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レクイエム
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レクイエムの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全11件 1~11 1/1ページ
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"ただ、声に出してそう言いたかった。みんな、さよなら。そして、おやすみ。もう一度、そう繰り返した。そして、わたしは頭をうしろに反らせ、月を見上げた"1991年発刊の本書はリスボンを舞台に繰り広げられる正者と死者の対話、交差する世界。良書。 個人的に『インド夜想曲』が面白かったので、本書も手に取りました。 さて、そんな本書はイタリアの作家にして、学生時代にリスボンを訪れた際に同国の国民的詩人、詩人フェルナンド・ペソアの作品に触れたことがきっかけで、ポルトガルに愛着を持ち、現在は学者としてもシエナ大学でポルトガル語および文学を教えている著者がポルトガル語で書いた一冊で。『インド夜想曲』と同じく、主人公の『わたし』が生死の別もさだかではない行方不明の友を尋ね、あるときはなりゆきまかせ、あるときには衝動にかられるままにリスボンの町を夏の日の正午から真夜中すぎまで移動しながら、様々な生者と死者との再会、そして表題の『レクイエム』通りに別れを告げていく姿が幻想的に描かれているのですが。 いやあ!面白い!カフカ的不条理さというか、特にエンタメ的な盛り上がりがなくても、こうした対話の場面が繰り返されるだけでも、ここまで引き込まれるのか!と心地よくポルトガルの地に没入させていただきました。 また、美術史好きとしては。作中の模写画家の披露するルネサンス期の奇想の画家、ヒエロニムス・ボスの作品が病院の霊的治療の用途を持っていたというエピソードにええ!と驚いたり。 素晴らしい翻訳の幻想小説として、またポルトガルはリスボンの地、料理に思いを馳せたい方にもオススメ。 | ||||
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インド夜想曲と似ている幻想的な物語でした。 訳のせいなのか元々の文体のせいなのかはわかりませんが、 自分はこのレクイエムのほうがインド夜想曲よりも読みやすく、 食べ物や建物の描写、それに人びとの会話文もよく、とてもおもしろく感じました。 うだるような暑さのなか、ポルトガルの首都リスボンを 汗みずくになってさまよう主人公の姿が目に浮かびます。 | ||||
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・・若き日の父と対面する場面が一番印象に残ったかな。もちろん父親というのはすでに他界しているわけではあるが。主人公の年齢は五十歳前後かと思う。それに対して父は二十歳そこそこ。年下の父親と対話するなんて不思議な光景ではある。まそういう夢のような場面が連続するのがこの物語の特徴。主人公の出会う人たちの一覧が冒頭のページにある。その数23人。ジプシーの婆さんやら墓守やら、実際に現実の世界に生きている人たちもいれば、昔の恋人や恋敵など、すでに亡くなった人たちもいる(若き日の父というのもここに含まれる)。そういった人たちが主人公の意識の中でまったく同じ存在感をもって立ち現れてくる。それがタブッキ的世界の在り方。しかし読者は戸惑う。煙に巻かれるというか、狐につままれるというか、そんな気持ちにさせられる。それが心地よいと感じられればすでにタブッキ的世界の虜となっているのかも。今回この物語を読んで、おれ(五十代)も若き日の父(20歳くらい)に会ってきた。といってもおれの場合はアルバムでの話。それでもおれがまだ生まれる前の父の写真を眺めているといろいろな感情がこみ上げてきた。不覚にも涙が出そうになった。レクイエムとは本来死者のためのミサを言うのだそうだが、ああこの想いこそがまさしくそうなのだと思った(とはいえおれの父はまだ存命だが・・)。 | ||||
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現実と向こうの世界との間にある何かを本当に掴むのが上手な人だなあ。ああ、夏に読んでよかった。ポルトガルに行きたい。 | ||||
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20年くらい前にスカパーのシネフィルイマジカというチャンネルでこの「レクイエム」の映画版を観た。とても印象に残っている。リスボンにも行ってみたいと思った。 今回翻訳書も読んでみて、仕方がない事だが、あの時自分が得た印象そのものではないと感じた。個人的には珍しく翻訳より映画の方が良かったという例だ。勝手な期待をしていたが違っていた。何年も前に観た映画の印象も自分の記憶の中で作り替えられてしまっているのかもしれない。 実際、原作で読んでみたらどうなんだろうか?やっぱり同じような印象を持つのだろうか...いつまでも解決しない問題だ。 | ||||
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アントニオ・タブッキのなかで一番好きな小説である。ポルトガル語で言うサウダーデsaudade(郷愁、憧憬、思慕、切なさ)だけがあって筋書きがないところが気に入っている。文中で「私」と名乗るタブッキが見たかも知れない一連の長い夢の記憶をそのまま文章にしたようなとりとめなさが、白昼夢を見ているようで絶品。 タブッキがポルトガル語で書いたというのだから、「私」が尊敬するペソアが得意としたheteronyms(スペルが同じで意味が異なる)が随所に散りばめられていると思うのだが、当然ながら訳文では判らない。唯一列車の中で車掌が戯れているクロスワードがその事例だ。 「とりとめない」と書いたが、その反対にテーマははっきりしている。フェルナンド・ペソア (1888-1935) へのアンビバレンツなオマージュである。タブッキがペソアの専門家であることはよく知られている。私は不覚にもタブッキを知るまでペソアの名前すら知らなかったし、不遜にも今も何も読んでいない。但しこの本の文脈を良く読めば、タブッキのペソアへの「アンビバレンツ」な思いは歴然である。 タブッキは「たましい」の存在を信ずる保守的な作家である。勿論それだけの作家ではない。カソリック的な魂が無宗教的な現代と斬り結ぶのが、彼の小説の核心なのだから。 ポルトガルへの「夢紀行」で感じるのは、古き良きもの、の喪失感だ。その良き物、良き者は、既に夢の中にしか存在しない。伝統的なポルトガル料理、古い建物、親しみやすく素朴な人々。それらはもう無い。灯台守の奥さんに「この国自体が売り出し中ですものね」といわせている。 ペソアは冒頭から現れる。ベルナルド・ソアレスと『不安の書』。ソアレスはペソアの別名だ。墓地ではタデウシュ・ヴァツラフ・スウォヴァッキという詩人を訪ねる。彼もペソアの別名だろうか。「1965年にサラザール政権が彼を釈放した」というところは時代が合わない。それとも「自殺したイザベル」を巡ってのかつての恋敵であったか。詩人はペソアを呼び出すための伏線かも知れない。そういえばイザベルも冒頭の「この本で出会うことになるひとびと」に挙げられながら登場しない。そして最後に、名前は出ないが、明らかにペソアとのレストランでの会話。この英語を話す男、ペソアは、若き日南アで教育を受け、英語は彼の第2の母国語だった。 現代風に調度された軽薄な感じのレストランで「私」はペソアに詰問する。「(この世界の)均衡を壊してしまったのは(あなたが追い求めた)アバンギャルドの責任だと言うことです」「未来派は卑俗でした…….あなたの書いた未来派のオードのなかにも、どこか卑俗な要素がある」。会話の中の「マリオ」というのは多分マリアッティを指すのだろう。このイタリア未来派の詩人は「未来主義創立宣言」をひっさげて華々しくデビューしたが、やがて「ファシスト党」の走狗に成り下がった。ペソアは言う、あの当時ヨーロッパの辺境にいて、ヨーロッパ中央を夢みてたのだよ。ペソアの時代は現代文学の幕開けの時代だった。ペソアはカフカを絶賛する。勿論彼が新しいもの好きの、それだけの作家でないだろうことは、タブッキが良く承知している。 なんでこの本がこんなにも興奮させるのか。それは多分ポルトガルという日本とのつながりの長い国への親近感と、重厚な西欧文学史の連なりの一部を、小説好きな私に垣間見せてくれるからであろう。 | ||||
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リスボンへの旅行、それは豊穣な夢の世界であった。 ただし苦悶と悔恨に満ち溢れ、 肉体の苦痛を伴いながらも忘却して然るべき記憶は、 強引に魅了しては荒れる海の如くいきなり突き放す。 暑さと溢れる汗、気の遠くなる午睡、 期せずして、いや会いたくなどは毛頭なかったのであるが、 導かれる死せる友との再会であり、 覚醒か夢の中かも判然とせずに再び目的も分からぬままに、 私という意識は旅立つ。 旅の行きつく先は、既に読んだはずなのに意味の判然とはしない、 或いは最初から読むことのあたわない本である。 読者の意識は何時しか今という時間、朦朧とした文字の世界、 更には己の記憶という極めて個人的な世界を彷徨うことになる。 各人各様であるが、必ずしも心地よい旅ではないのかもしれない。 しかし何時しか読まずにはいられない、 眩暈であるとともに奇妙で苦い喜びである。 | ||||
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ある男が旅をする。 旅というよりも彷徨、意識の徘徊といった方がよいのかもしれない。 うだる暑さのリスボンの街角、タクシーを拾う。ギニア湾に浮かぶサントメ・プリンシペ出身、黒人とポルトガル人の混血の運転手の案内でポロシャツを買う。ひどく汗をかいたから、着替えがほしかったのである。 贅沢な食事と酒。たまらなく眠くなる。なんとかたどり着けた安ホテルでの午睡。眠りの後、或いは眠りの中で古い友人の回想に浸る。それは暗黒と恐怖の時代、暗幕の中での人生の思い出というよりも脳に刻み込まれた傷跡なのである。 夕暮れの波止場、閉館時間を過ぎた美術館の冷え冷えとした展示室、急に思い立って出かけた古い灯台、贅沢だがさびれたホテルのバー、年老いたバーテンダーのおしゃべりと愚痴、彼との玉突き。 夕時のけだるい夢想、あるいは突然の覚醒をもたらす悪夢のようでもある。 この夢を読み、夢を見る読者は、どこか違った土地へと旅立つのである。幸福な旅となることは稀であるが。 | ||||
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イタリア人作家、アントニオ・タブッキさんがポルトガル語で書いた本。 (日本語に翻訳されてるからあんま意味はないのかもしれないけれども。) 主人公が今は亡き詩人(タブッキさんが好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアさん)とリスボンで待ち合わせの約束をしていて。待ち合わせ場所に行くまでの物語。 大好きな本の中の一冊。 この本の魅力は。 1. 出てくる食べ物や飲み物がすごくおいしそう。 2. 出てくる人物が明るい。 3. リスボンの町が丁寧に描かれていて散歩したくなる。 4. ビリヤードがしたくなる。 5. 美術館に行きたくなる。 というところです。 ところどころで、歴史的背景やら、詩人、ペソアさんの知識がないとわかりにくいところもあるのだけれども、小難しいところはなしにして。基本線としては非常に読み易いです。 題名がちょっと重そうだからあまり手にとる人もいないだろうけれども、実際、読んでみると文体としては軽い感じです。 特に料理に関しては本当においしそうな料理が出てきて、非常に食欲を刺激します。 たとえば。 フェイジョアーダ。 サラブーリョ。 パイナップル・スモル。(飲み物だけど。) アロース・デ・タンボリル。 僕はぜーんぶ知らない料理ばかりなのだけれども。 小説の中で出てくる描写が上手なせいなのか。 すごく食べたくなります。 ついでにリスボンに行きたくなります。 というふうに、僕に〜させたくなる本として。 本当に大好きな本です。 夏のうだるような暑さの日に読むといっそういいかもしれません。 | ||||
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