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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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1999年6月に行われたケルンサミットにおける米国大統領暗殺計画が本書のおけるメインテーマだ。この暗殺計画が作者の創作物か否かは判らないが、これをモチーフに女性暗殺者と物理学者の対決という図式を描き出した。
暗殺者は世界で一番厳重に警護されている人物の暗殺を依頼されたヤナことラウラ・フィドルフィ。表向きはIT企業ネウロネット社の若き女社長だ。しかし彼女は世界でも十本の指に入る凄腕のスナイパーだった。 彼女を雇うのはテロを生業にしているプロのテロリスト、ミルコ。 片や彼らテロリストを迎え撃つのはノーベル賞候補になっている物理学者リアム・オコナー。長身で誰もが振り返る容姿を持っていながら、頭の中は常に物理や化学のことにとり憑かれていて、突然奇行を始める危うさを持っている。 さらに彼のパートナーとしてオコナーの本をドイツで出版している会社に勤める広報係の女性キカ・ヴァーグナーがオコナーとのロマンスで本書に色を添える。 物語はPHASE1から4まで分かれており、PHASE1でまずミルコとヤナのテロリストのパートとオコナーのパートが交互に語られる。前者はプロの殺し屋の緊張感に満ち、また民族主義が抱える社会的問題なども交えて語られる重苦しい内容であり、後者はオコナーの奇行に振り回される出版社のキカとクーンの2人というコメディタッチの内容と陰と陽が交互する。 しかし注意が必要なのはこの2つの物語の時制が違うことだ。 テロリストのパートは1998年の12月から語られ、オコナーのパートは1999年の6月、ケルンサミットの開催日の前後から語られる。 つまり一方はテロを起こすゼロ時間へ向かい、もう一方はそのゼロ時間付近にいるのだ。最初はこの時制の違いに戸惑いを覚え、時制を混同することしばしばだった。導入部としてこの方式は物語世界に没入するのに支障になった。 この時間軸をずらして書かれるパートはPHASE1のみで後は暗殺計画とオコナーたちの身の回りに起こる出来事が並行して語られる。 読後の今、この手法が何の効果をもたらしたのかは解らない。単純に混乱を招いただけのように今は思う。 本書の帯に書かれていた惹句「女暗殺者VSノーベル賞級物理学者」という構図から想像されるのは緻密な暗殺計画を論理的思考にて解き明かすという天才的頭脳を駆使した計画の看破と駆け引きを期待したが、上巻の400ページを過ぎたあたりで解るのは、単純にアイルランド人である物理学者オコナーがかつて政治活動を一緒にしていた同僚をサミットの開催が明日に迫った空港で発見することからテロの疑惑が巻き起こるというものだった。 つまりこれだとテロリストの相手役は物理学者である必然性はないのだ。なんとも期待感を裏切るような展開だ。 しかし下巻の200ページあたりでどうにか期待外れ感は幾分か解消される。光を減速させる原理でノーベル賞候補になったオコナー、つまり光学の権威である彼だからこそテロリストの暗殺方法に気付くことが出来たという必然性が生まれる。 シェッツィングの小説はしばしば取り上げるテーマについてかなりのページを割いて語られるのが特徴だが、本書ではこの兵器の技術や専門知識についても相変わらず詳述される。それはあまりに専門過ぎて読者の理解度を考慮することなく、滔々と語られる。理解できない奴はついてこなくてもよいと云っているかのようだ。 またテロリストとの戦いを描いているがゆえに政治的問題についても語られる。彼は登場人物たちの口を借りて前世紀末から現在に至るまでのヨーロッパが抱える問題について様々な意見を述べている。 特に世間ではほとんど注目されないコソボ紛争について書かれているが、非常に主張が強すぎて読書の興を殺いでいるのが難点だ。 単なるスリルとサスペンスとアクションに満ちたエンタテインメントに留まらず、問題提起をして読者に何らかの意識を植え付けるという制作姿勢は買うものの、今回は逆に物語のスピード感を奪ってしまい、読む側にしてみれば退屈を強要してしまっているのが残念だ。 特に本書は果たしてこれだけのページを費やす必要があったのか、甚だ疑問だ。 とにかく無駄に長いと思わされるエピソードが多すぎるのだ。それぞれの政治的主張や主義を盛り込みつつ物語はクリントンやエリツィンら各国の政府要人が訪れるサミット当日、ゼロ時間へ向かっていくが回り道が多すぎて物語の加速度を減じている。特に主人公となるオコナーと彼の見張り役であるヒロインのキカ・ヴァーグナーの話が長すぎて辟易した。 そんな知識や薀蓄の中には非常に興味深いのもある。 例えば大統領のアドリブに対する周囲のスタッフの用意周到ぶりだ。よく芸能人がわがままで例えば冬に柿が食べたいので用意しろなどと無茶をいい、冬に柿を探してADが奔走するなんてシーンがあるが、大統領の側近たちともなると、あらゆる大統領の予期せぬリクエストや我侭を想定して準備をしておくというのだから恐れ入る。云うかもしれないし云わないかもしれないその我侭のために訪問先を事前にリサーチして、そこの主に大統領が来るかもしれないが他言しないようにと含み置きしておく。多分心理学のエキスパートもスタッフにいるだろうから出来るトラブルシューティングだ。 また本書では1999年当時の世界の首脳陣が実名で登場する。 英国のブレア首相、ロシアのエリツィン大統領にドイツのシュレーダー首相にフランスのシラク大統領。日本は小渕首相(懐かしい!)だ。そしてアメリカはクリントン大統領。 この中でも渦中の人物クリントン大統領に関しては小説の一登場人物として詳細に語られる。彼の性格や政治的手腕、当時彼が周囲の政治家にどのように思われていたのか。これがけっこう辛辣な内容を孕んでおり、作者は本人にあらかじめ許可をもらったのかと不安に駆られる部分があった。当時スキャンダルとされていたモニカ・ルインスキーとの情事についてもここでは語られるし、さらには彼の陰部に纏わる持病(ペロニー病という陰茎が極度に湾曲して勃起する病気)についても暴露される。既に20年近く前の出来事を今更蒸し返さないでもと思わんでもない。よく出版できたなぁと感心した。 しかし相変わらずの情報過多ぶりで引き算の出来ない作家だなぁというのが読後の感想だ。正直に云ってこの手の暗殺謀略物はストーリーは定型化されているので、後はどう語るかが鍵となる。 私の好きなバー=ゾウハーならばこの半分以下の分量でもっと起伏に富み、ミステリマインドに溢れた作品に仕上げてくれるだろう。 訳が悪いのかもしれないが、いまいち物語に没入できないところも相変わらずである。今回も残念ながら徒労感を覚える読書だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『眠れぬイヴのために』は追う者と追われる者の物語だったが本書もまたその構成は同じである。『眠れぬ~』では逃亡した精神分裂症患者をそれぞれの事情を抱えて複数の人物が追い求めるという構成だったが、本書も娘を監禁した誘拐犯がその離婚した両親、娘の元彼氏、娘の父親と親しい刑事に追われる物語になっている。
つまりこの2作は実に似通った作品だといえよう。 精神異常者が主要な登場人物として扱われていることもまた同じだ。『眠れぬイヴ~』では追跡者であるマイケル・ルーベックは精神分裂症患者だったが、本書では被誘拐者のミーガンが情緒不安定でセラピーを受ける人物になっている。 そして誘拐者で敵役のアーロン・マシューズもまた小さい頃に父親から虐待を受けており、神父でありながらも殺人を厭わない残忍さを兼ね備えている。 このアーロン・マシューズという敵役は実に凶悪で底知れぬ恐ろしさを兼ね備えた人物だ。十代の頃に父親を凌ぐ説教を行う神父の卵として数々の信者から篤い信仰を得、さらに独学で心理学の書物を読み漁って無免許のセラピストとして開業もしている。そのため無敵なまでの腕力を誇るわけではなく、相手の心理を読み取り、信頼感を抱かせる声音を使って、追跡者を出し抜き、あの世へ送るサイコキラーなのだ。どんな人間も心の弱いところを突かれると冷静さを失い、いつもの自分の実力の半分も出せなくなる。 アーロンは人が持っている心の弱い部分を探り、その隙を上手く突いて相手の一枚も二枚も上に行くのだ。通常の作品であれば残るべき登場人物が次々と一人、また一人と彼の手によって抹殺されていく。従来の連続殺人鬼のイメージを刷新するキャラクターだ。 そんな相手に対峙するのがかつて敏腕検事として鳴らしたミーガンの父テイト・コリア。彼はそのあまりに弁が立つため、その切れ味の鋭さからかつて陪審員を見事に誘導させて無罪の人間まで死刑にまで持っていった苦い過去を持つ。 つまり相手の心理を読み、説得し、納得させることに関しては一流の男なのだ。人間の情理を操る2人の男の対決が本書の読みどころだ。 しかしもっと掘り下げて考えてみると、無実の罪の男を死刑に追いやるほどの説得力を持つ検事もまた、乱暴な云い方をすればある意味殺人者と云えるだろう。 つまりテイト・コリアとアーロン・マシューズは表裏一体の存在なのだ。しかもお互いがお互いの正義に従ってそれを成しているところが共通している。 検事であったテイトは法の名の下、犯罪者を死刑にするため、弁舌を揮う。 牧師であったアーロンは神の名の下、信者が自ら死を選ぶよう、人の心を揺さぶる声音で導く。 それぞれが善を司る職業に従事しているだけにこれは怖い。 そしてこの類稀なる頭脳を持った人間同士の戦いという構図は後のリンカーン・ライムシリーズの萌芽を感じさせる。そういった意味では本書が後のディーヴァーマジックの源泉と云えるのかもしれない。 彼アーロンがなぜテイトの娘を誘拐し、生贄に捧げようとするのか?その理由は実はかなり前からエピソードとして読者の前に提示されている。 テイトが自らの弁舌で死刑に追いやった青年が実はアーロンの息子であったのだ。アーロンは息子の敵を取るため、神の言葉に従い、テイトの娘ミーガンを誘拐したのだった。 しかし彼は幼い頃から誰にも愛されなかった経験ゆえに、唯一の理解者で話し相手だった息子が恋人に取られてしまうのに焦燥感を持ち、彼の恋人を殺してしまう。その罪を数ある証拠から息子本人に被せてしまったという皮肉な過去があった。このことからも実に利己的な孤独な男としてアーロンが描かれているのが解る。 しかし本書は『眠れぬイヴのために』の冗長さを感じさせない物語巧者としてのストーリーテリングの上手さが光る。上にも書いたようにアーロンが次から次へ追っ手を葬り去る手際といい、セラピストとしてミーガンの両親であるベットとテイトに直接対峙する綱渡りさえも見せる演出といい、サスペンスの盛り上げ方の腕が上がったように感じた。 しかし不幸なことに本書はディーヴァーの名を日本の読者に知らしめた『静寂の叫び』の後に刊行されたため、さほど話題にならなかった。逆に云うと『静寂の叫び』を未読の私にとってどれほどの出来栄えなのかが実に愉しみではある。 さて本書の原題は“Speaking In Tongue”という。解説の児玉清氏によればこれは「神の言葉を話す」という意味のイディオムらしい。 実に物語の性質と言葉を駆使するアーロンとテイトという2人の人物を捉えている題名だ。しかしこれを上手い邦題に訳すのは難しいだろう。 確かに邦題が示すように「監禁」が主題なのだが、これではあまりに素っ気無さ過ぎる。もっといい題名を考えてほしかった。 しかし追う者と追われる者というプロットといい、悪役の設定、精神を病んだ人物が出てくるあたりといい、実にクーンツの匂いを感じてしまう。前にも述べたがこの売れない時期、ディーヴァーはベストセラー作家であるクーンツにあやかろうと彼の作品をつぶさに分析し、自家薬籠中の物としようとしていたのではないだろうか。 しかし既存作家の翳を感じるようではまだオリジナリティがあるとはいえない。ディーヴァーが現在ミステリシーンを代表する作家となったその瞬間に早く立ち会いたいと思う。 それはもうそんなに遠くは無いはずだ。 |
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クイーン版ミステリ歳時記後編。題名が示すように7月から12月に亘って起きた事件について綴られている。
7月は夏の暑いさなかに起こった「墜落した天使」。 エラリイが犯人を特定するのに7月の独立記念祭に使われる爆竹が手がかりとして挙げられる。 7月なければならなかったというほど強い根拠ではないが、アメリカの祭りの特徴が上手く事件に使われている。しかしクイーンのロジックを堪能するには弱いかな。 8月はある探検家から依頼が来る「針の目」だ。 財宝探しと殺人事件を絡めた意欲作。しかし前者の宝探しの暗号は読者の推理する時間を与えぬまま、エラリイはすぐさま看破してしまう。 そしてそれが依頼人エリックスンの懸念、姪と自分ら2人が姪の夫とその父によって殺されるのではないかという疑念を現実に変えてしまうという、2つを融合させた作品だが、エラリイのロジックが冴え渡るというよりも自分の推理をまくし立てるエラリイの舌先に乗せられたまま、事件は解決してしまったように感じ、ミステリのカタルシスを感じるとまでいかなかった。 しかし月長石は作中で語られるオウガスタス・シーザーの月、つまりは8月という記述の意味は解らなかった。月長石は6月の誕生石らしく、作中にも月長石は出てこないので、単純に8月に結びつけるアイテムやイベントが浮かばなかったのでクイーンが苦し紛れにこじつけたように感じた。この辺からもなんとなく坐りの悪さを感じる作品だ。 9月の事件「三つのR」はアメリカはミズーリ州にあるバーロウ大学で起きた。 9月は新学期が始まるということで、大学を舞台にした事件が扱われている。本編は『犯罪カレンダー<1月~6月>』に収録されたある作品と趣向は同じ。 10月のアメリカの祭りといえばハロウィン。「殺された猫」はハロウィンの最中に起きる殺人事件の話だ。 パーティの最中の殺人ゲームが本当の殺人に発展する。なんともありきたりな話ではある。 そしてエラリイはその当事者の一人なのに、暗闇でうたた寝をしてしまい、その瞬間を思い出せないという失態を演じてしまう。 話の演出としては実にオーソドックスだが、前半パーティに興じるエラリイとニッキイの2人で交わされる、散らかり放題の部屋の中であちこちに身体をぶつけ、難儀する会話が最後の犯人特定に大きな要因になるのは実に見事。こういうさりげない伏線というのに私は弱い。 しかしクイーンは最後の一行で犯人が判明する演出が本当に好きな作家である。その演出に拘るため最後のあたりはどうしても不自然に思えてしまう。 11月の行事といえば日本では馴染みのない感謝祭がある。「ものをいう壜」は感謝祭の前日に起きた事件だ。 感謝祭に纏わる話からインディアン―今ではネイティヴ・アメリカン―の話に及び、そこから発展してその子孫の働くレストランに至って、そこで麻薬密売の端緒に触れるという先の読めないストーリー。 本書でも触れられているが、この作品はチェスタトンのブラウン神父シリーズの中でも一、二を争う名作「見えない男」のオマージュである。 クイーンがなぜこの事件を11月のメインの行事、感謝祭の前日に設定したのかは最後の一行で判明する。この台詞をどう受け取るかで作者クイーンの評価が分かれるだろう。私はちょっとあざといなと感じた。 最後の12月はやっぱりクリスマス。「クリスマスと人形」はクリスマス・イヴに起きた盗難事件を扱っている。 なんと最後を飾るのはクイーンの手によるエラリイ対怪盗という頭脳対決。しかも本編に登場するコーマスは作中でも述べられているように、ルパンの継承者とも云える凄腕の怪盗だ。つまり本書はエラリイとルパンの対決譚と云ってもいいだろう。 前作『~カレンダー<1月~6月>』で久々に初期の知的ゲーム的面白さを堪能でき、本書においても同様の愉悦を期待したが、いささか失速感があるのは否めない。作品に瑞々しさがなく、作者クイーンの息切れが行間から聞こえてきそうだ。 本書でも前作同様、それぞれの月に関係して事件が起こるが、本書では一部こじつけめいたものを感じた。 まず7月に起きた事件を扱った「墜落した天使」では独立記念祭に使われる爆竹がエラリイに犯人のトリックを看破する手がかりとなっているのはよい。 しかしその次の8月の「針の目」は月長石がオウガスタス・シーザーの月だから殺人が起こるというはいささか無理を感じる。月長石は6月の誕生石の1つだし、おまけに月長石は作中には出てこないのだから、なんとも苦しい。 9月は新学期ということもあって「三つのR」では舞台が大学内となっている。10、11、12月の短編「殺された猫」、「ものをいう壜」、「クリスマスと人形」はそれぞれアメリカで有名な行事であるハロウィン、感謝祭、クリスマスがテーマだ。その中でも「ものをいう壜」は感謝祭そのものよりも最後の一行の台詞のみそれを感じさせるのだが。 そしてこの両短編集は趣向的、内容的にも対を成しているように感じた。 それぞれの短編が発表された年はまちまちであり、恐らく1月から順番に発表されたものではないだろうが、後半の本書は前半の作品を下敷きにした発展型のように感じた。しかしそのためにシンプルさに欠けており、ロジックの妙を前半よりは楽しめなかった。 あえて個人的ベストを挙げるとすると「殺された猫」か。クイーン作品の特徴であるストーリーに溶け込ませた何気ない描写が最後に犯人特定のロジックの決め手となるという趣向があるが(例えば『Zの悲劇』の死刑執行シーン)、これはそれを堪能できる作品。まさか散らかり放題の部屋でエラリイとニッキイがあちこちにぶつけ、文句を云い募るスラップスティック的なシーンが推理の材料になるとは思わなかった。こういう無駄のない作品を読むと本格ミステリの美しさを感じる。 しかし上にも書いたようにミステリの趣向としては『~<1月~6月>』の各編に類似しているため、二度同じような話を舞台を変えて読まされたと感じてしまった。評価の星の数は一緒だが、こちらは7ツ星の下というべき位置づけ。 クイーンが意外とヴァリエーションのないことに気付かされた、ちょっと寂しい読後感だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はある家で何が起きたのかを残された手がかりで解き明かす男女2人の物語。しかしその家には女性の失われた過去が関係している陰惨な事件が隠されていた。
一枚一枚皮を捲るかのように散りばめられた手がかりによって次第にその家で何が起こったのかが明かされていく。その過程は非常にスリリングだ。 読書というものは不思議なもので、こちらが意図していないのに同じようなテーマを扱った作品を続けて読む、そんな不思議なことがよくある。まるで神の導きによって吸い寄せられているかのような錯覚を覚える。 本書もそんな奇縁を感じることがあった。というのもこの前に読んだ篠田氏の『原罪の庭』で取り上げられていた幼児虐待がテーマとして扱われているからだ。 虐待はそれをする親が過去に虐待をされていた経験を持つという負の連鎖から沙也加は自分が実の娘に虐待めいた酷い仕打ちをするのは自分も虐待の経験があるのではないかと疑い、自分が小学校以前の記憶が一切ないことに愕然とし、その記憶を辿るために亡き父が残した地図に示された場所に向かうというのが本書の発端だ。 以前も書いたがこの90年代というのは“自分探し”というのが一つのブームになった時期でもある。 “自分探し”というのは文字通り自身の足跡を辿り、自分がどんな人間なのかを探ることも指すし、心理テストを行い、自分の願望や性格をその結果から客観的に知るという手法もまた自分探しの一環であった。当時『それいけ!!ココロジー』に代表される心理ゲームの番組が非常に流行っていた。 そして東野氏もこの頃人間の心をテーマにした謎に関心があり、『宿命』、『変身』、『分身』など人間の心理もしくは人間そのものの存在をテーマにした作品を著している。 本書はその一連の作品群の中の1つといってもいいだろう。 しかし失われた記憶を取り戻した暁には常に苦い思い出だけが残る。知らないままにしておいた方がいいこともある、一連の作品で東野氏はアンチミステリとも取れる宣言をしているかのように思える。 なんとも謎めいた題名『むかし僕が死んだ家』。 アイリッシュに「わたしが死んだ夜」という短編があったが、あれに比肩する魅力的な題名だ。 しかしこの内容はロジックで得心するものではなく、感情に訴える観念的な意味が込められている。 成長する過程で誰もが何かを失っていく。それは知らないでおればよかったものとも云える。 本書を読み終わったとき、結城昌治氏の『幻の殺意』を思い浮かべた。今まで生きてきた人生とはなんとも危ういバランスで成り立っており、それは一種の幻のようなものなのかもしれないとその作品では語られているが、本書の底に流れるメッセージも共通している。 今までの作品でも東野氏の作品は読後何か苦いものを残していたが、本書ではそれがいっそう濃く感じた。感情の層のもっと深いところにある部分をテーマに持ち出した作品、そんな風に感じた。 300ページ足らずの佳作だが、心に残る思いは思いの外、苦かった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『灰色の砦』は栗山満春と桜井京介との邂逅の話だったが、今回はシリーズ当初から謎にされていた蒼と京介との邂逅が語られる。本書で蒼の本名がようやく明らかになるわけだ。
そしてこの蒼と桜井との邂逅の話をもってシリーズの第一部終了となる。 その事件が薬師寺事件。それは1986年白金の薬師寺家の温室で起きた陰惨な虐殺事件だった。 薬師寺静とその妻みちる、そして静の連れ子深堂華乃が天井から逆さまに潰され、それぞれ人相も判らぬほどの惨たらしく傷つけられ、さらに館の主人美杜みすずは寝室で睡眠薬過剰摂取で死んでいた。そして温室には香澄が骨董品のチェストに1週間閉じ込められており、手にはみすずが飲んだ睡眠薬と同じ薬品が握られていた。温室内は被害者達の血で塗り立てられ、ガラスについた血の手形や足跡は子供のそれしか残されていなかった。つまり全ての状況は薬師寺香澄が犯人であることを指していた。 この薬師寺香澄が後の蒼となるわけだが、彼にこれほどまでに過酷な過去があったとは思わなかった。事件のショックで言葉を失った彼がいかにして蒼となるのかが本書では語られる。 また有名な建築が作品の舞台、モチーフとなるのがこのシリーズの売りだが、今回は英国王立キュー・ガーデンにあるガラス張りの温室パームハウスを模した美杜邸の温室が惨劇の舞台となっている。 しかし本書では温室内で起きた4名もの被害者と一人の幼き生存者との間で何が起こったのかが焦点となっており、その建築的特徴が前面的に出るわけでない。 本書でテーマになっているのが幼児虐待。 今ではもう一般的になったが単なる暴力による虐待のみでなく、上手く愛情表現が出来ない親の体罰が実は虐待なのだということ。またネグレクトという育児放棄などが語られる。 特に蒼が経験した虐待はそれらをひっくるめた虐待のフルコースといったような感じだ。親の経営する病院で親の息の掛かった医者達に自閉症と診断され、学校に就業するのは不可能とされて自宅での監禁生活を強いられ、愛し方の解らない母親に虐待と同義の扱いをされていた。 蒼という人物に厚みを与えるためとはいえ、よくもまあ、これだけの仕打ちを考え、詰め込んだものだ。 しかしそんな篠田氏は折に触れ推理小説批判とも取れる発言を登場人物にさせており、本書でもそれは見られる。 今回は顔をズタズタにされた死体が出てくるが、本格ミステリでよく用いられる入れ替わりトリックについて案外辛辣に批判している。現代の検屍技術が発達した現代では顔を潰したり、指紋を焼いたりしただけではごまかせたりしないと述べている。 篠田氏のミステリに対するスタンスは斯様に建築探偵という建築物に込められた関係者の思いを推理する探偵を配し、それに纏わる殺人事件はその過程で解かれるという、本来謎の焦点となるべく対象を微妙にずらしていたりと、他の本格ミステリ作家と比べると一歩引いた冷めた視座に位置しているように思える。それがゆえに謎解きのレベルとしてはいささか低く感じるのが仇になっている。 つまり篠田氏が書きたい建築物に絡めた物語を語るのに、本格ミステリという手法が最も適していた、そんな風に思える。 従ってミステリに対して他の作家ほど知識が浅薄なのか、そのため迂闊な記述があるようだ。 例えば本書では第一容疑者である香澄を二重人格者と神代教授が疑うことについて、京介がいまどき多重人格というネタは今では古臭い手だと一蹴する場面があるが、作中の時代は主題である薬師寺家事件が起きた1986年の3年後の1989年である。 巷間で多重人格者が話題となるきっかけとなったダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』が訳出されたのが1992年。つまり作中年よりも3年も後のことで、この作品以降多重人格物がドラマ、映画、小説、ノンフィクション、マンガなどあらゆるメディアで取り上げられるようになった。この記述は篠田氏の明らかな調査不足であろう。文庫化の際にこれは修正してほしかった。 篠田氏の作品の結末はいつも苦い物が残る。それは登場人物たちが自虐的なまでに自己犠牲精神が強いからだ。 本書でもそんな人間達が揃っているし、何しろ探偵役の桜井京介が自己犠牲的であり、破滅型思考の持ち主だ。 本書は桜井の意味深なメッセージで物語が閉じられる。このシリーズの先行きはある不幸に向かっていくようだ。決して明るくないであろうその前途に魅了される物を感じるからこそファンがいるのだろう。 あいにくと私はそこまでこの世界に耽溺できないが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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クーンツの手によるフランケンシュタイン譚。
メアリー・シェリーのオリジナルをリメイクするのではなく、彼女が生み出したフランケンシュタインが実は現実の産物であり、その人造人間、そして創造主であるフランケンシュタイン博士が今なお21世紀の世に生きているというパスティーシュになっている。 正直に云って、最初は全く期待していなかった。今更フランケンシュタイン?クーンツも他の作家からアイデアを拝借するなんて衰えたか? そんな侮りめいた先入観を抱いたが、読後の今、己の不明を恥じる思いで一杯だ。 これは面白い! 最近読んだクーンツで面白かったのはオッド・トーマスシリーズの第1作だったが、本書はそれに次ぐ面白さと云えるだろう。 メアリー・シェリーが創造したフランケンシュタインを換骨奪胎してクーンツなりのアレンジを加えて、世界観を広げていることに感服した。 まず原典では愚かな犠牲者とされているフランケンシュタイン博士、そして怪物とされている人造人間の価値観、役割を180度転換させているのがミソだろう。 フランケンシュタイン博士ことヴィクター・ヘリオスは現代まで生き残り、世間では実業家として名を馳せているが、実は自らが生み出した完璧な人類、新人種による新世界の創造を夢見ており、近い将来全ての人間を新人種に変換して理想社会を作らんと画策している。 一方彼によって生み出された忌まわしい怪物はデュカリオンと名を変え、200年もの間、知識と人間の文化、宗教を学び、逆に人間という存在に敬意を払うまでに改心している。 つまり悪玉と善玉が逆転しているのだ。 さらにヴィクターは200年の間に蓄積した知識で新人種と呼ぶ人間をしのぐ身体能力を持ち、感情を制御し、ヴィクターに従順である存在を多く生み出し、人間社会に溶け込ましていた。 通常ならばこの新人種対人間+デュカリオンという二極対立の構図を描くのがセオリーだが、クーンツはさらにヴィクターが生み出した新人種たちが自らの生き方に疑問を持ち、本来逆らうことが出来ないようにプログラミングされているのにもかかわらず、創造主たる博士に叛旗を翻すという、もう1つの敵を設定した。 これにより物語に幅が広がり、様々なドラマを生み出す効果が生まれた。 作者によればこのシリーズは三部作になるとのことだが、解説によれば5巻目が近日中に本土アメリカで刊行されるとのこと。従ってもう1つのシリーズ、オッド・トーマスとは違い、本書で起きた事件や出来事のいくつかは完結せずに本書以降に持ち越される。 例えばカースンの自閉症の息子アーニーの幸せそうな笑顔を見て、なぜ彼がそんな幸せなのか秘訣を知りたいと思い、彼と逢うことを決意し、ヴィクターの研究所を脱走する。 また神父として人間社会に送り込まれた新人種パトリック・デュケインは神への信仰を重ねることで、ヴィクターに逆らえないプログラムを凌ぐことに成功する。 そして本書における悪役である新人種の警官ジョナサン・ハーカー。彼は誰も愛せない新人種の特徴に絶望し、その孤独を癒すために幸せを追求するが、次第に彼の内部に何かが生まれ、やがてその存在が彼を支配し、生まれた新たな生命はいずこへと消えてしまう。 これらが今後の物語でどのように物語に関っていくのか、非常に興味深いところだ。 また本書で最も印象に残ったキャラクターは連続殺人鬼ロイ・プリボーだ。 彼は完璧な女性を求めて、理想のパーツを持つ女性を殺し、そのパーツを切除して冷蔵庫に保管して愛でる精神異常者だが、この設定を読んで思い出したのが2つある。 1つは島田荘司氏の『占星術殺人事件』で出てくるアゾートだ。これは美しい女性のパーツを組み合わせて生み出された完璧な美女のことで全く同じだ。 しかしそれよりも強く思い出したのは荒木飛呂彦氏の『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部に出てくる吉良吉影だ。日本の漫画は数多く海外へ輸出されているが、まさかクーンツがジョジョを読んでいたとは思えない。しかしよく似た人物設定だ。 しかし2000年代になって、なぜアメリカモダンホラー界の大御所のクーンツが今更ながらにオッド・トーマスや本作のフランケンシュタインといったシリーズ物を手がけることになったのだろうか? 確かに最近のノンシリーズは似たような設定をキャラクターと場面を変えて語っていただけのマンネリ感はあった。それを打開する為のシリーズ作品の創作なのだろうか? しかしオッド・トーマスシリーズが主人公オッドの一人称叙述で彼の考えや感じ方を逐一細かく叙述しているがために饒舌になり、1章の分量も多いのに対し、本書は三人称叙述で1つ1つの章が10ページに満たなく、中には2ページという短さで語られることから非常にテンポ良く物語が展開しているのが今までのクーンツ作品では見られなかった特徴だ。これが映画のカメラの切り替えを思わせ、非常に小気味よく物語が進むのも心地よい。 何より、最近のクーンツ作品で見られた陰鬱になる現代社会の抱える異常な家族環境のエピソードや説教くさい警句が極力抑えられているのが本書のスピード感を醸し出し、エンタテインメント性を高めている。 全くノーマークだった本書が予想外に面白かったのは収穫だ。クーンツ未だに枯れず。版元には一刻も早く次作の訳出を願う。 |
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ジェフリー・ディーヴァー自身が作家生活の転機となった作品と評したのが本書。精神病院を抜け出した患者マイケル・ルーベックの逃走とそれを追う者たち、そしてマイケルを恐れる者たちの三者三様の物語。
追う者と追われる者という設定から往年のクーンツ作品を思い出した。 邪教集団トワイライトの襲撃』、『ウォッチャーズ』など彼の傑作はこの手の作品が多い。従って本書もその出来栄えを期待したが、それらと比べるといささか劣るというのが正直な感想。その先入観だけでなく、本書は随所に「クーンツらしさ」というのがそこここに見られる。 最も顕著な特徴が上に書いた逃走する者とそれを追う者の二極構造を描いたロード・サスペンス的物語構成であるが、それ以外にも敵役であるマイケル・ルーベックの造形。巨躯で怪力を誇り、精神分裂症にもかかわらず、機転で追っ手を撒くしたたかさを持っている。 またルーベックを追う者のうち、元警官のトレントン・ヘックは犬を飼っており、このエイミールという犬に絶大なる信頼を持っている。彼がエイミールを飼うに至ったエピソードは警察犬のブリーダーとしての知識を得られると共に、恐らくほとんどのブリーダーが抱いている思いをも代弁しているかのようだ。 この犬が物語のアクセントになっているのもクーンツ色を感じる。そう、まるでクーンツが著した『ベストセラー小説の書き方』をテキストにして書いたような錯覚を受けた。 ただ違うのはクーンツの敵役はこの上もなく強大な力を持ち、残忍で己のルールに従い、何者も寄せ付けない圧倒的な強さが強調され、主人公は果たして助かるのか?とハッピーエンドで終わることを予想しながらも読者は今度こそはダメなんじゃないか?と思わさせられるが、ディーヴァーの描くルーベックは精神分裂症で実はかなり臆病であり、リズに逢う目的のためにそれらをどうにか克服していこうとする。つまり敵役としてはさほど脅威ではなく、寧ろ社会的弱者ですらあるのだ。これがディーヴァーの味付けだろう。 さてこの追われる者、追う者、そして恐れる者それぞれに事情があるのは物語の定石だ。 追われる者、マイケル・ルーベックはインディアン・リープ事件で逮捕された犯罪者だ。彼は精神分裂症患者としてマーズデン州立精神病院に収容されていたが、そこを脱走し、追っ手を狡猾な知恵でまき、時には巨躯から繰り出す腕力でなぎ倒す。 追う者たち、精神科医リチャード・コーラー、元警官トレントン・ヘック、弁護士オーエン・アチスン。彼らはそれぞれの事情でルーベックを追う。 コーラーはルーベックの担当医であり、彼を保護し、被害が拡大する前に捕らえて病院へ戻そうとする。 ヘックは病院から提示された1万ドルの賞金を元手に別れた妻ジルとよりを戻すことを求めて彼を追う。 しかし次第にその目的も変容していく。オーエンは妻リズをルーベックの魔の手から守るべくルーベックを仕留めんがために彼を追う。 恐れる者、リズ・アチスンとルーベックを繋ぎ合わせているのは彼女がルーベックの裁判で証言したインディアン・リープ事件だ。このインディアン・リープ事件が何なのか?この真相はずっと引っ張られる。 さらにマイケルが唱える“イヴ”とは何なのか? まず物語のキーとなるインディアン・リープ事件だが、これは上巻から下巻に渡る中間部でその内容が語られる。 それはリズとオーエン夫妻が当時近所付合いをしていたギレスピー夫妻とリズの教え子のクレア、そしてリズの妹ポーシャと共にインディアン・リープへピクニックに行った際に起きた忌まわしい事件のことだ。 彼らはそこでロバート・ギレスピーとクレアを洞窟の中で亡くすという惨劇に出くわし、そこの現場にいたのが当時放浪中の身であったルーベックだった。そしてリズは裁判でルーベックが有罪となる証言をし、精神疾患を鑑定されたことでルーベックはマーズデン州の精神病院に収監されたのだった。 しかしこの物語の反転はディーヴァーにしてはなんとも普通な感じがして仕方がない。ページの手を止めるような驚きもなく、なるほどねのレベルで終わってしまった。 冒頭にも書いたがディーヴァー自身が作者人生の転機となった作品と述べたことで期待値を高くして望んだが、その出来栄えは凡百のミステリと変わらず、寧ろそれまでのディーヴァーの作品の中にもっと光るものがあったように感じた。 次の作品にディーヴァーマジックを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーン版ミステリ歳時記ともいうべき短編集。本書は1~6月までの事件が収録されている。
まず先鋒を切るのは「双面神クラブの秘密」。 ミッシングリンク物でミステリの興趣をそそる内容。即ち秘密クラブのメンバーの各人に共通する鍵があるというものだが、これを解き明かすのは日本人には辛いものがある。しかし知的パズルゲームとして純粋に面白い作品だ。 次の「大統領の5セント貨」は収集家がエラリイの許へと集まる奇妙な幕開けから始まる。 これも非常にアクロバティックな論理展開が面白い作品だが、推理の鍵となるのがやはりアメリカの歴史とジョージ・ワシントンの性癖という日本人には解りにくい鍵だったのが残念。 3月は「マイケル・マグーンの凶月」だ。 事件の真相よりもこの作品には当時アメリカミステリシーンで台頭していたハードボイルドを揶揄する表現が多々出ているのが読みどころ。 チャンドラーしかり『マルタの鷹』しかり。 マイケル・マグーンは彼らが描く私立探偵の流れに沿う人物として書かれているが、ダサい服装に冴えない風貌と、読者の幻想を打ち砕く容貌である。そして彼がエラリイ・クイーンの許へ事件解決の依頼に来るという展開はハードボイルド探偵ではパズラーは解けないとあからさまに云っているように思えた。 次の「皇帝のダイス」は最後に至ってなるほど、4月の物語だと思わせさせられる。 これは最後の一行の為の作品。 恐らくカーが得意とするオカルト趣味的本格ミステリを目指した作者がこの頃ミステリシーンを席巻していたハードボイルド小説におけるリアリティについて最後の最後で意識が芽生え、このような結末になったのではないかと勘ぐってしまう。 5月の最終月曜日は南北戦争の戦没将兵記念日。従ってそれに関係する「ゲティスバーグのラッパ」がこの月のお話。 クリスティの『ABC殺人事件』から着想を得たのではないかと思われる作品。 アトウェル(A)、ビゲロー(B)、チェイス(C)の3人の関係は南北戦争の生き残り。そして彼らには隠した財宝があり、最後の生き残りがその全てを手に入れることが出来る。最初に死んだのはA、次に死んだのはC、最後に死んだのはBとこの順序がエラリイの推理の鍵になるのだが、ここではさらに捻りが加えられている。 作品の雰囲気、最後のロジックはなんだかチェスタトンを思い起こさせる。 6月といえば梅雨を思い浮かべるが、それは日本だけの話。西洋ではそんな陰鬱なイメージではなく、華やかなイベントがある。ジューン・ブライド。本書最後を飾る「くすり指の秘密」は結婚に纏わる悲劇が語られる。 シンプル・イズ・ベスト。 たった一言、しかも正に誰もが気付いたであろうある事実が見えない犯人の靄を晴らすロジックの冴え亘る作品。 クイーンのいるところ犯罪有り。本書は1年を通じてその月に起きた事件を綴った短編集。各編はその月の出来事に関連している。 1月の「双面神クラブの秘密」は大学の年次会が行われる1月1日(これはアメリカの大学ならば通例なのかは判らないが)。 2月の「大統領の5セント貨」はワシントンの誕生日があることからワシントンに纏わるお話が。 3月の「マイケル・マグーンの凶月」は確定申告の〆切で申告書を盗まれた探偵の依頼が。 4月の「皇帝のダイス」は最後の最後でその基となるあるイベントが明らかにされる。 そして5月の「ゲティスバーグのラッパ」は南北戦争の戦没将兵記念日、6月の「くすり指の秘密」はジューン・ブライダル、といった具合だ。 月ごとの特色が十分にプロットに活用されているかといえばそうとは云えない。寧ろ各月の記念日や祝日、そして由来をアイデアのヒントに物語と綴ったという色が濃い。プロットと有機的に組み合わさっているのは「皇帝のダイス」ぐらいか。 しかしなんといっても本書ではクイーン初期のロジック重視のパズラーの面白さが味わえるのが最大の読みどころ。それぞれ50~60ページという分量で語られるそれぞれの事件は無駄がなく、作品もロジックに特化された内容で引き締まっている。 さらにニッキイ・ポーターとエラリイのコンビが楽しめるのが一番の読みどころ。シリーズのコメディエンヌとも云えるニッキイとエラリイのやり取りは読書の絶妙なスパイスとなってクイクイ読まされてしまう。 しかしニッキイはどうやら短編のみの助手らしい。長編でも出てくれればいいのだが、後期クイーンシリーズのシリアスさには合わないのかもしれない。ニッキイのお陰で短編は実に明るい雰囲気で読める。 後期クイーンの探偵の存在意義が触れられるのは最後の「くすり指の秘密」ぐらいか。この作品はロジックの美しさといい、この結末といい、個人的ベストだ。 次点ではチェスタトン風の雰囲気とクリスティ的論理が融合した「ゲティスバーグのラッパ」を上げる。 他に緻密なエラリイのロジックを楽しめるのは「大統領の5セント貨」だが、これは数学の公式を解くような精緻さとあまり日本人に馴染みのないアメリカ初代大統領のエピソードが鍵となっているので、純粋にそのロジックの美しさを楽しめないのが玉に瑕。 ここに収められた6編にはクイーンとしか云えないロジック重視の作品もありつつ、カーを髣髴させるオカルト趣味的な作品に、隔絶された社会での事件というチェスタトン的な独特な雰囲気の物、さらにクリスティ的な論理の妙を楽しめる作品とヴァリエーションに富んでいるように感じた。 これは1945年に創立されたアメリカ探偵作家クラブがクイーンの作品に影響を与えているように思う。今までダネイとリー2人のアイデアで作られていた作品に、クラブの創設で他の作家との交流が深まり、お互い刺激しあうことでアイデアの幅が広がり、作風にも他作家の影響が出てきたのではないだろうか? 奥付を見ると収録作が発表されたのは1946年以降だからこの推察はあながち間違いではないだろう。 しかしクイーンは短編でも面白い。「くすり指の秘密」クラスの作品があと2作収録されていれば文句なし星10を進呈しただろう。 残りの7月~12月の作品が愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名が示すように主人公が出くわす「怪しい人びと」が織り成す奇妙な事件を綴った短編集。
「寝ていた女」は会社の同僚たちにホテル代わりに小遣い稼ぎで自分の部屋を貸すことにした男がある日家に帰ると寝床に女が寝ていて、その女が誰が相手だったか解らないから調べて欲しいと奇妙なお願いをされる、というもの。 本編でも語られているが、往年のハリウッド映画『アパートの鍵貸します』をモチーフにした作品で、東野氏らしい着想の妙が光る。温故知新の好例ともいえる作品で、小遣い稼ぎの部屋貸しが犯罪に利用されることになるとは実に上手い。なんか実際ありそうな話だ。 次の「もう一度コールしてくれ」は老人宅に強盗に押し入った2人組のうちの一人がある家に隠れる。その家主には過去に因縁があって・・・という話。 なかなか語り手の男が南波勝久なる男の家に強盗の逃亡中に押し入った意図が解らず、暗中模索しながら読んでいたが、過去の2人の因縁というのが予想外の物。 人生を分けた試合の判定の真実も実に考え抜かれており、なかなか読ませる。 非常に親近感を覚えたのが「死んだら働けない」。 工場内で起こる密室殺人。私自身工場勤務をしていただけに非常に臨場感と現場の雰囲気、そして登場人物の心情が判る作品だ。なんだか他人事とは思えない作品だった。 「甘いはずなのに」は新婚旅行でハワイに向かう夫婦の話。 女性の、愛する者に信じてもらえない哀しさが作品に深みを与えていると思う。 「灯台にて」は幼馴染2人が学生旅行の時に持ったある秘密の話。 優越感と劣等感を持つ友人2人というシチュエーションは『宿命』などで東野の得意とする設定なのだが、劣等感を持つ側が相手を見返そうとすることで生まれる事件というのは面白い。 東北の日本海にある灯台で灯台守に泊まるよう強要された主人公が陥る状況は容易に解るが、これにライバルを加えたのがミソ。正に2人だけの墓まで持っていくべき秘密だ。 「結婚報告」はかつての友人から送られてきた結婚報告の手紙が意外な展開を見せる。 同封された写真の顔が友人の顔を違うとなれば整形かと思うが、東野氏はそんな安直な方法を取らない。しかしちょっと書き流したような作品だ。 最後は唯一外国を舞台にした「コスタリカの雨は冷たい」。 これは舞台をコスタリカなど発展途上国にしたことで説得力が増す真相だ。しかし一見海外旅行中の災難を書いただけのような作品の中に強盗事件の周到な手がかりと意外な犯人を持ってくるあたりに東野圭吾氏のミステリマインドを感じる。 過去の東野作品を匂わすようなテイストを盛り込んだ短編集で収録された作品はよくよく気づいてみると1編を除いて全て一人称叙述の作品だ。つまり主人公の視点で語られている。事件に巻き込まれた人物が抱える心理状態や違和感が主体となっている。つまり短編集の題名である「怪しい人びと」とは主人公を取り巻く人たちなのだ。 しかし本書で語られる事件そのものに目新しさはないだろう。これぞ東野圭吾だ!と快哉を叫ぶような大トリックやどんでん返しがあるわけではない。 しかし明らかになる事件に関係する人それぞれの心の持ちように東野氏ならではのエッセンスが込められているのだ。 「寝ていた女」の犯人の本性、「もう一度コールしてくれ」の元審判南波の昭和人間的厳格さ、「死んだら働けない」のワーカホリック係長に辟易する犯人の心理、「甘いはずなのに」の容疑者が本当のことをあえて云わない心持ち、「灯台にて」の幼馴染の主人公二人の精神的優劣性がもたらした事件といったように謎の真相に至った心理の綾が読みどころだといえる。 個人的ベストは「灯台にて」。このブラックなテイストと読後感はなかなかいい。ある筋からの話によれば、なんと経験談とのこと。迫真性があるわけだ。 そして工場勤めの経験ある私の主観を交えて「死んだら働けない」が次点となる。また「甘いはずなのに」も印象に残った。 しかし軽めの短編集であることには間違いなく、加えて東野の読みやすい文体もあって、印象に残りにくい作品になっている。物語の世界に引き込む着想と展開は素晴らしく完成度が高いだけになんともその辺が惜しいと思う。 出張の新幹線の車中で暇つぶしに読むのにもってこいのキオスクミステリだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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4篇の中短編からなる作品集。
まず表題作は哀しい天才スウィマーの末路を描いた物語。 なんとも哀しい物語だ。アディーノ・シルヴァという、若き天才スウィマーの栄光を極めた彼女がその輝きを見る間に失い、凋落していくさまが非常に哀しい。 特に彼女が性欲過剰で何もせずともエクスタシーに達し、時と場所を選ばず醜態を晒すのがPSAS(持続性性喚起症候群)という病気であったことが近代になって認知され始めただけに当時ロボトミー手術を施されたのが哀しい。このアディーノは作者の創作だが、末尾に添えられた作者自身の解説によれば昭和の時代に実際に手術を施された桜庭章司氏が実在のモデルとのこと。 そして今までの島田氏ならばこの国民的ヒロインの奇行の内容を大脳生理学などの学術的分野の見地から紐解いていくことがミステリとしての主眼だったのが、本書ではさらに加味して、同日同時刻に同じ銃で遠く離れた人物が殺されるという魅力的な謎を提供してくれる。 しかしこれはヒントが十分散りばめられているのでトリックは解った。謎自体は難しくはないが、日常風景から魅力的な謎を創出する島田氏の奇想を評価したい。 続く「人魚兵器」は御手洗潔ならぬキヨシ・ミタライが登場する第二次大戦の戦争秘話。 その題名から内容は容易に想像がつくだろうが、これは第二次大戦時に数多の実験をしたドイツの人体実験を語るものだ。 コペンハーゲンの人魚像を端緒にして人魚のミイラから人魚のような生物へと人魚を軸に移り行く物語の行く末は人間とイルカの混合種を創り、人魚兵器として爆弾を抱かせて敵艦へ激突させる作戦の構想があったというものだ。 恐らくこれは作者の創造だと思われるが、人体実験云々は恐らく本当だろう。ユダヤ人を実験体として人非人的実験を繰り返したナチスの人智を超える残虐さには改めて身の毛がよだつ。 3作目は「耳の光る児」。 耳の光る子供という一種SF小説になりそうな題材をミステリの対象として扱う島田氏の着想の妙に感心した。この謎も合理的に解かれるが、遺伝子工学という専門的な知識を要するため、読者はキヨシが開陳する知識に従うしかない。知的好奇心くすぐられる内容だが、少しは読者が推理する余地が欲しかった。 最後の一編「海と毒薬」はミステリではなく、石岡が御手洗に宛てた手紙という体裁を取った、あるファンの話だ。 ファンレターの主は看護師の女性。O市の看護短大に通っていた時に助けた轢き逃げの被害者との悲恋の顛末とその哀しみでどん底まで落ちた人生から立ち上がる契機となったのが『異邦の騎士』のお陰だと手紙には綴られている。 島田氏特有の哀愁漂う話で物語的には特別なものはない。本書が刊行された時期の島田氏は物語の復興を唱えており、『最後の一球』、『光る鶴』など社会的弱者への暖かい眼差しを感じさせる作品を著しており、本編もその流れの1つと云えるだろう。 題名は遠藤周作の名作と一緒だが、こちらは劇薬である硫酸Dの澄み渡るような碧さを海のそれに喩えたことに由来する。しかもその海は適わぬ恋となった男性といつか2人で行く約束を交わしたモルディブの海だ。 しかし改めて『異邦の騎士』は島田にとって本当に大切な作品なのだなと感じる。本書以外にもこれまでに『御手洗潔のメロディ』収録の「さらば遠き光」、『最後のディナー』収録の「里美上京」にも語られる。横浜の変貌とシンクロするかのように折に触れ語られるようだ。まあ、作中筆者である石岡にとって忘れられぬ事件であるのだから仕方はないのだけれど。 世界を舞台にしたミステリ短編集とでも云おうか。番外編とも云うべき「海と毒薬」を除いて1作目の表題作はポルトガルのリスボン、2作目の「人魚兵器」はドイツのベルリン、3作目の「耳光る児」ではウクライナのドニエプロペトロフスクが主要な舞台となっており、それ以外にもコペンハーゲン、ウプサラ、ワルシャワ、モスクワ、シンフェロポリ、サマルカンドも舞台となっており、短編という枚数からすればこの舞台の多彩さは異例とも云えるだろう。 作者の意図は世界で活躍する御手洗潔を描きたかったのではないだろうか。 また本書で実際の主人公を務めるのは必ずしも御手洗ではない。2,3作では御手洗の活躍が伝聞的に語られるが、表題作では彼のウプサラ大学の同僚ハインリッヒ・フォン・シュタインオルトが謎を解き明かす。彼はウプサラ大学の中で最も御手洗と近しい友人だったようで、2、3作でも語り手を務める。外国の石岡的存在なのだろう。 21世紀本格を提唱する島田氏は現代科学の知識をミステリの謎に溶け込ませているが、本書でも表題作では血流制御内科学の教授が語る持続性性喚起症候群(PSAS)という特殊な症例が、「人魚兵器」ではクローン技術の軸となる発生生物学がキーとなり、「耳光る児」では遺伝子工学の知識なくしてはSFめいた謎は解けない。 かねがね云っているがこういった謎は知的好奇心をくすぐりはするものの、それを謎のメインとされると読者との謎解き対決とも云える本格ミステリの面白みが半減するように感じる。 しかしいい加減私も島田氏の作風転換に馴れなければならないだろうけど。 しかしよくもこんな話を思いつくものだ。上に述べた最新医学・生物学分野の知識以外にも大航海時代の背景にモンゴルの欧州侵略といった歴史の授業で習った出来事を学校では習わない側面をミステリの謎の解明につなげる趣向など、島田氏の描く物語は他のミステリ作家の一歩も二歩も先を行っている感じがする。 本書は一見バラバラのような短編集に思えるが、実は一つのモチーフが前編に語られている。 それは人魚。 人魚といえばデンマークの国民的作家として歴史に名を残したアンデルセンの『人魚姫』が有名だが、島田氏が本書でその人魚をモチーフに選んだのは物語作家宣言を仄めかしているように感じたのは考えすぎだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回はルーン物でもなく、ジョン・ペラム物でもない純然たるノン・シリーズの1篇。
よくよく考えてみると本書は私にとってディーヴァーの初のノン・シリーズ物だ。そのせいだろうか今まで読んだ作品に比べて主人公を務める保安官助手ビル・コードの存在感が薄いように感じた。 今回主人公を務めるビル・コードは舞台となるニューレバノン市で生まれ育った男だが、過去にセントルイス市で刑事に就いており、ある事件が元で辞職をし、故郷に戻って来た際に保安官に再就職した男だ。彼の過去とはセントルイス市警在籍中に自分のミスで同僚を死なせたというもの。再就職の際はその件については触れておらず、いつそれが暴かれるか不安を抱えている。 人物設定としてはオーソドックスと云えばオーソドックスで、しかも過去に人に死に関わり、それがスキャンダルとなったという点ではジョン・ペラムに似ている。しかしそれが本書では有機的に物語には寄与せず、単なる設定だけになっているのが惜しい。ジョン・ペラムシリーズではそれが足枷となって彼を苦境に陥れていくのに本書ではそれがない。 本書に散りばめられているのは現代社会が抱える問題である。 ビルにはセアラという学習障害児の9歳になる娘がいるが、妻のダイアンはその事実を頑なに信じようとせず、寧ろセアラは非常に悪賢い娘でいつも知恵を働かせては親を困らせようとしていると、自身の都合のいい解釈の殻に閉じこもって譲らない。さらにビルもまた薄々感じながらもノイローゼ気味の妻を思って敢えてそれを口に出そうとしない。そしてそれがビルとダイアンの夫婦間の不和を生み出している。 そしてビルたちにはジェレミーというもう一人子供がいて、彼は障害も持たず、レスリング部でエースとして頑張っている家族の希望である。しかしこのジェレミーもまたある問題を抱えている。 さらに被害者のジェニー・ゲベンは複数の男と寝る尻軽女であり、その相手の1人である大学教授助手ブライアン・オークンは彼女以外の生徒をつまみ食いしている。 他にも夫のDVに悩まされるSF好きの空想癖のある高校生フィリップなど、病んだ世相を反映しているような人物が登場する。 しかし私にはこれらがもはや全く作り物めいて見えなくなっている。寧ろこの作品に出てくる人たちは我々の隣人にいても全くおかしくない、そう思えるようになってきた。 実際私も子供を持ち、色んな親子と交流し、また子育て関係のセミナーを受けに行くと、本書に挙げられているよりももっと酷い環境の家庭があることを見聞きしているからだ。従ってここに書かれた彼ら・彼女らは私にとって現実味のあるキャラクターたちであった。 しかし本書の事件の焦点となる地方大学オーデン大学は淫欲の巣と化した伏魔殿のようだ。教師や大学院生は教え子とヤリまくり、レズやバイセクシャルが蔓延し、教師達は愛欲に夢中になっていく。 地方大学という閉鎖空間で繰り広げられる精神の歪みを描きたかったのだろうが、かなりドロドロとした状況だ。もしかしてこういうのはザラなんだろうか? さて本書が書かれたのは1993年。この時期のミステリシーンはデイヴィッド・マーティンの『嘘、そして沈黙』などトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』に端を発したサイコスリラーブームの只中にあった。 この洗礼をディーヴァーも例外なく受けたようで、出版社、もしくはエージェントの要請か解らないが、本書ではカルト狂信者の殺人がテーマにあり、殺人鬼の名前も“ムーン・キラー”と正にサイコキラーど真ん中のような名前のついた敵役が登場する。 しかしこれが読み進むにつれてディーヴァーの世に蔓延るサイコキラー物に対してのアンチテーゼであることが次第に解ってくる。保安官事務所の捜査方針が保安官がカルト狂信者による犯行だとみなしているのに対し、捜査主任のビルは盲目的にそれを信じることを拒み、関連性を見つけようとしている。そして決定的なのは大学の警備課長がビルの許へ持参する精神障害者による犯罪を分析した本について述べるところだ。読書の興を殺ぐので詳しくは書かないが、この内容は当時数多作られたサイコホラー物の中には安直に創られた狂者の論理による眉唾物の紛い物が出回っていたと告発しているように感じた。 私はここにディーヴァーの、安易に流行に流されまいとする作家気質を感じた。いや寧ろ流行を逆手にとってそれを自分流に料理しようとするしたたかさを感じた。 さて読むにしたがって次第によくなってくるディーヴァーだが、本書では特に上巻の引きに注目したい。アメリカの映画やミステリやホラーに出てくるいわゆるオタクの類の異性にもてない系の登場人物の1人が実に意外な人物であったという仕掛けだ。 知らぬ知らぬのうちに文章に散りばめられた人物描写に誘導されていたことがたった一行で知らされる。これがディーヴァーの技法かと感嘆した。 さらに彼のミスリードの手法がだんだんと見えてきた。つまり匿名性をたくみに利用して読者の錯覚を引き起こし、ある時点でそれを印象的な一行でズドンと爆弾のように喰らわせるのだ。つまり綾辻行人の『十角館の殺人』のアレと云えば、解りよいだろうか。 しかし今回はその爆弾を落とし損ねたのではないか?読みながら本書で作者が仕掛けた叙述トリックを見破ったと思った。 しかしなんとも暗い結末だ。読後は主人公ビルの境遇の救いのなさに同情してしまう。 この終わり方を見ると本書はどうも続編の構想があったのではないか。しかしディーヴァーが本国でブレイクしたのはこの後に出版された『眠れぬイヴのために』から。本書はさほど話題に上らなかったと思われる。ジョン・ペラムやルーンに比べれば個性もなく、シリーズキャラとしては弱い。 ディーヴァーにしてはちょっと構成力不足を感じる本書。もしかして本書の題名『死の教訓(The Lesson Of Her Death)』の「教訓(Lesson)」とはこの出来栄えを教訓として、今後の作品に活かすという作者の意図が裏には込められているのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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桜井京介と栗山深春邂逅の物語。彼らがまだ大学1年生で輝額荘という下宿屋に一緒に住んでいた頃の話だ。
シリーズがある程度進むと、シリーズのゼロ巻目ともいうべき過去に遡った話が書かれるが、この作品もまさにそれ。しかし悔しいかな、こういう作品はなぜか面白い。 今までこの作者の自嘲気味な文体が気になり、それが読書の愉悦に浸る大きな妨げになっていたが、本書では栗山深春の一人称叙述で彼の斜に構えた性格と相俟って、この減らず口が挿入される癖のある文体が逆に雰囲気にマッチしていて、今までの作品の中で一番面白く読めた。 それはまたシリーズ0巻目と云える桜井と深春との初対面という過去に遡った物語であるノスタルジックな設定もこの文体に合っていたのかもしれない。 また建築探偵と名付けられているこのシリーズでは毎回建築家にスポットを当てたエピソードが語られる。今回話題に上る建築家はあのフランク・ロイド・ライトだ。ここで作者は桜井の口を借りて、ライトの自伝に書かれた内容がほとんど彼の虚構だと主張する。その主張で描かれるライトは嫉妬深く、カリスマの名をほしいままに尊大に振舞う嫌味な建築家という肖像だ。 これは作中に挿入された註釈によれば実際に彼の研究家による意見であることが述べられているが、逆にこの註釈は無くてもよかったか。というよりも孫引きで無く、作者独自の解釈を開陳して欲しかった。 そして常々この作家の作品に通底奏音として流れていたBLの影が本書では顕著に表れている。 唐突に輝額荘へ引っ越してきた建築評論家の飯村氏がホモであり、相手が大家の麻生はじめであるという推理はもちろんのこと、栗山深春の一人称で語られる本書では深春の桜井京介に対する感情が浮き彫りにされて、さらにBL風味を増している。 特徴ある探偵を創出するのが推理小説家の腕の見せ所だが、この類稀なる美貌を誇る探偵というのはやはり倒錯した感情を抱く一要素になり、どうも本格ミステリを読む側にしてみればなんとも物語にのめりこむのに抵抗感を抱いてしまう。しかしこの建築探偵シリーズは当時一二を争う同人誌の多さを誇ったのだから、やはりニーズはあっただろう。 そして肝心の事件だが、今回は犯人は解ってしまった。作者の散りばめたヒントは実にあからさまとも云うべき親切なものであり、確かにこの作品は桜井が謎解きをする前に解る。 とにかく本書はやっとこのシリーズの世界に浸れた作品である。桜井と栗山の最初の物語を知ることで以前にも増してこの後のシリーズを愉しめそうな気がする。 あとは妙なBLテイストが無ければいいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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まだ2作目だが、映画のロケーションスカウトであるジョン・ペラムのシリーズはその職業の特異性から常に見知らぬ町を舞台にし、そこで彼が”A Stranger In The Town”という存在になり、町中の人間から注目を集め、忌み嫌われて四面楚歌になる状況下で物語が繰り広げられるといった内容になっているのが特徴だ。
特に彼が町中の人間から注目を集めるのに、映画産業という華やかな世界に身を置いていることが実によく効いている。この設定は実に上手いと思う。 そして常に彼の敵になるのがその町の権威者。前作では保安官であり、町長が彼を眼の敵にしていたが、本書では警察官が撃たれるという事件からさらに警察官からの理不尽な圧力が増しており、また検察官にFBI捜査官とペラムを付け回す勢力はさらに拡充されている。そして本来正義の側に立つべき彼らが自身の狙っているホシを捕らえるためにはありもしなかった証人と証言をでっち上げ、それをたまたまその場に立ち会った人間に強要するため、しつこくネチネチと陰険な嫌がらせを繰り返すさまが描かれる。 しかしペラムが巻き込まれる展開は違えど、物語構成としては基本的に『シャロウ・グレイブズ』と同じである。上に書いた四面楚歌状態に、数少ないペラムの協力者がその町の女性―しかも美人!―であるところも一緒だ。 ワンパターン、マンネリは基本的に嫌いではないが、ディーヴァーが、という思いが強く、過剰な期待をしてしまう。池上冬樹氏が前作の解説で書いていたが、やはりディーヴァーも普通の作家だったのかと認識を新たにした次第。 しかしこの作品には後のディーヴァーの技巧の冴えの片鱗が確かにある。特に後半の読者の先入観を見事に利用した人物の描き方による仕掛けは実に素晴らしい。実にさりげなく誘導される筆致には後の傑作群への期待を高まらせてくれた。 そして時折挟まれる映画撮影のエピソードも知的好奇心をくすぐる。映画でよくあるアクションシーンが今では許可が下りにくくなっているとは知らなかった。 例えば本書では川に車が転落するシーンについて語られるが、撮影が行われている町では車が落ちることでオイル漏れやガソリン漏れで汚染と景観が損なわれることを嫌う。そのためそれらの撮影は無許可でゲリラ的に行われるらしい。しかし公開されたら解るだろうし、それこそ訴訟沙汰になると思うのだが。 ハリウッド映画が世界でロケするときによくその国の重要人物を困らせる事態まで招くが、なるほどこういうことだったのかと得心した。これではますますCGが多くなるはずだ。 さらに映画で使う銃火器についても実弾を使わなくてもあらかじめ許可申請と登録がなされており、それがなければ撮影許可、使用許可が下りないなんて話も興味深い。 しかしそれにしてもアメリカは映画撮影に対して日本よりも寛容だと思うが。 またペラムの仕事ぶりを読んでいて、はたっと気づいたことがあった。 よく地方の都市を舞台にしたドラマがあるが、これが地元民の目から見ると実に辻褄の合わない距離感を覚えることがある。例えば走って逃げていた犯人が次の場面ではいきなり車で30分くらいかかる所まで走って逃げているといった具合だ。しかし製作側としては自分の頭に描いたシーンで物語を繋げるだけなのだから、2つのシーンの距離感などは考慮なぞしないのだ。彼らとしては全体として出来上がる映像だけに興味があるのだ。その監督の頭にあるシーンを探すのが彼らロケーションスカウトの仕事なのだ。 さて今回の事件も単純な構図ながら、ところどころにミスリードが含まれている。最後まで読んで冒頭に書かれたジャン=リュック・ゴダールの「映画に欠かせないのは銃と女だ」のエピグラフを読むとこの一文に潜む色んな意味合いに思わずニヤリとしてしまう。 最後のシーンを読んだ時、私には次の一文が頭を過ぎった。 “警官にさよならをいう方法はいまだに発見されていない” レイモンド・チャンドラーのある有名な作品の最後の一行だ。チャンドラーが込めたこの一文の意味とディーヴァーの描いたラストシーンのそれは全く違うものだが、ディーヴァーはこの一文を美しい風景へと昇華させてくれたように感じた。 しかしこの時点ではまだ佳作の段階。光る物を感じるが、もう一歩と云ったところ。将来化ける可能性を感じはするが、まさか今ほど大家になろうとは思えない作品だ。 しかし1作ごとに完成度が増しているディーヴァー初期の作品群。作者自身が転機となったと云っている『眠れぬイヴのために』の前に果たして良作はあるのか。次が愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今までのクイーン作品の中で最も舞台設定が凝っており、後期クイーンの諸作で深みが増した人間ドラマの一面にさらに濃厚さが増した、リーダビリティ溢れる作品だ。
特に軍需産業で一財を成し、世界各国の政府要人らに絶大な影響力を与えるほどの権勢を誇るキングが君臨する通称ベンディゴ王国はハリウッド映画としても実に映える舞台だ。 しかもドラマチックな設定の中、密室で銃で撃たれるという不可能犯罪が起こる。 被害者のいた部屋は周囲を2フィートのコンクリート壁に囲まれた窓のない堅牢な部屋で弾丸などは通るはずもない。それなのに部屋の外から弾が入っていない状態で引鉄を引かれた銃の弾が被害者の胸から摘出されるというなんとも魅力的な謎が提示される。 しかしこの魅力的な謎の真相は正直期待外れの感は否めない。せっかく魅力的な不可能状況を提供してくれたのなら、読者の盲点を突いた誰もが納得の行くトリックを用意してもらいたいものだ。 しかし犯行の動機には考えさせられるものがある。 そして忘れてはならないのは今回の事件に翳を落としているのはあのライツヴィル。ベンディゴ一族のルーツは因縁の町ライツヴィルにあったのだ。エラリイはいざなわれるようにライツヴィルへ向かう。 正に後期のクイーンにとってライツヴィルはなくてはならない拠り所なのだろう。特に『十日間の不思議』に登場したヴァン・ホーンまでもがキングの被害者になっている件はさらにキングの凄みを彩る。 そして今回着目したいのは作者クイーンが物語に溶け込ました戦争批判。死の商人キングを糾弾するジュダの言葉はそのまま先の大戦に対する作者のメッセージだろう。 人の死という尊厳を大量虐殺で名もなき屍に変えてしまう戦争への怒りがここには込められている。さらに最後死んだ帝王キングの後を継ぐ者の言葉は第二次大戦が終わっても、第二のヒトラーは必ず生まれるのだという作者の警告とも読み取れる。 しかしなんとも暗喩に満ちた作品だ。 まずベンディゴ一族の名前。次弟の名ジュダはキリストの使徒の一人ユダを指し、末弟のエーベルは旧約聖書に出てくるアダムの次男アベルを指す。さらにキングの本名はアベルの兄カインを表すケインだ。 しかもライツヴィルで彼らのルーツを探ると彼らの名前は旧約聖書を辿るかのような運命から故意に名付けられていたことが解る。なんとも業の深い話だ。 しかし最大のメタファーは主人公クイーンに対して相手の名はキングだということだ。つまりチェスや王国ならばクイーンの上に立つ存在だ。 しかしタイトルにあるようにキングは死す。 盛者必衰。 頂点に立つ者はいつか倒れるのだ。この示唆は当時のアメリカのミステリシーンとの何か関係があるのだろうか? クイーン作品で軍需産業の王の島に連れ去られた中での推理劇という“嵐の山荘物”でありながらも内容が戦争を扱っているだけに冒険小説やスパイ小説の色合いも感じさせる本格ミステリの“キング”であるクイーンならではの作品。 兄弟の生立ちが事件の因縁と繋がるというロスマクを髣髴させるこの路線は正直歓迎なのだが、もう少しカタルシスが欲しいところ。特に今回は部屋の壁をすり抜ける銃弾という謎が非常に魅力的だっただけにその真相に失望してしまったのが大きくマイナスになった。 しかしまだライツヴィルは続くのか。ライツヴィルとクイーンが行く着く果てに何があるのか、今後見ていきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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オッド・トーマスシリーズ4作目の本書はなんとエスピオナージュ。
田舎町を牛耳る警察署長と港湾局の職員との軋轢。閉鎖されたムラ社会における一人のストレンジャーという図式に、来たるべき災厄を予知夢で察したオッドが奮闘する。その来たるべき災厄とは町の警察ぐるみで仕組まれた核実験用核爆弾の密輸の支援という、実に意外なものだ。 前回はスーパーナチュラルな怪物が相手だったが、今回は人間の悪意と欲が敵だ。 このためオッドはハリー・ライムと名乗って、核爆弾密輸を独りで阻止しようとタグボートに乗り込み、悪漢どもをやっつける。このオッドが名乗る偽名が映画『第三の男』の主人公であることからも本書の狙いが明らかである。 そしてそのためオッドは自ら課していた銃を使わないという禁忌を破り、密輸団の一味である港湾局の職員を銃殺する。これは本当に意外だった。 そして最後に現れる若き女性の悪党の仲間をオッドは迷いながらも国の平和を守るために撃ち殺す。この場面なんかはもろスパイ映画のワンシーンを切り取ったようだ。 このシリーズの売りはオッドの霊が見える能力で、いつも早いページの段階で霊が登場していたのだが、今回は181ページ目でようやく出てくる。しかも定番の災厄の象徴ボダッハは一切現れないという異色さ。 予知夢で大惨事が起こりうることを知りながら、なぜボダッハが現れないのか不思議でならなかったが、その理由についても作者はすでに準備済みだった。その内容については本書を当たられたい。 しかしこのシリーズには欠かせない存在、霊も新しい相棒フランク・シナトラ以外はこの181ページで現れた港湾局の一味の一人である死者となったサミュエル・オリヴァー・ウィトルのみ。 先に書いたように今回はオッドが未曾有の危機を救うため、そして自らと仲間を守るために銃を手に取り、人を殺めるのにも関らず、霊の存在は希薄だ。 しかし今回それを補うのは、第1巻からサブキャラクターとしてオッドに付き添っていたエルヴィス・プレスリーに代わって、連れ合いとなったフランク・シナトラ。 エルヴィス・プレスリーは彼に纏わる薀蓄を語るための道化師のような役割に過ぎなかったのに対し、シナトラはなんとオッドの窮地を救う活躍を見せる。彼は怒りが頂点に達すると周囲の物を動かし、嵐のように吹き飛ばすポルター・ガイストになるのだ。 この性質を上手く利用してオッドは彼をけなし、貶め、怒りを助長させて不当逮捕された警察署から逃げ出す。この展開は全く予想外であり、また霊を利用してピンチを脱するという新機軸の試みは大いに愉しめた。 ピコ・ムンドでは恋人ストーミー、オッドのよき理解者であるミステリ作家のリトル・オジーにワイアット・ポーター保安官を筆頭に魅力あるキャラクターがいたが、本書でもクーンツのキャラクター造形力は健在。 オッドが運命的な出会いを感じる女性アンナマリア。彼女は全てを知るが如く、物事を受け入れ、オッドの問いに明確な答えを出さず、「何事にもしかるべき時がある」と諭すミステリアスな女性だ。 そして幼少の頃に親にごみを燃やしていたドラム缶に落とされ、不具者となったブロッサム・ローズデイルも忘れがたい印象を残す。彼女は人生を悲嘆することなく、明るく生きるヴァイタリティに満ちている。 『対決の刻』のレイラニといい、クーンツは身障者の女性を実に魅力的に描く。 しかし何といっても今回のベストキャラクターはオッドが新たに雇われることになった元映画俳優のハッチことローレンス・ハッチスン。 齢80を超え、隠居の身である彼は独自の世界に閉じこもっているが、時折俳優時代のことを思い出してはオッドに語る。特に面白かったのはオッドがアンナマリアを助けに行く為に港湾局の男達が訪ねてきたら、嘘の芝居でどうにかごまかして欲しいと頼むと、役作りから始めるところだ。それがいささか過剰演出になってオッドに窘められて肩を落とすシーンで一気にこのキャラクターが好きになった。 それ故にハッチとの別れのシーンが胸を打つ。自分を大きく見せることが上手かった元俳優が抱擁した時に実に脆かった、なんて読まされると思わずホロリとしてしまう。 ただ非常に癖のある文体で語られるこのシリーズはクーンツ読者でないと好んで読まないのではないかと思う。 クーンツ作品にしては珍しく一人称なのはオッドが自身の体験を著すことでセラピーの役割を果たしているからだ。そのため内容はオッドの心の有り様と移り変わりを饒舌に語るようになっており、そのため物語の進行は亀の歩みのように遅い。短い時間の出来事をオッドの心情を交えてものすごく濃く語るので、読んでも全く読んでもストーリーが進まないという感を得てしまう。 これはクーンツ好きではない読者にとっては苦痛だろう。私でさえもっと刈り込んでページ数を減らし、コストパフォーマンスに貢献して欲しいと思う時があるくらいだ。 そしてエスピオナージュを装いながら、それらのジャンルの小説と違うのは最後オッドが人を自分が殺めてしまった罪の意識に苛まれ、縮こまってしまうところだ。 幼少の頃、一晩中母親に銃を突きつけられて一言も泣き声を漏らすこと許されなかった過酷な経験をしたこの男が非情に徹しきれないところにオッドの魅力があり、だから読者はこのキャラを愛してしまうのだろう。 オッドが向かう先は育った町ピコ・ムンドなのか。それともまた霊的磁力に誘われて、地図にもない町に行くのか。 そしてアンナマリアはストーミーに代わるオッドの魂の安らぐ場所になるのか。 解説の瀬名氏によれば本書以降、オッドシリーズは書かれていないとのこと。このまま棚上げにするにはなんとも割り切れなさが残る。いつかまたクーンツがシリーズ再開することを切に願おう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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映画の舞台となる町を探す、いわゆるロケハンを生業にしているロケーションスカウトのジョン・ペラムシリーズ第一弾が本書。
解説によれば本書は1995年に『死を誘うロケ地』で訳出されていた旧版をディーヴァーが新たに手を加え改稿した作品らしい。ちなみに旧版は本国アメリカはもとより日本でも全く話題にならなかった。 その前のもう一つのシリーズキャラクター、ルーンもまた映画業界を扱った作品だった。初期のディーヴァーはなぜか映画に纏わる話が多いが、それは自身の作品をいつかハリウッド映画に、といった願望から生じていたのだろうか。 しかしどこか流れ者気質のルーンとは違い、ジョン・ペラムは過去に新進気鋭の映画監督として名を馳せた過去、そして冒頭に会話で語られているだけで真偽は判らないが、スタントマンもこなしていたロケーションスカウトと、映画産業に若くから関ってきた生粋の映画人である。そのためルーンシリーズよりも物語に映画産業の色合いが濃く表れている。そしてこの設定が物語を動かすのに実に有効に働いているのがディーヴァーの上手いところだ。 ジョン・ペラムが新作映画のために撮影にあったロケーションを探しにニューヨークの田舎町を訪れる。刺激のない町に住む人たちは華やかな映画産業から関係者が来たことを噂で知り、ある者はペラムに取り入ってどうにか銀幕デビューを果たそうとし、またある者は彼と関ってこの田舎町を出るきっかけを摑もうとする。そして中には彼の来訪を面白く思わない輩もいる。 恐らく田舎町が映画の舞台となるとはこんな騒動が起きるのだろう。そしてそれが一見平穏に見えた町の暗部を表出させることになる。 ペラムを招かねざる客として、町ぐるみで彼を排除しようとする。町長はじめ保安官や有力者が彼に対して慇懃ながらも明らかに歓迎していない態度を示し、何かを隠している節を見せる。この四面楚歌の中、ペラムは相棒を殺され、麻薬所持の疑いをかけられ、また暴力で迫害を受け、あらぬ罪まで着せられそうになる。 セオリーに則った物語展開だが、実にそつがない。 そしてディーヴァーといえばどんでん返しが代名詞だが、本書でも最後の最後で思いもよらぬ真相が待ち構えている。確かに布石はあるものの唐突すぎ、またパンチも弱く、どんでん返しというほどの驚きはなかった。 もっとなるほど!と手を打つような内容であれば点数はもっとよかっただろう。読者を最後まで飽きさせないサービス精神は窺えるが、巷間の口に上るほどの印象もないといった感じだ。 というわけで作品の出来は佳作というのが妥当だろう。 ペラムの造形は普通の人よりも経験が豊富で危機を察知し、臨機応変に対処するが、いわゆる万能なタフガイではなく、格闘すれば負けることもあるという、昨今の現実味ある主人公である。ただ彼には映画産業界に従事しているという特徴があり、またそれがこのシリーズの強みだろう。 残る2作でいかに有効に活用して物語に溶け込ませているか、見ていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いわゆる文豪と云われる非ミステリ作家たちの手になる犯罪を扱った作品を集めたアンソロジー。
1951年に編まれた本書は現在日本で北村薫氏らによって日本の文豪らの手による作品集が編まれ、文化として継承されている。 その初頭を飾るのはノーベル文学賞も受賞したシンクレア・ルイスの「死人に口なし」だ。 在野の詩人の未発表の傑作詩を手に入れた駆け出しの教授とくれば、すぐさま自身の作品として発表し、富と名声を勝ち取るという展開を予想するが、本作ではその在野の詩人の研究者としてどちらが第一人者であるかを競うことがテーマになっているのがなんとも健全と云えよう。主人公わたしが手に入れた在野の詩人の情報を悉く覆す著名な教授のニュースソースを突き止めるのが本書の謎なのだが、最後の結末は冗談話に過ぎないと思うのは私だけだろうか。 次もノーベル文学賞作家の手によるもの。パール・バックによる「身代金」はアメリカの中流家庭に起きた誘拐事件を扱った作品だ。 非ミステリ作家による誘拐物とはなんと捻りのないことか。 本書で書きたかったのはミステリとしての意外な犯人・身代金の手渡し方法・誘拐の意図などではなく、誘拐事件が被害者に及ぼす周囲への疑心暗鬼や不安な日々といった心理面と近所の誰もが容易に犯人になれるというアメリカ社会への警鐘なのだろう。 すでにミステリ作品を物にしているW・サマセット・モームの「園遊会まえ」は実に変わった味わいの物語。華やかな催し事に出席するそれぞれの人々にはそれまでに何か厄介事を抱えているものだ、もしくはどんな厄介事が持ち込まれても人は皆パーティには出席するものだというモームなりの皮肉なのだろうか。 エドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「『シャ・キ・ペーシュ』亭の殺人」も純文学作家らしい奇妙な作品。 モームの作品「園遊会まえ」と封印された殺人が明かされるという意味では同趣向の作品と云えるだろう。 次はまたしてもノーベル賞作家の登場。ジョン・ゴールズワージーの「陪審員」は題名からしてミステリど真ん中の作品と思えるが、やはりそんな予想を覆す物語である。裁判の陪審員として裁判に立会い、妻と離れなければならないことを悲しんで自殺を図る陸軍兵士の被告人に同情して、尊大な義勇軍大佐である主人公が妻への愛を再確認するという、なんだか焼けぼっくいに火が着いたみたいな作品。 男尊女卑として妻に追従を求めるだけだった男がその存在の大切さに気付くというのはいいが、やはりそんな男は不器用で思ったようには上手く思いを表現できないところはリアルといえばリアルだが。 作品を読んだことが無くてもその名前は知っているジョン・スタインベックの作品はその名もずばり「殺人」。こちらの感想はネタバレにて。 ルイス・ブロムフィールドの「男ざかり」もまた語られる主人公ホーマー・ディルワースがなぜ犯罪に至ったかを記した作品だ。 非常に純文学的な内容。妻に尻を敷かれ続けた男に急に訪れたモテ期。そして今よりも若く肉感的な女性と恋の逃避行をし、挙句の果てにその相手を喪うことを恐れて、女性を追ってきた男共々殺してしまう。1900年前半の時代では48歳といえばもはや男としては人生の黄昏時とも云うべき時期で男ざかりの時が訪れた男の動向が本書の読み応えなのだろうが、現代ではまだまだこの年ならば現役だろう。 さて出てくるべくして出てきた文豪チャールズ・ディケンズは保険金詐欺師を扱った「追いつめられて」が収録されている。 生命保険をかけては被保険者が死に、その利益で生きてきた男を陥れる復讐譚とも云うべき作品。色んな仕掛けが施されており、最後に明かされる男の仕返しはそれまでで最もミステリらしい。犯罪小説ならぬミステリも文豪は書けるのだというのを証明したような作品だが、いささか摑みどころがない作品でもあるのが残念。 本書にはノーベル文学賞受賞者だけでなく、ピューリッツァー賞受賞者の作品も数多く収録されているがこのウィラ・キャザーもその1人。 彼女の作品「ポールのばあい」はその容貌と仕草、そして言動から同級生、先生に忌み嫌われている男の物語。彼がそんな境遇で過ごした町をあるきっかけで出て行き、ニューヨークの一角で自分の居場所を見つけ出すというもの。 本書に登場する主人公ポールのように、生理的に風貌が受け付けられない、悪気はないのは解っているがその不躾な言動が非常に気に障るといった輩は確かにいる。そんな彼が抱いていた「ここではないどこか」への思い。そして辿り着いたのがニューヨークの地。彼はそのエキゾチックな地では彼もただ1人の人間だったのだ。 本書で語られる犯罪は横領罪だがもちろんそれが主眼ではない。ここではポールという異端児の人生がテーマなのだ。文体は全然違うがなんだかアイリッシュとの近視感を覚えた。 『トム・ソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインがミステリを書いていたのは有名な話だが、本書では数ある作品のうち、「盗まれた白象」が収録された。 知る人は知っているがマーク・トウェインは実はかなり捻くれた作家である。本書はシャム国からイギリスに贈呈された白象が盗まれ、それを警察が追う話だが、ターゲットである白象は逃げる先々で沢山の公共物や建物を破壊し、また沢山の食料や飲料を消費し、そして沢山の死体の山を築き上げ、助け出す存在が災厄の元凶になっているのが面白い。特に白象について作中、人を食べるだの聖書を食べるだのと、いい加減極まりない記述はトウェイン独自のユーモアであり、そこからもこの作品が笑劇であると宣言しているのが判る。 オールダス・ハックスレーは「モナ・リザの微笑」で妻殺しと冤罪をテーマに扱っている。 やたらともてる優男とそれを取り巻く女達の執着を描いた作品、というほどにはドロドロしていなく、寧ろ最後にサプライズがあるあたり、作者はミステリとして本作を著したように思える。本書では題名にもなっているモナ・リザの微笑を持つ女ジャネットをファム・ファタールとして配したようだが、それほど印象に残る人物として描かれていないのが残念だ。 ホーンブロアーシリーズで有名なC・S・フォレスターによる「証拠の手紙」はその題名の通り、証拠物件である手紙のみで構成された作品である。 そこには事業家の妻がその部下と次第に親密になり、暴君振りを発揮する邪魔な夫を殺害するに至るまでが描かれている。書かれている内容は非常にオーソドックスだが書かれたのが1900年代前半ということを考えると非常に斬新な作品だったと思え、歴史的価値の高い作品と云えよう。 リング・ラードナーの「散髪」は床屋の主人と思しき語り部が町の悪戯好きの男が死に至った顛末を語るというもの。 床屋の主人の一人語りで語られる形式を取った物語はたった20ページの作品ながら出てくる登場人物は個性に溢れ、町の空気や匂いがわかるほどの筆致は実に素晴らしい。謎めいた結末―つまりジムは殺されたのか事故だったのか、そしてそれは誰の企みだったのか―も敢えて曖昧にすることで物語の雰囲気を醸し出している。けっこう好きな作品だ。 ウォルター・デ・ラ・メアの「すばらしい技巧家」は独特の雰囲気を持った作品だ。 物語の発端から非常に状況が解りにくく、最初はハツカネズミが主人公の話かと思ったくらいだ。やがて発覚する故意の殺人を自殺に見せかけようと企むあたりでストーリーが見えてくるが、最後はまた幻想めいた形で終わる。文学的ではあるが、好みではない。 ジェイムズ・サーバー「安楽椅子(キャットバード・シート)の男」は最近入社した同僚を抹殺しようとする男の話。 完全犯罪を企む男の話と思いながら読むと、物語は実に意外な方向に向かう。いやはや邪魔者を消すというのはこういう方法もあるのかと思い知らされた次第。 予想の斜め上を行くこの展開は素直に脱帽。サーバーの着想の妙を褒め称えたい。 『宝島』で有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの「マークハイム」は哲学的な内容の作品だ。 叔父の骨董品を売っては遊び、悪事にも手を出し、決して堅実な人生とは云えない道程を辿ってきた男が殺人を犯して、窃盗を働いていた最中に出逢ったこの世の存在とは思えない男とは一体何だったのか?最初マークハイムが云うように彼の犯罪の幇助をするその男は悪魔だと思ったが、最後にマークハイムが見せた一握りの良心に反応したその男の表情の優しさは彼の良心そのものだったのかもしれない。 しかしそれよりも冒頭に書かれているクイーンの作者紹介でまさかかのスティーヴンソンが闘病生活の中で執筆活動を続けていたという事実に一番驚いた。 次の作品も巨匠の物だ。数多くの傑作を残したH・G・ウェルズは「ブリシャー氏の宝」が収録された。 うだつの上がらなさそうな男が語る過去。それは婚約者と結婚しなかったのが宝物を手に入れたからだという理由だった。 そんな魅力的な導入部からどんどん引っ張られるように物語に入っていくのだが、最後のオチは捻りすぎてなんだか訳が判らなくなった。 聞き慣れない作家デイモン・ラニヨン。しかし彼の「ユーモア感」という作品は現代にも通じる軽快な筆致と意外性を持っていた。 マフィア映画の一編を切り取ったような内容。街の雰囲気とジョーカー・ジョーを筆頭にキャラクターが立っている。たった16ページの作品だが、一気に作品世界に引き込まれるし、最後の痛烈なオチも効いている。本書でのベスト。 またも聞き慣れない作家フランク・スウィナトンの「評決」は3人の女性達の茶飲み話を通じてある女性の裁判の顛末が語られるというもの。 有閑マダム達の茶飲み話という形式で裁判の顛末が語られるというスタイルは今でも斬新だといえよう。ただ夫に無罪判決が下った時に見せた妻の青ざめた表情というのはなかなか面白いのだが、ちょっとパンチに欠けるか。 ファニー・ハーストの「アン・エリザベスの死」は奇妙な味わいを残す。 いわゆるマタニティー・ブルーを扱った作品だが、主役を務めるジェット夫妻のエマ・ジェット夫人の狂気ともいえる情緒不安定さは一種のホラーを思わせる。 魚屋を経営する夫ヘンリー・ジェット氏は仕事柄魚の臭いが染み付いており、妻のために事前に臭いを消す処置を施している。しかし妻はそんな夫の気遣いを不憫に思い、その臭いを気にしないようにしているというおしどり夫婦なのだが、妊娠中にエマは夫を巨大な魚のように幻視し、忌み嫌う。その狂乱振りは戦慄を覚えるほど。 なんともやり切れない作品だ。一種カフカの『変身』のような不条理小説の趣も感じた。 締めの作品はノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーによる「修道士(マンク)」。 知的障害ゆえに善悪の区別がわからず、望み望まれるまま犯行を犯した男の話。マンクの人生が幸せだったのかどうか、それは彼自身しか判らない。 なぜ本書が『ミステリ傑作選』ではなく「犯罪文学」と題しているのか?それはここに収められた諸作が犯罪を扱いつつも、ミステリのロジックやトリックなど、サプライズを主眼にした物ではなく、あくまで犯罪を介入することで人々の感情の機微や心境の変化、隠された記憶や振舞いなど、心理面を扱った作品だからだ。 確かにここに挙げられている作品にはそれぞれ犯罪が含まれている。誘拐、殺人、命令違反、現金横領、保険金詐欺、盗難、偽装工作、強盗、窃盗、悪戯。 そして考えなければならないのがクイーンがこのようなアンソロジーを編んだ動機だ。 本書の刊行は1951年。つまりクイーンの作品はすでにライツヴィルシリーズの『ダブル・ダブル』を書き上げた時期だ。その後ライツヴィルはクイーン作品で出てくるものの、添え物に過ぎない。したがってこの時期のクイーンはライツヴィルに実質的に区切りをつけたような心境だったと思われる。 つまり後期クイーン問題のさなか、このアンソロジーは編まれた訳だ。クイーンにとってこの頃ミステリはロジックを扱いながらもパズル的要素に特化した作品ではなく、犯罪が介在することで及ぼす人々の心の変容だとか人間関係の綾、そして罪を暴くことの意義に関心は移っていたことは周知の事実。そんな時期だからこそ世の文豪が物した犯罪小説とはいかな物なのかと収集したのではないだろうか。 いや収集家のクイーンのこと、それらの作品は後期クイーン問題に差し掛かる前にすでに手元にあったのかもしれない。しかし単なる個人的趣味の範疇から逸脱し、それらを編纂し世に出したことに大変な意味を感じる。そしてここに収められた作品の数々は犯罪そのものへの興味よりも前に述べたように犯罪に纏わる人々の心理や及ぼした影響に焦点が当てられている。つまりこれらはクイーンにとってこれから自分達が書く作品とこのような趣向の作品になるのだと宣言するために、出すべきアンソロジーであったのではないだろうか。この推察については今後未読のクイーン作品を読むことで確認したいと思う。 さて全21編中、個人的ベストはウィキペディアにも載っていない作家デイモン・ラニヨンの「ユーモア感」。 その他にはトウェインの「盗まれた白象」、フォレスターの「証拠の手紙」、ラードナーの「散髪」、サーバーの「安楽椅子の男」、スティーヴンソンの「マークハイム」、ハーストの「アン・エリザベスの死」が印象に残った。 これらは犯罪を皮肉ったものや一読考えさせられる内容を持っていたり、また現代でも通じる語り口に工夫が見られるものだ。例えば「マークハイム」や「アン・エリザベスの死」は幻想小説としての趣もあり、犯罪を扱いながらもジャンルを跨った作品になっている。特に後者は家族殺しという犯罪の真相が歪な味わいを残し、被告人の心の傷はちょっと想像がつかないほど痛ましい。 しかし一読して思ったのは押し並べて非常に読みにくいこと。見開き2ページに文字がぎっしり詰まっているのは別段気にはならないものの、訳が悪いのか古いせいか判らないが、非常に頭に浸透するのに時間がかかる。恐らく1ページ1分以上掛かっていることだろう。 復刊してくれたのは嬉しいが、その際は訳も見直して欲しいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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多彩な作風を繰り広げる東野圭吾氏のジャンルの1つに医学系サスペンスというのが挙げられる。
古くはスポーツミステリ『鳥人計画』も人間の能力を科学的に向上させるある計画が通奏低音であったし、東野圭吾氏の作風の転機となった作品『宿命』と『変身』も医学の闇をテーマにして人間の心の謎を扱った作品だった。さらに変化球としては女性版ターミネーター、タランチュラが登場する『美しき凶器』もまた当て嵌まるだろう。 そして本書はその2文字の題名からして『宿命』、『変身』に連なる作品といえるだろう。 本書は全く同じ容貌をした氏家鞠子の章と小林双葉の章が交互で語られる形で物語は進む。題名とこの構成からも明らかだろうからネタバレにならないので敢えて書くが、この2人は同一の遺伝子から生まれたクローンなのだ。体外受精で生まれた子供たちが成長した姿である。 本書で語られる学問は発生学という耳慣れない学問。刊行されたのが93年なので現在同じ呼称なのか判らないが、細胞分裂の過程でどの細胞が目となり、口となるのか、その現象を探る学問と作中では書かれている。即ち『宿命』、『変身』と脳から遺伝子へと続く系譜が本書で垣間見える。 『宿命』では何が過去に起きていたのかを巧みに隠し、それが最終的に晃彦、勇作、美佐子の三人の隠された関係へ発展していくのに対し、『変身』、『分身』では先に何がなされているのかが判るようになっている。つまり医学的なミステリがこれら2作の主眼ではなく、それに伴う人間ドラマがメインテーマなのだ。 そして本書で描かれるのは母性。たとえ本当の自分の子ではなくとも母は子供を愛するのだという深い母の愛だ。 しとやかなお嬢様として育てられた氏家鞠子の母、男勝りの活発な女性として育てられた小林双葉の母、それぞれ方法は違っても、根底に通じるのは鞠子、双葉への献身的な愛だった。だからこそ2人は性格の違うのにも関わらず、我が子と自らの境遇の行く末を思い、悲嘆に暮れるのだ。特に事件の発端となった、頑なに禁じていた我が子のTV出演を叱りつける事無く、受け流した小林志保の母性が印象に強く残った。 鞠子と双葉がお互いの出生の秘密を探る道筋は交錯しながらもなかなか交わらず、なかなか邂逅に至らない。この最後に2人が出逢うラストシーンは作者が本書でやりたかった事なのは判るが、そこに至るまでが濃厚だっただけに最後は駆け足で過ぎた感じがするのが残念だ。 鞠子、双葉それぞれの旅程のパートナーだった下条、脇坂講介が途中退場するのもこの構成のために致し方ないがなんとも尻切れトンボのような結末に感じてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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D県警を舞台にした殺人課ではなく、警務課諸氏を主人公にした警察小説連作短編集。
表題作は警務課の人事担当二渡真治警視が主役を務める。 なんとも渋みの効いた作品。何を考えているのか解らない元刑事の鬼、尾坂部の存在感が途轍もなく大きい。 そして過去に未解決に終わった娘のレイプ事件が人事拒絶に絡み、その犯人が意外な形で明らかになる。全て無駄の無い作品だ。 正に横山伝説の始まりを告げるに相応しい一篇。 続く「地の声」は警務部監察課に務める新堂隆義が主人公。 人を疑うのが仕事の警察。それは犯人を挙げる外部の人間のみならず、自らの出世を企む内部の人間でさえ同じことだ。昇進の人事査定が迫った時期に密告がなされる弱肉強食の世界の警察内部の醜さと過酷さがここには描かれている。 第1話で主役を務めた二渡がここでは人事の鬼という存在で物語に大きな影響力を与えているのが非常に興味深い。 続く「黒い線」は警務課婦警担当係長である七尾友子が主人公。 実直で真面目な婦警が手柄を立て、マスコミにも報じられた翌日になぜ無断欠勤するのか? この矛盾を感じる突然の行動に実に納得の行く結末が用意されている。しかもそれは実に残酷な結末。社会に生きる女性の厳しさや、パワハラといったサラリーマン社会にも通じる苦いその内容は組織に生きる一人の人間として心に響いた。 特に驚いたのが男性の横山氏がよくもこれだけ女性の、しかも警察という男性社会の只中で奮闘する女性の心理を描いたものだと感心した。本書の中でも個人的ベストだ。 最後の「鞄」は警務部秘書課の柘植正樹が主役を務める。 国会答弁があらかじめ質問事項が決まっており、それに基づいて部下の官僚などが答弁の原稿を書き、大臣や議員はそれを読むだけになっているというのはもはや周知の事実だが、県議会での警察への質問も同じとは知らなかった。そして警察もまた専用の担当官がおり、それが本編の主人公柘植の仕事だ。 権力と面子が物を云う世界で、質問する側される側双方の顔を汚さずに無事議会を終えるために奔走するこの仕事は非常にデリケートで神経を使うものだが、D県警初の30代警視になるという野心を持つ柘植にとって、それは出世への階段の近道であるため、かつての友人とも云える同期や周辺の人物を利用することを辞さない。 本編でも二渡は登場するが、ほんのカメオ出演というくらいで、それよりも2編目の「地の声」で主役を務めた新堂がここで再登場し、作品のその後の彼の姿がそのまま上昇志向の強い柘植と対比させるようになっている。 ミステリといえば、殺人事件。したがって警察が主人公となる警察小説の主役といえばやはり殺人事件を扱う捜査一係が専らで、変わったところでは大沢在昌の『新宿鮫』の鮫島の生活安全課というのがあるくらいだが、あえて横山氏は殺人課を使わずに事件性を持たして警察小説が書けることを証明した。 ここに出てくるのは警務課で主人公それぞれが就いている職務は人事、監察、婦警の管理、秘書課と事件に直接的に関わる部署ではなく、警察の内務をテーマにしながらも事件を描くという点が新しい。 しかも扱われる謎は云わば“日常の謎”なのだ。 辞任の時期が来たのに、なぜ辞めようとしないのか。 悪意ある告げ口としか取れないメモ書きの真意とその犯人は誰か。 前日に手柄を立て、マスコミにも大きく扱われ、一躍メディアの主役になった若き婦警はなぜ翌日無断欠勤し、失踪したのか。 ある県議員が議会で本部長を陥れるためにぶつける質問、即ち“爆弾”の正体とは何か。 これらが警察組織で起これば、事件性を伴い、背後に隠された事件・犯罪を浮かび上がらせ、十分警察小説になりうることを横山秀夫氏は見事に証明した。これは正に新たなジャンルの誕生とも云える発想だ。 綿密な取材と落ち着いた文章と過不足ない引き締まった内容で横山氏はそれを高次元のレベルで成し遂げたのだから、確かにこれは歴史的快作といえるだろう。 ただ横山氏は必ずしも犯罪を描くことに腐心しておらず、特に後半は警察官それぞれの矜持や権力闘争、面子を重んじる風潮から生じた齟齬や弊害を上手く絡めて、謎に仕上げている。その微妙な駆け引き、上司のために自分を殺さなければならない理不尽さを受け入れる姿勢などは警察の世界のみならず私も含めサラリーマン社会にも通ずるものがある。 各4編でのテーマをそれぞれ抜き出すと人事問題、賞罰審査、部下の監督不行届け、会議を円滑に進めるための水面下での根回しなど、おおよそ警察小説とは思わず、企業小説としか思えないだろう。 こんな普通の会社でも起こりうる出来事が警察機構に組み込むことで事件性を持ってくるのだから、繰り返しになるが、本当にエポックメイキングな作品である。 これほど警察内部の男社会に切り込んだ作品を読んだのは『新宿鮫』以来だ。今までミステリを読んできた人間にとって警察とは本格物であれば、名探偵の引き立て役や道化役であり、警察小説であれば探偵役であり、警官同士が協力して事件を解決するものと思っていただろう。 そんな外側から見た警察の内部はこれほどまでに面子を重んじ、複雑な駆け引きと微妙な均衡の上に成り立っていることを知らされれば、単なる探偵役としての警官や刑事の見方も変わってくるだろう。 また全4編に共通して登場する人物は表題作で主役を務めたD県警のエースと呼ばれる二渡真治警視の存在感が物語の裏に影響を及ぼし、次第に増してくるのも興味深い。今後横山氏の作品で彼がどのように絡んでくるのか興味深いところだ。 組織で動きつつも個人の個性と上昇志向が強く、せめぎ合う警察機構の内部をここまで詳しく書いた横山氏。残る作品を読むのが非常に愉しみな作家だ。また追っかけなければならない作家が増えてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の物語の舞台は東京ザナドゥ・ランドと警視庁内部。前者は千葉にあるのに東京という名前を冠し、さらに愛くるしいキャラクターで日本では無類の人気を誇るアミューズメントパークという説明から、名前を呼ぶのも公共のメディアでは著作権の関係から憚れる東京ディ〇ニー・ランドのことを婉曲的(?)に指したものであるのは明白。
この東京ザナドゥ・ランドについて述べる内容が特に辛辣。グリム童話やアンデルセン童話を堂々と流用し、恰も自家薬籠中の物のように振舞うといった件はその極致だと思った。 かようにこのシリーズは田中氏が日頃抱えている日本の政治と歪んだ社会のシステムへの不満という毒を存分に吐くために書かれているといっても過言ではないほど、本書は痛烈な皮肉と罵倒に満ちている。 例えば本書に登場する外務大臣はマンガ・アニメ好きのA元大臣をモデルにしている。その描写と人物説明に込められた皮肉はこれまた強烈で田中氏がいかにこの政治家を好きではなかったのかが目に見えて解るほどだ。 しかし本書にも書かれているが本書刊行当時2007年12月では次期首相の有力候補だったA元大臣が実際に首相となったのに、文庫が刊行されたちょうど3年後にもはや彼が首相だったのは遠い昔となり、彼の退陣後、与党も変わってしかも首相も2人も変わっているというたった3年間での日本の政治の激変振りに思いを馳せると呆れるしかない。 今回の敵はゴユダという名のワニ人間。メヴァト王国に昔から存在し、時に君主に成り代わって国政を支配していた怪物である。メヴァト王国は作者の産物であるから、これは全くの田中氏の創作か、もしくはメヴァトが位置する周辺の国、インド、ネパール、チベット、ミャンマーのいずれかの国に昔から伝わる言伝えから取ったのかは解らないが、それにしてもワニ人間とはちょっと発想が貧困のように思う。 そういえばこの薬師寺涼子シリーズは筆致や設定はライトノヴェル風だが、書かれている内容は必ずしも中高生が読むほど健全ではない。 主人公の涼子は己の財力を傘に堂々と買収を持ちかけるし、相手の弱みを握って常に優位を立とうとし、恐喝を行いもする。つまり情操教育上、あまりよろしくないのだ。 前にも書いたが、このシリーズは田中氏が日本の現状に対して声高に存分に不満を並べ立てるために書かれている節があるので作者の想定する読者層はもっと高い年齢層にあるのだろう。逆に大学生や社会に出た若者には日本という国の歪みを認識させるのに実にとっつきやすい読み物かもしれない。 しかし前作も軽井沢で今回も東京と舞台が日本。それまで海外を舞台にしていたことを考えると取材費の縮減という創作の外側の台所事情が気になるところだ。 とはいえ、今回の舞台の東京ザナドゥ・ランドのモデルとなったテーマパークのオフィシャルホテルについて作中で書かれていることから取材のために宿泊したと察せられるので、それなりにやはり取材費は割かれているのだろう。う~んこんなことを感想に書くなんて私もずいぶん卑しくなったものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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