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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 461~480 24/71ページ

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No.958: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

情報化社会の恐ろしさ

リンカーン・ライムシリーズ8作目の敵は他人の情報を自在に操るソウル・コレクター。彼は他人の趣味趣向を調べ上げ、その人の持ち物と日々の行動範囲などから証拠を捏造し、犯人に仕立て上げる連続殺人鬼だ。

通常殺人事件の犯人となれば自身を特定する情報を失くすために慎重に痕跡を消し去るものだが、今回のソウル・コレクターは逆に他者を特定する証拠を残すことで捜査の眼から自身へつながるルートを誤操作させる。それはデジタル化した個人情報を巧みに操ることで可能とする。まさに過剰化する情報化社会が生んだモンスターなのだ。

リンカーン・ライムのシリーズではしばしば「ロカールの原則」というのが引用される。すなわち犯罪が発生した際、犯人と犯行現場と被害者との間には例外なく証拠物件が移動するという原則だ。
本書の連続強姦殺人鬼ソウル・コレクターはこの「ロカールの原則」を逆手に取って捜査を誘導する、まさに鑑識にとって天敵なのだ。

それに加えて前作の宿敵ウォッチ・メイカーの追跡も行われる。彼と思われる人物がイギリスへ逃亡したことを知り、ロンドン警視庁と共同で捕獲作戦を行う。

さて本書の題名ソウル・コレクターだが、実は一度も作中に登場しない。作中では未詳522号もしくは素っ気なく522号と呼ばれるだけ。5月22日に発生した(発覚した)事件の容疑者だからと由来も素っ気ない。
つまりソウル・コレクターとは訳者の創作による命名なのだろうと思ったら、実はディーヴァー本人が訳書のために挙げた候補の中から選ばれたそうだ。なんというサーヴィス精神か。

ちなみに原題は“The Broken Window”。作中でも語られるがいわゆる「割れ窓理論」を指す言葉だ。
窓ガラスが割れたままだとその状態が当たり前になり、人の心も荒んで犯罪が増えるという理論だ。これはニューヨーク市長がスラムの割れた窓を補修し、建物の落書きを消して綺麗に整備したことで犯罪発生率が激減したことからも証明されている。実に有名な話だ。

しかし本書ではもう1つの意味を持っている。それは人々のプライヴェートを割れた窓から覗くというものだ。そうすることで個人の情報を白日の下に曝し、その人の行動を先読みし、誘導していく。趣味嗜好まで把握し、また個人的な悩みも知らされる。人相が似ている犯罪者を捜し出して、逆に警察官を犯罪者として通報し、誤認逮捕を行わせようとまでする。

それらの情報は今我々が使っているインターネットは勿論の事、クレジット・カード、銀行のATM、日本で云うところのETCの通過記録、市街に設けられた監視カメラ、警察の免許証更新記録などなど通信機能を備え、電脳空間を介する行為が蓄積されたデータバンクから引用されるのだ。しかも記録されることを逆手に取り、盗んだ個人情報を悪用して買い物をし、精神カウンセラーの案内を取り寄せたり、出退勤記録も改竄して、さも冤罪者が犯罪者であるかのように誤導するのだ。

これは堪らない。
なんせいつもと変わらぬ朝を迎えたところにいきなり警察が乗り込んでくるような事態に陥るのだから。まさに情報化社会の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。

さらに敵の氏素性が解ると今度は情報を操作し、あらぬ罪を被せ、身の覚えのない借金を抱えさせられる。
アメリアは父親から譲り受けたカマロを没収され、ライム宅は電気料金未納で電気を止められ、ロン・セリットーは麻薬所持の罪で停職処分にさせられ、プラスキーは妻と子供が不法滞在者として拘留させられる。
いやはや情報というものがこれほど我々の生活を脅かす存在になるとは思わなかった。

本書に出てくるデータ・マイナーというあらゆるデータを保存する会社は存在している。知らないうちに我々も番号化され、趣味嗜好、思想や人間関係の繋がりなどがどこかでデータ化され蓄積されているのだろう。いわば見知らぬ誰かに丸裸の自分を把握されている状況だ―何しろ長らく秘密とされていた介護士トムのラストネームでさえ判明する―。
だからこそこのような個人情報を扱う会社はセキュリティを絶対無比の物にしなければならないし、また情報を扱う社員も人格者でなければならない。情報化社会と一口に云うが、その重大性や脅威について本書でその本質を知らされた次第だ。

しかし本書は真犯人が誰かとかウォッチメイカーは捕まったのかよりも情報の持つ恐ろしさをまざまざと思い知らされたことが大きい。
モバイル機器のCMで「いつもどこかで誰かとつながっている」なんてコピーが温かみを持って流されるが、その裏に潜む怖さが本書を読むことで先に立つ。
便利になった現代社会の歪みを見事エンタテインメント小説の題材に昇華したディーヴァー。まだまだその勢いは止まらないようだ。


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ソウル・コレクター
No.957:
(7pt)

誰がこんな展開を予想できたであろうか

一言では云い表せない作品だ。

今まで元グリーンベレーやCIA工作員、はたまた秘密結社の凄腕テロリストと、殺しの技術を極めた男を主人公に据える物語を作ってきたマレルが今回選んだのは一介の戦場カメラマン。

このカメラマン、ミッチェル・コルトレーンが自分が撮ったイスラム教徒大量虐殺者ドラゴン・イルコヴィッチの魔手から逃れるという、まさにマレルの真骨頂とも云うべき作品なのだが、実は本書ではそこに至るまでにコルトレーンが伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの遺志を継いでロサンゼルス各地の家々を撮影しに回るエピソードに面白さを見出していた。

そしてアクション小説家のマレルのこと、大量虐殺者イルコヴィッチの魔の手から逃れるためにコルトレーンが色んな策を凝らすという構図を想定していたが、意外にもこの宿敵との決着は上巻の300ページ辺りであっさりと着いてしまう。
私は思わずこの時本書が上下巻だったことを再確認し、さてこの後下巻1冊かけての展開はどうなるのだろうと訝ったものだ。

なんとそこから物語は購入したパッカードの家の資料室の隠し部屋で発見した絶世の美女の正体、そしてその家の元オーナーたちの失踪の謎を探る物語になるのだ。

そしてそこからまた物語は絶世の美女に瓜二つの女性ターシャとの邂逅から彼女に付き纏うストーカーとの戦いになる。やはりアクション作家マレルが落ち着くところはアクションだったということか。

しかしそこからまた物語は色を変える。ストーカーとの戦いから謎の失踪を遂げるターシャの捜索の物語へと。それはそれまでターシャの身の回りの人々が彼女のことを知らされなく、また身辺保護をしていた警官たちも知らぬ存ぜぬを貫く。まるでアイリッシュの『幻の女』のようなサスペンスへと転じるのだ。

そして最後になってターシャ・アドラーと云う女性がそれまでたびたび名前と住居を変えては彼女の周囲に死体の山を築く、いわゆる魔性の女であることが明かされる。つまり行く着くところは悪女物サスペンスなのだ。

しかし冒頭のイルコヴィッチとの戦いといい、途中から登場するナターシャに付き纏うストーカーといい、そしてコルトレーンがナターシャとの愛欲に溺れ、彼女の行先を執拗に追い求める行為といい、本書はストーカーとの戦いの物語と云える。
奇しくもこの前に読んだ東野氏の『片思い』もストーカーが物語に関係していた。特に意識して作品を読む時期を選んでいるわけではないのだが、えてして読書と云うのはこのような不思議な繋がりを読み手にもたらす。

今まで息の詰まるような緊張感溢れるアクションを売りにしていたマレル。それは一躍彼を有名にした『ランボー』のようにどこか映画化を意識した作りだったのは否めない。
しかし本作ではそのアクションテイストを前菜にし、遺志を継いだ伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの痕跡を追い、また彼に縁のあった絶世の美女のその後と人の過去を探る物語へ変わる。つまり極論すれば人を殺すだけの物語から、人そのものを浮き彫りにして描く物語に変わったのだ。
それは名もなき死者を大量に生み出す物語ではなく、個としての人間に向き合う物語へと変わったと云えよう。そこに本書の最大の特徴があるように思う。

しかし最後にマレルはターシャを次々と男たちを手玉に取っては命を奪う稀代の悪女に仕立て上げ、最終的にサスペンス小説に仕上げてしまった。
これが非常に残念でならない。コルトレーンというカメラマンが尊敬する伝説のカメラマンの足跡を追う人生の物語に仕上げればこの作品は印象深いものになっただろう。

というのも作中、次のような忘れられない言葉があったからだ。それはコルトレーンがカメラマンを志すきっかけとなった経緯を語るシーンでの次の言葉だ。

カメラは何も奪わない。それどころか永遠を与えるものだ。

本書はマレルが実の息子を亡くしたことを語ったノンフィクション作品『蛍』の10年後に発表されたものだが、この言葉は彼が亡き息子を思い出すためのよすがとなった写真への思いではないだろうか。肉体を伴った息子は既にないが、その姿形は写真の中では永遠であり、そしてその肖像は心に残る息子を永遠に留まらせてくれる。私はコルトレーンのこの言葉に私はマレルの本心を見た。

狂える大量虐殺者との戦い、伝説のカメラマンの過去の捜索、その最中に巡り合う絶世の美女とのロマンスに、その女性に付き纏うストーカーの正体の謎、さらにその美女と伝説のカメラマンとの奇妙な関係、そして突然失踪する美女の行方、最後に男を狂わす悪女の物語と、実に多彩な展開を見せる本書。
題名はダブルイメージ、つまり二重像と云う意味で、恐らくこれは後半物語の中心となる絶世の美女ターシャ・アドラーの二面性を指しているのだろうが、物語としては二重三重、いやそれ以上の像を浮かび上がらせる。いやあ、こんな物語だったとは全く予想がつかなかった。

特に深く愛し合ったターシャがメキシコの件から戻るといきなり住所と電話番号を変えてコルトレーンの目の前から消えていなくなり、更には新しい男と愛し合う場面を目の当たりにするコルトレーンの信条などはかつて私が遠距離恋愛で失敗した苦い思い出を想起させ、非常にいたたまれない気分に陥った。
男は本気で愛している時、その愛は永遠であると思うのだが、その実女性はあるところで冷めていていつでも袖にすることが出来るのだ。いやはや女性とは本当に恐ろしい。

コルトレーンの痛切な過去―夫の暴力に耐えかねて逃亡生活を送った母親が居所を突き止めた父親に目の前で射殺され、そして父親自身も自殺する―が彼が写真家を目指すきっかけになったエピソードなど読みどころもあったが、短い章の連続が物語を味わう余韻を損なっているのを今回も感じてしまった。テンポよく進む作品の功罪だろう。

発表当時全く話題にならなかった本書だが、意外にも物語としてはヴァラエティに富んでいて一種忘れられない何かを残す。それだけに物語の方向性を読み誤った感が否めない。
実に惜しい作品だ。

ダブルイメージ〈上〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
デイヴィッド・マレルダブルイメージ についてのレビュー
No.956: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

男と女。ダバダバダ…

今回東野圭吾氏が扱ったテーマはトランスジェンダー。まず大学のアメフト部の女子マネージャーが男に性転換して現れるところから始まる。

つまり彼女、日浦美月は性同一性障害だったわけだが、他にも男性の性器と女性の性器を併せ持つ真性半陰陽や女性なのにY染色体を持つ女性がいることなどが語られる。

これには2つのケースがあって、1つは精巣性女性化症。これは精巣を持っていながらもそれを受け入れる受容体がないため、男性ホルモンは出ても肉体が男性化しない女性のことだ。
もう1つは性腺形成異常症。これは胎児期の早い時期に精巣が死んでしまう病気で、逆に男性ホルモンが分泌されないが染色体は男性であるというもの。特に両性具有体である真性半陰陽が実在するとは驚きだった。
そしてそれらの女性がスポーツ界で男性顔負けの体格を得てオリンピックなどに出場している事実。確かにアメリカや中近東の選手に男かと見紛うような選手がいるが、もしかしたらこの類かもしれない。いやあ、実に勉強になるなぁ。

そしてこれらの人間の謎こそが今回のミステリと云えよう。最初は男として生活していた日浦がストーカーを殺した事件を探る話だったが、哲郎たちの捜査は性同一障害者たちのある壮大な計画へと繋がっていく。

男と女。

二つの性があるからこそ愛が生まれ、またお互いの考え方が違い、文化が生まれる。男には男の、女には女の世界があり、価値観がある。
だからこそ世界は面白いのだが、一方でその狭間で苦しむ人間たちもいる。男の身体に宿る女の心を持つ者。女の身体に男の心を宿す者。遺伝子は女なのに両方の生殖器を持つ者。そんな彼ら彼女らに男と女の定義は空しい限りだ。しかしその定義が彼ら彼女らの世界を縛り付けている。
それ故彼ら彼女らは過去を消し去り、新たな自分を、真になりたかった自分の人生を生きようとする。お姉系キャラとして性同一障害者がTVで堂々と振舞っている現在からみれば、隔世の感を覚えるかもしれないが、本書が発表された2001年は確かにまだ認知度が低く、異端として見られていた。
物語に幾度となく登場する、知らない方がいい、そっとしておいてやれ、という言葉はまさに本来取るべき方法だろう。
しかし本書はミステリ。謎は解かれなければならない。読んでいる最中、行き着く結末は決してカタルシスをもたらすものではなく、寧ろやはり知るべきではなかったという思いが去来する結末に向かうだろうことは予想できた。
毎回東野作品の結末は何とも云えない切なさを感じてしまうが本書もまたそうだった。

そして男だからこうだとか、女だからこうだとか、また男の心を持っているから女を好きになるだとか、その逆もまたそうだとか、単純に二元化できないのも事実。男が男らしさに憧れ、理想に近い同性に惚れるように性同一性障害の人々もまたそうなのだ。
本書で男と思っていたら実は女だった、または女だと思っていたら実は男だったというジェンダーが反転する趣向が繰り返されるにつれ、一体男とは女とは何なのだろうと思わざるを得ない。

さらに東野氏が上手いのはこの男と女の話を、すれ違いを繰り返して夫婦生活が冷え切った主人公西脇夫妻のサイドストーリーと絡めていることだ。
お互いの職業を尊重しながらもいつしか夫婦として機能しなくなり、ただ一緒に暮らしているだけになった2人。その心の行き違いが実は二人が付き合いだした大学生の頃のある事件から起因していたことを明かされる部分はお互いがそれぞれ抱いていた男性観、女性観にいかに縛られていたのかをまざまざと思い知らされる。
これが本書の主題と上手く絡み合って実に上手いなぁと感じるのである。

そしてこの西脇夫妻は当時女性の社会進出が台頭し、結婚適齢期が遅くなり、また共働きで子供を作らなくなった夫婦の典型でもある。それが今に至り、少子化問題に繋がっているわけだが、これも当時の世相を反映していて興味深い。
その他巨乳ブームなども触れられていて実に懐かしくも感じたのだが。

そして本作の題名『片想い』の意味。正直云って物語の序盤は全くこの題名が頭を過ぎらなかった。つまりこの言葉とは無関係の内容で物語が進むからだ。しかしその意味は物語の1/3辺りで唐突に出てくる。
東野圭吾は何とも切ないテーマを持ってきたものだ。

また特徴的なのは本書で頻繁に挿入される哲郎たちアメフト部のエピソード。大学を卒業して13年にもなるのに毎年11月の第三金曜日に集まっては酒宴を開いている。そんな仲間たちのエピソードと、美月の問題に何時でも駆けつける絆の深さが心に響く。
つまり彼らは同じ時間を共有し、ともに汗を流し、苦楽を共有した者たちだけが持つ繋がりを随所に感じさせてくれる。

哲郎はフリーライターで決して捜査のプロではない。そんな彼を助けるのが元アメフト部の仲間たち。そして哲郎の捜査の前に立ちはだかるのもまた同じ仲間の1人であり、さらに事件の中心人物も仲間なのだ。
選手とマネージャーと云う関係で付き合っていた哲郎と理沙子、そして中尾と日浦。一歩引いた立場で哲郎を手伝う須貝。日浦の窮地を救う哲郎たちに立ちふさがるのが早田。
最後まで読むに至り、この物語は帝都大アメフト部たちの物語なのだと解る。
だからこそこの物語は始まりも終わりもOBたちの飲み会なのだ。

心の解放と一抹の寂しさ。得た物の代償として喪った物は大きく、そして喪っただけの者もいる。
男と女の幸せとは一体何なのだろうか?
そんな他愛もないことを読後考えてしまった。


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片想い (文春文庫)
東野圭吾片想い についてのレビュー
No.955:
(7pt)

最後の底力

クイーンはクイーンでも本書の主役はエラリイではなく、父親リチャード・クイーン警視だ。

まず驚きなのがリチャード・クイーン警視が結婚したという幕開けだ。退職した警視のお相手は『クイーン警視自身の事件』で慕うようになったジェシイ・シャーウッド!
いやあ、あの結末から7作目で結婚だとはまさに想定外。その間の作品でジェッシイとの付き合いが書かれていなかっただけに驚きだ。

その妻ジェシイにハネムーンから帰ったところに送られていた招待状。それは全く面識のない老富豪からの招待状だったという実に魅力的な導入から始まる。
一方のエラリイは世界中を股にかけた豪遊旅行中の身でトルコにいた。

この奇妙なシチュエーションの謎を解き明かそうとクイーン警視は退職警官の元同僚たちを雇って老富豪ブラス氏の素性調査を行う。ここら辺はさながらホームズのベイカー・ストリート・イレギュラーズを髣髴させる。
さてこのリチャード・クイーン警視とその仲間たちが挑む謎は3つ。

1つはヘンドリック・ブラス氏は何故面識のない6人の人物に遺産を相続しようと決めたのか?

2つ目はブラス氏が云った600万ドルの遺産とはいったい何処にあるのか?

3つ目は一体誰がブラス氏を殺したのか?

そして今回鳴りを潜めていたエラリイは最終章で登場し、一気に事件の真相と真犯人を突き止める。
『クイーン警視自身の事件』ではエラリイの登場無しで警視のみで解決していただけに今回も同趣向だと思っていただけにこれには驚いた。つまり作者はシリーズそのものをミスディレクションに用いたとも云える。
そう思うと本当にクイーンは本格ミステリの鬼だな。

さて本書のタイトル『真鍮の家』。原題では“House Of Brass”とそのままだが、実は色んな意味を含んだ題名である。題名通りまさに真鍮尽くしの物語なのだが、“brass”には本書の冒頭に引用されているように色んな意味がある。

さらに物語終盤、集められた人々の意外な一面が明かされる。そんな意味からもなかなか深いタイトルだと云えよう。

ただ識者による情報によれば本書もまた代作者の手による物らしい。『第八の日』、『三角形の第四辺』を手掛けたエイブラハム・デイヴィッドスンが書いたとのことだが、全く違和感を覚えなかった。
プロットはダネイを纏めているとはいえ、リチャード・クイーン警視を主役に物語を進める技量はよほどクイーンの諸作に精通していないと書けないだろう。特に『クイーン警視自身の事件』のエピソードを膨らませてクイーン警視が本作で結婚をするという長きシリーズの中でも大きなイベントがあり、しかも終章でようやくエラリイが登場して事件の真相を解き明かすという憎い演出など晩年期のクイーン作品の中でも非常に特徴ある作品だと思う。
また5Wで表現される各章の章題もまさにクイーンならではではないか。

個人的にこの作品は魅力的な導入部といい、エラリイでなくリチャードを物語の中心に据えているところといい、そして最後にエラリイが登場して一気に解決する演出といい、また事件や扱っているテーマ―特に最後解散せざるを得ない退職警官たちが直面している、働きたくても職がないという社会的側面なども含めて―から見ても、クイーン諸作の中でも上位に来る作品である。

もはやライツヴィルシリーズを読み終えてこれからの作品は全作読破に向けて、消化試合的読書になるかと思っていたが、こんな佳作があるからクイーンは全くもって侮れないと思いを新たにした作品だ。


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真鍮の家 (1978年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリー・クイーン真鍮の家 についてのレビュー
No.954: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ドアひとつ隔てた隣の家庭の暗黒

当時週刊少年ジャンプ誌上でも募集がされていた「ジャンプ小説・ノンフィクション大賞」を若干16歳の若さで受賞したのが乙氏の「夏と花火と私の死体」だった。その作品を含んだ2作の中編集が本書。

さてそのあまりに鮮烈なデビューとなった表題作はどこかの田舎町を舞台に繰り広げられるあるひと夏の出来事だ。
一言、上手い!
いわゆるアンファンテリブル物だが、ことさらに恐ろしさを強調するわけでもなく、あくまで静かに淡々と語ることで恐ろしさを助長しているのがすごい。わずか16歳でこの文体で子供による死体遺棄事件の顛末を語る着想に至った乙氏の才能に戦慄する。
とにかく弥生の兄健の造形がすごい。いつも笑顔を絶やさず、周りの大人からはいい子として認知されている人気者。しかしそれでいて人が死んでも眉一つ動かさず、度重なる窮地に動揺する素振りは一つも見せず、寧ろその状況を愉しみ、いかにやり過ごすことが出来るかを考えている。つまり健にとってこれらはゲームに過ぎないのだろう。
当事者でありながらも第三者的に物事を見据え、冷静に判断する頭脳と胆力の持ち主。まさに恐るべし16歳が描いた末恐ろしい10代だ。
そして周到に散りばめられた伏線が最後の何とも云えない虚無的なラストに繋がる。私は子供の企みなぞは目端の利く大人にしてみれば全てお見通しなのだという戒めを説いた皮肉な結末を予想していただけにこの結末は意外だった。
しかし語り手である犠牲者の五月とその母親が何とも浮かばれない。
それらを淡々とした描写で語る乙氏の文体。正直語り手となる私こと犠牲者の五月が知りえないことも地の文で語るなど、文体としてはおかしな部分も散見させられるが、それを若さゆえの過ちと寛大に捉え、ここは素直にその才能を称賛したい。
なお、小野不由美氏の解説、五月の一人称叙述が彼女が亡くなることで神の視点になったという解釈はこの文体の欠点を補った素晴らしい名解説と云えるだろう。

もう1編は「優子」という。
あまりに淡々と語る文体は本編でも健在で、あくまで静かに狂気を描く。
相変わらずその筆致は時間の流れをゆっくりと感じさせる独特の雰囲気に満ちている。
しかし本書では逆にそれが物語の深さを減じているように感じた。
坂東眞砂子氏ならばもっと土着的な濃厚な物語を繰り広げただろう。主題と文体が結びつかなかった、そんな印象を受けた。


2002年の『GOTH』でいきなりミステリシーンに躍り出た乙氏の驚異のデビュー作所収の中編集。
当時週刊少年ジャンプ読者だった私はリアルタイムで乙氏のデビューを目の当たりにした。今は亡き栗原薫氏が審査員を務め、絶賛の上、強烈に推挙したのを鮮明に記憶している。

その話題作を16年を経てようやく読んだ。
いやあ、天才は本当に存在するんだなぁと思わされた。繰り返しになるがとても16歳が書いたとは思えない着想と文体。

するする読めるがもっと味わいたくなる抒情性に溢れている。誰もが心に抱く風景を事細かに、しかしくどくなく適度な量で映し出す。私が読んでいた終始浮かんだのは夕焼けの色だった。

そんなノスタルジイを感じさせながらも語られる話はサスペンスだったり、ホラーだったりと実は穏やかではない。
しかし実は世の中の出来事とはこのように我々がいつも見ている風景の中で、人知れず行われているのだということを再認識させられる。ふと足を踏み外すとそこにはある種の狂気が潜んでいる。マンションの住民の一人がある日姿を見せなくなってしまうように、犯罪はドア一枚隔てた、なんとも薄っぺらい防御の外で起きている。笑顔の中に隠された企みや秘密を知られないように、明日もまた同じような日が始まると思わせておいてその背後では死体が一つ隠蔽されようとしている。
つまり我々の日常の紙一重の場所で犯罪や狂気は存在するのだと知らされるのだ。そんなシチュエーションが乙氏は面白く感じるのだろう。

この後乙氏は作品を着々と発表し、『GOTH』に至るわけだ。そしてその後の『ZOO』でその実力を不動の物とし、次々と旧作が映像化されていく。

久々に語るべき物語を持った作家に出逢った思いがした。
現在40歳の乙氏。次に我々に見せてくれるのはどんな物語なのだろうか。
同郷の者として実に誇らしく思うこの作家のこれからの活躍に注目していこう。


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夏と花火と私の死体 (集英社文庫)
乙一夏と花火と私の死体 についてのレビュー
No.953:
(7pt)

強い女のノワール

女を陸路でバンコクからシンガポールへ連れて行く、この設定を読んだ時にこれは馳版『深夜プラスワン』かと思った。
作者がまだ坂東齢人名義で書評家だった頃、新宿ゴールデン街でバーテンをしていたのが、内藤陳がオーナーの『深夜プラスワン』というバー。やはり彼としてはこのテーマは避けては通れないものだったのではないかとまで想像したが、物語はそんな風に簡単にはいかず、主人公の十河将人とメイはバンコク内を迷走する。

やがてメイの持つ仏像に隠された地図の正体を探るにあたって、本作のメイン・テーマは女をシンガポールに送ることではなく、実は仏像に隠された日本軍が遺した莫大なお宝を探し当てるというものであることが解る。

つまりこれは馳版『マルタの鷹』なのだ。歴史に残る冒険小説2作を相手にするあたり、馳氏のしたり顔が目に浮かぶようだ。

さて冒険小説の名作のモチーフを国産ノワールの雄が料理するとどうなるかというのが専ら私のこの作品を読む上での焦点であった。つまり舞台と登場人物を変えただけで、いつも物語は破滅に向かうという構成がこの味付けでどう変わるのかを注目していた。

しかしやはり馳氏は馳氏。変わらない。
一度落ちぶれた人間がどうにか安楽の地を、生活を求めるために大金を手に入れようと足掻き、這いつくばる物語。人生の落伍者と貧困の犠牲者、2人の男女が日本軍の遺した宝を求める道行きに屍が転がっていく。
こんな2人だから出てくる台詞は怨嗟の連続。セックス、金、暴力、そして時々ドラッグ。馳作品の諸要素が今回も織り込まれている。

タイトルのマンゴー・レインとは現地タイで雨季の訪れを伝える夕立のことを指す。つまりはスコールなのだが、マンゴーと云えばタイよりもフィリピンの趣がある。しかしフィリピンではこのようには呼ばなかった。

馳氏はこのマンゴー・レインを罪を、過ちを、全てを洗い流してくれる激しい雨だと語る。かつての幼馴染たちが大金を目に、裏切り、命を奪い合う、そんな凄惨な状況をマンゴー・レインは洗い流す。

さて冒険小説の設定をモチーフにノワールを語った本作で最も印象に残る人物は十河が幼馴染の富生からシンガポールまでの移送を頼まれる女メイ。中国からさらわれて娼婦として生きてきて、エイズを患ってから男どもを、全てを憎悪し、信用しなくなった女だ。
彼女は人を殺すことも躊躇わないし、平気で嘘をつき、仲間でさえ欺こうとする。騙される方が悪いのだ、と云わんばかりに。それはメイの行動原理が至極単純だからに他ならない。それは自分が幸せになること。そのために利用する者は利用し、自分を脅かす存在は撃ち殺す。

作中十河は彼女の眼を魔女の眼と評し、その眼で睨まれると異様の無い恐れを抱き、従わざるを得なくなる。人買いとしてタイから日本へ若い女を何百、何千と密入国させてきた十河だったが、メイだけはいつものように振舞えない。修羅場を潜り抜けてきた者の覚悟の前にタイと日本を人買いのために往復する浮世暮らしのような十河は頭を垂れるしかないのだ。

このメイの存在を象徴するように、今回の物語はメイによって終止符が打たれる。これは実に珍しい。

今までの馳作品では登場する女性はおろかな男たちに翻弄され、利用され、圧倒的な暴力に屈して凌辱されるだけの存在としてぞんざいに扱われてきた。本作のメイも境遇としては過去の馳作品に登場してきた女性とは変わらない。おまけに彼女はエイズまで患っている。

しかしメイには強靭な精神を持っていた。別に男を捻じ伏せる腕力があるわけではなく、逆に街を歩けば10人のうち8人が振り返るほどの美貌とスタイルの持ち主だ。そんな彼女が他の女性と違ったのは己の不幸をバネにのし上がろうとするハングリー精神があったことだ。つまりこの作品はメイの物語だったのだ。

読後に残るのは荒廃感、寂寥感とでも云おうか、燃え尽きてしまった狂気の果てだ。

そう、今回も次々と死人が生まれた。またもや遣り切れなさが残る作品であった。


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マンゴー・レイン (角川文庫)
馳星周マンゴー・レイン についてのレビュー
No.952:
(5pt)

詩人の超越した視座

エラリー・クイーンは数多のアンソロジーを編んでいるが、本書は詩人が書いたミステリ短編を集めた物。

本書は作者の生年順に作品が収録されており、冒頭を飾るのは『カンタベリー物語』で有名なジェフリー・チョーサーの「免罪符売りの話」だ。
本編は『免罪符売り』という作品からの抜粋だが、非常に上手く抜き取られており、確かに1編の短編のように読める。

2作目はオリヴァー・ゴールドスミスの代表作『ウェイクフィールドの牧師』からの抜粋。書かれたのはなんと1766年!
同書を読んでいないので詳細は解らないが、題名からして詐欺に遭った牧師は恐らく本書の主人公なのだろう。その後の彼らの運命が流転していく余韻を残して物語は閉じられる。年代は18世紀だが、読み物としては21世紀の今読んでも遜色ない。

サー・ウォルター・スコットは「歴史小説の父」として名を馳せているようだ。本書に収められた「ふたりの牛追い」はハイランド人のロビン・オイグとイングランド人ハリー・ウェイクフィールド2人の牛追いたちの友情が崩れる物語。
イングランド人とハイランド人、つまりスコットランド人の人種間の深き溝を感じさせる一編だ。わずかなボタンのかけ違いで悲劇が生まれる。物語冒頭の老婆の予言がスパイスとして効いている。

ジョージ・ゴードン、ロード・バイロンによる「ダーヴェル」はたった9ページの小編。
正直よく解らない話。

次はまさに巨匠、ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの「ペリゴーの公証人」はミステリと云うよりも喜劇だ。
医者が教える猩紅熱の症状、「右脇腹に鋭く焼けるような痛み」の正体が笑える。伏線もあるし、やはりこれもミステリ…かな?

次も巨匠ウォールト・ホイットマンの作品「一度きりの邪な衝動!」は亡き父の財産を管理し、それを盾に妹エスターに結婚を迫る悪徳弁護士を殺す兄フィリップの話。話はこのたった一文で済むが、最後の結末が非常に奇妙な味わいを残す。老境に差し掛かって改訂されたらしい本編は作者の達観を示しているようでもある。

W・S・ギルバートはオペラの台本作家とのこと。彼の作品「弁護士初舞台」はなんだか奇妙な話である。
敵は味方にありとはまさにこのこと。何とも不思議なお話である。

トマス・ハーディは詩人というよりも小説家として知られていると思うが、後年はもっぱら詩の制作に勤しんだようだ。彼の「三人のよそ者」は雨天の最中、次女の誕生祝と命名式のパーティを人里離れた一軒家で祝う羊飼いの所へ3人の来客が訪れるというもの。
チェスタトンの短編のような味わいを残す1編。真相を知った上で読み返すと2人目の男が現れた後の彼の振る舞いと旅人の反応がまた違った風に読めるから面白い。実にミステリらしい作品だ。

次はノーベル賞作家のウィリアム・バトラー・イエーツの初期の作品「宿無しの磔刑」だが、これは何とも奇妙な味わいだ。
さすらいの歌人が一夜の宿として立ち寄った大修道院でのもてなしの酷さは確かに同情すべき物がある。パンは黴ており、水は悪臭がして飲めやしない。おまけに布団には蚤が蔓延っていると散々だ。しかしそのために修道士たちに迷惑をかけるというのはいささか子供じみている。磔刑にさせられる道中で色々な小細工をする歌人と取り巻きのようについてくる乞食が布石のように見えるが真相は意外。実に皮肉な結末。

『ジャングル・ブック』は私が小学生の頃、自宅にあった少年少女文学全集に収録されていた作品の一つだったが、その作者ラドヤード・キプリングの作が「インレイの帰還」だ。
ミステリとして比較的定型を成しているのがこの作品。一人の男の失踪が殺人事件へと発展する。しかしトリックの意外性があるわけではなく、あくまでキプリングは未開の地インドの風習と風土ゆえに起こった現地人と白人の価値観の相違が事件を起こしたことをテーマにしている。

ジョン・メイスフィールドの「レインズ法」はいわゆる世間の渡り方を扱った作品。
一行で済む内容だが、これを当事者が成した事を細かに書いたことが新しいか。

ジョイス・キルマーの「恐喝の倫理」は新聞社で働く男の告白の物語。
これはラストが効いている。

コンラッド・エイケンの「スミスとジョーンズ」は奇妙な味わいを残す。なんとも奇妙でちょっと背筋が寒くなるお話だ。こういった普通に振舞っていた関係からふと殺意を抱き、行為に至るというのは唐突過ぎて何とも云えない怖さがある。

マーク・ヴァン・ドーレンの「死後の証言」とオグデン・ナッシュの「三無クラブ」はちょっと理解に苦しむ物語だ。
それぞれの作品は理解できるものの、結末が腑に落ちない。いずれも何かもう一つ上の次元で語られている話と云った理解を超えた展開であり、呆然としてしまった。

ロバート・グレイブズの「シュタインピルツ方式」は何とも珍妙な話ながらも好きな話。
とにかく盲目的に博士の指示に従い、肥料の材料を集めまくる夫婦と云うのが滑稽。しかも材料はおよそ誰もが手を出さないゴミやら動物の死骸やら、とても想像をしたくない物ばかり。最後の結末も効いている。

スティーヴン・ヴィンセント・ベネの「いかさま師」は引退したいかさま師が老人ホームを抜け出して世間のいかさまを暴いていくお話。祭りの夜、花火を見たいがために抜け出した老人がその一夜で遭遇する事件を解決するという老練さに満ちた一編。

最後のミュリエル・ルーカイサーの「仲間」も『世にも奇妙な物語』向けの奇妙な作品。
殺人を過去に犯した者は特別な連鎖に取り込まれてしまうというちょっとオカルト風味でもある。


エラリー・クイーンが詩人たちの創作したミステリ短編を集めたアンソロジー。
最も古いのがチョーサーの作品でなんと1300年代の作品!日本の歴史で云えば鎌倉時代の頃で中国では明王朝の頃と、まさに隔世の感がある。

そのチョーサーの作品「免罪符売りの話」は死神と呼ばれているこれまで千人は人を殺している泥棒を3人の放蕩者が退治してしまおうと乗り出す話から一変して金貨の奪い合いに転じるというお話。同題の長編からの抜粋のため、本筋が解らないきらいはあるものの、たった7~8ページの分量で目的がガラッと変わるというには何とも奇妙な味わいがあった。

続くオリヴァー・ゴールドスミスの作品も彼の代表作『ウェイクフィールドの牧師』からの抜粋で牧師が詐欺に遭う話を書いている。これも1766年の話で日本はその頃徳川幕府で田沼意次が老中だった頃。その頃イギリスは産業革命の真っただ中という激動の時代。

18世紀の詩人はこの次のウォルター・スコットやジョージ・ゴードン・バイロン、ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー、ウォールト・ホイットマン、W・S・ギルバート、トマス・ハーディと並ぶ。まさしく錚々たる面々である。

その後もノーベル賞作家イエーツ、『ジャングル・ブック』のキプリングといった大家の作品が並ぶ。

とにかく最初は読みにくいことこの上なく、また見開き2ページに小さなフォントでぎっしりと文字が詰まった体裁を久しぶりに読んだのでかなり時間を要した。先に進むにつれて、時代が下ってくるので読みやすくはなったが、久々に古典を読んでいるという気分にさせられた。
個人的にはこの古式ゆかしい体裁は大好き。

しかし詩人と云うのはどこか通常の作家と視座が違うのか、収録されている作品は奇妙な後味が残る物が多く、いわゆるミステリと呼べる作品はそれほどあるわけではない。何か事件が起こってその不可解事を解決する、といった定型を取る作品はほとんどといって無い。意外な結末という意味合いでクイーンは有名詩人諸氏の作品を集めたのではないだろうか。

また先だって読んだ『犯罪文学傑作選』もそうだったが、クイーンの他ジャンル作家の手によるミステリ作品のアンソロジーは文学史の勉強になる。今回もウィキペディアを参考にしながら各著者の代表作を知ることが出来た。
逆に云うと自身の不勉強さを露呈することになったわけだが。

さて本書の序文でクイーンはこのアンソロジーが不作為の犯行を犯していると述べている。
この不作為の犯行とは編者曰く、編者としてはアンソロジーとしては完璧を臨んで作品を集めたが編者の目が行き届かずに埋もれた詩人の手によるミステリ短編の傑作が選から漏れていることを指す。それをあらかじめ認めており、そして本書が「決して完成しない」アンソロジーであると述べている。
なるほどある意味これは自分のアンソロジーが不興を買った時に備えての保険のようにも取れるが、編者として潔さを感じる話だ。つまりアンソロジーは編者の権威を恐れず更新されなければならないと説いているのだ。

この詩人たちが書いた小説の意味が全て理解できたかとは云えないが、雰囲気はどこか通ずるものがあった。
先にも書いたがどこか超越した視座で綴られた諸作品。これらを集めたクイーンの偉業をこのたび復刊して確認することが出来た。
東京創元社の志の高さに改めて拍手を贈りたい。


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犯罪は詩人の楽しみ―詩人ミステリ集成 (創元推理文庫)
エラリー・クイーン犯罪は詩人の楽しみ についてのレビュー
No.951:
(10pt)

喧嘩のあとは…

あの“ドーン・パトロール”のメンバーが帰ってきた!
いや、我々がまた彼らの許を訪れたというのが正しいのかもしれない。“ドーン・パトロール”、そして彼らが住んでいるサンディエゴのパシフィック・ビーチは読んでいる我々が再びその地を訪れたかのような懐かしい思いを抱かせる、不思議な雰囲気を備えている。

さて今回彼らが関わる事件は3つ。
メインはブーンがペトラから依頼される伝説のサーファーK2殺しの容疑者サーファー・ギャングの未成年コーリー・ブレイシンガムの、事件当夜の調査。
そして彼が請け負うもう一つの依頼が“紳士の時間”仲間のダン・ニコルズの妻の浮気調査。
そしてもう一つはジョニー・バンザイが関わる麻薬組織バハ・カルテルの抗争。

バハ・カルテルといえば先だって訳出された『野蛮なやつら』でベンとチョンとOが対決した麻薬組織だ。ん~、こんなところで彼らとブーンの物語がつながるとは、まさにファン冥利に尽きる演出だ。

さて今回ブーンは渋々ながらもペトラの依頼、世界中のサーファーが慕う伝説のサーファー、K2殺人事件の容疑者である金持ちの道楽不良息子のコーリー・ブレイシンガムの事件の真相を探ることでパシフィック・ビーチ界隈の人間はおろか、“ドーン・パトロール”のメンバーからも裏切り行為だとみなされ、四面楚歌状態に陥る。しかし調べていくうちにつまらないアホだと思えたコーリーの境遇を知るにつけ、彼もまた環境の犠牲者だったことを知る。

しかもみんなのアイドル、サニー・デイは前作のクライマックスでの大波のサーフィンで有名になり、プロサーファーとしてツアーに参加し、オーストラリアに行っている。理解者は友達以上恋人未満状態の弁護士補ペトラ・ホールのみ。

そんな状況からか仕事よりもサーフィンを愛する探偵ブーンが、今回はサーフィンよりも仕事優先と次第になっていく。コーリー・ブレイシンガム事件の再調査のお蔭で“ドーン・パトロール”のメンバーからは疎遠となり、その後に行われる“紳士の時間”のメンバーとの交流が増えていく。

この本書の原題にもなっている“紳士の時間”とは皆が仕事へ行った後、引退生活者や医師や弁護士、さらには実業家連中が集まるサーフィン時間のこと。つまり年齢的に上の連中、階級的にも上流階級の人間たちの集いだ。

さて前述した3つの事件がなんと複雑に絡み合って驚くべき事件の構図を描き出す。この辺のプロットが上手く組み合わさる味付けと云うか筆捌きは見事としかいいようがない。

また本書に散りばめられた薀蓄もまた読み応えがある。
地盤の話は私の職業にも大きく関わることで、熟知しているため、門外漢の読者にも解るように丁寧かつユーモアあふれる説明がなされていると感心したし、ボクシングと空手から始まった最強格闘技伝説が現在の総合格闘技までに至った経緯の話も楽しく読ませていただいた―グレイシー柔術の件はニヤニヤしながら読んでしまった―。
その中で最も恐ろしいと思ったのはタクシー運転手が空き巣を副業でやっている輩が少なくないといったエピソードだ。この一文を読んだだけでは恐らく多くの方が「?」と思うだろうが、何気ないタクシーの会話にその秘密が隠されていることを知り、戦慄を覚えた。いやあ、迂闊にタクシーの運転手とも会話ができないなぁと思わされたエピソードだ。

さてウィンズロウの描く物語は常々何らかの喪失感を伴うものだと感じていた。前作のブーンも変わらなく続く生活や仲間たちの関係が実は危ういバランスの上で成り立っていることを知らされた。
今回もブーンは色んな物を喪う。探偵とは事件の真相を解き明かす代わりに何かを喪うことだと某作家の作品にあったが、まさにブーンはそのものだ。

大人になると自分の信ずる正義よりも他者との調和を重視する方に傾きやすくなる。丸く収めることを美徳とし、信条を貫いて仲間に不快感を抱かせてまで真実を突き止めることを悪徳とする、組織に属するとなるとその傾向は顕著になる。

しかしブーンは敢えて茨の道を取った。何よりも代えがたい“ドーン・パトロール”のメンバーの不興を買っても、当事者の父親の納得を得ても、当事者のその後の人生を考えると妥協した自分がその後の人生で後悔しないか、自問を繰り返しながら生きることになるのではないかと思い、敢えて同調しない道を選ぶ。
彼を後押しするのは亡くなった被害者のK2の言葉。彼を知るからこそ彼の言葉が頭を過ぎる。

ウィンズロウは読者が永遠に続いてほしいと願う仲間たちとの付き合いや心から通じ合える恋人といった関係に躊躇わらずメスを入れる。前作もそうだったが南国のお気楽ムードで始まった物語は次第にブーンの周囲に不穏な影を差していく。
特に残り100ページから始まる殺戮や拷問の数々は作品のイメージをガラッと変えるものだった。

しかし今回はまさに再生を予兆させる終わり方である。
喧嘩のいいところはその後に仲直りできるところだ、そして喧嘩をするほど仲のいいというのは喧嘩をする前よりも本音で語り合える関係になるからだ。まさに本書はそんな爽やかな読後感を残してくれる。
最後に分裂状態だったドーン・パトロールの面々が一堂に会して浜辺で戦いを繰り広げる様は痛快以外なにものでもない。
全く上手いなぁ、ウィンズロウは。

それぞれに変化が訪れ、ドーン・パトロールのメンバーも以前のような関係にはならないかもしれないが、今回の苦境を乗り越えたその先が実に楽しみで今仕方がない。
また必ず彼らの住まうパシフィック・ビーチを訪れよう。


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紳士の黙約 (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ紳士の黙約 についてのレビュー
No.950:
(4pt)

映画はやはり別物か

本書もまた映画化され有名になった『ランボー3/怒りのアフガン』の原作本である。当時この映画でアフガニスタンのことをアフガンと呼ぶということを初めて知ったなぁ。
作者マレルによるランボーシリーズは本書までで2008年の映画『ランボー/最後の戦場』は関与していない。

2作目の『~怒りの脱出』同様、ランボーは孤独な戦いをするわけではなく、今回も仲間と共に戦う。前作ではコーという現地CIAの女性連絡員がパートナーとなり、2人での戦いだったが、本作ではアフガン・ゲリラがランボーに協力することになり、チームとして戦うことになる。
1作目はランボー対警察と題名通り「一人だけの軍隊」だったが2作、3作と回を重ねるにつれ、ランボーの協力者の人数が増えているところが新味だろう。

前2作までに共通するのはランボーが拷問されるということ。
1作目は理不尽とも思える警察の取り調べでヴェトナム捕虜時代の悪夢が甦り、それが事件の契機となった。
2作目ではかつて捕虜となったヴェトナムで再び捕えられ、ヴェトナム軍とソヴィエト軍(この頃はまだソ連だった)両方の拷問を受けるランボーだったが、本書ではなんと彼の師であるトラウトマン大佐が捕えられ、ソ連軍から過酷な拷問を受ける。この拷問が半端なく、肉体的だけでなく精神的にも過酷な仕打ちが事細かに書かれており、老齢のイメージがあったトラウトマンは果たして大丈夫なのだろうかといらぬ心配をしてしまった。文庫カバーの袖につけられた映画のシーンのスナップショットで見られるトラウトマンは本書で描かれているほど手酷い傷を負っているようには見えないので、映画ではソフトに抑えられたようだが。

そして本書では宗教観が色濃く出ている。物語の冒頭ではランボーはタイのバンコックで前回の任務で喪ったコーに対する罪悪感に苛まれ、人生は苦悩の連続だという仏陀の教えに浸かって日々を贖罪の行為として生きている。この苦痛の果てに訪れる平穏を求め、ランボーは鍛冶場で働き、己の肉体を痛めつけるが如く、金属を打ち続ける。
そんなところに現れたのが彼の師トラウトマン。しかしもう自分が戦場に赴くことで関わる人が死ぬことを恐れるランボーはトラウトマンの要請を断る。

任務を断ったことで逆に師であるトラウトマンが捕虜となり、手酷い拷問を受ける羽目になり、さらにはその救出作戦にアフガン・ゲリラたちの助けを借りることでソ連軍の報復の的になったことをランボーを悔やむ。それは自分が運命に逆らったからだとランボーは自分を責める。

仏陀の教えにある人生は苦悩に満ちているという思想のために自分を責めるランボーに、今回彼に協力するアフガンたちのイスラム教の思想、全てはアラーの神の思し召しなのだという、運命論に次第にランボーは傾いていく様が語られる。
彼が任務を拒んだことでトラウトマンが捕虜となり、彼が師を救出するためにアフガニスタンの地を踏み、ソ連軍と戦うこと、それら全てが定められたことだというアフガンたちの言葉でランボーは物語の最後に自分の人生の意味を悟る。人生は確かに苦悩に満ちているがそれこそ神が自身に与えた宿命、神は自分に戦士になり、人々の苦悩を引き受けることを課した、と。

1作目では他者の介入を拒み、自分のテリトリーを守るがために戦いを起こさざるを得なかったランボー。2作目ではヴェトナム戦争での捕虜時代の悪夢ゆえに人との接し方が解らなかったランボーが彼の地で得た協力者に初めて自分の師以外に心を許すが、その協力者を失い、さらには味方にも見放されたことで無力感に襲われるランボー。
彼の人生に対する諦観が本書でようやく結論が出される。前2作の結末はいずれも喪失感で終わったが、本書でようやく彼は悟りを開いたのだ。

しかし前作でも触れたが、改めて戦争は狂気の温床だと感じられる。アフガニスタンという不慣れな土地でゲリラの殲滅を命じられたソ連軍のザイサン大佐とその部下たちも自分たちの戦争ではないと一刻も早く任務が終わることを望む。
そんな過酷な環境は彼らに虐げられているという被害妄想を生み、やがて仲間や上司の失敗や醜態を期待するような屈折した精神状態を生み出す。軍律という厳しい戒律の中で上司命令が絶対的な状況の中では、その実こんなおぞましい感情が渦巻いている。

上にも書いたように本書でマレルの手によるランボー作品は終わりだろう。しかし映画は確かに観たが1作目、2作目に比べてイメージの想起がなく、こんな話だったかなぁと首を傾げることが多かった。アクションもあるが、宗教観を絡めたランボーの内面を語ることにウェイトが置かれていたのも映画との結びつかなかった原因の一つかもしれない。
映画を既に観ていたことが今回は逆に仇になったようだ。やはり映画は映画、小説は小説と全く別物として捉えて読まなければならないのだが、いやはや難しいものだ。

ランボー3―怒りのアフガン (ハヤカワ文庫NV)
No.949: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

まだまだ大いなる助走

お馴染みガリレオこと物理学者湯川学が活躍する短編集第2弾。

まず「夢想(ゆめみ)る」はある男の家宅侵入の話。
運命の人というのは誰もが抱くロマンティックな願望だが、本書はその運命の人が生まれる前から知っていたという証拠があるというなんとも不思議な関係を論理的に解き明かす。
あまりにも不思議な現象なので、これを論理的に解明するにはものすごいアクロバティックなことで、下手をすれば壁本の如き仕打ちになるようなトンデモ論理になるかと不安を抱いていたが、いやはやさすが東野氏、綺麗に解き明かしてくれました。
しかしこの年にもなると案外人間って単純に思考すると解っているから妙に納得してしまう。

次の「霊視(みえ)る」は恋人の死を友人の家で見た恋人の亡霊で知った事件の話。
複雑な犯行計画がある一つの不測の事態によって崩れていくというのは先般読んだ『嘘をもうひとつだけ』収録の「狂った計算」を思わせる。

「騒霊(さわ)ぐ」は誰もいない家で家具などがひとりでに突然動き出す家の話。
今回は論理的に説かれてもやはり死者の意志が働いたとしか思えない余韻があとを引く。

「絞殺(しめ)る」はホテルの一室で絞殺死体として発見された男の謎を湯川が解き明かす。

最後の「予知(し)る」は目の前で起きた自殺を隣人の娘が3日前に見たというお話。
個人的にこれがベスト。しかしこのシリーズの約束事を逆手に取った結末に思わずニヤリとしてしまった。カーの某有名作品を想起した。


探偵ガリレオシリーズ第2弾。今回も不可能趣味に満ちている。

本書に収められている不思議は予知夢、虫の報せ、ポルターガイスト現象、火の玉、予知視といったオカルト風味の不可解な現象であるのが特徴的だ。

そんな謎に湯川学は少ない証拠から閃いて真相を推理する。その様子はシャーロック・ホームズやブラウン神父といった古典本格ミステリ時代の探偵諸氏を髣髴させる。現代ならば東野版御手洗潔というのが妥当か。

今気付いたが、湯川学も御手洗潔も両方とも大学教授である。しかも御手洗シリーズの作者島田荘司氏も吉敷竹史という刑事のシリーズがあり、東野圭吾氏も刑事加賀恭一郎のシリーズがある。しかも両者に共通するのは刑事物とは思えないほど本格ミステリ風味に満ちているところだ。
なんだか合わせ鏡のような両者だ。

話が逸れたが、本書では謎の強さで云えば、冒頭の「夢想る」が強烈。なんせ女子高生の許へ家宅侵入した27歳の男がその娘が生まれる前からの小学生の頃から運命の人だと名前まで触れ回っていたという謎だ。これを東野氏は危ういながらも論理的に解き明かす。非常にアクロバティックだが一応納得はできる。
謎の強さで次点では「霊視る」と「騒霊ぐ」が並ぶ。前者は事件現場から離れた場所で彼女の亡霊らしき姿が見え、直後に調べてもらうと彼女が死んでいたという謎で、これも非常に複雑な構成な事件を上手く超常現象的謎へ繋げている。後者は誰もいない部屋で決まった時間にいきなり家具類が震えだすという謎は、自分も知っていた現象だっただけに謎解きまで解らなかったのが悔しい。

逆にシンプルながらも余韻が残るのが最後の「予知る」だ。隣の自殺を3日前に見たという娘の謎が逆に単純だと思われた事件の真相を明らかにするという、今までの構成とは逆のパターンを取っているのが面白い。しかし何よりもラストの余韻が抜群だろう。

また各編に書かれた科学的薀蓄も本書の読み所になっている。

さて昨年はガリレオ・イヤーともいうべき年。何しろ久々にガリレオの新作が出たのだ。
これからのガリレオ・ワールドの広がりを楽しみにしておこう。


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予知夢 (文春文庫)
東野圭吾予知夢 についてのレビュー
No.948:
(7pt)

日本人の甘さを思い知らされる

古惑仔と書いて“チンピラ”と読む。馳作品にはお馴染みの呼称。中国語での呼び方。
本書は表題作を含む短編集。

最初の「鼬」は中国から来た売春婦に惚れた男の話。彼女の元締めを殺し、彼女を解放して一緒に暮らそうと決意をするが…。
これはまさに日本人とは違う民族性を上手く使った作品。しかし結末の虚無感と云ったら。

続く表題作は日本のやくざの娘の香港観光案内を任されたチンピラの話。云われるままに毒づきながらも従う古惑仔、家健。
流れるままの観光案内のように物語は進んでいくが、一転意外な結末を迎える。これまた何とも云いようのない話だ。

「長い夜」は大久保でアジア系の友人たちとつるんでいる日本人女性の話。
今でこそ大久保界隈は韓流ファンの聖地となっているが、昔から彼の地は在留外国人のメッカだったらしい。
そんな場所で遊ぶ日本人女性涼子。彼女は心は許しても金銭は許さない関係を貫いていたが、明日をも知れない容態のミャンマー人女性のミーナのためになんとパスポートまで売り渡してしまう。

こういった短編集にはクリスマスにちなんだ作品がつきものだが、本書では「聖誕節的童話」がそれに当たる。
いやあ坂道を転がり落ちるが如くの転落人生。全てが悪い方向に働いていく。やはり密入国と云う不法行為から始まった者には幸せの道など残されていないと馳氏は断じるのか。
ちなみに題名は「クリスマス・ストーリー」と読む。何とも皮肉なタイトルである。

「笑窪」もまた皮肉な物語だ。
普通に働いていれば身持ちもしっかりした手に職持った料理人だが、酒癖の悪さとギャンブル好きの血が災いをもたらすという阿藤良は典型的な馳作品の転落人生キャラ。しかもメグと云うマレーシア女性に嵌ってしまうという「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った転落人生劇場。

最後の「死神」はまさに馳作品に相応しい題名と内容だ。
運命論的な縛りに抗えずに導かれるまま破滅への道を進む。それは親の虐待に起因する業が多いのだが、本編の主人公阿扁は偶々街中で逢った密入国仲間がその直後に死ぬという偶然が続いたがためにそれを真に受けてしまった男だ。
カラオケでの福建省からの密入国者たちの仲間の壮行会の最中にモノローグとして挿入される死んでいった仲間たちのエピソードと主人公阿扁が堕ちていくまでの模様が語られる。またもや虚しい結末だ。


人生の敗残者たちの宴。
6編全てがアンハッピーエンドという馳氏らしい短編集。日常から非日常へ足を踏み出した人々の不穏な行く末、あるいは悲惨な末路を綴った物語集だ。

相変わらず容赦がない。
一編目の「鼬」の虚無感にため息をついたがその後の表題作の何とも悲惨な結末を筆頭に「聖誕節的童話」と「笑窪」の主人公らの転げるような転落人生模様はもう呆れるしかない。
さらに「長い夜」は親切が仇になってしまうという何ともいいようがない結末だ。ラストの「死神」も何かに引き寄せられるように死へ向かう連鎖に絡め取られていく男達の顛末だ。

各編に共通するのはアジア系民族が絡んでいること。そのほとんどが日本に不法滞在している者たちで、彼らのすさんだ生活と性格が短文を連発する文章ながらも詳らかに語られる。このテンポの良さでサクサクと読めるのにしっかりと彼らの堕ち様が腑に落ちるようになっているのは馳氏ならではの職人技だ。

しかし馳氏のメッセージは徹底している。6編全てに共通するのはあの有名な言葉だ。

「同情するなら金をくれ」

貧しいアジア諸国で生まれた人間は金はあるところから貰う、取るのが当たり前だ。同情や愛情などは何も生まれやしない。日々の生活が苦しいだけに楽して暮らしたいという願望が強すぎるのだ。

そんな人間の剥き出しの欲望を馳氏は徹底して訴える。愛などクソ食らえだ!と嘲笑うかの如く。

この救いのない人間たちの物語を読者はどんな気持ちで読むだろう。そして何故にこれほどまでに容赦なく主人公たちを貶めるのだろうか?
どうしようもない現実が存在すること、我々の住む世界の紙一重の所にはこんな無残な人生と世界が潜んでいること。それを馳氏は見せたいのか?

暗鬱になるだけの物語6編。ここにもあそこにも不幸な奴がいることを知らされる。
頑張っていれば、努力していればいつか報われる、などは脆くも崩れ去る物語群。ゆめゆめ爽快感など期待して読まないように。


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古惑仔 (角川文庫)
馳星周古惑仔(ちんぴら) についてのレビュー
No.947:
(5pt)

いよいよゴルフ・ミステリか!と思いきや…

若き女子プロゴルファー、リー・オフステッドのシリーズも早や4作目。4作目にもなるとシリーズの世界も広がってきて、一層面白味を増してくる。

2作目で出演したスキップ・コクランとメアリー・アン・クーパーの2人がテレビの解説と進行役で再登場することも世界の広がりを感じさせるシーンだ。この2人は今回登場人物表に名前が記載されていないのでまさにシリーズ読者のみぞ知る演出だ。

さらに作中で登場するゴールドスタインの詐欺の相関性の法則とは、これはもしかしてスケルトン探偵シリーズの名脇役だったエイブ・ゴールドスタインのことか!?と思わず笑みがこぼれたが、どうも実在の人物でしかも実際にある法則らしい。う~ん、さすがにそこまでのファン・サーヴィスはないか。

さて今回の謎はアメリカチームのキャプテンを務めるロジャー・フィンリーのキャディの殺人事件と、ロジャーのショットの不振の原因である。

実は殺人事件の捜査に関してはいわゆる通常のミステリにありがちな緻密な警察捜査が語られるわけではない。あくまで本書はプロゴルファーのリーが中心になって物語が動いていくため、終始彼女の周囲にいるプロゴルファーたちとのやり取りやゴルフの試合のこと、そしてロジャーの不振の原因探しがメインになってくる。

とこのようにミステリ部分については薄口だが、このシリーズで興味深いのはやはりゴルフにまつわるエピソード。
例えば古参のキャディは専属のゴルファーが調子悪くても決して陰でバカにしてはならないという鉄則があるようだ。それはゴルファーが彼らを食わしてくれているからだ。日本のサラリーマンは上司の陰口を酒の肴にして溜飲を下げる風潮があるのに、なんという気高さだろう。

またスチュワートカップに出場するゴルファーには色々な“特典”があることが明かされる。
プレイ時に使用するゴルフの服装はもとより、スチュワートカップのロゴ入りの旅行鞄にスーツケース、ユニフォームと思しきスーツにシルクのブラウス。さらにドレスシューズにイブニングドレスまでまさに至れり尽くせり。さらには必要経費として5千ドルのトラベラーズチェックまで送られてくる。
いやあ、こんなセレブな世界が本当にあるのだなぁとビックリした。…と思ったら、訳者あとがきによればこれは作者の創作らしい。な~んだ。

そしてようやくリーの恋人グレアムがゴルフに興味を持つようになるのも特筆すべきことだ。それを悟らせるのにリーのティーショットの詳細な描写が大いに寄与している。
ゴルフのショットの美しさと精度の高さ。それが集約された一瞬の断片。この部分を読んでゴルフを楽しむプロアマの人々はゴルフの本質を触れてくれたことに拍手を贈ったのではないだろうか。今まではプロゴルフ業界の裏話を小出しに著されたシリーズがようやく4巻目にしてゴルフという競技そのものを語った思いがした。

しかもリーはスチュワートカップのアメリカチームに勝利をもたらした中心人物として一躍名を馳せ、有名人となった。
これはもう本書でこのシリーズは打切りか?と思いきや、あとがきによれば次作もあるとのこと。

しかし2011年9月に1作目が訳出されてからちょうど1年で4作に上る。これほど頻繁に出版されるってことは人気があるのだろうなぁ。実際書店にこれまでのシリーズ本が陳列されていたし。
個人的にはアーロン・エルキンズ単独のスケルトン探偵シリーズの新訳を読みたいのだが、なんと新作が発表されていないようだ。
う~ん、しばらくはこのシリーズで渇きを癒すか。


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疑惑のスウィング プロゴルファー リーの事件スコア  4 (プロゴルファー リーの事件スコア) (集英社文庫)
No.946: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

本書の加賀恭一郎は実にネチッこい

東野作品のシリーズキャラクター、加賀恭一郎が登場する短編集。

まず表題作はマンションで起きた自殺としか思えない墜落事件の真相を加賀が探るというもの。
加賀とバレエと云えば『眠りの森』を思い起こさせる。あの続編かと思い、同書を当たってみたが、違った。
バレエと云う特異な競技の、誰もが目にするレッスンを殺害方法に絡めるとは心憎い。そして動機はまたバレリーナ特有のプライドゆえの物だった。その道を極めた者たちにしか解らない心境だろう。

次の「冷たい灼熱」は夫が家に帰ると妻が死んでいたというショッキングな幕明け。

女性が家に帰るとそこには交際中の男の死体が倒れていた、と「冷たい灼熱」と表裏一体のような作品が「第二の希望」。

さて本書における個人的ベストが「狂った計算」。
第三者の目の前で起きた痛ましい交通事故。しかしそれは不倫相手でお互いを愛し合うようになった中瀬と奈央子が計画した犯行のはずだった。しかしそれは当初計画していた犯行のようにはいかなかった、と二転三転する事件の真相が面白い。

最後を締めくくるのは「友の助言」。
5編中最も短い作品。交通事故と云う事件であり、唯一殺人事件が起きていない作品で、事件も内容もシンプルだし、物語もシンプル。
これを最後に持ってくるのは単純に一番新しい短編だっただけなのか。だとしたら出版社もしくは作者は余韻を考えて、収録順に配慮した方がいいだろう。


加賀恭一郎5連発。執念深い捜査が持ち味の加賀の切れ味鋭い捜査が味わえる。

加賀刑事は東野作品における刑事コロンボのようなものだろう。倒叙物ではないが現場や関係者の言動から違和感を掴み取り、そこから推理を組み上げ、被疑者が自己崩壊するように誘導する。彼の執拗な尋問によって被害者は次第に苛立ちを覚え、墓穴を掘ってしまうのだ。
その手際はまさに詰将棋のよう。敵に回すとこれほど嫌な相手はいないと思わされる刑事だ。

つまり加賀が付きまとう人物こそ犯人だと云っているようなものだ。これはパターン化されているとはいえ、なぜか主人公に犯人ではないことを証明してほしいと思わされてしまう。それは加賀のネチッこい捜査に一種の嫌悪感を抱くからかもしれない。

そう、加賀はネチッこいのだ。
ネチッこい刑事と云えば、背が低く、加齢臭漂わせる中年太りで脂ぎった顔にいやらしい笑みを浮かべ、バーコードハゲがおまけについている風貌を思い浮かべるが、加賀は全くの正反対で背が高く、剣道の段位者であり、好青年の風貌を持つ。このギャップゆえに加賀の登場に思わず快哉を挙げるのかもしれない。

収録作中個人的ベストは4編目の「狂った計算」。夫婦仲がしっくりいかない者同士の計画的犯行を扱ったものと内容としてはオーソドックスなのだが、東野圭吾氏ならではの実にトリッキーな計画である。
小説が文字で表現される物語であることを最大限に利用した内容である。さらにすごいのはそのトリッキーな計画のさらに上を行く真相が用意されていることだ。計画的な犯行が偶然によって瓦解することの皮肉が上手く語られている。

しかし先にもちらっと触れたが、倒叙物でもないのに、刑事コロンボのように犯人が自己崩壊していく様を読者に見せるというのは実は半倒叙物とでも呼ぶべき新しい叙述形式なのかもしれない。

この後も東野氏は短編集を出版し、最近でもガリレオシリーズの長編作品が出版されたばかり。その旺盛な創作意欲には感服する。

本書は傑作と呼べる作品が集められたものではないが、加賀刑事の現時点で唯一の短編集ということで加賀ファンには素敵な小品集と云えるだろう。


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嘘をもうひとつだけ (講談社文庫)
東野圭吾嘘をもうひとつだけ についてのレビュー
No.945:
(7pt)

クイーンが後期に繰り出した手札

3編の中短編と2編のショートショートを並べ、ポーカーのフルハウスに準えた作品集。
構成も3編の短編の間に2編のショートショートが挟まる、ちょっと変わった構成になっている(目次では短編の目次にショートショートの目次が別々に表記されているため、その構成が解りにくくなっている)。

作品集の先陣を切るのは『ドン・ファンの死』という中編。なんとライツヴィル物。
『エラリー・クイーンの国際事件簿』に「あるドン・ファンの死」という作品があったのでてっきりそちらかと思ったのが、全然違っていた。あちらは犯罪実録物であるのに対し、こちらは純然たるエラリイ・クイーンが活躍する作品だ。
演劇の幕間で起きた殺人事件。被害者が末期の息吹と共に告げた犯人を示唆する言葉は「ザ・ヘロイン」。これでほとんど犯人は一人に絞られたもので、しかも凶器のナイフの所在は解っている。全てがヒロイン役のジョーン・トルースローを指しているのだが…という事件にエラリイが挑む。
ライツヴィル物というのがクイーン読者の興趣を誘う。しかしかつてのライツヴィルも年月の流れと共に人も過ぎ去り、エラリイの顔見知りの人物も少なくなっている。これは変わりゆく当時のミステリシーンを示唆したものかもしれないが、そんな中でも新任警察署長のニュービイに疎まれながらも事件に関わるのがけなげ。
ダイイング・メッセージの意味は案外簡単に解る。こういう時に翻訳物の限界を感じてしまうのが哀しい。
また犯人も物語の半ばで解った。事件としてはやはり小粒か。

次の「Eの殺人」は幕間の息抜きとも云えるショートショートミステリ。
ショートショートミステリということで限られたページ数で切れ味鋭い真相を明かさなければならない。それ故推理もどんどん進み、読者に考えさせる暇を与えない。

続く「ライツヴィルの遺産」もタイトルにあるようにライツヴィルが舞台になっているが、お馴染みのデイキン署長が健在なので時系列的に「ドン・ファンの死」よりも前。
資産相続のトラブルという極めてオーソドックスな内容の1編。犯人の動機と犯行は解るものの、犯人の決め手となる罠にはいささか疑問が残る。
色んな部分で整合性が取れないバランスの悪い1編だ。

次はまたもや幕間のショートショートミステリ「パラダイスのダイヤモンド」だ。賭博場で人気女優のダイヤが盗まれ、犯人もすぐに捕まるが、肝心のダイヤが見つからないといった話。
先の「Eの殺人」もそうだが、ミステリとしてはいささか弱く、逆に小咄のような作品だ。これも間抜けな犯人が最期に息を引き取る前に漏らした言葉「ダイヤモンド・イン・パラダイス」というダイイング・メッセージ物で、「ドン・ファンの死」同様、英語のカタカナ表記にせざるを得ないメッセージなのが残念。
ダイイング・メッセージ物は異国の作品だと言葉の違いという壁に突き当たるというのがこの2編でよく解る。

最後を飾るのは「キャロル事件」。クイーン警視とヴェリー部長刑事が登場する。
後期クイーンの、登場人物も少なく、また明らかに犯人と目される人物が犯行を犯したように見える事件をエラリイが解決しようとする物語。不可能犯罪や派手なトリックはなく、純粋にロジックで、しかも人の心理でさえもそれで解き明かす趣向となっている。
『災厄の町』、『フォックス家の殺人』、『十日間の不思議』などの一連の作品に連なる重い読後感を残す作品となっている。事件の真相自体は正直大したことはない。その物語の最中に語られる出来事がこの意外な真相を持たない事件にどんな意味があるのかを明らかにする。
人間の一見筋の通らない行動でさえもそれが何のためになされたのかをエラリイが陳述する時、実に人間臭い真相が現れてくる。


ライツヴィル物2編にショートショートミステリ2編。それに1編にクイーン警視とヴェリー部長刑事が登場するファンの心をくすぐる作品集…といいたいところだが、『エラリー・クイーンの冒険』などの初期の短編集と比べるとその出来栄えは必ずしも高いとは云えないのが哀しい所。

本書が出版されたのが1965年。長編では『三角形の第四辺』が発表された年。この頃は1963年に『盤面の敵』、1964年に『第八の日』と立て続けに他作家によるクイーン名義の作品が発表されていた時期であり、書評家たちが云っているように決して作品としては出来のいいものがあった時期ではない。各編の書かれた時期は寡聞にして不明だが、晩年の作品集であることには間違いはないようだ。

正直云って幕間劇のように挿入される2編のショートショートミステリは単なる筆休めのような軽い作品でロジックや推理の妙を愉しむわけではなく、純粋にオチを愉しむ作品となっている。この出来が良いかどうかはファン度の強さによるだろう。

中短編3編はエラリイのロジックが披露される純然たるミステリ作品。

凶器に使われたナイフの奇妙な窪みから犯人を絞り出す「ドン・ファンの死」。明白な動機を持つ兄妹の母殺しの意外な犯人が明らかになる「ライツヴィルの遺産」、そして容疑者の無実を晴らすためにエラリイが介入する「キャロル事件」。

「ドン・ファンの死」はクイーンの十八番とも云える小道具からロジックを組み立てるミステリで、これはなかなかの出来。

「ライツヴィルの遺産」は意外な犯人ありきで作られたようなバランスに欠く1編(しかし余談だが本編の登場人物の一人、恋多き娘オリヴィアの綽名が「ガガ」というのは面白い。レディ・ガガはこのことは知らないのだろうなぁ。なんせ本国アメリカではクイーンは既に忘れられた作家らしいから、彼女の人生に関わっているとは考えにくい)。

本書では後期クイーンの諸作品のテイストを最も色濃く感じさせる「キャロル事件」が佳作と云えるだろう。事件そのものは地味で、明かされる殺人事件の犯人も驚きはなく、逆に肩透かしを食らった感はあるものの、エラリイが最終9ページに亘って開陳する推理の道筋と犯行に至った犯人の心理はなかなかに考えさせられるものがある。
逆に人間というものはそれほど論理的に行動する生き物ではないという、推理を超えた推理を見せられた気がした。

しかし本書もまた絶版の1冊である。今回図書館で借りて読んだのだが、何かのフェアで復刊してくれないものだろうか?
古典ミステリの新訳が活発な昨今、よろしくお願いしたいものだ。


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クイーンのフルハウス (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-28)
No.944:
(7pt)

細かいカット割りのスピーディーさが物語を浅くしている

『ランボー怒りの脱出』の後に発表された本書は、なんと『ブラック・プリンス』のソールと『石の結社』のドルーがコラボするそれぞれの続編だ。
マレルの作品は一つの世界観を作っているのか、それともこれは彼の読者サーヴィスの賜物なのか、解らないが彼の作品を読んできた者にとっては至福の設定であろう。
『ランボー』のヒットに気を良くして、二匹目のどじょうを得ようとこの企画を形にしたのかもしれないが。ここにランボーも加わるともはや荒唐無稽を通り越して、マレルの商魂の逞しさに呆れてしまうけれども。

しかしそれでもなお元CIAエージェントのソールが石の結社の神父たちと戦ったり、ソールとドルーが手を組んだりするのはなかなか面白い。

そんなマレルの二大ヒーローが登場する事件とは世界各地で起こる老人たちの失踪事件だ。
さて本書のタイトルにも冠せられ、そして作中でも繰り返される「夜と霧」という単語はかつてヒトラーが勅令として発布したユダヤ人たちをいずこへと連れ去った「夜と霧の法令」に由来する。無知なる私にとって作者の創作かと思ったが、なんと実際に発令された恐怖の法令だったようだ。
そして被害者であった生き残りたちはかつての恐怖を再現しようと、今も名と身分を変えて生存するナチの残党とその子孫たちを同じ目に合わせるために仕組んだ作戦なのだ。

また作中、「消耗品扱いできる(エクスペンダブル)」という表現があった。読中私が頭によぎったのは映画の『エクスペンダブル』とジェイソン・ボーンシリーズ三部作だ。
前者は全くの偶然だろうが、やはり自作のヒーローを一堂に会して暴れさせるというのは昔からの創作者の憧れだったのかもしれない。最近はマーベルコミックのキャラクターが一堂に会した『アベンジャーズ』が好評を博したことだし。

しかしジェイソン・ボーンが作者の死後に映画化され、傑作となったのだから、次の題材としてマレルの『ブラック・プリンス』、『石の結社』、そして本書を3部作として映画化するのはなかなかいいアイデアではないかと思うのだが。
本国アメリカでももはや絶版となって手に入らなくなって、プロデューサーたちの目に留まらないのかもしれない。

短い章を重ねるスピーディな場面転換でアクション小説としては面白いのだが、逆にその短い章立てと切り替えの速さが小説としての味わいやキャラクターの深みを薄めている感がどうしても拭えないのだ。
マレルの場合はナチスの生き残りたちの恨みの深さやナチスのSS将校たちが戦時に行ったユダヤ人虐殺の惨たらしさは表現されているものの、転換の速さゆえに深く浸透して感じられなくなってしまっている。
作品に何を求めるかは読者次第であり、とにかく何も考えずに楽しめるアクション物が読みたいという方なら、この作品は最適だろう。特に『ブラック・プリンス』、『石の結社』を読了済みの読者ならばさらに愉しめるに違いない。

しかしそんな読者の一人である私はやはり小説であるが故のただ楽しかった、驚いた以外の心に響く何かを求めてしまう。

今後のマレルにそのような作品があることを期待したい。


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夜と霧の盟約〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)
デイヴィッド・マレル夜と霧の盟約 についてのレビュー
No.943:
(7pt)
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わかっちゃいるけどやめられない、のか?

今回の舞台はカナダ、ヴァンクーヴァ―。この日本人にとってはあまり馴染みのない街が中国人の華僑によってチャイナタウンが形成され、なんと全人口の25%以上を中国系移民が占める街にまでなっているとは知らなかった。今や世界各国に蔓延る中国社会の根強さを思い知らされるエピソードである。

そんな街に香港黒社会の大物李煬明の娘がミッシェルという名のジゴロに夢中になり、行方をくらましてしまう。片やヴァンクーヴァ―では中国系マフィアが所持する麻薬が悉く何者かに強奪されている事件が起きている。
物語はこの2つの事件を主軸にしてそこに目がけて一癖も二癖もある野郎どもが集結していく。

1人は呉達龍。街のごろつきどもを痛めつけて金をせしめるヴァンクーヴァ―市警の悪徳警官。また彼は次期下院議員を目指す建設会社社長鄭奎の手先として彼の邪魔をする者を陰ながら排除してきた。彼には香港にいる家族をヴァンクーヴァ―に引き纏めるために金を稼ぐ目的があった。

もう1人目は富永脩。元新宿署の防犯係の刑事であったがやくざの女に手を出し、日本にいられなくなったところを李煬明に拾われた警官崩れの男。彼は李の命令で彼の娘を捜し、駆け落ちの相手を始末するためにヴァンクーヴァ―へ降り立つ。

最後の1人はハロルド・加藤。大手貿易会社の社長の息子でありながらブリティッシュ・コロンビア州連合捜査局、通称CLEUの捜査官を務める。彼の許嫁の父親が鄭奎のライヴァルのジェイムズ・ヘイワースで上司命令で鄭奎のスキャンダルを探る任を授かる。

そして彼ら3人が取り巻く渦の中心にいるのが李少芳とミッシェル。
李少芳は行方不明になった香港黒社会の大物、李煬明の娘。ミッシェルはケベックから来たと云われるヴェトナム系マフィアを率いて一連の麻薬強奪に関与していると睨まれている謎めいた男。
2人を探す富永と加藤、そしてそこに呉が絡む。

富永は呉が香港にいた頃、辛酸を嘗めさせられ、恨みを持つ。
加藤は呉が彼の婚約者の父の政敵鄭奎の子飼の悪徳警官である証拠を掴もうとし、呉はその証拠を掴まれる前に加藤を殺そうと目論む。
さらに呉は香港に残した子供らを誘拐した富永に憎悪を抱くという、いわば呉対加藤&富永タッグの1対2の構図を見せる。

しかしやはり馳作品。そんな単純な構図のままでは終わらない。
加藤と富永も組みながらもそれぞれを嫌悪し、いつか寝首をかいてやろうと狙っている。
敵が味方に、味方が敵に、そしていずれもが敵に、と目まぐるしく変わる状況で立場が入れ替わる。

そして悪人ではなく、恵まれた家庭に育ちながらも警察官となったハロルド加藤もまた修羅道に堕ちていく。気付かなかった自分の隠れた性癖―同性愛―を嫌悪しながらその誘惑に抗えない加藤が男娼に迫られ、前後不覚に陥り、人を殺めてしまう。

本書の特徴と云えばこのハロルド加藤の存在だろうか。今までの馳作品は道を外れた者が現状に不満を持ち、いつか大金を手にして「ここではないどこか」へ逃げようと考えていたり、もしくは底辺で蠢くチンピラがのし上がろうとする登場人物ばかりだったが、ハロルド加藤は一代で財を成した貿易会社社長の息子で成績優秀な捜査官。しかも婚約者は次期下院議員候補の娘と、今後の将来も約束されたような男だ。
そんな男が自身の心の闇に抗えず、堕ちていくところが今までの作品にはない設定だ。

そして物語は3人の上にいる人物たち、すなわち呉達龍のボス鄭奎、ハロルド加藤の父親加藤明、富永脩のボス李煬明ら3人の過去の関係へと焦点が移り、それが今回の事件に昏い翳を落としていることが発覚する。

またしても血の物語だ。全く関係のないと思われた3人が過去の因果で繋がる。この血の繋がりによって縛られる因果、過去の呪縛ともいうべきテーマは馳文学では大きなモチーフになっている。

さらに一貫したテーマとして作中呉や富永が独りごちる、誰もが清廉潔白ではない、誰もが秘密を持っており、それを必死に隠して生きている、という台詞に集約されている。
そのせいか見事なまでにまともな人間が1人として出てこない。
かと云って人間臭いといった感じではなく、陰湿な雰囲気が常に漂う。みながタブーを犯して生きている、そんな感じだ。

上下巻1,040ページ弱の作品でそれぞれの因果や鬱屈が呪詛のように繰り返され、彼らの行く末が存分に書き込まれた作品だが、やはり私にはどうも合わなかったようだ。

平たく云うと理解が出来ないのだ。
お互いが他を出し抜いてのし上がり、手にした大金の前で、なぜか身の破滅を願う自分がいる。この感覚が理解できない。
彼らが辿り着くのはいつ追手に見つかって殺されるか、びくびくするだけの日々からの解放。その気持ちは解るが、なぜか彼らは自らを危機に陥れる愚行を犯す。まるで敢えて罠に嵌っていこうとするかのように。これが理解しがたい。
本作の終盤で繰り言のように頻出するのは“とち狂っている”という言葉。みんなが正気ではなく、とち狂っている。だからこそこんな道に陥るのだ。
書いてしまえば簡単だが、それゆえそんな理由で?といった浅さを感じてしまう。

今まで新宿、渋谷、台湾、釧路、ヴァンクーヴァ―と舞台を変えてノワールを展開してきた馳氏だが、結局舞台を変えても物語、雰囲気は同じという感は否めない。それはやはりどこを舞台にしても中国系マフィアが登場するからだ。
厳密に云えば渋谷を舞台にした『虚の王』や釧路を舞台にした『雪月夜』などは中国系マフィアが出てこないが、いずれの作品も強大な影響力を持つ人物が現れ、それに惑わされて堕ちていく物語だ。
特に中国系マフィアの横行を描く物語はもう読み飽きてしまった。新たな機軸を打ち出す作品を読みたいものだ。

ダーク・ムーン〈上〉 (集英社文庫)
馳星周ダーク・ムーン についてのレビュー
No.942:
(4pt)

小説家こそに読んでほしい作品かも?

本書はレンデルのノンシリーズ。
しかしレンデルの描く男性というのはどうしてこうも煮え切らないダメ男が多いのか。閉じこもりがちな引きこもり男性だったり、一人陰鬱に劣等感を抱き、全てに嫌悪を示す小心者だったり、はたまたストーカーだったりと、自立し、前向きに生きる男を描かない。だからこそレンデルならではの皮肉な物語が成立するというのもあるわけだが、本書のグレイ・ランストンもまたどうしようもない生活破綻者だ。

かつて『驚異のワイン』という小説を著し、その印税で日々細々と生活している男。いつか2作目を書かねばと思いながら、まだその時ではないとずるずる引き延ばし、いざとなったら書けるだろうと楽観的に構えている男。

世の小説家の中には一瞬ギクリと思う人もいるかもしれないし、また小説の創作に限らず、過去の栄光を引き摺って生きている周囲の誰かに思いを馳せる人もいるかもしれない。

そんな彼の、実に惨めたらしい日常生活の描写とかつての恋人、人妻ドルシラとの日々の回想が交互に語られる。

とにかくレンデルはダメ男の心情を描くのが上手い。身近にモデルとなるような男がいるのかと思うくらいリアルだ。
特にグレイがドルシラが再会したいのになかなか連絡が取れずに悶々とする件や連絡が取れないことを自分の都合のいいように解釈して納得させようとする心理描写は実に真に迫って面白い。
斯くいう私もかつて失恋を経験したが、そこに至る直前の危うい状態の時に連絡が付かなかった時は確かに1分が10分くらいに感じるほどのまどろっこしさを感じたものだ。

さて今回作者が描きたかったのは大人になりきれない人に対する警句ではないか。後半作中で繰り返されるのはもう子供ではないんだという言葉からもそれが読み取れる。

本書が著されたのが1974年なのでまだ大人はしっかりしていたから、このグレイのような男はなかなかいなかったように思うが、昨今は大人になりきれない大人、つまり精神的に成熟しきっていない大人がなんと多いことか。
周囲との協調や調和を考えず、自分勝手な言動をし、礼儀を知らない成人はゴマンといる。荒れた成人式というのはもはや毎年恒例のニュースにまでなっている。
こんなご時世だからこそのこの作品とも云えるが、これをこの時代に書いているレンデルの先見性には畏れ入る。オイルショックの翌年ですぞ。いやはや。

しかしミステリとしては小粒だろう。悪妻ドルシラの犯罪計画は見え見えだし、これは冤罪を被せられた男から描いた作品であり、その趣向は面白いのだが、あまりに単純すぎた。
犯行がグレイの心に降りてきてドルシラの放った言葉の真意が解るというのは筆巧者レンデルならではだが、それもどこかダブルミーニングというよりも単純な仄めかしとしか取れず、インパクトは薄い。

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緑の檻 (角川文庫)
ルース・レンデル緑の檻 についてのレビュー
No.941: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

いつも心に暗黒を

東野圭吾氏の傑作の誉れ高い本書。ドラマ化され映画化もされたことでその評価の高さが窺える。
そして読後これは確かにそうされるべき題材だと感じた。

とにかく丹念に東野氏は描く。1973年から始まる動乱の時代とその時代の街並みを、その時代に生きた人々を。

東野氏は直接的に年代を書かないものの、その年に流行った、もしくは話題となった社会問題や芸能ネタを織り込んで時代を特定させる。

その時代を生きた2人の男女。物語はその2人を中心に語られる。

1人は桐原亮司。殺された質屋の息子。彼は学校では目立たない存在だが、プライヴェートではサイドビジネスをして、金を稼いでいる。最初は高校生の売春斡旋業、次にパソコンゲームの通信販売、そして何かトラブルが発生すると適切に処理をする。

もう1人は唐沢雪穂。母子家庭で育てられたが母親がガス事故で死に、その後親戚の養子となって引き取られる。生まれは大阪の下町ながらどこか気品があり、茶道に華道に英会話と女性としての自分を磨く。そして誰もが気になる美貌の持ち主でもある。

物語はこの2人の生い立ちを、小学校、中学校、高校とそれぞれの点描を語りながら進む。そしてお互いの人生に間接的にそれぞれの翳を滲ませながら。

それらの進行は実に訥々としている。その時2人の周囲に起こった大なり小なりの事件は決して解決されることはない。しかし断片的に語られる事件には過去に起きた事件に対するある手がかりがさりげなく溶け込まされている。このあたりの配し方が東野氏は実に上手い。
特に252ページの雪穂の章の最後の一行には鳥肌が立ったほどだ。そんなさりげない文章で東野氏は桐原亮司と唐沢雪穂という二人の男女の暗黒と恐ろしさを淡々と描いていく。

そしてこの2人には鋼の絆ともいうべき結束力がある。お互い人生の成功を夢見て、その道に立ちはだかる者を協力して排除していく。しかし二人が作中で出くわすことはない。
この物語運びに東野氏の技巧を感じる。

さらにすごいのは中心となる桐原亮司と唐沢雪穂の心の内面を全く描かずにその人となりを浮き上がらせていることだ。描かれる内面は2人に関わる人物たちばかりで、2人の描写は表情と行動、しぐさだけしかない。それだけで2人の抱える心の闇や野望の深さを読者は知らされるのだ。

そして2人に関わる人間は何故か彼らの過去に触れていく。偶然にも助けられ、彼ら2人の幼き頃の悲劇の真相へと入り込んでいく。
そしてその道行きの半ばにそれは不意に断ち切られる。亮司と雪穂はお互いの人生に立ちはだかる困難を協力して排除していった。そのために人の命を奪うことなど全く厭わなかった。

なぜそこまでにこの2人は助け合うのか?
刑事笹垣の執念が彼らの秘密を、そして73年に起きた事件の真相を解き明かす。
その真相は何とも哀しいものだった。
それが2人の運命を決定づける。

母子家庭の貧民街からのし上がっていく唐沢雪穂の物語は一面を捉えれば、『マイ・フェア・レディ』ばりのサクセス・ストーリー、立身出世物語だろう。
一見輝かしい人生には心を失くしたゆえの冷酷さが隠れ、彼女をいいようのしれない恐ろしい何かに変貌させた。

一方の桐原は雪穂の成功を支える日陰の存在として生きていく。コンピューターに精通しながらその使い道を犯罪にしか向けなかった彼は、雪穂がのし上がっていくために邪魔者となる存在を排除する役割を務める。
前半はお互いに助け合っていたのが、後半、成人してからは桐原の存在は影の部分が濃くなっていく。それは彼にとって雪穂への償いだったのだろう。

そして考えさせられるのが我々は亮司と雪穂のように懸命に生きているだろうかということだ。確かに2人がやった行為は自分の利益や優位、幸せを追求するためには他人を不幸にすることも辞さないという決して誉められたものではない。
しかしそこまで我々は自分の人生を一生懸命に生きているだろうか?

白夜行。
なんと悲痛なタイトルか。
明るくてもそれは日の光ではない。かといって安らかに眠るにはなんとも明るすぎる、中途半端な黄昏。決して無垢な光ではなく闇を孕んだ光の下で生きてきた桐原と雪穂の人生をまさに象徴している。

唐突に閉じられた結末ゆえに気持ちに整理の付かない自分がいる。
しかしこの作品は東野氏が追求してきた人の心こそミステリの一つの到達点だろう。そしてその後の東野氏の活躍を知る人々にとってこれがまだ通過点に過ぎなかったというのが驚きだ。
恐るべし、東野氏。
次はどんなミステリを見せてくれるのだろうか?


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白夜行 (集英社文庫)
東野圭吾白夜行 についてのレビュー
No.940:
(7pt)

映画の無茶ぶりを丁寧に理論づけてて好感が持てる

小学生の頃、そのアクションに胸躍らせた映画『ランボー/怒りの脱出』の原作本。

冒頭、作者のマレルはランボーは前作で死に、本書では映画のランボーであると述べる。つまり作者自らが映画の反響によって書かれた作品だと認めているのだ。なんという潔さだろう。

それを裏付けるかのように本書のランボーは確かに違う。前作では誰かと話すことさえ億劫なヴェトナム帰還兵だったが、本書では現地で落ち合ったヴェトナム女性のCIA連絡員コーとよく会話を交わすのだ。
前作では憎悪の権化でしかない殺戮マシーンだったが、女性ゆえかも知らないが、その2人のやり取りではランボーは案外気の利いた男性であり、そこがまず違う。

また本書ではランボーの性格付けに筆をよく割いている。ランボーがいつでも泰然自若と冷静さを保ち、恐怖心を抱かないのは本書では“禅”の精神こそがランボーを無の境地に、全ての恐怖を感じない心境に達する秘訣だと述べている。

ちょっと時代は遡るがフリーランサーの殺し屋が登場する『シブミ』も殺し屋ニコライ・ヘルの絶対的な精神基盤を日本の精神シブミを体得したと設定している。武士道とか忍者とか当時は日本ブームだったのだろうか?

しかしそれでも第1作のランボーの性格付けは踏襲している。過剰な拷問を受けることで彼の中に眠る獣性が目覚め、狂戦士の如く再び殺戮マシーンへと変身する。ワンマンアーミー、ランボーの復活である。
この辺の心理描写はまさに小説ならではの物。恐らく映画では火事場の馬鹿力で苦難から逃れるランボーに辟易したのではなかろうか?つまりそれこそがデウス・エクス・マキナと感じ、失望した観客も多かっただろう。
しかし本書ではその火事場の馬鹿力について丹念に説明を施している。この辺りは映画の欠点を小説で補っているようで好感が持てた。

上に書いたことからも解るように解説によれば本書はノヴェライゼーションらしい。従って実に映画に忠実で、小学校に観た映画というのに各シーンが瞼に甦ってくるような思いがした。

しかしノヴェライゼーションというのは通常売れない作家や専門の作家がやるものだが、本書では映画『ランボー』の原作『一人だけの軍隊』を著したマレル自らが書いたことが実に珍しい。邪推に過ぎるかもしれないが映画による版権と小説による印税の二兎を追ったのか?

それはさておきマレルの諸作は物語の運び方やプロットの複雑さは一流作家の腕を見せるものの、キャラクターという点ではいささか弱さを感じるのは否めなかった。
そんな中、この映画化もされたランボーの造形は一つ抜きん出ている感がある。いやこれも映画化ゆえに他の作品の登場人物と等しく比べられていないのかもしれない。スタローンの個性の強さによる効果なのかもしれないが。

しかし本書を読んでホッとしたのはマレル自身がハリウッドアクション大作というドル箱作品を物にしたことで本来の作品の芯を失っていなかったことである。前作から引き続いて語るべきはランボーによる、ランボーのための、ランボーの戦争であることだ。このトリガーを弾く要素がそれぞれの作品では違うのだろう。

しかしヴェトナム戦争とはアメリカの中で本当に忌まわしい過去だというのが解る。戦争は敗北した側が被る損害がかなり大きい物だというのが解り、それゆえに人道的な行為さえもないがしろにされてしまう。
ヴェトナムに捕虜がいると解ったことでアメリカは救助隊を派遣しなければならなくなるが、それには膨大な費用と人員と時間が割かれる。さらには救助しても精神に異常を来し、真っ当な社会生活でさえ送れない人物もいる。そんな彼らの補償を政府は彼と家族に対して一生涯していかなければならない。
確かにこれは難しい問題だ。つまりマレルは本書で改めてヴェトナム戦争とはいったいなんだったのかを、ノヴェライゼーションでありながら訴えているのだ。

単に有名なアクション映画の小説化作品と捉えずに、一度手に取って読んでほしい。但し今では絶版状態なのだが…。

ランボー―怒りの脱出 (ハヤカワ文庫 NV (385))
No.939:
(7pt)

探偵の存在が否定されるミステリ

エイブラハム・デイヴィッドソンによって書かれたとされる本書はクイーン作品でも異色の光彩を放つ。閉じられた世界での物語といえば『シャム双子の謎』や『帝王死す』などそれまでにもあったが、本書は世界観から創っているところが違う。

微妙に英語と異なる独自の言葉と宗教を持つコミュニティ。50年前に一度横領罪があったきり、その後半世紀に亘って犯罪の起きていない共同体クイーナン。そこは200人余りの住民で構成され、それぞれが役割を持って自給自足、地産地消の生活を送っている。
ひょんな偶然からそこに招かれることになったエラリイは来たるべき災厄の救世主として迎えられる。それは前もって予言されていたことなのだと教師と自称する統治者ウイリーは述べる。

そしてウイリーが予見していた大きなトラブルとは殺人。ウイリーの従者であった雑品係のストリカイ。そしていまだかつて嘘をついたことのないとされるウイリー相手にエラリイは捜査を進める。

ピーター・ディキンスンを髣髴とさせる異様な手触りを放つ作品。
閉じられた共同体であるクイーナンはアメリカにありながらアメリカではない。全ての物は村人の物であるという共産主義的社会。美術、音楽、文学、科学さえも存在しない。教典とされるのはMk'h(ムクー)の書と呼ばれる存在すらも危ういまだ見ぬ聖書。
犯罪そのものを知らない人々に対して指紋がどんなものかから教えるエラリイ。

そんな中で起きた殺人事件の真相は実はさほど意外なものでもない。限られた世界の中に限られた登場人物。推理をすれば真犯人が解る読者も少なくないだろう。私もその一人だった。動機もまた納得できる。

しかし本書はそれだけではない。この圧倒的に奇妙な世界は何が起因して創られたのか、本来の謎はそこにある。
そしてその正体を理解するには前知識が必要なようだ。そして残念ながら私にはそれがなかった。

エラリイが最後に目にするMk'h(ムクー)の書の正体を知っても衝撃は走らず、その内容がクイーナンの世界とウイリーが述べる予言にマッチする内容が書かれているのか解らないからだ。

しかし本書の真価は最後の最後に現れる本当の救世主になりうる男マニュエル・アクイーナの登場にあるのだろう。

この結末はエラリイの存在、到来自体を否定するものだ。
つまり本書はエラリイのための事件ではなかったということだ。
つまりは探偵の存在を否定する探偵小説。本書の本質とはまさにこれに尽きるのかもしれない。


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第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)
エラリー・クイーン第八の日 についてのレビュー