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喜嶋先生の静かな世界
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喜嶋先生の静かな世界の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.63pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全81件 61~80 4/5ページ
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理系の研究者の話ではあるけれど、作中の『研究』の部分は他の何にでも置き換えることができる。 『音楽』でも、『野球』でも、『絵画』でも、『小説』でも、『サッカー』でも、『映画』でも、なんでも。 学生時代に何かにのめり込み、そして失ったことがある人ならば、理系じゃなくても感情移入できる。 普遍的な青春小説だと思う。 | ||||
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著者の作品は初めて読む。 かもめのジョナサンだ、と思った。 作品ではなく著者自身が。 | ||||
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タイトルに言う「静かな」は、もちろん直接には、登場人物である「喜嶋先生」の世界についての言葉である。 だが「静か」という印象は、この物語全体についてあてはまるものだろう。 大学時代から、少しずつ研究者の世界を歩んでゆく語り手の人生は、 普通の、世間的な見方からすれば、(おそらく結末を除けば)ごく静かで、なんらドラマチックなものではない。 しかし実はそこでは、一見動かない物体が量子レベルではとんでもない激しい運動を内包するように、 個人の知的なレベルにおいては実に劇的な動きを伴っているのだ。 ここで語られる学問的な内容を理解する必要はない。 それについては理系の研究者であってすらも、語り手と喜嶋先生以外には誰にもわからない、 と何度も述べられている。 特化した研究というのはそういうものなのだろう。 だからといって読者が置き去りにされるわけではない。 語り手の興奮を読者も共有できるからである。 外からはなかなか見えない大学の実態がよくわかるだけでなく、 学問の世界の魅力、その奥深い求心力、知的な生活の豊かさがしっかり伝わってくるのだ。 静かな生活の中に展開するドラマチックな知的興奮。 外と内、静けさと激しさとの二重性とバランスとが不思議な心地よさを呼ぶ。 そしてそれは、一見平凡な日常がどれほど豊かになりうるかという例でもある。 喜びとか幸福とかいうものは、決して目に鮮やかなドラマとか、華々しい活躍だけのものではない。 この小説が伝えるのは、 平凡な人生を生きる我々の前にも拓かれているそういう可能性であり、希望ではないだろうか。 静かに、しかし力強く、元気を与えてくれる小説なのである。 だが、喜ばしいだけの話でもない。 語り手が社会的に安定した後の結末のトーンは切ないものだ。 平凡さの陰に刺激的な人生、喜びがあるように、やはり苦さも潜むのである。 平凡さの中に無限の喜びを見出した後で、我々が主人公とともに経験するのは、 遠ざかった人々についての、わずかな風の便りが伝える人生の重さ、苦さなのだ。 ここにも、表面では見えない人生の奥深さがある。 それにしてもこの切なさ。 この作家の小説は初めてだが、きっとこうした切なさは作家の根の部分にあるものだろう。 ミステリー作家として、とくに若者に人気らしいこの作家のことはほとんど知らなかった。 初めて意識したのは、『スカイ・クロラ』という映画が出来て、 その原作者として話題になった頃だろうか(クローラーと伸ばすことをしないのがこの作家のスタイルらしい)。 しかし書いているものはあまり自分に合うようには思わなかった。 だがその作家が大学の研究者であり、さらに研究者を主人公にした本を出したと聞いて、 あらためて興味を持った。 ほかの作品とはイメージが合わないから、やはり異色作ではないだろうか。 読んでみて、これは自伝ではないのかと思った。 一般に、小説の中身と事実とを安易に重ね合わせることはよくないとされている。 フィクションにはそれ自体の存在理由があるからだ。 だがこの小説の場合、書いてあることは限りなく作家自身のことではないかと思わせるものがある。 学問に対する感じ方などは間違いなくそうだろう。 むろん名前やエピソードなどは変えてあるかもしれないが、喜嶋先生のモデルも実在するに違いない。 どこまで本当なのか知りたくてしょうがなくなる。 そう思わせるのも、やはりこの森博嗣というユニークな作家の魅力なのだろうと思う。 大学教師で作家というのは他の例もあるわけだが、何かそれだけではない独特なものが感じられる。 調べてみると、既に大学はやめていて、 作家稼業にしても、あと数冊予定のものを書いたらやめると言っているらしいではないか。 こうなると今後についても目が離せない。 | ||||
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とびきりピュアでみずみずしく、そしてほんのり、寂しく悲しい。理系のための青春小説の誕生だ。 作者は某国立大学の工学部助教授にして、話題作を次々と生み出す推理作家。 その書き下ろしの「自伝的小説」である。 理科系の学生として研究生活に歩みだした主人公と、彼をめぐる人々、とりわ け師である喜嶋先生との交流が描かれる。「学問」「研究」「人生」の底知れない奥深さにも触れるストーリーだ。 キャッチコピーに「学生の方は進路が変わるかも」とあった。あながち、大げさではない。それほど感染力は強大だ、と感じた。要注意の感動作だ。 | ||||
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喜嶋先生や主人公のように研究に喜びを感じることができる人をずっとうらやましいと思ってきた。 自分もそうなりたいと思いながら、その入り口にも立てなかった。なぜって、大学の教科書を理解することすら(未だに)かなわなかった。卒研をやって以来、研究からはいつも逃げたいと思っているし、テーマを見つけることはとても辛い。 自分には夢のまた夢の世界だったけれど、研究や考えることに無上の喜びを感じる人のことは理解出来る。 ポアンカレ予想を解きながら、姿を隠してしまった数学者のドキュメンタリーをNHKで見たときと同じ感動を覚えた。 主人公の語り口で、喜嶋先生がいなくなるのではないかと、哀しい気持ちを感じながら読んでいたら、ラスト近くの1度目の喜嶋先生の幸せな展開にこうなりましたかと思いつつ、2度目の展開(ラストのラストですが)に、予想していたことではあっても涙があふれてきました。どういう涙なのか自分でもよくわからない。 今も、実際に大学では若い助教と院生が研究に喜びを見いだしてくれているといいなと、そうでなければ大学の意味がないと思った。 読み終わったあと上品ではない考えだが、喜嶋先生は、もうどこにも論文を出さないのだろうかとか、風の噂で奥さんのことはわかるのに何で喜嶋先生はわからないのとか、余計なことを考えてしまった。本当に上記数学者同様引きこもってしまったのではないだろうかと心配になったり。 喜嶋先生は幸せなのかもしれないけど、まわりは・・・・。 自分自身、最初の職場の上司が、退社後アメリカに渡り、今どうしているのかと、論文検索しても見あたらず、喜嶋先生のようではないが、研究者とは、因果な人種だと思う。でも、研究に喜びを見いだしたい、この本を読んで自分では体験出来なかった研究者の喜びを追体験出来た。 文庫でない本を読むのは久々だったが、通常、あとがきと解説は無いものなのか? ほんとに何もなく本が終わってしまい、これもまた切なかった。 何も後ろに入れさせないのは著者のこの本に対する気持ちの表れか。 読み終えたばかりで、支離滅裂で、全然自分自身整理出来ていないが、いい本に出会ったと思った。 | ||||
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不思議で、心地よく、最後は少し切なくなる小説だった。 森博嗣の本を読むのは3冊目で、初めての小説。とんでもなく読みやすく気持ちのいい文章を書く人だ。 内容的には『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎新書)とほぼ同じである (順番はもちろん逆で、本書を新書にしたのが『科学的とはどういう意味か』ですね)。 新書と小説が純粋に同じ内容というのは少し不思議だけれど、本当に同じ。 けれども同じ内容を読んでいるのにもかかわらず、まったく飽きないし、森博嗣への興味は膨らむばかりである。 森博嗣の本を3冊読んでみていちばん大きな収穫は、理系的な考え方、 もっといえば研究者的な考え方と、その生活模様を(うっすらとではあるが)覗けたことである。 自分とは正反対に理系の道へ進んだ兄が高校時代、あるいは専門学校時代、 なぜ一つの数式を前にしてあれほど嬉々としていたのか。その理由がぼんやりとわかった気がした。 もちろん、わかるというのは「そういう世界が確かに存在することがわかる」という意味で、 彼らがいったい何をしているかは一切不明のままだし、どういった種類の悦びなのかは想像の範疇を出ない。 が、ともかく新しい価値観や立ち振る舞いに触れることができたというのは、とても喜ばしい。 そういう意味で、本書は私にとってまぎれもなく好著であった。 | ||||
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作者の半自伝的小説ということなのだが、表題の人物にモデルはいるのだろうか?非常にリアルなのだが。 それはともかく、筆者が研究者という人種の最も純粋な類型を書こうとしたことは間違いない。 そして、才能にあふれた若者たちにとって、その環境がいかに至福なものであるか、また、現代でそれが実現されることがいかに難しい事かも。 評者のような文系学部卒でフツーのサラリーマンになってしまった人間には、あまりにまぶしすぎる話である。 | ||||
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背表紙・表紙がとてもシンプルで、一目見た瞬間惹かれ、手に取りました。 読んでいて物語に惹き込まれました。 電車の中でも、歩道を歩いている時も、休憩時間が5分でも、読みました。 こんなことは今まで僕の中にあったかどうかというくらい、珍しかったです。 そして、つい先程、タイトルの本を読み終えたばかりです。 結末は・・・、 何故このような結末にしたのかを、作者に問いてみたい気持ちになりました。 ですが、 主人公の人生に対する考え方、想いに共感しました。 そして、彼が持つ 静かでしっかりとした信念。 無理が無く、虚栄も無く、周囲・世間がどんなであろうと、つつがなく進み生活する姿勢・言葉・態度。 それは、とても僕の心を落ち着かせてくれました。 彼は、強制されて行動するという事が物語中は見当たらないのです。 そして、誰かがこうしているから、こうしなければならないというような事も無いのです。 今の自分、周りの世界 全てを受け止め、素直に生きている。 それが、静謐さをもたらせてくれました。 友達はいない、彼女もいない、家族もいない、いつか誰にも知られずにいなくなるであろうとも。 それでもイイんだ。と思わせてくれました。 | ||||
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『キシマ先生の静かな生活』という短篇を、『大学の話をしましょうか』というインタビュー集の内容で肉付けして、長編にしたような感じだ。 静かで抑制のきいた文章で、学問に身を捧げるということがどういうことか、慎ましく語られる。 | ||||
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工学博士である著者の自伝的小説。 彼の学生生活と研究室の恩師である喜嶋先生との交流を描いた1冊。 「静かな世界」とタイトルにあるように、 この本を読んでいると不思議と周りに静寂を感じた。 震災や身の回りのことで気持ちが不安定になっている時、 この本を読んでいる時だけはなぜか気持ちが落ち着いた。 自伝的小説、と言われているけれど この小説はどのジャンルに分類すればいいんだろう? 自伝ではないような気もするし、小説とも思えないし。 淡々と進んでいくのに、読む手が止まらないし、 心地よい不思議さが最後までつきまとった。 主人公や喜嶋先生の研究に対するひたむきさに、 学生時代、なんでもっと勉強ができることの素晴らしさに 気付かなかったのだろうと思ったり。 でもこの本は勉強が素晴らしい!ってことを言いたいのではなく、 「静かな世界」で生きることの素晴らしさと難しさを語ってる。 「静かな生活」とは喜嶋先生が研究者としてひたむきに研究を続ける姿。 素晴らしいがゆえに、難しい。 ラストが予想外に切なくて悲しかったけれど、信じたい気持ちでいっぱいになった。 生きてるとどうしても日常に刺激を求めてしまうけれど、 何かつきつめたいこと、やり遂げたいことを見つけると、 生活はシンプルになり、そのシンプルを愛するようになるのかもしれないな。 | ||||
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人生をある時期に本にしたら、時間の濃淡はこの本のようになるんじゃないかなと思います。どうでもいい授業や出来ごとは一行も書かずに、大事な先輩に出会ったときや、ガールフレンドができたときのことや、先生と酒を酌み交わしたことや、そういったものの記述が長くなる=その時間は長く覚えているものだと思います。 人格形成期の希望と不満(10代〜20代前半)、社会の中での位置が見えてくる喜びと不安(20代後半から30代前半)、そのまま働いた末の得たものと失ったものの悲しみ(40代〜50代)、それぞれにおいて読むと、またその時々に感じるものが違うように書いているような印象を受けました。なので、また10年後に読むように本棚に取っておこうと思います。 | ||||
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この数年で読んだ小説の中で最高の評価を与えたい。 はるか昔の狂おしいまでの個人的な経験・記憶がそのまま小説になって現れた感じがした。 読んでいる途中でそれに気付きながら、最後まで一気に読んだ。 読むのに時間をかけていられないほどの切ない感情がどんどん胸の奥底から湧きあがって止まらなかった。 文字を追いながら表紙を伏せ、数秒深呼吸してはまた本文に戻るという作業を何十回も繰り返した。 胸の奥深くに残っていた昔の記憶が強烈にえぐられていくのがはっきりとわかった。 結論から言うと本書の結末は、やや意外な展開と余韻で終わる。 理系大学の学部・院という、社会から見れば特殊な異空間にも人生ドラマは存在する。 学内や海外の学界での評価基準は一様ではないのに、いちいち一喜一憂せざるをえない不安な道だ。 その体験を回避しつつ留学などで要領よく生きていった先輩たちへの羨望もあった。 しかしその苦しい生活自体が今思えば幸福だったし、実際に日常の小さな喜びもあった。 それでもそんな小さく複雑な時間ですら当時の自分には抱えきれていなかった。 時間が過ぎて場所も変わった今でもなお、自分はそんな迷いを続けているのかもしれない。 時代の変遷は怖い。過去に気付かなかった幸福を今の自分なら感知できたりする。 そして当時感じていた幸福が残酷な結末を招く例も、今日の自分はいくつも見聞きしてしまっていたりもする。 自分の幸福・不幸センサーが今も昔も精度が悪い事実を再確認しろと、この本は私に迫ってきた。 そんな感覚が混然一体となり、過去とは違う新鮮なほろ苦さが読後の頭に重く残った。 読了してからしばらくたった今ですら、レビューをここに書くための適切な言葉を思いつけないでいる。 私にはこれを森博嗣が書いたことが衝撃だった。 たしかに本書は作者の人生を通り過ぎた死屍累々の理系人への鎮魂歌なのかもしれない。 スプートニクの落とし子たち ←この本の著者が書いたのなら理解できたのだが。 やはり森博嗣はあの世界で生きる人たちの心のかすり傷や、そこにある闇の深さを分かっているのだ。 不十分なレビューで申し訳ないが私は数年してから再読すると決めた。 しばらくはこの本に接するのがつらすぎて、本棚の裏に隠して置いてもきっと数年は手を出せないだろう。 なお、私が一番感情移入した登場人物は主人公だった(喜嶋先生を含む周囲の人たちではない)。 私の周囲にも似た人々が多すぎたのか、場面をリアルに想像しすぎて記憶の走馬灯が脳内を止まらなくなってしまう。 小説は若い頃に読めとはよく言ったものだが、こういう意味も含まれていたのだろうか。 どうやら私はこんなに年月がたったのに、自分の学生時代を総括できていないらしい。 そんなことだけはこの本ではっきりと思い知らされた。 文学的評価はわからないが、小説が読者(私個人)に及ぼす力としては文句なしの出来だった。 ただし、理系大学を経験していない他の読者にとって、この本の評価は未知数であることも申し添えたい。 | ||||
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学問を追究する目的の、ひとつの答えがこの本の中にあるのだと思います。 「自分の取り組んでる研究内容は、もう枯れた分野なのではないのか」 「この行き詰まりを打開する方法なんてあるのか」 「そもそもこれが本当に社会の役に(略)」 なんて大学院時代に考えていた私にとっては新しい視点がいくつもあり、新鮮な気持ちになれました | ||||
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この小説は、青春小説だ。しかし、学問の世界に身をおいた人にとっては、鎮魂歌だ。 ひょっとすると、一部の幸せな人は、主人公のように、喜嶋先生のような人物と時間を過ごしたことがあるかもしれない。 しかし、多くの研究者にとっては、喜嶋先生は、常にその存在を意識しつづけるものの、ついに現実には出会うことはできなかった夢の人物だ。 その、夢がこの作品で具現化した。ああ、小説とはなんと甘美なものか。 | ||||
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講談社の創業100周年記念の「書き下ろし100冊」の1冊。 この小説はミステリではない。あくまで小説である。クリーンでサイレントな世界の話だ。 この小説の主人公や、登場人物の一人である喜嶋先生のあり方というのは、森博嗣の作品を好んで読んできた人間からすると、これまでの作品やブログの内容と、自然につながるものである。そこからきれいに上澄みを取ってきて小説にしたような、そういった風だと思う。だから、その内容についても肯定的な印象を得るだろう。その一方で、それ以外の人、森博嗣の作品が合わない人、この作品の中で言うと、喜嶋先生を理解出来ない人(少なくともそう考えている人)、要するに主人公以外のほぼ全員は、全く逆の評価を下すのではないかと思う。そういった人からすると、このようなあり方は、全く理解出来ないものであるし、また、異物でもある。この意味に置いて、この小説は、読み手によって、受ける印象が全く変わってくると思う。或いは、誰もが同じように絶賛するものではなく、読み手によって全く異なる面を見せるのが小説かもしれない。 | ||||
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本作は元大学で研究者をしていた森博嗣らしい作品であり,語り手から見た指導教官,喜嶋先生の研究者としてのあり方に焦点を当てて語られる. 私も研究者の端くれであるが,喜嶋先生の研究者としての純粋さには静かな感動を覚えざるをえない.目頭が熱くなる.学問には王道しかない,とおっしゃる喜嶋先生こそが,我々が社会との関わりの中で失っていった真の研究者であり,理想とすべき姿である. だが,大学人として純粋であるが故に,悲劇がある.多くの研究者は40歳までには,研究者ではなくなるのだ.様々な雑務や講義,研究費獲得に時間を取られてしまい,学生の指導という形でなんとか研究に携わる程度になる.そのとき,真の研究者たらんさすればどうすればいいのか? 森は語り手を通して,こう述べる. 「一日中,たった一つの微分方程式を睨んでいたんだ.あの素敵な時間は,いったいどこにいったのだろう?」 私も本作を読んで,研究しかしていなかった修士の頃を思い出す.あのころの研究は純粋に楽しかった.人生で一番勉強した集中した時期だったと思う.一日中,固有値や特異値について悩んでも,それが楽しかったし大切なのだという実感があった.主成分分析の美しさとか,主成分分析とフーリエ解析の数学的な共通点が見えたときの感動とかどこにいったのだろう? 本作は研究者には,かつての純粋の姿を想起させるものであり,これから研究に携わろうとする学生には,その面白さと厳しさを教えるであろう. なお,実は本作には元ネタとなった短編が存在する(まどろみ消去収録).短編の方がストーリィが短いだけ物語の印象は深いが,短編では語られなかった喜嶋先生の様々なエピソードが興味深い. | ||||
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この著者の本は今作が初。 パラパラとめくって主人公ののんびりとした日常が進んで行く内に 気づけばその世界に没頭していた。 研究の幸せな面、残酷な面、そしてなにより喜嶋先生の人柄に生き方貫き方。。。 非常に没入できて読み終えてからも「この作品に出会えて良かった」と希有な余韻に浸れた一冊。 これから著作を読み進めて行こうと思うが 果たして一冊目にこの作品を読んでしまったことが吉と出るか凶とでるか。。。 | ||||
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大学の助教授だった著者の自伝的小説。主人公は(たぶん)理学部の学生。彼の大学、 その後の大学院での研究生活と、彼の恩師・喜嶋先生との交流の日々を淡々と描きます。 研究を進めることの喜びと苦しみ。「政治家」の先生が偉くなるシステムへのな諦め。 「研究が好きで好きで堪らない」研究者(その体現者が喜嶋先生です)への憧憬。著者 が学校の中で感じていたであろう様々な感情が小説の世界として表現されます。そして、 最後の「助教授になったことで、雑用が増えて実際の研究ができなくなる」喪失感が切 ないです。 研究の純粋さ、大学・大学院の意義。行った人にはここまで純粋な世界はないことは判 ってしまいますが、学校というのはこうあってほしいいう要望そのままのファンタジー の世界が展開される、気持ち良い小説です。 | ||||
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この作品の中では暗闇や星という言葉が使われますが、太陽は出てきません。 星はあくまで光を反射するだけ。では光の発生源はどこなのか。 それは数式や規則が隠れた世界そのものだと私は受け取りました。 光輝く世界を調べる喜び。同時に社会のしがらみや自分の限界という真っ暗な恐怖。 喜嶋先生は暗闇など構わず光を追い続けた生粋の学者。 これは作者が初めて書いたヒーロー伝なのかも。 | ||||
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つぶやき書評『喜嶋先生の静かな世界』。 理系ドクターの卵の日常が主な舞台。限りなく高く広い世界への思索と思考の物語。昔感じた数学に対するドキドキを思い出す。短編の焼き直しだが、完成度と一般性が増す。短編の前に読みたかった。最後数行に凄絶さを感じた #MORIHiroshi | ||||
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