世界は密室でできている。
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『煙か土か食い物』のスピンオフ的作品。 | ||||
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「土か煙か食い物」のスピンオフ的な作品になっていて、ルンババの少年時代の話です。 | ||||
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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
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冒頭の、肌を搔きむしって全身が乳首のようになるシーンは、なかなかグロテスクです。下品でくだらなくて気色悪いのですが、最後まで読むと、まあめちゃくちゃでヘンテコリンな小説だけど、アリかなという気がしてくる。 登場人物はみんなどこかおかしいけれど、まあツバキエノキ魅力的だしアリかな。連続殺人もバカミスすぎてアホらしいけど、ここまで飛ばしてると、全体と調和してるしまあアリかな。で、最後もよく書けてると思う。 たとえばツバキさんが屍体を使ってしてしまったことが、たいへん狂っている。度肝を抜きました。しかしそのイメージがいつまでも頭から離れない。鮮烈なイメージです。 笠井潔氏は、かつて日本推理作家協会賞の短篇部門に舞城氏の「ピコーン!」が候補になった時(2003年)、こう評しました。《ミステリとしての歪みや撞着にかんして作者は確信犯であ》る。つまり、わざとこのようなバカバカしい書き方をしているということです。舞城氏の作品が一貫してこの傾向にあることは、作品を読めば明らかです。 さて、氏は小説にモチーフやパロディを用いる人です。たとえば、デビュー作の『煙か土か食い物』は、尾崎真理子氏の指摘の通り、大江健三郎の『万延元年のフットボール』でした。また、短篇「熊の場所」と『阿修羅ガール』は、神戸連続児童殺傷事件がモチーフです。『ディスコ探偵水曜日』はさまざまなパロディが仕込まれており、西尾維新やそのほかに留まりません。 そう考えると、この『世界は密室でできている。』もなにかしらのものが根底にありそうな気がするのです。 どうも私はまた大江健三郎の『万延元年のフットボール』なんじゃないかと、根拠薄弱ながら思うのです。なんたって『万延元年のフットボール』は、《この夏の終りに僕の友人は朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死したのである。》という、度肝を抜くある種のミステリ小説ですから。 | ||||
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ルンババの姉の涼ちゃんは社会からのはみ出しものであり社会にとっては許容できない異物である。 涼ちゃんも社会を拒否して社会からさらにはみ出る行為(家出)を繰り返す。それは社会から、はみ出ているという状態を受動的なものではなく能動的なものとして定義するための行動だろう。 しかし、父親はその社会への反抗としての涼ちゃんの行為も部屋を密室にすることで圧殺しようとする。 本来は家族こそそのはみ出しを愛で受け止めてあげなければならないのにもかかわらず。 涼ちゃんは自殺なのか事故なのか判然としないが自宅の屋根から飛び降りという形で死んでしまう。 涼ちゃんの死による悲しみから謎の湿疹を起こしたルンババの気持ちを紛らわせるため、ルンババの友人友紀夫は、瓶に入っていた湿疹の芯を口に流し込み飲み込むという身を挺したギャグをやる。今は笑えないけど記憶に刻まれて思い出した時に何度も笑えるギャグを、と。 オチをつけて出来事・各シーンを笑いに変えることに友紀夫(作者)は意識的である。本作はオチをつけることに拘られた作品だといえる。菅原悠の四コマ漫画見立て殺人もそうだろう。ただし、ここにはオチがないし、あるいはオチがオチになっていない。良し悪し、善悪で言えば悪としている。殺人事件であるのだから、倫理的には当然だろう。 小説自体も四コマ漫画的な起承転結のはっきりした構成になっている。 友紀夫がエノキ姉妹に出会うまでが起。 ツバキと谷口徹の事件が承。 四コマ漫画の見立て殺人事件が転。 涼ちゃんのときはできなかった飛び降りから救う行為、その代替行為としての、ルンババがまさにオチるのを受け止める行為がなされたのが結。だろう。 そしてその小説の起承転結で語られた全体も《人生の縮図的四コマ漫画》のせいぜい一コマ目か二コマ目か三コマ目とされる。 菅原悠の《人生の縮図的四コマ漫画》にオチがなかったように人生にもオチがないこと、少なくとも友紀夫の青春時代においては(あるいは舞城王太郎の作家人生においては)まだ四コマ目が見えてこないこと、そのオチを寒いだけのものにはしたくないという友紀夫(舞城王太郎)の願いがラストで示唆される。 | ||||
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舞城王太郎特有の軽妙な語りが最初からフルスロットルです。事件とルンババの推理が中心になる中盤は少しダレますが、終盤、そしてラストシーンが素晴らしい。これは、作中でも語られている通り、「だれにでも当たり前にある、親との衝突」を描いた作品なのでしょう。そして主人公やルンババは、四コマにある通り、これから「和解」し、やがては自分自身が親になっていくのでしょう。 正直、めちゃくちゃ感動しました。私が今までに読んだ中で一番の青春小説です。 | ||||
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かなり読み手を選ぶ作品だと思います、一般常識にとらわれない突き抜けたヒロイン?と密室不動産トリックに耐性というか、嫌悪感抱かないタイプの人なら受け入れられると思います | ||||
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この小説には文学に期待される表現の瀟洒さや美しい語彙、ミステリ的なトリックの巧みさなどというものはかけらもない。いや、わざとそうした要素から離れ、雑に書いているのだと思う。まさに主人公の中学生が考え、感じ、書くレベルの文章。 題に「密室」とあるものの、ミステリ部分はおまけのようなもので、実態は青春小説。現代の若者がさまざまな精神的密室に閉じ込められている、という内的なテーマが本筋だと思う。 あえて稚拙な文章と内容に仕上げていることも、少年少女の内面をテーマにしていることも、ラノベに代表されるような現代性の表現なのだと受け止めている。社会や家族、他人との関わりの欠如。自己の肥大化、閉じられた人間関係のなかでの生活。 主人公のふたりは自分にとって重要人物である「涼ちゃん」や「エノキ」「椿さん」の顔色は伺うし、彼女たちの懊悩やそこから来る逸脱行為に関しても理解する姿勢を見せるのだが、対照的に自分たちの両親や警官にはそうした姿勢を保持しない。ルンババの親の苦悩や彼らなりの判断に至る理由はほぼ一顧だにせずに「お前らが涼ちゃんを殺した」と言い放ち、衝動のままに殴る。職務にあたっている警官を役立たずと罵倒し、死んだ身内を侮辱された(殉職した警官を含めた警察組織への自分たちによる侮辱は棚に上げたまま)と思えばこれも殴る。 大人や世間への関わりがまるでなく、ひたすら閉じた人間関係と、ロマンスの対象としての少女への関心にのみ形成された物語である。むしろ親の干渉なんかよりそっちのほうが本当の密室ではないか?私は面食らって評価を低くつけてしまったが、ラノベに代表されるようなこうした物語の組み立てこそが現代の文学なのかもしれない。 | ||||
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