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半島
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半島の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全11件 1~11 1/1ページ
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読みたいと調べると、もう絶版で手に入らない。 だから、安価に提供してもらえて助かります。 本好きだから、本が無駄にならないのもいいし。 | ||||
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小説はあまり読まないので,この作者のことも知らなかったのですが,昨年末,たまたま『巴』を読んでハマってしまい,これで4冊目です.これで終わりそうにありません. | ||||
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本作の題名を見て、すぐに思い出されたのは、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』である。『シルトの岸辺』も、『半島』のように、「拝命」、「海図室』、「会話」など、小題が立てられている。イタリア自治都市を思わせる架空の国オルセンナの、シルト海を隔てた敵国ファルゲスタンを防諜する命を受けた名門出の「私」の、カフカ的とも言える不条理の物語。この小説が、『半島』の作者の脳裏にまったくなかったとは思えない。それと、『半島』の作者があこがれる作家、古井由吉の、輪郭のぼんやりしたような世界の、なまめかしい描写。このふたつが、この作者をして、『半島』の筆を進めさせたと考えられる。 だが、残念ながら、本作は、グラックの強靱な思想も、古井由吉の艶めかしさも持ち得なかった。ただ、文庫解説者の、「東京大学教授」山内昌之の、まとはずれな門外漢の賞賛を得たにすぎない。あ、「読売文学賞」も。それにしても、この著者は、同賞といい、詩では高見順賞、小説では芥川賞、仕事は東大教授(今は退官されたが)、およそ文化に携わる者のあこがれる、ほとんどすべてを手に入れていて、それで、『半島』の主人公が、大学を辞め、人生をどうしたものか、憂えているような中年男と言われても、ほとんどの読者は共感を持ち得ないと思う。それになにより本作には、書く喜びが感じられない。作者自身が、こんな世界を信じていないのではないか。グラックの書く世界は架空ながら、リアリティがある。しかし、本作は、あまりに抽象的すぎて、絵空事そのものである。作者はなんの実感もないまま書いたのではないか? 実感とは、かつて訪れた外国の都市の、細部を知識として知っている、ということではない。また、個人的な思い出でもない。おのれの腹のうちを見せるという覚悟である。私は好みではないが、少なくとも、松浦の「師匠」、古井由吉にはそれがある。それは、某女性作家との色恋沙汰ぐらいどーってことないと呑み込んでいく居直りなのかもしれない。 | ||||
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主人公の迫村は大学を辞してある半島に移り住む。そこで現実と非現実の世界を往来する。不思議な老人戸田、その娘の舞踏家の佳代、大学時代の教え子の向井、占師のロク、中国女シェ−フェン、そして自分の影といった個性的な登場人物との関わりが軸となり、読み進むにつれて、点と点がつながり線となり、線と線が絡まるように時間が流れ、島での雑多な出来事の関連が迫村の意識の流れを透して不意にみえてくる。 著者は私の好きな作家である。この本は初めて手にした時その装丁と物語の設定と本の帯と著者のあとがきにひかれてれて購入した。しかし、残念ながらこの長編を読み進むに従い、著者の意図かもしれないが、記憶(過去)との対話、あるいは現実世界と夢の世界の往来が執拗に繰り返され、所々の追跡が難しくさえ感じられた。そして私の不勉強のためか高尚な長めの説明的文章のためか最後の頁に辿り着くまで些か努力を要した。この本は十分な時間の中ですべての雑事を忘れてゆっくりと読むのがお勧めである。 | ||||
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ふとした契機で「異界」に足を踏み入れ、出てきたときには、入ったときとほんの少しずれた場所にいる。そんな感覚を味わうことができる作品です。「異界」は、村上春樹の「深い井戸」的な雰囲気がありますが、現実と「異界」とのつながり方が村上春樹作品とは違います。作品中の描写は、官能的なまでに身体(この作品では「躯」と書かれますが)に寄り添っているのが特徴です。フランス思想の研究者だけに、どこかフランス思想に似た薫りがします。 | ||||
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小説にしか描き得ない、言葉にしか表現できない世界を実現している点で、大いに評価すべき作品ではある。本書を読んでモデルとなった舞台を訪ねるというのも、『ダヴィンチ・コード』かよといいたくなるが、そんなことは要らぬお節介だろう。勝手に訪ねなさい。 しかし、そうした読みには、意外に本作に対する誤解があろうと思われる。人生は仮初というが、それも単なる誤読に過ぎない。いわばこうした誤解は、現在の小説に対する誤読の典型であり、こうした誤読が小説の衰退を招いている。 それは、言葉の機能としての小説の力や本質をことごとく侮っているからだ。幻想的なファンタジーに癒されて、そのモデルを訪ねてみれば、自分も実際に小説世界を「体験」できる、 あるいは、物語世界の対象が半島へ紛れ込んだブルジョア元大学教授のロマンティックな体験(自分勝手な男の妄想)であることに感受し、もう一つの人生もありうるとの読者自身の妄想をのみ喚起している以上は。素朴にそういう読み方も、読者の自由であるという「相対性理論」はここでは問題外(議論以前)とする。 カズオ・イシグロの『充たされざる者』は本書と似たテイストながら、遥かにリアリティがあり、ロマンティックな妄想とは縁遠い。そして、明らかに小説としての可能性を拡げている。 『半島を出よ』にしても、一見全く異質な半島に入るこの物語にしても、明白にマッチョな妄想に根差している。マッチョが言いすぎなら、男の妄想と言い換えても良い。 それでも本書は十二分に評価すべき小説だ。言葉の芸術である小説の「言葉の機能」に対する周到な計算が感じられるから。 | ||||
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話は三歩進んで二歩下がる。大学の教授とあったので説教くさいのかな、などと全く期待していなかったのだが、本の表紙の美しさにつられ、ついつい購入してしまった。ページを何枚めくっても何も決まらず、大きな展開もない。「何もない」の反対は「何かがある」。でも本当に「何もない」。では、面白くないのか?いや、非常に面白かった。私はこの本を読んでから、小説の舞台を探すために短い夏休みを利用して瀬戸内海へ向かった。毎日のように船で島へ渡り、寂れた路地を探索した。この路地の先には...などと考えると、すでにアスファルトの都会に慣れきってしまった自分にも自然を感じる力が残っていたのかと、ぬるい風が身体をすっと通り過ぎ、しつこい汚れを削ぎ落としてくれた。東京に帰っても、入り組んだデパートの売り場で、開発からとり残された渋谷の路地で、ちょっとしたとまどい、漂流している感じは忘れたくない。会社の昼食の時間、今日は少し先の路地の店まで定食を食べに行こう、そんな些細なことでもいい。自分の日常の中に自分にとってのささやかな「半島」を見つけて過ごしたい。遠足の前日「バナナはお菓子にふくまれるんですか〜?」などと先生にふざけた質問をする小学生のささやかな抵抗のようだけれども...。何年か過ぎ、この本をめくったとき、そこにはきっと老けた姿の自分がいるはずだ。もう一度、あの暑い夏の記憶を取り戻してほしい。少し違うかもしれないが、大人版、村上春樹の「風の歌を聴け」ではなかろうか。今年の夏、何もなかった人は是非...。 | ||||
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半島の先端に橋ひとつで繋がっている小さな島。この島で“クライアント”とも“ゲスト”ともつかない存在として、“休暇”とも“余生”ともつかない日々を送ることとなった四十過ぎの男の話。 この島の存在は男自身であり、島で起こることのすべては男の心象風景でもある。男は世のしがらみから逃れ、“自由”を求めてこの島にやってくるのだが、少しずつ少しずつ、あらたな人間関係が形作られていく。現実から逃れて幻想(仮初)に生きることなど出来ない。なぜなら現実こそが仮初だから。なぜなら現実とは自分自身が作り出すものに過ぎないから。 この島は仮初でありながら、現実であり、自分自身なのである。この四十過ぎの男の心象風景そのものを立体化した、この島の地理や出来事の数々は面白い。地下道、トロッコ、螺旋階段は夢や過去へのバイパスである。島のA地点とB地点が遠いと思っていたのに実は背中合わせだったというのは、過去、現在、未来が直線的なものではなく往復可能なもの、あるいは“人生など一瞬”ということの比喩だろう。 男は成り行きまかせの人生を送ってきたと嘯く。そしてそのことに後悔しないのが唯一のモラルだと。それが果たして間違っているのかどうかなんて答えはこの本にはない。でも希望を与えてくれるこんなくだりもある。 「~迫村さんはまだ四〇代だろう。これがもっと爺いになってくると、見透かしていたつもりのからくりが、またもう一度、不可思議な謎々みたいなものと化してしまう。そういうことがあるんだよ」 「そりゃいいね」と迫村ははしゃいだ声を上げてみた。「歳をとるのが楽しみになってきましたよ」 「生きるってのは思い出すってことだろう。この島に来て、俺はそれにようやく気づいたよ。」という自分の“影”との対話もある。こうした過去をポジティブに捉え直す視点にも希望を感じる。 | ||||
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半島の先端に橋ひとつで繋がっている小さな島。この島で“クライアント”とも“ゲスト”ともつかない存在として、“休暇”とも“余生”ともつかない日々を送ることとなった四十過ぎの男の話。 この島の存在は男自身であり、島で起こることのすべては男の心象風景でもある。男は世のしがらみから逃れ、“自由”を求めてこの島にやってくるのだが、少しずつ少しずつ、あらたな人間関係が形作られていく。現実から逃れて幻想(仮初)に生きることなど出来ない。なぜなら現実こそが仮初だから。なぜなら現実とは自分自身が作り出すものに過ぎないから。 この島は仮初でありながら、現実であり、自分自身なのである。この四十過ぎの男の心象風景そのものを立体化した、この島の地理や出来事の数々は面白い。地下道、トロッコ、螺旋階段は夢や過去へのバイパスである。島のA地点とB地点が遠いと思っていたのに実は背中合わせだったというのは、過去、現在、未来が直線的なものではなく往復可能なもの、あるいは“人生など一瞬”ということの比喩だろう。 男は成り行きまかせの人生を送ってきたと嘯く。そしてそのことに後悔しないのが唯一のモラルだと。それが果たして間違っているのかどうかなんて答えはこの本にはない。でも希望を与えてくれるこんなくだりもある。 「~迫村さんはまだ四〇代だろう。これがもっと爺いになってくると、見透かしていたつもりのからくりが、またもう一度、不可思議な謎々みたいなものと化してしまう。そういうことがあるんだよ」 「そりゃいいね」と迫村ははしゃいだ声を上げてみた。「歳をとるのが楽しみになってきましたよ」 「生きるってのは思い出すってことだろう。この島に来て、俺はそれにようやく気づいたよ。」という自分の“影”との対話もある。こうした過去をポジティブに捉え直す視点にも希望を感じる。 | ||||
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物語は「たんたんと」進む。たんたんと。迫村と名乗ったり俺と名乗ったりする手法は読む側を気持ちよく混乱させる。 恋愛物なんだか紀行文なのだか、ジャンルが見えない。現代小説、がいちばん適している。 フシギな村でのフシギな人との出会い。それでもたんたんと日常がすぎていく、このフシギさ。 | ||||
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「あやめ鰈ひかがみ」とほぼ同時期に進行していた長編小説。著者が後書きであかしているように、たのしんで書いたとのことなので、こちらも「この迷路の中、どこに連れていかれるのか」、たのしんで読了しました。もっとも、独特のたのしみではありますが。たぶん本作では、大まかに計画を立てて、細部は筆の運びにまかせたのだと、推測します。それがたのしんで書いたという意味でしょう。また、著者は後書きで、これを書くことで自身の人生の危機を乗り越えていったと記しています。そう考えると、「あやめ鰈ひかがみ」、同時期になされた本作、そして著者自身の人生の危機この三点の交差は不思議な感慨を呼び起こします。 | ||||
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