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義烈千秋 天狗党西へ



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【この小説が収録されている参考書籍】
義烈千秋 天狗党西へ
義烈千秋 天狗党西へ (新潮文庫)

義烈千秋 天狗党西への評価: 4.05/5点 レビュー 20件。 Aランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.05pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全2件 1~2 1/1ページ
No.2:
(3pt)

大衆受けはしないが幕末の新たな一面がみれた

いつものことであるが、本当に著者は歴史の陰に光を当てることがうまい。
正直、他の作品と比較して内容は大衆受けするような仕上がりではないが、
巻頭にある地図をみながら、「天狗党事件」の勉強をさせてもらいました。
幕末の新たな一面をみれてよかった。
義烈千秋 天狗党西へAmazon書評・レビュー:義烈千秋 天狗党西へより
4103318511
No.1:
(3pt)

水戸藩はなぜ回転維新の先頭に立てなかったのか。

タイトルの「義烈千秋」には義公光圀と烈公斉昭の志は千秋に続くという意味が込められていると著者は述べている。 「千秋に続く」とは「永遠なれ」であろう。「君が代は 千代に八千代に………」と同意義かな。

幕末、明治維新。西南の雄藩では下級武士層から幾多の英雄を輩出したのだが、わが故郷の水戸藩からは一人の英傑も生まれず、血みどろの内ゲバばかりがまれている。あれだけの熱き魂のたぎりがあったのだ。タイミングに間違いがなかったらと思えば、この悔しさ、この切なさ。これぞ、幕末史上、最大の悲劇だ。

水戸藩はなぜ回転維新の先頭に立てなかったのか。吉村昭『桜田門外ノ変』、山田風太郎『魔群の通過』を読んでいくつか印象深かったことがある。
幕藩体制の根本秩序に尊皇攘夷理論を置くのが光圀以来の水戸学であり、幕末に全国的規模で展開した尊皇攘夷論の基礎になったものだ。だがその虚構性が露呈したとき西南列藩は倒幕という実践にすり替えたのだ。水戸藩は尊王敬幕でありつづけ、御三家という立場からも倒幕へと発想の転換ができなかった。また攘夷実行と声高に叫んでも、具体的には横浜討入り程度の矮小化された実践イメージであり、実態は烈公・斉昭様のご遺志に殉ずるという抽象理念先行の美学、言葉遊びの攘夷に自己陶酔したものとしか思われない。
徳川斉昭の下で改革政治に登場した者が天狗と呼ばれ、尊攘激派を中心とした天狗党は、斉昭没後に力を得た保守派とくに諸生党と激しく対立した。天狗党も一枚岩ではない。藤田小四郎の筑波派、武田耕雲斎の武田派、江戸にいる藩主・慶篤から調停のために派遣された松平大炊頭の大発勢、さらに田中愿蔵率いる超過激ゲリラがあって解決能力を欠いたバラバラ集団であった。本著によれば「天保10年(1839年)の水戸藩家臣団名簿には3449人の名が記されている。しかし慶応4年(1868年)にはそれが892人に減っている」とされるように、主導権争いの殺し合いにより人材が払底してしまったのだ。水戸藩にとって幕末とは藩士同士が血で血を洗った殺戮の歴史に他ならない。
なんたる愚行!幕末、明治に活躍できる人材などすでにこの世にいなかったのである。

『魔群の通過』でもむなしさだけが残ったが、本著でさらにダメ押しされることになったのだ。
「攘夷か、開国か。困窮する故郷のために男たちは結集した!幕末最大の悲劇『天狗党事件』を描ききる歴史巨編」

横浜開港により安価な綿糸や綿織物が大量に流入、茨城の木綿栽培農家は壊滅的打撃を受けていた。伊藤潤は冒頭、郷士身分の木綿農家の親子に「このままでは(一家心中の)悲劇が繰り返されるだけです。われらは草莽にすぎませぬが、なんとしてでも、われらの力で幕政を正さねばなりませぬ。」と語らせ、筑波山へ向かわせている。そして、藤田小四郎は「幕府に横浜を鎖港させ、攘夷実行を促すべく、全国の有志に参集を呼びかける」激をとばす。伊東潤は天狗党の蹶起を深刻化する経済危機を打開するための義挙と解釈しているようにみえる。しかし、読み進めば「素志を一貫させるのだ」と藤田小四郎らは悲痛の叫びで軍全体を鼓舞するのだが、「素志」の意味合いもぼけて、どこまで本気で実質を語っているのか?わたしは疑問視せざるをえなくなってくる。

「一人また一人。開国の激浪にあえぐ水戸藩から決起した、貧しくも屈強な義士たち。若き首領藤田小四郎(藤田東湖の一子)、不敵の軍師山国兵部、剛力の怪僧不動院全海、異端の剣鬼田中愿蔵………。強大な追討軍と決戦を重ねつつ、中仙道を一路京へ………。行く手を阻むは険しい山河、因縁深き彦根藩、豪雪の峠、そして未曾有の悲運。最強にして清貧の義士と謳われた天狗党の血と涙の行軍の全て」

伊東潤は膨大な関連資料を消化し、詳らかにこの事件を追っている。特に行軍途中に展開された諸藩との戦闘に関連する叙述、加賀藩に投降した後の始末記は山田風太郎『魔群の通過』よりもはるかに忠実に史実を挙げ連ねている。ロマンというよりノンフィクションに近い語りだった。

しかし、史実に重点をかけたぶん、人物が描けていない。軍資金稼ぎのための強奪、放火で人々から恐れられていた田中愿蔵、はじめから倒幕強硬論で先を読めた男だった。この田中愿蔵だけは光っていたが、藤田小四郎、武田耕雲斎すら個性がどこにあるのか読めないほど人物は平板であった。天狗党の家族を皆殺しにする諸生派の首魁・市川三左衛門。捕縛後の志士たちにサディスティックな処分を下した幕府軍大将の田沼玄蕃頭。天狗が憎んでも憎みきれないこれらの人間性にも触れていない。

伊東潤の歴史小説は始めてであるが、史実を淡々と語る作風がそこにあった。

現代的意義はどこにあるかなどと主張する素振りを見せない方なのだろうか。

伊東潤はこの物語で天狗党の精神を美しいものとし、義挙を後世に伝えるべき悲劇としたかったのだろうか。

そうではなく見通しを持たなかったものたちの歴史的愚行としたかったのだろうか。

ただ、わたしには太平洋戦争の終わり、一億総玉砕という狂気の沙汰に似た思いが残った。
義烈千秋 天狗党西へAmazon書評・レビュー:義烈千秋 天狗党西へより
4103318511

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