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悲の器
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【この小説が収録されている参考書籍】
悲の器の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.39pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全28件 1~20 1/2ページ
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救いようのない絶望の物語、最後の亡くなった奥さんの手記は凄まじい、ラストの正木教授の呪いの言葉も毛穴が開きました、髙橋和巳、再読します! | ||||
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使用感のないきれいな本で、気持ちよく読めそうです。 | ||||
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同じ作家による「我が心は石にあらず」もそうだが、半世紀以上に書かれた本書を現代に生きる私が読むと、どうしてもまずジェンダー意識の欠如に目が行ってしまう。そういう時代だったと済ませられるレベルではなく、女性を「穢れ」と見るような前近代的な描写も目立つ。もちろん、高橋和巳自身がそのような女性観を持っていたとは限らないし、学問に身をささげた正木典膳という主人公の偏屈で世間知らずの性格を際立たせるため故意にそうした描写をしていると考える方が自然かもしれない。 この点をとりあえず脇に置いて読むならば、戦前から戦中、戦後を生きた知識人の葛藤と孤独が本当に緻密に描写されていて、今を生きる学生たちにこそ本書を読んでほしいと思う。特に私は法学部出身なので、法とは何かという根源的な問いが登場人物たちによって議論されている部分を非常に興味深く読むことができた。また、神の存在をめぐる多様な視点からの考察も面白かった。なかには読めない熟語もあり、また何度読んでも理解できない難解な文も多い。たとえば、「人の意識そのものが、フッサールも言えるごとく、すべてノニシス・ノエマ的相関体である以上、すべての行為には、所与性とともに能作性がある」のような。でも、こうした部分も含めて、何十年も前にインテリゲンチャを気取っていた中年男(=私)を心地よく刺激してくれる。 それにしても、ラストの典膳による挑発的なモノローグの潔さ!! | ||||
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本書はまさに評者の「枕頭の書」である。評者は学生時代、本書を枕元に置き、繰り返し読んだ。凡そ70回は通読しただろう。表紙はバラバラになり、皮のブックカバーをあてがった。今は本書をひもとくことはない。なぜならほぼすべて暗記してしまったからである(今回書評を書くべく細部を確認するためKindleで購入)。 なぜ評者は本書にそれほど惹かれたのか?主人公である法学者正木典膳に極北の知性の姿を見たからである。正木は、刻苦勉励の末に築き上げた学会での地位から、家政婦との不倫というスキャンダルによって世間的には失墜していくが、まったく動ずることはない。彼にとっては日常の些事などどうでもいいのだ。 主人公をして、55歳という年齢にしてはじじむさいだの、現代の基準に比して暗いだのと言いたいやつには言わせておけ。本書の評価とは全くなんの関係もない。 本書は知性を巡る数々の美しい描写に彩られている。例えば、正木が松坂の本居宣長の旧居を訪ねた際の描写はこうである「古事記の注釈作業に倦んだとき、宣長は鈴を振ってその音を楽しんだとしるされてあった。(中略)疲れを癒やすために酒を飲むでもなく、鈴をならして神経を慰めたというーその不意の回想に私は非現実的な鈴の音をきいたように思った」。また、正木が心を乱す音楽というものについての嫌悪感を吐露している描写も注目に値する(決して情感に流されず、常に覚醒をめざす)。 戦中の治安維持法下、息を詰めるようにして思想史を研究することの緊張感、教授の地位を巡る陰湿な競争等(従って正木が暗いのは当たり前だ)、現代の我々が経験することのできない状況下で、知性がどのようにもがいたかを我々は本書を通して追体験できる。 筆者は本書を書くにあたり100冊あまりの法学書を読み込んだとのコメントをどこかで読んだ。人間の原罪を巡る正木と弟(聖職者)との火のような議論にもそれは反映されている。また、「確信犯処罰不可能論」にも言及しているが、国家が常にそれに反逆する思想犯より正しいわけではないことは、隣国を見れば明らかであろう。 本書は知性の本質的な冷たさ、その孤独、強さを正木典膳という法学者の姿を通して読者に生き生きと提示している。 巷にあふれる2-3日で書き上げられたお手軽な恋愛小説や対談、自分の半径100mの目くそ鼻くそを書いた私小説、はたまた未消化な個人的な体験を活字にしただけのノンフィクションや立ち読みで読了できるような口述筆記に比べ、本書は別次元の知の世界を、フィクションという形式を借りて示しているのである。刮目せよ! | ||||
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「悲の器」は高橋和己(1931~1971 京大教授のかたわら創作活動に入る)の代表的 作品。 罪人偈(げ)を説き閻魔王を恨みて伝えらく、何とて悲の心ましまさずや、我は悲の 器なり、我に於いて何ぞ御慈悲悲しまさずやと。閻魔王答えて曰く、おのれと愛のあ みに誑かされ、悪業を作りて、いま悪業の報いを受くるなり。 … 源信「往生要集」 この文章が初めに提示される。 学生時代によく読まれていた作家だが、最近は古本でしか入手できない作品も多い。 内容を簡略に説明すると、高名な学者(法律学者)に対して、個人的関係を結んだ 家政婦(原書のまま)が、その学者に対して損害賠償請求をしたことに始まる。いわば 醜聞によって、その学者は社会的指弾を受けるに至る。学者として生命もなくし、社 会的にも非難の嵐に巻き込まれる。その学者がその場を逃げずに、己の信念にしたが いその裁判に立ち向かう。孤立無援のままに闘うことを決意する。戦いの相手は家政 婦ではなく、社会という名の大きな疎外体であろう。 「現代の知識人が、その社会的基盤を掘り崩されようとしている時」に、自らの存 在を深く問い、自己を再認識し思想を再構築する物語か。 長い小説であり、その中で主人公の生き様が赤裸々に綴られる。逃げずに、韜晦する こともなく、まっすぐに立ち向かい、闘いを挑む。そこまでの魂の動きが実に迫力あ る筆致で描き出される。かつての同僚に対して自分は、獅子としての孤独と苛烈さに よって生きてゆく、と高らかにしかし悲しみをもって宣言する。結局、高橋和己は「悲 の器」の最後の4ページを書くために、紙幅を費やしたのではないだろうか。これほ どの迫力ある文章に胸を突かれ、初めて読んだときの呆然とした感覚は今でも鮮やか に覚えている。 『さようなら …私もまたいつかは黄泉の国に帰らればならないにせよ、…私たちは 遂に二度と顔をあわせることはないであろう。何故なら、あなたは淘汰されて死ぬの であり、あなたは宇宙の慈悲によって、…天国に住むだろう。…だがわたしは行かな い。私は死んでも私には闘いの修羅場が待っているだろう。私を踏みつけにせんとす る悪魔どもがつぎつぎにあらわれ、現れつづける。我が待望の地獄が。私は慈愛より も酷烈を、奴隷の同情よりも猛獣の孤独を欲する。…天国に憧れる人間どもの上に跳 梁し、人間ども善行や悪行、人間どもの生や死…それら一切の矮小なものときっぱり と絶縁し、平然と毒杯をあおりながら哄笑したい。死せる~よ。君が夢想することを 好んだあの海の白波。…追いつめられた一人の独裁者に、スクラムを組んで立ちむか い、弾丸の続く限り血ぬられ殺されながら、なお権力を倒すべく進みつづける群衆を 支える力とは何であるのか。それが、この人々…に、はたしてみずからそなわってい るものと認めうるか。私は友情の名において、…君たちの苦悩する地獄へと、君たち をたたきのめすために赴くであろう。…人間が人間以上のものたりうるか否かを、ど ちらかが明証してみせるまで。…』 このような壮絶な心情を吐露しながら破滅へと向かって行かざるをえない主人公の姿。 滑稽にも見えるが、闘いの中で「自己憐憫」を持たずに、生きてゆくこと。猛々しい その生き方。読み手を選ぶ。特に学生でないとなかなか読めないかとも思う。 一度手に取られたい。 ☆は、個人的な好みを入れて☆☆☆☆☆。 | ||||
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無し | ||||
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"Vessel of Sorrow" of Takahashi Kazumi is "Hi no Utsuwa" in English. | ||||
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昔の思い出を引きずりながら再度読んでみました。高校生の頃、読んでいたのを思い出し、読んでみたら、人生経験を更に45年加えてみると、ちょっと違うなという印象で、昔よりかなり理解しながら読んでいけました。 | ||||
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Kindle版で読みました。キンドル版でもプロテクトがキツくて、コピぺもできないから、読むだけならいいけれど、辞書をひくとか、ちょっと研究的なことをしようとしても、難しい。それに、高橋和巳の小説はこのデビュー作も含めて一つも英訳されていない。つまり、日本語を読める人以外は、誰も知らない。そこで、一念発起して、英訳公開を継続中です。著作権継承者から正式契約で許諾をいただき、公開しています。この内容は、現在の香港、中国、欧州などの若い人たちにも読んで欲しいからです。Vessel of Sorrow ”悲の器”の英訳版です。Vessel of Sorrow で検索すれば出てきます。 | ||||
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難解の一言。ネットで調べると、著者は法律家ではないのに、これだけ難しいことをよく書けたもの。著者もそうだが、同時代の読者もこれを理解できたのか?昔の人は今の人より頭が良かったんだろうな。 巻末の解説で巻末著者の論点での内容を理解するぐらいがせいぜいだった。今の作家でこんな人はいない。井上ひさしの言うように「難しいことを易しく」にしてほしい。 ただ、ストーリを追うだけでも面白く、一応、読了はできた。昔の女の人は、男尊女卑、家父長制度の中で没個性的かというとそうではなく、登場の三者が三様に鋭く考えていたのが救いか。 | ||||
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法学部の学生時代に法学セミナーに書評が載っていたので、興味を惹かれて読みました。とにかく、その面白さは抜群でした。戦中から戦後にかけてのストーリーを1人の法学者の回想のかたちで展開していくのですが、治安維持法のような悪法の下では法律家や法自体がいかに無力であったのか、結局、法とは何かを問う傑作だと思います。 法律家になり20年以上経った現在、読み返してみても刑事法理論を正しく法律家のごとく展開しつつ、法の本質に迫る議論が随所に見られ、著者の構想力や洞察力にはただただ驚かされます。 他の方のレヴューにもありましたが、読後感は暗い気持ちになる点は否めませんし、私も二十代ではじめて読んだときは暗澹とした気分になりましたが、それを上回る得られるものがあるとおすすめできます。著者の思想や哲学を知るにはエッセイ集なども合わせて読むとよいと思います。 | ||||
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多くの著作があり、学会の権威者であり、最高学府(明示されていないが東大と思われる)の教授である主人公が自らの行為の結果、転落していく物語である。時代は戦争前から昭和30年代までの設定。 転落といっても、妻の病死、内妻との関係、50代で20代女性との婚約破棄、内縁破棄、内妻から慰藉料請求、大学内での学生、教官との対立、定年の少し前の退職、子供や兄弟間の不和といったことである。エゴイストの大学教授の転落の物語。 いくつもの疑問が湧く。 なぜ、内妻に手切れ金を渡して別れた後に再婚しなかったのか。それをしなかった主人公はよほど要領の悪い人だ。 東大教授を退官すれば、通常は、東京の私立大学の教授職でき、定年前の退職は珍しいことではない。 内妻から裁判で慰藉料を請求されたとしても、支払う慰謝料の額は知れている。東大教授であればすぐに払えるだろう。通常、大学教授の家庭内のトラブルに世間は関心を持たない。この本では家庭内のトラブルが新聞報道されているが、通常はそれはない。 法的にはよくある紛争であり、弁護士に依頼すれば話し合いで簡単に解決できただろう。 客観的に見れば主人公が遭遇する問題は大したものではない。生活できないような貧困、重篤な疾患、戦争、飢餓、差別、自然災害、事故、冤罪などに較べれば、主人公の抱える問題は深刻なものではない。どう転んでも主人公は食うに困らない恵まれた境遇にある。 主人公は東京に住んでいたのに不思議なほどに戦争の災禍を受けていない。それはまるで空襲を受けていない京都に住んでいたかのようだ。 しかし、主人公のプライドの高さや意固地さ、柔軟性の欠如が問題を大きくし、問題解決を困難にし、主人公にとって人生の「転落」につながった。主人公はプライドが高いので弁護士に相談をせず、話し合いにも応じない。そんな人は世の中の「成功者」、「勝ち組」と呼ばれる人の中にけっこういる。 ところどころに不可解な記述がある。現実には、調停の場に裁判官が出てくることはないし、再婚予定者を調停の場に呼ぶこともありえない。この本では、調停の場で訴訟のようなことをしている。この本に「調停訴訟」という言葉が使われているが、調停と訴訟はまったく別である。この本で描かれているように当事者が同席して議論をし、裁判官が意見を述べることは調停ではない。調停委員も通常は自分の判断を述べない。医師が調停委員になることは稀だ。医師は忙しく、調停は時間がかかるからだ。訴訟では互いに争うが、弁護士を通した論争であり、当事者同士が論争をする場面はない。また、訴訟受理の段階で裁判官が申立人と話をしたり、和解を勧めることもこともありえない。訴訟に元婚約者が証人として登場する場面は、まるでテレビドラマのように非現実的だ。通常、1回の訴訟期日は15分程度で終わるが、この本では毎回数十分から1時間くらいかかるとされる。昔は裁判に時間をかけていたのか。 しかし、調停で訴訟のようなことをしなければ、ストーリーが面白くないのでそのようにしたのだろう。小説は面白ければよいのであって、多少の間違いは大目に見るべきだろう。その他、ストーリーの不自然な点は多いが、作者の意図を実現するためにはそれが必要だったのだろう。 社会的な閉塞性が個人の生き方に反映する。この本は、個人の転落を描くが、それは同時に日本の社会の問題でもある。主人公が育った厳格な家庭では、親子、兄弟間の愛情が育ちにくい。そのため、主人公の家族、兄弟関係も情愛に欠ける。このような厳格型家庭は明治以降、現在まで日本では珍しくない。力で抑えつけると家族間の情愛が育たない。 エゴイストは、地位、名誉、業績、富に対する欲望から生まれる。主人公のような仕事中心人間、上昇志向の人間が明治以降の日本の社会・経済を発展させてきた。 しかし、地位、名誉、業績、富を得ても幸福は得られるとは限らない。明治以降の日本では、仕事中心、上昇志向、権力志向の者がエリートとして社会をリードしてきた。主人公も一切趣味を持たない研究一筋の努力家だが、不幸だ。 地位、名誉、業績、富をめぐる競争の過程で、幸福になるための条件を失うのだろう。主人公のあらゆるものを得ようとする際限のない欲望が、幸福を失わせたのだろう。幸福になるためには、人から「得る」のではなく、人に「与える」ことが必要ではないか。 しかし、世の中には地位、名誉、業績、富を得られなくても幸福な人たちは多い。もっぱら他人に与えることで喜びを得る人もいる。主人公とは異なる対極の人物も登場させてほしかったものだが、この本に登場する人物はすべて否定的な人間に描かれている。 | ||||
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時間とは何だろう? 時代とは何だろう?-とこの小説を40数年ぶりに読み通そうとしながら考えていた。 思い出す、内容を理解した積りで、高橋和巳や吉本隆明の本を「持っていた」自分を。 老いた眼には 先ずページの全てを埋め尽くす活字の多さ、文章に占める漢字の多さにうろたえる。 そして書いてあることといえば 重厚長大深刻を煮詰めて煮詰めてこれ以上ない苦い固形物にしたような内容。 昔誰かが 「これは小説ではない大説である。」とかどこかで書いていた事を思い出した。 確かにこれは小説ではない。小説風論文あるいは論文風小説である。 今高橋和巳を読む人は日本に10人も居ないのではないだろうか? 時代は変わり、彼に共感し彼を支持していた世代は今丁度消えつつある。 時代が変わると忘れ去られるモノや事があるのは=良い悪いとは別の=当たり前の事実だ。 この世の出来事はすべて一過性のものであり、自分もまた一過性の時間の中で一過性の時代感情を自分の考えだと思って生きて来たのだーという思いが=この細かな文字を追いながら=浮かんだ。 我ら全て時代の子である。 | ||||
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川端でもなく、三島でも、谷崎でもなく、昭和を代表する作家を挙げるのであれば、小生は高橋和己である。末期大腸がんで入院中のベッドで執筆を続け、ペンを持っている指の骨が折れた(おそらくは骨転移)というすさまじい生涯を生きた人であった。決して古くなることなど有り得ない、まさに不朽の名作のみ。小生は高橋和巳の小説、全作品を読んでいるが、非の器もまた、しかりである。 | ||||
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文章の的確さに驚くばかりです。なかなか本意または真意を伝える事は困難であり、そこには膨大な文字を必要とすると思うのですが、それをこの小説は的確に為し得ていると思います。作家の人格が底辺を支え、言わんとする事を文章が織りなして行く様には、ちょっと驚嘆させられます。久しぶりに読み応えのある、緻密な作家に出会えた喜びに浸っています。 | ||||
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博学ゆえの知識人ではなく、自己を見つめるがゆえの「戦後知識人の苦悩」を描く名作。本作を含む高橋和巳の著作が繰り返し復刊される所以はそこにある。その点を読み取れない凡庸な読み手には、もはや古い、感動がない、としか感じられないだろう。 | ||||
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2級の視覚障碍者です。 Kindle版のお蔭で素晴らしい読書生活を楽しんでいます。 わたしたち視覚障碍者にとってKindle版はまさしく福音です。 Kindle版の普及に取り組んでくださっているアマゾンに心からお礼と申し上げるとともに今後の充実を期待しています。 しかしながら、 当該「悲の器」Kindle版は、KindleにダウンロードしてもKindle版としては実用できません。 実は、これはPDF版なのでした。 アマゾンに連絡し、返金してもらうことにはなりましたが、この表示方式では不安が募るばかりです。 同様の失敗を繰り返したくない私としては、Kindle版とPDF版の別をどうやって見分けたら良いのでしょうか。 | ||||
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と考えてしまうような主人公です。この本を読了したら、安富歩先生の「誰が星の王子さまを殺したか」加藤諦三先生の「不機嫌になる心理学」、アリス・ミラー「魂の殺人」をどうぞ。あまりの食い合わせにご気分の保証はいたしかねますが。その意味ではこの小説はよく描写されています。この手の男性が「昔よくいた人」になってしまいますようにと祈らずにいられません。(でも今でも少なからずいらっしゃるんですよこれが)この主人公と関わりを持つ家族、家政婦、そして婚約者がすべからく傷つき去って行くのは、その実自分自身を毛嫌いし、大切にできないからなのではと、読み進めるうちに涙がでてきました。周囲の人を自分にとって都合のよい「玩具」「道具」としか扱えない主人公もその実、妻や妻の父からは「肩書きのいい婿」としての役割しか期待されず、幼いころの主人公は家庭でも学校でも立ち回ることしか頭にない少年だったことをつきつけられるからです。パワハラ、モラハラに悩む方には一服の清涼剤として、パワハラをしている人には、自分を省みるきっかけとしてご一読をお勧めします。 | ||||
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高橋和巳氏の作品は、 全然展開なし 苦悩だけが延々と続く 結局誰も救われない という作りで、重い。 ひたすら重い。 なのになぜか引き込まれてしまう。 この進展のなさはカフカの『城』や『変身』『審判』『皇帝の使者』みたいで 何だかとっても好きだ。 『悲の器』も土俵の真ん中で組み合ったまま、全然動かない感じが好きだ。 正木典膳の愚直な堅物ぶりは何だかおかしみもあって スッキリしない物語だけど、何だか引き込まれ、重い気持ちで読まされてしまう。 『わが心は石にあらず』と合わせて読むと、更におもしろいと思う。 『悲の器』は『往生要集』からの引用のはずなのに、『往生要集』の目的でもある“浄土”という救いの部分を全く欠落して締めているところがすごい。こういう“つまみ食い”を源信はどう受け止めるのだろう? ということも考えてしまった。 | ||||
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知人に頼まれて購入しました。 探していた本が見つかってよかったです。 | ||||
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