悲の器
【この小説が収録されている参考書籍】 |
■報告関係 ※気になる点がありましたらお知らせください。 |
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点0.00pt |
悲の器の総合評価:
■スポンサードリンク
サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
現在レビューがありません
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
救いようのない絶望の物語、最後の亡くなった奥さんの手記は凄まじい、ラストの正木教授の呪いの言葉も毛穴が開きました、髙橋和巳、再読します! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
使用感のないきれいな本で、気持ちよく読めそうです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
同じ作家による「我が心は石にあらず」もそうだが、半世紀以上に書かれた本書を現代に生きる私が読むと、どうしてもまずジェンダー意識の欠如に目が行ってしまう。そういう時代だったと済ませられるレベルではなく、女性を「穢れ」と見るような前近代的な描写も目立つ。もちろん、高橋和巳自身がそのような女性観を持っていたとは限らないし、学問に身をささげた正木典膳という主人公の偏屈で世間知らずの性格を際立たせるため故意にそうした描写をしていると考える方が自然かもしれない。 この点をとりあえず脇に置いて読むならば、戦前から戦中、戦後を生きた知識人の葛藤と孤独が本当に緻密に描写されていて、今を生きる学生たちにこそ本書を読んでほしいと思う。特に私は法学部出身なので、法とは何かという根源的な問いが登場人物たちによって議論されている部分を非常に興味深く読むことができた。また、神の存在をめぐる多様な視点からの考察も面白かった。なかには読めない熟語もあり、また何度読んでも理解できない難解な文も多い。たとえば、「人の意識そのものが、フッサールも言えるごとく、すべてノニシス・ノエマ的相関体である以上、すべての行為には、所与性とともに能作性がある」のような。でも、こうした部分も含めて、何十年も前にインテリゲンチャを気取っていた中年男(=私)を心地よく刺激してくれる。 それにしても、ラストの典膳による挑発的なモノローグの潔さ!! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書はまさに評者の「枕頭の書」である。評者は学生時代、本書を枕元に置き、繰り返し読んだ。凡そ70回は通読しただろう。表紙はバラバラになり、皮のブックカバーをあてがった。今は本書をひもとくことはない。なぜならほぼすべて暗記してしまったからである(今回書評を書くべく細部を確認するためKindleで購入)。 なぜ評者は本書にそれほど惹かれたのか?主人公である法学者正木典膳に極北の知性の姿を見たからである。正木は、刻苦勉励の末に築き上げた学会での地位から、家政婦との不倫というスキャンダルによって世間的には失墜していくが、まったく動ずることはない。彼にとっては日常の些事などどうでもいいのだ。 主人公をして、55歳という年齢にしてはじじむさいだの、現代の基準に比して暗いだのと言いたいやつには言わせておけ。本書の評価とは全くなんの関係もない。 本書は知性を巡る数々の美しい描写に彩られている。例えば、正木が松坂の本居宣長の旧居を訪ねた際の描写はこうである「古事記の注釈作業に倦んだとき、宣長は鈴を振ってその音を楽しんだとしるされてあった。(中略)疲れを癒やすために酒を飲むでもなく、鈴をならして神経を慰めたというーその不意の回想に私は非現実的な鈴の音をきいたように思った」。また、正木が心を乱す音楽というものについての嫌悪感を吐露している描写も注目に値する(決して情感に流されず、常に覚醒をめざす)。 戦中の治安維持法下、息を詰めるようにして思想史を研究することの緊張感、教授の地位を巡る陰湿な競争等(従って正木が暗いのは当たり前だ)、現代の我々が経験することのできない状況下で、知性がどのようにもがいたかを我々は本書を通して追体験できる。 筆者は本書を書くにあたり100冊あまりの法学書を読み込んだとのコメントをどこかで読んだ。人間の原罪を巡る正木と弟(聖職者)との火のような議論にもそれは反映されている。また、「確信犯処罰不可能論」にも言及しているが、国家が常にそれに反逆する思想犯より正しいわけではないことは、隣国を見れば明らかであろう。 本書は知性の本質的な冷たさ、その孤独、強さを正木典膳という法学者の姿を通して読者に生き生きと提示している。 巷にあふれる2-3日で書き上げられたお手軽な恋愛小説や対談、自分の半径100mの目くそ鼻くそを書いた私小説、はたまた未消化な個人的な体験を活字にしただけのノンフィクションや立ち読みで読了できるような口述筆記に比べ、本書は別次元の知の世界を、フィクションという形式を借りて示しているのである。刮目せよ! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「悲の器」は高橋和己(1931~1971 京大教授のかたわら創作活動に入る)の代表的 作品。 罪人偈(げ)を説き閻魔王を恨みて伝えらく、何とて悲の心ましまさずや、我は悲の 器なり、我に於いて何ぞ御慈悲悲しまさずやと。閻魔王答えて曰く、おのれと愛のあ みに誑かされ、悪業を作りて、いま悪業の報いを受くるなり。 … 源信「往生要集」 この文章が初めに提示される。 学生時代によく読まれていた作家だが、最近は古本でしか入手できない作品も多い。 内容を簡略に説明すると、高名な学者(法律学者)に対して、個人的関係を結んだ 家政婦(原書のまま)が、その学者に対して損害賠償請求をしたことに始まる。いわば 醜聞によって、その学者は社会的指弾を受けるに至る。学者として生命もなくし、社 会的にも非難の嵐に巻き込まれる。その学者がその場を逃げずに、己の信念にしたが いその裁判に立ち向かう。孤立無援のままに闘うことを決意する。戦いの相手は家政 婦ではなく、社会という名の大きな疎外体であろう。 「現代の知識人が、その社会的基盤を掘り崩されようとしている時」に、自らの存 在を深く問い、自己を再認識し思想を再構築する物語か。 長い小説であり、その中で主人公の生き様が赤裸々に綴られる。逃げずに、韜晦する こともなく、まっすぐに立ち向かい、闘いを挑む。そこまでの魂の動きが実に迫力あ る筆致で描き出される。かつての同僚に対して自分は、獅子としての孤独と苛烈さに よって生きてゆく、と高らかにしかし悲しみをもって宣言する。結局、高橋和己は「悲 の器」の最後の4ページを書くために、紙幅を費やしたのではないだろうか。これほ どの迫力ある文章に胸を突かれ、初めて読んだときの呆然とした感覚は今でも鮮やか に覚えている。 『さようなら …私もまたいつかは黄泉の国に帰らればならないにせよ、…私たちは 遂に二度と顔をあわせることはないであろう。何故なら、あなたは淘汰されて死ぬの であり、あなたは宇宙の慈悲によって、…天国に住むだろう。…だがわたしは行かな い。私は死んでも私には闘いの修羅場が待っているだろう。私を踏みつけにせんとす る悪魔どもがつぎつぎにあらわれ、現れつづける。我が待望の地獄が。私は慈愛より も酷烈を、奴隷の同情よりも猛獣の孤独を欲する。…天国に憧れる人間どもの上に跳 梁し、人間ども善行や悪行、人間どもの生や死…それら一切の矮小なものときっぱり と絶縁し、平然と毒杯をあおりながら哄笑したい。死せる~よ。君が夢想することを 好んだあの海の白波。…追いつめられた一人の独裁者に、スクラムを組んで立ちむか い、弾丸の続く限り血ぬられ殺されながら、なお権力を倒すべく進みつづける群衆を 支える力とは何であるのか。それが、この人々…に、はたしてみずからそなわってい るものと認めうるか。私は友情の名において、…君たちの苦悩する地獄へと、君たち をたたきのめすために赴くであろう。…人間が人間以上のものたりうるか否かを、ど ちらかが明証してみせるまで。…』 このような壮絶な心情を吐露しながら破滅へと向かって行かざるをえない主人公の姿。 滑稽にも見えるが、闘いの中で「自己憐憫」を持たずに、生きてゆくこと。猛々しい その生き方。読み手を選ぶ。特に学生でないとなかなか読めないかとも思う。 一度手に取られたい。 ☆は、個人的な好みを入れて☆☆☆☆☆。 | ||||
| ||||
|
その他、Amazon書評・レビューが 28件あります。
Amazon書評・レビューを見る
■スポンサードリンク
|
|