ビッチマグネット
- 家族小説 (42)
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ジャンルを一言で表すなら家族小説。マイジョーにしては至って普通の物語だ。フツー過ぎて却って戸惑ってしまった。 父親が愛人と出奔した家庭の、姉弟の関係を中心にストーリーが展開する。弟は、生来よりタチの悪い女(つまりビッチ)を引き寄せる磁石(マグネット)を持っている男子、という設定。 だいたいビッチマグネットというタイトルは、作品のテーマなり世界観なりを表していないんだよなぁ。如何にもな家族小説っぽいクライマックスに、何か読み落としがあったのか不安にすら駆られてた。道に迷ってしまったよ・・・ | ||||
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先日、僕の出身中学校で、女子生徒がいじめを苦に列車自殺をしました。 ニュース映像には、僕が高校時代、毎日通り過ぎた駅のホームに手向けられた花束が映っていました。少女の父親は僕と同い年らしく、もしかしたら中学時代の同級生かもしれません。 自殺した少女自身と、いじめ問題については、ここでは触れません。 残された家族や彼女の友人らについて、書いてみます。 遺族や友人らは、メディアの前で悲しみや怒りを表現することを「強要」されます。視聴者の胸を打つ、「使える」画を求められるからです。にもかかわらず、実際に放送されるものは、徹底的にワンパターンです。「いい子だったのに」「二度と起こってほしくない」「加害者には反省してほしい」――。 母校での痛ましい事件という衝撃もさることながら、僕にとってさらにショックだったのは、そのニュースが徹頭徹尾、「どこかで見た」既視感に満ちていたことです。昔からずっと、そして今も、毎月のように報道される、いじめによる自殺。いじめの程度が違うだけで、報道のされ方は毎回判で押したように同じです。もしこれが身近な場所での出来事でなければ、よくある悲劇として完全にスルーされ、僕の記憶には何一つ残らなかったでしょう。 でも遺族や、彼女の友人にとっては、もちろんそうではない。 そうではないのに、本当の感情が表現されることはありません。したがって、それを受け止める相手もいません。ということは、残された人々の悲しみはいつまでも癒えることがないのです。一体なぜなのか? 本作品は、そういった深くて、見えにくい、精神医学的な意味での「カタルシス」のありかを追求しています。 * 主人公は、ちょっとアブない関係なんじゃないかと疑うくらい仲のいい弟・友徳を持つ姉・香緒里。しかしその異常な仲の良さは、父親が愛人との共同生活を始めて家を出ていってしまったことが原因だとわかります。ちなみに母親は、そのことに対して無反応・無関心を貫いています。 ―― 「でもそんなふうにじゃあお父さんが家に帰ってきても、何も無かったふうには暮らせないよ?凄い気まずくない?」 「別に気まずいとかどうでもいいって。何にも無かったみたいにならないことは俺も知ってるから。でもとにかく一緒にいるんだよ」 ―― 友徳はとにかく父親を家に戻すことに固執しますが、香緒里はそれが本当に今の家族にとっていいことなのか疑問を抱いています。姉弟ですでに温度差があるわけですが、しかし、ここで香緒里を本当に戸惑わせているのは、この友徳の「率直さ」です。 ―― え?何?姉弟だからってこんなふうに正直に、自分の気持ちとか考えとか、包み隠さないもんなの? 思ったこと全部言うべきものなの?言われたことも、本心だからってそのまま受け止めなきゃ駄目なの? ―― 香緒里は、自分の感情をストレートに吐き出す友徳を、羨ましいような、鬱陶しいような、疎ましいような目で眺めつつこう思います。 ―― 誰かの率直な、本心を剥き出しにした話は私を怯えさせる。 ―― そうです。 実は、誰も、誰かの「剥き出しの心」など求めてはいないのです。だってそれは、あまりにもリアルすぎて、リアクションが上手く取れないから。「リアクション」とは、「その場を上手く取り繕う方法」です。軽く受け止めて笑いを取る、とか、深入りしない程度に同情する、というふうに、その場をどうにかやり過ごす手段なのです。だって、いちいち全ての出来事に突っかかっていては、自分の生活を保てないから。僕たちは、無意識に、そういう「リアクション芸」を行って生きています。 でも、それだけではしのぎ切れない重大な出来事が、生きている以上、必ず起こります。 やがて高校生になった友徳は学校でいじめに遭います。 友徳は基本リア充イケメンキャラなので、本来いじめられるタイプではないのですが、学園のアイドル・三輪あかりと付き合ったものの色々あって別れたけど、向こうはまだ付き合いたいので、あかりのファンクラブの親衛隊みたいなサッカー部の連中にボコられるハメに、それもあかりの陰謀で……みたいなメロドラマ展開になってしまったからです。 香緒里はその話を、友徳の元カノ・塩中さんから聞くのですが、そもそも友徳があかりと別れたのも塩中さんのせいでは、みたいなこともほのめかされて、なんつーか、結論として「だる~~~~い!」と思います。 ―― 話の内容も複雑すぎるしそれをきっちり理解してるらしい塩中さんにも引く。 ―― その日の夜、二人は姉弟喧嘩をします。香緒里は友徳に、殴られたらやり返せ、と絡んでいき、友徳はそれを、暴力は嫌いだ、と受け流します。香緒里はそれに苛立ち、次第に口汚く、罵声を浴びせ始めます。「ふざけんなよてめえ!」「(……)飽きるまで待つってか!この野郎!仕返ししてこねえてめえの反応が面白くてやってんだ!やってもやっても飽きねえよ!」。ますますエスカレートしていき、ついには友徳を殴ります。 友徳は、かつてない執拗な姉の暴言と暴力にほとんど恐怖に近いものを感じ、つい反射的に姉の顔を蹴って、鼻血を流させてしまいます。少し長く引用しましょう。 ―― 「あはは」と私は止まらない鼻血を手の平で拭いながら笑う。「ごめんね、友徳、これ私、八つ当たりって言うか、戦いたい相手、間違えてたみたい。本当は……」あんたじゃなくてお父さんこそボコボコにしてやりたかったのかも、と言いかけて私は突然の羞恥に駆られ、いやいやそんなバカらしいほど単純な、いかにも《トラウマを抱えた子供》チックなキャラに自分を落とし込みたくないなどと反発しかけるけど、やめておく。 メタ的視点も大事だけれど、本当の姿を誤魔化すためにそれを用いて本来の自己に《そんな自分のこともお見通し、演技にすぎないんだから結局は》みたいなでっち上げの自己像をかぶせて真実を埋没させてしまってはならない。 私は堪える。踏みとどまる。 ―― すごく複雑な告白です。 一体、何を言っているのか? 友徳のいじめ、それをきっかけとした香緒里の「八つ当たり」は、実は浮気して家を出て行った父親への怒りの表れだった。 不在の父親の代わりに、弟を殴る。 そんな安直なドラマでいいの? 私って、そんな友徳みたいに単純なの? という恥ずかしさの膜がすぐに感情を覆い、すぐにそれを「あはは」というリアクションに変換して済まそうとした…… が! でも、その単純な私の怒りも、別に嘘じゃない。 そこに真実は確かにある。 安っぽいけど、それが「本当」なら、それを「率直に」表現すればいい。 だから、その「ベタさ」「陳腐さ」に、香緒里は勇気を出して、踏みとどまる。 こんな丁寧な思考回路の変遷が、かつて小説で描かれたことがあるでしょうか? * 自殺した女子生徒の遺族や友人が、メディアの前で発する正論は、おそらくなされなければならないことだし、必要なことなのでしょう。ただ、それで、その方々がカタルシス(感情の解放)を得られることはおそらくないはずです。それはきっと、香緒里が友徳を殴るというような、無様な形でしか表現され得ないし、伝えられないものですから。 そして、愛すべき母校で自殺者が出てしまったことを悼みつつ、確かにかつて僕もまた誰かの被害者であり、また別の誰かの加害者でもあったあの頃の未熟さを、この文章を書くことでいくらか浄化できればと思いました。 もちろん、事はそれほど単純ではないだろうけれど。 | ||||
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村上龍が第百四十二回芥川賞の選評にて、この作品を「物語そのものがつまらない」と評したのを思い出したが、そのとおり、この作品はつまらない。つまらない物語の中に、何か切実な世界観があるのかと思いきや、それも無し。ただ現代人の色恋沙汰を(多少独自の文体を使って、戯画化しているかもしれないが、)淡々と書くだけ。読ませる力に任せて、最後までちょっと思弁的なだけの、凡庸な女性の少女時代を書いただけである。 始めてこの作者の作品を読んだ私からすると、あれ、舞城王太郎って聞いた話と全然違ってつまらんぞ、とも思ってしまうが、往年の舞城ファンに言わせれば「舞城王太郎、次はコテコテ(?)の青春小説書いたのか」と、それはそれで話題にはなるのだろう。しかし、作品に於いて作者は如何なる読者にも常に平等でなくてはならないと思う。 この作品には「物語」という言葉が多用されているが、もしかすると何も起こらない(または起こせない)人間に「物語」はあるのかという現代人の不安を、わざと作品自体をつまらなくさせることで、作者は暗示したのではないか。この推論が断言できない理由は、やはり私が舞城王太郎作品を読むのが、これが初めてだからということか。つまり舞城王太郎の作品を読んでいる人間にはかなりお勧めできるかもしれない。 と、個人的には、最後に主人公が書いた「骨」という作品を舞城王太郎自身の言葉でちゃんと読みたかった。書いてくれないかな。 | ||||
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父親が浮気して家を出た後の母親と主人公:香緒里と弟:友徳の3人暮らしから始まり、香緒里が小学生のころから大学院を卒業して就職して1年経つまでの15年間ほどの話です。 特に、香緒里が高校3年生になり、弟の友徳が高校2年生の時、友徳の彼女問題が騒がしくなり、それが大学生になってもドロドロと続いていたものを香緒里が最後すっきり捌く「真っ当な意味で仲のいい姉弟の話」が、一応の軸になっていますが、並行して父と母と愛人の関係とか香緒里の恋愛もあります。その中で香緒里は人の心の動きをもっと知りたいと臨床心理士をめざします。本を読んで考えても自分の本質はこれだと言いきれなかった香緒里、カットは描けるが物語を繋げず漫画が描けない「創作できない私」だった香緒里、形式論での家族しか語れなかった香緒里は、いろいろ経験し、学んで、すらすらと短編小説が書け、一人一人の人生をはっきり見られる、自らを客観視できる厚みのある精神を持つように成長します。それでも「人それぞれであり、互いに認めあうから、個人の本質は変わったりしない」という香緒里の考えの通り、成長しても香緒里はやはり香緒里のままというところで嬉しくなりました。「地に足の着いた成長の可能性」を謳う小説としてとても素晴らしいと思います。 真面目だけれどひねくれた思考もする、時々突飛な行動を選ぶ、自分の思っていることと発言と行動が一致していないことを認知してその原因を冷静に探っている。こんな香緒里にはとても親近感を感じます。小説の主人公が良い人だとか会ってみたいとか友達になりたいと思うことはよく経験しますが、「この娘、俺じゃね」と思えるなんて記憶にありません。そういった個人的嬉しさも含めて★5つです。 | ||||
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