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Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数201

全201件 181~200 10/11ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
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No.21: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

「簡単な殺人法」は必読のエッセイ

東京創元社によるオリジナル短編集第2集。
収録作は「事件屋稼業」、「ネヴァダ・ガス」、「指さす男」、「黄色いキング」の短編4編にエッセイ「簡単な殺人法」。ベストは「ネヴァダ・ガス」、「簡単な殺人法」。以下、かいつまんで感想を述べる。

「事件屋稼業」はけっこう散文的な内容で、犯人はチャンドラーの定番ともいうべき人物。しかし、依頼を受けて最初に訪れたところに死体があるっていうのはもはやチャンドラーの物語のセオリーのようになってきている。殺す対象が違うような感じもし、犯人の動機もちょっと説得力に欠ける。ただ出てくる登場人物が全て特徴的。最初のアンナからジーター、アーボガスト、ハリエットにフリスキーとワックスノーズの悪党コンビ。そしてマーティー・エステルと、一癖も二癖もある人物が勢ぞろいだ。この作品からプロットよりも雰囲気を重視しだしたのかもしれない。

「ネヴァダ・ガス」は他の短編に比べ、いきなり毒ガス車で人が処刑されるシーンという読者を惹きつける場面から幕が開けるのがまず印象深い。この導入部はハリウッド・ムービーを想起させる。この時既にチャンドラーはハリウッドの脚本家として働いていたのだろう。

「黄色いキング」のレオパーディ殺害の真相は、ちょっとアンフェア。もうちょっと何かがほしかった。レオパーディの造形は良かったが、ちょっと物足りない。
ただ1つ印象に残った文章があった。
「(スパニッシュ・バンドが低く奏でる蠱惑的なメロディは、)音楽というより、思い出に近い」
音楽に関して時折感じる感傷的なムードをこれほど的確に表した表現を私は知らない。どう逆立ちしても思いつかない文章だ。

歴史に残る名エッセイは何かと問われれば私はこの「簡単な殺人法」を挙げる。これはチャンドラーが探偵小説に関する自らの考察を述べた一種の評論。論中で古典的名作を評されているA・A・ミルンの『赤い館の秘密』、ベントリーの『トレント最後の事件』、その他作家名のみ挙げた諸作についてリアリティに欠けるという痛烈な批判をかましている。
その前段に書かれている「厳しい言葉をならべるが、ぎくりとしないでほしい。たかが言葉なのだから。」という一文はあまりにも有名。
本論では探偵(推理)小説とよく比較される純文学・普通小説を本格小説と表現している。そしてこの時代においては探偵小説は出版社としてはあまり売れない商品だと述べられており、ミステリの諸作がベストセラーランキングに上がる昨今の状況を鑑みると隔世の感がある。
チャンドラーはこの論の中で、フォーマットも変わらぬ、毎度同じような内容でタイトルと探偵のキャラクターである一定の売り上げを出す凡作について嘆かわしいと語っている。しかし私にしてみれば、チャンドラーの作品もフォーマットは変わらず、探偵や設定、そして微妙に犯行内容が違うだけと感じるので、あまり人のことは云えないのでは?と思ってしまう。
またセイヤーズの意見に関して同意を示しているのが興味深い。その中でチャンドラーは傑作という物は決して奇を衒ったもの、人智を超えたアイデアであるとは限らず、同じような題材・設定をどのように書くかによると述べている。これは私も最近、しばしば感じることで、ミステリとはアイデアではなく、書き方なのだと考えが一致していることが興味深かった。
最後に締めくくられるのは魅力のある主人公を設定すれば、それは芸術足りえる物になるという主張だ。そこに書かれる魅力ある主人公の設定はフィリップ・マーロウその人を表している。その是非については異論があろうが、間違いなくチャンドラーはアメリカ文学において偉大なる功績を残し、彼の作品が聖典の1つとなっていることから、これも文学の高みを目指した1人の作家の主義だと受け入れられる。つまり本作は最終的にはチャンドラーの小説作法について述べられているというわけだ。

本書はこの「簡単な殺人法」を読むだけでも一読の価値がある。世のハードボイルド作家はこのエッセイを読み、気持ちを奮い立たせたに違いない。卑しい街を行く騎士など男の女々しいロマンシズムが生んだ虚像だと云い捨てる作家もいるが、こんな現代だからこそ、こういう男が必要なのだ。LAに失望し、LAに希望を見出そうとした作家チャンドラーの慟哭と断固たる決意をこのエッセイと収録作を読んで感じて欲しい。

チャンドラー短編全集 事件屋稼業 (創元推理文庫)
No.20: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

文章が心に響く!

『大いなる眠り』、『さらば愛しき女よ』と続いたフィリップ・マーロウ3作目の本書は一転して地味で素っ気無い題名。題名というのは読書意欲を喚起させるファクターとして私は非常に大事だと思っているのだが、文豪チャンドラーの作品とは思えないほど、飾り気のない題名はちょっと残念。

マーロウは盗まれた時価1万ドルと云われる初期アメリカの古銭を探してほしいという依頼を受ける。それはマードック夫人の亡き夫の遺品であり、夫人は息子の嫁で歌手のリンダが盗んだと疑っていた。
事務所に戻ると夫人の息子レズリーがいた。レズリーは妻のリンダのかつての勤め先のナイトクラブのオーナーに借金があり、金に困っていたと話す。マーロウはリンダを探しにそのクラブに行くが、オーナーはおらず、リンダの友達だったその妻と逢う。
さらにマーロウは自分を尾行している探偵フィリップスに気づく。彼はコイン商に雇われていた。彼の話では件のコイン商が所有しているとの事で、マーロウはコイン商に逢い、1万ドルで買い戻す取引をする。
マーロウが金を取りに行く途中でフィリップスのアパートに立ち寄るとそこには彼の死体が転がっていた

と、この話は抜き出してみても非常に人が入れ替わり立ち替わりして、訳が解らなくなる。一体この小説のメインプロットは何だったかと、読者は困惑することだろう。要約すれば盗まれたコインを探すうちに、容疑者であるリンダを捜索を端緒に調査を始めると、件のコインに関係する人々が次々に殺され、依頼人に纏わる秘密が浮き彫りになるという内容だ。
しかしチャンドラーは雰囲気で読む作品だ。例えばこんな文章にハッとさせられる。

「家が視界から消えるにつれて、私は奇妙な感じにとらわれた。自分が詩を書き、とてもよく書けたのにそれをなくして、二度とそれを思い出せないような感じだった」

こんな経験は誰でもあるのではないだろうか?こういう言葉にしたいがどういう風に言い表したらいいのだろうかともどかしい思いをチャンドラーは実に的確に表現する。
詩的なのに、直情的。正に文の名手だ。

本作では依頼人の秘書のマールと運転手のキャラクターが鮮烈な印象を残す。 特にマールの存在については現在にも繋がる問題として、読後しばらく考えさせられてしまった。金満家の未亡人の世間知らずな側面が招いた悲劇を描いたこの作品はロスマクにも影響を与えているのではないだろうか。

高い窓
レイモンド・チャンドラー高い窓 についてのレビュー
No.19: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

フィリップ・マーロウ登場!

チャンドラーを読んだのは社会人になってからだった。学生の頃、私は敢えて読むのを避けていた。ある程度社会に揉まれてからでないとその面白さが解らないと思ったからだ。
学生の頃、ふいに目覚めたミステリへの興味は尽きることなく、島田荘司を足掛かりにしてその後新本格1期作家から派生していき、やがてガイドブック、『このミス』を片手に自分のミステリの幅を広げていった。そしてどのガイドブックにも書かれているのはハードボイルドというジャンルにおいてハメット、チャンドラー、ロスマクの御三家の名だ。特にチャンドラーの評価は三者の中でも広範囲の書評家に賞賛され、代表作とされる『長いお別れ』は早川書房から当時出ていた『ミステリ・ガイドブック』のオールタイムベストの人気投票で2位か3位に位置していた。
そんなことから社会人になったらチャンドラーを読むぞ!といつの間にか自分の中で目標が出来てしまった。しかし最初に手に取ったのは本書ではなかった。それは『長いお別れ』だった。この辺の経緯については語ると長くなるので、また後日語ることにする。
通常ならば読んだ順に感想を語るのが普通だが、私が読書メモを書く前に読んだ本に関する感想はその本に纏わる私の追想も混じっているので、順番自体に特別に意味はない。従って刊行順に即してチャンドラー作品の感想をこれから述べていきたいと思う。

この『大いなる眠り』はチャンドラーの長編第1作でハンフリー・ボガード主演で『三つ数えろ』という題名で映画化もされた。
既に有名な話だが、チャンドラーはこの『大いなる眠り』を著わす前に既に『ブラックマスク』誌などに短編の数多く発表しており、ほとんどの長編はそれら短編を原型にして組み合わせたような作り方になっている。従って、事件の途中でマーロウの捜査対象が変わり、寄り道をしているようで、その実、最後には最初に追っていた事件と繋がり、関係者に苦い余韻を残して事件が閉じられるというパターンになっている。
またこれらの短編にもマーロウは登場するが、これは後年チャンドラーが主人公をマーロウに書き換えたものだ。従って本書がフィリップ・マーロウ初登場作品である。つまり本書に描かれたマーロウこそ、当初からチャンドラーが構想していた“卑しき街を行く騎士”なのだ。

冒頭の一節からチャンドラーの本作に賭ける意気込みがびしびしと伝わってくる名文が織り込まれている。丘の上に立つ富豪を訪れるマーロウのちょっと緊張気味の仕草などは後のマーロウからは見られない所作で初々しさすら感じる。
端的にいえば金満家の娘に訪れたスキャンダル処理を頼まれたマーロウが自分の納得行くまで調査を行う物語。
ストーリーは難解(というよりも捻くり回されている?)でボガードが原作を読んだ後、「ところで殺したのは誰なんだ?」とぼやいたのは有名な話だ。

本作はアメリカの富裕層の没落を犯罪を絡めて描き、一見裕福に見える家庭が豊かさと幸せを履き違えたために招いた悲劇を卑しき街を行くマーロウという騎士が、自嘲気味の台詞を交え、自身の潔白さをかろうじて保ちながら浮き彫りにしていく。このフィリップ・マーロウ第1作にその後ロス・マクドナルドが追究するテーマが既に内包されている。
私はハヤカワミステリ文庫の清水訳を読んだ後だったので、本書で初めて接した双葉氏の訳は新鮮だった。個人的には清水氏よりもこちらの方が好きだ。

この作品で登場した時のマーロウは33歳。この時代の33歳と現代の33歳では明らかにその成熟さは異なる。なぜなら時代の不便さと治安の悪さゆえに、男が社会で生きていくことの厳しさが違うからだ。それは後年チャンドラーのあの有名な台詞でも証明されている。
そしてその戦いに疲れた男は題名が示す「大いなる眠り」に就くのだ。
ミステリにリアリズムを持ち込み、ハードボイルドという新しいジャンルを確立したのがハメットならば、それを文学に押し上げたのがチャンドラーだ。本書を読んだ後、しばらくの間、書く文章がことごとくなんだか皮肉めいて、そして比喩が多くなった。この偉大なる文豪はそんな風に僕にかなり大きな影響を与えている。

大いなる眠り (創元推理文庫 131-1)
レイモンド・チャンドラー大いなる眠り についてのレビュー
No.18:
(8pt)

内なる獣が目覚める男の物語

ハヤカワ・ミステリ文庫で出版されているレナード作品はこれと『ラブラバ』の2作しかないが、後者はMWA賞受賞作であり、その頃流布していた各種ミステリ・ガイドブックにはレナードの代表作として必ずといっていいほど、『ラブラバ』が取り上げられていた。
『ムーンシャイン~』から『野獣の街』、『スプリット・イメージ』と立て続けにレナードの痛快クライム・ノヴェルを読んで、さらにこの上があるのかと期待が高まる中、その前に文庫の背表紙番号の若い順ということでこの作品を読んでみた。

浮気の一部始終を撮られたフィルムをネタに実業家のハリーは強請りを受けるが、断固として拒否する。しかし脅迫者は強請りの手を緩めず、それは次第にエスカレートしていく。苦悩するハリーはしかし、自分の中で何かが目覚めるのに気づく。

結論。面白い!非常にわかりやすいストーリーで非常に気持ちがいい。こちらも初期の作品で主題がはっきりしており、しかも展開がスピーディかつ荒々しさを備えている。
特に当初浮気がバレて恐喝される冴えない中年男だった主人公が昔、戦争時にパイロットだった時の狼の牙を思い出して、逆に恐喝者たちを返り討ちにしようとするプロットは、よくある話だけれども非常に胸の空く展開だ。
この主人公ハリー・ミッチェルに私は「結婚したマーロウ」という感慨を抱いた。
被害者が必ずしも弱いわけでなく、誰もが隠れた牙を持っているのだとレナードは示したかったのか。それとも被害者ハリーの戦争体験が彼の行動原理となるあたり、当時まだヴェトナム戦争の翳が覆っていたアメリカの狂気がレナードをしてハリーという男を生み出させたのか。
表紙にヌードの女性をあしらっているのは本書に出てくる情事のフィルムの一場面を切り取っているかのようで、それが視覚的効果を高めている(決して表紙が裸の女性だからいいという意味ではない)。

しかしレナードの作品はハリーという名前の男が多いな・・・。

五万二千ドルの罠 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エルモア・レナード五万二千ドルの罠 についてのレビュー
No.17:
(8pt)

レナードらしからぬストレートな語り口。しかし面白い!

レナードのデビューはクライムノヴェルではなく、実はウェスタン小説。本書はその頃に書いたウェスタン小説の一部だが、意外と、いやすごぶる面白い。

物語の舞台は禁酒法統治下のアメリカ。
幻の密造酒を巡って禁酒法取締官、密売人、そして禁酒製造者たちの戦争が始まる。

レナードの作品は読者が予想もしないストーリー展開と、実在するかのごとく「生きた」登場人物と彼ら・彼女らの会話の妙というところにある。これについては後々もっと詳しく語りたいと思う。
しかし初期の作品である本書はストーリーが一直線に進む。すなわち悪人登場、嫌がらせが行われ、彼らとの対決に向け、じわりじわりと雰囲気が盛り上がり、やがて闘争へ・・・。
登場人物たちは起こるであろうゼロ時間に向けて、それぞれの信条、恨み、怒りを募らせ、突っ走るだけだ。これが非常に小気味よかった。シンプルなだけに解りやすく、また初めて読んだウェスタン小説という珍しさも手伝って、予想外に面白く読めた。

さて本書の題名になっているムーンシャインだが、これは禁酒法取締官に見つからないように密造者が月明かりの下で蒸留酒を作っていたことから、そのお酒を称した呼び名である。そして密造者はムーンシャイナーと呼ぶ。なんとも詩的な表現ではないか。やっていることは当時の法律に照らし合わせれば犯罪なのだが、闇夜に紛れて作る酒という無骨な物にこんなにロマンチックな呼称を付けるアメリカ人の稚気と心意気に乾杯したくなる。

この評価はこの前に読んだ『マイアミ欲望海岸』、『ザ・スイッチ』が個人的には不評だったことで、レナードに対する期待値が下がった上での意外性というのも多分に加味されているだろうけれど、そんな西部時代の男のロマンがピリッと織り込まれた薀蓄も面白く、また酒好きにどんな味なのか想像を掻き立てさせるレナードの密造場面の描写も加え、本書は数あるレナード作品でもお気に入りの部類に入る。
数年後、レナードは『ホット・キッド』という新たなウェスタン小説を発表する。これも実に面白く読めたが、ラストはやはりクライムノヴェルのレナードらしく、予想もしない捻った結末だった。翻って初期の本書はラストも鮮やか。個人的には逆にこの頃のレナードを取り戻してほしいなぁと思ってしまった。

ムーンシャイン・ウォー (扶桑社ミステリー)
No.16:
(8pt)

最強の間男

私とレナードとの出会いは特別な物があったわけではなく、海外ミステリを多数取り扱っている東京創元社、早川書房のミステリ作品に触れたので、次にその頃、どんどん海外ミステリの新刊を出していた扶桑社のミステリーにも手を付けるかということで、『このミス』の過去のランキング作品の作家名と文庫目録を眺めていて、目に付いた作家がレナードだったという実に単純な動機による。
私がレナード作品を読もうと思った95年ごろは既にレナードは文藝春秋を中心に各社がどんどん翻訳出版を行っており、ちょっとしたブームになっていた。しかし、この『キャット・チェイサー』という題名の本は当時はもとより、今でも各種のミステリガイドブックの類いでその名が挙げられることもなく、またなんとも珍妙な題名―なんせ「猫追跡者」である―から、全く食指をそそられなかった。

主人公はマイアミでホテルを経営するモラン。彼は昔、題名の基になっている海兵の特殊部隊、通称「キャット・チェイサー」に所属していた。隊員時代、彼はサント・ドミンゴのゲリラ戦に参加した際、少女兵士に狙撃され、止めを刺されずに見逃された経験があり、それがトラウマとなって夜な夜な夢に見て、苦しんでいた。この悪夢を克服するため、モランは彼の地に訪れることを決意するが、その際、かつての同僚が流れ者としてホテルを訪れたのが気に懸かっていた。そして訪れたサント・ドミンゴではかつての恋人と再会する。かつての想いが再燃し、二人は関係を持つが、それが災厄の始まりだった。

率直な感想を云えば、本書は面白かった。予想外に展開するストーリーが全くページをめくる手を休めず、どんどん先が気になって読み進んでいった。上に書いているようなストーリーだと、てっきり悪夢の地で落ち合うのは少女兵士の成長した姿であり、それが見違えるほど美人なって、悪夢の対象に惹かれる自分に気づく、という展開が考えられ、しかもそういう展開も非常に面白いのだが―なんせかつての元凶が恋の相手になるんだからね!―レナードはそんな方法は取らず、なんとそこでかつての恋人との再会と恋の再燃を演出し、その夫による脅迫劇に転じるのだから、いやはや参るね。
どのように自ら蒔いた災厄をいかに乗り切るかがストーリーの主眼になる。通常一般小説ならばこのような間男というのは非常に情けなく、泥臭く立ち回り、そういうダメ男の苦悩とか悪あがきが読者の共感を得たりもするのだが、なんせ間男モランは特殊部隊出身だから、肝は据わっており、しかも凄腕。こういうところが非常に面白いのである。
結末は実に皮肉。最初に読んだ時はなんとも痛快なコン・ゲームを読んだ爽快感を感じたが、今なおレナードを読んでいる身にしてみれば、これは典型的なレナード作品だったなぁと思う。しかしレナードという作家を知るには本作は取っ掛かりとして非常によかったと思う。

しかし元兵士のトラウマというテーマを扱いながら、それはあまり重視されず、記憶に残るのは中南米のひりつくような暑さとマイアミの常夏の中で非常に緩やかに展開される物語だ。この南部小説とも云うべき犯罪者達のどこか明るいやり取りがレナードの持ち味だと気づくのはこれ以後、巻を重ねるにつれて解ってるのだが、このときはまだそんなことは全く考えもしなかった。

キャット・チェイサー (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)
No.15: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

新聞の三行記事の裏側を描いた佳作

第2回日本推理サスペンス大賞受賞作。ちなみに第1回は受賞作は無しで優秀賞で乃波アサ氏が、続く第3回は高村薫氏が受賞している。このメンバーを見ても解るように新潮社主催で行われていたこの新人賞は現在でも第一線で活躍する作家を多く輩出しており、たった七年という短命な賞であったがその功績は非常に意義高い。
第1回では大賞無しという結果だったので、実質的に本作が大賞第1作目となるが、その栄誉に恥じない出来である。

都内各所で起こる女性の3件の自殺事件。一見何の関係もないそれらの死には実はある関係が隠されていることをある女性は知っていた。そして次のターゲットが自分だということも。
その3つの死の1つ、女性の飛び込み事故で加害者となったタクシー運転手の甥、日下守は微力ながら叔父を助けるべく、独自に事故の調査をしていくうちに真相に近づいていく。

なんとも地に足のついた小説だというのが第一の印象。通常新聞で三行記事として処理される瑣末な女性の自殺事件、そして交通事故。毎日洪水のように報道される数多の情報に埋没されてしまう事件はしかし、当事者には暗い翳を落とすのだ。たとえ事件が解決されても、適切に処理されても被害者、加害者の双方には一生消えない心の傷を残す。そんな誰もがいつ陥ってもおかしくない状況を一般市民の、当事者の視座から宮部氏はしっかりと描く。
私が感心したのはこの書き方だった。本格ミステリでも事件が起きる。死人も出るし、魔法で成されたとしか思えない不可解な状況での死体も出る。そこに警察が介入し、登場人物は予定を変更され、警察に拘束された毎日を過ごすはめになる。しかしそれらはどこか絵空事の風景としてか捉えることがなく、現実味に乏しかった。なぜなら本格ミステリそのものが読者と作者との知的ゲーム合戦の色合いを持っているからだ。だから読者は「そのとき」が起こった後に及ぼす当事者の状況には忖度しない。犯人と殺害方法が判明し、警察が逮捕されて事件は解決、そこで物語が閉じられるのがほとんどだからだ。
しかしこの小説は事件は普通によくある交通事故。その事故が及ぼす当事者達の生活への影響などを克明に書く。そのため、作中で起きている状況が読者の仮想体験として感じさせ、現実感が非常に色濃く出ているのだ。

それに加え、主人公を務める日下守という少年の造形が素晴らしい。幼い頃に父親が失踪―昔流行った言葉で云うならば“蒸発”―し、その影響で亡くなった母親の姉に引き取られることになったという境遇にある。しかも父親は会社の金を持ち逃げしたという噂があり、周囲からは「泥棒の子供」だと揶揄されているという、なんともつらい生活を送っている少年なのだ。が、しかし彼はそんな状況にも負けないタフなハートを持っており、おまけに特殊な特技を持っている。ネタバレにならないのでここで書いてしまうが、それは開錠の技術である。「おじいちゃん」から小さい頃に教えてもらった技術だが、これが実に物語に有機的に働く。この技術が日下少年に他人とは違うという自信を持たせ、さらにこれらの不幸な境遇が周囲の子供らよりも一段大人びた性格を持つに至ったという人物設定は非常に頷けるところがあり、もうこの日下少年という主人公だけで、私の中では本書は傑作になると確信していた。

が、しかしその後物語は私の思惑とは意外な方向に進む。
このギャップが私の中ではとても気持ち悪く、それが故に本書は佳作という評価に落ち着いてしまった。
確かに作者はこの突飛な技術を読者に納得させるように活用法に工夫を凝らし、詳細に説明を加えて、納得させようとしているが、物が物なだけになかなか現実感を伴って腑に落ちてこなかった。したがってクライマックスに訪れる日下少年の試練もまた深く心に浸透してこなかったのが非常に残念である。

さて発表から20年経ち、科学の発展と共に色んなことが解明され、新事実も発見されているが、果たして今本書を読んで手放しで賞賛できるかといえばそうとは思えない。それはやはりこの小説が備えている前半の現実感と後半の非現実感の乖離ゆえに。
ただしその一点は致命傷ではないようだ。なぜなら数十年経った今なお、本書は版を重ねて出版され、しかも新装版まで出版されているくらいだからだ。つまりは単に好みの問題ということだ。
『パーフェクト・ブルー』、『我らが隣人の犯罪』と比べてもその出来は数段よいことから、本書から宮部みゆきの今が始まったと云っても過言ではないだろう。


▼以下、ネタバレ感想
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魔術はささやく (宮部みゆきアーリーコレクション)
宮部みゆき魔術はささやく についてのレビュー
No.14: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ミステリ初心者にうってつけの短編集

宮部氏はデビュー当時、出版各社の開催する新人賞を複数受賞しており、一体どれが実質的なデビューなのか迷うところがある。
いわゆる一作家として作品が単独で刊行されたのは『パーフェクト・ブルー』が最初であるが、それ以前にオール読物新人賞の短編部門を本書に収められている表題作にて受賞しており、実質的なデビューはこの作品と云われている。
しかしその後『魔術はささやく』で当時新潮社が開催していた日本推理サスペンス大賞を受賞して、これが世間的認知度が高かったことから、『魔術~』をデビュー作だと思っている人が多いくらいだ。実力のある人というのはこのようにあらゆる賞を獲得する物だから非常にややこしくなっている。
とまあ、好事家的な詮索はこれくらいにして、本書の話題に移ろう。

本書には5編の短編が収録されている。
受賞作である表題作が最も長く、個人的にはそれほど評価は高くない。世間の評判どおり、私もこの短編集でベストなのは『サボテンの花』。
いやあ、学校物に弱いのもあるが、実に教科書的な本格ミステリ的物語に加え、最後にホロリとさせる人情話がマッチして、今でも強く印象に残っている。ちなみに私は某雑誌の投稿欄に宮部氏の最も好きな作品でこの短編を取り上げ、一行感想を書いて送って採用されたことがある。
その他の作品で印象に残ったのは『気分は自殺志願』くらいか。これはストーリーやプロットそのものよりも味覚障害という残酷な症状に冒された登場人物が鮮烈に記憶に残っている。私自身、おいしい物を食べることに目がなく、なんと恐ろしい病気だろうと恐怖に震えたものだ。
その他「その子誰の子」は当時ちょっと話題になった社会問題を反映した内容。
「祝・殺人」は最後のバラバラ殺人の意図がちょっと面白いとは感じたが、普通のミステリか。この理由に使われているあるシステムは当時精力的に導入され始めていたのだろう。そういう観点から読むと、当時の世相を反映していてなかなか興味深い。

当時私は事ある毎にこの本を勧めていた。しかし推薦する対象は読書好きの人ではなく、普段本を読まなくて、読書でも始めようかと思っている人たちだ。
「暇だから本でも読もうと思うんだけど、何か面白い本ない?」
と聞かれるたびにこの本を勧めていた。中には一緒に書店に行って買ってやった人もいる。それくらいミステリの布教活動に勤しんでいた時期があったのだ。
この本はそういう読書初心者、ミステリ初心者には入門書として内容の軽さといい、読みやすさといい、まさにうってつけの作品だった。今振り返って見ると、なんと刊行は1990年、文庫版は1993年だからもう20年近く前の作品だから、今では勧めるには古さを感じるかもしれない。
あ、ちなみに勧めた人たちは全部女性です、念のため。

我らが隣人の犯罪 (宮部みゆきアーリーコレクション)
宮部みゆき我らが隣人の犯罪 についてのレビュー
No.13:
(8pt)

次回作を大いに期待したい佳作

美術学芸員クリス・ノーグレンシリーズ3作目にして今のところ最終巻。
今回の舞台は芸術の国フランス。よくよく考えると絵画をテーマにしたミステリで舞台といえばすぐにフランス、パリという図式が思い浮かぶが、3作目でようやく登場というところが意外といえば意外。まあ、深い意味は無いんだろうけど。

さて今回もなんとも面白いシチュエーション。クリスの勤めるシアトル美術館にフランスの画商ヴァシィがレンブラントの絵を寄贈するという申し出があった。しかし真贋鑑定の科学的検査はしないこと、そして美術館の目立つところに「レンブラント作」として展示することという非常に悩ましい条件が付けられていた。
こんな面倒な仕事が回ってくるのがクリスで、彼はこの申し出のためにフランスに飛ぶが、やはりそこでも殺人事件に巻き込まれるというお決まりのパターン。
御決まりなのだが面白いのがこの作家の作品のいいところで、今回は美術に造詣の深い作者ならではの仕掛けが散りばめられている。

まず画商ヴァシィの人となり。魅力的なキャラクターはエルキンズの専売特許だが、これがけっこう問題児で、腕はいいが今まで色んな騒動を起こしてきた人物だというところ。そんな人物が、真贋鑑定はしてはいけない、一番目立つところに作者名付で飾れというのだから、信頼していいのかどうか非常に不安なところ。もし贋作だった場合は真贋を見極められなかった美術館の沽券にも関わり、評判も落とすから、こんな危ない橋は渡りたくないというのが正直な気持ちだが、集客力の強いレンブラントの作品を、無料で頂けるのは美術館としても魅力的なわけでなんとも判断に困るというのが容易に窺える。
さらに今回作者が上手いのは寄贈する作品の作者をレンブラントにしたところにある。と、さも私が美術に精通しているように書いているが、実はこの作品にこのレンブラントの作品を扱う際に陥りがちな罠について述べてあるので、そっからの受け売り。
本書にも書かれているが、レンブラントは実は工房を持っており、弟子達が師匠レンブラントの技法を真似して書いた作品が多々あり、しかもその作品にレンブラント本人がサインまでしているので、非常に真贋が見極めにくい画家だというのだ。だから世に蔓延っているレンブラント作と冠された絵画は到底レンブラント1人が一生に描ける分量をはるかに超えているらしい。こういう薀蓄は堪りませんね。
まあ、そんな背景を見事ストーリーに溶け込ましてヨーロッパ美術の歴史の暗部も盛り込みつつ、読み終わった時にはなんだかいっぱしの美術通になった気がした。
本書はミステリの部分よりもやはり薀蓄やその辺のサブストーリーが琴線に触れたので、ちょっと評価は高くなっている。

さて冒頭に述べたように本書を最後にこのシリーズは続編が書かれていない。その後別の主人公を使って『略奪』という邦題の美術ミステリを発表したがこちらは本格ミステリ風味が薄れ、サスペンス色が濃くなっており、既出のクリスシリーズのイメージが先行して、なんともちぐはぐな印象を受けた。
美術、絵画をテーマにした作品となると、ナチスによる掠奪品、贋作疑惑、盗難事件と意外にヴァリエーションは少ないと思われるが、私が読んでいたマンガ『ゼロ』はそんな制約の中で多数物語を発表しているので、アイデア1つで面白く書けそうな気がする。
もしエルキンズがこのシリーズをもう1作書くとしたら、例えば日本の浮世絵を扱ったミステリを書くなんて、非常にワクワクするのだが、どうだろうか?


画商の罠 (ハワカワ文庫―ミステリアス・プレス文庫)
アーロン・エルキンズ画商の罠 についてのレビュー
No.12:
(8pt)

絵画の蘊蓄満載!

アーロン・エルキンズはスケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズが有名だが、実はもう1つシリーズ物がある。美術館学芸員クリス・ノーグレンシリーズである。
一方は骨の鑑定家、もう一方は学芸員と全く毛色の違う2つのシリーズだが、双方比べても質が同じであるのはこの作家のすごいところ。このシリーズでは美術に関する専門的な知識、トリビアがふんだんに盛り込まれ、知的好奇心をくすぐる内容が横溢している。

クリスはベルリンに出張している上司に呼び出され急遽彼の地に飛ぶことに。ベルリンの美術館で開催される「ナチ略奪名画展」の作品の中に贋作が含まれており、それを見つけ出すようにというのが出張の目的だった。調査の中、しかしその上司は殺されてしまい、クリスも事件の渦中に引きずり込まれてしまう。

西洋美術に第2次大戦中のナチスの美術品強奪が絡むのはミステリの題材としては非常に魅力的であるのだろう。そしてシリーズ第1作目としてこの歴史的事実と贋作という美術ミステリには無くてはならない題材を絡めたのは作者のシリーズに対する創作意欲と固定ファンを掴むための宣伝効果双方によるものだと思う。
で、このシリーズで主人公を務めるクリスは全くギデオンとは違うキャラクター。ギデオンが妻ジュリーといつも仲睦まじいのに対し、クリスは妻と離婚寸前という情けないキャラクター。しかも人使いの荒い上司へのグチも云う。が、なぜか女性にモテるという面白いキャラクターであり、非常に人間くさくて私は好きな主人公だ。
で、このクリスが殺人犯捜しと贋作探しに孤軍奮闘する。エルキンズのミステリは真っ当なミステリなので、云わずもがな見事クリスはこの2つの事件を解決するのだが、こういう普通の男が見事目的を達成するところは爽快感すら漂う。

真相は、なかなか面白い。特に贋作発見についてクリスのインスピレーションは逆説的であり、思わず「ほお・・・」と声を出してしまった。この相矛盾するエゴによる動機は美術収集家だけのみならず、あらゆる収集家に共通する思いだろう。
以前『ゼロ 神の手を持つ男』という漫画を愛読しており、それがこの作品と非常にダブった。どちらも美術を扱う作品であり、作品に散りばめられた薀蓄も重複するところが結構あり、非常に楽しく読めた。ただ『ゼロ』で頻繁に登場する「炭素14法」が全く出てこなかったところに疑問。使われた塗料、キャンパスが当時のものであるか、その中に含まれた炭素14の崩壊率から年代を推定するこの方法は現代の真贋鑑定に必ずといって採用されるものだと思っていたが。単にエルキンズが知らなかったんだろうか?

まあ、それはさておきギデオン・オリヴァーシリーズに続いて本書もハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されており、私同様ファンがいることが確認され、嬉しく思った。
ちなみに本作で取り上げられる絵画の中には数年前日本でも絵画展が大々的に開かれたフェルメールがあり、物語でも重要なファクターとなっている。フェルメールに興味のある方はそれだけでも本書を読む事をお勧めしたい。

偽りの名画 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ偽りの名画 についてのレビュー
No.11: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

スケルトン探偵参上!

スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー教授シリーズ第4作目にして本邦初紹介第1作目。なぜ4作目から紹介されたのかといえば、本書がMWA賞、通称エドガー賞受賞作であったことが要因として大きいだろう。本作の出版は実は現在流布しているハヤカワ・ミステリ文庫ではなく、廃刊となったミステリアスプレス文庫から出版されていた。しかも本書はその叢書の第1冊目でもあり、新規固定客を掴む重要な役割として大きな期待がかけられていたのだろう。

物語の舞台はフランスのモン・サン・ミシェル。プロローグは富豪のギョーム・ロッシュが干潮時に貝の収集をしている最中に満潮に巻き込まれ、命を失うシーンから始まる。骨の鑑定家であるギデオンは彼の館で見つかったナチス時代と思われる古い骨が見つかったことで親友のFBI捜査官ジョン・ロウと共に鑑定に訪れる。そしてその最中、一族の1人が毒殺されるという事件に巻き込まれる。

ミステリという観点から云えば、このギデオン・オリヴァーシリーズは非常にオーソドックスな作りである。因縁となる過去の事件を発端とし、なんらかの形でギデオンが関係者に関わり、そこに骨に関する事件や出来事が起き、そして過去の因縁が基になる殺人事件が起き、ギデオンが真相に近づく中、彼も一命を失うような危機に陥るが、大団円に至る。シリーズ全てがこのパターンを踏襲している。派手な演出、驚愕の真相を期待する方にとっては物足りなさを覚えるだろうが、逆にこのマンネリさがこのシリーズに安定感をもたらせ、安心して読めるシリーズと云えよう。
とはいえ、このシリーズにさしたる特徴はないかと云えばさにあらず、本書の目玉はギデオン・オリヴァーが毎回行う骨の鑑定にある。この場面の描写は毎回微に入り、細を穿ち、専門的かつ学術的である。では一般読者の理解に困難を強いるかといえば全くそうではなく、専門知識を誰もが解りやすいように噛み砕いて説明しており、読後新たな知識が得られたという満足感がある。この骨の鑑定という読者の知的好奇心をそそる演出がこのシリーズの人気の半分を占めていると云えよう。
さてエドガー賞を受賞した本書の出来はといえば、確かによく出来ており、非常に卒が無い。上に述べたように物語の起承転結がはっきりしており、なおかつサプライズもある。巷間に様々なミステリが溢れている今ならば、本書に収められているミスディレクションは特段話題にするほどの物でもないが、読んで損を感じることはないだろう。

さて本書は版元である早川書房が新規創刊した文庫シリーズの集客戦略の一手として出版されたであろうことは冒頭に述べたが、幸いにしてこの作品はその期待を損ねることなく、ミステリファンのみならず広く親しまれたようだ。特にその年の『このミス』では第3位という高評価を持って迎えられた。その後この叢書が廃刊になり、本国アメリカで新作が出版されても長らく訳出されないという不遇な時代もあったが、ファンからの熱い要望により、版型をハヤカワミステリ文庫に移して再出版され、その後コンスタントに新作も出版されている。
本邦刊行から今に至って私はこのシリーズを読み続けているが、最も新刊が待たれるシリーズの1つになっている。もし何を読もうか迷っている方がいれば、まず手にとっても貴重な時間を失うことはないことを保証しよう。

古い骨 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ古い骨 についてのレビュー
No.10: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

傑作!ただしかしすぐには勧められない!

カーのベストを募ると必ず選出される本書は実はノンシリーズの1冊。

出版社の編集員が作家ゴーダン・クロスの書いた実在の毒殺魔ブランヴィリエ夫人の物語を読み、そこに付せられた肖像画と自分の妻とのあまりの近似性に驚愕する。それ以来、妻がブランヴィリエ夫人の生まれ変わりであることを示唆する噂と奇妙な事件が彼の身の回りに起こる。

『緑のカプセルの謎』でも書いたが、カーは密室物と同じくらい毒殺物を著しており、本書もその1冊。今気づいたが後年読んだ『死が二人をわかつまで』と非常によく似たシチュエーションである。但し私の中ではこちらの方が評価は上。
もしかしたら本書を読んでもそれほど驚かない人もいるかもしれない。この趣向を取り入れた設定の作品は今たくさんあるからだ。しかしこれこそがそれらの作品の祖だと考えればかなりエポックメイキングな作品であることに気づくだろう。つまりポーが開祖としたミステリ、つまり人外の闇の部分に論理の光を照らして人智の物とするという新しい文学形態にさらにその形態を下敷きにして新たなるスタイルを確立したとまで云っても過言ではない。
特に読まれる方は全編に散りばめられた台詞や仕掛けに留意してもらいたい。出来れば結末を知った上で読めば、カーが含ませた数々のダブルミーニングに気づくはずだ。本書は例えば、列車に乗っているときに遭遇する進行方向から見る広告と逆方向から見る広告が角度によって全く違っている看板のようだと云えば解ってもらえるだろうか?

ただし、ではカーのお勧めは?と未読の方に問われて、この作品を推奨するのはいささか抵抗がある。なぜならば本書はカーがこのような作品を書いたことに大きな意義があるからだ。HM卿、フェル博士シリーズなどを数多く著してきたカーだからこそ本作が光るのだ。
ぜひとも読んでいただきたい傑作だが、ぜひともそれまでにカーの作品を何点か当たっていただきたい。素直に勧められないこのもどかしさをどうか理解して欲しい。

火刑法廷[新訳版] (ハヤカワ・ミステリ文庫 カ 2-20)
ジョン・ディクスン・カー火刑法廷 についてのレビュー
No.9:
(8pt)

ケレン味たっぷりの逸品

フェル博士シリーズ第2作目で私にとって初めてのカー長編。私はこの作品でカーが好きになった。というよりも「カーってこういう作家なんだ」と理解した作品である。

盗まれたポーの未発表原稿の捜索とロンドンで頻発する帽子盗難事件が同時進行的に語られ、やがて帽子盗難事件の犯人と目されている「きちがい帽子屋」を追っていた新聞記者がシルクハットを被った他殺死体として発見されるという、3つの事件が錯綜する非常に贅沢な内容になっている。

実は私はこの殺人事件に関してはほとんど覚えていなく、それ以外のポーの未発表原稿の行方と帽子盗難事件の方が非常に鮮明に記憶に残っている。それほど私にはインパクトがあったのだ。この全く関係ない2つの事件がある接点で結びつく。それはある人は非常にバカバカしいと思うだろうが、私はよくもまあ、こんなことを思いついたもんだと非常に感心した。この着想の妙がツボにはまり、一気にカーが好きになってしまった。
そして乱歩もこの作品を推しており、黄金期ミステリ十傑の中に入っている。しかしカーの他の作品を見渡してみると、この作品以上に出来のよい作品はまだあり、ミステリ読者ならびに書評家の中には「よりによってなぜこれを?」という疑問の声は多い。しかし私はなんとなく乱歩が本作を選んだ意味は解るように思う。ポーの未発表原稿盗難事件と帽子盗難事件という全く接点の無いと思われた事件が、シルクハットを被った他殺体という接点で結ばれる、この着想を買ったのだと思う。私同様、これをバカバカしく思わず、何たる発想と快哉を挙げたに違いない。

ちなみに本書の原題は“The Mad Hatter Mystery”という。現在ならば“Mad Hatter”と云えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の方が広く知れ渡っている。後年になって私はクイーンのその作品を読んだが、なんの共通点も見出せなかった。『Yの悲劇』が1932年の作品で本書が1933年の作品であるから“Mad Hatter”という呼称を通じて、イギリスで何かあったのかもしれない。時間があれば今度調べてみたいと思う。

帽子収集狂事件【新訳版】 (創元推理文庫)
No.8:
(8pt)

今読むと古さを感じることが障害者への理解が進んだ証

くどくなるが、この作家も創元推理文庫で作品が出ていなかったら、全く手に取ることの無かっただろう。そしてその出会いは私にとって実に有意義な物となった。

本作は脳性麻痺で車椅子生活を強いられている信一少年が成城署の真名部警部が持ち込む捜査が難航している事件を明敏な頭脳で解き明かすという典型的な安楽椅子探偵物の連作短編集。しかし特徴的なのは安楽椅子探偵を務める信一少年が身体障害児であり、それに関する社会問題も提起しているところにあるだろう。収録されている短編の初出はなんと76年と30年以上も前のことながら、90年代になってようやく人々の意識が向きだしたバリアフリー不足の問題など、障害者が社会では生きるのには厳しい状況について触れられているのが興味深い。今その視点で読むと、既に使い古された内容と感じるかもしれないが、私が本作を読んだのは90年代の初めの頃だったので、このような内容は実に新鮮で、けっこう心に響いた記憶がある(まだ純粋だったのだね)。この信一親子にはモデルがあり、なおかつ天藤氏が当時から親交の深かった仁木悦子夫婦との付き合いも手伝って、身障者を主人公にしたミステリを書いたことが解説で触れられている。

で、それだけのミステリかといえばそうではなく、収録されている作品のレベルはなかなかに高い。単純なミステリになっていなく、読後考えさせられる内容もある。
どの作品か忘れたが、特に印象に残っているのは肯定できる殺人はあるかというテーマの作品。殺人は許されるものではないという通念を覆されるような思いをしたものだ。
あとどう考えても本当のような話に思えない証人を探す話は、なぜだか未だに記憶に残っている。

そして全作品に通底するのは天藤氏の人間に対する温かい視線だろう。前にも述べたが身障者に対する社会へのさりげない問題提起に、真名部警部と信一親子との交流(母親に対するほのかな愛情も含めて)と社会的弱者に対する優しさに満ちている。この感覚は宮部みゆき氏の諸作の味わいに似ている。数十年後、作者の写真を拝見する機会を得たが、その顔は優しき微笑を湛えており、この人ならばさもありなんと思ったものだ。
無論のこと、この作家の作品を追いかけることになるが、次に手にした彼の作品が私の読書人生において5本の指に入る傑作との出会いになったのだった。

遠きに目ありて (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)
天藤真遠きに目ありて についてのレビュー
No.7: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

シリーズ2作目は重厚長大な本格ゴシックミステリ

女探偵コーデリア・グレイシリーズ2作目にして最後の作品。前作とはうってかわって、今度は孤島で起こる殺人事件の捜査にコーデリアが当たるという、古式ゆかしい黄金期のミステリのような本格ミステリ風作品になっている。
コーデリアの事務所を訪れた元軍人。彼の妻は女優であり、彼女宛てに数日来から脅迫状が頻繁に届いているのだという。彼の依頼はその妻が今度古城を頂く孤島の持ち主より公演の依頼を受けた、ついてはコーデリアに滞在中の身辺保護を頼みたいというものだった。
ヴィクトリア王朝様式の古城に招かれた人々は一見裕福そうに見えるが、それぞれに問題を抱えている、とミステリの王道を行くシチュエーション。

後にジェイムズ作品を読み進めていくうちに判ってきたのだが、この誰もが何か問題を抱えた人間が一堂に会しているというのはこの作家の作品の最たる特徴である。まだ本書では古城の内部を彩る豪華な調度品や島の風景の描写も精緻を極めており、これもジェイムズ作品の特徴の1つであることが後々解ってくる。つまり本書はジェイムズが本来の創作作法に則って書いた作品であり、『女には向かない職業』の方が、ジェイムズ作品としては異色だったということになる。
前作にも増して2倍以上はあろうかというボリュームと、見開きページぎっしり書かれた文章とで、1時間に40ページくらいしか進まなかった記憶がある。そんな小説は読み疲れして、早く終われ、早く終われと呪文のように頭の中で繰り返し、苦痛を感じながら読むのが私の常だった。
本作でもそうだった。特に前半はほとんど登場人物らの相関や事情、古城ならびに島の描写に筆は費やされており、事件が起こるのは半ばぐらいだったように思う。その事件も密室殺人などといった本格ミステリならではといった派手さもなかった。しかし、コーデリアが犯人の動機を探り当てる段になって、この重厚さによって私の目の前にかかっていた靄が一気に雲散霧消した思いを抱いた覚えがある。今読んでみて、この動機がそれほどのカタルシスをもたらすかどうかは判らないが、当時は「おおっ!」と声を上げたものだ。ネタバレになるので詳細は書かないが、この動機を期待しすぎるとガッカリする方もおられるだろう。しかし私はこういうのが好きなのである。まさしくこれは好みの問題と云えるだろう。
そんなわけで私の評価は1作目よりこっちの方が上。従って1作目を気に入った方は同趣向の作風を求めると、肩透かしを食らって、さほど楽しめないかもしれない。

しかしなぜ早川書房はこのシリーズを先に文庫化したのだろう。それがために私はダルグリッシュ警部シリーズを読むことなく、このシリーズを読むことになってしまった。元々早川書房は原書の刊行順に関係なく、売れ筋の本から訳出、刊行する傾向があったので、恐らくジェイムズ作品も比較的とっつきやすいコーデリア・グレイシリーズを文庫化したに違いない。ま、そんなことをぐだぐだ考えても意味のないことなんだが・・・。

皮膚の下の頭蓋骨 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 129‐2))
P・D・ジェイムズ皮膚の下の頭蓋骨 についてのレビュー
No.6:
(8pt)

古き良き冒険小説

ようやく「これは!」という作家を見出した私は早速各社の文庫目録でトレヴェニアンの作品をチェックした。非常に寡作な作家であり、その時点で入手可能な作品はハヤカワノベルスの『シブミ』と河出文庫の本作と『ルー・サンクション』の3作のみ。『このミス』1位の『夢果つる街』は絶版で長らく手に入らず、98年の復刊企画にてようやく手に入れることが出来た。この作品の感想については後日述べることにしよう。最近桜庭一樹氏が角川文庫の月間編集長になった際、新装丁で復刊されたので以前より触れやすいのでは。未読の方はぜひ読んでみて下さい。傑作です。

話は戻って、当時文庫目録に記載されていたこの作品も入手困難だった。河出文庫は老舗なのだが、書店における棚の占有率は低いため、あまり置かれていない。したがって、これも当時書店に注文して入荷してもらった。同時に『ルー・サンクション』も注文したが、目録に載ってあるにもかかわらず既に絶版だった。しかし『ルー・サンクション』は約11年後、思わぬ形で遭遇するのである。それについても後日感想に述べてよう。

さて、本書だが、いかにも昔の文庫という表紙で、しかも装丁も当時の河出文庫のデザインの1つ前の物だった。このいかにも昔の文庫という表紙とは、猛々しい筆使いの力の入ったイラストで、しかも主人公と思われる人物がまんまクリント・イーストウッド。後で知ったのだが、本作はイーストウッド主演で映画化されていたのだった。
で、感想はといえば、注文してまで手にした甲斐があった。いやあ、これぞ冒険小説だと云わんばかりの内容。優れた登山家にして美術鑑定家ジョナサン・ヘムロックはさらに殺し屋でもあるという、インディ・ジョーンズみたいな人物造形。彼が所属しているCIIに依頼されたのはアイガー北壁の登山隊に合流して、その中の裏切り者を殺せという物。いやあ、シンプルかつスリル溢れる設定ではないか。
シンプルな設定をいかに読ませるかは作者の筆運びにかかっているのだが、このトレヴェニアンという作家は非常にそれが巧みだ。『シブミ』のニコライ・ヘルとは対極にある、洒脱な主人公とそれを取り巻く特徴的かつ魅力的なキャラクター。そして実際作者自身も登山家ではないかと思わせるほどの準備段階での訓練の緻密さ、そしてもちろんアイガー登攀シーンの迫真性。自然という脅威に加えてそこに裏切り者がいるという二重の困難を織り交ぜることで、さらに物語をエキサイティングにしている。これは確かに映画向きだし、表紙の絵も手伝って、私の中でヘムロックはイーストウッドになっていた。

しかし私の貧弱な記憶力ではここまで。誰が裏切り者だったか覚えてません(爆)。しかしそれでも面白かったという余韻は未だに残っている良作である。通常ならば9点を献上するところだが、私は同作者の『夢果つる街』を読んでしまっているのでそれと同列に並べることが出来ないんですね。それくらい『夢果つる街』はお勧めです(あれ、最後は別の本の感想になっちゃった)。

アイガー・サンクション (河出文庫)
トレヴェニアンアイガー・サンクション についてのレビュー
No.5:
(8pt)

日本人より日本人らしい主人公

私の現代海外ミステリへ出発はあまりいいものとは云えなかった。気を取り直して今度はもう一方の海外ミステリ出版の老舗、早川書房の本に手を着けることにした。今度は失敗しないようにとどれにしようと迷ったが、やはりここは『このミス』に頼るのが一番だろうと、紐解くことにした。ちょうど私が『このミス』を買い出したのが’94年版で、なんとこの年は過去の『このミス』の国内・海外のランキング20位までが載せられていたので、それを参考にすることとした。で、『このミス』第1号の1988年の1位の作品が『夢果つる街』であり、その作家がトレヴェニアンだったのだ。そして彼のハヤカワ文庫の作品がこの『シブミ』である。
この奇妙な題名の作品。実は原題もそのまま“Shibumi”である。そう、これは日本の「シブミ」を体得した殺し屋ニコライ・ヘルが主人公の物語なのだ。この上下巻に分かれた作品は、まずニコライが日本の軍人と碁の名人に育てられ、日本の精神を学ぶところが上巻で描かれる。とにかくこのあたりの日本人の精神までに入り込んだ内容が実に素晴らしく、これは本当に外国人が書いたのかと何度も疑った。特に題名となっている「渋み」の極意についての説明は実に的確だ。ちょっと抜き出してみよう。

「シブミという言葉は、ごくありふれた外見の裏にひそむきわめて洗練されたものを示している。この上なく的確であるが故に目立つ必要がなく、激しく心に迫るが故に美しくある必要がなく、あくまで真実であるが故に現実の物である必要がないことなのだ」

この内容を十全に解釈することはなかなか難しいだろう。しかし何を云わんとしているかは日本人であればそれぞれ理解できるはずだ。私は「侘び・寂び」の精神だと解釈した。
またニコライは日本人の妻を娶り、自宅に庭園を持っている。この庭園とはニコライ自身がこつこつ作っている日本庭園なのだ。この日本庭園に関する作者なりの解釈も素晴らしい。
曰く、1つ1つを捉えてみれば、それは完成しているようには思えないが総体として捉えると見事な調和を醸し出している。
和の心をこれほどまで掘り下げた作家は、数年後クーンツのある作品を読むまで全く出逢ったことなかった。

そして下巻は一転してニコライの趣味ケイヴィング(洞窟探検)から始まる。つまりこれは上巻が静であったのに対し、動の下巻が始まりますよという作者からのメッセージなのだ。そしてこれが崩壊への序曲。書き忘れたが物語の骨子はローマ空港で虐殺されたユダヤ人報復グループの生き残りの女性が殺し屋ニコライに助けを求めるという物だ。この生き残りの女性ハンナの敵というのがCIAをも傘下に治めるマザー・カンパニーという巨大組織なのだ。「個」対「組織」の戦いは自然、安定した暮らしの崩壊をもたらす。
ニコライは家も日本庭園もマザー・カンパニーに破壊され、日本人の妻も失明する。
もちろんこれこそニコライが敵に報復するための行動原理になるわけだが、上巻で彼の生い立ちと彼の所有物がたっぷり詩情にも似た情感を持って語られるだけに大きな喪失感を読者に与える。これこそ作者の狙いなのだろうが、やはりなんとも哀しいものだ。
しかし、『このミス』1位は伊達ではなかったとの思いを強くした。このトレヴェニアンは寡作家でもあったので、ちょうど集めるには良かったのである。が、しかし目的の『夢果つる街』は実はこのとき絶版であったのだが・・・。

シブミ〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)
トレヴェニアンシブミ についてのレビュー
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(8pt)

ビブリア古書堂シリーズの原型

『11枚のとらんぷ』が非常に面白かったので創元推理文庫は私にとって信頼のブランドとなった。したがってまたムラムラと読書の虫と収集欲が頭をもたげてきて、とりあえず当時出ていた創元推理文庫の日本人作家の作品を手当たり次第、手をつけることにした。
その頃の日本人作家の文庫は今と違ってさほど点数も少なく、だいたい一作家一作品ぐらいの冊数だったので比較的容易に揃えることが出来た。まず手にしたのが本作。\1,000近くもする分厚い文庫本に怯んだが、古本屋探偵という魅惑的なタイトルに惹かれて読むことにした。

本書はその名の通り、神田神保町で古本屋を営む主人公が、仕事の傍ら、顧客が求める古本を探す探偵業も行っており、古本に纏わる色んなエピソードがふんだんに盛り込まれた好作品集となっている。とにかく何事も収集家の世界というのは一種の狂気を孕んでいるが本もそれに洩れず、とにかくすごい話ばかりだ。古本で家庭崩壊した者、幻の古書を求めて、終いには気が狂ってしまった者、本の重みで家が倒壊してしまった者などなど、世の読書家には身につまされる話もあり、他人事と思えず、一歩間違えば、これは自分かも?と妙な親近感を抱いたりもする。しかもこれらのエピソードは実際のモデルや実話も少なからずあるというのだからまことに本の道は奥深い。
また博学の紀田氏によって織り込まれる稀少本の逸話も興味深い。本書で挙げられる探索本はミステリの類いは確か1冊もないのだが、それでも本好きならば興味を持たずにいられない魅力を備えており、一体どんな本なんだろう、一度見てみたいと思わずにいられない。そしてそれらの本の来歴なども紀田氏の含蓄ある説明で面白く読め、こういう未知の知識を得ることを至上の悦びとしている私にはご馳走以外何物でもなかった。

本書の主人公が経営する古本屋の名前は「書肆・蔵書一代」という。これは古書収集というのは家族の理解を得られることは絶対になく、その蔵書は一代限りであるというところから来ているが、まさしくこれは私にも当てはまるなぁと思った。私が自分の読書量を度外視して次々に本を買うのを呆れて家内が見ている風景が目に浮かんだ。また新聞を読むときに必ず死亡欄から読むという話も面白かった。そこにもし名の知れた古書収集家の名があれば、家族はその書物の処分に困るだろうからお悔やみを云いがてら、引取りの約束を取り付けるというのだ。いやあ、もうこれは収集家の性ですな。
他にもデパートでの古本市の内輪話や神保町の古書店組合内で開催される競りの模様など、古書に纏わることなら満遍なく盛り込まれた作品群に、お値段以上、本の厚み以上の満足感を得ることができた。これをきっかけに紀田氏の古本ミステリを私は買い続けることになる。

多分創元推理文庫で出ていなかったら、紀田順一郎という作家の作品も決して手にしなかっただろうし、またこのシリーズとも無縁だっただろう。島田氏から新本格作家と、新進の作家の方へ向けられていた私の目は創元推理文庫によって、ベテランの作家たちにもまだまだ面白い作品があることを知り、私のミステリ道はさらに深く深く潜っていくのであった。

古本屋探偵の事件簿 (創元推理文庫 (406‐1))
紀田順一郎古本屋探偵の事件簿 についてのレビュー
No.3: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

島田流社会派ミステリ

東京各所で発生する連続放火事件を扱った本書は、それまでの作品でも顔を覗かせていた島田氏の都市論、日本人論が前面に押し出された島田版社会派推理小説だ。本作で主人公を務めるのが中村刑事。御手洗シリーズの短編「疾走する死者」で登場し、さらにもう1つのシリーズ、吉敷シリーズにも登場している刑事だ。御手洗シリーズに出ていた刑事が主人公を務めるのはこの他に『斜め屋敷の犯罪』に登場した牛越刑事の『死者が飲む水』があるが、両シリーズに跨って出ているのはこの人物だけだったのではないだろうか(後にある作品では御手洗シリーズのある人物と吉敷シリーズのある人物が邂逅するが、それはまた別として)?
とはいえ、この中村刑事は主役を務めるほど特徴的な人物かといえばそうではなく、むしろ人物としては地味。確か画家のようなベレー帽を被っているという叙述があったぐらいだと記憶している。したがってもちろん閃き型の天才型探偵ではなく、地道に靴底をすり減らして現場百遍を実践する努力型探偵だ。私は読んだことないが、クロフツのフレンチ警部シリーズのような人物像といえるのではないか。

さて物語はある警備員の焼死体発見から、彼が勤務中に睡眠薬を飲んでいたため、気づかずにそのまま焼け死んだという職務怠慢のレッテルを貼られた不名誉な死に対して、中村刑事が疑問を持ち、捜査するうちにある女性に行き当たり、その女性が鍵を握っていると判断し、その女性を追うという展開を見せる。そして東京各所で頻発する連続放火事件の捜査も同時並行的に行われる。
やがて浮かび上がってくる犯人の動機はどちらかといえば観念的である。ただこの常人に理解しがたい、一種狂気を感じさせる動機もこういう作風に妙にマッチしてあり、個人的には納得できた。
そしてこのような渋い社会問題を内包した作品であっても、島田氏はトリックを挿入することを忘れない。私はこういう社会派的な主題を掲げた作風にはこういった本格ど真ん中のトリックはミスマッチなのであまり好きではなく、この頃は特にその傾向が強かった。その後同氏の吉敷シリーズを読み続けていくうちに、その抵抗も少なくなり、むしろこれこそが島田社会派の味わいだと思うようになった。後に読んだ島田氏のエッセイの中に、大仰なトリックは今では忌避されがちだが、昔の社会派と呼ばれる松本清張氏や森村誠一氏の代表作にも大胆なトリックが使われていたのだ、だから何もおかしいことはないのだという文章を読んでから、島田氏が意図的にトリックを採用していることを知った。

さて本作で開陳される弱者へのまなざし、そして江戸と現在の東京を比較した都市論はその後島田氏の作品で頻繁に語られることになる。今まで島田氏が東京という大都会に対して持っていた不満をぶつけた最初の作品だと云っていいだろう。御手洗シリーズでは見ることのない、渋みの効いた語り口を体験するにはうってつけの好編だとお勧めする。


▼以下、ネタバレ感想
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改訂完全版 火刑都市 (講談社文庫)
島田荘司火刑都市 についてのレビュー
No.2:
(8pt)

魅力的な逆説集

『詩人と狂人たち』の出来栄えに失望した私は本作に関してはチェスタトンコンプリート達成(当時出版されていた分に関して)のための一里塚として惰性的に本書を手にしたのだが、これが当たりだった。
先に書いたようにブラウン神父シリーズでもチェスタトンが得意とする逆説を利用した短編は数多く収録されていたが、本書はその名の通り、逆説ばかりを集めたミステリ短編集である。
ブラウン神父シリーズの時に若干この逆説に慣れというか、飽きにも似た感慨を抱いていたが、そんなときでもこの短編集に収録されている逆説は斬新さに溢れた煌めきがあった。
どんな逆説か以下に挙げてみよう。

「三人の騎士」:死刑執行の中止を伝える伝令が途中で死んでしまったために、囚人は釈放された。
「博士の意見が一致すると・・・」:二人の男が完全に意見が一致したために、一人がもう一方を殺した。
「道化師ポンド」:赤い鉛筆だったから、黒々と書けた。
「名指せない名前」:国民から好かれていた思想家は政府から忌み嫌われていたが追放されなかった。
「愛の指輪」:ガーガン大尉は誠実な人がゆえに、不必要な嘘をつく。
「恐るべきロメオ」:明らかにその人だと思われる影法師ほど見間違えやすい物はない。
「目立たないのっぽ」:背が高すぎるために目立たない。

と、ちょっと読んだだけでは???と首を傾げる逆説ばかりだが、これらの逆説がポンド氏によって非常に合理的に解説される。
中にはその逆説が成立する状況を想定しやすいものもあるが、そのほとんどは謎という魅力に満ちている。特に1編目の「三人の騎士」は「ああ、そういうことだったのか!」と膝を打ってしまった。そしてこの1篇で私はこの逆説ミステリ集に取り込まれてしまった。
そして本書は最後に読んだだけあって、私の中でチェスタトンの評価を決定付けた作品集とも云える。最後が『詩人と狂人たち』だったら、今もこれほどにチェスタトンという名前は私の中に深く刻まれていたか、微妙ではある(でも『~童心』があるから、チェスタトンはやはり忘れられない作家ではあっただろうけど)。

現在この作品は絶版だが、この作品と『奇商クラブ』はぜひとも復刊して、多くの人に読んで欲しい短編集だ。
光文社が『木曜日だった男』みたいに古典新訳文庫で上梓してくれると一番いいのだが。

ポンド氏の逆説【新訳版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトンポンド氏の逆説 についてのレビュー