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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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本書は前作『幻想の死と使途』の偶数章を司る作品であり、2つで1つの物語が構成されるという凝った作りなのだが、内容にはお互いの作品に密接に絡み合う要素はほとんどなく、それぞれ独立した作品として読める。
このような形式を取った理由として森氏は作中で殺人事件に限らず、あらゆる犯罪はその首謀者たちがお互いに譲り合ったり、スケジュールを調整しながら起こされるものではないからだと述べている。 つまり前作の有里匠幻殺人事件と本書の簑沢家誘拐未遂事件及び簑沢素生失踪事件は同時期に起きており、これを分離した2つの作品としながら一方を奇数章、こちらを偶数章で構成することで西之園萌絵が大学院受験時に起きた事件としている。 しかしこの試みは成功しているとは思えない。 確かに森氏の云うように犯罪とは1つが終われば次のが起こるように規則正しくないのだが、同時多発的に複数の事件が起こる作品はこれまでも多々あった。モジュラー型ミステリがそれに当たるが、それらのジャンルに当てはまる作品と比べてもこの2作でたくさんの犯罪が起きるようには思えない。単なる奇抜な着想で終わってしまっている。 奇妙な符号としては双方に事件関係者に盲目の人物が関わっていることだ。しかしそれも両者のストーリーには何の関わりももたらさない。 前作『幻惑の死と使途』は個人的には今まで読んだS&Mシリーズの中で最も評価の高い作品だった。 稀代のマジシャンの死と衆人環視の中での死体消失の彼の弟子たちの不審死と、マジックに彩られた派手な事件だったのに対し、本作は政治家一家の誘拐未遂事件で、しかも犯行は第3章で解決する。 80ページにして一応の解決を見る。誘拐犯のうち、逃亡した1人赤松浩徳の行方と、殺された残りの2人の男女の死の真相、そして事件以来姿を見せない簑沢素生の行方と、比較的小粒な謎で物語は進む。 作中で登場人物の1人儀同世津子も述べているが、小粒な事件故に作者は『幻惑の死と使途』の事件と敢えて同時期に起こす設定にして、500ページもの分量で語ろうとしたのではないか。こんなミステリ妙味薄い事件にもかかわらず、事件は有里匠幻殺害事件が起きた8月の第1日曜の3日前に起きながら、事件解決はその事件解決後の9月最後の木曜日と実に2ヶ月もかけられている。 さらに特異なのは犀川創平がなかなか登場しないことだ。彼の登場は第12章、335ページで西之園萌絵が彼の研究室を訪ねるシーンからだ。それからも犀川の登場頻度は増すことはなく、事件の当事者で西之園萌絵の親友簑沢杜萌の身辺、長野県警の西畑、西之園萌絵のパートが大半を占める。 あ、あとやたらと萌絵の叔母の佐々木睦子が萌絵に関わってくる。 とこのように物語は実に無駄の多い内容で、一向に解決に進まない。私は常々森ミステリには事件解決までのタイムスパンが非常に長い事を特徴として挙げており、これを個人的に森ミステリ特有のモラトリアムな期間と呼んでいるのだが、本書はそれが最も長い作品であろう。 西之園萌絵が有里匠幻殺害事件の解決にかかりきりになっていることと大学院受験を控えていることがその理由となっているが、上に書いたように事件に直接関係のない登場人物の頻度が増していたり、西之園萌絵のお見合いシーンや、犀川創平の妹儀同世津子の妊娠のエピソードなど、物語の枝葉にしては長すぎるエピソードの数々が逆に本書のリーダビリティを落としている。キャラクター小説として物語世界を補強するためのエピソードかもしれないが、さほどこのシリーズにのめり込んでいない当方としては退屈な手続きとしか思えなかった。 しかしこれほど拍子抜けする真相も珍しい。誘拐犯殺害の真相は意外な反転があるものの、カタルシスを感じるほどのものではないし、またもや全ての謎が解かれるわけでもない。よほどこのシリーズが、この世界観が好きでないとこの物語は楽しめないだろう。 それほど森氏の趣味が盛り込まれた、それはある意味少女マンガ趣味とも云える幻想味が施されている。 また前作では初めて西之園萌絵が探偵役を務めたにもかかわらず、最後の最後で犀川によって真相が解明されるという詰めの甘さを見せたが、本書では彼女によって真相が見事に暴かれ、犀川はその真相に至っていながらも積極的に事件に介入しない、いわば保護者的役割に終始している。 これは西之園萌絵の成長とみるべきか、シリーズにおける名探偵交代を示す転換期なのか。 何にせよ、ようやく密室殺人事件から離れた作品なのだが、逆にそれ故に小粒感が否めない。あらゆる意味で何とも残念な作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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映画化もされた東野圭吾氏の近未来警察小説とでも云おうか、国民のDNA情報から犯人を割り出すDNAプロファイリングの罠にはまった技術者の物語だ。
幼き頃のある悲劇的な経験から人をデータとしてしか捉えられなくなった主人公神楽龍平は自ら構築したDNA捜査システムで自身を犯人と指摘され、逃亡者となる。 彼の同行者となるのがスズランなる謎めいた少女。彼は二重人格者である神楽のもう1つの人格リュウが現れた時に姿を現し、彼の絵のモデルとなっていた少女だが、彼女は神楽がリュウである彼を愛し、一緒になりたいと願う。しかしその存在は神出鬼没で読者は彼女が実在するのか幻想の賜物なのか、判断がつかないまま物語を読み進めることになる。 本書で取り上げられているDNA捜査システムとは端的に云えば日本国民全てのDNA情報をデータとして取り込むことで犯罪者を特定するシステムだ。それは現場に残された容疑者の遺留物からDNA情報を採取し、進呈的特徴や癖、習慣などを割り出すのみならず、容疑者に近い親族の情報を割り出して人物を特定し、さらにその情報を基に容疑者の顔を画像として作成するほど高度なシステムだ。 但し膨大なDNA情報から容疑者を絞り込むには途轍もなく高速化された演算能力を持つコンピューターが必要である。本書ではサヴァン症候群患者である蓼科早樹という天才的数学者によって開発された画期的なプログラムでそれを可能としたのだ。 このDNA捜査システムを読んで想起したのは住基ネットである。これは単に住所、氏名、年齢といった本人を取り巻く外的情報でしかないが、これもまた警察と政府によって仕組まれた国民管理構想の一端のように思えてならない。従ってもしDNA情報まで保存・管理・検索できるスーパーコンピューターが開発されれば本書のような捜査システムが構築されるのは時間の問題なのかもしれない。 情報を操る者は情報に操られるというのが高度情報化社会での皮肉な現象だが、今回の主人公神楽もまた高度なDNA情報を利用したファイリングシステムを構築していながら、自分自身が容疑者として検出される実に皮肉な運命が待ち受けていた。 かつて高名な陶芸家だった父親が、陶芸ロボットによる贋作が出回った時代に、自らの作品には機械などが再現できない創作者の思いや魂が込められていると断言しながらも、贋作であることを見破れずに自ら命を絶ったことで父もまたデータの1つに過ぎず、つまりデータは間違えない、そしてデータ化されるDNA、遺伝子は嘘つかないと絶対視してきた男がそのデータによって裏切られ、窮地に陥る。 エンタテインメントの手法としては古くからハリウッド映画でも題材にされてきたテーマだろう。しかしこれを絵空事と思っていいものだろうか? 上に書いたように、既に我々の情報は公共機関によって管理されている。それが機械のミスで、いや故意に人為的に操作されて自分がある日突然犯罪者に仕立て上げられる可能性もあるのだ。このデータは嘘をつかない、機械はミスをしないと信じる盲信性こそが現代社会に生きる我々の最大の敵ではないだろうか。 題名となっているプラチナデータは物語終盤になって登場する。 完璧な正義など存在はせず、大なり小なりの悪が存在しながら社会は機能している。 東野氏は自身の公式ガイドブックの諸作の自己解説でところどころで上のようなことを述べている。従って東野作品は個人の力ではどうしようもないことに対して非常に自覚的である。 それが故に彼の作品は勧善懲悪的に悪が必ず罰せられる結末を迎える作品は少なく、どこか割り切れなさと現実の厳しさというほろ苦さを読後に残す。 果たしてこれは来るべき未来に対する東野氏からの警鐘なのだろうか。裁かれるべき者が、巨悪がさらに大手を振って世間に幅を利かせる世の中になっていく。 ここで書かれた未来はなんとも暗鬱だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今なお続く殺し屋ケラーシリーズ。本書はそのシリーズ最初の作品であり、短編集である。
まず最初の「名前はソルジャー」は『夜明けの光の中で』にも所収されており、既読なのでここでは感想を割愛するが、この作品は一度目よりも二度目の方がケラーがどうして仕事、つまり殺しを実行する気になったかが如実に解るような気がする。 「ケラー、馬に乗る」では飛行機を乗り継いでワイオミング州のマーティンゲイルへ赴く。 小さな町でケラーが出くわす奇妙な人間関係が本作では面白い。殺し屋のターゲットが浮気相手の女性の父親であり、さらに彼女は亭主を殺したがっている。そしてその亭主にも当然浮気相手がいてそちらを愛しており、結婚したがっている。 この物語に確かな答は出てこない。あるのは結果だけだ。そして些末なことに囚われないのがケラーという男なのだ。 続く「ケラーの治療法」ではケラーは精神科医のカウンセリングを受けている。 ケラーが精神科医とカウンセリングを続けるうちに読者は徐々にケラーがどういう男なのかを知ることになる。彼の本名がジョン・ポール・ケラーであること、1作目でも語られた子供のころに飼っていた犬ソルジャーの話に父親の話と、彼の生い立ちや素性を知るだけでも貴重な一編と云えよう。 そしてこのどこへ向かうのか解らない物語は急転直下を遂げる。何とも云えない読後感を残す作品だ。 そしてその犬ネルソンがケラーに思わぬ効果をもたらすことを知らされるのが次の「犬の散歩と鉢植えの世話、引き受けます」だ。 ケラーの短編は時系列に並べられており、その前の短編で書かれた内容がその後の短編にも関係してくるのだが、本書ではそれが顕著に表れている。 そのアンドリアとの関係に一つの答えが出るのが続く「ケラーのカルマ」だ。 とてもヒットマンが主人公の物語とは思えないほど、人間味が溢れている。 「ケラー、光り輝く鎧を着る」と一風変わった題名の本作では依頼斡旋人のドットがホワイト・プレーンズのオフィスを飛び出し、ケラーを訪ねてくる。 しかしそれよりもケラーの依頼人であるホワイト・プレーンズの男が前作から調子を悪くしているのが気になる。こういう短編同士を貫く軸があるから次が楽しみになるのがこの殺し屋ケラーの醍醐味と云えよう。 「ケラーの選択」は実に面白いシチュエーションだ。 恐らく殺し屋稼業をテーマにした作品ではありえない間抜けな内容だ。これもケラーシリーズだからこその面白さと云えよう。 そして本作ではそれまでの展開から極端に変化が訪れる。それはまた後で述べることにしよう。 そして「ケラーの責任」ではそれまでの殺し屋物には似つかわしいほどほのぼのとしたムードから一転してケラーの苦悩と殺し屋としてのプライドが描かれる。 人を殺す生業の男があろうことか、昔取った杵柄で人命救助してしまう。それが基でケラーはターゲットである名士ギャリティに気に入れられ、さらにケラー自身も彼の事を気に入ってしまう。この殺し屋のジレンマを抱えたこの物語は意外な展開を見せる。 こんな男らしい物語を読まされると実に堪らない。 「ケラーの最後の逃げ場」ではケラーは突然愛国心に目覚める。 殺し屋ケラーも詐欺に掛かるのだということを教えられた。しかしこれはケラーをはめたバスコウムを褒めるべきか。 聡い読者ならすぐにケラーに依頼するバスコウムの胡散臭さが解るところが寧ろ本作の面白さではないだろうか? そしてこの短編集の最後を飾るのは「ケラーの引退」だ。 ケラーの引退で幕を閉じると思われたこの短編集。新たなシリーズの幕明けを告げ、本は閉じられる。 しかし切手収集が趣味な殺し屋とは、ブロックは何ともおかしな趣味をケラーに与えたものだ。 古くは不眠のスパイ、エヴァン・タナー、そして無免許探偵マット・スカダーに泥棒探偵バーニイ・ローデンバーに短編集のみ登場する悪徳弁護士エイレングラフとブロックのシリーズキャラクターは実に個性的なのだが、そこにまた新たなメンバーが加わった。 それは殺し屋ケラー。 黒い表紙に都会の片隅を想起させる湿った路地の写真と銃痕で穴の開いた窓の意匠に「殺し屋」の文字。装丁から想起されるのは非情で孤独な男の世界なのだが、しかしこの殺し屋に纏わる話は実に奇妙なのだ。どのシリーズにもないどこか不条理感を伴っている。 しかしそれもシリーズを読み進めるうちに読者にケラーの素性が解ってくるに至り、何を考えているのか解らなかったこの男が実に人間臭い人物になってくるのだ。 これが殺し屋の物語かと見紛うほど、ほんわかする内容だ。 つまり読み進むうちにケラーの変化を同時に読者は感じるようになり、次の展開が非常に気になる作りになっている。 しかしそんな読者、いや私の期待を次の「ケラーの選択」で見事に裏切る。 これはシリーズの広がりを期待しただけに非常に残念なシチュエーションなのだが、実はこの作品から物語のトーンが変わり、実に読み応えが増している。 この後に続く「ケラーの責任」はMWA賞受賞作に相応しい傑作だ。本作のケラーは実に深みがあり、孤高の殺し屋としての流儀を重んじる人物になっている。 彼は思いまどいながら殺すのを躊躇うターゲットに対して責任を果たすことこそが餞になると決意するのだ。この心理こそが殺し屋の殺し屋たる仁義とも云えよう。個人的ベストに迷わず挙げよう。 そしてケラーが見事に詐欺に引っ掛かってしまう「ケラーの最後の逃げ場」を経て「ケラーの引退」で一旦幕を閉じる。 しかし殺し屋を主人公にしながらこのヴァラエティーの豊かさはどうしたものだろう。まさにブロックはアイデアの宝庫であり、ノンシリーズのみならず連作短編でさえもその瑞々しさは損なわれることがないことを証明した。 男臭さの宿る装丁で手に取ることを敢えて躊躇っているならばそれは実に勿体ない話だ。この物語世界の豊かさは寧ろ男性よりも女性に手に取ってほしい色合いを持っている。 ケラーの、どことなく思弁性を感じさせる彼独特の人生哲学と、仕事斡旋人のドットとの掛け合いの妙を存分に堪能してほしい。殺しを扱いながらこんなにも明るい物語に出遭えるのだから。 この二律背反を見事に調和させたブロックの職人芸、ぜひとも堪能していただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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戦争小説でデビューし、その後も冒険小説、スパイ小説と様々なテーマを題材にしてきたマクリーンが今回選んだ題材はF1レースの世界。ある日突然トラブルに見舞われるようになったトップ・レーサーを取り巻く不審な事故を巡る物語だ。
本書ではもはやマクリーン作品の特徴となった、前段がなく、いきなり事件の途中から物語は始まる。そして稀代のトップ・レーサーと称されながらも、最近自殺行為とも云える際どいレースを繰り広げるジョニー・ハーローの一匹狼的な事件の調査をメインに物語は進行する。 マクリーンはジョニー・ハーローに対して外的描写のみで語るため、彼の心中は他の登場人物同様、読者には全く解らない。 本書ではいきなりレース中の事故で他チームのレーサーを死なせてしまう事件から幕を開けるため、まず読者にはジョニー・ハーローが作品で語られるほど凄腕のレーサーとは思えず、寧ろ心理の読めない孤高の、悪く云えばいけ好かないレーサーと映り、正直感情移入がしづらい人物となっている。そんな彼の真意は物語の最後に語られる。 一流レーサーともなると度胸とハートの強さが要求されるが、彼はまさに一つ抜きん出たメンタルの強さを持った人物と云えよう。その裏付けとして一連の事件に加担した人々に対して眉一つ動かさずに非情な制裁を加えることを全く厭わないことが挙げられる。 その冷徹ぶりはもはや一介のレーサーを通り越して、数々の修羅場を経験したエージェントのような趣さえある。 本書はマクリーン作品では実に読みやすい作品で、つっかえるところなく、クイクイ読めるところがいいのだが、その反面、マクリーン特有のメカに対する詳細な描写がほとんどないのが気になった。 ヨーロッパでは有名なモータースポーツに詳細な専門用語を並べることはもはや意味がないとまで思ったのか。いやそれとも晩年の作品は取材する時間をほとんど取らずにテクニックで小説を著していたのか、今となっては解らないが、マクリーンらしい熱が足らない作品だった。題材がそれまでのマクリーン作品の中でも異色だっただけにこれは実に惜しい。 真相も今にして思えばどちらかと云えばありきたりの内容だ。マクリーンの衰えを如実に感じさせる作品だったことが非常に残念だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントル4作目の本書ではアメリカ次期大統領の有力候補と目されるアメリカ大使が大統領選を優位に運ぶためにソ連に対して行った駆引きに巻き込まれる老スパイとイギリス人大富豪の姿を描いた作品だ。
フリーマントルの定番とも云えるスパイ物だが、本書に登場するのはナチス時代に収容所に入れられ、屈辱の日々の末に解放され、スパイとなったユダヤ系オーストリア人フーゴー・アルトマン。彼はアメリカとソ連の陰謀の渦中に否応なく巻き込まれる。 しかし本書では各国政府の思惑の狭間に翻弄されるのは老スパイ、フーゴー・アルトマンだけではない。上に書いたように作戦成功のキーマンとしてロシアによって標的にされたイギリスの大富豪でアメリカ次期大統領候補ジェイムズ・マレーの義弟であるジョスリン・ホリスもまた運命と云う名の歯車に巻き込まれる。彼はロシアに仕組まれたアルトマン、チェコ貿易相コーデス、東ドイツ貿易相ユンカースらによって国際的取引を持ちかけられることでスパイ容疑を掛けられる。 今まで順風満帆だった実業家がある巨大国家の思惑によって囮スパイに仕立てられるこの恐怖。知らず知らずに知り合った外交官が実は共産主義国から送り込まれたスパイだったことで自身にも容疑が掛けられる、まさに突然の災厄以外何物でもない。 本書にもちらりと出てくるがいわゆるキム・フィルビー事件に関わった人々は同様の恐怖のどん底に陥れられたことだろう。 ところで2、3作目に続いてフリーマントルは本書でも収容所に入れられた男を題材に選んでいる。恐らくは収容所をストーリーに絡めた2作目を著すに当たり、取材の過程でたくさんのエピソードを手に入れたのだろう。そしてそれらのエピソードを1つの物語に圧縮するには分量が多すぎて、3作も連続して収容所に纏わる男たちを主人公にした物語を綴ったのではないだろうか。 凄腕の、国に貢献をしたピークを超えた一介のスパイが、その実績ゆえにそれぞれの国の暗部を抱えていることを危惧した政府によって抹殺されることを余儀なくされ、どうにか自分の運命に抗う姿を描くのはフリーマントル作品には多々ある構成だ。そしてそのどれもが悲劇的な結末を迎え、読者を暗鬱な気持ちにさせる。 それは本書でも例外ではなく、熟練の老練さでロシア外相の指令に従い、行動し、自らのアメリカへの亡命をも成功させようと企むアルトマンの末路は想像以上に悲惨だった。 こう考えると用無しとみなされたスパイの悲劇的な末路を描くフリーマントル流常套手段を打ち破ったのが今なお新作が書かれている窓際スパイ、チャーリー・マフィンシリーズだろう。 そして同シリーズは第1作目が本書の後に書かれるのだ。 つまりこのフリーマントル的悲劇を知る者にとっては実はチャーリー・マフィンシリーズとは彼の作品群の中で異色の部類に入ると云えるだろう。 さて題名『十一月の男』は原題“The November Man”そのままである。この11月とは即ちアメリカ大統領選挙の行われる月を指す。 しかし一方で陰謀の渦中に飲み込まれようとしている富豪ジョスリン・ホリスもまたこの11月に大きな取引を控えていた。そしてアルトマンは来るべき11月を迎えることはできなかった。“Man”と原題では単数形が用いられているが、本書は男たちそれぞれが迎える11月を指しているのではないだろうか。 しかし毎度暗鬱になる物語を書く作家だ、フリーマントルは。 これらの作品群があって次作の『消されかけた男』が光るのかもしれない。今なお書かれ継がれるそのシリーズのマーケット戦略は見事に成功したわけだ。 それを当時のフリーマントルが実際に考えていたかどうかは解らないのだけれど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今では次世代を担う作家の1人となった道尾秀介氏のデビュー作が本書。ホラーサスペンス大賞の特別賞を受賞して刊行された。ちなみに大賞は沼田まほかる氏の『九月が永遠に続けば』だ。
さてそんな彼のデビュー作は怪異現象を解き明かす霊現象探求所なる物を開業している真備庄介が登場し、そしてそのパートナーは道尾秀介という作者と同姓同名のホラー作家という、探偵=作家の構図を持った作品である。 背中に眼のような物が写った奇妙な写真の被写体になった者たちが次々と変死を遂げる。その事件の発端となった福島県の山中にある白峠村には忌まわしい天狗伝説があり、4人の子供がいなくなるという神隠しの事件も起こっていた。さらには隣の町では霊の視える少年がいて、2人に関わっていく。 物語は怪奇現象としか思えない土俗的な伝奇色を濃厚にしていく。私は上にも書いたようにこの後の作品が続々と『このミス』でランクインされる道尾作品の本作は当時京極夏彦の百鬼夜行シリーズを髣髴させるという世評もあって、本作をホラーと見せかけて合理的な解決が成されるミステリだと思い込んで読んでいた。 しかし物語はすっきりと解決されない。合理的な解決でありながらもどこか割り切れなさの残る、中途半端な読後感が残ってしまった。 この一見合理的でありながらも不確かな物に解決を求める真相に今の私は正直戸惑っている。齢四十を過ぎると人間の心の不思議さや状況が人の心に及ぼす思いがけない効果などに対しても頑なに否定せず、納得できるようになったと思っていたが、それでもなお腑に落ちなさが残る真相、物語の閉じ方である。 そして今さらだが本書がホラーサスペンス大賞の特別賞受賞作であることに気付かされた。つまり本書はやはりホラー小説だったのだ、と。 物語にふんだんに盛り込まれる地方の因習や伝承に加え、実在する童話に少年殺しの意外な真相を絡め、更には東海道五十三次の一幅の絵を福島の山奥に残る天狗の忌まわしい殺戮の歴史に重ねて殺人者の狂気へと導くプロットはとてもデビュー作とは思えないほどの完成度だ。 しかしやはりもやもやとした割り切れなさが残るのは正直否めない。 先入観と云う物は全く恐ろしいものだ。 次こそはまっさらな心で物語に臨みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ後期の始まりと云える本書は実に変わった趣向が施されている。それは奇数章しか存在しないのだ。
では偶数章はどこへ行ったのかと云うと、それは次作『夏のレプリカ』で書かれる。それは冒頭のみ登場する西之園萌絵の高校時代の友人、簑沢杜萌の身に起こった事件だ。 つまり本書と次作は2作で1つの大きな物語を語っていると云えるだろう。 このような趣向はアメリカの海外ドラマで別のシリーズのキャラクターが登場し、各々の作品の話に影響を及ぼす、いわゆるクロスオーヴァーという趣向に実に似ているが、読後の今は次に語られる事件がさほど本作には絡んでいないように感じたので、その是非は次作を読んでからにしたい。 さて本書ではまたもや密室殺人が扱われているが、それまでのシリーズ作品と違い、鍵の掛けられた状態での密室ではなく、衆人環視の中でマジシャンが殺される、いわば開かれた密室である。 本書で提示される謎は4つ。 先述した衆人環視の中での有里匠幻というマジシャンが何者かによって背中にナイフを突き立てられ絶命する事件。 そしてその匠幻の葬式で霊柩車に乗せられた棺から忽然と匠幻の死体が消えうせる謎。 さらに匠幻のトリック製作を担っていた工場の社長菊池泰彦の死。 そして最後は有里匠幻の弟子の1人、有里ミカルが爆破解体されるビルから脱出するマジックで死体となって発見される事件。 4つの謎に3人の死とミステリとしてはこの上もない充実ぶりだ。 そんな陰惨且つ幻想的な殺人事件の犯人は実に意外な人物だった。 そしていつも思うのはこのシリーズの事件解決に至るまでの時間が実に長いことだ。 今回のマジシャン有本匠幻が衆人環視の中で殺害される事件が起きるのが8月の第1日曜であり、事件解決は9月の第2土曜日以降である。つまり最低1か月半は経っているのだ。 これは本書の探偵役である犀川創平は事件解決に積極的でないことに起因するだろう。彼の関心は自分の研究題材であり、そして西之園萌絵であり、決して事件の謎ではない。彼が事件に向き合うのは事件に積極的に関わる萌絵に危機が訪れた時だ。彼は望まざる形で事件に関わり、そして誰よりもその真実をいち早く見抜くのだ。しかし彼の関心が事件にないために事件解決まで、いや西之園萌絵が事件の真相に肉迫するまで解決されないのだ。 そして事件のエピソードには萌絵の大学生活に纏わるイベントが盛り込まれており、今回は大学院受験の真っ最中である。この辺は大学生活を経験した者には案外ノスタルジイを感じるのかもしれないが、大学生活を知らない者や萌絵自身に関心のない読者にとっては全く以て「それで?」と呟いてしまうエピソードではある。 そして色恋沙汰は西之園萌絵と犀川創平の関係だけではない。サブキャラクターである院生の浜中深志にもとうとう我が世の春が訪れる。彼に恋人らしき存在が出来る村瀬紘子という同じN大学の文学部の1年生が彼と付き合うことになる。 そして愛知県警の若手刑事たちで西之園萌絵と定期会合を行う<TMコネクション>なるファンクラブめいたサークルも出来るに至って、ますます西之園萌絵に嫌悪感が増してしまうのは私だけだろうか。 さて前作『封印再度』に続いてまたもやタイトルで唸らされてしまった。 ストーリーとタイトルがマッチするとこれほどまでにカタルシスを感じるのかと再認識した。後は本書で感じた違和感を次作で払拭されることを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マット・スカダーシリーズ13作目の本書は前作に引き続いて連続殺人事件を扱っている。しかも不可能趣味に溢れた本格ミステリのテイストも同じく引き継がれているのが最大の特徴だろう。
今回スカダーが取り扱う事件は2つ。 1つ目はウィルと呼ばれる社会的制裁者。 誰もが認める悪人なのに裁判の結果、無罪放免になり、大手を振って世間にのさばっている、いわば法によって裁かれない悪人たちを処刑する必殺仕事人だ。ウィルはどんな巨悪であっても宣告通りに始末してきた。それがニューヨーカーたちを、いやアメリカ国民の“正義”を触発し、世間を賑わせている匿名の犯罪者だ。そんな劇場型犯罪にマットは立ち向かう。 もう1つはAAの集会で挨拶を交わす程度の知り合いだった男バイロン・レオポルドが散歩中に何者かによって殺される事件だ。 毎日何千人をも人が殺されているというニューヨークで起きた1人のHIV感染者でもある男の死。一方はマスコミとアメリカ中を賑わせている劇場型犯罪者、そしてもう一方はニューヨークの片隅で起きたHIV感染者の殺人事件。そんな極端に異なる事件にマットは対峙する。 まず解決するのは現代の仕置人ウィルの事件だ。 そしてこの事件の後、マットはもう1つのバイロン・レオポルド殺しの犯人を突き止める。 この一見関係のない2つの事件には一貫してあるテーマがある。それは病魔というキーワードだ。 この社会に蔓延する病気が犯罪を起こさせるという本書のテーマは刊行当時アメリカ社会を席巻していたエイズ、即ちHIVキャリア問題が色濃く反映されているからではないだろうか。特に患者の多かったアメリカでは日本の数倍ものセンセーショナルな病気だったのかもしれない。 人の心とはなんと弱いものだろう。挫折をバネにして再起を果たしても忌まわしい記憶は決して当人の心からは消え去ることはなく、その疵の傷みを止めるためにその手を汚す。 それらはいわゆる「魔がさす」という類のものだろう。 そして数秒間に1人が死ぬと云われているニューヨークでは1つ1つの事件が必ずしも解決されるとは限らず、恐らく彼らの殺人も次々と起こる事件の荒波に埋没する運命だったのかもしれないが、魔がさして成された殺人を抱えたまま生きるのはやはり苦しく、ある者は自らの命を絶ち、ある者は積極的に自白をし、ある者は観念して罪を告白する。 本書は現代に甦った仕置人の正体を探る本格ミステリ的な設定を持ちながら、最後に行き着くところは名探偵の神懸かった推理や驚愕のトリックが登場するわけでもない。 マットが素直に人間を見つめてきたことによって出た答えによって導かれた犯人であり、そのどれもが人間臭く、決して他人事とは思えないほど、その心の在り様がリアルに思えるのだ。 前作『死者の長い列』の解説で法月綸太郎氏は同書と本書が謎めいた連続殺人事件を扱っていることで本格ミステリとしても読める異色作だと述べていたが、とんでもない。これまでの作品同様、八百万の人間が住まうニューヨークに起こる人間の営みとそれが引き起こす人間の心の変化による犯罪を扱っているのだ。 そしてまたもや事件に遭遇することでマットの身辺に変化が訪れる。 今回は事件自体が派手なこともあって、今回はマットがなんとマスコミたちの注目の的になる。 マットがウィルの正体を突き止めたことがマスコミにリークされたからだ。これが今後彼の事件の関わり方にどんな変化が訪れるのか、ちょっと想像がつかない。 そして『処刑宣告』という物々しいタイトルとは裏腹に結末は実に暖かい。『倒錯の舞踏』以来、マットの好パートナーとして活躍してきたTJに思いもかけないプレゼントが与えられるのだ。 それはまずパソコンだ。これは恐らく機械音痴であるマットに替わって捜査のツールとして使うために与えられたようだ。 そしてマットが今まで住んでいたホテルの部屋が終の棲家として与えられる。つまり彼はマットの本当の相棒になったのだ。一介のストリート・キッズだった彼がここまでの存在になるとは思わなかっただけにこれは読者としても何とも嬉しいサプライズだった。 マットを取り巻く人々とマット本人の世界はますます彩りを豊かにしていく。アル中で子供を誤って銃で撃ち殺した元警官という忌まわしい過去を背負った中年男の姿はもはやないと云ってもいいだろう。 しかし本書はどれだけ歳月を重ねても人の抱えた心の疵はなかなか消えないことを謳っている。あまりに順調なマットの人生に今後途轍もない暗雲が訪れそうである意味怖い気がする。 この平穏はしばしの休息なのか。 まあ、そんなことは考えずにまずはこのハッピーエンドがもたらす幸福感に浸ることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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ガリレオシリーズ第5弾の本書は『容疑者xの献身』以来の長編だ。
ガリレオこと湯川学が挑むのは離れた場所にいてある特定の人物に毒物を飲ませる方法を探ることだ。しかしこのトリックが湯川をして「理論的に考えられるが、現実的にはありえない。まさに完全犯罪だ」と云わしめるほどの難問なのだ。 そんな湯川を悩ませる事件自体は至極単純だ。 夫人の不在中に夫が不倫相手と自宅で過ごしている間に自分で作ったコーヒーで毒殺される。その毒の混入元を探るのがメインの謎だ。一方で犯人は読者にはほとんど明確に提示されている。それは毒殺された夫真柴義孝の妻綾音だ。 この容疑者がいかにして不在中に毒を混入できたのかが事件の焦点である。 元来ミステリでは毒殺物は古今東西に亘って多数書かれている。やはりこの毒殺トリックというのは本格ミステリの書き手ならば一度は手掛けたいものなのだろう。 毒をいかにして標的に飲ませるか? そしてどんな毒を使うのか? 殺害方法は単純ながら、そのヴァリエーションは多岐に亘っている。そして本書はまた毒殺トリック物に新たな1ページを刻むことになった。 しかし本書で最もミステリアスなのはこのトリックよりも実は容疑者である被害者の妻真柴綾音だ。 彼女は自らを容疑の外に置きながらも、第一容疑者で夫の不倫相手兼自分の会社の従業員である若山宏美を擁護し、あまつさえ自らも場合によっては犯行が可能であったとさえ、内海・草薙らに仄めかす。 慈愛に満ちた表情を湛えながらも、自分の教え子を護る時には毅然とした厳しい眼差しを向け、自分も容疑圏内に置こうとする。その姿は題名にもあるようにまさに聖女のようだ。 この常人の理解を超えた綾音の心理は慈しみを超えて、時に読者に判じ得ない恐怖を覚えさす。 そしてそんな彼女に草薙は心を揺さぶられてしまう。出逢った瞬間に今までにない感情を事件関係者に抱くことになるのだ。それは刑事としてはあってはならぬことだ。 捜査に当る警察官が容疑者に惚れる。 このハーレクイン・ロマンスのような設定をまさかこのガリレオシリーズで読むことになろうとは思わなかった。 しかもその刑事が草薙。ガリレオシリーズでは科学に疎い読者の代弁者として名探偵湯川学に事件の解決を依頼するパートナー的存在だった彼も本作で恋する人間臭さを備える。 一方翻って彼の相棒の内海薫の人物造形の豊かさはますます深まるばかりだ。 私はTVシリーズの方は観ていないのだが、視聴者の話では柴咲コウ演じる内海薫は草薙刑事の役回り、つまりドラえもんでいうところののび太的存在だ。 しかし前作『ガリレオの苦悩』で初登場して以来、内海の刑事としての優秀さが長編の本書でさらに磨きがかかっている。特に女性特有の視点で捜査に別の方向から光を当てる着眼点の鋭さが。内海を投入することでこのシリーズは事件とそれに関係する人々への描写がさらに濃密になったといっても決して過言ではないだろう。 草薙を翻弄し、内海も歯噛みし、そして湯川をも唸らせる完全犯罪のトリックは実に驚くべきものであった。 そして1年間子供が出来なかったから別れてくれと宣告されたときに自分が自宅を離れることで綾音はその封印を解いた。 彼女は自分が子供を作れない身体であることを知っていたからこそ、期限の来る1年前にこの時限爆弾を仕込んでいたのだ。それは子供がほしいがゆえに独善的な約束事を押し付ける夫の支配に対する彼女にとっての“銃”だったのだ。いつでも引鉄が引けるように常に装填された銃を彼女は心に持っていたのだ。 正直このトリックは現実的に考えると無理があるだろう。恐らく読んだ人全てが納得するトリックでは決してないだろう。 しかし私はそんなありえない殺害方法を肯定的に受け止める側だ。 このトリックはやはり真柴綾音という存在あってのものだと思うからだ。これが他のキャラクターならば到底納得できなかっただろう。そしてこれこそが東野マジックなのだ。 『容疑者xの献身』では自分に生きる希望を与えてくれた母子を助けるために自らが容疑者役に回った石神。 そして本書では結婚した瞬間に離婚せざるを得ない時限爆弾を抱えた綾音の行為もまた献身ではないか。しかしどちらも屈折した献身だ。 毒殺トリック物という本格ミステリど真ん中の謎を設定しながら、読み終わると人間というものの複雑さが際立つ、なんとも贅沢なミステリ。 これぞ東野ミステリ!と看板を掲げたくなる傑作がまたここに生まれた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ナヴァロンの巨砲壊滅はただの前哨戦に過ぎなかった!
満身創痍で瀕死の状態で任務を成し遂げたマロリー大尉とミラー伍長たちのまさに任務達成直後から物語は始まる。 2人は再びジェンセン大佐から新たな任務を告げられると、ようやく任務を終えて結婚式を挙げようとしていた不屈の男アンドレアを強引に引き連れてイタリアのテルモリへと向かう。今度は孤軍奮闘する7,000人ものパルチザン兵を救出するために。 しかしジェンセン、人遣い荒過ぎでしょう! ほとんど生死の境を彷徨うほどの超難関な任務を終えた部下たちをたった30分しか眠らさず、飛行機に乗せて次の任務地に連れて行くなんて、今の時代ならパワハラ上司の極みとの謗りを受ける事だろう。 そんなパワハラ上司ジェンセンの有無を云わさぬ強引さによって今回もマロリーたち一行は困難な任務に赴くわけだが、1作目に比べると切迫感がないように感じる。疲労困憊なはずなのに1作目で感じた死線を彷徨うようなスリルに欠けるのだ。 物語のスケールとしては前作が1,800人のイギリス兵の救出に対し、今回は7,000人のパルチザンの救済と3倍以上になっているにもかかわらず、常に余裕綽々で全知全能の存在の如く、事に当たっているように感じる。寧ろ部下のレナルズのように眼前に起きている事態が解らなくて戸惑っていながら、マロリーに反発している姿こそが読者そのものを写しているかのように感じた。 それはやはりキース・マロリーがもはや生ける伝説の英雄となっているからだろう。前作登場時は世界的な登山家として勇名を馳せていたという設定ではあったが、読者にとってキース・マロリーは全くの門外漢であった。その男が満身創痍になりながら不撓不屈の精神で不可能と思われたナヴァロンの巨砲を打ち砕く姿に感動を覚えたものだった。 しかし今回のマロリーはその時の男とは違い、もはや一介の登山家ではなく、誰もが不可能を可能にする男としてヒーロー視しており、そしてマロリー自身も上に書いたように困難を困難とも思わずに誰もが呆気に取られるような無謀な計画を立てては完遂する有言実行の男になっている。 1作目では到底不可能とされた任務に何度もくじけそうになりながらも前に進んだ姿とはもはやかけ離れているのだ。“男子三日会わざれば刮目して見よ”という言葉があるが、キース・マロリーの人物造形の違いは危難を達成したが故の成長と見てとれるが、それにしてもその違いには戸惑いを覚えざるを得ない。 読者へのサーヴィス精神と云う観点から考えれば、救出すべき人員の数と巨砲ならぬダムの破壊と以前にも増してスケールアップしているのは定石通りと云えば定石通りだが、物語の深みが明らかに減じているのは非常に残念だ。 前作が作者2作目の意欲作であり、所謂「2作目のジンクス」を打ち破らんがために渾身の筆致で描いた苦難に挑む男達の物語だったが、それはデビュー間もない作家が持つ初々しさと粗削りさがいい方向に出た稀有の傑作だったと云えよう。 翻って本書はキース・マロリーと彼の仲間ミラーとアンドレア達ヒーローの物語であり、冒険小説ではなく映画化を意識したエンタテインメント小説となってしまっているのだ。特に原作しか読んでいない読者にはピンと来ないアンドレアの婚約者マリアはなんと映画でのオリジナルキャラクターとのこと。映画会社のいいなりになって自身のオリジナルをも捻じ曲げるとは、何とも情けない限りだ。 そして哀しいかな、本書以降、書評家たちのマクリーン作品への評価は決して高くない。この2作の明らさまな違いがその後のマクリーンの、テクニックだけで映画会社が喜ぶストーリー展開と派手な演出へと淫していった兆しが同じ主人公を使った本書で顕著に表れたように感じた。 |
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フリーマントル3作目の本書ではエスピオナージュを扱う作家ならば一度は扱う題材、ナチスだ。ナチスの残党を追うモサドとそこから逃れようと身分を変え、潜伏している元ナチスの党員や人体実験を行った科学者たちの息詰まる情報戦を描いている。
オーストリアの湖から引き揚げられた箱の中にはナチスの残党に関する情報が収められたファイルがあった。ロシアの宇宙開発に携わるヴラジミール・クルノフは自分がナチス時代、ユダヤ人収容所で様々な人体実験をした責任者ハインリッヒ・ケルマン博士だったことを明かされてはならぬとベルリンへ乗り出し、ファイルを手に入れようとするが、バヴァリア訛りの謎の男に彼がケルマン博士であることを知られ、脅迫される。 この謎の脅迫者の正体と一連の事件の真相は物語の3/4辺りで明らかになる。 世界でも執念深さと世界中に散らばるユダヤ人と云う広範な情報網を持ったモサドという組織の凄さを改めて思い知らされた。 第3作目にして世界におけるナチスの存在の忌まわしさとモサドのナチスに対する復讐心の奥深さと執念深さを何の救いもなく描くとは、とても新人作家のする事とは思えないのだが。 また本書が発表された1975年はイスラエル問題の最中でもあり、また解説によれば実際に翌年の1976年に国際指名手配されていた元ナチスの党員が世界各国で自殺を遂げており、まだ第2次大戦から地続きであった時代だったのだ。 このユダヤ人大量虐殺を行ったナチスに対して異常なまでに復讐心を燃やすイスラエル政府の執念深さはマイケル・バー=ゾウハーの諸作で既に知っており、最近読んだノンフィクション『モサド・ファイル』は本作をより理解する上で非常によい参考書となった。 特に本書にも出てくるゴルダ・メイヤやモシェ・ダヤンといった実在の政治家は同書に写真まで掲載されているのでイメージも喚起しやすかった。書物が書物を奇妙な縁で結ぶことをまた体験したのだが、逆に云えばこのようなエスピオナージュの類を読むならば、『モサド・ファイル』ぐらいのノンフィクションは読むべきなのかもしれない。 題名『明日を望んだ男』はナチスの亡霊から逃れようとしたハインリッヒ・ケルマンやヘルムート・ボックら残党達だったのだろうが、それらに復讐を計画したナチスのユダヤ人収容所出身のウリ・ペレツもまた忌まわしき過去を清算して新たな「明日を望んだ男」なのかもしれない。 彼らが望んだ明日とは決して無傷では得られないものであった。それほどナチスが世界に及ぼした傷跡は深いのだと云う事を改めて教えられた。 だからこそいまだにナチスをテーマにした作品が紡がれるのだろう。本書はフリーマントルにとってナチス、モサドを題材に扱っていく足掛かり的な作品であったことはその後の作品からも窺える。 しかし本当に救いのない話だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ第6作。なんと前作から11年ぶりの作品だ。
ブロックによれば彼の中にはいつも登場人物が住んでいるらしく、彼らが時々現れて新たな物語を教えてくれるとのことだ。久々にマット・スカダーシリーズの新作と殺し屋ケラーシリーズの新作を出したが、それも彼に云わせればまだ彼らが生きていたからだろう。 さてそんな久々のシリーズ作品は日本人にはほとんど馴染みがないが、アメリカでは株や絵画の売買や不動産以上の投資効果があると云われる野球カードに纏わる物語だ。 といっても物語は単純明快のようで複雑に展開する。密室殺人あり、偽装殺人ならぬ偽装窃盗ありと、案外本格ミステリど真ん中の設定と新たなヴァリエーションを加えられて物語は進む。 演劇を観に不在になることが確実な裕福な夫婦の邸宅に忍び込むはずが、結局適わず、夜中に1本の電話を掛けるだけで終わる。しかし何の因果か、キャロリンと別れて家路に向かう途中で出くわした美女にしばらく海外旅行に行っている夫婦がいることを知らされて、そこに忍び込んで大金をせしめるが、その家のバスルームに死体を発見してしまう。 通常ならばそこでバーニイに殺人の濡れ衣を着せられるのだが、本作では電話を掛けた裕福な夫婦がコレクションしている貴重な野球カードが盗まれており、その容疑がバーニイに掛かって逮捕されるのだ。 さらに忍び込んだ先で出くわした死体はそのコレクターから野球カードを盗み出した当人だと以前出くわした美女に教えられる。しかし野球カードコレクターは実はカードは盗まれてなく、自分が売り払った後に盗まれたと証言して保険金をせしめたのだった。 とまあ、このように物語は二転三転、四転五転していく。登場人物の相関関係が複雑に絡み合い、これらが綺麗に繙かれるのかと心配するが、ブロックは最後の大団円で、バーニイは関係者を集め、推理を開陳する段になって、全てが鮮やかに解き明かされる。 それはなんとも美しいロジック。特にこのシリーズの前作や前々作ではこの本格ミステリ趣向を全面に押し出そうとしたせいか、却ってプロットが複雑になり過ぎて、読了後も煙に巻かれたような思いが残って釈然としなかったが、本作では実にシンプルに解き明かされ、カタルシスをも感じた。 ただエラリイ・クイーンらとは違うのは彼が直感的に推理を紡ぎ出しているところもあるところだが、それは許容範囲だろう。 また野球カードに熱狂するアメリカ人の心情は以前なら理解し難かったが、今ならば日本人もトレカ、つまりトレーディング・カードで同様な行為をしている人々もいるので、全く別の世界の話とまでには刊行当初の1994年に比べてはなっていないだろう。 とはいっても私はトレカも門外漢なので本書のように何万ドルもの価値のあるトレカがあるのかどうかは解らないのだが。 さて古書店主になってからのバーニイのシリーズでは本に纏わる薀蓄、特にミステリに関する小咄が多くて海外ミステリファンの心をくすぐるのだが、本書ではスー・グラフトンの作品に集中しているのが興味深い。 特に彼女の代表作であるキンジー・ミルホーンシリーズの『アリバイのA』に代表されるアルファベットをモチーフにした題名をパロディにしたやり取りが実に面白い。これは当時アメリカミステリ作家クラブか何かでスー・グラフトンとかなり親しくなったのだろうか?とにかく出てくる、出てくるパロディのオンパレード。最初から最後までこのキンジー・ミルホーンシリーズの題名をパロッたやり取りが繰り返される。 さて今までのこの泥棒探偵シリーズはバーニイが泥棒でありながら、アルセーヌ・ルパン張りに殺人を犯さず、しかも仕事の後は仕事の前と変わらぬように部屋を片付けて出ていく、スマートさを信条にした泥棒であり、その彼が図らずも殺人事件に巻き込まれて、窃盗以外の罪を着せられそうになるのを防ぐために自ら事件解決に乗り出すのが物語の必然性になっていた。 しかし本書では恒例のように盗みに入った先で死体を発見し、さらに彼に常に疑いを持つ刑事のレイ・カーシュマンに逮捕はされるものの、保釈金を払って出所してからは、彼に危難と云う危難は訪れず、寧ろ野球カードに纏わる人々たちに請われる形で盗みに関わっている。そして今までのシリーズの中で最も盗みを働いた作品でもある。 つまり野球カードの在処は判明し、もはやルーク殺害事件からは全く関係のない立場に置かれたバーニイはなぜか目の上のタンコブであるレイ・カーシュマンがその事件に執着していることを聞いて、事件解決の場を設けるのである。この辺は一見犬猿の仲に見えながらも奇妙な友情がバーニイとレイには介在するのかと思わされてしまった。 11年ぶりに書かれたこのシリーズもこの結末を読めば、もうこれで打ち止めかと思われるのだが、まだこの後も続編が作られた。これは嬉しい限り。 さあ、二見書房が『獣たちの墓』を(映画化のためとはいえ)新訳刊行したのだから、このシリーズもポケミス版のみの作品もぜひとも文庫化をお願いしたいものだ。頼みますよ、早川書房。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏のユーモア小説集『~笑小説』シリーズ第4弾。
前作『黒笑小説』の冒頭で4作の連作短編となっていた出版業界を舞台にしたブラックユーモアの短編が1冊丸々全編に亘って「歪んだ笑い」を繰り広げる。いわゆる出版業界「あるある」のオンパレードだ。 初っ端の「伝説の男」は数々のベストセラーを生み出した伝説の編集者、獅子取の話。 伝説の編集者獅子取の過剰なまでのサービス精神が全くフィクションに思えないのが怖い。とにかく売れる玉を得るためならば編集部もここに書かれていることくらいやるだろうと思ってしまう。そう、獅子取が決して書かないと毛嫌いしているベストセラー作家に対して取ったプロポーズ作戦もまた、あり得そう! 「夢の映像化」は作家なら一度は夢見る自作の映像化。 自作の映像化を喜ぶ新人作家の浮かれた気持ちと自作を大事にしたいという思いの狭間でジレンマに迷う作家の物語…とまでならないのが熱海圭介という男の底の浅さだ。前作では作家デビューしたことで勘違いし、会社を辞めてしまうし、ドラマ化されたことでベストセラー作家への仲間入りと勘違いして夢想に耽る。 この物語を今や発表すれば映像化の東野氏が書いたことに意義がある。熱海の浮かれようは永らく不遇の時代を過ごした彼の当時のそれだったのかもしれない。 「序ノ口」は新人作家唐傘ザンゲの文壇ゴルフデビューの物語。 これは少しいい話。私はゴルフをしないが、会社と云う組織に属さない自営業の作家が他の作家たちと一堂に会してゴルフをする。その初めての時とはこんなものなのだろう。いろいろ出てくる作家の名前が実在の作家の姿とダブる。 最後の大御所作家の話が実にいい。 「罪な女」は男なら一度は陥る間違いでは? 男はバカな者で若くて綺麗な女性の前ではついつい警戒を緩めてしまう。しかもその女性が自分の作品に好意を持っているなら尚更だ。 しかし今回ばかりは熱海を笑うことが出来ない男性が多いのではないか。ほとんどの男性は恐らく熱海の姿に自分を重ねることだろう。 作家を目指す者には臨場感を一層感じるだろう。「最終候補」は閑職に追いやられリストラ寸前のサラリーマンが浮いた時間を利用して創作し、新人賞に応募し、最終候補に残る話である。 主人公の石橋堅一の境遇はどこかの会社にいるであろうサラリーマンの姿であろう。 会社ではたった一人の部署に追いやられ、周りの同僚たちにも蔑まされ、家庭では給料が上がらないのかとため息をつかれる。早く会社を辞めて専業作家になろうと努力する。 今回の作品群の中でもっとも業界のタブーに触れたのが「小説誌」ではないか? 定期刊行物の小説誌がどの出版社も売れていないのは実は周知の事実で、出版社は赤字を承知で小説誌を刊行している。それはそこに掲載している連載の長編や短編を後に単行本化して売るためであり、さらに作家との繋がりを続けるためでもある。 しかし商品として考えた場合、この小説誌というのは一体どうなのか?と東野氏は本作の中でどんどん切れ込んでいく。 曰く、連載物を読んでいる読者はいるのか? 連載から手直しして単行本化するならばそれは出来の悪い下書きではないか? そんな不良品を消費者に提供していいのか? 作家を大切にして読者を大切にしてないのではないか?とその舌鋒は限りなく鋭い。 これは誰もが思っていても大人であるからこそ云えない質問の数々を会社見学に来た中学生の口からどんどん触れてはいけないと思っていたタブーに切れ込んでいく。その正論がいちいち納得できるのだから面白い。 「天敵」では再び唐傘ゾンゲ登場。 ここで語られる作家の奥さんのパターンが面白い。 作品には無関心だが売れ行きには関心のある無関心タイプ、夫の捜索活動に触発されて自らも芸術的活動に着手する目立ちたがりタイプ、夫の作風に心酔し、最も身近なファンとして作品に細かく指示を出すプロデューサータイプ。 「文学賞創設」は灸英社が新たな賞を創る話。 本書では大衆文学の最高賞直木賞、その前哨戦とも云える吉川英治文学賞や山本周五郎賞を想起させる賞の名前が出てくる。この2巨頭に対抗する賞を創ると云うのは他の出版社にとっては彼岸なのだと云う事が解る。 今では数々の賞があり、乱立といっても過言ではないが、なぜそれほどまでに出版社が賞を創設したがるのかが少し解った気がする。そしてどんな賞でも受賞すれば作家は嬉しいものだとほんのり心が温かくなる話だ。 「ミステリ特集」は小説誌で短編ミステリ特集を組むことになったが参加作家の1人が原稿を落として、代役を立てなければならなくなる話だ。その白羽の矢が立ったのは例の熱海圭介。この勘違いハードボイルド作家への依頼は本格ミステリだった。 本書に登場する長良川ナガラ、糸辻竹人といった実在のモデルを髣髴とさせる創作秘話のコメントが実に「らしく」て面白い。 「引退発表」では『黒笑小説』の第1作目「もうひとりの助走」で登場した作家寒川心五郎が登場する。 本書を読んで即思い出したのは海老名美どりの女優引退会見だった。何事かと思って集められた記者たちの前で当時女優だった海老名美どりが打ち明けたのは女優を引退してミステリ作家になるということだった。正直微妙な空気が会見場に流れたのを今でも覚えているが、本書も寒川も決して名の売れた作家ではなく、正直引退会見を開くほどの大物ではない。しかし担当していた編集者たちにとって作家に最後の花道を授けることは編集者冥利に尽きるようで、案外真摯に受け止め、どうにかしてやりたいと思っていることが興味深かった。 売れない作家を売る方法教えます、とでも副題がつきそうなのが次の「戦略」だ。 イメージ戦略、サイン会のサクラ投入と金を掛けずにベストセラーを生み出そうと四苦八苦する獅子取の作戦は果たして功を奏しないのだが、結末はどこか晴れ晴れとしている。 最後は「天敵」で登場した須和元子と唐傘ザンゲこと只野六郎の結婚話がテーマの「職業、小説家」だ。 作家稼業が必ずしも安定した生活基盤を築くかと云えば決して、いやほとんどゼロに近いだろう。 今までの作品の中でコアなファンを持つ、灸英社が期待する新人唐傘ザンゲも、出版業界ではそこそこの売れ筋になるだろうが、実際の収入は20代のサラリーマンのそれよりも劣るくらいだということを詳細に本書では語る。そんな相手に大事な娘を与えることが果たして娘の幸せに繋がるかというのは娘を持つ親ならば誰もが思うことだろう。そんな恐らく同じような境遇の娘を持つ男親の気持ちを実にリアルに語っている。 そして結婚を許す後押しとなるのは作家ならばやはり自分の作品で語るしかないのだ。金ではなく、応援したいという気持ちをいかに持たせるか。厳しい作家たちの結婚問題が本作では垣間見える。 おかしくもやがて哀しき文壇の面々を描いたユーモア連作短編集。前作『黒笑小説』の「もうひとりの助走」から「選考会」までの4作品の世界を引き継いでいる。 売れない若手作家で勘違い野郎の熱海圭介。いきなりデビュー作が売れて話題になった唐傘ザンゲ、出版社灸英社サイドは前作ではちょい役だった小堺がレギュラーで登場し、神田も随所で顔を出し、さらに第1作の「伝説の男」でベストセラーを連発する伝説の編集者獅子取が新たに加わる。 出版業界に携わる者たちの本音とタブーを絶妙に織り交ぜながら今回も黒く歪んだ笑いを滲ませる。その内容は前作よりも明らかにパワーアップしているから驚きだ。何度声を挙げて笑ったことか。 特にモデルとなった実在の作家を知っていれば知っているほど、この笑いの度合いは比例して大きくなる。 この実に際どい内容を売れない作家が書けば、単なるグチと皮肉の、負け犬の遠吠えに過ぎないだろう。 しかしこれを長年売れずに燻っていたベストセラー作家の東野氏が書くからこそ意義がある。彼は売れた今でも売れなかった頃の思いを決して忘れなかったのだ。だからこそここに書かれた黒い話がリアルに響いてくる。 そして本書を刊行した集英社の英断にも感心する。特に本書は東野氏がベストセラー作家になってからの刊行で、しかもそれまで単行本で出していたのを文庫オリジナルで出したのである。 つまり最も安価で手に取りやすい判型でこんな際どい業界内幕話を出すことが凄いのである。 そしてここに挙げられているのは単なる笑い話ではなく、現在出版業界を取り巻いている厳しい現実だ。 様々な新人賞が乱立する今、国民総作家時代と云われるほど、毎年3桁ほどの新人作家がデビューしては消えていく。 内容が素晴らしいからといって売れる本とは限らない。 作品が映像化されたからといって売れ行きがよくなるとは決してない。 作家も個人経営だけれども編集者や他の作家との人脈は今後の作家活動にとっていい影響をもたらす。 常に赤字の小説誌が抱える矛盾とジレンマ。 デビュー作がヒットした作家が陥る読者を意識し過ぎた創作活動という罠。 年に2冊新刊を出し、小説誌の連載を抱える、ごく一般な作家の年収のモデルケースは350万程度だ。 そんな教訓と出版業界のリアルが笑いの中に見事に溶け込んでいる。 本書は笑いをもたらしながらも、これから作家を目指す人々にやんわりと厳しく釘を差しているのだ。 さらに最後の「職業、小説家」で登場人物の1人が話す、買わずに図書館で借りたり、正規の書店ではなく、売れ残った本が流れて行く大型新古書店で購入する読者の対して主人公の光男が怒りに駆られるシーンは東野氏の心情が思わず吐露したシーンだろう。 1冊の本にかける作家の思いと労力を思えば1,500円や2,000円の値段は決して高くはないのだ。そんな苦労も知らずに手軽に愉しむ読者がいる。そんな歪んだ仕組みに対して警鐘を鳴らしているのだ。 東野氏のユーモア小説集『~笑小説』シリーズの一ジャンルに過ぎなかった出版業界笑い話は本書で見事1つの大きな柱と昇格した。 そしてそれらは実に面白く、そして作家を目指そうとする者たちにとって非常に教訓となった。 願わくば次の作品群を期待したい。これは長年辛酸を舐めてきた東野氏しか書けない話ばかりなのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーン第5作目の本書の舞台はもはや彼の独壇場とも云える極寒の地グリーンランド。国際地球観測年の観測隊の基地に突如不時着した旅客機の乗員たちを巡る物語だ。
5作目の本書でのマクリーンの筆致はまさに油に乗り切っている。極寒の地で我々の想像を超える世界と人間に降りかかる危難の詳細な描写は磨きがかかっており、読むだけで我々を氷点下100℃の世界へと誘ってくれる。 例えば観測隊たちが住んでいる組み立て式の建物ケビンは跳ね上げ式の扉がついているが、そこには叩き傷がついている。それはドアに付着した凍結した氷を砕かないと開けることが出来ないからだ。ナット1つ締めるのでも、凍りついたナットを手袋で温めなければ廻らない。 そんな細かいディテールが我々を極寒の地での生活にいざなってくれる。 そして金属に素手で触れるだけで手の皮は剥け、血まみれになり、スノーマスクとゴーグルをしなければ冷気で凍りついた空気中の水分が細かい刃となって目や喉を切り裂く。ほんの数分、外気に晒されるだけで凍傷に見舞われる。 そんな登山家でも音を挙げる厳寒の環境の只中にいるのは往年の名女優やセールスマン、上院議員に神父、等々とまさにこんな状況とは無縁の世界にいる人々たちだ。しかし彼らは生きるために馴れない環境でお互いに手を取り合って協力し合う。 そしてそうしている間にも刻々と彼らの命の灯火は削られていくのだ。次第に話し声も少なくなり、とにかく暖を取って無駄な体力を消耗せぬようにお互いに抱き合って蹲っていく姿は思わず唾を飲みこんでしまった。 そしてそんな中にも主人公メイスンたちを邪魔する人が潜んでいるサスペンス性もある。 不時着した旅客機の一行の中に潜んでいる悪党たちがいったい誰なのかと云う犯人捜しの妙味と極寒の地を苦難に次ぐ苦難、そして正体不明の犯人による心無い妨害と迫害が絶妙なバランスで溶け合い、サスペンスを盛り上げ、読者を飽きさせない。 しかし本書の前に書かれた『シンガポール脱出』や『最後の国境線』に比べてこのリーダビリティの高さは何故だろう? それは本書の設定の明瞭さにあると私は思う。 正直に云えば本書のバックストーリーである最新鋭ミサイルの機密情報を狙う悪党と云う設定は単なる飾りに過ぎない。本書はやはりデビュー作と『ナヴァロンの要塞』に見られた厳しい自然環境の中で苦闘する一般の人々と健気で必死に生きようとする姿を描くことにあるのだ。 特に本書では主人公メイスンが観測基地に派遣された医師であり、それ以上でもそれ以下でもない人物であることが非常に興味深い。 今までのマクリーン作品は不屈の闘志を持つ軍人や仮の姿をしたプロのエージェントといった謎めいた主人公が多く、つまり常人を超えた能力を備えた人物が多かった。 しかし本書のメイスンは正真正銘ただの医師である。従って彼は見当違いの推理をしては誤りを繰り返し、また犯人に出し抜かれるような隙の多い行動が多く、失態を繰り広げる。だからこそ主人公を含めた登場人物たちに降りかかる災難が必然性を伴って感じられるのだ。 極端に云えば主人公メイスンは物語では狂言回しであり、、ヒーローは彼の部下で陽気で寡黙なエスキモー人ジャックストローであり、無線通信士のジャスであり、乗客の1人である若きボクサーのホープ、ジョニー・ザゲロであるのだ。 しかしこの頼りないリーダーが実に人間臭くていいのだ。医者でありながら早とちりをし、判断を見誤っては仲間たちに苦難をもたらす。しかしなぜか皆が頼りにするリーダーシップを備えているのだ。憎めないキャラクターだと云えよう。 さて本書の原題は“Night Without End”、つまり「終わりなき夜」だ。 13人の不時着した乗客の中に事故を起こし、また命を奪おうとする犯人が潜んでいる疑心暗鬼の中で生き残りをかけ、極寒の地を戦前のオンボロ雪上車で決死行に臨むメイスンたち一行の不眠不休の決死行を表すのに絶好の題名である。 それに比べると邦題の『北極戦線』は何とも味気なさを覚えてしまう。もっと小洒落た邦題は浮かばなかったのだろうか?例えば私なら『終わりなき北の決死行』とでも付けようか。 私はやはり妙に謎めいた設定を持ち込んで読者をじらさせる作風よりも本書のような明瞭な設定をリアリティ溢れる筆致で描くマクリーン作品の方が好みである。本書を読んでそれを改めて強く思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書が発表された1974年は冷戦状態にあった米ソ間がデタント、つまり緊張緩和の時代に入った頃だ。つまり国民が西側への接触を決して許さなかったソ連がその戒めを緩め、寧ろ世界へ国力を誇示する意向を示している。
フリーマントルはその様子をロシア人がノーベル賞を受賞するシチュエーションでその国威宣伝に携わる男の苦悩と危うい立場を描いている。 まずロシア人初のノーベル賞受賞者を出すという大役を任されるのが主人公のヨーゼフ・ブルトヴァ。かつて父の政敵だった現文化相ユーリ・デフゲニイによって父と共に失脚させられ、収容所生活を送っていたかつての対西側交渉のプロ。 その彼がノーベル賞を受賞させるために協力するのが片田舎出身の作家ニコライ・バルシェフ。このニコライは天才にありがちな社会不適合者の性格を持ち、多くの人々の前では萎縮し、酒に溺れて失態を演じる、世間知らずの文学青年だが、ジミー・エンデルマンというカメラマンを得て次第に尊大さを肥大させていく。 そしてヨーゼフの妻パメラはなんとイギリス人。イギリスへの帰国のチケットを持ち、夫不在の中、馴れないロシアでの生活に不安を募らせ、いつ帰国しようかと揺れている、精神的にも不安定な若き妻。 しかしノーベル賞作家と共にイギリスとアメリカの要人と会見し、駐在大使や文化省次官、そしてヨーゼフがそれぞれの思惑を孕みつつ、作家を餌にして失地回復や新たな出世の階段に上ろうとする丁々発止のやり取りはあるものの、題材がいかにも地味であることは否めない。 特に片田舎の在野の作家であったニコライ・バルシェフが突然得た名声の為に今までの質素な生活からは想像もできないセレブの世界に足を踏み入れ、自分を見失い、同性愛に目覚め、また麻薬に溺れるさまは典型的な成り上がり者の堕落物語である。 この政治的駆引きの嫌らしさとニコライと同行するカメラマン、エンデルマンが次第に傲慢ぶりを発揮し、倒錯の世界にどんどんのめり込んでいっては我儘を云ってヨーゼフを蚊帳の外に追いやる苦々しさを2つの軸だけで400ページ強もの物語を牽引しているかとは決して云えず、同じ話を交互に繰り返しているだけにしか思えなかった。ノーベル賞作家とカメラマンの傲慢な振る舞いに振り回されるヨーゼフが対峙すべき政敵との駆け引きに隠されたバックストーリーによるどんでん返しが最後に炸裂するのはフリーマントルならではだが、いきなり2作目にして400ページ強のボリュームで語るには題材に派手さがなく、小説巧者の彼でも“2作目のジンクス”があったのだなぁと感じ入ってしまった。 しかしデビュー作では爽快な読後感を与えてくれたのに、2作目にしてこの後味の悪さだとは。フリーマントルは初期からサディスティックな作家だったということが身に染み入るように解った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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トゥローの作品は一貫して架空の都市キンドル郡を舞台にリーガル・サスペンス作品を紡いできた。従ってシリーズの登場人物たちはそれぞれの作品に顔を出し、関連性があった。
しかし本書のように再び同じ主人公が危難に陥る作品は初めてだ。本書はトゥローのデビュー作『推定無罪』の正真正銘の続編である。 21年前のサビッチが危難に陥ったスキャンダラスな事件は愛人の死を巡っての裁判でその時、サビッチは一度地に落ちたが、21年後は首席判事となり、最高裁判官の候補にまで上りつめている。 そしてこの21年後の今彼が直面したのは妻の死。しかしそれは検死の結果、自殺と判定されたが、過去の事件にあまりにも似通った状況からかつて敵として戦った検事側のトミー・モルトが再び相見えることになる。 しかしサビッチにとって最も致命的なのは元調査官アンナとの不倫関係。またもや21年前と同様の状況に陥っているのだ。 つまり前作と本作は表裏一体の体を成しているのだ。 首席判事まで上り詰め、最高裁の判事候補になろうとする男がなぜこうも女性問題で身を滅ぼそうとするのか。しかも21年前と違い、彼は60歳。21年前の39歳ならば、まああり得る話だが、もはや還暦の域に達した男が陥るスキャンダルではないだろう。サビッチはとことん女性にだらしないダメ男ぶりを今回も発揮する。 一方のアンナは34歳になりながら、バツイチの独身女性。男性遍歴は豊富だが、これまで長く続いたことはなく、22歳で結婚し、72日間の結婚生活を過ごしたに過ぎない。なぜか衝動的に落ちてはならぬ恋に落ちてしまう女性なのだ。 このアンナも社会的に高い地位を持ちながら、なぜ色恋沙汰にはだらしないのか。それはアンナ自身が次のように述懐する。 恋とは至高のものなのだ、愛が絡むとたしなみも分別も全て振り払うことが出来る、と。 好きになったら止められない、それがアンナという女性の本質らしい。 いやアンナを受け入れたラスティ・サビッチもまた衝動的に行動する人物だと云えるだろう。 男の女の恋情の機微。親と子が同じ一人の女性を愛する。偶然が招いたとはいえ、それがまた男と女の色恋沙汰の滑稽なところだ。 ロー・スクールを卒業して法律に携わる高潔な職業に就く者たちでも、こと恋愛に限ってはただの男と女に過ぎない。 いや寧ろ人を裁くという重圧とそれに掛かる膨大な資料と証言を相手に裁判に向けて下調べをしなければならない過酷な職業による我々の想像以上のストレスによってそれを発散するために愚かだと思いながらも愛欲に溺れ、浮世の辛さを忘れたがっているのかもしれない。 本書の面白さはミステリの妙味よりもそんなどうしようもない衝動に駆られる高等階級の人間たちのおかしさにあるのだろう。 また本書はトミーとサビッチという2人の男が歩んできた人生の光と影の物語と云えるだろう。 ロースクールの同級生でありながら、常にサビッチの後塵を拝してきたトミーはその風貌も相まって自信の無さが特徴で、逆にそれを長所に検事局のトップまで登り詰めた来た男だ。21年前、満を持して起訴に持ち込んだサビッチを、法廷の魔術師と称される弁護士サンディ・スターンによってことごとく反証され、打ち砕かれてからは特に用心深くなり、本書においても意気揚々の部下ジム・ブランドとは対照的に常に消極的な立場をとる。 しかし起訴してからは彼はそれまで携わってきた公判の中でもベストのパフォーマンスを出す。常に2番手に甘んじていた屈辱を晴らさんが如く。 このトミー・モルトを単純にコンプレックスの塊のような男とみなしてはならないだろう。 誰もが上昇志向を持っている法曹界というエリート中のエリートが集う業界で燻らせていた自尊心を回復するための、いわば己との戦いなのだ。私はこのトミーの心情に本書の妙味を感じた。 かつての雪辱を晴らさんとする男と男の矜持。そしていくつになっても愛を求める男と女の情念。 一つの事件を巡ってトゥローはそれらを訥々と綴っていく。 そしてトゥローの小説を読むと法廷は最上の劇場だと思い知らされる。 検事側が優位に立ったと思えば、翌日は弁護側が攻勢に出る。一つ一つの言葉に複数の意味を持たせ、一挙手一投足に百の言葉以上の含意を持たせる。 さらに双方の戦術によって無罪と有罪の天秤は激しく傾く。 特に今回は死者となったサビッチの妻バーバラの存在感がものすごく濃厚なのである。“死せる孔明、生ける仲達を走らす”とばかりにバーバラが仕組んだ数々の時限装置に被告人であるサビッチはもとより、弁護士、検事、判事らが奔走させられる。 人はそれぞれ秘密を持つ。それは家族であっても同じだ。 そして事件が起き、裁判という場が開かれ、四方八方から捜査のメスが入っても決して知られてはならない秘密は暴かれることはない。なぜならもはや裁判が真相を証明して正義を見せる場ではなく、一番納得のいくストーリーを仕上げて正義と見せる場となっているからだ。だから物事は常に歪められて解釈される。 ラスティ・サビッチ、バーバラ・サビッチ、ナット・サビッチ、アンナ・ヴォスティック、トミー・モルト、ジム・ブランド、サンディ・スターン。彼ら彼女らが知ったことは決して真実ではない。 彼ら彼女らは何を知り、また知らずに生きていくのか。そして今後知る機会があるのか。恐らくそれぞれが墓場で持っていかねばならないことだろう。だがそれでも我々はいくつになっても愚かなことをしてしまう。そしてそれこそが人生なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マット・スカダーシリーズ12作目の本書では「三十一人の会」というランダムに選出された男性によって構成された、年に一度集まっては一緒に食事をして、その1年の事を語り合うという実に不思議な集まりのメンバーが最近次々と殺されていると疑いを持つ会員の依頼に従って真相を探るという、本格ミステリの味わいに似た魅力的な謎で幕を開ける。
この「三十一人の会」のように他者にとっては取るに足らない目的のために集まる奇妙な会のメンバーが次々と亡くなっているという謎はエラリイ・クイーンの短編「<生き残りクラブ>の冒険」を髣髴させる。この作品は作中エレインが動機の1つとして語る「トンティン」、つまり会員で募られた出資金を最後に生き残った者が独占できるというシステムを扱った短編だが、カバー裏に書かれた梗概を呼んですぐにこの短編が思い浮かんだ。 とにかく死が溢れている。 ニューヨークには八百万の死にざまがあると述懐したのはマット=ローレンス・ブロックだったが、本書にも様々な死が登場する。恐らく今までのシリーズで最も死者の多い作品ではなかろうか? 自動車事故で家族と共に死んだ者。 ヴェトナム戦争に出兵して還らぬ人となった者。 天寿を全うした者。 倒錯的な趣味が高じて亡くなった者。 ガンや心臓発作など病死した者。 強盗と鉢合わせ、殴り殺され、妻はレイプの挙句に絞殺された者。 タクシーを運転中に撃たれて亡くなった者。 自分の店に入った強盗に撃たれた者。 仕事中に自分のオフィスのビルから飛び降りた者。 このように実に様々な死が描かれる。 『八百万の死にざま』以降、新聞の片隅に書かれた三行記事のような死がマットの口から語られ、それらのうちいくつかはどこにでもあるような死でもあり、大都会ニューヨークが侵されている社会の病に魅せられた人間によって成された残酷な所業による死もある。 そんな基調で語られる物語だから古き昔から続く秘密の会のメンバーがいつの間にか半数以下になっており、誰かが会員を殺害しているのではないかと云う魅力的な謎で始まる本書でも正直私は意外な真相は期待していなかった。 ここ数年の作品ではマットが捜査の過程で出逢い、また語らう人々から得た情報や彼の捜査と云う行為が口伝で巷間に知れ渡ることで物事が動き始め、犯人が炙り出るという、いわば社会を形成する人間の心理的行動が事件の解決にマットを導き、それによって得られる犯人は全く被害者とは縁がなく、社会の病巣によって起きてしまった事件の当事者であることが多かった。 つまりミステリの興趣である犯人捜しという謎解きの妙味よりもマットの捜査の過程を愉しむ作品という都市小説的色合いが濃かったため、本書もその流れに沿うものだと思っていた。 しかし本書にはサプライズがあった。 そして驚くべきことにその犯人はきちんとそれまでに描かれ、犯人に行き着く手掛かりはきちんと示されていたのだ。しかもそれらが実にさりげなく、大人の会話の中に溶け込んでいるのだ。これぞブロックの本格ミステリスタイルなのだと私は思わず唸ってしまった。 このような恵まれない人物が犯した犯罪を探るマットの生活は実は一方でどんどん向上していっているのだ。 エレインとの仲はさらに深まり、TJは2人にとって良き相棒に成長した。 さらに驚くべきことに前作『死者との誓い』で知り合った被害者の妻リサ・ホルツマンとの肉体関係がまだ続いていたことだ。 ジャン・キーンというマットの心の一角を占有していた女性が病で亡くなり、エレインとの結婚に向き合う節目が訪れたと思ったら、一時の気まぐれと思っていた情事をいまだに引き摺っていたのにはある意味ショックだった。 警官時代、誤って少女を撃ち殺し、自責の念を抱えてアルコールに溺れていたマットの姿はどこにいったのか?齢55になっても女性に対して欲望を抱き、エレインと云う魂で通じ合ったパートナーを得ながら、浮気を重ねるマットの姿に失望を禁じ得なかった。 冒頭にエレインとの関係が訥々と語られ、その中に同棲しながらもまだ結婚には踏み切れないでいるとの述懐にマットの心の傷の深さを読み取ったのだが、単純にリサとの関係を浮気から不倫に発展させたくないがための愚かな抵抗と勘繰っても仕方がない所業だ。 そんなマットもとうとうAAの助言者となる。事件の調査で出逢ったジェイムズ・ショーターという男をAAの集会に参加するよう誘い、断酒の相談に乗るのだ。 死体の発見者となった精神的ショックから酒に溺れ、警備員の職を辞めざるを得ない状況に追いやった彼の姿にマットはかつての自分を重ねる。ジム・フェイバーが彼を救ってくれたように、マットもまたショーターを救おうと行動を起こす。 そしてまたマットもこの事件で変わる。 前述のようにここにはもうかつての負け犬、人生の落伍者であったマットの姿はもう、ない。55歳にしてようやく彼は幸せを掴みつつあるのだ。 しかしマットとエレインとの仲睦まじいやり取りが次第に多くなるにつれ、かつての暗鬱な生活からはかけ離れていくのが少し寂しく感じてしまう。しかしこの話が9・11以前のニューヨークでの物語であることを考えると、それもまた来るべくカタストロフィの前の休息のように思えてくる。 このマットの生活の向上は物語に描かれているニューヨークの街並みの移り変わりが多くの闇が開かれ、かつてのスラムがハイソな界隈に変わっていく姿と歩調を合わせているかのようだ。それ故に9・11が及ぼすマットの生活への影響が恐ろしく感じる。本書が発表された1994年に9・11が予見されていたことがないだけに。そしてこのシリーズが9・11後の今も続いているだけに。 さて今まで無免許探偵として彼の助けを求める人々のために働いていたマットが高級娼婦を辞め、コンドミニアムの所有者でありながら、個人美術商と云う新たな事業を始めて、それもまた成功させて着々と人生を切り拓いているエレインに夫としての吊り合いを保つために、いや少しばかりの男の矜持のために探偵免許を取得しようと決意するマット。 変わりつつある彼の性格と環境に今後どのような物語が待ち受けるのか。 もはや暗鬱さだけが売りのプライヴェート・アイ小説ではなく、ニューヨークと云う巨大都市に潜む奇妙な人間を浮き彫りにする都市小説の様相を呈してきたこのシリーズの次が気になって仕方がない。 なぜならこんなサプライズと味わいをもたらしてくれたのだから。 そして恐らく彼が死者の長い列に並ぶ日はまだかなり遠いことになるのだろう。ブロックの作家生命が続く限り。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アンソロジストとしても名高いエラリー・クイーンが犯罪に纏わる女性が登場するミステリを集めたアンソロジーが本書。女性探偵物に女性犯罪者の短編がカテゴリー別に集められている。
まず「女性の名探偵―アメリカ編―」の劈頭を飾るのはミニヨン・エバハートの女性ミステリ作家兼探偵のスーザン・デアが活躍する1編「スパイダー」だ。 怪しげで決して仲が良いとは云えない老女たちがもたらす暗鬱な雰囲気の中に部外者のスーザンが放り込まれ、事件が起きる。そして神経症の発作を起こした依頼人のスーザンはマリーが他の部屋で話していたのだと思えば、実は自分の部屋にいたというドッペルゲンガーを髣髴させる奇妙な体験をする。 実に古式ゆかしいゴシック風のミステリだが真相はなかなかトリッキー。 幻想的な謎とその合理的解決と黄金期ミステリそのものと云えよう。 次は昨年クレイグ・ライスとの合作が訳出されたスチュアート・パーマーの女教師兼探偵のヒルデガード・ウィザーズが登場する「緑の氷(グリーン・アイス)」は宝石を盗み出した強盗をウィザーズとその相棒のオスカー・パイパー警部が追う話だ。 警察の無線を傍受して事件の捜査に無理矢理介入するのがヒルデガード・ウィザーズの探偵スタイル。つまり相棒の警部オスカー・パイパーにとって捜査の邪魔をする目の上のタンコブという設定だ。 本作の事件は行方の知れない宝石泥棒を捕まえるというものだが、ミステリとしては凡作かと。 ポール・ギャリコの生み出した女性探偵サリー・ホームズ・レインはその名前から「シャーロック」の愛称で呼ばれている女性新聞記者で、編集者のアイラ・クラークと結婚している。「単独取材」では農場で宝探しごっこをしていた少年たちが農場主の夫人に散弾銃で襲撃されるという事件をサリーが潜入取材して調べるという物。 衝撃的な真相に未だに身震いしそうになる。21世紀の現代でもこの結末には戦慄を覚える事だろう。 1作目のミニヨン・エバハートと共に<HIBK“もしも知ってさえいたら”>派の代表としてベストセラー作家だったメアリ・ロバーツ・ラインハートによる女探偵ルイーズ・ベアリングが登場する「棒口紅」は精神科医に通っていた妻が突然自殺した奇妙な事件の物語。 夫婦生活の秘訣は適度な距離感だと云う事を改めて知った次第だ。 「撮影所の殺人」のカール・デッツァーは今では全く知られていない作家だが、彼の創作した女性探偵ローズ・グレアムは映画会社の監督助手という特殊な職業に就いている。 監督助手とは撮影中断されたシーンが再開される際に繋がれるシーンと食い違いがないかを確認する役目を担う。つまり観察力が要求される職業で、まさに探偵役にうってつけの役割と云えよう。 真相はいささか肩透かし気味だが、映画監督助手の探偵という設定はなかなかに面白い。 短編のみアンソロジーに収録され紹介されており、まとまった短編集はまだ編まれていないマーガレット・マナーズは先のカール・デッツァー同様に森英俊氏の労作『世界ミステリ作家事典』にも収録されていない作家だ。その彼女のシリーズ探偵スクウィーキー・メドウが登場するのが「スクウィーキー最初の事件」だ。 色々な何気ない伏線が最後の真相に結びつく点、そして取り調べを重ねるうちに人物像が反転する価値観の逆転が起こる点はミステリとしては及第点だが、昔のミステリにありがちな捜査の部外者が堂々と事件現場に立ち入って素手で色々と物色する描写を読むと、解ってはいるが何とも現実感の無さに辟易してしまうし、何しろスクウィーキーの傍若無人ぶりが好きになれなかった。 1作目でいきなり殺人課の刑事と友人と云う設定も都合よすぎか。今では忘れられた作家であるのも解る気がする。 ハルバート・フットナーのマダム・ロージカ・ストーリーが活躍する「ジゴロの王」は本書では86ページと最も長い1編だ。 観光地に巣食う金持ちのマダム達をターゲットにしたジゴロたちの犯罪グループを壊滅するという、それまでの女性探偵が関わる事件よりもスケールの大きな犯罪に挑むマダム・ロージカ・ストーリーは金持ちのマダムでありながら、犯罪者たちの陥穽を見極め、また犯罪者たちを目の前にしても動じない肝の据わった女性で、犯人の脅迫にも屈しない。現代女性もこの女性の強さには憧れを持つのではないか。 事件はマダム・ストーリーが自らを囮となって組織犯罪のからくりを暴こうとするもので、書物を使った暗号のやり取り等、クライム小説のような展開を見せながらも最後に明かされるグループの元締めの正体でサプライズを仕掛けるなど、なかなかに凝った作品で、最も分量の多い作品だが、決して冗長ではなく、起伏に富んだ展開で読ませる。 この作家の作品、いやマダム・ストーリーシリーズをもっと読みたい気にさせてくれた。 これまた今では知られていないフレデリック・アーノルド・クンマーの「ダイヤを切るにはダイヤで」ではエリナー・ヴァンスというどこかで聞いたような名前の女性探偵が登場する。 冤罪を晴らすために容疑者に探偵が接近するのではなく、冤罪を掛けられた関係者を近づかせて逆に罠を仕掛けてぼろを出させるという解決方法が珍しい。 最後の最後でタイトルの意味が解るのもなかなかだ。 シャーロッキアンとして有名らしいヴィンセント・スカーレットの女性探偵サリー・カーディフが登場する「オペラ座の殺人」は文字通りオペラ公演中に起きた殺人事件の謎を探る作品だ。 公演中の劇場で起きる衆人環視の中での殺人事件はクイーンやカーも扱った題材で謎としては魅力的なのだが、その魅力的な謎に比肩する魅力的な真相になかなか出会えないというのが実情だ(そういう意味では『ローマ帽子の謎』はかなり意外な佳作と云える)。ヴィンセント・スカーレットの本作も演劇の出演者が犯人だという意外性は買えるものの、謎解きの内容を読むとやはり無理を感じざるを得ない。 また探偵役のサリー・カーディフもいわゆる美人で聡明と云う男の願望を具現化したようなキャラクターでこれと云った特徴がないのが残念だ。この作家の作品の訳出が進まないのももしかしたら探偵役に魅力的な特徴がない故かと勘繰ってしまった。 クイーンの紹介文によれば恐らくこの作品が唯一の作品となるらしい。ヴァイオラ・ブラザーズ・ショアなる作家による女性探偵グウィン・リースが活躍する「マッケンジー事件」は39ページの分量ながらも実に起伏に富んだ展開を見せる。 この作品は実によく出来たミステリだ。 H・H・ホームズはアンソニー・バウチャーの筆名だが、本作「フットボール試合」は原稿用紙から印刷された出来立てホヤホヤの作品とのこと。 フットボールの試合に勝つために容疑に掛けられているフットボールの花形選手を釈放させるためにその付添いのかつての名選手が嘘の証言をすると云うのがいかにも熱狂的なフットボールファンの多いアメリカらしい。かなり強引な展開なのに何故か納得してしまう。 しかしながら犯人の手掛かりが賭博師の手にしたゲームの負けカードの数字に隠されていたというダイイング・メッセージを使いたかっただけの物語で、ダイイング・メッセージ好きのクイーンには大いに受けただろうが、トリックありきの作品になったのは非常に残念だ。 さてここからは第2部「女性の名探偵―イギリス編―」。先陣を切るのはギルバート・フランカウの「サントロぺの悲劇」は船上で起きた事件を探偵キラ・ソクラテスコが捜査にあたる。 本書が特徴的なのは探偵が推理を間違え、ワトスン役によって過ちを犯すところを救われるという異色の結末を迎えるところだ。 ただ何となく物語が上滑りな感じがするのが残念だ。 翻って次のF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」は実に濃厚。 この作品の探偵ソランジュ・フォンテーヌの造形が見事。悪を予感する霊的能力を持っている女性と作者は述べているが、このようないわゆる感受性の強い女性なのだが、このような設定はえてして実に都合のいい能力と捉えがちだが、作者はソランジュを通じて彼女の接する人物を実に精緻に描いていく。 つまり人物分析を詳しく書くことで真相が明かされた時のサプライズが実に効果的に生きているのだ。 特に渦中の人物アンガスの描写が印象的だ。印象は実に善良に感じるのだが、心底そうではなく、また邪悪かと疑えば、それもまた違う。 新しい恋に目覚めた男が離婚に同意しない妻の呪縛を解き放つという表向きのストーリーが整然であるがゆえに、その裏に隠されたストーリーの陰鬱さが際立つ傑作だ。 この霊感が強いソランジュ・フォンテーヌという女性探偵は使い方によっては万能すぎて読者は鼻白んでしまうが、本作はその特徴が見事に融合して成功している。 17ページという短い分量のグラディス・ミッチェルの「百匹の猫の事件」は女性探偵ミス・ブラッドレーが周期的な記憶喪失に悩まされる患者にあうことになる。 正直この前に読んだ「ロトの妻」が鮮烈すぎてこの作品の印象はその分量と同様とても、薄い。 ヴァレンタインの「銀行をゆすった男」はハリウッド映画にもなりそうな個性豊かな探偵チームが登場する。 実に面白い。 資金は潤沢にあるために報酬は不要とする<調整者>たち。その名の由来は「犯罪者と被害者の間にある不公平を調整するため」に存在しているからだ。この<調整者>たちは10代の娘しか見えない愛らしいダフネ・レインを中心に運動万能の伯爵の1人息子、探検家、演出家、刑事弁護士というメンバーで構成されており、悪を正すために有罪を証明するのが困難な犯罪者に立ち向かい、作戦を立てて悪を懲らしめるのだ。 う~ん、この明快さが何とも気持ちがいい。映画化するに相応しい題材だ。こんな作品が1929年に書かれていたことが驚きだ。 ファーガス・ヒュームの想像した女性探偵ヘイガー・スタンレーは質屋を営んでいるという変わり者だ。「フィレンツェ版の珍本」は彼女の店に持ち込まれたダンテの<神曲>の第2版を巡る物語だ。 100ポンドもの高価な本に隠された伯父の財産の在処が隠されているという魅力的な謎の真相が小学生の時に私がマンガで読んだ手法だったのに脱力した。 ステーシー・オーモニアの「恐怖の一夜」は寺院町イージングストークのミス・ブレースガードルが南アメリカから帰郷する妹を迎えに行った宿泊先のホテルの部屋にいつの間にか見知らぬ男性が寝ているという状況に出くわす。 貞淑なミス・ブレースガードルは男と一つの部屋にいることに恐怖を覚え、どうにかこの状況を脱しようとするが、やがてこの男性が死体であることに気付く。 正直この作品はこれだけの話である。 イングランドの外にも出たことがなく、男性との付き合いもしたことのない箱入り娘が出くわす見知らぬ男が部屋にいるというシチュエーションに戸惑い、最悪の状況を想定する動揺ぶりが細かく綴られるだけである。つまり世間ずれしていない女性にとっては見知らぬ男と一緒にいる事自体が一夜の冒険だというのがこの物語のテーマなのだろう。 さて第2部を締めくくるのは二大巨匠の手による作品。ガストン・ルルーの女性探偵レディ・モリーの「インヴァネス・ケープの男」とアガサ・クリスティーのミス・マープルが登場する「村の殺人」だ。 前者はある人物の失踪事件を扱った物。 しかしこのトリックが商店街を荒らし回る方法として有効なのかよく解らない。 一方後者の方はさすがの逸品といった作品だ。 片田舎で起きた一人の夫人の死。しかし平穏な村ではその事件でパニックに陥ることなく、牧歌的な雰囲気で物語は進行する。小さな村では村人は皆家族のような物であり、当然ながら被害者の過去も知っている。昔女中として勤めた屋敷で盗難事件が起きたことなど。そんなゆったりとした時間の中でミス・マープルによって明かされる事件の真相は穏やかな村に潜むどんよりとした悪意を読者に知らしめてくれる。 やはりクリスティーの物語は深い。 次の第3部「女性の大犯罪者―アメリカ編」では2編紹介されている。ジョン・ケンドリク・バングズによるパロディ、ラッフルズの妻が主人公の「鉄鋼証券のからくり」とフレデリック・アーヴィング・アンダソンの「贋札」だ。 前者はミセス・ラッフルズの所有する時価10万ドルの鉄鋼証券を担保に150万ドルをせしめる詐欺の一部始終が語られる。 これは古き良きアメリカだからこそ実行可能な詐欺だ。 何とも原始的だが、交通網が発達していない当時ならば有効な手だったのだろう。 後者は最後の最後まで女性犯罪者の正体が判明しないという特殊な作品。 紹介文にあるようにこの作品で語られる犯罪が明かされるのは物語の最後でそれまでは何が起こっているのか読者には解らない。 何が事件なのか解らぬまま、その裏に事件の翳が隠されているという趣向は当時かなり斬新だったのではないだろうか。 最後の3編は「女性の大犯罪者―イギリス編」。そのうち2編エドガー・ウォーレスの「盗まれた名画」とロイ・ヴィガーズの「グレート・カブール・ダイヤモンド」は女怪盗物だ。 それぞれ見つからない盗品を探すという同じテーマでしかも双方とも盗んだと見せかけて実は屋敷から持ち出していないというトリックを扱った物。 前者の女怪盗フォー・スクウェア・ジェーンは義賊でぬくぬくと肥え太った金持ちから有名な絵画を盗み出し、返却の代償として小児医院に5000ポンドの寄付を強要する。そして寄付の後、女怪盗はご丁寧に絵を返却する。 後者は女怪盗フィデリティ・ダヴがアメリカの鉱山王夫人が所望しているあまりにも有名な大型ダイヤモンド、グレート・カブールを所有者から見事盗み出すが、この怪盗は一歩もダイヤは屋敷から出ていないという。所有者は警察の手を総動員して屋敷中を探すが見当たらず、翻ってミス・ダヴはこのまま見つからなかったら、自分が20000ポンドで屋敷ごと買い取ると宣言するという話。 これはどちらかと云えばポーの「盗まれた手紙」を想起させ、そう考えるとチェスタトンの件はミスディレクションだったと思えるのだが、あまりにヒントが明らさますぎた。あと厳重なセキュリティ・システムのかいくぐってダイヤを盗み出す方法が全く語られておらず、「ミス・フィデリティ・ダヴならばこれくらい朝飯前」で済まされているのには苦笑を禁じ得ないが。 しかし両者はこれぞミステリとも云うべき女性版怪盗ルパンの登場だ。ミステリど真ん中の怪盗譚は明快で気持ちのいい物語だった。 最後を飾るのはフィリップ・オッペンハイムによる「姿なき殺人者」だが、物語のテーマはイギリスを騒がせている大犯罪王マイクル・セイヤーと隠退した元ロンドン警視庁刑事ノーマン・グレーズの静かな戦いだ。 逃げる犯罪王に追う元刑事。 一人の女性犯罪者の誕生を登場人物それぞれの視点で描いた佳作だ。 題名が示す通り、女性が犯罪にメインで関わる作品を集めたアンソロジー。 本アンソロジーもクイーン自身による、本書が編まれることになった経緯を語ったはしがきから幕を開ける。そこには古書収集家のクイーンらしく、女探偵の登場の変遷から現在に至るまでの道のりなど、歴史的価値の高い資料としての情報がいっぱい詰まっているのだが、このはしがきの内容は平成の世では実に問題が多い、男尊女卑の考えが明らさまに出ていて苦笑を禁じ得ない。このはしがきの内容のせいで復刊されないのかと勘繰ってしまうほどだ。 さて登場する女探偵たち、もしくは女犯罪者たちは概ね有閑マダムの暇つぶしのような探偵や犯罪者が大半で、中には退屈な日々を紛らすために警察との知恵比べや障害を乗り越えるため、つまりスリルを味わうために犯罪をしていると堂々と述べるキャラクターもいるほどだが、女探偵の場合はそんな中にも探偵を副業として正規の職業に携わっているのが特徴的だ。作家兼探偵、教師兼探偵、新聞記者兼探偵、映画監督助手兼探偵と、特徴的な職業を持ってるがゆえに事件に関わってしまう者もおり、そこに探偵小説の進化を読み取れたりもする。 女性は家を守るものとされていた時代で女性探偵が職を持っているのは非常に珍しいと思う。逆に時代に先駆けて自立した女性だからこそ探偵業も成せるという裏返しなのかもしれないが。 しかし本書に収められた短編ではまだまだ小説創作の技法が幼く、その特色を物語に活かせていないのが残念だ。 上下巻24編が綴られた本書の中で個人的ベストを挙げるとそれはポール・ギャリコの「単独取材」だ。女性新聞記者が探るニュー・ジャージー州の片田舎で起きた牧場主による子供への銃撃事件を取材すべく、お手伝いとして牧場に潜入したサリー・ホームズ・レインが最後に行き着くおぞましい牧場の秘密は今でも総毛だつほどだ。現代でも十分通じる本当のミステリだ。 そして次点ではヴァイオラ・ブラザーズ・ショアの「マッケンジー事件」とF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」、アガサ・クリスティーの「村の殺人」とそして最後のフィリップ・オッペンハイムの「姿なき殺人者」を選ぶ。単なるサプライズに留まらず、読後心に「何か」を残す作品たちだ。 「マッケンジー事件」はパトリシア・ハイスミスを思わせる成り替わり劇がもたらす運命の皮肉を、「ロトの妻」は惜しまれつつ亡くなったルース・レンデルが見せる価値観の逆転とそのためにじわじわと巻き起こる登場人物の真意の怖さを、「村の殺人」はのどかな片田舎に潜む悪意を、「姿なき殺人者」は犯罪者の誕生を実に印象的に語っている。 また収録されている作家たちにも着目したい。 まず第1作目を飾るのがミニヨン・エバハートというのがご時世を表していて興味深い。当時コンスタントに年1、2冊発表していた作家でアメリカ探偵作家クラブの会長も務めたほどの才媛だったようだ。恐らく本書が編まれた当時は作家として円熟期にあったのだろうが、現代ではもはや翻訳本は全て絶版であると時代の流れの残酷さを感じてしまう。 また森英俊氏による『世界ミステリ作家事典』に紹介されていて、今なお紹介が進んでいない、まだ見ぬ巨匠たちは彼女たち以外ではスチュアート・パーマー、ヴィンセント・スカーレット、フレデリック・アーヴィング・アンダスン、エドガー・ウォーレスだが、それ以外にも同事典に収録されていない作家がわんさかといた。個人的には上に挙げたベスト5の作家だけでも埋もれた作品を掘り起こしてほしいものだ。 私が選出した作品は5編だが、上に書いたそれぞれの感想に述べたようにそれ以外にも光る作品は多々あった。 24分の5。打率にして2割ちょっとだが、それでも本書は復刊されうるアンソロジーだと思う。 やはり障害はあの序文かな。そんな瑕疵に目を瞑って、ぜひとも復刊してもらいたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ガリレオシリーズ4作目の本書はシリーズの原点に立ち戻った短編集。そして本書から当初TVドラマ版のオリジナルキャラクターであった内海薫が登場する。
「落下(おち)る」はマンションから転落した30歳独身女性の事件。 綺麗に片づけられた部屋でいかにして死体を飛び降り自殺したかのように見せかけるのか?部屋に残されているのは凶器と思われる蓋付の鍋と掃除機。 この謎掛けに対して湯川はピタゴラスイッチのごとく、非常にアクロバティックな実験をして犯行が可能であることを実証する。トリック成立の細かい説明のあたりは島田荘司氏の本格ミステリ作品の謎解きを読んでいるからのようで、非常に面白い。 2作目「操縦る」は放火事件を扱った物。 工業科学ともいうべき専門的な内容を事件のトリックとして応用するところに東野圭吾氏の先鋭性を感じる。 収録作品中2番目に長い本作はやはり事件に湯川のかつての師が関わっているところによる。それについては後で詳しく感想を述べよう。 続く「密室(とじ)る」でも湯川の知己の人物が登場する。 「操縦る」ではかつての恩師、そして本作では元同級生と湯川に縁のある人物に纏わる事件が並ぶ。 友人の経営するペンションの宿泊客が突然窓から抜け出て崖の下に転落したという何の変哲もなさそうな事件。これだけならば科学の天才である湯川の出番が必要ないと思われるのだが、きちんと本作でも最新科学がトリックに盛り込まれている。 今回は密室の正体が非常に面白い。とうとうここまで密室トリックは来てしまったのかという思いを抱いてしまった。正直このトリックは1回限りにしてもらいたい。 また宿泊ノートに綴られた何気なく子供が書いた風呂の感想から事件当時の不整合性を見破るところも科学の知識あっての故だ。なるほど風呂に入った時に時々出来る空気のつぶつぶは冷たい水に溶け込んだ空気が刺激されて身体に付着するからなのか。しかもこれは一番風呂でないと起きないとのことで、またも勉強になった。 2作目の短編集で印象に残った作品に「予知る」があったが、次の「指標(しめ)す」もそれに似た味わいの作品だ。 ダウジングとは曲げた針金を両手に持って地中に埋まっている水道管や金属を探し当てる方法で、本作によればまだ科学的根拠もなく、探し当てる確率も盲滅法に探すのとほとんど五分五分らしい。 そのダウジングを亡き祖母から譲り受けた水神様と呼ばれる水晶の振り子で中学3年生の真瀬葉月は行い、今まで色んな物を探し、また自分の人生の選択をしてきたという。その一種眉唾科学に今回湯川学は対峙するのだが、正直歯切れの悪い結末ではある。 つまりはダウジングの信憑性はまだ今の科学では証明できないだけであり、それもまた近い将来解明される科学の一種であると湯川は云っているのではないだろうか。真瀬葉月は「予知る」に出た本当に予知視できる少女の姿とダブり、もしかしたら敢えてダウジングの実験を湯川はしなかったのではないかとも思えるラストの余韻はなかなかだ。 最後の「攪乱(みだ)す」は湯川に恨みを持った人間が犯人となる。 本書で最長の最後を飾る本作はそれまでの事件と違って犯人は明確に湯川に対して挑戦状を叩き付ける。つまり今度の事件は今まで他者の事件だったのが、湯川自身に恨みを持つ人物による犯行なのだ。 そういう事態に陥ったのは湯川が警察の捜査に協力していることが一部マスコミに知れたことでかつて湯川に学会で恥をかかされた男が逆恨みで湯川に復讐をするため、自分の行う犯行方法を解き明かすことができるのかを湯川を名指しで指名することでその鼻を明かそうというのが犯行の動機だ。 いわば古典的な名探偵対犯人の構図なのだが、犯人が研究者にありがちな社会不適合者であり、自分のミスを他人のせいにする精神的に未熟な人物であり、また人を離れた場所から殺害する手段を持ちながら、世の中を騒がせ、湯川を挑発する幼さが典型的な現代の世相と云えよう。 また本作で使われたトリックはまたも普通の読者の知らないハイテクだが、使われている内容は昔からある理屈である。つまり古くからある知識に最先端の技術を応用してミステリを書く。これこそガリレオシリーズの醍醐味といえるだろう。 冒頭でも書いたが本書で特徴的なのはドラマのオリジナルキャラクターだった内海薫がレギュラーとして登場する点だ。そして彼女の登場は事件の捜査に奥行きをもたらしている。 今まではいわゆる普通の刑事草薙が難事件に直面して湯川に助けを求めるパターンで、このパターンは踏襲されているものの、湯川の非凡さを際立たせるためか、東大をモデルにしたと思われる帝都大OBでありながら草薙刑事はキャリアのエリートといった風格もなく、至極凡庸な刑事に描かれていた。 しかし女性の刑事である内海が捜査に加わることでそれまでの事件ではなかった女性特有の視点が加わって、警察の捜査に幅が広がっているのだ。つまり極端に云えば、無能な警察のように描かれていたのが、内海が入ることで日本の警察の優秀さが少しばかり加味されるようになったように感じた。 そして『ガリレオの苦悩』と冠せられた本書は『容疑者xの献身』を経てから書かれた短編で構成された作品で、各短編で見せる湯川の心情は『容疑者~』以前のそれとは明らかに異なり、それまで謎そのものに対する興味しかなかったのに対し、事件に関わる事での苦悩や事件の関係者の心情に対しての考察が見られるのが特徴的だ。 例えば1作目の「落下る」では自らの手でかつての学友であり、ライバルだった数学者石神を司法の手に渡すことになったショックからか、警察の捜査に非協力的になっている。 『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各短編では一見不可解な事象を解き明かすことに学者としての知的好奇心をくすぐられて、事件の解明に臨んでいた。それらの事件は湯川自身には何の縁もゆかりもない他人の身に起きた事件で、いわば他人事として捉えていたのだが、石神という自分の人生に関わり、また一人の天才として尊敬もしていた男の罪を自身で解き明かしたことによる精神的反動はこの天才科学者の心情に大きな変化をもたらしたようだ。 特に2作目の「操縦(あやつ)る」ではそれぞれ自分の大学時代の師が事件の犯人になっており、またもや自分の人生に関わる人間を司法の手に渡さなければならなくなる。本作の最後で学生時代の湯川を知る友永元助教授が科学しか興味のなかった湯川が隠された友永の真意を見破ることで人の心まで解るようになった湯川に驚きを示すのは、石神の事件を経てからこそだろう。 3作目の「密室(とじ)る」では大学時代の友人藤村の依頼で彼の経営するペンションで起きた事件の解明をするのだが、この作品にこそ湯川の心情の変化が如実に表れているように感じた。 謎自体は特段科学者の興趣を惹くものではないのに湯川は藤村の頼みから事件の調査を始めるが、恐らくは事件のあらましを訊いた時点で湯川には事件の構図が大体見えていたのだろう。 普通の生活を守るために犯行を実施せざるを得なかったとはいえ、罪は罪なのだと事件の真相を話す湯川の姿は石神の犯行を解き明かした時のそれと妙にダブった。 4作目の「指標(しめ)す」は先にも書いたが「予知(し)る」を髣髴させるテイストの作品だ。科学では証明できない不思議な事象を湯川は目の当たりにするが、敢えてそこに踏み込まない湯川の科学者としての懐の深さを感じさせる。 またこの作品では母と娘の母子家庭が捜査の対象であり、これが草薙にとって『容疑者xの献身』に出てくる花岡母娘を想起させる件が出てくるのがニヤリとさせられる。 そして最後の「攪乱(みだ)す」では湯川に勝負を挑む犯罪者が登場する。『容疑者xの献身』では湯川が天才だと認めた男石神と湯川の頭脳対決だったが、本作ではかつて学会で湯川に自身の研究について質問され、上手く応えられてなかったことで失墜した技術者が警察の捜査を手伝っている湯川に敵対心を燃やして犯行を実行するというものだ。 石神の時は偶然による対決だったが、本書では湯川に恨み(逆恨み以外何物でもないが)を持つ者が湯川自身に対して挑戦状を叩き付けているところが違うのだが、犯罪に加担せざるを得なかった石神に対して苦悶していたのに対し、本作では科学の技術を殺人に利用して世間を騒がせている犯人に憤りを覚えて対峙している姿勢もまた違う。 と各短編について湯川の心情の、いや人間性の変化を述べてきたが、それぞれの作品が実は『容疑者xの献身』の要素をそれぞれ分配させて成り立っている事に気付くことだろう。 かつて知的好奇心を満たす為、興味本位で警察捜査に関わっていたが、事件に関わることで自らもまた心を傷つくことを知った湯川。 かつての恩師や大学時代の友人の犯した罪を解き明かさなければならなくなった湯川。 健気に生きる母子家庭の親子が巻き込まれた事件に携わる湯川。 そして自らを敵とみなす犯罪者と対決する湯川。 それぞれが『容疑者xの献身』に込められたエッセンスだ。 そして湯川はあの事件で人の心の深みを知り、また作中でも人の心を知ることも科学で途轍もなく奥深いと述懐している。 これはかつて大学で理系を専攻し、トリックメーカーとしてデビューした東野氏が人の心こそミステリと作品転換したのに似ている。つまりこの湯川の台詞は作者自身の言葉と捉えてもいいだろう。 『名探偵の掟』で本格ミステリを揶揄しながら、敢えて現代科学の知識で本格ミステリを書いた『探偵ガリレオ』シリーズ。このトリック重視の作品に人の心の謎を持ち込んだ『容疑者xの献身』でこのシリーズも第2のステージに入ったと云えるだろう。 そして正直に云って『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各編よりも本書収録作の方が印象に残るのだ。これからのガリレオ探偵湯川学の活躍、いや事件への関わり方が非常に興味深くて読むのが愉しみでならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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薬師寺涼子シリーズも9作目。しかし8作目からのインターバルは長く、なんと5年ぶりの登場だ。
涼子とその部下泉田くんが今回赴くのはロシア。しかしモスクワといった大都市ではなく、シベリアの辺境の地だ。連続殺人鬼日下公仁がロシアに潜伏しているという情報を得た警視庁に涼子たちが派遣される。 そして彼らに同行したのは阿部真理夫と貝塚さとみのもはや涼子ファミリーとも云うべき一味。そして例に漏れずライバルの室町由紀子も加わり、その部下でキャリアでオタクの岸本もおまけとして付いてくる。 誇大妄想狂の政治家に、精神倒錯者の連続殺人鬼。 これほど物語の舞台としては背筋を寒からしめる材料が揃っているのに、薬師寺涼子には全く危機が訪れない。日下公仁と4人の精神倒錯者という大敵と絶滅したはずのサーベルタイガーの群れと、通常の小説ならば絶望的な状況であるのに、涼子は冷や汗すらかかない。 特に日下公仁は女性に対して肉体的、精神的苦痛を与えて愉しむ倒錯者であり、彼の秘密都市に囚われているという四面楚歌状態ならば、さすがの薬師寺涼子も無傷ではすまないのではないかとハラハラさせられたのだが、むしろ相変らず日本のみならず世界の、とりわけアメリカの政治・政策・思想に対する鋭い舌鋒による口撃が大半を占めるのみで、連続殺人鬼も涼子や室町由紀子、そして部下の貝塚さとみという、拷問するにはこの上ない材料が揃ったと述懐しているのにもかかわらず、捕えて拷問しようという素振りさえ見せないのだ。 これは読者に対する配慮、つまり薬師寺涼子は普通のヒロインなら陥るべき危機などとは全く無縁の、絶対的存在として君臨してほしいという女王崇拝的興趣を削がないためのストーリー展開なのだろうか(実際タイトルの女王陛下はてっきり秘密都市を治めているカリスマ的女性リーダーの存在を想像していたのだが、全く女性キャラは現れず、薬師寺涼子その人を指す単語だった)? だとしたらは過剰な読者サービスで、物語作家としては失格だろう。そうだとしたらどんな強敵が現れても、常に薬師寺涼子はピンチに陥らなく、エンタテインメント小説の物語の要素として挙げられる「絶体絶命のピンチ」がこの小説には大きく欠けているからだ。例えれば雨霰のように降り注ぐ銃撃戦の中で涼しい顔をして歩いても、決して弾が当たらず、むしろ弾が避けているような存在になってしまっている。 特にこのシリーズが作者の他のシリーズと大きく異なるのは物語の軸となる大きな縦軸が設定されていないところにある。 当初この縦軸を担うのは薬師寺涼子と泉田との関係だと思っていたが、9作目になっても全く進展を見せない。むしろ物語としては舞台と敵を変えただけで同じ話を読まされている気がして、パターン化されているのだ。 確かにそんなシリーズは多々あり、いわゆるミステリの探偵物は事件発生~探偵登場~事件の調査~推理~解決と一定のフォーマットがあって、いわゆる大いなるマンネリが繰り返されているのだが、ミステリでは謎にヴァリエーションがあって一種不可解な謎をどのように解き、そしてどんな真相が現れるのかという求心的興味があるのに対して、このシリーズはそういった核となる謎もなく、敵が現れ、涼子が対峙し、撃退するという実に単純な構造である。 これは昔の連続ヒーローアニメ物に見られるパターンであり、昨今これほど物語に変化のないシリーズも珍しいのではないか。 『銀英伝』、『アルスラーン戦記』、『創竜伝』と数々の傑作シリーズを作ってきた田中芳樹氏がなぜ今頃こんなシリーズを続けているのだろうか? その問いに対する答えは実は1作目のあとがきにある。解説にもあるが、シリーズ1作目はもともと文庫書き下ろしで刊行されたものだった。当初からサブタイトルに「薬師寺涼子の怪奇事件簿」と冠せられていたことから多分シリーズ化の頭はあったのだろうが、恐らく数巻ぐらいの構想だったのではないだろうか。 それが予想以上の好評を以て迎えられたのか、今に至るまでシリーズは続いている。そしてその1作目のあとがきに書かれているように1作目は作者のストレス解消の一環として書かれたものだった。これを字義どおりに受け取るか、冗談と取るかは読み手の判断だが、作中で繰り広げられる涼子の鋭い舌鋒に対する政治批判を読むとどうも本音のようだ。 本書が刊行されたのは2012年6月。東日本大震災から約1年3ヶ月経ってからの刊行だが、実際に書かれたのはおそらく1年後かそれ未満の頃だろう。とにかく本書では全編に東日本大震災での放射能漏れに対する日本政府への痛烈な批判と皮肉に満ちた記述に満ちている。 そのことからも解るようにこのシリーズは不甲斐ない、もしくは自分の求める理想や道徳的に悖ることが世の中に起きると、それを痛烈に罵倒するためのもので、やはり作者のストレス解消のために書かれているのだろう。これら国家権力に屈しない至高の存在である薬師寺涼子はいわば作者の代弁者で、つまり政治に、行政に不満がなければこのシリーズも新作が生まれないし、新作が生まれるときは日本の政治がおかしいと作者が感じたときなのだ。 そういう意味ではこのシリーズは今後も登場人物らに変化が訪れるような縦の発展はないだろう。年も取らず、常に同じような事件に合間見える横への展開が繰り返されるだけだ。 次の薬師寺涼子も絶対無比の無敵振りを発揮するだけだと思うと次作への興味も薄れてしまうのだが。でも恐らく次が出ても読むのだろうな、私は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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