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ティファニーで朝食を
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【この小説が収録されている参考書籍】
ティファニーで朝食をの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.10pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全72件 1~20 1/4ページ
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ホリーは贅沢な暮らしを夢見る女の子である。その夢を求めて最初の結婚相手ドクを捨てニューヨークを目指す。ホリーに好意を寄せる語り手「僕」にもバーの経営者ジョー・ベルにも心は靡かない。理由は簡単。貧乏な彼らはホリーの望む暮らしを提供できないからだ。彼女の本質は「お願いがあるの・・・ブラジルのもっとも裕福な五十人のリストみたいなものを手に入れてちょうだい・・・人種や肌の色なんてどうでもいい」と「僕」に懇願する言葉にも表れている。若さと美貌だけを武器に玉の輿に乗ることを夢見るホリー。私にはホリーが「俗物的」に見えるし、さほど魅力も感じない。むしろ哀れさを感じてしまう。「そんな生き方をしてると野垂れ死にするよ」と忠告してあげたいが、ホリーという女の子は勿論そんな言葉には耳も貸さないだろう。語り手「僕」のように「落ちつき場所」が見つかることを祈るだけである。 | ||||
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薄くて持ち運びにも便利!英語の勉強にオススメです。 | ||||
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薄くて、小さくて、どこにでも、持って行ける。電車に乗ったら、スマホは見ないで、これを読もう。 | ||||
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瀧口直太郎さんの訳が好きだ。 この作品に限らず好きだ。とても味わいがある。 村上春樹訳と読み比べればその差にすぐ気がつくはず。 出版社もこちらも新しいカバーつけて、夏の100冊に入れるとかして、大事にしないと。 訳が大切だってことに出版社が気が付かないようならお手上げだ。村上春樹の訳若干気持ち悪い。ホリーの軽快さが失われているから。あと言葉のセンスも。 ぜひ、こちらをおすすめする。 手に入らなければ原文を。 | ||||
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他の本も欲しいです。 ありがとうございました。 | ||||
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面白かった。 | ||||
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村上先生の翻訳ということで期待していたのですが、部分々々で原文が「透けて見える」翻訳調があります。ノーベル文学賞も狙える村上先生なら、黒澤涙香レベルの文に仕上げていると期待していたのですが、残念です。 | ||||
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最終段落だけお読みいただければ、レビュー的結論の限りはお伝えできます。 作品か翻訳かどちらに原因があるのかわかりませんが、ここに収められた4つの話のいずれも、私の場合、もう一度読みたいとはならなかったです。他方で、より深く経験したいと思わせてくれる小説はたしかに存在します。そういう作品は(翻訳の場合にはテクストの語り掛ける内容そのものが)私にとり、必要な種類のライフイベントであることが多いんですね。この本はそうではなかったみたいでした。原因がテクストそのものにあるのか、村上春樹さんの翻訳なのか、はたまた私の読解力にあるのか、そこのところはよくわかりません。 ただ訳者あとがき(これが素晴らしい文章で腑に落ちました!)を読んでみると、翻訳というよりテクストそのものがそうさせているんじゃないか、と思わずにはいられません。文学的な詳細は私には説明できないですけど、何やらカポーティは表題作『ティファニーで朝食を』の執筆過程で、文体上の変更を余儀なくされたみたいです。で、それをやってのけた。この観点で村上春樹さんの翻訳を読むと(今これを書いているタイミングでは正確には、思い起こすと、ということになりますが)、かなり上質な、よくわかる訳文だったなと、そう思うわけです。 ではこの本の何が再読と相容れないかといえば、4つの作品それぞれに、それぞれの色合いで含まれている、決定的に不毛な感じ。これじゃないかなと思っています。カポーティは本書での文体的変更を経てのちに『冷血』を書きます。『ティファニー』の頃からすでに、小説がカポーティには必要なくなっていたのではないか。ちょっと違いますね。この頃のカポーティには誰よりも小説が必要だったのに、小説を必要とすることが上手くできなくなっていたのではないか、というのは邪推でしょうか? つまり作者の内面に、もはや行為の上では小説を必要としない自分と、それでいて状態としては切に小説を必要としている自分とのアンビバレントな乖離を読み取れるのです。 ですから、この本はもっと深く追体験したいとはとても思えない、そんな1冊なのであります。苦しいから。遠巻きに見させていただくだけでいいかな、と。勝手な想像ですが、4、50年後のこの国では、村上春樹=『ティファニー』の翻訳者(自身の小説『ノルウェイの森』がベストセラーになった)と知られていたりして。その程度にしか読まない、というのは『羊』も『世界の終り』も『ねじまき鳥』も私は没入しないという意味ですが、その程度の気ままな読者ですから、もっとほかの受け取り方があると思いますよ、本書には。実際、当時の社交界を中心とする上流社会には熱烈なファンを得たようですし。今も広く獲得し続けています。映画の成功も大きかったでしょうね、一度観たきりですけれど。映画も小説も、多くの人々を虜にしたことは紛れもない事実なのです。 そういうのも嫌いじゃないんだけど、何かね。な小説、私には。4、50年後にもこの小説残っているんでしょうか、どうなんだろう。個人的な好みをいえば、村上春樹さんには翻訳家ではなく、『スプートニク』の作家としていつまでも残っていてほしい。長くは続かないで消えるものだとしたら、そういうたぐいの著作と真剣に向き合っても仕方がないと思う。どこかに建てられた美しいモニュメントをじっと眺め続けてみたけれど、そこに刻まれている文字からはひとつも何も生まれてこなかったみたいな経験ありませんか? 芸術はみんな記念碑だ、遠からずみんな生命の共感を切り捨てた批評精神だけで成り立っている墓石なんだ、などということになると、もう、一般読者としてはちょっとやるせない。それは物語ではなくて単なる情報でしょう、と言い返したくなる。わるいけど急いでるからごめんねと言って、やり過ごすことになる。でもカポーティが『星の王子さま』のキツネなら、いずれ私を引きとめることになるのかもしれないけど。 | ||||
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表題作を含むカポーティの短編集です。村上春樹さんの翻訳です。オードリィ・ヘップバーンの映画で有名な、ティファニーで朝食が含まれています。この短編集では、表題作は、やや抽象的で、メタファーもたくさん出てきて、わかりにくいかなと思いました。一度読んだだけだと、楽しめないのかもしれません。丁寧に読むか、何度か読まないとよくわからないのかもしれません。他の短編の方が、わかりやすくて、面白さを感じました。アメリカの作家の短編は、厳しい境遇の生活の中で、精一杯生きる下層の人々みたいな作品が多く、独特な世界を作っているなあと感じました。詩的な余韻を感じる作品集だと思いました。評価は、星4つとしました。村上さんの作品解説が、良かったなあと思いました。 | ||||
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ルビ訳はいいような悪いような、、、 | ||||
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主人公は以前知り合った女性、ホリー・ゴライトリーの現状を強制的に知ることになります。ホリーとはかつて同じ集合住宅に住み、男関係でトラブルになった時に助けたことで交遊するようになりました。バーマン、ラスティー、彼女の回りには様々な有能な男性が現れます。主人公も駆け出しの文筆家で、掲載の依頼を受けるようになっていきます。 ホリーはフレッドという弟がいて、一時期は共にストリートチルドレンをしていました。猫を飼っていること、既婚者で家出人だったこと、弟が戦死してしまうこと、妊娠して不幸にも流産してしまうこと、麻薬関係で自身も逮捕されるなど、怒涛の展開が繰り広げられます。彼女はニューヨークを脱出し、ペットの猫も野生に放ち、去っていきます。彼女の猫はなんとか自身で新たな飼い主を見つけ、現在は温かな部屋で暮らしています。ホリーも幸せな場所を見つけられるように、と主人公はただ祈るのです。 ホリーはアダルトチルドレンで大人にのなりきれないダメな女性です。憧れてはいけないヒロインで、言い換えればパパ活女子の元祖です。映画版のお洒落さに騙されてはいけません。これは美女が主演しただけの根無し草、つまり寅さん映画です。 | ||||
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書き込みもなく、綺麗な状態でした。 | ||||
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テーマは、野生の動物(人間)を捕まえてはいけない、という教訓? カポーティのというより、村上春樹の小説を読んでいるみたいな感じがしました。名無しの猫が落ち着き場所を見つけてハッピーエンド。 | ||||
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映画よりも良かったとの意見も多いですが、個人的にはそうでもなかったです。主人公の性格がエキセントリックでわがまま放題でやや精神的におかしい?のについていけませんでした。映画のヘプバーンもそうした性格だったかもしれませんが、彼女の清潔感が上回っていましたので。もっと原作に近い女優だと、映画のヒットもなかったのではないかと思いました。共感できる部分がなかったため、のめり込むことができない話でした。後味も悪かったです。 | ||||
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『ティファニーで朝食を』の冒頭のパラグラフです。 I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods. For instance, there is a brownstone in the East Seventies where, during the early years of the war, I had my first New York apartment. It was one room crowded with attic furniture, a sofa and fat chairs upholstered in that itchy, particular red velvet that one associates with hot days on a train. The walls were stucco, and a color rather like tobacco-spit. Everywhere, in the bathroom too, there were prints of Roman ruins freckled brown with age. The single window looked out on a fire escape. Even so, my spirits heightened whenever I felt in my pocket the key to this apartment; with all its gloom, it still was a place of my own, the first, and my books were there, and jars of pencils to sharpen, everything I needed, so I felt, to become the writer I wanted to be. (Breakfast at Tiffany’s, Truman Capote) 以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたのか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド72丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まってまだ間もない頃だ。一部屋しかなくて、屋根裏からひっぱり出してきたようなほこりくさい家具で足の踏み場もなかった。ソファがひとつに、いくつかのむくむくの椅子、それらはへんてこな色あいの赤いビロード張りで、いやにちくちくして、まるで暑い日に電車に乗っているような気がした。壁はスタッコ塗りで、色あいは噛み煙草の吐き汁そっくりだ。浴室も含めて、いたるところにローマの遺跡を描いた版画がかかっていたが、ずいぶんな時代もので、そこかしこに茶色のしみが浮き出ている。窓はひとつしかなく、それは非常階段に面していた。とはいえ、ポケットに手を入れてそのアパートメントの鍵に触れるたびに、僕の心は浮き立った。たしかにさえない部屋ではあったものの、そこは僕が生まれて初めて手にした自分だけの場所だった。僕の蔵書が置かれ、ひとつかみの鉛筆が鉛筆立ての中で削られるのを待っていた。作家志望の青年が志を遂げるために必要なものはすべてそこに備わっているように、少なくとも僕の目には見えた。 (『ティファニーで朝食を』村上春樹訳、新潮文庫) この訳は非常に問題ありです。一文ずつ解説していきます。 I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods. 以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたのか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。 drawn backと受動態でalwaysもついているので、懐かしさをイメージさせる「思い出す」はふさわしくありません。言外に「今live住んでいるところは居場所ではなく、live生きているとはいえない」という含みがあります。以下、カポーティの「読者だまし」のオンパレードです。 For instance, there is a brownstone in the East Seventies where, during the early years of the war, I had my first New York apartment. たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド72丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まってまだ間もない頃だ。 East Seventies(マンハッタン島のイーストサイド70丁目から79丁目まで)は高級住宅街のイメージです。 アッパー・イースト・サイドは富裕層の住宅街として知られ、高級住宅地として有名である。またこの地域の住民のための私立学校もある。20世紀以前は大富豪の屋敷が並んでおり、現在はセントラルパークに面する住宅街とパーク・アベニューの周辺を中心に高級アパートメント、コンドミニアムが並ぶ。(ウィキペディア) すくなくともブラウンストーン張りをするのは高級建築です。建物の古さを考えると、19世紀の大富豪の戸建てです。たぶん添付画像のような家です。there isと現在形になっているのは、現存するからでもあるし、主人公がdrawn backされたからでもあります。時制には意味があるのです。apart-ment「親元から離れて一人でいる心(mentalとのダジャレ)」という意味もあります。 It was one room crowded with attic furniture, a sofa and fat chairs upholstered in that itchy, particular red velvet that one associates with hot days on a train. 一部屋しかなくて、屋根裏からひっぱり出してきたようなほこりくさい家具で足の踏み場もなかった。ソファがひとつに、いくつかのむくむくの椅子、それらはへんてこな色あいの赤いビロード張りで、いやにちくちくして、まるで暑い日に電車に乗っているような気がした。 たとえ戸建てでなかったとしても、ニューヨークの高級アパートがワンルームマンションのはずがありません。主人公は高級住宅の一部屋だけを借りて下宿したのです。atticは屋根裏ではなく、「アテネ風の、古典的な、高貴な」という意味です。ニューヨークの高級住宅は屋根裏を物置にはしないのです。村上氏はparticularとpeculiarを見間違えたのかもしれませんが、普通に訳せば「特別に赤いビロード」です。itchyだからへたってはおらず、ピカピカの高級調度なのです。また、ビロードの肌理が微粒子particleを散らしてキラキラしているイメージになっています。hot days on a trainは「栄光の日々の連続」です。訳からは狭い部屋しかイメージできませんが、かつては大勢の人が集まった社交場だったのです。広いのです。 The walls were stucco, and a color rather like tobacco-spit. 壁はスタッコ塗りで、色あいは噛み煙草の吐き汁そっくりだ。 スタッコは化粧漆喰のことです。煙草を噛んで吐いた唾は茶色です。変色したのではありません。漆喰でイメージされる白ではなく、最初から茶色に着色しているのでratherですが、訳せていません。この小説にはbrownということばが、最初のページにだけ3回出てきます。おそらく小説を通じてなんらかの意味があるのでしょう。 Everywhere, in the bathroom too, there were prints of Roman ruins freckled brown with age. 浴室も含めて、いたるところにローマの遺跡を描いた版画がかかっていたが、ずいぶんな時代もので、そこかしこに茶色のしみが浮き出ている。 風呂場に版画をかけるアホはいません。紙が濡れたり湿気たりします。風呂場の絵はフレスコやレリーフなどです。作者は「よく読めばありえない」描写をしています。このprintsは「印象」です。ローマの旧跡みたいなので建物は古いように見えますが、部屋はボロくはなく、きれいに維持されています。freckled以下はruinsにかかり、壁にシミがあるわけではありません。 The single window looked out on a fire escape. 窓はひとつしかなく、それは非常階段に面していた。 窓の下には折り畳み型の避難器具があったようですが、なんにせよ大富豪の邸宅なので屋外の非常階段なんて無粋なものはありません。またlock outのダジャレです。読んではいませんが、この小説は Flanked by potted plants and framed by clean lace curtains, he was seated in the window of a warm-looking room: I wondered what his name was, for I was certain he had one now, certain he'd arrived somewhere he belonged. African hut or whatever, I hope Holly has, too. とwindowの話で終わります。 Even so, my spirits heightened whenever I felt in my pocket the key to this apartment; とはいえ、ポケットに手を入れてそのアパートメントの鍵に触れるたびに、僕の心は浮き立った。 家は大邸宅で、部屋は広いし、ローマの旧跡みたいで、豪奢なイスがあるから、主人公は皇帝気分なのでしょう。村上訳は浮ついた感じでよくありません。spitとprintsとspiritsがダジャレになっています。apartmentは原文に二回出てきますが、訳には「アパートメント」が一回しか出てきません。これをなんとかしなければいけせん。 with all its gloom, it still was a place of my own, the first, and my books were there, and jars of pencils to sharpen, everything I needed, so I felt, to become the writer I wanted to be. たしかにさえない部屋ではあったものの、そこは僕が生まれて初めて手にした自分だけの場所だった。僕の蔵書が置かれ、ひとつかみの鉛筆が鉛筆立ての中で削られるのを待っていた。作家志望の青年が志を遂げるために必要なものはすべてそこに備わっているように、少なくとも僕の目には見えた。 gloomは「さえない」ではく「薄暗い」です。gl-+roomのダジャレで、gl-は「光る」という意味の接頭辞です。物理的には暗くても、主人公にはキラキラして見えます。stillは「ホッとする」です。firstは I had my first New York apartment を受けていますが、「最初の」だけでなく「(人生で、絶対的に)最高の」という意味があります。jarは「つかみ」よりは多く、jarsは「ひとつ」よりは多いです。主人公が鉛筆をsharpenするとも、鉛筆が主人公をsharpenするともとれますが、大事な意味はもちろん後者です。so I feltもeverythingにかかります。「自分のなりたい作家になるために必要なものすべて、つまり作家になれると感じられるものすべて」という意味です。everythingは本と鉛筆だけでなく、ここで描かれているものすべてを含みます。とくにspiritsは重要です。現代では滅んでしまったギリシャやローマの古典の技巧=「だまし」を継承、再興しようという自負や、脱出路を断つ心構えも読み取れます。 I felt in my pocket the key to this apartment everything I needed, so I felt apart-mentも必要なものです。作家はだてにおなじことばを使わないのです。二つのfeltは同一か、非常に近いことばに訳さなければ、読者はそこのとがわからなくなります。村上氏は一般論にしてしまいましたが、the writer I wanted to beはどんな作家でもいいのではなく、 ジェイン・オースティン やジェイムズ・ジョイスのような、「だまし」を駆使する作家のことです。カポーティも見事そうなれました。村上氏にはspiritsもsplitもありません。 村上春樹氏は最初のパラグラフを、ただの一文もまともに訳せませんでした。しかしカポーティの真価はこんなものじゃないのです。 | ||||
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オードリー・ヘップバーン主演の映画で有名な作品だが、私は映画を見たことがなかった。そのため、映画の先入観なしにこの本を読めた。 一応、あらすじを書いておくと……。 女優のホリーは「私」と一緒によくジョーの経営するバーに行っていた。「私」とジョーは特に親しくはなかったが、ホリーという共通の友人で繋がっていた。ジョーは気難しい男で、ひとり者だった。 ジョーの店は静かで、ネオンサインもテレビもないのが売りだ。そのジョーが、「私」を呼んでおかしなことが起こったと言う。ジョーは「I.Y. ユニオシ」という日本人の紳士のことに触れる。ユニオシはファッション雑誌のカメラマンだ。ユニオシはアフリカでホリーに似た彫像を見つけ、塩や腕時計と引き換えにそれを手に入れた。どうやら、ホリーがアフリカで木彫り師を気に入って一夜を共にし、自分をモデルにして彫像を彫らせたようだ。確かな話ではないが、ホリーならそんなこともしそうだ。 そもそも、「私」がホリーの存在に気づいたのは郵便箱だった。「ミス・ホリデー・ゴライトリー、旅行中」という札が付いているのを見たのだ。ホリーがアパートで夜中に大きな音を立てていて、ユニオシが注意した。その時、彼女は19歳ぐらい。男と一緒だった。しかし、ホリーはその男を振り、アパートの自分の部屋に引っ込む。かなり奔放で小悪魔的な女性のようだ。 「私」は同じアパートに住んでいるだけで、ホリーと話したこともないのだが、彼女と街や階段などで出くわすことはよくあった。アパートで彼女がギターを弾きながら歌うのを目にしたこともあった。 その後、「私」とホリーは会話をするようになる。「私」が作家の卵であることも明らかになる。人の家に上がり込んでおいて、お腹が空いたといってリンゴを食べ、何か飲み物を作ってほしいと言い出す。かなり図々しい女である。しかし、美人らしく、「私」はホリーを見てドキドキしてしまう。 そして「私」はホリーの奔放な生き方をつぶさに知るようになる。彼女は、男を手玉にとって楽しんでいるかのようだ。それでも惹かれてしまうのが男の弱さだろうか。 読み進んでも、やはり普通の感覚を持った女性とは思えない。愛してくれる人からも逃げだし、欲望のままに生きている。 そんなホリーとのひとときが描かれる。 そううまくはいかないだろう、と思っていると、やはり大きな展開がある。しかし、ホリーはどこまでもホリーだった。カポーティーは、どんな状況になろうとも自分らしさを貫くことの大切さを訴えたかったのかもしれないと感じた。 manila envelope(マニラ紙の封筒)といった表現に時代を感じる。英文としてはそれほど難解ではない。しかし、フランス語やスラング、ちょっとラフな英語などが混じっているため、ルビ訳がなければ読むのに苦労しただろう。傑作という評価になっているが、気に入った作品ではなかった。 | ||||
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「翻訳夜話」について書いたレビューの一部なので重複しますが。 1.「ティファニーで朝食を」冒頭部分です。 I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods. For instance, there is a brownstone in the East Seventies where ,during the early years of the war, I had my first New York apartment. It was one room crowded with attic furniture, a sofa and fat chairs upholstered in that itchy, particular red velvet that one associates with hot days on a train. The walls were stucco, and a color rather like tobacco-spit. Everywhere, in the bathroom too, there were prints of Roman ruins freckled brown with age. The single window looked out on a fire escape. Even so, my spirits heightened whenever I felt in my pocket the key to this apartment; with all its gloom, it still was a place of my own, the first, and my books were there, and jars of pencils to sharpen, everything I needed, so I felt, to become the writer I wanted to be. (Truman Capote Breakfast at Tiffany’s 講談社英語文庫) 拙訳 僕はいつも自分が住んでいた場所、家やそのまわりを思い出す。たとえば東70丁目にブラウンストーンがあって、そこは大戦初期、ずっと僕が住んでいたニューヨークで最初のアパートだった。ワンルームで、ひどい家具でいっぱいで、ソファとかぶくぶくした、かゆくなるような変な赤いベルベットの椅子とか、まるで暑い日の電車の中みたいだった。壁はスタッコで、色はまるで噛み煙草の汁みたい。どこにも、バスルームの中にも、時代がかってしみだらけのローマの廃墟の版画がかかっていた。たった一つの窓は避難階段に面していた。そんな部屋でも、僕はポケットのなかの部屋のキーにさわって元気づけられた。そこは僕自身が所有した最初の場所であり、そこに僕の本があり、鉛筆立てには削る鉛筆がある。小説家になりたかった当時の僕にとって、そこには必要なものすべてがあった。 村上春樹訳 以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたのか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド72丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まってまだ間もない頃だ。一部屋しかなくて、屋根裏からひっぱり出してきたようなほこりくさい家具で足の踏み場もなかった。ソファがひとつに、いくつかのむくむくの椅子、それらはへんてこな色あいの赤いビロード張りで、いやにちくちくして、まるで暑い日に電車に乗っているような気がした。壁はスタッコ塗りで、色あいは噛み煙草の吐き汁そっくりだ。浴室も含めて、いたるところにローマの遺跡を描いた版画がかかっていたが、ずいぶんな時代もので、そこかしこに茶色のしみが浮き出ている。窓はひとつしかなく、それは非常階段に面していた。とはいえ、ポケットに手を入れてそのアパートメントの鍵に触れるたびに、僕の心は浮き立った。たしかにさえない部屋ではあったものの、そこは僕が生まれて初めて手にした自分だけの場所だった。僕の蔵書が置かれ、ひとつかみの鉛筆が鉛筆立ての中で削られるのを待っていた。作家志望の青年が志を遂げるために必要なものはすべてそこに備わっているように、少なくとも僕の目には見えた。 (「ティファニーで朝食を」 新潮文庫) 2.「クリスマスの思い出」から Who are they for? (Truman Capote A Christmas Memory TALE BLAZERS) 村上春樹訳 ケーキはいったい誰のために焼かれたのだろう? 1.で村上氏の訳と拙訳(僕の英語力は中学生程度です)とを比較してみると、拙訳が8行、村上氏の訳は13行です。僕の訳なんか話にもなりませんが、原文の簡潔な英語表現に比べ、村上氏訳はなんだかなあと思ってしまいます。 ー everything I needed, so I felt, to become the writer I wanted to be. ー 作家志望の青年が志を遂げるために必要なものはすべてそこに備わっているように、少なくとも僕の目には見えた。 まず、原文を音読して頂ければと思います。訳文には原文の持っているリズム感もなく、かつ冗長に感じます。これが村上調名訳というのかもしれませんが、原文を参照せずに訳文だけを読み、カポーティの文体はこういうのだろうなと、読者が思われるのが残念です。 2. 主人公たちがケーキを作り、知人(ルーズヴェルト大統領にも)に送るという部分です。原文はたった4つの単語で、勢いよく表現しています。この Who are they for? に対しての答えはたった一語、Friends.です。村上氏の訳は単調かつ説明的で長すぎるように思いますし、応答の言葉も「友人たちのためだ」です。たとえば、「で、誰のため?」「友達」くらいではいけないのでしょうか。僕はこの訳の疑問から、「クリスマスの思い出」を全訳してみた程です。 村上氏の翻訳は、原文の意を読み取り、それを、原文の長さ、リズム、勢いなどはあまり重要視せず、自分なりの表現、言葉に置き換えている作業に思えます。これも1つの翻訳のスタイルでしょうし、異議申し立てはいたしませんが、村上春樹氏の作品の40年来の愛読者が、氏の翻訳は読まないようになってしまったのが残念です。 | ||||
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映画とこの原作は違う。という情報だったが、何度も映画と同じセリフやシーンが出てきた。映画の大ヒット後のこの新翻訳が出たから?ラストで映画は結ばれたが、原作では、、、個人的には映画オススメ。ホリーが14で結婚した夫が、19になった妻を連れ戻しに来たが(この夫役俳優は映画放映時53才だった)、フラれて田舎へ帰るシーンがジンと来た。 62才の私も婚約してた26才のアジア美女から別れのLINEもらったばかり。日本での5年間技能実習生終わってこの12月に帰国。来年2月に来日結婚して日本人配偶者ビザの予定でした。ところがコロナで14日間隔離中ホテルで出逢った、たぶん若いカンボジア男性に恋したと。年の差婚は簡単じゃないw でも彼女はカタコト日本語で私はクメール語ゼロ。言葉の壁でコミュニケーション会話の浅さでは絶世の美女でもつまんなかった。さらに向こうは子供欲しい。こっちは2人の子供も成人独立して今更欲しくない。実はフラれてホッとしてます。 | ||||
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まあ、小説本体は言い尽くされていると思う。村上春樹の訳者あとがきがとてもいい。小説本体の雰囲気に似つかわしく、流麗。解説も適格。 | ||||
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映画のヘプバーンと本のホリーでは、全然違います。ホリーはもっとセクシーで、でも現実離れした変わり者の女性。カポーティはモンローにやってほしかったと言ったそうですが、たしかにセクシーなところと天然な感じはモンローの方があってるかも?でもヘプバーンの方がオシャレでいいっていう人が多数派かも。 | ||||
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