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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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2015年は発表されるなり各書評で大絶賛されていた米澤穂信氏の『王とサーカス』がその年の『このミス』で上位を、いやかつて誰もなしえなかった2年連続1位を成し遂げると予想されており、実際その通りになったのだが、その下にある第2位の『戦場のコックたち』という書名とその作者深緑野分氏という全く知らない名前を見て驚いた。それもそのはずで2013年に刊行された本書でデビューしたばかりの新人であり、『戦場のコックたち』はまだ第2作目に過ぎなかったのだ。
しかしその斬新な設定とアイデアは読者の耳目を集め、予想外の好評を持って迎えられた。 私も全くノーマークの作家だっただけにこの結果には衝撃を受け、彼女を作品を読みたいと強く思った。そして私のみならず巷間のミステリ読者の期待の雰囲気が察してか、東京創元社がその願望に答えてくれた。それがこの本書である。 ミステリーズ!新人賞で佳作に輝いた表題作から本書は幕を開ける。 読後思わずため息をつき、茫然とどこかを見つめざるを得なかった。たった60ページで書かれた物語はそれほど中身の濃い、哀しくもおぞましい物語だった。 彼女たちは外部との接触を一切禁じられ、自由はあるものの私設から一歩も出ることはもちろん、手紙を送ることさえも許されていなかった。そして集められた少女たちは一様にどこかに障害を持っていた。 オーブランの忌まわしき過去を語る物語はマルグリットと名付けられた、血液の病気で収容された少女の手記で語られるが、これが後の管理人老姉妹の妹になる。そこで仲良くなったミオゾティスと名付けられた美しい、しかし左足が悪いために鋼鉄の歩行具をつけることを余儀なくされた少女こそが管理人老姉妹の姉にあたる。 何かの秘密を湛えたサナトリウムは私も人身売買のための不具者を集めた施設かと予想していたが、作者はそんな読者の予想に敢えて導いて意外な正体を用意していた。 ゴシック的で耽美な、そして情緒不安定な少女たちのどこか不穏な空気を纏った物語は戦争という狂気が生んだ悲劇へと導かれる。 ここにまた傑作が生まれた。 表題作の舞台は第二次大戦下のフランスだったが、次の「仮面」は19世紀末のイギリスが舞台。 朴念仁で長年女性に縁のなかった不器用な医師アトキンソンを中心に語られる一連の計画殺人に至るまでの顛末は一転して女の情念の恐ろしさを知らされる物語へと転じる。特に社会的弱者として描かれ、傲慢な有閑マダムに折檻されて日々暮らしているという不遇な女性像をアトキンソンへ刻み付けたアミラの隠された生きる意志の強さが最後に立ち上る辺りは戦慄を覚える。 いつの世も男は女性には敵わないものだと思い知らされる作品。 そしてまた女性同士もまたお互いに出し抜き合い、したたかに生きていることを知らされる。特に恵まれない境遇だと思われた醜いメイドのアミラに秘められた過去に興味が沸く。恐らくは美しく人目を惹く風貌であったと思われる彼女がなぜ顔の皮膚を焼き、そして鼻を曲げ、唇をナイフで切り裂いたのか。なぜ彼女は身分を隠してしたたかに生きる道を選んだのか。 彼女の過去は明らかにされないがまたどこかで彼女に纏わる話が語られるのだろうか。非常に興味深い。 翻って「大雨とトマト」は場末の食堂を舞台にした大雨の日に起きたある出来事の話。 3作目の舞台はなんと現代の日本。しかもどこかの町にある冴えない安食堂が舞台。 嵐の中訪れた2人の客。一方は十年以上も通ってくれているが名も知らない常連客。一方は初めてやってきた少女。しかしその少女は一度の浮気相手の女性に似ていたため、男は隠し子騒動に動揺する。 いわゆる日常の謎系の物語だが、判明するのは店主の間抜けぶりと常連客と少女の意外な正体という、ちょっぴり毒気が混じった内容だ。これもまたこの作者の持ち味なのかもしれない。 次の「片想い」も舞台は日本だが、時代は昭和初期で創成期の高騰女学校が舞台となっている。岩本薫子と水野環という2人の女子高生の友情の物語だ。 昭和初期の高等女学校という実にレトロな雰囲気の中、ちょっと百合族的な危うい雰囲気を纏って展開する物語はいわば深緑野分風『王子と乞食』となるだろうか。 本書の主眼は2人の女学生の友情物語であることだ。思春期という多感な時期に同じ屋根の下で暮らす女性2人の間に芽生え友達以上恋人未満にも発展した深い深い友情は切なくも苦く、限られた時間であるがゆえに眩しい。作者の長所がいかんなく発揮された作品だ。 最後の「氷の皇国」は北欧と思しきユヌースクという国が舞台の物語だ。 極寒の小国ユヌースク。そこを統治する残虐な王と彼が溺愛する美しい皇女ケーキリアと無邪気で残酷な王子ウルスク。そしてかつて近衛兵で妻を王の乗せた馬車に轢かれて亡くしたヘイザルと娘エルダトラ。ヘイザルの親友でガラス細工職人のヨンに彼の娘でエルダトラの親友のアンニ。これらの人物たちに訪れたある悲劇の物語だ。 首のない死体が流れ着き、それに涙する老婆というだけで悲劇が約束されたような物語である。冷たい皇女の企みを軟禁状態だった皇后が突如現れ、見事な推理で暴く。しかし公然と彼女を犯人にするわけにはいかず、最も彼女が苦しむ選択を下す。 誰もが多大なる苦痛を抱きながら、最小限の犠牲で皆を救う選択をした皇后はある意味最も政治家として正しいものだったのかもしれない。尊い犠牲の上で安住の地に流れ着いた彼女たちは果たして幸せだったのか。複雑な感傷を抱かせる作品だ。 いやはやこれまたすごい新人が現れたものだ。 洋の東西を問わず、しかも現代のみならず近代から中世まで材に取りながらも、まるで目の前にその光景があるかのように、さらには色とりどりの花木や悪臭などまでが匂い立つような描写力と、それぞれの時代の人間たちだからこそ起きた事件や犯罪、そして悲劇を鮮やかに描き出す深緑野分氏の筆致は実に卓越したものがある。 プロットとしては正直単純であろう。表題作は美しい庭に纏わるある悲劇の物語で、次の「仮面」は偽装殺人工作。「大雨とトマト」はある雨の日の出来事で「片想い」は女子高生の淡い友情物語。そして「氷の皇国」は流れ着いた死体に纏わるある悲劇の物語。既存作品に着想を得て書かれたものだとも解説には書かれている。 しかしこれらの物語に鮮烈な印象を与えているのは著者の確かな描写力と物語を補強する数々の装飾だ。そして鮮烈な印象を残す登場するキャラクターの個性の強さだ。 従って単純な話であっても読者は作者の目くるめくイマジネーションの奔流に巻き込まれ、開巻すると一瞬にしてその世界の、その時代の只中に放り込まれ、時を忘れてしまう。濃密な時間を過ごすことが出来るのだ。 それはまるで作者が不思議な杖を振るって「例えばこんな物語はいかがかしら?」としたり顔で微笑みながら見せてくれるイリュージョンのようだ。 収録された5編は全て甲乙つけ難い。どれもが何らかのアンソロジーを組めば選出されてもおかしくないクオリティに満ちているが、敢えて個人的ベストを選ぶとすると表題作の「オーブランの少女」と「片想い」の2作になろう。 表題作はオーブランという美しい庭を管理する2人の老姉妹に突然訪れたある衰弱した女性による殺人事件と、後を追うように自殺した妹の死に隠されたある悲劇の物語という非常にオーソドックスな体裁ながらも、かつてそこにあったある施設が読者の予想の斜め上を行く真の目的と、寂しさゆえに取り返しのつかない過ちを犯してしまった主人公が招いたカタストロフィが実に心に深く突き刺さる。 後者の「片想い」はまだ設立間もない東京の高等女学校を舞台にした、長野の病院のお嬢様に隠されたある秘密が暴かれる物語だが、何よりも主人公であるルームメイトの大柄な女性の純心がなんとも心をくすぐる。なんともまあ瑞々しい物語であることか。 この2作に共通するのは女性の友情を扱っている点にある。 表題作は戦火を潜り、まさに死線を生き長らえた2人の女性が決意の上、秘密の花園を生涯かけて守り抜き、そして彼女たちに悲劇を与えようとした女性の長きに亘る復讐という陰惨さがミスマッチとなって得難い印象を刻み込む。 後者は何よりもなんとも初々しい昭和初期の女子高生たちが築いた友情が実に眩しくて、郷愁を誘う。 多感な時期に得た友情は唯一無比で永遠であることをこの2作では教えてくれるのだ。 他の3作も上で述べたように決して劣るものではない。 「仮面」ではわざと美しい顔を傷つけ、身元を隠してしたたかに生きるアミラという女性に隠された過去に非常に興味が沸き、「大雨とトマト」の場末の安食堂の主人の家族に起こるその後の騒動を考えると、嵐の前の静けさと云った趣が奇妙な味わいを残す。掉尾を飾る最長の物語「氷の皇国」の北の小国で起きたある悲劇の物語も雪と氷に囲まれた世界の白さと氷の冷たさに相俟って底冷えするような余韻をもたらす。 そしてこれら5作に共通するのは全て少女が登場することだ。それぞれの国でそれぞれの時代で生きた少女の姿はすべて異なる。 死線を共に潜り抜け、死が訪れるまで共に生き、死ぬことを誓った少女。 美しい妹を利用し、貧しいながらも人を騙して生きていくことを選んだ少女。 一時の好奇心で図らずも妊娠してしまい、居ても立ってもいられずにその自宅に衝動的に訪れたものの、これからの将来が見えずに途方に暮れる少女。 共に学業に励み、恋心に似た感情を抱きながらも隠していた感情を爆発させ、瑞々しい友情を築いていく少女たち。 父親の犠牲の上に自由を得、そして悠久の時間を経て父親と再会した少女。 ある意味これらは少女マンガ的題材とも云えるが、繰り返しになるが一つ一つが非常に濃密であるがゆえに没入度が並大抵のものではない。どっぷり物語に浸る幸せが本書には詰まっているのだ。 物語の強さにミステリの謎の強さが釣り合っていないように思えるが、それは瑕疵には過ぎないだろう。 私は寧ろミステリとして読まず、深緑野分氏が語る夜話として読んだ。ミステリに固執せず、この作者には物語の妙味として謎をまぶしたこのような作品を期待したい。 もっと書きたいことがあるはずだが、今はただただ心に降り積もった物語の濃厚さと各作品が脳内に刻んだ鮮烈なイメージで頭がいっぱいで逆に言葉が出てこないくらいだ。 こんな作者がまだ現れ、そしてこんな極上の物語が読めるのだから、読書はやめられない。 そしてこれからこの作者深緑野分氏の作品を追っていくのもまた止められないのだろう。実に愉しい読書だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スティーヴン・キングがもう1つの筆名リチャード・バックマン名義で発表した作品。これがバックマン名義での第1作となる。
オーランドのナイトクラブで銃乱射事件が発生したようにアメリカのハイスクールでの無差別銃乱射事件は多く、一番有名なのは映画にもなった1999年に起きたコロンバイン高校の銃乱射事件だろう。本書はそれに先駆けること1977年に発表されている。 これは1966年に起きたテキサスタワー銃乱射事件を材に取ったと思われるが、その後コロンバイン高校の惨劇を想起させるということでキング本人が重版を禁止した作品でもある。過激な内容を扱いながらも無差別銃乱射事件を美化したような内容が逆に同様の事件を助長させていると作者自身が懸念したからかもしれない。 そう、美化したような内容というのはいわゆる銃社会アメリカでたびたび起きているような無差別殺人を本書が扱っていない点にある。 ライフルを持った一人の頭のおかしい生徒が同級生たちを人質にして教室に立て籠もる。そう聞くと息詰まる警察と狂人の駆け引きと、1人、また1人と生徒たちが亡くなっていくデスゲームのような荒寥感を想起させるが、本書はそんな予想を裏切って、籠城状態の教室という特殊空間の中で高校生たちの日常生活に隠された仮面を次第に剥がして本音をさらけ出して語り、もしくはぶつけ合うという実に意外な展開が広がるのだ。 正直この発想は全くなかったため、非常に驚いた。 事件を引き起こしたチャールズ・デッカーは実は取り立てて目立つような存在ではない高校生だ。しかし彼は元軍人で時々暴力的衝動に駆られる父親と規律と礼儀を重んじる、優しくも厳格な母親の許で育った。好奇心旺盛で衝動的な破壊行動を抑えられない彼は悪戯をしては父親の衝動的暴力の犠牲に遭い、それがもとで父親に対して憎悪を常に抱くようになる。また頭がよく、ディベート能力に優れ、大人たちの説教も煙に巻く弁舌を振るう。そんな彼が教室を支配することでクラスの様相が変わっていく。 とにかく色んな読み方の出来る小説だ。 読了後まず想起するのはスクールカーストの変転を扱った実に特異な小説と読めることだ。 一見銃を手にした一生徒の反逆の物語と見せかけながら、彼の行った籠城行為によって生徒たちが大人への反発心を開花させる物語でもあるのだ。 原題の“Rage”は主人公チャールズ・デッカーの反逆だけでなく、彼の同級生全ての大人に対する反逆心の芽生えも指している。 また学校一の人気者が、同級生による銃を持った立て籠もりという異常な状態ゆえに、日常的に抑えてきた感情が非日常によって解放されたことで通常ならば触れるべきでないことを告白しだす。 それは彼らの両親が行っているクラスメイトの両親に対する噂話だったり、初体験の告白だったり、そんな秘密の暴露がされる中で学校一の人気者が丸裸にされ、その地位が陥落する様は実に面白い。 一方、変わり者としてみなされていた主人公チャールズ・デッカーはいきなり銃を持ち込んで先生を2人撃ち殺し、降伏するよう説得を試みる校長先生、学校担当の精神科医、そして駆け付けた警察署長らを見事に出し抜くことで人質である生徒たちの尊敬を集めていく。 そういう意味ではストックホルム症候群を扱った小説ともいえる。この症候群の名の由来となったストックホルムで起きた銀行人質立てこもり事件が1973年。そして本書が発表されたのが1977年だから当時キングがこの起きたばかりの事件に由来した新たな症候群を知っていたかどうかは疑わしい。 もし知らなかったとすると同様の状況を扱った本書の、いやキングの先駆性は驚くべきものがある。 鬱屈した高校生の反逆の物語。スクールカーストが無残にも崩れ去る物語。犯人に同調する集団意識の変転の恐ろしさを描いた物語。 そのどれもが当て嵌まり、どれもが正解だろう。 しかし私はここからさらに次のように考える。 これは意味のないところから意味を生み出した物語なのだ、と。 まずセンセーショナルな幕開けとなるチャールズ・デッカーの銃立て籠もりの顛末はチャールズが授業中に校長先生に呼び出され、説教をされたことに腹を立て、ロッカーに隠し持っていた銃を持ち出していきなり先生2人を殺したことで始まる。 これは今まで暴力的な父親に虐げられてきた彼が物理の授業で先生を衝動的に傷つけたために精神科医によってカウンセリングを受けるようになったことについてねちねちと云われることが気に食わないために起きたことで正直ここには短気で暴力的衝動が常に潜んでいるチャールズ・デッカーの衝動以外、理由がない。 従って彼は教室に立て籠もるものの、誰一人生徒を殺そうとしない。自分を理解してほしいと云わんばかりに自分のことを語り出し、そしてクラスメイトの話を聞く。それはそれまでお互いに云えなかった打ち明け話をするだけの行為だ。 チャールズの行った籠城には何の意味もなかったのだが、クラスメイト達が思い思いに胸の内を打ち明け、それぞれが抱えていた秘密を暴露することで共通の敵を見出すという意味を持ち、それに復讐する目的を確立する。 たった300ページ足らずの、しかも舞台は高校の教室内で繰り広げられるというのになんとも中身の濃い小説ではないか。 但し現代のような銃立て籠もり事件が頻発する昨今、犯人であるチャールズ・デッカーを反逆のヒーローとして描く本書は確かに読んだ者の心に危うい発想を生み出す危険性を孕んでいることは頷ける。 現在絶版であるのは非常に惜しいと思いながらも、それを決断したキング本人の想いもまた理解できる、読んでほしいにも関わらず復刊することには躊躇を覚えるジレンマに満ちた作品である。 私は本書を古本で手に入れたが、もし興味があるならばぜひとも読んでほしい。本書を読んでどのように受け取るかはあなた次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントルがジョナサン・エヴァンス名義で発表した企業小説。新進気鋭のホテル・チェーンがイギリスの格調高い由緒ある豪華ホテル・チェーンの買収に乗り出すマネーゲーム小説だ。
アメリカの新興ホテル・チェーン≪ベスト・レスト≫を取り仕切るのは若き会長ハリー・ラッド。妻を出産の事故で亡くしたことをきっかけにその哀しみを忘れるために仕事に没頭した結果、たった10年でボストンの取引高300万ドルのモーテル・チェーンを年商5億ドルの国際レジャー産業に仕立て上げた、ウォール街でも噂の男だ。 一方イギリスの≪バックランド・ハウス≫は誰もがその名を知っている5ツ星の最高峰のホテル・チェーンだが、その経営は創始者一族にて代々引き継がれてきた一族経営で、内情は経営体制のない、伝統に胡坐をかいた経営母体で権威とブランドのみで運営しているような会社だ。 その経営を担う現会長サー・イアン・バックランドは祖父と父親の遣り方を単にまねているだけの凡庸な経営者だとみなされており、その実ギャンブルと愛人との情事に耽り、会社の小切手で自身のギャンブルの借金を清算していたことを財務担当から糾弾されるほどのおぼっちゃんでもある。 飛ぶ鳥を落とす勢いの新興ホテル・チェーンの会長というイメージから想起されるのは生気に溢れ、半ば強引な方法で欲しいものを手に入れてきた傲慢不遜を滲ませた辣腕経営者というイメージを抱くが、≪べスト・レスト≫会長のハリー・ラッドはむしろその逆だ。 小柄で何事も慎重に事を運ぶ男でギャンブルはやらず女性には奥手で恋人はいるが身体の関係を特に望むわけではない。まだ若い頃に今の会社の社長であるハーバート・モリスンの1人娘と結婚したが、結婚を好ましく思わなかった義父の画策によって乗っ取りを仕掛けている≪バックランド・ハウス≫の象徴的存在ベリッジ・ホテルに修行に出されていた時に妊娠で妻と子供共々亡くしてしまうという苦い過去を持つ。それ以来その哀しみを忘れるために仕事に打ち込んできたような男で、仕事一筋の、どちらかと云えば一昔前の日本人ビジネスマンに近い人物像だと云える。 億単位、いや数十億単位の金が動くマネーゲーム。誰もが甘い汁をすすろうと金のあるところに集る。 有力な対抗馬が出た政治家は地元の票を集めるため、ホテルを誘致しようとすればそのついでに政治資金が欲しいと新興ホテル・チェーンの会長にせびる。 由緒と伝統と格式のみが唯一の拠り所となった世界最高峰のホテル・チェーンの会長は愛人との情事とギャンブルに狂い、会社の金を使う放蕩ぶり。知らぬ間に会社の財政は火の車となっていることに気付かず、銀行が経営に介入するのを阻止するため、必死になって金策に走る。 新興ホテル・チェーンの会長はその勢力を拡大しようとテキサス州の議員から持ち出された誘致の話を自分の有利な形に持ってこようと手練手管を駆使する。そしてサウジアラビアの王子に持ち込まれた名門ホテル乗っ取りを機に世界一のホテル王になる夢を抱く。 あまり詳しく語られていないが、ハリーはかつて買収先の≪バックランド・ハウス≫の旗艦的ホテルであるベリッジ・ホテルで働いていたこともあり、その経験がいつかは自分もこのような由緒あるホテルのオーナーになりたいという原初的な欲求が今回の買収には働いていたのかもしれない。 しかし今まで数々のプロジェクトを成功に導いてきたハリーに今回は様々な危難が降りかかる。 そして女性に対して朴念仁であったハリー自身が予想外なことに買収先のホテル・チェーン会長の妻と不倫関係になってしまう。 また買収工作が発覚すると取引銀行のハッファフォード銀行もカウンター・ビッドを画策する。 そんな金の亡者の集まる魑魅魍魎と化した世界にラッドは文字通り身銭を切って破産寸前にまで追い込まれながら≪バックランド・ハウス≫株の買収を進めるが、最後の6パーセントの壁を超えることができない。そしてその最後の障害は意外な形で解決を見るが、それはネタバレ感想にて述べることにしよう。 さてフリーマントル作品の醍醐味は目の覚めるようなアクションではなく、やはり知と知のぶつかり合いの高度なディベート合戦にある。企業小説である本書では役員会議や非公開の役員同士の密談などが多々挿入されているが、株主総会とラッドが仕掛ける会社登録法違反の裁判が本書の白眉であろう。 まず株主総会ではギャンブルでの損失を会社の小切手で返金し、家族の友人を愛人として会社の所有する宿泊施設で囲っていることを暴かれた≪バックランド・ハウス≫会長イアン・バックランドの解任を求められるが、圧倒的な不利の中、完璧な理論武装と弁護士を同席させるというラッド提案の奇手によって有利に進め、見事提案を退ける。 こういう議論のシーンが実にフリーマントルは上手い。ただそこには大口株主のファンド・マネージャーの支持が少なかったというスパイスも忘れない。ここに一流のジャーナリストだったフリーマントルのシビアな視点を感じる。このような茶番劇では海千山千の投資家の目はごまかせないと暗に示しているのだ。 そしてそれを証明するかのように一転して乗っ取りを仕掛けたラッドによる会社登録法違反の疑義を申し立てる起訴裁判では株主総会で雄弁に切り抜けたバックランドの答弁はメッキが剥がれるが如く、次々と論破されていく。残されたのは由緒ある貴族階級の一族の裏に隠された数々のスキャンダルの山。伝統と格式に飾られたバックランド一族の装束は容易に剝ぎ取られ、ギャンブルと女遊びにうつつを抜かす一人の裸のお坊ちゃんがいるだけとなる。 後半は株主総会、役員会議、裁判のオンパレードだ。企業小説であり、しかもやり手の若手会長が自社と買収先の株価の大幅下落というリスクを負いながらも血眼になって買収を成立させようと東奔西走する作品であるから仕方がないかもしれないが、ディベート合戦がフリーマントル作品の妙味だと云ってもこの繰り返しはいささか辟易した感じがある。 本書のサイド・ストーリーとして仕事一辺倒だったラッドが買収先のホテルの会長の妻マーガレットと道ならぬ恋に落ちる物語が展開する。それは近い将来敵対的存在となる自分にとって決して取ってはならぬ選択肢だったが、若き頃に亡くした妻の面影を見たラッドにとってマーガレットは仕事だけに目をくれていた彼の目を向けさせる運命の女性だった。 そして彼女との逢瀬はやがて彼女との安らかな生活を望むようになる。そんな背景を織り交ぜてフリーマントルがラッドに差し出した究極の選択は彼女を取るか最後の6パーセントの株を取るかだった。 しかし己の上昇志向に任せて踏み切った今回の乗っ取り工作は実に不毛なものだった。彼は得たものもあるが、心の充足はなかったのではないか。 勝者のいないマネー・ゲーム。やはり今回もフリーマントルは決して甘い夢を見させてはくれなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書でも書かれているが、飲料会社のサントリーが青いバラを開発して話題になったが本書では現在存在しない新種の黄色いアサガオを巡るミステリだ。
そしてタイトルの夢幻花もこの黄色いアサガオの異名から採られている。追い求めると身を滅ぼすという意味でそう呼ばれているらしい。 しかし黄色いアサガオはかつては存在したようで、本書にも取り上げられているように江戸時代にはアサガオの品種改良が盛んで黄色いアサガオの押し花が現存している。 ではなぜ現代では無くなったのか。それもまた興趣をそそる。本書ではその謎についても書かれているが、それについてはネタバレ感想にて。 そんな花にまつわる謎を孕んだミステリは一見関係のなさそうな2つのプロローグから始まる。 まずは東京オリンピックを控えた時代で、1人の生まれたばかりの娘を持つある夫妻に訪れた突然の災禍が語られる。 そして次に語られるのは思春期を迎えた中学生蒲生蒼太が、家族恒例の行事で朝顔市に行ったときに出遭った伊庭孝美という同い年の中学生との淡い恋と失恋のエピソード。 その2つを経てメインの事件である新種の花を巡った殺人事件が語られる。 まず一番胸に響いたのは冒頭のエピソードの中学生蒲生蒼太のエピソードだ。 毎年恒例の家族行事となっている朝顔市で出逢った同い年の中学生伊庭孝美に一目惚れし、メアドの交換を行って頻繁に出逢う様子は私も経験したことで当時を思い出して胸を温かくしたが、父親にメールを見られ、交際を禁じられた直後に彼女から突然の別れを切り出される件はさらに胸に響いた。 これも自分に同様の経験があるからだ。あの時の苦くて苦しい思いが甦り、とても他人事とは思えなかった。 各登場人物の設定も興味深い。とくに本書では2つの家族がメインとなって物語に関わる。 主人公の秋山梨乃はかつてオリンピック代表として将来を有望視されていた水泳選手だったが、原因不明の眩暈に襲われたことで水泳を辞め、大学と高円寺のアパートを往復する無為な日々を送っている。 また冒頭従兄の鳥居尚人は成績優秀、スポーツ万能、多種多芸な、何をやっても一流という理想の人物であり、大学を中退してプロのバンドになる道を選び、その夢も実現が間近に迫っていながら突然自殺してしまう。 さらに彼女たちの祖父秋山周治はかつて食品会社の商品開発の研究部に携わっていたが、そこで新種の花の開発を行っていた。そして退職して6年後、黄色いアサガオの開花に成功した矢先、何者かによって殺害されその鉢を奪われてしまう。 もう1人の主人公蒲生蒼太の家庭も特異な状況な家族構成である。 要介と蒼太という2人の年の離れた兄弟がおり、父親の真嗣は元警察官。そして妻志摩子という典型的な4人家族だが、実は要介は前妻との間に出来た息子であり、蒼太は後妻である志摩子との間の息子であった。従ってどこか蒼太は父親と要介に距離を感じており、それがもとで東京の家を出て大阪の大学に通っている。 更に捜査を担当する所轄署の早瀬亮介も被害者秋山周治とは縁があった。息子の裕太が巻き込まれた万引き事件で冤罪を晴らしてくれたのだ。 しかし彼は自身の浮気がもとで現在は妻と息子とは別居中という身。しかし裕太から自分の恩人を殺した犯人を絶対に捕まえてほしいと頼まれ、それが彼の行動原理となっている。つまり妻に愛想を尽かされたダメ親父の奮起の物語の側面も持っているのだ。 メインの物語はこの早瀬亮介側の捜査と秋山梨乃と蒲生蒼太の学生コンビの捜査が並行して語られるわけだが、とにかく秋山梨乃と蒲生蒼太の人捜しの顛末が非常に面白かった。今どきの学生らしくメールやグーグルなどのITツールを駆使し、友人のネットワークを使って秋山周治の死に関係する黄色いアサガオの謎と蒼太の初恋の女性伊庭孝美の行方を追っていく。特に秋山梨乃の大胆さには蒲生蒼太同様に驚かされた。 高校時代に友人の伝手で伊庭孝美の所属する大学と研究室を突き止めた蒼太がその後の行動に悩んでいたところ、いきなり研究室に行ってドアを開けて孝美のことを尋ねる行動力。 そしてアドリブでテレビ番組の取材だと云いのける不敵さ。 梨乃の突飛な考えと行動はこの物語にある種ユーモアをもたらしている。そしてこの若い2人の探索行が読んでいて実に愉しい。もし自分が彼らと同世代だったらこのように行動できただろうかとそのヴァイタリティに感心してしまった。 そんな2人の探索行も含めて思うのは相変わらず東野氏は物語運びが上手いということだ。次から次へと意外な事実が判明してはそれがまた新たな謎を生み、ページを繰る手が止まらなくなる。 以前私はある東野作品を謎のミルフィーユ状態だと評したが、本書もまさにそうだ。従って上の概要もどこで区切ったらいいのか解らないほど魅力的な謎がどんどん出てきて、ついつい長くなってしまった。 後半になってもその勢いは止まらず先が気になって仕方がない。 祖父の死をきっかけに彼の遺した黄色いアサガオの写真の謎を追うと、謎めいた男蒲生要介と出逢い、捜査を辞めるように忠告され、それがきっかけで蒲生蒼太と出逢い、ひょんなことから彼の初恋の相手を捜すようになる。そして足取りを辿っていくとなんと蒼太自身の母親の出生に関わる連続殺人事件に行き当たるという、まさに謎の迷宮に迷い込んだかのような複雑な様相を呈してくる。 そして秋山梨乃と蒲生蒼太側が追いかける謎も殺人事件が解かれると共に蒲生要介によって明かされる。 あまりにスケールが大きすぎて読後の今でも消化できないでいる。 しかし改めて思うが、実に複雑かつ壮大な物語である。一見無関係な要素を無理なく絡ませて読者を予想外の領域に連れていく。実に見事な作品だ。 このような複雑な謎の設計図を構築する東野氏の手腕はいささかも衰えを感じない。識者が作成したリストによれば本書は80作目とのこと。これだけの作品を重ねてもなおこんなにも謎に満ちた作品を、抜群のリーダビリティを持って著すのだから驚嘆せざるを得ない。 特にそれまで東野作品を読んできた人たちにとって過去作のテーマが色々本書に散りばめられていることに気付くだろう。原子力の件では『天空の蜂』が、被害者秋山周治の実直な性格は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の浪矢雄治の面影を、秋山梨乃と蒲生蒼太のコンビやホテルの描写では『マスカレード・ホテル』の舞台と山岸尚美と新田浩介の2人の影を感じるなど、それまでの蓄積が本書でも活かされている。 本書は特に年末に開催される各ランキングでは特段話題に上らなかったが、それが不思議でならないほどミステリの面白さが詰まった作品だ。 実際、『流星の絆』や『マスカレード・ホテル』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』など『このミス』ランク外の東野作品の方が面白く感じる。恐らくはあまりに映像的なストーリーゆえに投票者がミーハーだと思われるのを避けて敢えて選ばなかった結果かもしれない。 本書もまたドラマにするのに最適な題材であるが、この面白さはもっと正当に評価されていいだろう。 印象に残るのは蒲生蒼太と伊庭孝美の恋の結末だ。 大人になって謎が全て解かれて、ようやく彼女はそれまでの経緯を話す。中学の時に一目惚れし、突然消えた伊庭孝美。その後も現れては消え、消えてはまた意外な場所で姿を見かける彼女は蒲生蒼太にとっての夢幻花だった。だからこそ2人はお互いの出逢いをいい思い出にしたのだろう。 2014年10月10日、サントリーが青いバラに続いて黄色いアサガオの再現に成功するというプレスリリースがなされた。はてさてこの夢幻花に対して警察はどのように動くのか。 本書を読んだ後では手放しで喜べなくなる。そんな錯覚を覚えてしまうほど面白いミステリだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリアスな国際犯罪警察小説に少年たちの心をくすぐるパワードスーツを絡ませたらどんな物語になるか。
それを実証したのがこの『機龍警察』である。まさにこれこそ大人の小説と少年心をマッチングさせた一大エンタテインメント警察小説なのだ。 まず物語のガジェットとして強烈な印象を残す龍機兵、通称ドラグーンは以下の3機。 姿俊之の操る龍機兵は市街地迷彩が施されたアイルランドに伝わる原始の巨人の名に由来する『フィアボルグ』。 ユーリ・オズノフが操るのはイングランドに伝わる妖犬の名が与えられた漆黒の竜騎兵『バーゲスト』。 ライザ・ラードナーのそれは「死を告げる女精霊」である『バンシー』の名を冠せられた一点の曇りもない純白の龍機兵だ。 もうこういう設定だけでも少年心をくすぐって仕方がない。 また各登場人物の謎めいた過去もまた読者をひきつける。 まずは龍機兵に乗り込む雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーの3名にどうしても興味が行く。 早々に苦い過去が判明するのがユーリ・オズノフだ。 元モスクワ民警の刑事でありながら在職中に殺人その他の容疑で指名手配になり、国外へ逃亡しアジアの裏社会を転々とした後、警視庁に雇われる。元警察出身者であるため、考え方は他の2人と比べて警察に対する仲間意識が高く、冒頭の突入作戦で殉職したSATの突入班長荒垣の葬儀に唯一人出席したりもする。 しかし忌み嫌われる特捜部では他の警察官からは罵倒と中傷を浴びされられ、さらに雇われ警察官という立場から特捜部でも白い眼で見られる存在であることが警察官の心を持つことで強いジレンマを抱えている。 姿俊之はかつて『奇跡のディアボロス』、『黄金のディアボロス』と評された超一流の傭兵部隊の生き残り。軽口を叩き、どんな状況においても動ぜず、冷静に物事を見据える男。本書は彼のかつての戦友王富国と王富徳が今回の敵として現れ、彼の過去が断片的に語られる。 そして名を変え、警視庁の雇われの身になっているライザ・ラードナーは元IRFのテロリスト。自身を落伍兵と呼び、特捜部に入ったのも自らの死に場所を選ぶためで、常に虚無感を湛えた表情をしている。 そして龍機兵の整備を担当する特捜部技術主任の鈴石緑は幼い頃に両親をIRFのテロ行為で亡くし、テロリストに対する憎しみを拭えないでいる。 さらに特捜部を仕切る沖津は外務省出身の謎めいた存在で常にシガリロを吹かし、冷静沈着さを失わない。 彼の許に城木、宮近の両理事官と夏川、由紀谷両主任が控える。この両理事官、両主任ともがそれぞれ対照的な性格と人物像を備えているのが特徴的だ。城木と由紀谷が独身でかつ痩身の優男であり、常に冷静に物事を見て判断する傾向がある。しかし由紀谷はかつて荒れていた過去があり、時折氷のような冷徹さが垣間見える。 宮近、夏川は感情を表に出す性格で、宮近は上昇志向が強く、特捜部に配置されたことを快く思っておらず、他の部署へひそかに情報をリークさせる、いわばスパイであり、またお堅い警察組織を具現化したような存在でもある。一方夏川は柔道を嗜む日に焼けた典型的な体育会系の男で、警察官であることに誇りを持つ熱血漢でもある。 これら個性的な面々が揃った特捜部とは実は警察内で仇花的存在となっている。 「狛江事件」という密造機甲兵装に搭乗した韓国人犯罪者によって起きた3名の警察官殉職と人質の男子小学生を亡くすという痛ましい事件。それも神奈川県と東京の県境で双方の縄張り争いも一因だったという不祥事ともいえる事態がきっかけとなって設立された外部の傭兵と契約し、最先端の機甲兵装龍機兵を供与され、銃の携行を許された特捜部SIPD。 しかし外部の、しかも素性が解らぬ犯罪者まがいの傭兵を招聘し、そんな彼らに警察官の誰もが乗りたいと願う最先端の機甲兵装を奪われ、さらには特捜部に入った警察官は無条件で階級を挙げさせられるため、警察内部では異分子扱いされ、特捜部に入った者はかつての同僚のみならず周囲から裏切者扱いされるという孤立した組織になっている。 特に本書では特捜部主任の夏川と由紀谷の2人が馴染みの店に飲みに行くと後から来た後輩や先輩からも疎まれ、さらには店の女将からも迷惑だから来ないでくれと云われるエピソードがあり、それが特捜部員の孤独感を一層引き立てる。 いわばこれは21世紀の『新宿鮫』なのだ。大沢在昌によって生み出された警察のローン・ウルフ、鮫島を組織として存在させたのがこの『機龍警察』における特捜部SIPDであるとも云えよう。 本書の敵は龍機兵の操縦者の1人姿俊之の元戦友、王富国と王富徳。かつての仲間が敵となる。姿はビジネスライクにそれが我々傭兵たちの仕事であり、珍しい事ではないと割り切って応えるが、挿入されるモノローグで語られるかつて同じ戦地で闘い、死線を潜り抜けてきた敵2人との関係はその自嘲的な言葉とは相反する感情を示している。それでも姿という男がぶれないことでこの人物の強さが非常に強く印象付けさせられた。 警察官でありながら、警察から白い眼で見られ、明らさまに罵られたり、行きつけのお店からも追い出される。そんな確執を抱えながらも日々過激化する機甲兵装を使ったテロリストたちと命がけの戦いを強いられる特捜部たちの姿が骨太の文体で頭からお尻まで緊張感を保ったまま語られる。 つまり本書は機甲兵装というパワードスーツが暴れる犯罪者たちを最先端の技術を駆使して生み出した警視庁のパワードスーツが打倒するという単純な話ではなく、このSF的設定が見事に組織の軋轢の狭間で額に汗水たらして捜査に挑む警察官たちの活躍と結びついた一級の警察小説なのだ。 更にその警察機構の中に外部から雇った傭兵、警察崩れ、そして元テロリストという異分子を組み込み、戦争小説の側面もあるという実に贅沢な物語である。しかもそれらが見事に絶妙なバランスで物語に溶け合っている。この1作に注いだ作者の情熱と意欲は見事に現れており、読者は一言一句読み逃すことができないだろう。 ただ嬉しいことに本書はまだシリーズの序章に過ぎない。 そして三人の雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーたちと警察機構の中で忌み嫌われる存在特捜部SIPDの沖津部長、城木、宮近両理事官、夏川、由紀谷両主任、そして鈴石技術主任らのイントロダクションを果たすのに十分すぎる役割を果たす作品である。 さてこれからのシリーズの展開が待ち遠しくてならない。 『機龍警察』は21世紀の『新宿鮫』となるか。 この1作を読む限りでは十分その可能性を秘めて、いや既にその実力を持っていると断言しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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御手洗潔の非ミステリ系短編集。
まず「御手洗潔、その時代の幻」はアメリカに留学中の御手洗が読者からの質問に答える作品。そこで挙げられる質問の数々はそれまでの作品に登場したエピソードに因んだものが多く、まさにファンサービスの1編。 ここで父親について質問が成され、御手洗の父親に関するあるエピソードが語られる。普段飲んだくれの父―これは予想外!―が駅のホームでの若者同士のケンカによって当時5歳だった御手洗潔がホームに転げてしまうというちょっとした事故が遭い、それに激昂した父親の姿が意外だったという話だが、それが次の短編「天使の名前」に繋がっていく。 その「天使の名前」の主人公は御手洗潔の父直俊。 御手洗潔の父親直俊が「御手洗潔、その時代の幻」で飲んだくれ親父だったという衝撃の事実の真相がほんの僅かだが明らかになる本書で最も長い1編。 第二次世界大戦前、外務省に勤める御手洗直俊がどうにか日本とアメリカとの戦争を食い止めようと奔走する姿が描かれるが、周知の事実のように日本の真珠湾攻撃を発端としてアメリカと開戦してしまう。そのゼロ時間までの御手洗直俊の奮闘と愚直なまでに日本国の勝利を信じる軍部との確執。そしてなぜか忠告したとおりに日本の敗色が濃厚になっていくのを不吉なことを云うからだと一手に責任を負わされ閑職に追いやられる直俊の姿は従来島田氏が作品で語っていた日本人の面子を重んじる権威主義の犠牲者である。 やがて直俊は友人を訪ねて神戸の三宮に渡るが、空襲により買い出しに行っている最中に友人一家全てが犠牲になり、教会の伝手でかつて東京で知り合った椎名悦子を訪ね、広島に行くがそこで御手洗は原爆投下直後の広島の姿を見て絶望する。 戦時の日本政府の愚かさと志半ばで挫折した一人の男と戦争の惨たらしい現実を幻想的に仕上げた1編。 次の「石岡先生の執筆メモから」もファンサービスの1編。犬坊里美によるとある雑誌に依頼されたエッセイという体裁だが、書かれている内容は御手洗潔の未発表事件の紹介という、これまたファン垂涎の内容となっている。 本作は「INPOCKET」誌の1999年10月号にて発表された、実に17年前の作品であり、その後実際に発表された作品も挙げられているが、未発表の作品もまぎれており、実に興味深い。 特に『ハリウッド・サーティフィケイト』の最後の一行で言及されている次の事件「エンジェル・フライト」事件に興味を持った。あの陰惨な事件が単なる序章に過ぎないと云わしめたこの事件はどのような物なのか。御手洗が死をも覚悟した事件とはどれほどの物なのかと非常に気になる作品だ。 あと「A Mad Tea Party Under The Aurora」は『魔神の遊戯』だと思われる。その他「ケルトの妖精」事件、「マンモス館の謎」、「伊根の龍神」事件、「ライオン大通り」事件は未発表作品に属するだろう。 全ての事件について今後書かれるかは解らないがまだまだ御手洗物のネタは尽きていないと解っただけでも大収穫の1編だ。 しかし犬坊里美の文章はどうにかならないかね。 続く「石岡氏への手紙」もファンサービスの1編。 御手洗が国外へ飛び出した後、馬車道で一人暮らしを続ける石岡の許に届いた手紙の主は御手洗かと思いきやハリウッド女優として活躍している松崎レオナからの物だった。彼女の近況と御手洗への想い、そして映画の都ハリウッドの現状と映画界の内幕が語られる。 しかし彼女が吐露する内容は一部作者島田氏本人の心情が混ざっているのではないだろうか。本作が発表された2000年は恐らく島田氏がLAに滞在していた時期ではないだろうか。従って松崎レオナによる手紙の体裁を借りて島田氏がLAで感じる異邦人ゆえの孤独感や日本でのバッシングを遠き異国の地で知っても何もできない無力感を覚えたことがこの作品で松崎レオナの言葉を借りて思わず出てしまったのではないだろうか。 「手紙を書くことで自分の気持ちが見えた。他人に誹謗中傷されてもびくともしない心のよりどころ、強く太い柱がほしい」 このあたりの件はまさに作者の本心の表れだと思うのだが。 次の「石岡先生、ロング・ロング・インタビュー」はなんと作者島田本人が石岡和巳に直接逢い、読者からの質問に答えるというメタフィクショナルな1編だ。 インタビューの場所が山下公園のコンビニの前というのが可笑しい。しかも独身の石岡の食事はコンビニ弁当で最初に質問はコンビニに入って好きな弁当の紹介から始まる。その後普段の暇つぶし方法や好きな絵、音楽といった個人的な話から、過去の作品に纏わる話が島田を通じて語られる。 『異邦の騎士』の事件で失われた記憶はまだ戻っていないこと、「数字錠」で登場した宮田君が無事刑務所から出所したこと、「糸ノコとジグザグ」のある場面について、そして外国へ発った御手洗に対する気持ちなどシリーズファンにとっても関心の高い内容が語られる。 しかし全編通じて感じるのは石岡氏が人生を楽しんで生きているわけではないということだ。コミュニケーション障害を持った大人で常に自分の存在を卑下している。何度も島田氏が励ますも効果がないほど人生に諦観を抱いている。女性にとっては母性本能がくすぐられるタイプなのかもしれないが、同性としてはなんとも情けない男だなぁと感じてしまう。 とはいえ、御手洗去った後の彼の境遇が不憫でならない。そんな風に感じさせる1編でもあった。 続く「シアルヴィ」は物語の中に盛り込まれるぐらいのエピソードともいうべき1編。スウェーデンのウプサラ大学の教授となった御手洗が医学系教授の集まりでスウェーデンのメーラレン湖の湖畔に建てられたシアルヴィ館に飾られた異形の十字架に纏わる話を語る。 北欧神話をモチーフにしたシアルヴィ館の意匠に込められたエピソードの数々は設計者の想いを解きほぐすような面白さがある。解る人にはすぐに解る謎解きでちょっとした箸休めのような1編と云えるだろう。 そして最後の「ミタライ・カフェ」はスウェーデンへと発った御手洗のパートナーとなったハインリッヒによる御手洗のウプサラ大学での日々が紹介されるが、いつものようにとも云うべきか、話は御手洗が研究する大脳生理学の研究テーマへ脱線し、その専門的な話に少々辟易した。 また最後に本作の前の短編「シアルヴィ」で登場したシアルヴィ館でのお茶会で御手洗が週末の金曜日に豊富な殺人事件の探偵談を語ることから本作のタイトルとなっている「ミタライ・カフェ」と呼ばれるようになったことが明かされる。つまりこの二作は同じ場所を違う名前で指し示していることになる。 しかしハインリッヒは御手洗のスウェーデン時代の活躍の語り部、つまりスウェーデンの石岡和巳であり、この短編では御手洗は彼の地でも色々と事件を解決しているようなのだが、あまり発表されているようには感じていないのだが。後々これらも発表されるのか、それとも島田氏の頭の中に留まるだけなのかもしれないが。 本書は冒頭に書いたように同文庫で刊行された『御手洗潔と進々堂珈琲』同様、御手洗潔が登場する非ミステリの短編集。シリーズの中心人物御手洗潔と石岡和巳に直接読者からの質問をぶつける、もしくは近況を語らせるというメタフィクショナルな内容がほとんどで、唯一の例外が御手洗の父親直俊が外務省に勤めていた第二次大戦の頃の話が語られる「天使の名前」だ。 この作品も非ミステリではあるが、元々物語作家としても巧みな筆を振るっていた作者のこと、実に読ませる物語となっている。 日本の敗戦を予想し、首脳陣へ戦線の拡大を留まらせようと粉骨砕身の努力を傾注したにもかかわらず、無視され、謂れなき誹りを受けて外務省を後にせざるを得なかった直俊の不運の道のりが描かれ、胸を打つ。特に島田氏が常々自作で披露していた日本の縦社会に根付く恫喝を伴う権威主義への嫌悪感がこの作品でも横溢しており、その犠牲者として直俊が設定されているのはなんとも哀しい限り。 しかし戦中は報われなかった彼の最大の功績は御手洗潔をこの世に生み出したことであると声を大にして云ってあげたい。それが彼にとっての救いとなることだろう。 それ以外のファンサービスに徹した作品では読者からの質問に回答したり、未発表御手洗作品について触れられていたり、登場人物の近況が報告されたり、御手洗がウプサラ大学教授時代の彼の博識ぶりを彷彿とさせるエピソードがあったりと御手洗と石岡が実在するかのような語り口である。特に作者島田氏自身が石岡に読者への質問をぶつける作品では錯覚を覚えるくらいだった。 しかし石岡君はどうしたものかねぇ。 本書は2016年6月に新潮社にて文庫オリジナルとして編集された作品であるが、収録作品は1999年から2002年に各種媒体で発表されたもので14~7年前と比較的古い話ばかりである。従って収められている話では2016年の今日ではすでに実現されている物もあり、興味深く読むことが出来た。 一例を挙げれば「御手洗潔、その時代の幻」と「ミタライ・カフェ」で語られるある特殊な細胞の話は現在のiPS細胞のことであろう。 御手洗潔シリーズ未発表の事件を列記した短編では現時点でも発表されていない作品もある代わりに「パロディ・サイト」事件や「大根奇聞」、「UFO大通り」などその後きちんと発表された作品名を挙がっていることから99年の段階で構想があったことにも感嘆してしまった。 今では日本を代表する名探偵シリーズにまで成長した御手洗潔が逆にそれほどまで支持されるようになったのは本書のように事件のみに挑む彼の姿以外の素顔を折に触れあらゆる媒体で作者が語ってきたことが要因であろう。一作家の一シリーズ探偵として登場した御手洗潔が今日これほどまでに人気があるのはこのような地道なファンサービスの賜物であろう。一瞬で事件の構造を看破する天才型の探偵という浮世離れした御手洗潔に血肉を与えることに見事に成功している。 しかし作者がすでに還暦を超えており、即ち御手洗もまた同じような世代であることを考えるとこれからのシリーズは御手洗の過去の活躍を紹介するような形になるのではないだろうか。そしてそれらの事件がまだまだ眠っていることが解っただけで本書は読む価値のある1冊なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ガリレオシリーズ第8作目である本書は一度「猛射つ(う)」という題名で短編として発表されたものに加筆して文庫化の際に長編として発表された。
長編での探偵ガリレオ作品は湯川の葛藤を中心に描かれた物語となっているが、本書もまたその例にもれず、母校の後輩が事件に絡んでいる。 本書の中心人物となる古芝伸吾はかつて高校時代に自分の所属するサークル物理研究会がサークル員が自分1人になったことで存続の危機に立たされて際、新入生の入部勧誘のためのパフォーマンスを行うために先輩たちに助けを求めたところ、学生時代に同じサークルに所属していた湯川が一肌脱いで古芝の手伝いをしたことが縁で、湯川を尊敬し、努力の末に湯川が所属する帝都大学に入学した好青年だ。 さらに彼は両親を亡くし、9歳年上の姉と一緒に暮らしている苦労人でもある。 そんな背景の中で、たった一人の肉親である姉が突然亡くなったことで念願の大学を辞め、町工場に就職するという、既にここで読者の心に遣る瀬無さを誘う設定が織り込まれている。 更に湯川は古芝の入学を喜んでおり、時折彼と連絡を取っていた間柄でもあった。そんな古芝がある事件をきっかけに突然失踪し、東京各所で起きる怪現象にかつて湯川が古芝に授けた部員勧誘のパフォーマンスに使われた技術が関わっていることが判明する。 一人の真面目な青年が身寄りの死によってこれから開けるであろう明るい未来への扉を閉ざされてしまう。本書は初めから人生の皮肉さによって読者の心を鷲掴みにする。 しかしそれが表向きの理由だったことが次第に解ってくる。例えば冒頭に挙げられる偽名を使って東京のシティホテルに宿泊していた女性が翌日に大量の血を流して死体となって発見される。そこに古芝伸吾の許に掛かってくる姉の死を知らせる電話。そして謎の失踪。 作中、科学技術は扱う人の心次第で禁断の魔術にもなると湯川が語るシーンがある。機械の技術者で世界を飛び回っていた亡き父を尊敬し、そして高校時代に出逢った先輩湯川に憧れ、機械工学の道に進んだ彼、古芝伸吾はそのまっすぐな性格ゆえに自分には復讐する武器と知識があることに気付き、復讐の道へ進む。 純粋であるがゆえに人生に折り合いを付けられない。そこに古芝伸吾の哀しさがある。 そして湯川も含め科学者とはその道を究めんとする純粋さが必要なのではないだろうか。古芝伸吾は高校の時に湯川から励まされた言葉 「諦めるな。一度諦めたら、諦め癖がつく。解ける問題まで解けなくなるぞ」 を胸に抱いてきたからこそ難関校である帝都大学に合格した自負がある。つまり求道心が強いからこそそのベクトルが殺人という誤った方向であっても軌道修正が出来なくなるのではないだろうか。 悪は悪であるから裁かれなければならない。 もちろんそうだろう。しかし罪に問われない人物に事情はどうあれ復讐するのはおかしいのだ。求道心は道徳―それが受け入れがたいものであってもーをも凌駕するのかもしれない。 東野氏は『手紙』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』など一貫してこの法律では割り切れない部分を描き、犯罪に走らざるを得ない社会の犠牲者の辛い立場を描いてきた。 古芝伸吾もまたその系譜に連なる犠牲者の1人と云えるだろう。 そしてその古芝が師である湯川から授かった技術がレールガン。これは本当に実在するらしい。米軍で開発も進んでいるという。 私がこの武器の存在を知ったのはゲーム『メタルギア』でかなりずいぶん前だった。確かあのゲームでは連発していたが、実際は一日に1発しか打てない代物で、撃った後も研磨などの整備に何日もかかるらしく、軍事用には向いていないのが湯川の弁だ。しかし数キロ離れたところから標的を捉えられることから実用化すれば恐ろしい兵器になるに違いない。 そんな武器を高校を卒業したての青年が姉を見殺しにした相手の復讐心で完成させる。それは純粋さゆえの過ちだった。 しかし今回最も辛かったのは湯川自身だったのかもしれない。自分が目を掛け、将来を期待した年の離れた後輩が突然の不幸から道を踏み外し、科学を悪用する立場になってしまった。しかも自分が教えた技術で以って。 「科学は世界を制す」が口癖だった古芝の父親はそれが我が子たちに向けたメッセージでありながらも実は科学は使う者によって善にもなり悪にもなる、世界を制するのも豊かな社会にして制する、もしくは軍事的に使われて制するという二律背反性を備えた禁断の魔術師なのだと自身に刻み込んだ戒めの言葉だったことが最後に解る。 300ページ足らずの長編で、元は短編に加筆した作品だったがそこに内包されたメッセージ、とりわけ科学者とはどう生きるべきかという根源的な命題を刻み込んだ作品で中身は濃かった。 そして今までは科学を悪用した相手に博識でトリックを看破してきた湯川だったが、今回初めて自身で授けた技術の悪用と愛すべき後輩に対峙した湯川の心境はいかばかりだったのか。 この事件を経て湯川はさらに人間的な魅力を備えて我々の許に還ってくるに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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もはやキングの代名詞とも云える本書。スタンリー・キューブリックで映画化され、世界中で大ヒットしたのはもう誰もが知っている事実だろう。
コロラド山中の冬は豪雪のため営業停止する≪オーバールック≫ホテル。その冬季管理人の職に就いたジャック・トランスと彼の癇癪と飲酒癖の再発を恐れる妻ウェンディ、そして不思議な能力“かがやき”を持つ少年ダニー達3人の一冬の惨劇を描いた作品である。 とにかく読み終えた今、思わず大きな息を吐いてしまった。 何とも息詰まる恐怖の物語であった。 これぞキング!と思わず云わずにいられないほどの濃密な読書体験だった。 物語は訪れるべきカタストロフィへ徐々に向かうよう、恐怖の片鱗を覗かせながら進むが、冒頭からいきなりキングは“その兆候”を仄めかす。 ホテルの冬季管理人の職に就いた元教師ジャック・トランス。彼は自粛しつつも酒に弱い性格でしかも癇癪もちであり、それが原因で教師を辞職させられた。 更にその息子ダニーは“かがやき”と呼ばれる特殊能力を持つ少年だ。人の心の中が読めたり、これから起こることが解ったりする予知能力のような力を指し、この“かがやき”はホテルのコック、ハローランも持っており、ダニーは強い“かがやき”を持っているという。 さらに彼にはイマジナリー・コンパニオン―想像上の友達―トニーがおり、それまでは孤独なダニーの遊び相手であったが、≪オーバールック≫へ来ると彼を悪夢へ誘う導き手となる。 この“かがやき”が題名のシャイニングの由来である。いわゆる第6感もそれにあたるようで、理屈では説明できない勘のようなもの、そこから肥大した第7感を示しているようだ。 そして舞台となる≪オーバールック≫ホテルもまた過去の因縁と怨念に憑りつかれた建物であることが次第に解ってくる。 1900年初頭に建てられた優雅なホテルはロックフェラーやデュポンなどの大富豪、ウィルスン、ニクソンなどの歴代大統領も宿泊した由緒あるホテルだが、その後オーナーが頻繁に入れ替わり、何度か営業停止をし、廃墟寸前まで廃れた時期もあった。しかし大実業家のホレス・ダーウェントによって徹底的に改築され、現代の姿になり、いまや高級ホテルとして名実ともに堂々たる雄姿を湛えている。 しかしジャックは地下室で何者かによって作られたこのホテルに纏わる記事のスクラップブックを発見し、ホテルの歴史が血塗られた陰惨な物であることを発見する。 そして決して開けてはならない217号室の謎。そこにはハローランでさえ恐れ、また支配人のアルマンでさえ誰にも触れさせようとしない開かずの間。 それ以外にも≪オーバールック≫には人の死に纏わる事件が起こっている。やがてそれらの怨念はこの古き屋敷に宿り、住まう者の精神を蝕んでいく。 優雅な装いに隠された暗部はやがてホテル自身に不思議な力を与え、トランス一家に、ことさらジャックとダニーに影響を及ぼす。 誰もが『シャイニング』という題名を観て連想するのは狂えるジャック・ニコルスンが斧で扉を叩き割り、その隙間から狂人の顔を差し入れ「ハロー」と呟くシーンだろう。 とうとうジャックは悪霊たちに支配され、ダニーを手に入れるのに障害となるウェンディへと襲い掛かる。それがまさにあの有名なシーンであった。 従ってこの緊迫した恐ろしい一部始終では頭の中にキューブリックの映画が渦巻いていた。そして本書を私の脳裏に映像として浮かび上がらせたキューブリックの映画もまた観たいと思った。この恐ろしい怪奇譚がどのように味付けされているのか非常に興味深い。キング本人はその出来栄えに不満があるようだが、それを判った上で観るのもまた一興だろう。 映画ではジャックの武器は斧だったが原作ではロークという球技に使われる木槌である。またウィキペディアによれば映画はかなり原作の改編が成されているとも書かれている。 ≪オーバールック≫という忌まわしい歴史を持つ、屋敷それ自体が何らかの意思を持ってトランス一家の精神を脅かす。それもじわりじわりと。 特に禁断の間217号室でジャックが第3者の存在を暴こうとする件は既視感を覚えた。この得体のしれない何かを探ろうとする感覚はそう、荒木飛呂彦氏のマンガを、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいるような感覚だ。頭の中で何度「ゴゴゴゴゴゴッ」というあの擬音が鳴っていたことか。 荒木飛呂彦氏は自著でキングのファンでキングの影響を受けていると述べているが、まさにこの『シャイニング』は荒木氏のスタイルを決定づけた作品であると云えるだろう。 しかしよくよく考えるとこのトランス一家は実に報われない家族である。 特に家長のジャックは父親譲りの癇癪もちでアルコール依存症という欠点はあるものの、生徒の誤解によって自身の車を傷つけられたのに激昂して生徒を叩きのめしてしまい懲戒処分となり、友人の伝手で紹介されたホテルが実に恐ろしい幽霊屋敷だったと踏んだり蹴ったりである。自分の癇癪を自制し、苦しい断酒生活を続けているにもかかわらず、何かあれば妻から疑いの眼差しを受け、怒りを募らせる。教師という職業から教養のある人物で小説も書いて出版もしている、それなりの人物なのに、家庭で暴君ぶりを発揮した父親の影響で自身も暴力と酒の性分から抜け出せない。 また妻のウェンディも何かと人のせいにする母親から逃れるように結婚し、そのせいかいくら優しくしても父親にべったりな息子に嫉妬し、かつての暴力と深酒による失敗からか愛してはいても十二分に夫を信用しきれない。彼女もまた親の性格による犠牲者である。 そして最たるはダニーだ。彼も“かがやき”という特殊な能力ゆえに友達ができにくく、常に父親が“いけないこと”をしないか心配している。さらにホテルに来てからは毎日怪異に悩まされるたった5歳の子供。 普通にどこにでもいる家庭なのに、運命というボタンを掛け違えたためにとんでもない場所に導かれてしまった不運な家族である。 ところで開巻して思わずニヤリとしたのは本書の献辞がキングの息子ジョー・ヒル宛てになっていたことだ。本書は1977年の作品で、もしジョー・ヒルがデビューしたときにこの献辞に気付いて彼がキングの息子であると解った人はどのくらいいるのかと想像を巡らせてしまった。 そしてよくよく読むとその献辞はこう書かれている。 深いかがやきを持つジョー・ヒル・キングに つまり『シャイニング』とは後に作家となる幼きジョー・ヒルを見てキングが感じた彼の才能のかがやきに着想を得た作品ではないだろうか。そしてダニーのモデルはジョー・ヒルだったのではないだろうか。 そして時が経つこと36年後、息子が作家になってから続編の『ドクター・スリープ』を著している。これは“かがやき”を感じていた我が息子ヒルをダニーに擬えて書いたのか、この献辞を頭に入れて読むとまた読み心地も違ってくるのではないだろうか。 1作目では超能力者、2作目では吸血鬼、3作目の本書では幽霊屋敷と超能力者とホラーとしては実に典型的で普遍的なテーマを扱いながらそれを見事に現代風にアレンジしているキング。本書もまた癇癪もちで大酒呑みの性癖を持つ父親という現代的なテーマを絡めて単なる幽霊屋敷の物語にしていない。 怪物は屋敷の中のみならず人の心にもいる、そんな恐怖感を煽るのが実に上手い。つまり誰もが“怪物”を抱えていると知らしめることで空想物語を読者の身近な恐怖にしているところがキングの素晴らしさだろう。 そう、本書が怖いのは古いホテルに住まう悪霊たちではない。父親という家族の一員が突然憑りつかれて狂気の殺人鬼となるのが怖いのだ。 それまではちょっとお酒にだらしなく、時々癇癪も起こすけど、それでも大好きな父親が、大好きな夫だった存在が一転して狂人と化し、凶器を持って家族を殺そうとする存在に変わってしまう。そのことが本書における最大の恐怖なのだ。 読者にいつ起きてもおかしくない恐怖を描いているところがキングのもたらす怖さだろう。 上下巻合わせて830ページは決して長く感じない。それだけの物語が、恐怖が本書には詰まっている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズ4作目のテーマは夢。かつて結婚を約束した相手を交通事故でその女性の飼っていた愛犬と共に喪った放送会社のプロデューサ柳川の密室殺人事件がメインの謎である。
しかもその柳川は悪夢の中に出てくる女性に殺されたという実に不可解なシチュエーションである。その女性はかつて結婚を約束した女性で交通事故でその女性の愛犬と共に亡くしてしまう。しかしその女性が毎晩悪夢に登場しては自分を殺害し、さらには夢で登場する劇場に誘われ、実際にそこに行ってみると当の本人が踊っていることに驚愕するという非現実的な話が繰り広げられる。 また舞台がテレビ局というのも非日常的であり、一行が那古野を離れて東京で事件に携わるのも新味があり、なかなか面白い。彼らが宿泊するビジネスホテルの描写など何気ないところに妙にリアルな雰囲気があって、共感してしまう。 また彼らが訪れるN放送は駅が渋谷であることからNHKがモデルであるのは間違いなく、そこもかつて自分が訪れたことがあるだけに土地鑑や建物のイメージが出来たことでいつもより物語に没入できた。 しかし物語の展開にはかなり違和感を覚えた。特に事件に乗り出す警視庁の人間が紅子に色々と事件の内容を明かすことが実におかしい。紅子が人の警戒心を解く笑顔を武器に色々と話を聞くのだが、捜査上の秘密を素人にペラペラと話さないことは今では一般読者でも知っていることだろう。そこを作者は「紅子に対面すると男性は妙に素直になる傾向にある」と全く説得力のない答弁で逃げている。 更に事件の関係者であり最有力の容疑者である立花亜裕美が小鳥遊練無と共に車で建物から出るのを知っていながら見過ごしていることも実におかしい。普通ならば血眼になって2人の行方を捜すのではないか。そういう緊迫感が警察の口調からは感じられない。 この傾向はずっと続き、さらにエスカレートして紅子が望むままに事件関係者たちに逢わせたりと非現実的な昔の推理小説を読んでいるかのような錯覚を受ける。 それはそのまま踏襲され、警察一同集めての推理シーンまでもが演出されるのだが、その謎解きシーンはいつになく派手だ。なんとクイズ番組収録中に真相に辿り着いた紅子がそのまま犯人まで明かすのだ。そこから出演者、司会者、テレビスタッフ、そして刑事の前で紅子の推理が開陳される。 かつて川柳に「名探偵 みなを集めて さてと云い」というほど事件関係者を集めて推理を披露するのは本格ミステリでは定番なのだが、本書では実に聴衆の多い謎解きシーンとなった。番組出演者が32名だから、少なくとも50人近くはいることになる。またこのような場で推理を臆面もなく披露する紅子もらしいと云えば実にらしい。 しかし今回の物語は実にシンプルというか森氏にしては真っ当なミステリであった。小鳥遊練無が容疑者と失踪し、そしてそのために犯人に狙われるというツイストはあったものの、メインの殺人事件が本編の謎の中心であった構成は実に珍しい。なぜならば森ミステリではメインの事件よりもサブとなる謎の方に大きなサプライズがあるからだ。 例えば本書では保呂草の他に稲沢真澄という探偵が出てくる。このダブル探偵という設定ゆえに何かサプライズがあるのではないかと思っていたが、実に普通であった。いや実際は叙述トリックを色々仕掛けていたのだが、これに関しては後に述べよう。 そうそう、副産物として今回初めて瀬在丸紅子のイニシャルが明かされる。このシリーズがなぜVシリーズなのかが初めて明らかにされるのだ。 さて前述のとおり、本書には色々叙述トリックが仕掛けられていると書いたが、それは実に単純なものでいわゆる男女の錯覚である。小鳥遊練無という実に魅力的な女装趣味の男子が登場することでジェンダーの逆転がこのシリーズでは起きているのだが、それ以外にもこの性別の違いを利用した叙述トリックが本書では多い。 さて本書のタイトルは『封印再度 Who Inside』に次いで日本語と英語の読み方が同一のタイトルである。『夢・出逢い・魔性 You May Die In My Show』本書も同じく夢とショーで死ぬという趣向が一致しており、実に上手く感じるのだが、素直に『夢で逢いましょう』とした方が自然で作為を感じないと思うのだが。 しかしそれではいかにも普通であり、森氏独特の語感を味わえないため、やはり今の題名にした方がよかったのかもしれないのか。しかし『封印再度』とは異なり、あまりダブルミーニングの妙は本書では感じられなかった。確かに題名の通り夢とショーで殺されるという趣向は含まれているのだが、あまりインパクトがなかったように感じた。 しかし今回は阿漕荘メンバー東京出張編ということもあって紅子と犬猿の仲である祖父江七夏と元婚約者で刑事の林が登場しなかったこともあり、男女の痴情のもつれというドロドロした一面がなかったのがよかった。それ故に瀬在丸紅子、小鳥遊練無、香具山紫子、保呂草潤平たちの活躍に余計な騒音がなくて愉しめた。特に小鳥遊練無は大活躍である。ちなみに私の中の練無像は椿姫彩菜である。そして最後に美味しいところは瀬在丸紅子がかっさらっていく。 可哀想なのは香具山紫子だ。今回も三枚目に甘んじている。彼女が一番凡人であるがゆえにどうにか報われてほしいと思うのだが。 やはり西之園萌絵のいないシリーズの方が面白い。キャラもさらに魅力を増し、次を読むのが実に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー作にして直木賞候補となった藤原伊織以来の鮮烈なデビューを飾った宮内悠介氏。惜しくも直木賞は逃したものの日本SF大賞を受賞した。
それはどんな作品かと問われれば、盤上遊戯、卓上遊戯、つまりは古来より伝わり、今なお嗜まれている囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋といったゲームをテーマにした短編集。 まずは第1回創元短編賞で山田正紀賞を受賞した表題作はある女流棋士の数奇な物語だ。 なんという物語だろうか。卒業旅行先の中国で狡猾な罠に嵌って両手両足を喪い、そのまま賭碁師の人買いに買われ、今までしたことのない囲碁を覚え、瞬く間にその才能を開花させ、棋界の上位への階段を昇っていく灰原由宇という女性棋士の奇妙な半生。 物語にはサプライズがあるわけでもなく、この女性が棋士になるまでと短い棋士人生、そして行方不明となったその後がエピソードの積み重ねで語られていく。そのエピソード1つ1つが濃厚でしかも深い。 四肢を喪うことで碁盤と同化し、いつしか囲碁の石が自分の手足となった灰原由宇が極限まで囲碁の世界を上り詰めていくその精神世界が語られる。囲碁という盤上にある天空の世界を彼女は氷壁を昇るかのように上を目指し、やがて言語がその精神世界を表現するのには足らなくなり、彼女の頭の中で飽和し爆発してしまい、とうとう彼女は棋界を去る。 この至高の域に到達しようとする氷壁登攀は実に孤独で冷たく、寂しい。しかし彼女は登るのを止めようとしなかった。 読後、あまりに濃密な2人の精神世界にため息が出て茫然としてしまった。 これを応募作で書くのか。いやはや言葉にならない。 続く「人間の王」ではチェッカーなるチェスの前身とも云うべき盤上遊戯で40年間無敗を誇ったチャンピオン、マリオン・ティンズリーと彼を打ち負かすことが出来たプログラム、シヌークを生み出したシェーファーというチェッカーに命を捧げた孤高の2人の物語。 物語は作者と思しき人物が40年間も無敗を誇ったティンズリーと彼のライバルとなったシヌークを生み出し、2007年にチェッカーの完全解を出したシェーファーという2人の人物の肖像とエピソードを探るノンフィクションの体裁を成している。 このマリオン・ティンズリーとシェーファーという2人は実在し、ここで語られる彼らの対局もまた実際の物である。従って本作はほとんどノンフィクションである。 ただ語り手がインタビューする相手が最後になって明かされる。 チェッカーという今は忘れられつつあるゲームを極限まで突き詰め、そして完全解を出すに至った2人の人間が到達している精神世界の深淵さを語る言葉が見つからない。 シェーファーは棋界が人を超えることを目指し、ティンズリーは神というプログラムを背負って対決に臨む。純粋に勝負をすることを求め、強者と出逢うことで生きる意味を見出し、勝つことで神の座に近づいていくことを実感する。誰もが到達しえない境地に辿り着こうとする天才、いや天才という二文字を超えた至高の存在。 彼らは何を見たのか。それを見ることは我々凡人には適わない世界なのだろう。 次の「清められた卓」も実に奇妙な読後感を残す。 恐らく作者は無類の麻雀好きであろう。この作品における作者の筆致の躍動感は自身の麻雀愛が溢れ出ている証左に過ぎないからだ。 常識破りの打ち方でプロ雀士のみならず天才麻雀少年や歴戦のアマチュア雀士を翻弄する「シャーマン」と呼ばれる真田優澄のキャラクターに尽きる。この4人が対峙する対局を手に汗握る攻防戦として再現する作者の筆致の熱にまた思わず読む方も力が入ってしまった。そして明かされる真田優澄の強さの秘密は実に途方もないものであった。 いやはや誰がこんな真相を見破れるだろうか。いやさらに云えば、よくもこれほど人智を超えた真相を作者は思いついたものである。 全てが想像を凌駕しており、ただひたすらに脱帽だ。 古代インドで生まれたチャトランガは将棋やチェスの起源とされているらしい。「象を飛ばした少年」はそのチャトランガがある人物によって生み出されようとした物語。 その人物とは仏教の祖であるブッダことゴータマ・シッダールタの息子、日蝕や月蝕を意味する<蝕(ラーフ)>と名付けられたゴータマ・ラーフラ。聡明でありながら数学や盤上に思索を重ねるその男は王者の相がないと云われていた。そしてその証拠に彼はインド山麓の小国カピラバストゥの最後の王となる。 元々王になるのではなく、学問に親しむラーフラは状況の犠牲者だ。彼は10歳の時に初めて出席した軍議である遊戯を着想する。その遊戯に思いを馳せるが王であるがゆえにそれを誰かと嗜むことが出来なかった。更には象という駒を2つ飛ばすことが誰しも理解されなかった。これは今なお親しまれ、広く遊ばれている将棋やチェスの原型を生み出した悲運の天才の、王の哀しい物語だ。 史実にこの事実はない。これは恐らく作者の創作であろう。しかしブッダの影にこのような悲運の王がいたことは史実であろう。偉大な父が出家したために王にならざるを得なかった男ゴータマ・ラーフラという男とチャトランガなる遊戯を組み合わせ織り成された物語は途轍もなく切なかった。 次の「千年の虚空」は王道の将棋がテーマだ。予想通り、ある天才棋士の物語なのだが、その生い立ちが実に破天荒なのだ。 未来の、まだ見ぬ天才将棋棋士の物語だが実に想像力に富んでいる。まず思わず眉を潜めてしまう葦原兄弟と織部綾のとんでもない幼少時代の日々が鮮烈な印象を残す。 他とは違う性格ゆえに本能のまま動く3人。やがて自我に目覚めた兄一郎のみがその依存状態から抜けるが、実は彼こそが綾に向いてほしいと願っていた。そして弟恭二は綾が持ってきた麻薬によって覚醒し、類稀なる将棋の才能を開花させるとともに統合失調症を患い、生涯綾の世話なしでは生きられなくなる。 そんな精神状態の中、彼は誰もが到達していない将棋の世界の彼岸を、神を再発明する領域に達しようとする。人は極限に到達するためには人間らしさを、異常性を持たなければならない。常人にとっては悲しいほどの悲劇に見えても彼ら彼女らにとっては望むがままに生きた末の結末だったから、幸せだったのだろう。 とにもかくにも凄絶な物語である。 最後の「原爆の局」では再び灰原由宇と相田が登場する。 壮絶なる棋士であった灰原由宇が再登場する。海外へ渡った2人を追ってライターの私はプロ棋士の井上と渡米する。 まさに鮮烈のデビューであろう。そして創元SF大賞は第1回の短編賞受賞者にこの素晴らしい才能を見出したことで権威が備わったことだろう。そう思わされるほど、この宮内悠介なる若き先鋭のデビュー短編はレベルが高い。 とにかく表題作に驚かされた。四肢を喪った女性棋士灰原由宇の半生が描かれるこの物語はミステリでもなく、また宇宙大戦やモンスターが出てくるわけもない。ただ彼女の棋士のエピソードが語られるのみだ。 しかしそこには道を究める者が到達する精神世界の高み、本作の表現を借りるならば天空の世界が開けているのである。この天空の世界はまさにSFである。精神の世界のみでSFを表現した稀有な作品なのだ。 特に孤高であった棋士が最後に放つ言葉が実に心地よい。こんな幸せな答えが他にあるだろうか。この台詞は今後も私の中に残り続けるだろう。 そして実在の機械と人との勝負を扱った「人間の王」はいわば伝記である。しかし実在したチェッカーというゲームの天才とコンピューターの闘いは本作以外の作者の創造した天才たちの精神性を裏付けるいい証左になっている。神を頭に宿し、全ての局面を記憶した天才が実在した。だからこそ彼はゲームの極北を見たいと思った。恐らく完全解を知りつつ、それを眼前に再現したいがために敢えて機械と戦った男。そんな人物が実在したからこそ、他の作品で登場する灰原由宇や真田優澄、葦原恭二たちの存在が生きてくる。 また麻雀を扱った「清められた卓」での息詰まる攻防戦の凄みはどうだろうか? プロ雀士は面子を掛け、予想外の奇手を打つ謎めいたアマチュア雀士真田優澄と戦いを挑む。他のアマチュア雀士も今まで培ってきたキャリアを賭けて挑む。極北の闘い、宗教と科学の闘いと称された対局はそれぞれを今まで体験したことのないゾーンへと導く。 この筆致の熱さは一体何なのだろう。ただでさえ麻雀バトルとしても面白いのに―ちなみに私は麻雀をしないし、ルールも解らないのだが、それでもそう感じた!―、最後に明かされる真田優澄の秘密と彼女が成したことを知らされるに至っては何か我々の想像を遥かに超越した世界を見せられた気がした。 後世に残る、天才たちを生み出すゲームを創作したにも関わらず誰もが相手にしないがために埋没した1人の王を描いた「象を飛ばした少年」が抱いた虚しさはなんとも云えない余韻を残すし、狂乱の人生を生き尽くした2人の兄弟と1人の女性の数奇な人生を語った「千年の虚空」では人智を超えた神の領域に到達するには常人であってはならないと痛烈に主張しているようだ。 ここに登場する葦原兄弟と織部綾の人生の凄絶さは到底常人には理解しえないものだ。それがゆえに己の本能に純粋であり、人間らしさをかなぐり捨てて常に答えを追い求めることが出来た。 これら物語には盤面という小宇宙に広がる極限を求め続けた人々の、我々常人が想像しえる範囲をはるかに超えた精神の深淵が語られる。それぞれ究極を求めたジャンルは違えど、一つのことを探求する人々の精神はなんとも気高きことか。 ここに出てくるのは見えざるものが見える人々だ。その道を究めんとする者たちが望むその分野の極北を、究極を見ることを許された人々たちだ。 しかしそんな彼らは超越した才能の代償に喪ったものも大きい。四肢をもがれて不具となった女性、強くなりすぎた故に滅びゆくゲームの行く末を見据えるしかない男、「都市のシャーマン」となり、治癒に身を捧げる女性、統合失調症になったがために才能が開花した男。 物事を探求し、見えざるものを見えるまで追い求めていく人々の純粋さはなんとも痛々しいことか。本書にはそんな不遇な天才たちの、普通ではいられなかった人々の物語が詰まっている。 なぜこれがSFなのか。 それは上にも書いたように人々の精神の高みはやがて宇宙以上の広大な広がりに達するからだ。また四角い盤上や卓上は常に対戦者には未知なる宇宙が広がる。その宇宙は限られた人々たちが到達する空間である。 本書はそんな異能の天才たちが辿り着いた宇宙の果てを見せてくれる短編集なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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お馴染み探偵ガリレオこと湯川准教授が活躍するシリーズの短編集。
早くもシリーズとしてはこれで7作目であり、短編集としても4作目となる。さらに本書は当時単行本で『虚像の道化師』と『禁断の魔術』とそれぞれ別の短編集として刊行されたが、後者の3編を合わせて1つの短編集にしたもの。後者の残り1編は『禁断の魔術』として文庫化の際、長編化して刊行されている。 さて初頭を飾る短編「幻惑(まどわ)す」は手を触れずに人がいきなり窓から飛び降りる現象を湯川が解き明かす。 手を触れずに人を動かす、いわゆる気功を扱ったのが本作。一見本当の奇蹟のように思わせられ、今回こそは湯川も解けないのではないかと読者は不安になるがそれでもきちんと科学的に立証する湯川の冴えは健在だ。 また本作を読んで、「もしかしたら…」と思い当たる実在の新興宗教の信者もいるのではといらぬことを案じてしまった。 次の「透視(みとお)す」は透視術に湯川が挑戦する。 今までのシリーズ作とは一風変わった作品。殺人事件は起きるものの、湯川が挑むのは犯行方法ではなく、犯行動機となった透視術の謎だ。 今現代テレビに出ているマジシャンもこの手法を使っているのだろうか。いやまた新たな方法を生み出しているのかもしれない。 よくよく考えると科学とマジックは永遠のいたちごっこを繰り返すようなものなのかもしれない。そんな風に思える作品だ。 「心聴(きこえ)る」では幻聴の謎に湯川は挑む。 最新科学の知識を利用したトリックがこのガリレオシリーズの最たる特徴なのだが、本作に限ってはちょっと行き過ぎの感は否めない。 湯川が直接事件に関わらない珍しい短編「曲球(まが)る」ではなんと野球選手の変化球について研究する。 シリーズとしては異色の作品。上に書いたように湯川は殺人事件には直接関与せず、草薙が事件を通じて知り合った落ち目のプロ野球選手の復活に力を貸すというスポーツ小説の風合いをも持った爽やかな作品となっている。 ただ全く事件に関与しないわけではなく、生前の野球選手の妻の不倫を思わせる不可解な行動について、野球選手の車の錆を手掛かりに真相を突き止めるといういわばサブストーリーに関する謎解きを行う。 「心聴る」でも思ったが、被害者の生前の行動について事件を解決した刑事がそこまで調査を掘り下げるものだろうかと疑問は残る。プライベート侵害として訴えられる恐れもあろうかと思うのだが。 双子には不思議な力があると云われているが「念波(おく)る」は双子の妹が胸騒ぎを感じて姉の夫に連絡したところ、姉が意識不明の重体で自宅で倒れていたというショッキングな幕開けで物語は始まる。 双子の間に不思議なシンクロニシティが働くというのはよく云われており、強弱の差はあれどそのような経験をする双子も実際にいるという。従って本作では敢えてまだ未開の分野である双子の研究にあらかじめ踏み込むのを避けるように物語が作られたようにも感じる。 本当に科学で証明されていないことはまだまだ存在する。それに直面したときには現代科学を熟知する湯川でさえ未開の分野ではまだまだヒヨコのようだ。 刑事と名探偵には常に事件が付きまとう。「偽装(よそお)う」では友人の結婚式に出席した湯川と草薙が殺人事件に出くわし、地元警察の協力をすることになる。 嵐の山荘物のシチュエーションを上手く活用して湯川と草薙が否応なく事件に関わらざるを得なくなったのが特徴的だ。正直事件現場の写真だけでそこまで推理できるかと思うが、湯川の新たな一面が解る1編だ。 最後の「演技(えんじ)る」は初期の東野作品を思わせる実にトリッキーな作品だ。 面白いのは元カノがなぜ彼氏を奪った彼女のためにあえて罪を被って身代わりになろうとするのかという謎。この一見不可解な謎が「劇団の女優」という登場人物の設定で氷解する。 この一種異様な動機は女優という特異な人物にこそ当て嵌まり、腑に落ちる。どこかチェスタトンの論理を思わせる1編である。 ガリレオシリーズ第7作目となる第4短編集。本書では内海刑事の登場以来、疎遠になりつつあった草薙刑事と湯川との名コンビぶりが復活しているのが個人的には嬉しかった。 今回も科学知識を活用したトリックが並べられている。 いずれもどこかで聞いたような物ばかり。生活家電に取り入れられているものもあれば、かつて学生時代に学んだ物もあり、また初めて聞くものもありと今回もヴァラエティに富んでいる。つまり必ずしも最先端の科学技術ではなく、我々の日常生活で既に活用されている技術を駆使したトリックなのだ(一部を除くが)。 また一方で現在研究中の分野についても湯川は踏み込む。 本書では双子の間に働くテレパシーを扱った「念波る」が該当するが、まだその原理が証明されていないその謎については特段新しい研究発表が開陳されるわけでなく、予定調和に終わった感が否めない。双子のテレパシーは現在実際に研究中の分野だが、さすがにこの謎は湯川自身も解けなかったようだ。 しかしこれらの技術をトリックとして使って恰も超常現象のように振る舞う犯人、もしくは事件関係者たちの姿はもはや特異ではなく、日常的になりつつある。 それはやはりネットの繁栄により素人が容易に手軽にそれらの技術を応用したツールを手に入れ、アイデア1つで奇跡のような事象を生み出すことが可能になったからだ。つまり科学技術が蔓延することは警察にとっても常に犯人と技術的な知恵比べを強いられることになることを意味している。 そんな科学知識を応用して紡がれる短編はとにかく全てが水準以上。シリーズ初期に見られた一見怪現象としか思えない事件を科学の知識でそのトリックを見破るだけでなく、事件の裏に隠された関係者の意外な心理を浮き彫りにして余韻を残す。 そんな粒ぞろいの作品の中で個人的なベストを挙げると「透視す」、「曲球る」、「演技る」の3編を挙げたい。 「透視す」は思っていることは話さないと人には伝わらない、そんなシンプルなことが出来なかったために起きたボタンの掛け違いが切なく胸に沁みる。 「曲球る」は湯川が今注目されているスポーツ科学に携わり、戦力外通告を受けたプロ野球選手の往年のピッチングを復活させるために一肌脱ぐ話であり、直接的には殺人事件に関与しない。野球選手の亡き妻の不審な行動の謎を湯川が看破するが、あくまでも主体はスポーツ科学への関与だ。どことなくパーカーの『初秋』を思わせる温かい物語だ。 本書のタイトルの基となった「演技る」は久々に東野ミステリの技巧の冴えを感じさせた1編だ。女優という特異な職業ならではの歪んだ動機が強い印象を残す。一種狂気にも近い感情でまさに「虚像の道化師」とは云いえて妙である。 さて以前にも書いたが湯川は『容疑者xの献身』以前と以後ではキャラクターががらりと変わっている。特に事件関係者に対して手厚い心遣いを、気配りをするようになった。 「透視す」ではホステス殺人事件の謎のみだけでなく被害者親子の確執に隠された被害者の真意を突き止め、遺族となった継母に魂の救済を与える。 「曲球る」では再起をかけたプロ野球投手に研究としながらも復活に惜しみなく協力し、「念波る」では双子姉妹に秘められた犯人に対する強い疑念を晴らすために嘘をついてまで協力すれば、「偽装う」では心中事件を殺人事件に偽装しようとした娘の痛々しい過去を汲み取り、明日への新たな一歩を踏み出す勇気を与える。 そこには単純な科学の探究者だった湯川の姿はなく、人を正しい道に導く人道的な指導者の姿が宿る。 前作『真夏の方程式』で否応なく事件に関わらされた無垢なる容疑者に直面したことが、今回のように予期せず犯罪に巻き込まれてしまいながらも今の最悪を変えようともがく弱き人々へ手を差し伸べる心理に至ったのだろうか。だとすればこのシリーズは間違いなく事件を経て変わっていく湯川学の物語であるのだ。単なる天才科学者の推理シリーズではないのだ。 以前は加賀恭一郎シリーズの方に好みが偏っていたが、今ではその天秤はこの探偵ガリレオシリーズに傾きつつある。 本書を読んでその傾きはさらに強くなったと告白してこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キング2作目にして週刊文春の20世紀ベストミステリランキングで第10位に選ばれた名作が本書。
そんな傑作として評価される第2作目に選んだテーマはホラーの王道とも云える吸血鬼譚だ。 小さな田舎町セイラムズ・ロットを侵略する吸血鬼対人間の闘いを描いた本書はかつて少年時代に4年間だけこの町に住んでいた作家のベン・ミアーズと彼が町で知り合い恋仲になるスーザン・ノートンを中心にして物語は進むが、原題“‘Salem’s Lot”が示すように本書の主役はセイラムズ・ロットと呼ばれる町である。 メイン州が成立する55年前に誕生した人口1,300人の小さな町。しかしそこには曰くつきの屋敷マーステン館があり、そこに再び居住者が現れる。 上に書いたように本書の主役はこの町であり、その住民たちである。従ってキングは“その時”が訪れるまで町民たちの生活を丹念に描く。彼ら彼女らはどこの町にもいるごく当たり前の人々もいればちょっと変わった人物もいる。登場人物表に記載されていない人々の生活を細かくキングは記していく。 町一番朝早くから働くのは牧場で牛たちの乳搾りを行う18歳のハルと14歳のジャックのグリフェン兄弟。ハルは学校を辞めたがっているが父親の反対に遭ってむしゃくしゃしている。 彼らの搾った牛乳はアーウィン・ピューリントンによってセイラムズ・ロットに配達される。その牛乳は本書の主人公で作家のベン・ミアーズが泊まっている下宿屋のエヴァ・ミラーの許だけでなく17歳で生後10ヶ月の赤ん坊ランディの育児に悪戦苦労しているサンディ・マクドゥガルの許にも届けられる。彼女は日々ランディに対してストレスを溜めている。 ハーモニー・ヒル墓地の管理人マイク・ライアースンは墓地のゲートに犬の死骸が串刺しになって吊るされているのを発見し、保安官のパーキンズ・ギレスビーに届けた。その犬はアーウィンの愛犬だった。 スクール・バスの運転手チャーリー・ローズはバスの中では全知全能の神だった。彼のバスではだから子供たちは行儀良かったが、今朝はメアリ・ケート・グリーグスンがこっそりブレント・テニーに手紙を渡したのを見たので2人には途中で降りてもらい、学校まで歩いてもらうことにした。 エヴァの下宿屋で長年働いているウィーゼル・クレイグはエヴァとかつての愛人だった。 ごみ捨場管理人のダッド・ロジャーズ。 若い男と昼下がりの情事に耽る美しい人妻ボニー・ソーヤー。 学校に新しく入ってきたマーク・ペトリーは学校一の暴れん坊リッチー・ボッディンに因縁をつけられるが鮮やかに一蹴してしまう。 定年まであと2年の63歳の高校教師マット・バーク。 常にマーステン館を双眼鏡で見張っている町のゴシップ屋メイベル・ワーツ。 これらの点描を重ねて物語はやがて不穏な空気を孕みつつ、“その時”を迎える。 このじわりじわりと何か不吉な影が町を覆っていく感じが実に怖い。 正体不明の骨董家具経営者がマーステン館に越してきてから起きる怪事件の数々。キングは吸血鬼の存在を仄めかしながらもなかなか本質に触れない。ようやく明らさまに吸血鬼の存在が知らされるのは上巻300ページを過ぎたあたりだ。それまでは上に書いたように町の人々の点描が紡がれ、そこに骨董家具経営者の謎めいた動きが断片的に語られるのみ。それらが来るべき凶事を予感させ、読者に不安を募らせる。 そしてようやく上巻の最後に吸血鬼そのものと邂逅する。 それは犠牲者の一人で墓堀りのマイク・ライアースン。つまり既にセイラムズ・ロットが吸血鬼の毒牙によって侵食されていることが読者の脳裏に刻まれる。 しかし吸血鬼が現れても一気呵成に彼らの襲撃が始まるわけではない。一人また一人と被害者が現れ、そして彼ら彼女らを取り巻く人々が次々に容態を悪化させ、ゆっくりと、しかし確実に死に至る。しかしそれらの死体はいつの間にか消えてしまう。安置所から、墓穴から。そこでようやく町民たちは気付くのだ。この町には何か邪悪な物が蔓延っていると。 このねちっこさが非常にじれったいと思うのだが、逆にそれがまた恐怖を募らせる。いつ主人公のベンやスーザンに災厄が訪れるのか、読者はキングの掌の上で弄ばれているかのように読み進めざるを得ない。 物語の序盤で丹念に描かれたセイラムズ・ロットの町の人々の風景。それぞれの人々のそれぞれの暮らし。 そこで紹介された彼ら彼女らの生活が、日常が吸血鬼カート・バーローと彼らが増やした下僕たちによって次々と“仲間”にさせられる。 そしてその災厄を頭ではなく肌身で感じた一部の人々はベンやマットに与し、戦いを挑む者もいるが、大半は云いようのない胸騒ぎを覚えて、魔除けになるような物を携帯し、ただ何事もなく夜が過ぎるのを祈る。そして朝が来たら住み慣れたセイラムズ・ロットを離れる者もいる。 吸血鬼に立ち向かうのは主人公のベン以外に高校教師のマット・バーク、彼の元教え子で医者のジミー・コディ、ホラー好きの博学な少年マーク・ペトリー、そして飲んだくれ神父のドナルド・キャラハンらだ。 その中でも特筆すべきはマーク・ペトリーだ。早熟なこの少年は常に物事を一歩引いた視座で観察し、冷静沈着な判断で危難を切り抜ける。学校一の暴れん坊に目をつけられると、頭の中で作戦を立て、返り討ちに合わせて面目をつぶす。 オカルトやモンスターに深い知識を持ち、吸血鬼の出現にも知識を総動員して冷静に対処する。本書においてヒーローを体現しているのは実はこの少年なのだ。 キングの名を知らしめた本書は今ならば典型的なヴァンパイア小説だろう。物語はハリウッド映画で数多作られた吸血鬼と人間の闘いを描いた実にオーソドックスなものだ。 しかし単純な吸血鬼との戦いに人口1,300人の小さな町セイラムズ・ロットが徐々に侵略され、吸血鬼だらけになっていく過程の恐ろしさを町民一人一人の日常生活を丹念に描き、さらにそこに実在するメーカーや人物の固有名詞を活用して読者の現実世界と紙一重の世界をもたらしたところが画期的であり、今なお読み継がれる作品足らしめているのだろう(今ではもうほとんどアメリカの書店には著作が並んでいないエラリー・クイーンの名前が出てくるのにはびっくりした。当時はまだダネイが存命しており、クイーン作品にキング自身も触れていたのだろう)。 恐らくはそれまでの吸血鬼は仲間を増やしつつも本書のように町の人々たち全てを対象にしたものでなく、吸血鬼が気に入った者のみを仲間にし、それ以外は彼らが生き延びるための糧として血を吸った後は死体と化していたような気がする。 しかし本書は吸血鬼カート・バーローがどんどん町の人々を吸血鬼化していき、ヴァンパイア・タウンにしていくところに侵略される恐怖と絶望感をもたらしている、ここが新しかったのではないか。 従って私は吸血鬼の小説でありながらどんどん増殖していくゾンビの小説を読んでいるような既視感を覚えた。 吸血鬼として数百年もの歳月を生きてきたカート・バーローは深い知識と狡猾な知恵を備えており、抵抗するベンやマーク達をその都度絶望の淵に追い込んでは返り討ちにする。そのたびに貴重な理解者たちが亡くなっていく。 圧倒的な支配力の下でしかしベンとマークはこの大いなる恐怖に立ち向かう。 彼らも逃げたいがベンには理由があった。 それはこの町に戻ってくるきっかけとなった妻ミランダの死だ。自身の交通事故で妻を亡くした彼は居たたまれなさからセイラムズ・ロットに逃げ込んだ。そして第2の安住の地としてスーザンという新たな安らぎを得ながらも吸血鬼カート・バーローに蹂躙され、自ら手を下して彼女を救済せざるを得なくなった元凶を彼は今度は逃げずに立ち向かうことにしたからだ。それが彼の行動原理だ。 また本書の恐ろしいところは町が吸血鬼に侵略されていることをなかなか気づかされないことだ。 彼らは夜活動する。従って昼間は休息しているため白昼の町は実に平穏だ。いや不気味なまでに静まり返っている。人々はおかしいと思いつつも明らさまな凶事が起きていないため、異変に気付かない。しかし夜になるとそれは訪れる。 近しい人々が訪れ、赤く光る眼で魅了し、仲間に引き入れる。この実に静かなる侵略が恐怖を募らせる。 これは当時複雑だった国際情勢を民衆が知ることの恐ろしさ、知らないことの怖さをキングが暗喩しているようにも思えるのだが、勘ぐりすぎだろうか? 古くからある吸血鬼譚に現代の風俗を取り入れてモダン・ホラーの代表作と評される本書も1975年に発表された作品であり、既に古典と呼ぶに相応しい風格を帯びている。 それを証拠に本書を原典にして今なお閉鎖された町を侵略する吸血鬼の物語が描かれ、中には小野不由美の『屍鬼』のような傑作も生まれている。 もう1人のモダンホラーの雄クーンツの作品はほとんど読んでおり、私にとってこのジャンルは決して初めてではない。 しかしキングの作品はクーンツの諸作と違い、結末はハッピーエンドではなく、どこか無力感と荒寥感が漂う。 今なお精力的に作品を発表し、そして賞まで受賞しているこの大作家は今後どのような物語を見せてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『殺し屋ケラー最後の仕事』は最後の仕事ではなかった!
殺し屋ケラー再び参上の連作短編集。 「ケラー・イン・ダラス」は1日12時間、週7日働いていたケラーがサブプライムローン問題で仕事がぱったり来なくなったケラーが再び切手収集に精を出すが、今度は先立つものがない。そんなところにドットから殺し屋斡旋業を再開したという知らせが入るところから幕を開ける。 殺し屋ケラー復活の1編。 ただ以前の彼と違い、身分はニコラス・エドワーズというリフォーム会社の共同経営者であり、しかも妻と娘がいる所帯持ち。かつては一匹狼の自由人だっただけに家族という護る物を持ったケラーが再び犯罪の世界に身を置くことにどのような葛藤があるのかが注目されたが、やはりケラーはケラーだった。 ブランクを懸念する不安もあったが、ケラーはターゲットを前にするとかつての勘を取り戻し、任務を遂行する。 ドットとケラーの稼業再開といい、依頼人の心変わりといい、人生とはままならないことを双方で著した好編。 続く「ケラーの帰郷」では政治汚職に加担し、腎臓売買で資金洗浄を行っていた大修道院長の殺害を依頼される。しかしその場所はかつてケラーが根城にしていたニューヨーク。つまりタイトルはかつてのシマに戻るケラーを示している。 前作で大統領候補暗殺の冤罪に問われたケラーはアメリカ全土で指名手配される。しかも数年経ったとはいえ、かつてのホームプレイスであり、彼を見知った人も何人かいる。そんな危険な場所になぜ赴くのかと云えばやはりそれは切手のオークションに出席するためだったからだ。趣味のためにあえて危険を冒すこのケラーの心理は実は私も理解できるところがある。この件については後に述べよう。 彼を知っている人がいるにも関わらず、馴染みの界隈を避けるどころからその後の変化を見たいがために敢えて足を向けるケラー。いつ指名手配の男と指されるかもしれないのに敢えてそこを訪れたくなる複雑な心理が描かれている。 それはかつての自分とは人相が異なっていることもあり、逆に知っている場所を訪れることで誰にも気づかれなかったら今後の彼の人生の安泰は約束されたようなものだ。その安心を得るために彼は敢えてその場所に足を踏み入れるのかもしれない。 そんな彼のターゲット大修道院長は修道院の奥に常日頃潜んでいるため、ケラーもなかなか近づくことが出来ない。しかしケラーはどうにか身分を偽って接触するもその威厳に圧倒され、殺しも未遂に終わる。途方に暮れたケラーに突如ある策が閃く。 120ページ以上の紙数を費やした割には結末が安直で消化不良の感があった。 しかし殺しの仕事の後、幼い愛娘に手に入れた切手の話を愛おしくするケラーは仕事と私生活を見事に割り切っているところに驚いてしまう。これがプロフェッショナリズムなのか。 続く「海辺のケラー」のターゲットも政府の証人保護プログラムが適用された金持ちカーモディだ。 ケラーの本職を知りながらもケラーと結婚し、その仕事を認め、時にはケラーの仕事を想像して欲情する、非常に理解ある(?)妻ジュリアが実際にケラーに同行して殺しの現場に赴く。とはいってもしゃれた1週間の船旅の最中にターゲットを殺害するという極めてのんびりとした依頼で素人が直面する殺伐感や緊張感は全くなく、ケラーの手伝いでターゲットの部屋のスペアキーを手に入れたりもする。 しかし旅が終わって家に帰って殺人事件のニュースを見るにあたって、それまでケラーの話を聞くだけだった殺しの仕事に間接的に自分が関わったことの怖さを知る。このジュリアの反応こそが常人の反応であり、やはりケラーはどこかネジが外れているようだ。 しかしそのジュリアさえもケラーから気持ちの切替方を教えられると回復するのだからやはりこの夫婦はちょっと変わっているのだろう。 「ケラーの副業」ではとうとうケラーは切手収集をサイドビジネスにしてしまう。 上に書いたようにケラーは稼ぎの出ないリフォーム業をさらに追いやり、切手収集を趣味と実益を兼ねた副業にしてしまう。それは主に切手収集家だった夫の遺産を買い取って興味のあるディーラーに売り込む仕事だった。利益は薄い物の、世間体のために何かをして生計を立てているように見せかけるために始めたサイドビジネスだから儲けはほとんど考えておらず、むしろ趣味に没頭するために始めたような商売だ。 そしてどちらかと云えば本作では切手収集家の遺したコレクションをいかに高く売るかがメインとなっており、本職であった殺し屋の仕事は添え物に過ぎなくなっている。切手の仕事を巡る人々の話が大半を占める。 そしてそれを裏付けるようにケラーも切手関係の仕事をメインにして殺し屋稼業を引退しようとこぼす。そしてその決断をしながらも、最後の短編「ケラーの義務」の幕が開く。 殺し屋稼業から足を洗うことを決意したケラーに舞い込んできたのは少年殺しの依頼をした人物を消したいというドットからの依頼だった。 しかも少年は切手収集を趣味にし、年齢にしては豊かな知識を持つ利発的な少年だった。さすがにこんな話を持ち掛けられたらケラーは断れないだろう。 前作『殺し屋ケラー最後の仕事』でケラーはニコラス・エドワーズとして身分を変え、リフォーム会社の共同経営者に収まり、さらに彼とドットを罠にかけたアルへの復讐を遂げ、さらにはジュリアという伴侶を得てその妻との間にかわいい娘ジェニーを儲けたケラー。 通常ならば大団円で一連のケラーのシリーズに終止符が打たれるはずだったが、人生は上手くいかない物でケラーの前にサブプライムローン問題が立ち塞がり、あれほどあったリフォームの依頼がパタリと止んで閑古鳥が鳴く状態に。そんなところからケラーの第2の殺し屋稼業がスタートする。 かつては一匹狼だったケラーが家族という護る物を得て再び命を奪う仕事に就けるのかと正直疑問だった。ケラー自身もしばらくのブランクを懸念し、またかつての自分のように冷静に処置できるのかと自問自答を繰り返すが、逆に妻のジュリアと幼い娘ジェニーの声を聞くことで逆に安堵を覚える。殺し屋稼業に戻ることでそれまでのことが夢ではなかったのかと錯覚したがそうではないことを再確認し、それでもケラーは仕事が実施できたことで再び自分を取り戻す。しかしこの感覚は特殊だ。 家族を持つからこそそれまで出来たことが出来なくなることは多々あるのに。ましてや人の命を奪い、家族に喪失をもたらす仕事である。それは妻ジュリアも指摘するのだが、ケラーは自分の変化を懸念しはしたものの、やはり前の通りに殺しをやれた自分がおり、それは以前と変わらぬ達成感をもたらしたと述べる。 ケラーの精神状態はやはり常人とはちょっと違っているようだ。 リフォーム会社の共同経営者として堅気の仕事に就きながらもその仕事が下火になっていることもあって殺し屋稼業を再開することになったケラーだが、それ以外にも大きな動機としては自分の趣味切手収集が関わっている。彼の狙っている切手がオークションに出される会場とドットの依頼の場所が一致すると趣味と実益を兼ねて依頼を受けるのだ。しかもそれはかつての住まいがあったニューヨークであっても。 全国指名手配され、顔まで知られるようになったケラーが敢えて知り合いが多くいるニューヨークにまで足を運ぶ危険を冒す理由はやはりこの切手収集への拘りが大いに作用しているのだろう。私も趣味の読書のためにいそいそと読みたい本の情報収集と在庫確認のため、東京、大阪、神戸、岡山と自分の足で訪れる。ネットショッピングが発達した今でも出来る限り現物を確認して買う性分は治らない。 ケラーも作中でネットオークションができるようになり、遠隔地でもわざわざオークション会場に赴かなくても参加できるが、やはり現場の雰囲気や競り相手の心理などは現場ではないと解らないから極力会場に足を運ぶようにしていると述べている。 この心理、実によく解る。 ネットショッピングは検索すると目当ての物が出てきて、クリックすれば購入となり非常に手軽なのだが、本がどんな状態で来るのかもわからないため、どうにもなんとも味気なくて実物感がないのだ。 やはり足繁く書店に通って現物を見て、いい状態の本を手に入れた時のあの達成感はネットショッピングでは得られない。これぞ趣味人の拘りであろう。 また逆に仕事のために狙っていた切手のオークションを欠席せざるを得なくなり、落札するに十分と思われる値をつけたにも関わらず、手に入れることが出来なかったことに対してなかなか自分の中で折り合いのつかないケラーの姿も実に共感できる。 大枚をはたいて購入した後悔よりも手に入れられなかった後悔の方が鮮明に残るのだ。 失った金はまた働いて取り戻せばいいが、欲しいものはそれを手に入れるその瞬間というのがあり、それを逃すことが大いなる心残りになるのだ。コレクターとしてのケラーの心理は気に入った作家の本は最大限手に入れ読むようにしている私の心に大いに響いた。 そのせいだろうか、今回は以前にも増してケラーが切手にのめり込む描写が非常に多い。殺しの依頼も切手収集のついでになっている。もはや暮らすのに十分な金があるケラーにとってかつての生業だった殺しから切手収集がメインになって主客転倒しているのだ。 しかし殺し屋の話で始まったこのシリーズが切手収集がメインの話になろうとは誰が想像しえただろうか? 殺しを扱っているのに全く陰惨さがない、実に特殊なシリーズだ。 そしてその切手収集熱はやがてケラーから殺し屋稼業が潮時であると決意させるようになる。アウトローだった彼が妻と娘とリフォーム業と切手転売のサイドビジネスと安定を得た時、もはや彼には殺しをする理由が無くなっていた。 そんな矢先に最終話「ケラーの義務」では依頼が入ってくる。それは今までと異なり、ターゲットとなった少年を護るために依頼人を殺害すること。 それまで依頼の内容にはあまり興味を持たず、ターゲットがどんな人物であろうと仕事をこなしてきたケラーがターゲットに興味を持ち、そして護ることを決意する。それはターゲットの少年が切手収集を趣味にした非常に感じの良い少年だったからだけではないだろう。 ケラーは自分の仕事が終わった後、頭に残ったターゲットの肖像を徐々に小さくして芥子粒のように消し去ることで後腐れの無いようにする。それが殺し屋稼業という陰惨な仕事を続けられるコツなのだろう。 しかし今までのシリーズでも描写されているようにケラーにはどこか常人と異なる感覚がある。殺しの標的を人とみなさず、物として見るというか、感情はあるのだけれど自分に対して興味があり他者にはあまり興味を持たないというか、そんな感覚だ。 妻の助言で切手転売のサイドビジネスを始めてからはもはや殺し屋稼業よりもそちらの方に興味が大きく傾いてくる。それは趣味にさらにのめり込む環境が出来たこともあるだろうが、やはりこちらの方が安全な仕事であること、そして殺しのためにアメリカの各地に出張して家族と一時的に離れることが次第に辛くなってきたことだろう。ケラーの心の中に家族愛という新たな感情が芽生え、その領域がどんどん大きくなってきたのだ。 やがて登場人物たちのトーンも変化してくる。 ケラーの仕事を理解し、あまつさえ殺しをしてきた夫に欲情する変わり者でよき理解者である妻ジュリアは自分がケラーの手伝いをしたことで自分も殺しに加担した事実にショックを受ける。そしてケラーも次第に娘ジェニーに対する愛情が深まってくる。そしてドットとの会話の冗談にもケラーは反応が薄くなってくる。もはや奇妙でおかしな殺し屋コメディでは無くなっているのだ。 殺しを引退したケラーがどんな理由にせよ、ターゲットにアプローチしていく過程、そして依頼を達成するプロセスを書くことがもはやメインではなくなった証拠ではないだろうか。 ケラーの引退を示唆しながらアクロバティックな内容で再び呼び戻したブロック自身もこの先のケラーを描くことに迷った、いやむしろケラー自身が彼の中で動かなかったのかもしれない。 前作『殺し屋最後の仕事』がやはりこのシリーズの幕引きだったのではないだろうか。サブプライムローン問題という新たな経済危機がブロックの中にいたケラーを呼び起こしたのだろうが、本書に収められたケラーの姿を見ると、もはやそこには殺し屋ケラーの姿は薄れ、愛する妻と娘を持ち、切手収集を趣味にしたリフォーム会社の共同経営者ニコラス・エドワーズがいるだけだった。 どんなシリーズにも終わりはある。読者を大いに楽しませるシリーズならばその幕引きは鮮やかであるべきだろう。 本書は家族を持ったケラー=ニコラス・エドワーズのその後を知るにはファンにとってはプレゼントのような短編集だったが、かつてのケラーを期待するファンにとってはどこか物足りなく、そして痛々しさを感じさせる作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントルのノンシリーズである本書はKGB内で台頭する2人の実力者による暗闘を描いた作品だ。
昨日の友は今日の敵という言葉がぴったりのかつて親友同士で今や憎むべき相手となったヴィクトル・カジンとワシーリ・マリクがそれぞれ相手を破滅させようと陰謀を張り巡らす。 今までのフリーマントル作品と異なり、私にとってなかなか全体像が見えない作品だった。 たまたま一時帰国の休暇中で読書に適さない状況だったとはいえ、従来のフリーマントル作品よりも仄めかしや作戦の核心が曖昧に表現されているため、なかなか焦点が絞れないように感じ、非常にもどかしい読書になった。 KGBのCIAへスパイを潜入させるためにレヴィンを亡命させるが、事情を知らずに父親に反発する息子ピョートルが不思議と自分と重なった。 KGB第一管理本部アフガニスタン担当局長アガヤンス暗殺、ソ連の“スリーパー”、エフゲニー・レヴィンのCIA潜入計画、CIAソ連担当アナリストジョン・ウィリックの亡命計 画と3つの主流な作戦の中心にいるのがカジンであり、その裏にある彼の工作を見破ろうとするのがワシーリ・マリクとその息子ユーリという構図。 しかしカジンの策略によってワシーリはカジンの刺客パンチェンコによって交通事故死として暗殺されてしまう。そこからユーリの単独捜査が始まるわけだが、彼もまたKGBの描いた大きな構図の中に取り込まれてしまう。 しかし一方でソ連の壮大な計画、ソ連のスパイ、レヴィンをCIAへ潜入させる計画を理解できなかったレヴィンの息子ピョートルは最後FBIエージェントになることを希望する。 本書で描きたかったのはゴルバチョフ政権によって情報公開、民主化が進もうとするソ連、KGBの軋轢とそんな中でもソ連はしたたかに工作員をアメリカに潜入させている逞しさだったのか。 上に書いたようにフリーマントルにしてはサプライズも甘く、物語の焦点が定まらない作品であった。残念。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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介護という日常的なテーマを扱った本書で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した著者のデビュー作。新人とは思えぬ堂々の書きっぷりで思わずのめり込んで読んでしまった。
介護。 それは誰もが必ず1度は直面する問題で2000年に我が国も介護保険制度が導入されたが、今なお介護が抱える問題や闇は払拭されていない。 介護ビジネスと云われるように富める者と貧しい者が受けるその制度の恩恵に雲泥の差があるからだ。 資産を持つ裕福な者は高級な老人ホームに入り、24時間体制の厚い介護システムを受け、VIP待遇のように扱われるが、安い老人ホームは定員オーバーで入居待機を強いられ、場所によっては収容所のような環境で虐待もされているという。 さらにそこにも入れない日々の生活をぎりぎり行っている人たちは自宅介護で身のやつれる経験をし、いわゆる介護疲れで精神をすり減らし、明日の見えない日々を送らなければならない。 さらに介護ビジネスに携わる人々の環境も劣悪だ。人の身体を扱う重労働と長時間労働の上に手取りは少なく、今最も離職率が高い事業だと云われている。 本書にはそんな介護の厳しい現実がまざまざと突きつけられる。 作者はそれを介護サービスを施す側と受ける側にそれぞれ対照的な登場人物を配置して介護の厳しい現状を語る。 介護を施す側の人物は佐久間功一郎と斯波宗典。 佐久間はいわば介護ビジネス経営側の人間で政府が施行した介護保険制度の改正で軋みを立てるビジネス経営の苦しみの只中に立たされている。 一方斯波は現場サイドの人間で介護業が抱える苦しさと離職率の高さを実感している。 そしてサービスを受ける側の人間は大友秀樹と羽田洋子。 大友は有料の高級老人ホームの素晴らしさに感嘆し、介護ビジネスの光を垣間見るが、同様に法改正によって岐路に立たされている現実も知る。 羽田洋子は実母の介護で苦汁の日々を送るいわば典型的な介護疲れのロールモデルだ。 この離婚して実家に出戻りした羽田洋子の地獄のような介護生活の日々は最初に痛烈に印象に残る。 最初は帰ってきた娘と孫との暮らしを喜んでいた母親がふとしたことで怪我をして、寝たきり生活を余儀なくされる。次第に悪態をつくことが多くなり、そして認知症が進んで娘と孫すらも認識できなくなる。罵倒されながら実母の世話と糞尿の始末を負わされ、さらには昼夜仕事に出る洋子の生活は実に重く心に響く。 そしてこの介護老人連続殺人事件の真相を暴くのもまた大友秀樹だ。 彼は幼い頃から裕福な家庭で育った彼は性善説を信じる厚いクリスチャンでもある。しかし彼はその原初体験ゆえに人は誰しも罪悪感を抱き、改悛するものだと固く信じてやまない。逆に云えば己の考えが強すぎて融通が利かないとも云える。 一方彼の高校時代の友人佐久間功一郎は常に勝ち続けてきた男だ。 成績優秀、スポーツ万能、何をやらせても一流だった彼は常に人を見下してきた。勝てば官軍を信条とし、勝つためならば何をやってもいいと思っている男。介護事業のフォレストが社会的制裁を受けた時に顧客名簿を盗み出して振り込め詐欺産業に乗り出す。 この大友と佐久間はこの作品における光と闇を象徴している。 このように作者は色んな対比構造を組み込んで物語に推進力をもたらせている。 介護する側される側。 助かる者と助からない者。 富める者と貧しい者。 善人と悪人。 しかし究極の光と闇はやはり大友と<彼>である。これについては後に述べよう。 重介護老人を自然死に見せかけて計43人もの犠牲者を出した<彼> の所業を暴くプロセスが実に論理的だ。 本当のデータによる犯人の特定であった。これをデビュー作で既に独自色を出すとは恐るべき新人である 作者はこの作品を応募するにあたってかなりミステリを読み込み、研究していたように思える。 しかしこの物語は上に書いたように新人作家の一デビュー作であると片付けられないほど、その内容には考えさせられる部分が多い。 介護生活は今40代の私にとってかなり現実味を帯びた問題になっている。実際母親は更年期障害で入退院を繰り返し、義母に至ってはつい先月末に脳梗塞で倒れ、半身麻痺の状態で入院中だ。本書に全く同じ境遇の人物が出てきて私は大いに動揺した。 そう本書に書かれていることはもう目の前に起こりうることなのだ。 また介護制度のみならず、幼稚園の待機児童の問題もある。 なぜこれほど人々の生活を支援するシステムほど理想と現実がかけ離れているのだろうか。社会の歪みと云えばそれまでだがそれは実に曖昧で端的に切り捨てた言葉に過ぎない。 作中で登場人物が云うようにこの社会には穴が空いているのだ。もっと具体的に問題を掘り下げていかないと日本はどんどん廃れていくだけである。 高齢化社会と少子化問題。この2つは切っても切れない問題ではないだろうか。 日本は今自分で作ったシステムの狭間で悲鳴を挙げている。 果たして<彼>は悪魔だったのか天使だったのか。人を殺すという行為は最もやってはいけないことは解っていても心のどこかで<彼>の行為を認める私がいる。 羽田洋子の心の叫び、“人が死なないなんて、こんな絶望的なことはない!”は現代の医療やケアが向上したが故の延命措置のために犠牲となった人が誰しも抱く真の嘆きではないだろうか? もはや彼ら彼女らは生きていると云えるのだろうか? 実の子供すらも認識できず、罵倒さえする。そんな人たちに病気だから悪意で云っているのではないと自らに念じ、献身的に尽くす家族たち。これが介護ならまさに地獄だ。 そんな地獄に光明を授ける<彼>が名付けるロスト・ケア、喪失の介護、即ち日々の介護で心身をすり減らす人たちを介護の対象を葬ることで解放する介護。それは単なる恣意的な殺人であることは認めるが、それで救われる人が必ずいることは否定できない。 しかし一方で長く我が子を育てるために身を粉にして働いた親たちを自分たちの都合で葬っていいとも思わない。 ただそのために人の尊厳が失われていいとも云えない。 全てはバランスなのではないか。 誰かを生かすために誰かが必要以上に犠牲を強いられ、終わりなき日常に苦しめられる人がいるのなら、それを救済するのもまた必要ではないだろうか。 我々は人の命を重んじることで実はとんでもない過ちを犯しているのかもしれない。 人を殺すことは悪だと断じる大友も実は人を多く殺したから死刑を求刑する自分もまた間接的な殺人者であることを犯人に論破され、動揺する。つまり人を殺すことは悪い事だと云いながら、社会は治安を守るために殺人を行っているのだ。 しかしそれは必要悪だ。この世は単純に善と悪の二極分化では割り切れないほど複雑だ。 しかし実は自然でさえその必要悪を行っている。自然淘汰だ。自然は、いや地球は生態系を脅かす存在を滅ぼすような人智を超えたシステムによってバランスを保っている。 私は本書の犯人の行ったことは自然淘汰に似ていると思った。誰もが最低限の幸せな生活を送る権利があるが、それが実の両親もしくは義理の両親によって侵される人々がいる。 そんなアンバランスはあってはならない。それを生み出した日本のシステムを変えるために<彼>は制裁を行ったのだ。 東野圭吾氏の『さまよう刃』でも思ったが、人は殺してはいけないが死刑のように社会の治安を守る、つまりはシステムを維持するための必要悪としての殺人は存在しうるのではないのだろうか。 実に考えさせられる作品だった。日本の介護制度の想像を超える悪しき実態を知ってもらうためにもより多くの人に読んでもらいたい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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時空を超える相談屋ナミヤ雑貨店を舞台にしたハートフル・ストーリーで連作短編集のような体裁の作品である。
とにかくナミヤ雑貨店には色々な悩みが相談される。 勉強せずに百点を取る方法、ガメラはなぜ回って空を飛んでいるのに目を回さないのかと下らない物もあれば、当事者の人生を左右する悩み事まで様々だ。 オリンピック代表選手候補の女性が抱える、難病を患った愛する人を取るべきかそれとも代表選考合宿に臨んでそのまま走り続けるべきか。 ミュージシャンを目指して家業の魚屋を継がずに上京した息子は祖母の葬式で故郷に戻った際、父親もまた心臓を患い、体調が悪いことを知る。長く目が出ないミュージシャンの夢を絶って家業を継ぐべきかそれとも夢を諦めず続けるべきか。 妻子ある男性との道ならぬ恋に落ちた女性はその男の子を孕んでしまい、生むべきか中絶すべきか悩んでいる。かつてその女性は医者から子供を産みにくい体質だと云われていたが。 親の事業が失敗して夜逃げを計画している一家。しかし一人息子は環境の変化を嫌い、また社員を捨てて逃げ出そうとする親に嫌悪を抱いて付いていくべきか辞めさせるべきか悩んでいる。 社会人になったのはいいものの高卒女子では大した仕事を与えられないので水商売でスカウトされたところ、非常に有意義な仕事だと思ったのでどうやって穏便に退社できるか。 さらには何も書いていない白紙の手紙でさえナミヤ雑貨店は回答する。 特段変わった悩みではないが、誰もが自身もしくは周囲の人々の誰かが抱えている普遍的でかつ明確な回答を見いだせないものばかり。 物語は社会の脱落者である3人組の軽犯罪者がひょんなことから成り行きでそんな悩みに彼らなりのスタンスで回答していくものから、元々の被相談者である浪矢雄治自身の真摯に臨んだ回答まである。 3人組の回答は実にシンプルでそのあまりに明らさまで小ばかにした回答ゆえに相談者が憤慨する場面もあるが、逆にその率直さが相談者の迷いに踏ん切りをつけさせることにもなる。 しかし相談したからと云って解決するわけではない。作中浪矢雄治が述べるように、結局そのアドバイスを活かすのはその人自身なのだ。ただ聞いて安心しただけではなく、それをステップにして次にどうするか、もしくは意にそぐわなかった回答を発奮材料にしてどう困難に立ち向かうか、全てはその人たちの覚悟なのだ。 これまた作中の浪矢雄治の台詞になるが、基本的に相談事を持ち掛ける人は自分なりの結論を持っていてそれが正しいのか否かを後押ししてほしいからこそ相談する、つまり同意を求めているわけだ。 しかし案に反した回答、もしくは想像を超えた回答を浪矢氏もしくは3人組から貰うからこそそこにやり取りが生まれる。そしてそれがまた彼もしくは彼らにとってはやりがいを感じる。 元々の被相談者浪矢雄治は妻に先立たれ、生きる気力を失いつつあったところにひょんなことから子供の他愛ない相談に回答したことによってたちまち町の、世間の評判になり、週刊誌にも取り上げられ一躍ユニークな雑貨店として知られることになる。そしてそれは消沈していた雄治に生きる張り合いをもたらした。 一方しがない空き巣狙いを繰り返していた敦也、翔太、幸平の3人組はいわば社会の脱落者だ。彼らは誰からも必要とされず、むしろ見放されて生きてきたのだろう。 そんなときに偶然にも自分たちに相談を持ち掛ける手紙が迷い込んできた。それに応えることは奇妙なことに彼らにとって悪くない出来事になった。 つまり人は誰かに求められてこそ初めて生きる気力を持てるのだ。この4人に共通しているのはそれだ。 誰かを必要とし誰かに必要とされることで人は生き、また生かされている。だからこそ人生を有意義に送れるのだ。 そして相談者、被相談者が紡いだ思いは未来へ受け継がれる。 1章は現代の相談される3人の小悪党側から、2章では時空を超えて小悪党どもに相談を持ち掛ける側から、3章では元祖相談役の浪矢雄治側から、4章ではその浪矢雄治に相談した側が過去と現在にてナミヤ雑貨店を訪れ、そして最後は再び3人の小悪党の側から描かれる。 とにかく小憎らしいほど読者を感動させるファクターが散りばめられている。東野圭吾氏が本気で“泣かせる”物語を書くとこんなにもすごいクオリティなのかと改めて感服した。 上に書いたようにテーマが普遍的であり、読者それぞれに当事者意識をもたらせ、登場人物に自身を投影させる親近感を生じさせるからだろう。 そしてかつて『手紙』という作品では本来貰って嬉しい手紙が刑務所に服役中の兄から送られることで主人公の未来を閉ざす赤紙のような忌まわしい物に転じていたのに対し、本書では悩み事を記した手紙が人の心と心を繋ぎ、実に温かい物語になる。 映画『イルマーレ』も過去と現在の時空を超えた手紙のやり取りの話だったが、その要素を取り入れているからなおさらだ。読み終わった後、しばらくジーンとして動けなかった。 ちょうど今自身も公私に亘って難局に直面しており、叶うなら私もナミヤ雑貨店に色々相談したいとさえ思ってしまった。 とにかく語りたいエピソードの嵐である。が思いが強すぎて何を語ればいいのか解らない。それほど心に響いた。特に浪矢雄治の人柄が実に素晴らしく、なぜこの人はここまで人に対して興味を持ち、また真摯に向くことができるのだろうかと感嘆した。 またもや東野圭吾氏に完敗だ。しかもとても清々しくやられちゃいました。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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森作品ノンシリーズ2作目。中国とチベットの境だと思われる、何らかの意思によって作られた完全に独立したコミュニティを舞台にしたミステリ。
森氏独特の価値観が横溢したルナティック・シティの文化や価値観は我々の社会とは一線を画し、非常に興味深いものがある。 人口わずか300人で形成された100年都市。そのうち約半数は「永遠の眠り」に就いており、全てが自給自足で賄えられている。さらにエネルギーは100年前に開発された大型の自家発電設備によって満たされ、住民一人一人がそれぞれ役割を与えられている。 四方を高い壁に囲われた、明らかに人為的に作られた閉ざされたコミュニティに迷いこんだフリーライターと思しきサエバ・ミチルが事件の解決に乗り出すというのが本書の骨子だ。 死や殺人という概念のない世界ではいわゆる我々の社会における死というものが単なる永遠の眠りとされ、何年後かに復活するチャンスが与えられると信じられているため、彼らは全ての住民の亡骸を保存する施設を保有している。さらに死自体が事件ではないため、警察という機構を有さない。 さらには人を裁くというルールもない。コミュニティにいる医者も死因を突き止める役割は果たさず、永遠の眠りに就くための儀式を滞りなく行う、指導者のような立場に過ぎない。 さらに女王デボウ・スホは宮殿の部屋から出ず、女王の務めを果たすだけに存在する。しかも風貌は20代でありながら実年齢は52歳と最近よく話題になる美魔女でもある。彼女の若さの秘密は1年の半分を冷凍睡眠で過ごしていることであった。 しかし現在ならば前述のように案外自制して若さを保っている女性もいるので(20代の風貌はさすがにないが)、この秘密は時代を感じてしまった。 一方現代社会の象徴として異世界に送り込まれたサエバ・ミチルだが、彼の住む世界は我々の住む時代より先の2113年の設定になっている。 まず彼の相棒ロイディはウォーカロンと呼ばれる人型のアンドロイドで全く人間と変わらない風貌をしており、人間のサポートをする。外部との通信を果たすルーターでもあり、また人の言葉の記録をしたり、調べ物をしたりと、いわばスマートフォンのアンドロイド版のようなものだ。 またミチルが常時つけているゴーグルは今ようやく販売されたウェアラブル通信ツールであり、全ての情報はそのゴーグルを通じて検索され提供される。そして全てがデジタル化しているその世界では図書館というものはなく、書物はそれを好んで形にする人たちの記念品や贈答品としてしか存在しない。 いつもそうだが、2000年に書かれた本書で既にウェアラブル通信ツールや電子書籍の存在を予見しているのは改めて驚きに値する。 そのサエバ・ミチルが捜し求めているマノ・キョーヤという人物との関係が本書のサブストーリーとなっている。本書の冒頭では取材旅行で道に迷ったと述べているが、実は彼はマノ・キョーヤという探し人がいた。そして彼もまたルナティック・シティに迷い込んでいたことが判明する。 この謎めいた人物とミチルとの関係は意外にも物語の中盤で仄めかされる。 そして謎の騎士の存在。 馬に乗り、枯れた植物を寄せ集めたような衣装をまとい、黄色と黄緑色と紫色のリボンを身につけ、頭に2本の角と灰色の長い毛、赤いリングが幾重にも重なる手首に光る顔。ルナティック・シティにおいて見てはいけない、語ってもいけない不可侵の存在。このシティの秩序を管理する者として現れる。 この、完全に支配されたシステムを敢えて壊したくなるという衝動は一連の森ミステリの共通項だろう。 先に読んだ『そして二人だけになった』も全く同じ動機だった。完璧だからこそ壊し甲斐があり、また完璧の物が壊れる姿もまた完璧に美しいものだと思っていたのかもしれない。 思えば森氏は閉鎖された特殊空間で起きる事件を主に扱っていた。デビュー作の『すべてはFになる』然り、またその作品から始まるS&Mシリーズでも大学の研究室や実験室というこれもまたいわばそれを研究する者にとって恣意的に作られた空間である。 『有限と微小のパン』に出てくるユーロパークもまたそうであり、さらに『そして二人だけになった』のアンカレイジもそうだろう。 しかしそれらはまだどこか現代と地続きであったのだが、とうとう本書では2113年という未来を設定し、中国とチベットの辺りにある完全に秩序化されたルナティック・シティという世界を作り上げてミステリに仕上げた。これぞ森氏が望んでいた箱庭だったのだろう。 そしてこのルナティック・シティはまだまだこれから出てくる森氏が神として作り出した世界のほんの足掛かりに過ぎないことだろう。『笑わない数学者』で犀川が「人類史上最大のトリック……?(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)」と呟いたが、まさしく森氏は自身が神になることで最大のトリックを考案しようとしたのではないだろうか。 閉鎖空間、秩序、システム、そして崩壊が森ミステリの共通キーワードと云えよう。 あとはそれに読者がフィットするか否か。私はややピースとして当て嵌まらないようだった。 しかしそれもまた慣れるかもしれない。次の作品に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マット・スカダーシリーズ17作目の本書はなんと時代は遡って『八百万の死にざま』の後の事件についての話。
幼馴染で犯罪者だったジャック・エラリーの死についてスカダーが調査に乗り出す。マットが禁酒1年を迎えようとする、まだミック・バルーとエレインとの再会もなく、ジャン・キーンがまだ恋人だった頃の時代の昔話だ。 AAの集会で再会した幼馴染ジャック・エラリーの死にマットが彼の助言者の依頼で事件の捜査をするのが本書のあらすじだ。 マットは警察という正義の側の道を歩み、翻ってジャックはしがない小悪党となってたびたび刑務所に入れられては出所することを繰り返していた悪の側の道を歩んできた男だ。 かつての幼馴染がそれぞれ違えた道を歩み、再会する話はこの手のハードボイルド系の話ではもはやありふれたものだろう。そしてマットが警察が鼻にもかけないチンピラの死を死者の生前数少なかった友人の頼みを聞いてニューヨークの街を調べ歩くのも本シリーズの原点ともいうべき設定だ。 今回の事件は禁酒者同士の集まりAAの集会で設定されている禁酒に向けての『十二のステップ』のうち、第八ステップの飲酒時代に自分が迷惑をかけたと思われる人物を書き出し、償いをする活動がカギとなっている。ジャックがその段階で挙げた人物たちに過去の謝罪と償いをしていたことからそのリストの5人が容疑者として浮かび上がる。 しかし彼らの中には犯人がいないという意外な展開を見せる。 さらに容疑者の1人の元故買屋マーク・サッテンスタインが殺され、ジャックの助言者グレッグも殺される。マットはジャックの部屋から第八ステップで書いたジャックの全文を見つけ、ジャックがかつて行った強盗殺人の顛末とそこに書かれたE・Sなる相棒の存在に気付く。 そしてマットも意外な形で真犯人の襲撃に遭う。ホテルの部屋に戻るとそこにバーボン、メーカーズマークの瓶とグラスが置かれ、さらにベッドのマットと枕に同じバーボンがぶち撒かれ、部屋中一帯にアルコールの臭いが充満していたのだ。 禁酒1年目を迎えようとする直前でマットはまたもアル中になるのかと恐怖に慄く。禁酒中のアル中を殺すのに刃物も銃もいらないのだ。ただそこに強い誘惑を放つアルコールがあればいいのだ。 本書の原題である“A Drop Of The Hard Stuff(強い酒の一滴)”だけでも十分なのだ。 しかしなぜここまで時代を遡ったのだろうか? ブロックはまだ語っていないスカダーの話があったからだと某雑誌のインタビューで述べているが、それはブロックなりの粋な返答だろう。 恐らくは時代が下がり、60を迎えようとするマットがTJなどの若者の助けを借りてインターネットを使って人捜しをする現代の風潮にそぐわなくなってきたと感じたからだろう。 エピローグでミック・バルーが述懐するようにインターネットがあれば素人でも容易に何でも捜し出せる時代になった今、作者自身もマットのような人捜しの物語が書きにくくなったと思ったのではないだろうか。 しかしそれでもブロックはしっとりとした下層階級の人々の間を行き来する古き私立探偵の物語を書きたかったのだ。 それをするには時代を遡るしかなかった、そんなところではないだろうか? そして忘れてならないのは『死者との誓い』で病で亡くなったジャンとの別れの物語だろう。 お互い幸せを感じながらもどこかで負担を感じつつある2人。暗黙の了解であった土曜日のデートが逆に自由を拘束されるように感じ、デートに行けない理由を並べだす。これといった理由もないが、どこかで2人で幸せに暮らす情景に疑問を持ち、避け合う2人の関係。 大人だからこそ割り切れない感情の揺れが交錯し、そして決別へと繋がる。どことなく別れたジャンとマットの関係をきちんと描くのもまたブロックがこのシリーズで残した忘れ物を読者に届けるために時代を遡って書いたのかもしれない。 2013年からシリーズを読み始めた比較的歴史の浅い私にしてみても実に懐かしさを覚え、どことなく全編セピア色に彩られた古いフィルムを見ているような風景が頭に過ぎった。 私でさえそうなのだから、リアルタイムでシリーズに親しんできた読者が抱く感慨の深さはいかほどか想像できない。これこそシリーズ読者が得られる、コク深きヴィンテージ・ワインに似た芳醇な味わいに似た読書の醍醐味だろう。 物語の事件そのものは特にミステリとしての驚くべき点はなく、ごくありふれた人捜し型私立探偵小説であろう。 しかしマット・スカダーシリーズに求めているのはそんなサプライズではなく、事件を通じてマットが邂逅する人々が垣間見せる人生の片鱗だったり、そしてアル中のマットが見せる弱さや人生観にある。 そして物語に挟まれるマットが対峙した過去の事件のエピソード。そして最後のエピローグで本書の物語に登場した人物や店のその後がミックとの会話で語られる。それらのいくつかはシリーズでも語られた内容だ。 とりわけジャンの死は。 古き良き時代は終わり、誰もが忙しい時代になった。ニューヨークの片隅でそれらの喧騒から離れ、グラスを交わす老境に入ったマットとミック2人の男の姿はブロックが我々に向けたシリーズの終焉を告げる最後の祝杯のように見えてならなかった。 しかし私のマット・スカダーは終われない。『すべては死にゆく』を読んでいないからだ。 二見書房よ、ぜひとも文庫化してくれないか。私にケリをつけさせてくれ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のマクリーン。海外赴任先の書棚に眠っているこの作品を手に取ることができたのは実に奇遇と云えよう。
イギリスに流入する麻薬ルート殲滅のために国際刑事警察シャーマンがその源であるオランダはアムステルダムに潜入して捜査を行うというのがあらすじだ。 知っての通り、オランダはドラッグの使用が合法化されている。誤解をしないように説明するとあくまでそれはハシシやマリファナといったソフトドラッグに限られたことであり、ヘロイン、コカイン、モルヒネ、LSDといったハードドラッグについては規制がされている。 現在の法律の基礎となったオランダアヘン法の改正がなされたのは1976年。本書が発表されたのは1969年とあるから合法化以前の物語である。 しかしながら相変わらずマクリーンの文体は読みにくい。いきなり主人公シャーマンの長々とした不平不満の独白から展開する物語は、またもいきなり主人公が渦中に投げ込まれ、逃走劇から始まる。 彼の素性が解るのは導入部のチャプター1の終わり、20ページの辺りからだ。それまでは何の情報もなく、ストーリーが流れる。 これはアクション映画としての常套手段であり、実に映画的な作りであると云えよう。 さらにその後も場面展開が目くるめくように切り換わるがその内容も説明的でありながら光景を思い浮かべるのが困難で、やはりマクリーンは文章はあまり上手くなかったのではと結論せざるを得なくなった。 そしてやたらと美女が出てくるのは映画化を意識してのことだろうか。 まず主人公シャーマンの部下マギーとべリンダはそれぞれ黒髪と金髪の美人捜査官。そしてシャーマンの相棒だったジミー・デュクロの恋人アストリッド・ルメイもまたオランダ人とギリシャ人の混血美人。麻薬中毒者のファン・ゲルダーの娘トルディもまた人形のような美人。さらに教会の尼さんは美人揃いとどれだけファンサービスに努めるのかと思うばかり。 先に読んだウィンズロウの『ザ・カルテル』でもそうだったが、決して司法の側の人間がクリーンではなく、麻薬カルテルに買収された一味であるのはお約束のようだ。しかし同じ題材を扱いながら作品に籠る熱が全く違う。 『ザ・カルテル』は作者の麻薬社会に対する怒りの情念のようなものが文章から溢れんばかりだったが、マクリーンのこの作品は映画化を意識したかのようなスリルとサスペンスとアクションを盛り込んだエンタテインメントに徹している。 しかしサプライズを意識するあまり、読者は暗中模索の中で物語を読み進める。毎度のことながらこれが非常に気持ち悪くてなかなか没入できなかったのだが。 本書のようなヒーロー小説は主人公に共感できるか否かで読者の感想は全く異なってくる。 私はポール・シャーマンというこの国際刑事警察の捜査官は実に平板で深みを感じず、好きになれなかった。とても『女王陛下のユリシーズ号』など初期の作品で濃厚な人物像を組み上げた同じ作者とは思えないほどの薄っぺらさだ。 作品を量産する手法に気付いたベストセラー作家の作りの粗さに気付かされた作品だ。 私が好んで読んだマクリーンはここにはなかった。なんとも哀しいことだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ、Vシリーズとシリーズ作品を書いてきた森氏による初のノンシリーズ作品。
本州と四国を結ぶ明石海峡大橋をモデルしたと思われるA海峡大橋にある吊り橋のワイヤーを固定する地面に打ち付けられた巨大なコンクリート構造物アンカレイジ内に設えた極秘の居住設備≪バルブ≫で起きた連続殺人事件を扱ったミステリ。 閉鎖空間で1人、また1人と殺される、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に代表される典型的な“嵐の山荘物”だ。 しかも登場人物は主人公を含め、たった6人。しかも主人公2人以外は全536ページ中327ページ辺りで殺害されるという展開の速さ。正直残り200ぺージも残してどんな展開になるのかと変な心配をしたくらいだ。 そしてさらに388ページ目で外界への脱出に成功する。 正直ここからの展開は全く以て読者の予想のつかないところに物語は進む。 トリック自体はなかなか興味深いが問題はなぜこんなまどろっこしいことをしたのか? これに対しての解はまたも予想を超える。 殺人の動機について従来森ミステリは明らかにされない。それは殺すには理由があり、それは殺人者以外には理解しえぬことだというのが作者のスタンスだからだ。 本書もその例に漏れない。このあたりの人の命を単なるモノとしか見ない森ミステリの殺人者の傾向にいつも嫌気が差す。文学的な風合いを装った単なるエゴイストの詭弁に過ぎないではないだろうか。 さらに短文による改行の多い文章が途中続くが、それが逆に物語に大雑把な印象を与えている。 本書に登場する勅使河原潤も若き天才の有名人であるという設定であるが、納得のいかなさを天才であるが故の常人の理解を超えた動機と片付けられると少々、いや非常に雑な感じを受ける。 つまりそれでは実に幼稚な動機でも構わないとなってしまうではないだろうか。 本書はそれまでのシリーズ作品にもまして学術的記述が多く、特に森氏の専門分野である土木・建築関係の専門知識が多く盛り込まれているのが特徴的だ。私も一介の土木技術者であるので既知の物もあれば、巨大構造物特有の知識なども披露されており、非常に興味深く読んだ。 大きな橋を造ることは日本の土木技術の挑戦の証であり、更なる困難なプロジェクトを乗り越えるための礎になるのだ。そうやって日本の土木技術は発展したきたことを忘れていやしないだろうか。 もちろん、これはただのミステリであり、ある種技術者ならば一度は描く願望を描いた作品だということは恐らく作者の根底に流れていることは理解はできるが、やはりそれでも納得のいかない自分がここにいる。 全てがすっきり解決しないのが森ミステリの特徴であるが、動機、真相ともに実にすっきりしない作品だったことは非常に残念。 他の作品で森氏はミステリを舐めていると痛烈に批判する感想を目にしたが、本書はとうとう私にそう感じさせた作品として苦く記憶に残るものとなった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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