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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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リンカーン・ライムシリーズ第2作。
当初ディーヴァーはライムを単なるノンシリーズの登場人物として考えていたようだが、あまりにも好評だったため、シリーズ化したと述べている。これが今に至ってディーヴァー人気を決定付けるのだから、全く嬉しい限りだ。 さて今回のライムとアメリアの相手はコフィン・ダンサー。唯一の目撃者の証言からその上腕部に棺の前で女と踊る死神の刺青―表紙絵はそのイメージを捉えるのに大変助かった―があったことがわかり、それ以来通り名として呼ばれている。 前作と違うのは今回はあらかじめ敵の素性が誰なのか示されている点だ。匿名の誰かではなく、スティーヴン・ケイルという固有名詞を持った人物がターゲットを狙う様子が同時進行的に描かれる。 しかしだからといって油断してはいけない。何しろ作者はあのジェフリー・ディーヴァーだからだ。どこにどんなサプライズが潜んでいるか解らない。 特に冒頭のシーンには驚いた。 作品のイントロダクションとしてダンサーの最初の犠牲者が現れるが、この導入部のミスディレクションの冴えは久々にいきなり頭をガツンとやられるほどの不意打ちを食らった。最初の1章で既に私はディーヴァーの術中に嵌ってしまった。 また前作『ボーン・コレクター』の事件から1年半以上経ち、アメリアとライムの関係はもはや前作よりも深まっている。それは師弟関係としてもそうだが、お互いに恋愛感情を抱くまでになっている。 それがライムの葛藤を生み出す。四肢麻痺で現場に出られない自分の代わりに手足となって現場捜査をする存在であるアメリア・サックス。しかし現場の最前線に出ることは生命の危険度も増すことになる。従ってライムは大切な存在になりつつあるアメリアを危険な現場に晒すことを拒むようになる。 通常ならば相棒との信頼関係が深まることで、危険な現場ではお互いがお互いを守ろうとバックアップしあう姿勢が生まれるが、このライムという身動きの取れない人間だからこそパートナーに対する信頼と愛情が芽生えるにつれ、現場に送ることへの危惧と期待のジレンマに陥るというのは実に巧妙なプロットだ。 しかしこのライムの心境については作者はさらに巧妙な仕掛けを施している(かつての恋人クレア・トリリングはライムの指示で現場に向かい、ダンサーが仕掛けた爆弾によってこの世を去ってしまった)。なんとも細部に至るまで抜かりのない作品だ。 そして前作ではやたらと目に付いたライムの自殺願望は今回全く見られない。しかしそれは不自然とは思えない。なぜなら前述したとおり、前作から1年半経っており、彼はアメリアと一緒に仕事することで生き甲斐を見つけ、また技術の進歩から機械を介して照明を点けたり、CDをかけたり、電話を掛けたり、移動したりと健常者と変わらぬ生活をすることが出来るようになったからだ。 しかし今回はそれが逆に仇になる。音声で反応する機械は発生する側が冷静でないとなかなか認識しないのだ。それがゆえに詰まらぬミスで警察官を三名殺させてしまう。つまり自殺願望の鬱状態から新たに身障者が抱く錯覚がライムにとって一つネックになっている。 そして今回も詳述を極めた色んな専門的知識がふんだんに盛り込まれている。 まずは爆破犯に関する知識。概ね爆破犯は一つのテクニックを学ぶとそれを繰り返し使うことが多いとの事。つまり爆弾の種類、手法こそが爆破犯を限定する指紋の役割を果たすことになる。 また現場の血痕の形で犯人の意図や被害者の状況が判ったりもするし、指紋は同一人物の指紋であっても他の箇所から採取された指紋を繋ぎ合わせては証拠としては扱えないことも勉強になるし(アメリカだけの話かもしれないが)、映像解析をするならばJPEGファイルでは解像度が落ちるのでビットマップファイルで保存した方がいい、などとここまで細かい知識が開陳される。 しかし何といってもディーヴァーのその専門的知識が大いに活かされたのは物語の終盤にパーシーが航空機内に仕掛けられた爆弾との格闘の一部始終だ。 正に手に汗握るエンタテインメント。もうこれを読むと生半可な知識で書かれた航空パニック小説は読めなくなるなぁ。 特にこのシーンで重要な鍵となるのがライムの部屋の窓に巣食うハヤブサだ。このハヤブサは1作目から登場している小道具だが、本書では保護者の対象が飛行機業界の人間ということもあるのか、このハヤブサの物語に果たす役割が大きくなっている。 まさか1作目での心理描写用の小道具だと思っていたハヤブサがここまで物語に寄与するとは思わなかった。これぞディーヴァーの構成力の素晴らしさだろう。 そして素晴らしさといえば忘れていけないのはキャラクター造形だ 。2作目にしてますますライム、アメリア、ロン・セリットー、アル・クーパー、そして忘れてならない介護士のトムらのチームワークは団結力を増し、さらに前作では敵役でもあったFBI捜査官のフレッド・デルレイがチームにとって無くてはならない存在までになっている。 彼らに加えて新キャラクターの証人保護システム専門の刑事ローランド・ベル。温厚な性格ながら常に周囲に細心の注意を配り、保護者を守るためには自分の命を投げ出すことも厭わないプロフェッショナル。 また保護される側のパーシー・レイチェル・クレイも忘れがたい。決して美人でもなく、身長も低いがそのコンプレックスが原動力となって全ての航空機の操縦が出来、さらには整備も出来るパイロットの中のパイロット。彼の仕事に対する姿勢にライムは彼に通じるプロ意識を感じ、なんとライムでさえ説き伏せるほどの意志の強さを備える。 そして悪役コフィン・ダンサー。かつてライムが仕留め損ねた凄腕の殺し屋。爆破犯のセオリーを覆し、その都度新しい爆弾を作って殺しを遂行し、耳の形をいじったり、整形したり、傷痕を増やしたり、体重も増減させ、指紋さえも変えるという超人的な暗殺者。 わざと現場に証拠を残してライムに敢えて勝負を挑んだ前作の相手ボーン・コレクターとは違い、ダンサーは殺しの痕跡を残さずに現場を後にする。その中で残された僅かな証拠を採取し、知識と推理力を総動員して立ち向かうスティーヴン・ケイルとライムの応酬は敵の裏の裏を掻く“動”のチェスゲームの如き精緻さを極める。 いやあ本当にページを繰る手が止まらなかった。このダンサー対ライムの姿を描いた本書を読んでいる最中、大沢在昌氏の新宿鮫シリーズの第2作『毒猿』が頭をしばしば過ぎった。 また余談になるが『ボーン・コレクター』のウェブ上で挙げられた感想を読むと、ほとんどの人がリンカーン・ライム=デンゼル・ワシントンと脳内変換していたと書いてあったが、私は実はそうは思わなかった。もちろんこれは映画の影響によるのだが、作中の描写を読むと端正な顔立ちをした髪の長い髭を生やした白人という描写があったので、私は映画『7月4日に生まれて』で主演した時のトム・クルーズを擬えていた。本書で正にトム・クルーズのようなという一節を読んで我が意を得た気がした。 当初は作者は映画化されるときに、ライム役をクリストファー・リーヴを希望したという話をどこかで読んだ気がするが、リーヴに関しても本書では触れられているので映画化に対する不満やしこりがやはりあったのだろう。 これほどエンタテインメントに徹しながらも1作目以降映画化されていないのは不評だったのか、それとも作者の意向なのか判らないが、私見を云わせてもらえば、その理由の一端が本書の行間から見えたような気がした。 冒頭に書いたようにやはりディーヴァーはサプライズを仕掛けていた。しかもかなりメガトン級だ。 久々に地球がひっくり返るような錯覚を覚えたぞ! しかもその明かし方は前作よりもさらに磨きが掛かっている。 いやはや参りました、ディーヴァー殿。 さて次はどんなサプライズを、エンタテインメントを提供してくれるのか、非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンといえば、名探偵エラリイ・クイーンにドルリー・レーンのシリーズが思い浮かび、それ以外の作品はないかと思っていたが、本作は数少ない彼のノンシリーズ作品。<シンの辻>と呼ばれるニュー・イングランドの過疎化が進む村で起きた事件を扱った作品だ。
ここで起きるのはこの寒村でアメリカの財産とも云われるほどの画家となった村の誇りとも云える老婦人ファニー・アダムスが何者かによって殺されるという事件。そして折りしもポーランドからアメリカに避難してきたジョゼフ・コワルチックなる男がその近くを通っていたことから、村人たちは彼を犯人とみなし、即私刑を下そうといきり立つ。 これほどまでに村が一致団結して異邦人を断罪しようとするのは、その昔、イタリアからの移民で流れてきたジョー・ゴンゾリが村の指導者ヒューブ・ヒーマスの弟レイバンの想い人を寝取ったことでいきり立ったレイバンがジョーを殺そうとし、返り討ちにあって死んでしまうという事件があったからだ。しかし裁判はジョーの行為を正当防衛とみなし、無罪放免となったという忌まわしい事件があった。それ故に今回の事件こそ司法の手に委ねず、自分達の法に則って始末したいという思いが強かった。 人口たった36人の閉鎖されたコミュニティで起きる殺人事件はいわば村の誰もが家族のような者だから、近所同士の結びつきが強い。つまり村民一人一人が家族のようなものだ。 そんな中で起きた殺人事件。しかも殺されたのはおらが村の有名人で古株で誰もが慕う老婦人だから、村人達は狂気にも似た思いで容疑者を断罪せんと裁判に臨む。 一方容疑者コワルチックを守ろうとするのは<シンの辻>の由来となったシン一族のルイス・シン判事と彼の従弟ジョニー・シンの2人。特に戦争から帰還し、軍隊を去った判事の従弟ジョニーは原子爆弾の落とされた広島の惨状を目にし、人生の意味を見出せぬまま、無職の日々をすごし、判事に付き添う。戦争から帰っても普通の生活になかなか戻れなく、放蕩生活を続けるしかない彼の心情は戦争の暗い翳を感じる。 生きる意味を見出せないジョニーと一人の死に固執し、敵討ちに意気込む閉鎖されたコミュニティの連中。この対比がジョニーにある決意を生む。 この閉鎖された社会での事件というテーマを考えるとどうしてもライツヴィルシリーズが思い浮かんでならない。特にスキャンダラスな事件が起きることで村中の人間が一人の人間に怒りの眼差しを向ける展開は、『災厄の町』を思い起こさせる。本作はライツヴィルシリーズで遣り残したことにチャレンジした一冊とも取れる。 クイーン作品にしては珍しくほとんどが法廷シーンで繰り広げられる。しかし内容は村人が総出で参加する私的裁判であるから、実は無効裁判なのだ。 そんな茶番劇であっても判事や弁護士、検察は手を緩めず、真実を追及していく。村人はいつでも容疑者を有罪にして死刑にせんと息巻いている。 法廷シーンばかりであっても、きちんとロジックで容疑者の無実を判明するところがさすがはクイーンである。 特に超写実主義といえる被害者ファニー・アダムスの絵を巡って推理が繰り広げられ、真実が明るみに出るあたりはもう見事の一言だ。実に上手い小道具だ。 従ってなぜ本書にクイーンが出てこないのかが不思議だ。ジョニーの役はクイーンに置き換えても違和感はなかっただろう。なぜこの作品の主人公がエラリイ・クイーンでなく、元軍人のジョニーなのか。 それは作中でも書かれている戦争による大量虐殺の悲劇とそれがもたらすミステリの存在価値を今一度問うために、戦争を経験した者に敢えて一人の個人の死の真相を探らせることが必要だったではないかと個人的に思う。 ここで思い起こさせられるのはやはり笠井潔氏の『大量死と密室』論だ。以前戦争による無名の人間が大量に殺されることの無意味さ、虚しさについてクイーンは『帝王死す』でも明確にメッセージを打ち出していた。 やはりクイーンはあの作品だけでは足らず、戦争経験者を主人公にすることでさらに深く描こうとしたのではないか。広島の原爆の惨状までもが言及されるのには驚いた。 しかしかつて警察捜査のノウハウすら知らないことが作中でも散見されたクイーンだが、本書では証拠品の保護や現場保存について田舎警官を強く追及するシーンを読んだ時は、第1作目の国名シリーズを読んだときと隔世の感を覚えた。 あれだけ無頓着に現場に立ち入り、指紋付着に配慮せず、勝手に遺留品に触り、時には持ち帰って警察に内緒にするという、およそ警官の捜査を扱った作品とは考えられないほどの非現実さを感じたものだが、本書ではそういう行為をきちんと罰しているところが凄い。やはりハリウッドや探偵クラブなどの交流で警察捜査の知識を蓄えていったのではないだろうか。 閉鎖された空間での魔女裁判を描いた本書。題名が示すとおり、一枚岩と思えた村人たちの団結は実はガラスのように脆いものだった。 地味な作品だが、本書に込められたテーマは案外重い。作者クイーンの犯罪とそれに関与する人間たちの謎への探究は今後も続いていく。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とうとうリンカーン・ライムシリーズである。
ジェフリー・ディーヴァーの名声を磐石の物としたこのシリーズ。満を持して手に取った。 知恵と知識を使っての連続殺人鬼ボーン・コレクターとの戦い。次から次へ手がかりを残しては殺人を犯すボーン・コレクターと四肢麻痺で厭世観に持ちながらも、かつてNY市警中央科学捜査部長の座まで登りつめ、ありとあらゆる場所を踏査しては知識として蓄えてきたリンカーン・ライムとの丁々発止のやり取りが実にスリリングで面白い。 いや面白すぎる! そして健常者だった頃に暇さえあればマンハッタン中を歩き回り、地理や地質、建っている建物やどこにどんな企業や店があるのかを調べては自分の知識の糧としていたライムの推理方法はアメリアが持ち帰った証拠類から見事な犯人の意図を、絵を描き出す。それは指紋や靴の磨り減り方からも職業や趣味を云い当てるほど、人間というものを知り尽くしている。 特にビックリしたのは私の仕事の分野である建設業で用いられるベントナイトに関する記述だ。 世界一の犯罪学者と称されていたとはいえ、他分野の工法にも精通しているとは、どれだけの知識があるんだ、ライムは!いや、正確に驚嘆すべきは作者ディーヴァーの知識の深さか。 このライムの推理の過程や独自の経験に裏付けられた鑑識道具の数々や手法を読むと、私はどうしても世界一有名な探偵を思い浮かべてしまう。 そう、シャーロック・ホームズだ。四肢麻痺というハンデはあるものの、ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズなのだ。 そして身体の動かせないライムの代わりに手となり目となり鼻となり足となって捜査を行うアメリア・サックスは彼のよき助手ワトソンといったところか。 しかしアメリアは原典のワトソンと違い、父親も警官だった女性警官で、自分というものをしっかりと持った女性だ。従ってホームズ=ライムに逆らい、抗いもするし、また彼を凌駕する発想を持ったりする。実に血の通った人物だ。 そう、今回一読してビックリしたのはこれらキャラクターの造形の深みだ。 まずはやはり主人公リンカーン・ライムのキャラクターの深さだろう。かつては大統領さえも一目置いたという凄腕の鑑識員だった男だが、操作中の事故で四肢麻痺になり、自暴自棄な毎日を暮らしている。あらゆることに退屈し、後は自殺して一刻も早く魂が解放されることを望んでいた。 傲慢で不遜だが、その知識と明察な頭脳はいささかも衰えがなく、犯人ボーン・コレクターの意図を読み取り、次の被害者のいる場所と犯人の居所を残された手がかりで推理する。 そして彼の手となり足となるアメリア・サックス。モデルも経験したほどの美貌の持主ながら父親と同じ警察官への道に進んだ彼女。最初の登場シーンはバランスの悪いルーキーといった感じだったが、反目しながらもライムの凄さを認め、彼のやり方を吸収していく。 この2人のやり取りが物語にツイストをもたらし、ページをくいくい捲らせていく。 そしてライムに援助を求めてきた元同僚のニューヨーク市警殺人課刑事ロン・セリットーに彼の若き相棒ジェリー・バンクス。ライムが信頼する市警の鑑識員メル・クーパー。 そして本書の名バイプレイヤーと云えるライムの介護士トムを忘れてはならない。彼のような身障者を腫れ物に触るが如く珍重せず、通常の人間として扱い、ライムのわがままを無視し、揶揄するヘルパーこそ本来介護士のあるべき姿なのだろうと思う。 そして連続殺人鬼ボーン・コレクター。面白い作品には名主役に匹敵する悪役が必要だが、その役割は十分、いや十二分に果たしていると云えるだろう。 ライムの著書を熟読し、それをバイブルにして鑑識の知識を自家薬籠中の物として、かつての世界一の犯罪学者に挑むボーン・コレクターは人の美しい容姿や肢体といった人間を覆う皮膚には興味を抱かず、その中にある骨に異常なまでの愛情と興味を注ぐ。人を傷つけるにも、骨が損傷しないか気になるくらいだ。 彼の性癖の基となるのが20世紀初頭の1911年にニューヨークを震撼させた連続殺人鬼ジェームズ・シュナイダーの犯行だ。これはあとがきによれば作者の創作のようだが、彼が骨を愛でる記述が昔読んだ楳図かずおのある作品の冒頭に書かれた一節を思い出させる。 「骨は美しい。醜いのはそれを覆う皮膚だ」 確かこのような文章だったように思うが、正にボーン・コレクターの心情がこれだ。時代と東西の文化の壁を越え、同じモチーフで全く違う作品が書かれたことがなんとも興味深い。 このボーン・コレクターの正体を私なりに推理した。 下巻の終わりが近づくにつれて、自分の推理が当たっていることを確信していたが、まんまとディーヴァーにやられてしまった。 さてディーヴァーが自作で開陳する専門的な知識、特に登場人物の職業や性癖などに由来する業界人でしか知りえないようなリアルな情報が毎回の読みどころだが、本書もその例外に漏れず読ませる。 まず挙げられるのは鑑識という作業に関する細かいところまで神経が行き届いた仕事ぶりだ。ミステリ番組やミステリ小説では端役に過ぎないこの仕事だが、いやあ、事件後の現状保存に対し、鑑識員がこれほどまでに細心の注意を払っているとは思わなかった。 この鑑識の仕事にスポットを当てたのは正にディーヴァーの着眼の良さであり、功績だろう。本書に挙げられた情報は膨大な物だが、特に印象に残ったのは現場に入る鑑識員は靴に輪ゴムを巻いて入るというもの。その理由は・・・是非本書で確認して欲しい。 そして四肢麻痺の重度の身障者であるライムが語る身障者の生活の苦労だ。毎日同じことの繰り返しがやがて絶望に変わるというのは先にも書いたが、例えばチョコレートなど甘い嗜好品が逆に楽しみの後の苦痛を助長させるということ。そして歯に詰まっても自分で取り除くことが出来ないこと。つまりこんな簡単なことが出来ない自分に気付かされる事実がさらに絶望を生むということ。 これは全ての身障者に当て嵌まることではないかもしれないが、もし自分がライムと同じ境遇に陥ったならば、彼と同じように感じているかもしれないと痛感したエピソードだ。 そして今回ボーン・コレクターが残す手がかりの解明の端緒となるのはニューヨークの古地図だ。その手がかりと共に古きニューヨークの街並みがライムの口から説明されていくのも知的好奇心をくすぐる。通常ならば小説を読む付属的な愉悦に過ぎないこういった薀蓄が次の被害者の居場所を探る手がかりとして物語に有効に働くところがディーヴァーという作家の凄さだ。 いやあ、この作家は読書好きのツボというものを心得ている。堪らないね。 さて事件を解決しながらも自殺願望の火が消えないリンカーン・ライムのその後が非常に気になる。シリーズはこの後巻を重ね、今も書き続けられているのだからライムの命はまだまだ続いていくのだろうが、そんな予断などが意味を成さないくらいに先の展開が非常に気になる。 本書の評価は先に述べたようにボーン・コレクターの正体に納得のいかなさを感じたことと、最後のライムの凄まじいまでの犯人対決シーンが私の中で役割分担されていた“知のライム、動のアメリア”の構図が見事にひっくり返されたことに対する戸惑いと、そして今後のシリーズでさらに面白い作品があることを期待しているという3つの理由から8ツ星としておくことにする。 まだまだ未読の作品があることがこの上もなく嬉しい。 最後にディーヴァー作品をこよなく愛した故児玉清氏に合掌。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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建築探偵桜井京介シリーズ初の短編集。桜井の今まで語られなかった若き日に海外放浪をしていた頃に出くわした事件も含めて語られている。
まずは「ウシュクダラのエンジェル」。 正直謎が何なのかわかりにくい作品。そして京介が泊まった時にジブリールと京介の間で起こった何かが夢の内容を表しているようだ。いきなりこんなパンチの弱い作品だということに不安を覚えた。 次はまたもや京介の海外放浪譚である「井戸の中の悪魔」。 パズル要素が強い作品だが、難解なパズルが解けるようなカタルシスは真相には伴わないのが残念。 こういう作品を読むと、元々この作者は謎を作るのが不得意ではないだろうかと思ってしまう。 次はヴェトナムを舞台にした「塔の中の姫君」。 人間消失は本格ミステリでも最も魅力のある謎だが、その魅力ゆえ真相を知るとガッカリしてしまうのが往々にしてある。さて本作は?というとまあ及第点かなと云える。 確かに真相は陳腐だ。暗闇というのはなかなか人には見分けがつかないところなのでこのトリックは十分成り立つことは解る。しかしなんとも大味な感じが否めない。 次の「捻れた塔の冒険」の舞台は日本は福島県の会津若松。 この謎も真剣に考えればアンフェアの誹りを免れない真相だ。恥ずかしながら私は寡聞にして知らなかったが、この二重螺旋のスロープで上れる栄螺堂は実在する建築物だ。WEBで調べると写真が見られるが、それほど大きくない建物で、これは8,9歳の子供が経験した謎というのがミソだろう。 恐らくこの謎は一度行った人ならば解るのかもしれないが、純粋に推理ゲームとして勝負しようとした読者にしてみれば、実に納得のいかない謎だろう。 しかし本書の狙いはそこにはなく、この捻れた塔での幼少の頃の体験がその後2人の女性に落とした昏い翳、つまり自分の悪戯で引き起こした大人まで引きずらなければならない傷を逆恨みした女性の捻れた感情を描きたかったのだ。ちょっと強引な感じもするが、篠田氏の特徴が良く表れた作品である。 また祐美の京介への一方的な愛、つまりストーカー行為が第1作の『未明の家』の冒頭で出てきた建築探偵のチラシに端を発していると推測されるところは感慨深い。 次の「迷宮に死者は棲む」も日本が舞台。広島は尾道と因島をお馴染みの三人が訪れた時に出くわした事件だ。 陰鬱なイメージでいささかホラーめいた雰囲気で語られる作品。深春の高校時代の同級生の過去の因縁話で、深春を好きだった姉の死、同級生松尾の嵐の夜の失踪、そして松尾という人間の不在と、アイリッシュの『幻の女』を思わせるミステリアスな展開はなかなか。 しかし今が幸せな者ほど過去に依存しない、過去を振り返らない。逆に今が不幸な人間は過去の思い出にすがるというのは心に響く言葉だった。 確かにそう思う。この言葉だけでも収穫はあった。 「永遠を巡る螺旋」では再び舞台は海外に。 「捻れた塔の冒険」で登場した相原祐美の怨念が引き起こす事件。まず別の短編の因縁が絡むという趣向が面白い。そして叙述ミステリ的な仕掛けは成されているが、他の作品とは色合いの違った倒叙物であるのが異色だろう。仕掛けは安易で先が読めるため、さほど驚きはないが、収録作中113ページと最も長い作品なだけに物語は読ませる。 また作中深春がBL小説に苦悩し、罵倒するシーンがあるが、これは桜井京介シリーズがBL化された同人誌が多いことに対する作者の心の叫びだろうか?しかし私は原典にもBLの要素が濃いと感じているのだが。 続く2編はいささか趣の変わった作品。「オフィーリア、翔んだ」はある酒場で出くわした初老の男の話。 この作品では桜井京介という名前は一切出てこなく、出てくるのは類稀なる美貌を備えた青年と風貌のみ語られている。しかしそれは最後の幻想小説風味の結末に続くためにあえて作者が仕込んだことだろう。 密室からどうやって出たのか?という逆転的な謎が魅力的なのだが、相変わらず篠田氏の主眼はトリックやロジックの鮮やかになく、あくまで登場人物たちが抱える心の闇だ。 「神代宗の決断と憂鬱」は最も短い25ページの作品だ。 神代教授と京介の一夜の酒盛りで語られる神代教授の真意が面白い。そして少しだけ触れられる京介と教授の邂逅の話も今後の物語への予告として興味深い。 しかしどちらかといえばファンサービスに近いような作品だ。 「君の名は空の色」では深春と蒼の邂逅のときのことについて触れられる。 中身はもはやミステリではなく、蒼と深春の関係性についてシリーズの隙間にあるエピソードを述べたようなものだ。 作中の時期は蒼が成人の日を迎えたときのこと。蒼が虐待されていた忌まわしい記憶の残る邸に行って、特別何かをするわけではなく、過去の記憶が彼にとってすでに終わったこととして片付けられているかを確認しに来たようだ。それは成人の日を迎えた彼にとって避けられぬ成人の儀式のようなものだったのだろう。 最後は桜井京介自身の過去の物語「桜闇」。 神代教授が述べている京介の過去に起きた忌まわしい事件とは別の、高校生の京介が出遭った事件の話。しかし当時の彼はまだウブで殺人方法を看破しながらも女性の色香と魅力に負けてしまう。京介の初体験まで書かれた話。 「君の名は空の色」で蒼が20の時に旧薬師寺家を訪れたように、京介も30を迎えてこの邸を訪れなければならなかったのだろう。孔子は「三十にして立つ」と云ったが、彼が立つためには訣別しなければならない過去の自分があった訳だ。敢えて幻想小説風に耽美に書いているのは桜井京介というキャラクターをイメージしてのことだろう。 冒頭にも述べたように舞台は長編と違い、日本に留まらずトルコ、イタリア、ヴェトナム、フランスへと多彩だが、意外にヴァリエーションは感じない。その理由は後で書こう。 本格ミステリの短編といえば、限られたページ数という制約があるため、物語性よりもトリック、ロジックの切れ味が味わえるが、本書では逆に篠田真由美という作家が本格ミステリにはあまり向いていないことが露呈した作品集となった。 主眼はあくまでもトリック、ロジックの妙味にはなく、長編同様に登場人物の抱える心の闇や建築物に込められた念や思想といった部分に準拠した人の行為が真相になっており、これはもはや本格ミステリではないといえるだろう。 謎自体は非常に魅力的なのにもかかわらず、推理のカタルシスをこれほど感じない短編集も珍しい。 特に似たような謎が多いのが気になった。2作目の「井戸の中の悪魔」、3作目の「塔の中の姫君」、3作目の「捻れた塔の冒険」、6作目の「永遠を巡る螺旋」はどれも細長い建築物や工作物で起きた謎を提示しており、しかもどれもが階段や昇降設備における人間消失を取り扱っている。 あとがきによればこれらは「二重螺旋四部作」と作者自身が名付けているが、要は同じような謎における推理のヴァリエーションで2つも3つも短編を拵えているような感じなのだ。従って個々の作品で開陳される誤った推理が少なく、あえて述べないことで別の作品で使用しようとしていると感じる、とまで書くとさすがに意地の悪い見方になるだろうか。 親切に感じたのは巻末にこれらの短編で述べられている事件の起きた時期と今まで著された長編での事件が時系列に年表として並べられているところ。これを見るとこの短編集は建築探偵桜井京介シリーズ第二部の第1作『美貌の帳』までの事件を全て補完するようになっている。従って本作での時間はすごく長く、蒼が高校に編入する前から浪人生を経てW大学入学の20歳になるまでの期間に遭遇した、もしくは語られた事件(出来事)となる。 そしてそれらは先にも述べたように桜井京介、栗山深春、蒼こと薬師寺香澄、そして神代宗の四者のキャラクターを掘り下げることを主眼にし、さらにシリーズに厚みを持たせることを目的にしているようなので、本格ミステリとして読むとかなり肩透かしを食らうだろう。 逆に云えばシリーズファンが読むとますますのめり込む美酒のような短編集になるということでもある。 しかしそのキャラクターがいまいち私には合わない。深春はこの中で最もまともなキャラクターで好きだが、それ以外はいかにも「作られた」感を思わせる戯画化された造形を感じる。特に蒼は、過去の事件ゆえに学校にも行かなかったことで精神的成長が遅れているのは理解は出来るが、猫のような周囲へのじゃれ付きようは読んでいて怖気が出て鳥肌が立つ。その台詞は「20の男が口にするような言葉だろうか?」と首を傾げざるをえない。特に深春に対する純粋な思いを告げるシーンはほとんどBL小説である。 今までこのシリーズ読んできたが、やはり自分にはどうも合わないようだ。最後を俟たずして次の作品でこのシリーズとは別れを告げよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本のミステリ読者にジェフリー・ディーヴァーの名前を知らしめたのが本書。脱獄囚が聾学校の生徒と先生の乗ったバスをジャックし、廃止された食肉工場に篭城して、FBI交渉人との一進一退の攻防を描いた作品だ。
文庫本にして上下巻合わせて760ページ強の分量だが、脱獄囚が篭城するのはなんと第1章の終わり。つまり残りは全て脱獄囚の篭城劇に費やされる。 これはすごい。これほど動きのない物語を作者は色々な情報と不測の事態とを織り交ぜてページを繰らせていく。 今では交渉人を主人公にしたドラマや映画、小説が数々作られ、もはや珍しい存在では無くなったが、それでも本書に織り込まれた交渉術の情報は知らぬ物が多く、非常に興味深く読んだ。 特に交渉人が犯人に話す内容を他の捜査官が聞いてはいけないとは知らなかった。それは犯人に親近感を覚え、いざ撃たねばならないときに決意が鈍るのを防ぐためだ。 また交渉人自身も犯人の心理を探り、親しくなって自首するよう仕向けるため、犯人の気持ちに同調して取り込まれていく恐れがあると作中では語られている。主人公の交渉人ポター自身、仕事をしていて腹を割って話した相手は同僚でもなく、犯罪撲滅に携わる警察や保安官でもなく、交渉していた犯罪者だというのが皮肉だ。それほど交渉人は犯人の心に潜り込み、また自身を晒す。非常に危険な職業だ。 そして犯人に同調し、友人ともいうべき関係になった上で、最後は逮捕すべく裏切らなければならない役割。これは心にかなり負担の強いる仕事だ。長く続けるには精神がタフでないといけないし、また割切れる心を持っていないといくつ心があっても足らないだろう。 ただそうならずに凄腕の交渉人として君臨してきたポターなのだが、最後にそれがゆえに自身の人間の薄さというのに気付かされるのが苦い。 犯人と同調し、友人に近い関係にまでなるのに任務が終わると普段の自分に戻れる。それは彼の超人的な強さなのだが、裏返せば彼はその場で演技をしているだけとも云える。 また犯人と交渉人との鍔迫り合いだけでなく、救出する側の内部でもそれぞれの思惑で暗闘が繰り広げられる。FBIを筆頭に州警察の人間、郡保安官、さらには州法務次官補までが参入し、それぞれの立場と主義を振りかざしてなかなか一枚岩となって人質救出へと向かわない。中には次回の選挙を見込んでどうにか活躍の場を貰い、当選への弾みをつけたい者まで出てくる。 さらに報道協定を結んだマスコミまで勝手に取材を始める始末。凄腕のFBI交渉人アーサー・ポターを想定外の事態が次々に襲っていく。 しかしこういった人物達の思いも判らんでもない。いや寧ろ通常であればポターの交渉を妨害する者たちこそ凡人である我らに近いと云える。 人質、しかも下は8歳の耳の聞こえない聾者たちを監禁し、精神的苦痛を与える脱獄囚たちに相見えた時、誰しもその悪辣ぶりに嫌悪し、撃ち殺したいと思うのではないだろうか? そんな心理状態の中、犯人に同調し、時には犯人と共に声を挙げて笑いさえもする交渉人の仕事ぶりは悠長すぎるように感じ、またなぜ悪党と仲良くなるのかと憤りを覚えることだろう。 この物語は交渉人を主人公に描いているからため、彼を妨害する州警察やマスコミの連中の身勝手さを呪い、罵倒するように思うが、逆に州警察の立場で物語を描くと中年太りでゆったり構えた交渉人ポターは人命などは眼中にない非道漢に映ることだろう。 と、ひりつくような犯人とFBIとの交渉を描いた作品だが、単にそれだけに留まらず、色んな読み方が出来る。 それはやはり交渉人を中心に描きながら、それぞれの立場の人間を配してそれぞれの考えに基づいて行動する人間がいるからだろう。 しかしどんでん返しだけがこの作品の魅力ではない。人質となった聾者という設定ゆえに成り立つサスペンスに特徴ある登場人物の数々。 登場人物表に掲げられた人物は26名と今までの作品の中でも多いが、本書の特徴は彼ら彼女らが非常に魅力的なキャラクターだったことだ。 主人公のFBI交渉人アーサー・ポターはFBI捜査官が襟を正して接する凄腕の交渉人だが、その風貌は腹の出た定年間際のオジサンである。そして結婚記念日には亡くなった妻の墓参りをし、妻の家系図を作ることを唯一の趣味としている。 敵役のルー・ハンディは正にアカデミー助演男優賞を与えるべき存在感を誇る。脱獄囚のリーダーであり、残忍な性格で全てを支配しないと気がすまない男。心労耐えない篭城にも常に落ち着いてポターと接し、あわよくば彼を征服してやろうと手ぐすね引いて待っている危険な男だ。 そして人質だった教育実習生メラニー・キャロルという女性がこの事件を機に変化していくのが物語の隠れたテーマだろう。 本書の原題は“A Maiden’s Grave”、『乙女の墓』という。これは聾者であるメラニーが”Amazing Grace”を聴き間違えたことに由来しているが、メラニーの乙女からの脱皮を表現した題名だろう。 尊敬する兄を事故で片腕となった原因を自分に非があると責め、教育実習生でありながら、常に堂々と振舞っていた生徒のスーザンに引け目を感じるほど自分に自信がなく、親の支配から逃れられなかった彼女がこの事件を契機に生まれ変わる。しかし「墓」と題しているようにそれは成長といういい意味とは限らない。 最後の彼女の壮絶な一面は色々考えさせられる結末だ。 しかし本書に限っては邦題の方に軍配を上げよう。内容的にしっくり来る。 さてディーヴァーの名を日本のミステリ読者に知らしめた本書だが、感想としてあと一歩といった感が残った。ここはあえて7ツ星とさせていただく。これからのディーヴァーに期待しよう。 次は『ボーン・コレクター』だ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は短編では名(迷?)コンビとして数々の事件を解決しているニッキー・ポーターがパートナーとして登場し、エラリイの助手を務めた初めての長編作品である。
そしてそのコンビが挑む事件はなんと浮気調査。本格ミステリの探偵らしからぬ事件である。浮気調査というのは私立探偵、つまりクイーンの対極にあるハードボイルド小説やプライヴェート・アイ小説で取り上げられる題材だ。 そんなエラリイの前に立ちふさがるのが女心。 稀代のジゴロとして女性を食い物にするハイエナのような男ヴァン・ハリスンの魔手から依頼人を救うべく、エラリイはハリスンが過去に食い物にした女性を探し出し、過去の被害について彼を告発するようにお願いするのだが、そのいずれもがハリスンと過ごした楽しい思い出を語るだけで、エラリイに協力しようとしない。 今までしばしば本格ミステリではありがちなように、クイーンの作品でも描かれた女性像とは典型的な男性願望が具現化したような存在だったが、本書では男性が理解しがたい女性像を見事に捉えているのではないだろうか? おしどり夫婦として知られていたダークとマーサのローレンス夫妻の間に、売れない探偵小説家であるダークの癇癪と嫉妬が顕著になってきたことから、マーサは彼をどうにか以前のようにまともな性格に治してほしいと依頼するが、事件の焦点はその依頼人であるマーサが落ちぶれた俳優と浮気をしていることが発覚し、エラリイとニッキーは手遅れにならないうちに彼女を正気に返らせるというのが本書の粗筋。 そして物語はエラリイとニッキーの努力虚しく、2人の逢瀬は重ねられ、やがて嫉妬深い夫にその事実が発覚する。そして夫は浮気の現場に拳銃を携え訪れる、と起こりうるべくして起こる事件の方向へ進む。 後期のクイーン作品には本書のようにどこに推理の余地があるのか、本格としてのサプライズとクイーンのロジックが入り込む箇所はあるのか、実に判断しにくい題材と事件が多い。特に本書は最たるものだろう。 つまり一見普通の事件に見える事象にも論理の光を当てることでサプライズを引き起こすことが出来ることをクイーンはこの時期に試みたのではないだろうか。 もしそうだとすれば、成功していると個人的には思う。観たまま読んだままの明白な事件を全体に散りばめられた色々な手掛かりを検証することで事件を180度引っくり返すことになる。 しかし一読者の立場で云わせてもらえば、クイーン=本格ミステリという頭があるため、対等に推理をするには証拠や手がかりが解りにくすぎて、どうにも後出しジャンケンのようなずるさを感じてしまう。 本書のタイトルはナサニエル・ホーソンの有名な作品と全く一緒である。そして作者はそれをあえて意識して同作品と同じ姦通罪を取り扱っているのだ。しかもホーソンの作品の題名は姦通罪に問われた女主人公が姦淫(Adultry)を示す文字Aを胸に付けられ、これが緋文字であったことに由来しているが、本書も原典に倣い、浮気のきっかけはAの文字で始まる。そしてクイーンの作品では緋文字は逢瀬の予定を知らせる手紙が赤文字で書かれていること、逢瀬の場所を知らせる手がかりが赤文字でマークされていること、そしてダイイング・メッセージが血で書かれていることで使われる。文学マニアのクイーンならではの遊び心だ。 今回重要な役割を果たすのが、ハリスンからマーサに送られるAからZまでの暗号を使った手紙である。これが事件の解明に大きく関わるわけだが、その内容には既出の作品に同様のトリックがあり、既視感を覚えた。よほど作者はこの小道具をお気に入りのようだ。 また俳優が物語に関ってくるのもハリウッドを経験した後のクイーンの作品には共通する事項だ。しかも今回は落ちぶれた俳優で50代でありながらも身なりと風貌はまだ若さを感じさせ、世のマダム連中をとろけさせる魅力を備えているが、彼がカツラを愛用し、若く見せようとしているという件がある。これも既出作品に同じような効果で用いられていた。 見た目を偽ることで本来の自分よりも若く、威厳があるように見せる者たちをクイーンはハリウッドで多く観てきたに違いない。これも映画という虚構を生み出すハリウッドでクイーンが見た光と影なのかもしれない。 最後に蛇足めいた不満を。 間男ヴァン・ハリスンの召使いが日本人という設定なのだが、その名前がタマ・マユコ。しかもこの人物は男性。 西洋人にとって日本人の名前は解りにくいかと思うが、この辺は親交深い日本の出版社に訪ねて、その妥当性を検証してほしかった。苦笑いするしかない不手際である。 本格ミステリの方向と可能性を追求し続けた作者のチャレンジ精神は上に述べたように非常に素晴らしいと感じる。 しかし読後にそれは気付かされる文学的業績と創作アイデアなのであって、必ずしもそれが物語としてミステリとしての面白さに通じているかはまた別の話である。 ただ本書はニッキー長編初登場ということもあり、今までのロートル親父と30を越えた放蕩息子に、筋肉バカの父親の部下というありきたりでなんとも色気のない取合せで進められていた物語に爽やかな新風をもたらした。浮気調査という特に女性が忌み嫌う題材にスパイとして遣われたニッキーが当然の如くながらいつもよりも元気がなかったのが残念だが、今後の登場作で本来のコメディエンヌ振りを発揮して大いに愉しませてほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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稀代の天才高校生白河光瑠が創作した音楽と光をシンクロさせるエンタテインメント、「光楽」が一世を風靡し、その奔流に呑まれていく様を描いた作品。
東野氏の作品にはミステリに留まらずいくつかジャンルが存在するが、本書は『変身』にあるような、まだ現代には存在しないが少し未来に存在しうる事象を扱ったプチSF物語だ。従って殺人や何が起こったのかを探る本格ミステリではなく、新たな物が起こることでその渦中にいる人間がどんな人生や運命に引き込まれていくのかを描いた作品。抜群のストーリーテリング力を誇る東野氏だから、先が気になってページを繰る手が止められない。 特に光瑠の光楽を体験した者が次第に光瑠と同じ能力を獲得していくあたりの兆候からそこに至るまでの件は不穏な予感を抱かせながらぐいぐい引っ張っていく。光楽を体験した者に恍惚感と明日への活力をもたらすが、同時にそれを長く体験しないでいると、倦怠感や幻視、分裂症などの禁断症状を齎すという諸刃の刃でもあるのだ。この辺の毒の仕込み方が非常に上手い。 しかし人の感情や考えていることが光となって見えるという能力が本書の受け入れるべき設定であることは間違いないが、それがある歴史的根拠に基づいて設定されていたとは思わなかった。 いわゆる過去の宗教家の肖像画や仏像にあしらわれている後光やオーラという物が実は光瑠が持っている能力が万人にもある能力であることを裏付ける。なぜなら光を見ているのは信者である一般人であるからだ。この辺の話の持って行き方は非常に巧みだなぁと感心した。思わず膝を叩いてしまった。 しかし本書は何といっても光楽という光と音楽を絡めた芸術と主人公白河光瑠の造形に尽きる。光楽が人を魅了していく過程とその光楽の真の目的(疑似オーラを作り出し、オーラが見える人物を発掘していく)が遺跡などに表現されている事象に結びついていくことは面白い。 そして天才児白河光瑠の全てを達観している姿勢と視座。全てをあるがままに受け入れながらも、将来を見据え、そのためには自分が犠牲になっても踏み台になっても構わないと思うキャラクターは正に天才だ。 人の考えを察して云わなくてもしてほしいことを先んじてするという勘の良さも光が見えるという能力ゆえのことだというのが判明する。しかしそんな全てを見通す能力を持った彼に危難をもたらす為に設定したコンサート会場での爆破事件へのいきさつなどは本当にこの作家の構成力のすごさを思い知らされる。 1994年の作品だから時代を感じさせる記述が見られるのは致し方ない。ポケベルでの連絡のやり取りやレーザーディスクやビデオテープなどは懐かしい感じがした。同時代を生きていた私などは解るが新しい読者を次々と獲得している作者のこと、近い将来これらの単語の意味が解らない世代が出てくるかもしれない。 本書におけるメッセージは異端児はマジョリティである一般人に淘汰される人間の愚かさに対する警鐘だ。突出した能力を持つ者は時にはもてはやされ、時代の寵児となるが、安定を求める支配層にとっては自らの地位を脅かす膿であり、排除すべき存在にしか過ぎない。 しかしそれは人類の進化を停滞する愚行だと光瑠は述べる。それは深読みすれば江戸川乱歩賞作家として作家デビューしながら本格ミステリに留まらず色んなジャンルを描き、「明日のミステリ」を模索する作者自身の秘められたメッセージなのかなと思ったりした。 これだけ読ませる物語を書きながら、最後が唐突終わってしまうのが勿体無い。これ以上書くことは蛇足にしか過ぎないとする作者の潔さともいえるが、やはりいい作品だっただけにもっと余韻がほしかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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桜井京介シリーズの第二部の幕開けとなるのが本書。桜井、深春は大学を卒業し、定職につかず、趣味と実益を兼ねたアルバイトに従事するフリーターとなっており、蒼は高校へ進学している。また原点回帰という意味か、第1作『未明の家』で登場した杉原静音、遊馬朱鷺、雨沢鯛次郎らが再登場する。また蒼と京介の邂逅の時を描いた『原罪の庭』で登場した門野貴邦もカメオ出演する。
今回俎上に挙げられる建築物は鹿鳴館。もはや知らない者はいないと云われるほどの有名な迎賓館だが、実は設計図も紛失し、略図と数少ない写真が残っているだけで実に謎めいた館である。ジョサイア・コンドルという建築家が設計したと云われるこの館だが、コンドルという建築家も私には初耳だった(だから作中で誰でも名前は知っているという件があるが、これは云い過ぎだろう)。 しかし作中で語られる日本の建築学の基礎をたった一人で築いた人物という彼の経歴はなかなかに読み応えがあった。 今回の事件は京介が奇縁で知り合った資産家天沼龍麿が自身が経営するオテル・エルミタージュの開業十周年記念イベントで開演される三島由紀夫の『卒塔婆小町』という劇に伝説の女優神名備芙蓉が登場する劇を中心に演出家の大迫氏の失踪事件に加え、京介の旧友遠山蓮三郎の兄で亡くなった天沼龍麿の娘暁子の元恋人茂一の死の真相を探る事件が扱われる。天沼老が昔パトロンであった芙蓉との秘めた関係が本書の底流を流れるテーマとなっている。 本格ミステリとしての謎解きのエッセンスは相変わらず薄い。寝間着を裏返しにしたまま自殺した死体や夜中に焼身して死を遂げる支配人や劇中に腹部にナイフの刺され傷が現れる女優など、奇怪な謎は提示されるものの、そこに主眼はなく、従来の作品同様あくまで主題は建築とそれに纏わる人々の愛憎がメインになっている。特に双璧を成す遠山の兄の不審死に纏わる寝間着を裏返しにして死んでいたという謎の真相は観念的で、ガッカリした。 しかし深春や蒼の過去の事件を経てから篠田氏のこの物語世界の描き方は以前よりも濃密に感じるし、少女マンガのステレオタイプのように感じた登場人物像も立ってきて厚みが増したように思う。 ただ物語に流れる諦観めいた陰鬱さは相変わらず。この暗さがもう少し解消されればいいのだが。個人的には深春と京介の邂逅を描いた『灰色の砦』のテイストを望みたい。 ただ建築に携わる者から云わせてもらえば、2ヶ月程度で建物が未完とはいえ内装まで仕上げられるというのは無理にもほどがある。特に鹿鳴館ほどの規模であれば尚更だ。突貫工事でもコンクリートの養生期間なども必要なのだから複層階の建物であそこまでは仕上がらない。建築に造詣が深い作者ならばこの辺の現実にはもう少し配慮してほしかった。 題名にも掲げられたように、今回は美が強く強調されている。 芸術に対する美。いつかは滅びゆく美。それを敬い、崇め、それぞれがそれぞれの信仰を持つ。それがゆえに美は人を狂わせる。本書は美が一時の輝きに過ぎないと達観した者とそれを永遠の物として封じ込めようとした者の軋轢から生じた悲劇だといえよう。 真に美しいものには残酷さが隠されている。この背徳の美こそ美しい。 プロローグの恋文に書かれたイタリアのブラァノ・レエスのエピソードが一番印象に残った。娘とも云えぬ童女が編むからこそ、そのレエスは精緻な美しさを誇るが、それがゆえに若くして針子たちは視力を失うという犠牲が伴う。桜の下には死体が埋まっているというのは、そのあまりの美しさは残酷な犠牲があるからこそという妄信から出た言葉だが、この世に蔓延る美しき物の背後にはこのような負の物語があるように思えてならない。 またシリーズも時を経るにつれ、蒼と京介との関係に変化を感じる。蒼は高校生として周囲と馴染めない生活を送りながらも、それを個人で乗り越えるべき問題と捉え、京介や深春に頼ろうとせず、自立を目指す。京介と深春は逆に蒼の隠された苦悩に気付き、どう助けるべきか心を注ぐ。そしていつか来るべき別れを意識し、束の間の安らぎに身を委ねる。 シリーズの行く末は今後巻を重ねるにつれて、来るべき時へ向かっていく。それは恐らく彼らにとって迎えるべき別れであり試練なのだろう。今回もまた苦い余韻が残った。 |
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1999年6月に行われたケルンサミットにおける米国大統領暗殺計画が本書のおけるメインテーマだ。この暗殺計画が作者の創作物か否かは判らないが、これをモチーフに女性暗殺者と物理学者の対決という図式を描き出した。
暗殺者は世界で一番厳重に警護されている人物の暗殺を依頼されたヤナことラウラ・フィドルフィ。表向きはIT企業ネウロネット社の若き女社長だ。しかし彼女は世界でも十本の指に入る凄腕のスナイパーだった。 彼女を雇うのはテロを生業にしているプロのテロリスト、ミルコ。 片や彼らテロリストを迎え撃つのはノーベル賞候補になっている物理学者リアム・オコナー。長身で誰もが振り返る容姿を持っていながら、頭の中は常に物理や化学のことにとり憑かれていて、突然奇行を始める危うさを持っている。 さらに彼のパートナーとしてオコナーの本をドイツで出版している会社に勤める広報係の女性キカ・ヴァーグナーがオコナーとのロマンスで本書に色を添える。 物語はPHASE1から4まで分かれており、PHASE1でまずミルコとヤナのテロリストのパートとオコナーのパートが交互に語られる。前者はプロの殺し屋の緊張感に満ち、また民族主義が抱える社会的問題なども交えて語られる重苦しい内容であり、後者はオコナーの奇行に振り回される出版社のキカとクーンの2人というコメディタッチの内容と陰と陽が交互する。 しかし注意が必要なのはこの2つの物語の時制が違うことだ。 テロリストのパートは1998年の12月から語られ、オコナーのパートは1999年の6月、ケルンサミットの開催日の前後から語られる。 つまり一方はテロを起こすゼロ時間へ向かい、もう一方はそのゼロ時間付近にいるのだ。最初はこの時制の違いに戸惑いを覚え、時制を混同することしばしばだった。導入部としてこの方式は物語世界に没入するのに支障になった。 この時間軸をずらして書かれるパートはPHASE1のみで後は暗殺計画とオコナーたちの身の回りに起こる出来事が並行して語られる。 読後の今、この手法が何の効果をもたらしたのかは解らない。単純に混乱を招いただけのように今は思う。 本書の帯に書かれていた惹句「女暗殺者VSノーベル賞級物理学者」という構図から想像されるのは緻密な暗殺計画を論理的思考にて解き明かすという天才的頭脳を駆使した計画の看破と駆け引きを期待したが、上巻の400ページを過ぎたあたりで解るのは、単純にアイルランド人である物理学者オコナーがかつて政治活動を一緒にしていた同僚をサミットの開催が明日に迫った空港で発見することからテロの疑惑が巻き起こるというものだった。 つまりこれだとテロリストの相手役は物理学者である必然性はないのだ。なんとも期待感を裏切るような展開だ。 しかし下巻の200ページあたりでどうにか期待外れ感は幾分か解消される。光を減速させる原理でノーベル賞候補になったオコナー、つまり光学の権威である彼だからこそテロリストの暗殺方法に気付くことが出来たという必然性が生まれる。 シェッツィングの小説はしばしば取り上げるテーマについてかなりのページを割いて語られるのが特徴だが、本書ではこの兵器の技術や専門知識についても相変わらず詳述される。それはあまりに専門過ぎて読者の理解度を考慮することなく、滔々と語られる。理解できない奴はついてこなくてもよいと云っているかのようだ。 またテロリストとの戦いを描いているがゆえに政治的問題についても語られる。彼は登場人物たちの口を借りて前世紀末から現在に至るまでのヨーロッパが抱える問題について様々な意見を述べている。 特に世間ではほとんど注目されないコソボ紛争について書かれているが、非常に主張が強すぎて読書の興を殺いでいるのが難点だ。 単なるスリルとサスペンスとアクションに満ちたエンタテインメントに留まらず、問題提起をして読者に何らかの意識を植え付けるという制作姿勢は買うものの、今回は逆に物語のスピード感を奪ってしまい、読む側にしてみれば退屈を強要してしまっているのが残念だ。 特に本書は果たしてこれだけのページを費やす必要があったのか、甚だ疑問だ。 とにかく無駄に長いと思わされるエピソードが多すぎるのだ。それぞれの政治的主張や主義を盛り込みつつ物語はクリントンやエリツィンら各国の政府要人が訪れるサミット当日、ゼロ時間へ向かっていくが回り道が多すぎて物語の加速度を減じている。特に主人公となるオコナーと彼の見張り役であるヒロインのキカ・ヴァーグナーの話が長すぎて辟易した。 そんな知識や薀蓄の中には非常に興味深いのもある。 例えば大統領のアドリブに対する周囲のスタッフの用意周到ぶりだ。よく芸能人がわがままで例えば冬に柿が食べたいので用意しろなどと無茶をいい、冬に柿を探してADが奔走するなんてシーンがあるが、大統領の側近たちともなると、あらゆる大統領の予期せぬリクエストや我侭を想定して準備をしておくというのだから恐れ入る。云うかもしれないし云わないかもしれないその我侭のために訪問先を事前にリサーチして、そこの主に大統領が来るかもしれないが他言しないようにと含み置きしておく。多分心理学のエキスパートもスタッフにいるだろうから出来るトラブルシューティングだ。 また本書では1999年当時の世界の首脳陣が実名で登場する。 英国のブレア首相、ロシアのエリツィン大統領にドイツのシュレーダー首相にフランスのシラク大統領。日本は小渕首相(懐かしい!)だ。そしてアメリカはクリントン大統領。 この中でも渦中の人物クリントン大統領に関しては小説の一登場人物として詳細に語られる。彼の性格や政治的手腕、当時彼が周囲の政治家にどのように思われていたのか。これがけっこう辛辣な内容を孕んでおり、作者は本人にあらかじめ許可をもらったのかと不安に駆られる部分があった。当時スキャンダルとされていたモニカ・ルインスキーとの情事についてもここでは語られるし、さらには彼の陰部に纏わる持病(ペロニー病という陰茎が極度に湾曲して勃起する病気)についても暴露される。既に20年近く前の出来事を今更蒸し返さないでもと思わんでもない。よく出版できたなぁと感心した。 しかし相変わらずの情報過多ぶりで引き算の出来ない作家だなぁというのが読後の感想だ。正直に云ってこの手の暗殺謀略物はストーリーは定型化されているので、後はどう語るかが鍵となる。 私の好きなバー=ゾウハーならばこの半分以下の分量でもっと起伏に富み、ミステリマインドに溢れた作品に仕上げてくれるだろう。 訳が悪いのかもしれないが、いまいち物語に没入できないところも相変わらずである。今回も残念ながら徒労感を覚える読書だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『眠れぬイヴのために』は追う者と追われる者の物語だったが本書もまたその構成は同じである。『眠れぬ~』では逃亡した精神分裂症患者をそれぞれの事情を抱えて複数の人物が追い求めるという構成だったが、本書も娘を監禁した誘拐犯がその離婚した両親、娘の元彼氏、娘の父親と親しい刑事に追われる物語になっている。
つまりこの2作は実に似通った作品だといえよう。 精神異常者が主要な登場人物として扱われていることもまた同じだ。『眠れぬイヴ~』では追跡者であるマイケル・ルーベックは精神分裂症患者だったが、本書では被誘拐者のミーガンが情緒不安定でセラピーを受ける人物になっている。 そして誘拐者で敵役のアーロン・マシューズもまた小さい頃に父親から虐待を受けており、神父でありながらも殺人を厭わない残忍さを兼ね備えている。 このアーロン・マシューズという敵役は実に凶悪で底知れぬ恐ろしさを兼ね備えた人物だ。十代の頃に父親を凌ぐ説教を行う神父の卵として数々の信者から篤い信仰を得、さらに独学で心理学の書物を読み漁って無免許のセラピストとして開業もしている。そのため無敵なまでの腕力を誇るわけではなく、相手の心理を読み取り、信頼感を抱かせる声音を使って、追跡者を出し抜き、あの世へ送るサイコキラーなのだ。どんな人間も心の弱いところを突かれると冷静さを失い、いつもの自分の実力の半分も出せなくなる。 アーロンは人が持っている心の弱い部分を探り、その隙を上手く突いて相手の一枚も二枚も上に行くのだ。通常の作品であれば残るべき登場人物が次々と一人、また一人と彼の手によって抹殺されていく。従来の連続殺人鬼のイメージを刷新するキャラクターだ。 そんな相手に対峙するのがかつて敏腕検事として鳴らしたミーガンの父テイト・コリア。彼はそのあまりに弁が立つため、その切れ味の鋭さからかつて陪審員を見事に誘導させて無罪の人間まで死刑にまで持っていった苦い過去を持つ。 つまり相手の心理を読み、説得し、納得させることに関しては一流の男なのだ。人間の情理を操る2人の男の対決が本書の読みどころだ。 しかしもっと掘り下げて考えてみると、無実の罪の男を死刑に追いやるほどの説得力を持つ検事もまた、乱暴な云い方をすればある意味殺人者と云えるだろう。 つまりテイト・コリアとアーロン・マシューズは表裏一体の存在なのだ。しかもお互いがお互いの正義に従ってそれを成しているところが共通している。 検事であったテイトは法の名の下、犯罪者を死刑にするため、弁舌を揮う。 牧師であったアーロンは神の名の下、信者が自ら死を選ぶよう、人の心を揺さぶる声音で導く。 それぞれが善を司る職業に従事しているだけにこれは怖い。 そしてこの類稀なる頭脳を持った人間同士の戦いという構図は後のリンカーン・ライムシリーズの萌芽を感じさせる。そういった意味では本書が後のディーヴァーマジックの源泉と云えるのかもしれない。 彼アーロンがなぜテイトの娘を誘拐し、生贄に捧げようとするのか?その理由は実はかなり前からエピソードとして読者の前に提示されている。 テイトが自らの弁舌で死刑に追いやった青年が実はアーロンの息子であったのだ。アーロンは息子の敵を取るため、神の言葉に従い、テイトの娘ミーガンを誘拐したのだった。 しかし彼は幼い頃から誰にも愛されなかった経験ゆえに、唯一の理解者で話し相手だった息子が恋人に取られてしまうのに焦燥感を持ち、彼の恋人を殺してしまう。その罪を数ある証拠から息子本人に被せてしまったという皮肉な過去があった。このことからも実に利己的な孤独な男としてアーロンが描かれているのが解る。 しかし本書は『眠れぬイヴのために』の冗長さを感じさせない物語巧者としてのストーリーテリングの上手さが光る。上にも書いたようにアーロンが次から次へ追っ手を葬り去る手際といい、セラピストとしてミーガンの両親であるベットとテイトに直接対峙する綱渡りさえも見せる演出といい、サスペンスの盛り上げ方の腕が上がったように感じた。 しかし不幸なことに本書はディーヴァーの名を日本の読者に知らしめた『静寂の叫び』の後に刊行されたため、さほど話題にならなかった。逆に云うと『静寂の叫び』を未読の私にとってどれほどの出来栄えなのかが実に愉しみではある。 さて本書の原題は“Speaking In Tongue”という。解説の児玉清氏によればこれは「神の言葉を話す」という意味のイディオムらしい。 実に物語の性質と言葉を駆使するアーロンとテイトという2人の人物を捉えている題名だ。しかしこれを上手い邦題に訳すのは難しいだろう。 確かに邦題が示すように「監禁」が主題なのだが、これではあまりに素っ気無さ過ぎる。もっといい題名を考えてほしかった。 しかし追う者と追われる者というプロットといい、悪役の設定、精神を病んだ人物が出てくるあたりといい、実にクーンツの匂いを感じてしまう。前にも述べたがこの売れない時期、ディーヴァーはベストセラー作家であるクーンツにあやかろうと彼の作品をつぶさに分析し、自家薬籠中の物としようとしていたのではないだろうか。 しかし既存作家の翳を感じるようではまだオリジナリティがあるとはいえない。ディーヴァーが現在ミステリシーンを代表する作家となったその瞬間に早く立ち会いたいと思う。 それはもうそんなに遠くは無いはずだ。 |
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クイーン版ミステリ歳時記後編。題名が示すように7月から12月に亘って起きた事件について綴られている。
7月は夏の暑いさなかに起こった「墜落した天使」。 エラリイが犯人を特定するのに7月の独立記念祭に使われる爆竹が手がかりとして挙げられる。 7月なければならなかったというほど強い根拠ではないが、アメリカの祭りの特徴が上手く事件に使われている。しかしクイーンのロジックを堪能するには弱いかな。 8月はある探検家から依頼が来る「針の目」だ。 財宝探しと殺人事件を絡めた意欲作。しかし前者の宝探しの暗号は読者の推理する時間を与えぬまま、エラリイはすぐさま看破してしまう。 そしてそれが依頼人エリックスンの懸念、姪と自分ら2人が姪の夫とその父によって殺されるのではないかという疑念を現実に変えてしまうという、2つを融合させた作品だが、エラリイのロジックが冴え渡るというよりも自分の推理をまくし立てるエラリイの舌先に乗せられたまま、事件は解決してしまったように感じ、ミステリのカタルシスを感じるとまでいかなかった。 しかし月長石は作中で語られるオウガスタス・シーザーの月、つまりは8月という記述の意味は解らなかった。月長石は6月の誕生石らしく、作中にも月長石は出てこないので、単純に8月に結びつけるアイテムやイベントが浮かばなかったのでクイーンが苦し紛れにこじつけたように感じた。この辺からもなんとなく坐りの悪さを感じる作品だ。 9月の事件「三つのR」はアメリカはミズーリ州にあるバーロウ大学で起きた。 9月は新学期が始まるということで、大学を舞台にした事件が扱われている。本編は『犯罪カレンダー<1月~6月>』に収録されたある作品と趣向は同じ。 10月のアメリカの祭りといえばハロウィン。「殺された猫」はハロウィンの最中に起きる殺人事件の話だ。 パーティの最中の殺人ゲームが本当の殺人に発展する。なんともありきたりな話ではある。 そしてエラリイはその当事者の一人なのに、暗闇でうたた寝をしてしまい、その瞬間を思い出せないという失態を演じてしまう。 話の演出としては実にオーソドックスだが、前半パーティに興じるエラリイとニッキイの2人で交わされる、散らかり放題の部屋の中であちこちに身体をぶつけ、難儀する会話が最後の犯人特定に大きな要因になるのは実に見事。こういうさりげない伏線というのに私は弱い。 しかしクイーンは最後の一行で犯人が判明する演出が本当に好きな作家である。その演出に拘るため最後のあたりはどうしても不自然に思えてしまう。 11月の行事といえば日本では馴染みのない感謝祭がある。「ものをいう壜」は感謝祭の前日に起きた事件だ。 感謝祭に纏わる話からインディアン―今ではネイティヴ・アメリカン―の話に及び、そこから発展してその子孫の働くレストランに至って、そこで麻薬密売の端緒に触れるという先の読めないストーリー。 本書でも触れられているが、この作品はチェスタトンのブラウン神父シリーズの中でも一、二を争う名作「見えない男」のオマージュである。 クイーンがなぜこの事件を11月のメインの行事、感謝祭の前日に設定したのかは最後の一行で判明する。この台詞をどう受け取るかで作者クイーンの評価が分かれるだろう。私はちょっとあざといなと感じた。 最後の12月はやっぱりクリスマス。「クリスマスと人形」はクリスマス・イヴに起きた盗難事件を扱っている。 なんと最後を飾るのはクイーンの手によるエラリイ対怪盗という頭脳対決。しかも本編に登場するコーマスは作中でも述べられているように、ルパンの継承者とも云える凄腕の怪盗だ。つまり本書はエラリイとルパンの対決譚と云ってもいいだろう。 前作『~カレンダー<1月~6月>』で久々に初期の知的ゲーム的面白さを堪能でき、本書においても同様の愉悦を期待したが、いささか失速感があるのは否めない。作品に瑞々しさがなく、作者クイーンの息切れが行間から聞こえてきそうだ。 本書でも前作同様、それぞれの月に関係して事件が起こるが、本書では一部こじつけめいたものを感じた。 まず7月に起きた事件を扱った「墜落した天使」では独立記念祭に使われる爆竹がエラリイに犯人のトリックを看破する手がかりとなっているのはよい。 しかしその次の8月の「針の目」は月長石がオウガスタス・シーザーの月だから殺人が起こるというはいささか無理を感じる。月長石は6月の誕生石の1つだし、おまけに月長石は作中には出てこないのだから、なんとも苦しい。 9月は新学期ということもあって「三つのR」では舞台が大学内となっている。10、11、12月の短編「殺された猫」、「ものをいう壜」、「クリスマスと人形」はそれぞれアメリカで有名な行事であるハロウィン、感謝祭、クリスマスがテーマだ。その中でも「ものをいう壜」は感謝祭そのものよりも最後の一行の台詞のみそれを感じさせるのだが。 そしてこの両短編集は趣向的、内容的にも対を成しているように感じた。 それぞれの短編が発表された年はまちまちであり、恐らく1月から順番に発表されたものではないだろうが、後半の本書は前半の作品を下敷きにした発展型のように感じた。しかしそのためにシンプルさに欠けており、ロジックの妙を前半よりは楽しめなかった。 あえて個人的ベストを挙げるとすると「殺された猫」か。クイーン作品の特徴であるストーリーに溶け込ませた何気ない描写が最後に犯人特定のロジックの決め手となるという趣向があるが(例えば『Zの悲劇』の死刑執行シーン)、これはそれを堪能できる作品。まさか散らかり放題の部屋でエラリイとニッキイがあちこちにぶつけ、文句を云い募るスラップスティック的なシーンが推理の材料になるとは思わなかった。こういう無駄のない作品を読むと本格ミステリの美しさを感じる。 しかし上にも書いたようにミステリの趣向としては『~<1月~6月>』の各編に類似しているため、二度同じような話を舞台を変えて読まされたと感じてしまった。評価の星の数は一緒だが、こちらは7ツ星の下というべき位置づけ。 クイーンが意外とヴァリエーションのないことに気付かされた、ちょっと寂しい読後感だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はある家で何が起きたのかを残された手がかりで解き明かす男女2人の物語。しかしその家には女性の失われた過去が関係している陰惨な事件が隠されていた。
一枚一枚皮を捲るかのように散りばめられた手がかりによって次第にその家で何が起こったのかが明かされていく。その過程は非常にスリリングだ。 読書というものは不思議なもので、こちらが意図していないのに同じようなテーマを扱った作品を続けて読む、そんな不思議なことがよくある。まるで神の導きによって吸い寄せられているかのような錯覚を覚える。 本書もそんな奇縁を感じることがあった。というのもこの前に読んだ篠田氏の『原罪の庭』で取り上げられていた幼児虐待がテーマとして扱われているからだ。 虐待はそれをする親が過去に虐待をされていた経験を持つという負の連鎖から沙也加は自分が実の娘に虐待めいた酷い仕打ちをするのは自分も虐待の経験があるのではないかと疑い、自分が小学校以前の記憶が一切ないことに愕然とし、その記憶を辿るために亡き父が残した地図に示された場所に向かうというのが本書の発端だ。 以前も書いたがこの90年代というのは“自分探し”というのが一つのブームになった時期でもある。 “自分探し”というのは文字通り自身の足跡を辿り、自分がどんな人間なのかを探ることも指すし、心理テストを行い、自分の願望や性格をその結果から客観的に知るという手法もまた自分探しの一環であった。当時『それいけ!!ココロジー』に代表される心理ゲームの番組が非常に流行っていた。 そして東野氏もこの頃人間の心をテーマにした謎に関心があり、『宿命』、『変身』、『分身』など人間の心理もしくは人間そのものの存在をテーマにした作品を著している。 本書はその一連の作品群の中の1つといってもいいだろう。 しかし失われた記憶を取り戻した暁には常に苦い思い出だけが残る。知らないままにしておいた方がいいこともある、一連の作品で東野氏はアンチミステリとも取れる宣言をしているかのように思える。 なんとも謎めいた題名『むかし僕が死んだ家』。 アイリッシュに「わたしが死んだ夜」という短編があったが、あれに比肩する魅力的な題名だ。 しかしこの内容はロジックで得心するものではなく、感情に訴える観念的な意味が込められている。 成長する過程で誰もが何かを失っていく。それは知らないでおればよかったものとも云える。 本書を読み終わったとき、結城昌治氏の『幻の殺意』を思い浮かべた。今まで生きてきた人生とはなんとも危ういバランスで成り立っており、それは一種の幻のようなものなのかもしれないとその作品では語られているが、本書の底に流れるメッセージも共通している。 今までの作品でも東野氏の作品は読後何か苦いものを残していたが、本書ではそれがいっそう濃く感じた。感情の層のもっと深いところにある部分をテーマに持ち出した作品、そんな風に感じた。 300ページ足らずの佳作だが、心に残る思いは思いの外、苦かった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『灰色の砦』は栗山満春と桜井京介との邂逅の話だったが、今回はシリーズ当初から謎にされていた蒼と京介との邂逅が語られる。本書で蒼の本名がようやく明らかになるわけだ。
そしてこの蒼と桜井との邂逅の話をもってシリーズの第一部終了となる。 その事件が薬師寺事件。それは1986年白金の薬師寺家の温室で起きた陰惨な虐殺事件だった。 薬師寺静とその妻みちる、そして静の連れ子深堂華乃が天井から逆さまに潰され、それぞれ人相も判らぬほどの惨たらしく傷つけられ、さらに館の主人美杜みすずは寝室で睡眠薬過剰摂取で死んでいた。そして温室には香澄が骨董品のチェストに1週間閉じ込められており、手にはみすずが飲んだ睡眠薬と同じ薬品が握られていた。温室内は被害者達の血で塗り立てられ、ガラスについた血の手形や足跡は子供のそれしか残されていなかった。つまり全ての状況は薬師寺香澄が犯人であることを指していた。 この薬師寺香澄が後の蒼となるわけだが、彼にこれほどまでに過酷な過去があったとは思わなかった。事件のショックで言葉を失った彼がいかにして蒼となるのかが本書では語られる。 また有名な建築が作品の舞台、モチーフとなるのがこのシリーズの売りだが、今回は英国王立キュー・ガーデンにあるガラス張りの温室パームハウスを模した美杜邸の温室が惨劇の舞台となっている。 しかし本書では温室内で起きた4名もの被害者と一人の幼き生存者との間で何が起こったのかが焦点となっており、その建築的特徴が前面的に出るわけでない。 本書でテーマになっているのが幼児虐待。 今ではもう一般的になったが単なる暴力による虐待のみでなく、上手く愛情表現が出来ない親の体罰が実は虐待なのだということ。またネグレクトという育児放棄などが語られる。 特に蒼が経験した虐待はそれらをひっくるめた虐待のフルコースといったような感じだ。親の経営する病院で親の息の掛かった医者達に自閉症と診断され、学校に就業するのは不可能とされて自宅での監禁生活を強いられ、愛し方の解らない母親に虐待と同義の扱いをされていた。 蒼という人物に厚みを与えるためとはいえ、よくもまあ、これだけの仕打ちを考え、詰め込んだものだ。 しかしそんな篠田氏は折に触れ推理小説批判とも取れる発言を登場人物にさせており、本書でもそれは見られる。 今回は顔をズタズタにされた死体が出てくるが、本格ミステリでよく用いられる入れ替わりトリックについて案外辛辣に批判している。現代の検屍技術が発達した現代では顔を潰したり、指紋を焼いたりしただけではごまかせたりしないと述べている。 篠田氏のミステリに対するスタンスは斯様に建築探偵という建築物に込められた関係者の思いを推理する探偵を配し、それに纏わる殺人事件はその過程で解かれるという、本来謎の焦点となるべく対象を微妙にずらしていたりと、他の本格ミステリ作家と比べると一歩引いた冷めた視座に位置しているように思える。それがゆえに謎解きのレベルとしてはいささか低く感じるのが仇になっている。 つまり篠田氏が書きたい建築物に絡めた物語を語るのに、本格ミステリという手法が最も適していた、そんな風に思える。 従ってミステリに対して他の作家ほど知識が浅薄なのか、そのため迂闊な記述があるようだ。 例えば本書では第一容疑者である香澄を二重人格者と神代教授が疑うことについて、京介がいまどき多重人格というネタは今では古臭い手だと一蹴する場面があるが、作中の時代は主題である薬師寺家事件が起きた1986年の3年後の1989年である。 巷間で多重人格者が話題となるきっかけとなったダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』が訳出されたのが1992年。つまり作中年よりも3年も後のことで、この作品以降多重人格物がドラマ、映画、小説、ノンフィクション、マンガなどあらゆるメディアで取り上げられるようになった。この記述は篠田氏の明らかな調査不足であろう。文庫化の際にこれは修正してほしかった。 篠田氏の作品の結末はいつも苦い物が残る。それは登場人物たちが自虐的なまでに自己犠牲精神が強いからだ。 本書でもそんな人間達が揃っているし、何しろ探偵役の桜井京介が自己犠牲的であり、破滅型思考の持ち主だ。 本書は桜井の意味深なメッセージで物語が閉じられる。このシリーズの先行きはある不幸に向かっていくようだ。決して明るくないであろうその前途に魅了される物を感じるからこそファンがいるのだろう。 あいにくと私はそこまでこの世界に耽溺できないが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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クーンツの手によるフランケンシュタイン譚。
メアリー・シェリーのオリジナルをリメイクするのではなく、彼女が生み出したフランケンシュタインが実は現実の産物であり、その人造人間、そして創造主であるフランケンシュタイン博士が今なお21世紀の世に生きているというパスティーシュになっている。 正直に云って、最初は全く期待していなかった。今更フランケンシュタイン?クーンツも他の作家からアイデアを拝借するなんて衰えたか? そんな侮りめいた先入観を抱いたが、読後の今、己の不明を恥じる思いで一杯だ。 これは面白い! 最近読んだクーンツで面白かったのはオッド・トーマスシリーズの第1作だったが、本書はそれに次ぐ面白さと云えるだろう。 メアリー・シェリーが創造したフランケンシュタインを換骨奪胎してクーンツなりのアレンジを加えて、世界観を広げていることに感服した。 まず原典では愚かな犠牲者とされているフランケンシュタイン博士、そして怪物とされている人造人間の価値観、役割を180度転換させているのがミソだろう。 フランケンシュタイン博士ことヴィクター・ヘリオスは現代まで生き残り、世間では実業家として名を馳せているが、実は自らが生み出した完璧な人類、新人種による新世界の創造を夢見ており、近い将来全ての人間を新人種に変換して理想社会を作らんと画策している。 一方彼によって生み出された忌まわしい怪物はデュカリオンと名を変え、200年もの間、知識と人間の文化、宗教を学び、逆に人間という存在に敬意を払うまでに改心している。 つまり悪玉と善玉が逆転しているのだ。 さらにヴィクターは200年の間に蓄積した知識で新人種と呼ぶ人間をしのぐ身体能力を持ち、感情を制御し、ヴィクターに従順である存在を多く生み出し、人間社会に溶け込ましていた。 通常ならばこの新人種対人間+デュカリオンという二極対立の構図を描くのがセオリーだが、クーンツはさらにヴィクターが生み出した新人種たちが自らの生き方に疑問を持ち、本来逆らうことが出来ないようにプログラミングされているのにもかかわらず、創造主たる博士に叛旗を翻すという、もう1つの敵を設定した。 これにより物語に幅が広がり、様々なドラマを生み出す効果が生まれた。 作者によればこのシリーズは三部作になるとのことだが、解説によれば5巻目が近日中に本土アメリカで刊行されるとのこと。従ってもう1つのシリーズ、オッド・トーマスとは違い、本書で起きた事件や出来事のいくつかは完結せずに本書以降に持ち越される。 例えばカースンの自閉症の息子アーニーの幸せそうな笑顔を見て、なぜ彼がそんな幸せなのか秘訣を知りたいと思い、彼と逢うことを決意し、ヴィクターの研究所を脱走する。 また神父として人間社会に送り込まれた新人種パトリック・デュケインは神への信仰を重ねることで、ヴィクターに逆らえないプログラムを凌ぐことに成功する。 そして本書における悪役である新人種の警官ジョナサン・ハーカー。彼は誰も愛せない新人種の特徴に絶望し、その孤独を癒すために幸せを追求するが、次第に彼の内部に何かが生まれ、やがてその存在が彼を支配し、生まれた新たな生命はいずこへと消えてしまう。 これらが今後の物語でどのように物語に関っていくのか、非常に興味深いところだ。 また本書で最も印象に残ったキャラクターは連続殺人鬼ロイ・プリボーだ。 彼は完璧な女性を求めて、理想のパーツを持つ女性を殺し、そのパーツを切除して冷蔵庫に保管して愛でる精神異常者だが、この設定を読んで思い出したのが2つある。 1つは島田荘司氏の『占星術殺人事件』で出てくるアゾートだ。これは美しい女性のパーツを組み合わせて生み出された完璧な美女のことで全く同じだ。 しかしそれよりも強く思い出したのは荒木飛呂彦氏の『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部に出てくる吉良吉影だ。日本の漫画は数多く海外へ輸出されているが、まさかクーンツがジョジョを読んでいたとは思えない。しかしよく似た人物設定だ。 しかし2000年代になって、なぜアメリカモダンホラー界の大御所のクーンツが今更ながらにオッド・トーマスや本作のフランケンシュタインといったシリーズ物を手がけることになったのだろうか? 確かに最近のノンシリーズは似たような設定をキャラクターと場面を変えて語っていただけのマンネリ感はあった。それを打開する為のシリーズ作品の創作なのだろうか? しかしオッド・トーマスシリーズが主人公オッドの一人称叙述で彼の考えや感じ方を逐一細かく叙述しているがために饒舌になり、1章の分量も多いのに対し、本書は三人称叙述で1つ1つの章が10ページに満たなく、中には2ページという短さで語られることから非常にテンポ良く物語が展開しているのが今までのクーンツ作品では見られなかった特徴だ。これが映画のカメラの切り替えを思わせ、非常に小気味よく物語が進むのも心地よい。 何より、最近のクーンツ作品で見られた陰鬱になる現代社会の抱える異常な家族環境のエピソードや説教くさい警句が極力抑えられているのが本書のスピード感を醸し出し、エンタテインメント性を高めている。 全くノーマークだった本書が予想外に面白かったのは収穫だ。クーンツ未だに枯れず。版元には一刻も早く次作の訳出を願う。 |
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ジェフリー・ディーヴァー自身が作家生活の転機となった作品と評したのが本書。精神病院を抜け出した患者マイケル・ルーベックの逃走とそれを追う者たち、そしてマイケルを恐れる者たちの三者三様の物語。
追う者と追われる者という設定から往年のクーンツ作品を思い出した。 邪教集団トワイライトの襲撃』、『ウォッチャーズ』など彼の傑作はこの手の作品が多い。従って本書もその出来栄えを期待したが、それらと比べるといささか劣るというのが正直な感想。その先入観だけでなく、本書は随所に「クーンツらしさ」というのがそこここに見られる。 最も顕著な特徴が上に書いた逃走する者とそれを追う者の二極構造を描いたロード・サスペンス的物語構成であるが、それ以外にも敵役であるマイケル・ルーベックの造形。巨躯で怪力を誇り、精神分裂症にもかかわらず、機転で追っ手を撒くしたたかさを持っている。 またルーベックを追う者のうち、元警官のトレントン・ヘックは犬を飼っており、このエイミールという犬に絶大なる信頼を持っている。彼がエイミールを飼うに至ったエピソードは警察犬のブリーダーとしての知識を得られると共に、恐らくほとんどのブリーダーが抱いている思いをも代弁しているかのようだ。 この犬が物語のアクセントになっているのもクーンツ色を感じる。そう、まるでクーンツが著した『ベストセラー小説の書き方』をテキストにして書いたような錯覚を受けた。 ただ違うのはクーンツの敵役はこの上もなく強大な力を持ち、残忍で己のルールに従い、何者も寄せ付けない圧倒的な強さが強調され、主人公は果たして助かるのか?とハッピーエンドで終わることを予想しながらも読者は今度こそはダメなんじゃないか?と思わさせられるが、ディーヴァーの描くルーベックは精神分裂症で実はかなり臆病であり、リズに逢う目的のためにそれらをどうにか克服していこうとする。つまり敵役としてはさほど脅威ではなく、寧ろ社会的弱者ですらあるのだ。これがディーヴァーの味付けだろう。 さてこの追われる者、追う者、そして恐れる者それぞれに事情があるのは物語の定石だ。 追われる者、マイケル・ルーベックはインディアン・リープ事件で逮捕された犯罪者だ。彼は精神分裂症患者としてマーズデン州立精神病院に収容されていたが、そこを脱走し、追っ手を狡猾な知恵でまき、時には巨躯から繰り出す腕力でなぎ倒す。 追う者たち、精神科医リチャード・コーラー、元警官トレントン・ヘック、弁護士オーエン・アチスン。彼らはそれぞれの事情でルーベックを追う。 コーラーはルーベックの担当医であり、彼を保護し、被害が拡大する前に捕らえて病院へ戻そうとする。 ヘックは病院から提示された1万ドルの賞金を元手に別れた妻ジルとよりを戻すことを求めて彼を追う。 しかし次第にその目的も変容していく。オーエンは妻リズをルーベックの魔の手から守るべくルーベックを仕留めんがために彼を追う。 恐れる者、リズ・アチスンとルーベックを繋ぎ合わせているのは彼女がルーベックの裁判で証言したインディアン・リープ事件だ。このインディアン・リープ事件が何なのか?この真相はずっと引っ張られる。 さらにマイケルが唱える“イヴ”とは何なのか? まず物語のキーとなるインディアン・リープ事件だが、これは上巻から下巻に渡る中間部でその内容が語られる。 それはリズとオーエン夫妻が当時近所付合いをしていたギレスピー夫妻とリズの教え子のクレア、そしてリズの妹ポーシャと共にインディアン・リープへピクニックに行った際に起きた忌まわしい事件のことだ。 彼らはそこでロバート・ギレスピーとクレアを洞窟の中で亡くすという惨劇に出くわし、そこの現場にいたのが当時放浪中の身であったルーベックだった。そしてリズは裁判でルーベックが有罪となる証言をし、精神疾患を鑑定されたことでルーベックはマーズデン州の精神病院に収監されたのだった。 しかしこの物語の反転はディーヴァーにしてはなんとも普通な感じがして仕方がない。ページの手を止めるような驚きもなく、なるほどねのレベルで終わってしまった。 冒頭にも書いたがディーヴァー自身が作者人生の転機となった作品と述べたことで期待値を高くして望んだが、その出来栄えは凡百のミステリと変わらず、寧ろそれまでのディーヴァーの作品の中にもっと光るものがあったように感じた。 次の作品にディーヴァーマジックを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーン版ミステリ歳時記ともいうべき短編集。本書は1~6月までの事件が収録されている。
まず先鋒を切るのは「双面神クラブの秘密」。 ミッシングリンク物でミステリの興趣をそそる内容。即ち秘密クラブのメンバーの各人に共通する鍵があるというものだが、これを解き明かすのは日本人には辛いものがある。しかし知的パズルゲームとして純粋に面白い作品だ。 次の「大統領の5セント貨」は収集家がエラリイの許へと集まる奇妙な幕開けから始まる。 これも非常にアクロバティックな論理展開が面白い作品だが、推理の鍵となるのがやはりアメリカの歴史とジョージ・ワシントンの性癖という日本人には解りにくい鍵だったのが残念。 3月は「マイケル・マグーンの凶月」だ。 事件の真相よりもこの作品には当時アメリカミステリシーンで台頭していたハードボイルドを揶揄する表現が多々出ているのが読みどころ。 チャンドラーしかり『マルタの鷹』しかり。 マイケル・マグーンは彼らが描く私立探偵の流れに沿う人物として書かれているが、ダサい服装に冴えない風貌と、読者の幻想を打ち砕く容貌である。そして彼がエラリイ・クイーンの許へ事件解決の依頼に来るという展開はハードボイルド探偵ではパズラーは解けないとあからさまに云っているように思えた。 次の「皇帝のダイス」は最後に至ってなるほど、4月の物語だと思わせさせられる。 これは最後の一行の為の作品。 恐らくカーが得意とするオカルト趣味的本格ミステリを目指した作者がこの頃ミステリシーンを席巻していたハードボイルド小説におけるリアリティについて最後の最後で意識が芽生え、このような結末になったのではないかと勘ぐってしまう。 5月の最終月曜日は南北戦争の戦没将兵記念日。従ってそれに関係する「ゲティスバーグのラッパ」がこの月のお話。 クリスティの『ABC殺人事件』から着想を得たのではないかと思われる作品。 アトウェル(A)、ビゲロー(B)、チェイス(C)の3人の関係は南北戦争の生き残り。そして彼らには隠した財宝があり、最後の生き残りがその全てを手に入れることが出来る。最初に死んだのはA、次に死んだのはC、最後に死んだのはBとこの順序がエラリイの推理の鍵になるのだが、ここではさらに捻りが加えられている。 作品の雰囲気、最後のロジックはなんだかチェスタトンを思い起こさせる。 6月といえば梅雨を思い浮かべるが、それは日本だけの話。西洋ではそんな陰鬱なイメージではなく、華やかなイベントがある。ジューン・ブライド。本書最後を飾る「くすり指の秘密」は結婚に纏わる悲劇が語られる。 シンプル・イズ・ベスト。 たった一言、しかも正に誰もが気付いたであろうある事実が見えない犯人の靄を晴らすロジックの冴え亘る作品。 クイーンのいるところ犯罪有り。本書は1年を通じてその月に起きた事件を綴った短編集。各編はその月の出来事に関連している。 1月の「双面神クラブの秘密」は大学の年次会が行われる1月1日(これはアメリカの大学ならば通例なのかは判らないが)。 2月の「大統領の5セント貨」はワシントンの誕生日があることからワシントンに纏わるお話が。 3月の「マイケル・マグーンの凶月」は確定申告の〆切で申告書を盗まれた探偵の依頼が。 4月の「皇帝のダイス」は最後の最後でその基となるあるイベントが明らかにされる。 そして5月の「ゲティスバーグのラッパ」は南北戦争の戦没将兵記念日、6月の「くすり指の秘密」はジューン・ブライダル、といった具合だ。 月ごとの特色が十分にプロットに活用されているかといえばそうとは云えない。寧ろ各月の記念日や祝日、そして由来をアイデアのヒントに物語と綴ったという色が濃い。プロットと有機的に組み合わさっているのは「皇帝のダイス」ぐらいか。 しかしなんといっても本書ではクイーン初期のロジック重視のパズラーの面白さが味わえるのが最大の読みどころ。それぞれ50~60ページという分量で語られるそれぞれの事件は無駄がなく、作品もロジックに特化された内容で引き締まっている。 さらにニッキイ・ポーターとエラリイのコンビが楽しめるのが一番の読みどころ。シリーズのコメディエンヌとも云えるニッキイとエラリイのやり取りは読書の絶妙なスパイスとなってクイクイ読まされてしまう。 しかしニッキイはどうやら短編のみの助手らしい。長編でも出てくれればいいのだが、後期クイーンシリーズのシリアスさには合わないのかもしれない。ニッキイのお陰で短編は実に明るい雰囲気で読める。 後期クイーンの探偵の存在意義が触れられるのは最後の「くすり指の秘密」ぐらいか。この作品はロジックの美しさといい、この結末といい、個人的ベストだ。 次点ではチェスタトン風の雰囲気とクリスティ的論理が融合した「ゲティスバーグのラッパ」を上げる。 他に緻密なエラリイのロジックを楽しめるのは「大統領の5セント貨」だが、これは数学の公式を解くような精緻さとあまり日本人に馴染みのないアメリカ初代大統領のエピソードが鍵となっているので、純粋にそのロジックの美しさを楽しめないのが玉に瑕。 ここに収められた6編にはクイーンとしか云えないロジック重視の作品もありつつ、カーを髣髴させるオカルト趣味的な作品に、隔絶された社会での事件というチェスタトン的な独特な雰囲気の物、さらにクリスティ的な論理の妙を楽しめる作品とヴァリエーションに富んでいるように感じた。 これは1945年に創立されたアメリカ探偵作家クラブがクイーンの作品に影響を与えているように思う。今までダネイとリー2人のアイデアで作られていた作品に、クラブの創設で他の作家との交流が深まり、お互い刺激しあうことでアイデアの幅が広がり、作風にも他作家の影響が出てきたのではないだろうか? 奥付を見ると収録作が発表されたのは1946年以降だからこの推察はあながち間違いではないだろう。 しかしクイーンは短編でも面白い。「くすり指の秘密」クラスの作品があと2作収録されていれば文句なし星10を進呈しただろう。 残りの7月~12月の作品が愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名が示すように主人公が出くわす「怪しい人びと」が織り成す奇妙な事件を綴った短編集。
「寝ていた女」は会社の同僚たちにホテル代わりに小遣い稼ぎで自分の部屋を貸すことにした男がある日家に帰ると寝床に女が寝ていて、その女が誰が相手だったか解らないから調べて欲しいと奇妙なお願いをされる、というもの。 本編でも語られているが、往年のハリウッド映画『アパートの鍵貸します』をモチーフにした作品で、東野氏らしい着想の妙が光る。温故知新の好例ともいえる作品で、小遣い稼ぎの部屋貸しが犯罪に利用されることになるとは実に上手い。なんか実際ありそうな話だ。 次の「もう一度コールしてくれ」は老人宅に強盗に押し入った2人組のうちの一人がある家に隠れる。その家主には過去に因縁があって・・・という話。 なかなか語り手の男が南波勝久なる男の家に強盗の逃亡中に押し入った意図が解らず、暗中模索しながら読んでいたが、過去の2人の因縁というのが予想外の物。 人生を分けた試合の判定の真実も実に考え抜かれており、なかなか読ませる。 非常に親近感を覚えたのが「死んだら働けない」。 工場内で起こる密室殺人。私自身工場勤務をしていただけに非常に臨場感と現場の雰囲気、そして登場人物の心情が判る作品だ。なんだか他人事とは思えない作品だった。 「甘いはずなのに」は新婚旅行でハワイに向かう夫婦の話。 女性の、愛する者に信じてもらえない哀しさが作品に深みを与えていると思う。 「灯台にて」は幼馴染2人が学生旅行の時に持ったある秘密の話。 優越感と劣等感を持つ友人2人というシチュエーションは『宿命』などで東野の得意とする設定なのだが、劣等感を持つ側が相手を見返そうとすることで生まれる事件というのは面白い。 東北の日本海にある灯台で灯台守に泊まるよう強要された主人公が陥る状況は容易に解るが、これにライバルを加えたのがミソ。正に2人だけの墓まで持っていくべき秘密だ。 「結婚報告」はかつての友人から送られてきた結婚報告の手紙が意外な展開を見せる。 同封された写真の顔が友人の顔を違うとなれば整形かと思うが、東野氏はそんな安直な方法を取らない。しかしちょっと書き流したような作品だ。 最後は唯一外国を舞台にした「コスタリカの雨は冷たい」。 これは舞台をコスタリカなど発展途上国にしたことで説得力が増す真相だ。しかし一見海外旅行中の災難を書いただけのような作品の中に強盗事件の周到な手がかりと意外な犯人を持ってくるあたりに東野圭吾氏のミステリマインドを感じる。 過去の東野作品を匂わすようなテイストを盛り込んだ短編集で収録された作品はよくよく気づいてみると1編を除いて全て一人称叙述の作品だ。つまり主人公の視点で語られている。事件に巻き込まれた人物が抱える心理状態や違和感が主体となっている。つまり短編集の題名である「怪しい人びと」とは主人公を取り巻く人たちなのだ。 しかし本書で語られる事件そのものに目新しさはないだろう。これぞ東野圭吾だ!と快哉を叫ぶような大トリックやどんでん返しがあるわけではない。 しかし明らかになる事件に関係する人それぞれの心の持ちように東野氏ならではのエッセンスが込められているのだ。 「寝ていた女」の犯人の本性、「もう一度コールしてくれ」の元審判南波の昭和人間的厳格さ、「死んだら働けない」のワーカホリック係長に辟易する犯人の心理、「甘いはずなのに」の容疑者が本当のことをあえて云わない心持ち、「灯台にて」の幼馴染の主人公二人の精神的優劣性がもたらした事件といったように謎の真相に至った心理の綾が読みどころだといえる。 個人的ベストは「灯台にて」。このブラックなテイストと読後感はなかなかいい。ある筋からの話によれば、なんと経験談とのこと。迫真性があるわけだ。 そして工場勤めの経験ある私の主観を交えて「死んだら働けない」が次点となる。また「甘いはずなのに」も印象に残った。 しかし軽めの短編集であることには間違いなく、加えて東野の読みやすい文体もあって、印象に残りにくい作品になっている。物語の世界に引き込む着想と展開は素晴らしく完成度が高いだけになんともその辺が惜しいと思う。 出張の新幹線の車中で暇つぶしに読むのにもってこいのキオスクミステリだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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4篇の中短編からなる作品集。
まず表題作は哀しい天才スウィマーの末路を描いた物語。 なんとも哀しい物語だ。アディーノ・シルヴァという、若き天才スウィマーの栄光を極めた彼女がその輝きを見る間に失い、凋落していくさまが非常に哀しい。 特に彼女が性欲過剰で何もせずともエクスタシーに達し、時と場所を選ばず醜態を晒すのがPSAS(持続性性喚起症候群)という病気であったことが近代になって認知され始めただけに当時ロボトミー手術を施されたのが哀しい。このアディーノは作者の創作だが、末尾に添えられた作者自身の解説によれば昭和の時代に実際に手術を施された桜庭章司氏が実在のモデルとのこと。 そして今までの島田氏ならばこの国民的ヒロインの奇行の内容を大脳生理学などの学術的分野の見地から紐解いていくことがミステリとしての主眼だったのが、本書ではさらに加味して、同日同時刻に同じ銃で遠く離れた人物が殺されるという魅力的な謎を提供してくれる。 しかしこれはヒントが十分散りばめられているのでトリックは解った。謎自体は難しくはないが、日常風景から魅力的な謎を創出する島田氏の奇想を評価したい。 続く「人魚兵器」は御手洗潔ならぬキヨシ・ミタライが登場する第二次大戦の戦争秘話。 その題名から内容は容易に想像がつくだろうが、これは第二次大戦時に数多の実験をしたドイツの人体実験を語るものだ。 コペンハーゲンの人魚像を端緒にして人魚のミイラから人魚のような生物へと人魚を軸に移り行く物語の行く末は人間とイルカの混合種を創り、人魚兵器として爆弾を抱かせて敵艦へ激突させる作戦の構想があったというものだ。 恐らくこれは作者の創造だと思われるが、人体実験云々は恐らく本当だろう。ユダヤ人を実験体として人非人的実験を繰り返したナチスの人智を超える残虐さには改めて身の毛がよだつ。 3作目は「耳の光る児」。 耳の光る子供という一種SF小説になりそうな題材をミステリの対象として扱う島田氏の着想の妙に感心した。この謎も合理的に解かれるが、遺伝子工学という専門的な知識を要するため、読者はキヨシが開陳する知識に従うしかない。知的好奇心くすぐられる内容だが、少しは読者が推理する余地が欲しかった。 最後の一編「海と毒薬」はミステリではなく、石岡が御手洗に宛てた手紙という体裁を取った、あるファンの話だ。 ファンレターの主は看護師の女性。O市の看護短大に通っていた時に助けた轢き逃げの被害者との悲恋の顛末とその哀しみでどん底まで落ちた人生から立ち上がる契機となったのが『異邦の騎士』のお陰だと手紙には綴られている。 島田氏特有の哀愁漂う話で物語的には特別なものはない。本書が刊行された時期の島田氏は物語の復興を唱えており、『最後の一球』、『光る鶴』など社会的弱者への暖かい眼差しを感じさせる作品を著しており、本編もその流れの1つと云えるだろう。 題名は遠藤周作の名作と一緒だが、こちらは劇薬である硫酸Dの澄み渡るような碧さを海のそれに喩えたことに由来する。しかもその海は適わぬ恋となった男性といつか2人で行く約束を交わしたモルディブの海だ。 しかし改めて『異邦の騎士』は島田にとって本当に大切な作品なのだなと感じる。本書以外にもこれまでに『御手洗潔のメロディ』収録の「さらば遠き光」、『最後のディナー』収録の「里美上京」にも語られる。横浜の変貌とシンクロするかのように折に触れ語られるようだ。まあ、作中筆者である石岡にとって忘れられぬ事件であるのだから仕方はないのだけれど。 世界を舞台にしたミステリ短編集とでも云おうか。番外編とも云うべき「海と毒薬」を除いて1作目の表題作はポルトガルのリスボン、2作目の「人魚兵器」はドイツのベルリン、3作目の「耳光る児」ではウクライナのドニエプロペトロフスクが主要な舞台となっており、それ以外にもコペンハーゲン、ウプサラ、ワルシャワ、モスクワ、シンフェロポリ、サマルカンドも舞台となっており、短編という枚数からすればこの舞台の多彩さは異例とも云えるだろう。 作者の意図は世界で活躍する御手洗潔を描きたかったのではないだろうか。 また本書で実際の主人公を務めるのは必ずしも御手洗ではない。2,3作では御手洗の活躍が伝聞的に語られるが、表題作では彼のウプサラ大学の同僚ハインリッヒ・フォン・シュタインオルトが謎を解き明かす。彼はウプサラ大学の中で最も御手洗と近しい友人だったようで、2、3作でも語り手を務める。外国の石岡的存在なのだろう。 21世紀本格を提唱する島田氏は現代科学の知識をミステリの謎に溶け込ませているが、本書でも表題作では血流制御内科学の教授が語る持続性性喚起症候群(PSAS)という特殊な症例が、「人魚兵器」ではクローン技術の軸となる発生生物学がキーとなり、「耳光る児」では遺伝子工学の知識なくしてはSFめいた謎は解けない。 かねがね云っているがこういった謎は知的好奇心をくすぐりはするものの、それを謎のメインとされると読者との謎解き対決とも云える本格ミステリの面白みが半減するように感じる。 しかしいい加減私も島田氏の作風転換に馴れなければならないだろうけど。 しかしよくもこんな話を思いつくものだ。上に述べた最新医学・生物学分野の知識以外にも大航海時代の背景にモンゴルの欧州侵略といった歴史の授業で習った出来事を学校では習わない側面をミステリの謎の解明につなげる趣向など、島田氏の描く物語は他のミステリ作家の一歩も二歩も先を行っている感じがする。 本書は一見バラバラのような短編集に思えるが、実は一つのモチーフが前編に語られている。 それは人魚。 人魚といえばデンマークの国民的作家として歴史に名を残したアンデルセンの『人魚姫』が有名だが、島田氏が本書でその人魚をモチーフに選んだのは物語作家宣言を仄めかしているように感じたのは考えすぎだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回はルーン物でもなく、ジョン・ペラム物でもない純然たるノン・シリーズの1篇。
よくよく考えてみると本書は私にとってディーヴァーの初のノン・シリーズ物だ。そのせいだろうか今まで読んだ作品に比べて主人公を務める保安官助手ビル・コードの存在感が薄いように感じた。 今回主人公を務めるビル・コードは舞台となるニューレバノン市で生まれ育った男だが、過去にセントルイス市で刑事に就いており、ある事件が元で辞職をし、故郷に戻って来た際に保安官に再就職した男だ。彼の過去とはセントルイス市警在籍中に自分のミスで同僚を死なせたというもの。再就職の際はその件については触れておらず、いつそれが暴かれるか不安を抱えている。 人物設定としてはオーソドックスと云えばオーソドックスで、しかも過去に人に死に関わり、それがスキャンダルとなったという点ではジョン・ペラムに似ている。しかしそれが本書では有機的に物語には寄与せず、単なる設定だけになっているのが惜しい。ジョン・ペラムシリーズではそれが足枷となって彼を苦境に陥れていくのに本書ではそれがない。 本書に散りばめられているのは現代社会が抱える問題である。 ビルにはセアラという学習障害児の9歳になる娘がいるが、妻のダイアンはその事実を頑なに信じようとせず、寧ろセアラは非常に悪賢い娘でいつも知恵を働かせては親を困らせようとしていると、自身の都合のいい解釈の殻に閉じこもって譲らない。さらにビルもまた薄々感じながらもノイローゼ気味の妻を思って敢えてそれを口に出そうとしない。そしてそれがビルとダイアンの夫婦間の不和を生み出している。 そしてビルたちにはジェレミーというもう一人子供がいて、彼は障害も持たず、レスリング部でエースとして頑張っている家族の希望である。しかしこのジェレミーもまたある問題を抱えている。 さらに被害者のジェニー・ゲベンは複数の男と寝る尻軽女であり、その相手の1人である大学教授助手ブライアン・オークンは彼女以外の生徒をつまみ食いしている。 他にも夫のDVに悩まされるSF好きの空想癖のある高校生フィリップなど、病んだ世相を反映しているような人物が登場する。 しかし私にはこれらがもはや全く作り物めいて見えなくなっている。寧ろこの作品に出てくる人たちは我々の隣人にいても全くおかしくない、そう思えるようになってきた。 実際私も子供を持ち、色んな親子と交流し、また子育て関係のセミナーを受けに行くと、本書に挙げられているよりももっと酷い環境の家庭があることを見聞きしているからだ。従ってここに書かれた彼ら・彼女らは私にとって現実味のあるキャラクターたちであった。 しかし本書の事件の焦点となる地方大学オーデン大学は淫欲の巣と化した伏魔殿のようだ。教師や大学院生は教え子とヤリまくり、レズやバイセクシャルが蔓延し、教師達は愛欲に夢中になっていく。 地方大学という閉鎖空間で繰り広げられる精神の歪みを描きたかったのだろうが、かなりドロドロとした状況だ。もしかしてこういうのはザラなんだろうか? さて本書が書かれたのは1993年。この時期のミステリシーンはデイヴィッド・マーティンの『嘘、そして沈黙』などトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』に端を発したサイコスリラーブームの只中にあった。 この洗礼をディーヴァーも例外なく受けたようで、出版社、もしくはエージェントの要請か解らないが、本書ではカルト狂信者の殺人がテーマにあり、殺人鬼の名前も“ムーン・キラー”と正にサイコキラーど真ん中のような名前のついた敵役が登場する。 しかしこれが読み進むにつれてディーヴァーの世に蔓延るサイコキラー物に対してのアンチテーゼであることが次第に解ってくる。保安官事務所の捜査方針が保安官がカルト狂信者による犯行だとみなしているのに対し、捜査主任のビルは盲目的にそれを信じることを拒み、関連性を見つけようとしている。そして決定的なのは大学の警備課長がビルの許へ持参する精神障害者による犯罪を分析した本について述べるところだ。読書の興を殺ぐので詳しくは書かないが、この内容は当時数多作られたサイコホラー物の中には安直に創られた狂者の論理による眉唾物の紛い物が出回っていたと告発しているように感じた。 私はここにディーヴァーの、安易に流行に流されまいとする作家気質を感じた。いや寧ろ流行を逆手にとってそれを自分流に料理しようとするしたたかさを感じた。 さて読むにしたがって次第によくなってくるディーヴァーだが、本書では特に上巻の引きに注目したい。アメリカの映画やミステリやホラーに出てくるいわゆるオタクの類の異性にもてない系の登場人物の1人が実に意外な人物であったという仕掛けだ。 知らぬ知らぬのうちに文章に散りばめられた人物描写に誘導されていたことがたった一行で知らされる。これがディーヴァーの技法かと感嘆した。 さらに彼のミスリードの手法がだんだんと見えてきた。つまり匿名性をたくみに利用して読者の錯覚を引き起こし、ある時点でそれを印象的な一行でズドンと爆弾のように喰らわせるのだ。つまり綾辻行人の『十角館の殺人』のアレと云えば、解りよいだろうか。 しかし今回はその爆弾を落とし損ねたのではないか?読みながら本書で作者が仕掛けた叙述トリックを見破ったと思った。 しかしなんとも暗い結末だ。読後は主人公ビルの境遇の救いのなさに同情してしまう。 この終わり方を見ると本書はどうも続編の構想があったのではないか。しかしディーヴァーが本国でブレイクしたのはこの後に出版された『眠れぬイヴのために』から。本書はさほど話題に上らなかったと思われる。ジョン・ペラムやルーンに比べれば個性もなく、シリーズキャラとしては弱い。 ディーヴァーにしてはちょっと構成力不足を感じる本書。もしかして本書の題名『死の教訓(The Lesson Of Her Death)』の「教訓(Lesson)」とはこの出来栄えを教訓として、今後の作品に活かすという作者の意図が裏には込められているのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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桜井京介と栗山深春邂逅の物語。彼らがまだ大学1年生で輝額荘という下宿屋に一緒に住んでいた頃の話だ。
シリーズがある程度進むと、シリーズのゼロ巻目ともいうべき過去に遡った話が書かれるが、この作品もまさにそれ。しかし悔しいかな、こういう作品はなぜか面白い。 今までこの作者の自嘲気味な文体が気になり、それが読書の愉悦に浸る大きな妨げになっていたが、本書では栗山深春の一人称叙述で彼の斜に構えた性格と相俟って、この減らず口が挿入される癖のある文体が逆に雰囲気にマッチしていて、今までの作品の中で一番面白く読めた。 それはまたシリーズ0巻目と云える桜井と深春との初対面という過去に遡った物語であるノスタルジックな設定もこの文体に合っていたのかもしれない。 また建築探偵と名付けられているこのシリーズでは毎回建築家にスポットを当てたエピソードが語られる。今回話題に上る建築家はあのフランク・ロイド・ライトだ。ここで作者は桜井の口を借りて、ライトの自伝に書かれた内容がほとんど彼の虚構だと主張する。その主張で描かれるライトは嫉妬深く、カリスマの名をほしいままに尊大に振舞う嫌味な建築家という肖像だ。 これは作中に挿入された註釈によれば実際に彼の研究家による意見であることが述べられているが、逆にこの註釈は無くてもよかったか。というよりも孫引きで無く、作者独自の解釈を開陳して欲しかった。 そして常々この作家の作品に通底奏音として流れていたBLの影が本書では顕著に表れている。 唐突に輝額荘へ引っ越してきた建築評論家の飯村氏がホモであり、相手が大家の麻生はじめであるという推理はもちろんのこと、栗山深春の一人称で語られる本書では深春の桜井京介に対する感情が浮き彫りにされて、さらにBL風味を増している。 特徴ある探偵を創出するのが推理小説家の腕の見せ所だが、この類稀なる美貌を誇る探偵というのはやはり倒錯した感情を抱く一要素になり、どうも本格ミステリを読む側にしてみればなんとも物語にのめりこむのに抵抗感を抱いてしまう。しかしこの建築探偵シリーズは当時一二を争う同人誌の多さを誇ったのだから、やはりニーズはあっただろう。 そして肝心の事件だが、今回は犯人は解ってしまった。作者の散りばめたヒントは実にあからさまとも云うべき親切なものであり、確かにこの作品は桜井が謎解きをする前に解る。 とにかく本書はやっとこのシリーズの世界に浸れた作品である。桜井と栗山の最初の物語を知ることで以前にも増してこの後のシリーズを愉しめそうな気がする。 あとは妙なBLテイストが無ければいいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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