。無限に見えて、ぶつかるとおでこが痛い、身近な有限の鏡です。 スカスカに配置された素粒子たちから成り立つ岩なのに、蹴飛ばすと足が痛いので、気をつけましょう、と言っているようで面白い。 と読者が勝手に解釈して読める本であるところが面白い。 地球の外の宇宙は望遠鏡で観測できますが、頭の中の宇宙は量子顕微鏡でも観測できない、心理現象のような点も面白い。大きい、小さいの問題ではないようなところが面白い。 そして、何が何だか分からなくなった場合の行き着く先が面白い。 「肯定も否定もできない心境」(323頁)に到達するところが面白い。 結局、何の変哲もない普通の病室でご臨終なんて、ことに相成るところが面白い。 終章になっても、遠藤さんは、冴子さんとは死後の世界でも「恋は、実りそうもない」(411頁)。あーあ、「エンドー」さんは「エンドーい」ようです。 おあとがよろしいようで。 | ||||
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『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』は、84歳の著者による書き下ろし長編SF小説であり、1972年に出版された最初の長編小説『白き日旅立てば不死』と1987年の『聖シュテファン寺院の鐘の音は』から連なる、<白樹直哉シリーズ>の完結編である。 とは言え、シリーズ前作を読まずには入っていけない世界かと言うと、全くそんなことはない。もしもあなたが荒巻義雄初心者だとしたら、むしろこの小説から読み始めるのがいいかもしれない。著者が死後に発表されることを企図していたというだけあって、SF作家らしい発想で異次元の死後世界を具体的に描写し、現在から23世紀、31世紀までを俯瞰するまさにスペキュラティブ・フィクション、まさにサイエンス・フィクションである。多分、著者が何時の日にか身?を置く・置きたい世界を、自らの筆で、いやキーボードから創り上げたのであろう。 著者がデビュー時に著した小説作法「<術>の小説論」の本作への適用はと言えば、ロジャー・ペンローズなどの量子脳科学をベースに発想したと思われる未発見素粒子「心霊子<プシコン>」(プシュケーですね)が代表的なガジェットか。意識の問題、魂の問題を古今東西の膨大な資料を駆使しつつ、大胆な発想でSF小説化している手際は見事である。 この小説から始めて、これまで連綿と書き継がれてきた著者の多彩なメタSF世界に入って行くのも、大きな楽しみとなるだろう。普通ならばそんなことを書かれても旧作はなかなか手にできないものだが、こと荒巻に関して言えば、2014年から刊行されて奇跡的にも既に全巻完結している「荒巻義雄メタSF全集」(全7巻+別巻)がいますぐ書店で手にすることができるのは、なんとも恵まれている。 もしもあなたが荒巻世界に古くから親しんできた(ハマってきた)読者だとしたら、加能純子への思慕が底流する<白樹直哉シリーズ>の完結編としての意味は勿論のことだが、1970年のデビューSF『大いなる正午』を起点として、独立多岐にわたって展開しているように見えた著者の物語世界全体が、この『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』に収斂、統一しているような趣を感じるであろう。『神聖代』しかり、『時の葦舟』しかり、『柔らかい時計』しかり、<ビッグ・ウォーズ>シリーズしかり、あるいは<空白>シリーズや819万部の大ベストセラー<艦隊>シリーズさえもが統一の対象に含まれるかもしれない。 巽孝之による帯の惹句「幼年期が終わり、SFが新生する」は、前段がアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を、後段の「新生」は荒巻の脳内に映画「2001年宇宙の旅」のスターチャイルドをイメージ(第56回日本SF大会パネルによる)したものだそうだが、「神聖」代だってちゃんと含まれている。 | ||||
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