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火の路
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【この小説が収録されている参考書籍】
火の路の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全6件 1~6 1/1ページ
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昭和48年(1973)6月から昭和49年10月にかけて朝日新聞に連載された長編、 連載時のタイトルは”火の回路”だった、 昭和47年の高松塚古墳発掘で全日本を席巻した古代史ブームに乗った作品だったのだと思うが、現在では娯楽性はほぼ皆無に近く、松本清張マニア向けであり、清張マニアでも他の著名作品読了後の後回しで差し支えない、 かつ、その後半世紀の遺跡発掘調査によって、清張が本書で主張した意見が作家によるただの妄想だったことが結論付けられており、上巻はともかく、下巻はそのまま読み進むか、もしくは先ず森浩一による解説を読み、とりあえずの基礎知識を得てから小説として楽しむかは、読者其々でよいと思う、 新聞連載時から記述が難しすぎるという苦情は新聞社にたくさん届いたらしく、それでも完結させた当時の松本清張のステイタスや新聞社の意気込みのようなものは痛烈に感じさせてくれる、 上巻レビューにも書いたが、ここで清張が執拗に繰り返すAとBは似ており、時系列で後になるBはAの影響下にあるという思い付きに繰り返しへ理屈を塗り込める発想は下巻後半になるほどとにかく見苦しい、 もし自分が似たようなことをしてしまったらと思えば、まさに穴があったらなんとやらの諺そのものだろう、 おそらく清張の小説発想がそうだったのだと思う、 つまり、あるエピソードを思いつくと、そのエピソードにつながる前後のエピソードを敷衍してゆき小説にまとめる姿勢のことだ、 小説ならそれでまったく問題ないだろうが、本書で清張が繰り返すのは学問としての歴史の範疇に素人が土足で踏み込み、その一部は学会に唾を吐くような姿勢だから、とくに現在の我々読者にはあくまでも反面教師的な面白さがメインになってしまう、 だから清張は物事を衡平に観察する姿勢に極端なムラがあり、冴えている時には歴史的な名作を書き、そうでない時には本書のような現在では奇書扱いされても仕方がない作品に熱中したことになる、 現在、ゾロアスター教の信者は全世界で10万人ほどらしい、 アーミッシュが30万人を超えているといわれるから、マイナーな一派であることは間違いないが、ポップ・カルチャを含めその影響力のようなものは絶大だと思う、 特に映画「2001」でシュトラウスのツァラトウストラが使用されて以降この半世紀ほどはゾロアスター=ツァラトゥストラであり、最近でも映画「ボヘミアン・ラプソディ」で重要なファクタになるなど思わぬ方向で馴染みがあることになる、 映画「ボヘミアン・ラプソディ」はゾロアスター教徒家庭に育った主人公の魂の遍歴のような作品だが、同作においてゾロアスター教徒のあるべき姿、つまり”善き思い、善き言葉、善き行いの三徳”が主人公父親の台詞として繰り返されることに本書の読者も注目すべきと考える、 本書のような長編において松本清張はゾロアスター教の何が信者を引き付けるのかについて一文字も記していない、 特段の信仰を持たないと思われる清張には信仰に人が込める思いが分からないからである、 わざわざ中近東に取材しゾロアスター教の祭儀にも施設にも直接接しながらも、彼が思うのはただBはAに似ている、CもAに似ている、BとCもお互いに影響下にある、といった自身の屁理屈を正当化したいだけの我欲しかないからである、 信仰を持たない人格には祭儀や施設に込められた信仰の中身を想像するセンスが欠けているといわれても仕方がないだろう、 だからリンゴが落ちたから万有引力が発見されたに類する自然科学における思い付き/演繹的な発想と、歴史など人文系の発想は同じ姿勢では無理があることを本書が証明しているとも評価できる、 本書で提示された清張の意見が全否定されたのは遺跡発掘の結果であることに我々現在の読者は敬意を持つべきなのだとおもう、 本書執筆の五年後、イランで革命が起こり、王政が倒され現在まで続くイスラム教主導による共和国になった、 下巻で描写される革命前の西洋化(キリスト教国風の自由主義)がある程度浸透した時代のイラン風俗の描写は貴重かもしれない、 メモ:P.136 南禅寺界隈がピンク営業ばかりで、ぎらぎらした看板がよけいに暑さを誘った。 → 市による浄化作戦前の南禅寺界隈は現在とはまったく異なった風景だったようだ、 読了すると物語の面白みは並であるが、シルクロードの東端が平城京であった史実が脳内を占領してしまい、心はキャラバンでラクダの背に乗る商人に転化してしまう、 現地に飛ぶほどの熱はないが、国立博物館ならいまから出かけても半日夢幻に浸れるのに、とコロナ禍が恨めしい夏の終わりであった、 | ||||
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小説体の歴史衒学私感雑記のような本だが、著者晩年の代表作の一つではあることは間違いない、 娯楽小説としてはとうの昔に賞味期限切れだが、本書のような大著を発表できた当時の巨匠のステイタスを思いながら、8世紀以前の日本史に思いをはせるには便利な本だと思う、 低学歴という強烈なコンプレックスを生涯抱えた松本清張らしい歴史学会に対して極めて挑発的かつ挑戦的な内容でもある、 文壇大家の問題提起に対し、当時の歴史ブームに便乗し学会としてもメジャーな発言をする必要もあったのだろうが、歴史学者からも本書で提示された発想について真摯にコメントされたのだった、 昨日2020年4月18日のNHKブラタモリは飛鳥が舞台だった、 明日香村に残る石の遺跡を巡り、石が歴史にいかにかかわったかが紹介されたが、石舞台を経て酒船石が紹介されたシーンで本書が取り上げられたのだった、 番組ではご丁寧なことに手塚治虫「三つ目がとおる」の三つ目族まで紹介された、 次のシーンで平成になって新たに発掘された亀形・小判型石造物を紹介することで清張の意見がただの妄想だったと結論付けられたと思う、 それでも作家の妄想がすべて否定される必要は全くないのである、 作家は遺跡や文書という証拠の積み上げで論文を書く学者ではないからである、 ただし松本清張の妄想方法はわれわれ後世の読者に反面教師としての面を提示し続けるのだと思う、 おそらく松本清張にはとくだんの信仰のようなものがない、 神仏に向けた敬意や愛情がどれほどあったかにも疑問を感じる、 そこが同じ歴史を語りながらも例えば柳田国男や折口信夫の姿勢と決定的に異なると考える、 特に折口の発想に顕著だが、自ら積極的に神仏を拝し、神仏と過去の歴史に根付いた日本の文化風俗に対する強い敬意と愛情があるからこそ折口の妄想は瞬間瞬間に遥かな歴史の時間を自由自在に飛び越えてゆき、遠く過ぎた時代の人たちの思考を難なく再現してしまう、 松本清張は偉大な作家であり、彼の奔放な妄想には敬意を払わなければならないが、ただの思い付きアイデアを人気作家が資金に物を言わせて疑似演繹的な論調にまとめても、けっきょく地に足の着いた落ち着きを感じさせない原因がそれなのである、 だから清張が彼自身が生きた時代、そして清張を育てた大人たちの時代である江戸時代を描いた時に見せる文学的な冴えが古代史を語るときには無理が先行してしまうが故に残念ながら感じられないのだと思う、 清張はここでゾロアスター教の飛鳥時代の渡来を強調する、 学者は証拠がないから結論付けないし、無責任な作家ならどれほど妄想しても何の問題もないのだが、清張は他所からの影響によって似たものが作られたという発想に固執するあまり、人間は同時多発的に似たような発想をすることがあるという事実に気付けないのである、 清張が後の著作で自慢気に指摘した南アジアの茶畑が日本の茶畑にそっくりという意見と同じだ、 古代人たちが自分を含めた世界を認識してい行く過程で、つまり自分の周囲に何らかの意味付けを長年繰り返してゆくうちに、ただの偶然だがまったく似たものが完全に往来のない場所どうしに出来上がることは多々あると考えるべきなのである、 それを物事全てが何らかの引用の結果だと結論付ける姿勢はただの我田引水であり、人の持つ想像力や発想力を極めて貧弱なものと認識している結果だと批判してもいいと思う、 もし松本清張が記紀万葉をもっと自然体で読み込んでいれば、古代の日本に暮らした人々のイマジネーションの素晴らしさにも素直に感動できたろうと思う、 それでは松本清張のアイデンティティが崩壊してしまったのかもしれないが、 さて、正倉院御物を見れば自明の様にペルシャ方面の文物は早い時期から日本に持ち込まれてきた、 現在世界的騒動になっている新型肺炎同様の疫病も渡来人や遣隋使遣唐使によって運ばれてきた、 記録にないだけでアラブ方面からもわずかながら人が来日していたと考えても何も不思議ではない、 ゾロアスター教徒が来日し、そのまま日本で生涯を終えたことがあっても同じく何も不思議はないと思う、 ただしだからといってそこからゾロアスター教の布教活動が日本で行われたかどうかは、キリストの日本終焉説のような妄想の世界だと考える、 | ||||
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奈良が舞台に物語が展開していき、初めは興味深かった。松本清張さんの本は内容が深いので、読み応えあるが読む側の知識が試される。正直、しんどくなる時がある。 | ||||
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昔のイラン、イラクと日本の古都を舞台に松本清張の小説にしては私には難しいものでした。清張ものとしては砂の器とか点と線あるいは球形の荒野のような本格な推理が大好きです。 | ||||
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ターゲットとする主題(文系の帝大の教授の選任方法など)については、著者の著述する通りであるが、 巨石遺跡の解釈では、登場人物を超える著者のおせっかい(関わり)が記述され、違和感を覚えるのが 残念である。 | ||||
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清張自身が述べているように、この小説の「主人公は論文」です。膨大な小説の大部分は清張の古代史に対する蘊蓄で、閉口するぐらいこれでもかと読者に迫ります。作者の意図を覚悟で最後まで読み通しても結末は付け足しの感を拭えません。清張の筆力でぐいと引き込むだけに、「ミステリー」と「古代史論」を交差させた一つの作品にする必要は無かったのではないでしょうか。 | ||||
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