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悪の法則
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悪の法則の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全2件 1~2 1/1ページ
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映画の補完として買ってみた。映像がない分、会話の迫力が増して良い。 だが、ところどころ翻訳が不自然で何を言っているのかよくわからなかった。 | ||||
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たぶん映画の脚本と知りながら本作を購入する人は、マッカーシーのよほどのダイハードなファンか、 映画自体では消化不良の気味のある謎や伏線を理解する手がかりを求めてかのどちらかになるんでしょうね。 自分はどちらかというと後者ですが、マッカーシー初のオリジナル脚本だというし、現代アメリカ文学屈指の巨匠が、映画と小説の表現メディアの違いをどのように考えているのかという方法論的な問題への興味もあった。 結局のところ、脚本というのは、映像表現で完成を見る創造のプロセスの下書きに過ぎないわけだから、監督に十分に≪ミザンセーヌ≫の余地を与えない企画が成功できるとは思えないからです。 映画を先に観てまず気づかされたのは、会話シーンの多さと饒舌さ。 実際、上映時間の半分を超えるまで目ぼしいアクションはまったくといっていいほどなく、 その大半は、5人の主要人物を中心にして交わされる寓意と隠喩とメタファーに満ちた二者対面のダイアローグに費やされる。 二者対面というからには、言葉の応酬以外の身体的なインターアクションは自ずと限られるわけだ。 従って、少なくとも第一幕においては、マッカッシーがその才能の多くを登場人物のアウトラインの描き分けと台詞の琢磨にもっぱら注いだとしても不思議はない。 だからフィルム・ノワールの伝統に則った台詞のクールネスとダンディズムがいわば最初の一時間の生命線というべきであり、その点この黒原敏行訳は、原義から大きく外れていないという意味では無難かもしれないが、ダイアロギストとしてのマッカーシーのエルプリを伝えるという意味ではどうなのかと疑問に思える箇所も少なからずあった。 換言すれば、英語の台詞にある小気味の良さ、機知の閃き、リズム感といったものがどうも日本語訳でうまく伝わっているように思われないのだ。 こういうのは村上春樹のほうがずっとセンスがあると思う。 もちろん≪翻訳≫としては間違っていないのだろうし、一聴しただけではわかりづらい内容(特に専門的なダイアモンド談義)を理解するうえで本邦訳が大きな助けになったのは否定できない。 ただ、シナリオのト書きの部分は最低限の状況説明以外は極力省かれているので、そもそも地の文で本領を発揮するマッカーシーの醍醐味など味わうべきもない。 それだからこそ、肝心のダイアローグがこうも生彩のない日本語だと、映画の脚本に過ぎないものの邦訳を単行本として出版して、いったいどういう読者を対象にしているのかという疑問が残るわけです。 脚本家としてのマッカーシーの試みについては、先行上映された本国での評判が散々だったので、逆に好奇心を唆されたところもあった。 確かに『ノーカントリー』のようにアクション満載で空間移動の多いスリリングな展開を期待して劇場に足を運ぶと拍子抜けするのも仕方ないだろう。 紙面でいかに素晴らしく思えても、スクリーンへ移行するとうまく成功しないアイデアというものもある。 自分にとっては本作のテーマ的な布石とも言える冒頭の弁護士とダイヤモンド商の対話の場面がそうだった。 確かに≪光≫の結晶体としてのダイヤモンドという寓意は、至高を求めつつも地上の物質的現実の桎梏に縛られている人間の倫理的なジレンマを喩える上で絶妙なモチーフのように思えるが、それはあくまでも活字のパレットの上であって、映像媒体で同じイメージを表現するに当たっては、ただダイヤモンドのカラットをクローズアップで映し出すだけで十分だとは思えないのです。 じゃあどうすればいいのか? そんなこと、映像メディアの一介の消費者に過ぎない自分には見当もつきません。 ただ、修辞学的に隙がないまで練られた隠喩や警句も、一秒間に24コマの速度で同時に目と耳を通して理解するにはヘビー過ぎると感じたとしても、それは必ずしも自分が英語のネイティブスピーカーでないからだけではないんじゃないでしょうか 別の例を挙げれば、オープニング・クレジットで見られるチーターとの狩りの場面 狩るもの、狩られるもの、それを見守るスペクティター(マルキナ)という 観念的な図式が先立ってしまった結果、映像としてのインパクトが弱まってしまった印象が拭えない。 この場合、本当にト書き通りに双眼鏡を通しての俯瞰ショットで走るチーターを捉えるのが最良の解決策だったのだろうか 弁護士とライナーが出入りする金と欲望と虚栄にまみれた世界のエッセンスを摘出する上で鍵となるシーンが、ことごとくライナーの言葉を通して回想されるという点にも難がある。 こいうやり方は小説では機能するかもしれないが、映画の叙述法としてはどうなのか。 もっと映画の文体に通暁した作家ならば、アクションのフローを寸断させる回想などという手段を続けて二度も使わない気がする。 フェラーリのフロント・ウィンドウの上で長い脚を水平に開くキャメロン・ディアスを頭上から捉える絵は確かにすばらしいが、バルデムのボイスオーバーが感興を殺いでしまう。 もうひとつ。 本作は、ポスト麻薬戦争の国境の町を舞台にしている点で、『血と暴力の世界』のアップデイト・バージョンとも言える側面があると思うが、 自分にとっては『ブロッド・メリディアン』を生み出した作家が≪マーダーキャッピタル≫とまで恐れられるようになった21世紀のメキシコの現状をどう見ているのかという興味もあった。 実際、劇中でもブラッドピットが演じるウェスレイが国境の南で疫病のように蔓延している少女誘拐と拷問殺人とスナッフビデオの狂熱について一席ぶつ場面があるが(そのほとんどは個人のブログやエルパソあたりの酒場でささやかれている都市伝説や憶測の類と大差がなさそう) 全編を通して感じられるのは意図的と思えるほど土着的な特徴が省かれていることだ。 結果として、物語の舞台が地理的に特定されるのをむしろ避けているような印象さえ受ける。 翻ってみれば、ウェスタン・ノワール的なキャラクタもことごとく、イソップ寓話のなかで運命の糸に弄ばれる操り人形のように類型化と様式化が極度に推し進められ、生身の人間の印象が希薄である。 結局のところ、西方ユダヤ人であるダイヤモンド商にとって≪カルチャー≫と呼ぶに足りる文明が古代ギリシアと旧約聖書の伝統の外に存在しないのと同様、マッカーシーにとってのメキシコは『ノーカントリー』のラストで時代の推移を嘆く≪老兵≫が力なく座り込む地点から一歩も先に進むことなく、永遠のニヒリズムの代わり映えのしない冷光のもとで凍てついてしまっているのかもしれない。 個人の命の重みがほとんど感じられなくなった薄明の世界で、≪力への意志≫や≪閨房の哲学≫へ陶酔してみせるのは簡単である。 | ||||
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