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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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カーのミステリの特徴として密室がよく挙げられるが、それと双璧を成すほどよく扱われていた題材が毒殺トリック。古来ヨーロッパでは毒殺による殺人事件が頻発しており、しかもそれらが連続殺人事件であることが多かったこと、そして伯爵夫人や公爵夫人といった王侯貴族の夫人達による実行が多く、スキャンダラスな側面を持っていたことが大いにミステリ作家達の創作意欲を刺激したようだ。その中でも多数の毒殺トリックを扱った作品を著したカーはとりわけこの毒殺という犯行に魅了され、独自に研究をしていたように思われる。
というのも本作には『三つの棺』で行われた密室講義に続く毒殺講義がフェル博士から成されるからだ。このことからもカーが密室と毒殺を自身のミステリのテーマとして掲げていたに違いない。 物語は巷で毒入りチョコレートを食べた子供達が死ぬという事件が頻発しているという物騒な事件が起きていることがまず語られる。この事件を犯罪研究家であるマーカス・チェズニイ氏が解明し、その方法を友人や家族の前で実演している最中に覆面を被った何者かが入ってきて、なんとそのまま毒殺されてしまう。しかもその模様を見ていた3人の目撃者の証言はどれも食い違っていたという、非常に面白い題材を扱っている。 さらにこの模様を写したフィルムで彼らの証言を検証する行為がなされ、それに加えて生前チェズニイ氏が用意した10の質問に答えるという趣向も盛り込まれている。この映像による検証が本書のメインであり、最も面白いところだ。 カーが本書を著した際、バークリーの代表作『毒入りチョコレート殺人事件』が念頭にあったことはまず間違いない。識者によればカーがバークリーが長を務めるディテクティヴ・クラブに入会したのが1936年で本作の上梓が1938年。当時バークリーは英国ミステリ界において重鎮であり、しかもエース的存在であった。カーがクラブ入会後、彼と会員のミステリ作家たちの交流を通じて多大に影響を受けたのは知られており、本作は特にバークリーの影響を受けて創られたようだ。 やはり珍しいのは映像を使った心理的トリックだろう。毒殺された犯罪研究家が作った映像とそれに関する問いについて視聴者が喧々諤々の議論と問答を繰り広げるのは面白く、ロジックよりもトリックを主体にしたカーにしてみれば異色ともいえる展開である。 で、これが逆にトラブルとして起きた毒殺事件を複雑化しており、なかなか良く考えられた作品である。失礼な言い方になるが、全てが綺麗に納得でき、しかも精緻すぎてカーの作品ではないみたいだ。 とこのように非常にカー作品の中ではロジックを前面に押し出した作品で、読み応えがあるのだが、当時の私の感想を書いた一言メモでは、どうも多忙の中で読んだようで楽しめなかったとだけ残ってある。しかしそれでも内容についてこれだけ記憶に残っており、読み応えがあったように思えるのだから、やはり私の中ではカーの作品でも上位に来る作品であるようだ。もう一度読み直すべき作品として記憶にとどめておこう。 |
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フェル博士シリーズ第2作目で私にとって初めてのカー長編。私はこの作品でカーが好きになった。というよりも「カーってこういう作家なんだ」と理解した作品である。
盗まれたポーの未発表原稿の捜索とロンドンで頻発する帽子盗難事件が同時進行的に語られ、やがて帽子盗難事件の犯人と目されている「きちがい帽子屋」を追っていた新聞記者がシルクハットを被った他殺死体として発見されるという、3つの事件が錯綜する非常に贅沢な内容になっている。 実は私はこの殺人事件に関してはほとんど覚えていなく、それ以外のポーの未発表原稿の行方と帽子盗難事件の方が非常に鮮明に記憶に残っている。それほど私にはインパクトがあったのだ。この全く関係ない2つの事件がある接点で結びつく。それはある人は非常にバカバカしいと思うだろうが、私はよくもまあ、こんなことを思いついたもんだと非常に感心した。この着想の妙がツボにはまり、一気にカーが好きになってしまった。 そして乱歩もこの作品を推しており、黄金期ミステリ十傑の中に入っている。しかしカーの他の作品を見渡してみると、この作品以上に出来のよい作品はまだあり、ミステリ読者ならびに書評家の中には「よりによってなぜこれを?」という疑問の声は多い。しかし私はなんとなく乱歩が本作を選んだ意味は解るように思う。ポーの未発表原稿盗難事件と帽子盗難事件という全く接点の無いと思われた事件が、シルクハットを被った他殺体という接点で結ばれる、この着想を買ったのだと思う。私同様、これをバカバカしく思わず、何たる発想と快哉を挙げたに違いない。 ちなみに本書の原題は“The Mad Hatter Mystery”という。現在ならば“Mad Hatter”と云えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の方が広く知れ渡っている。後年になって私はクイーンのその作品を読んだが、なんの共通点も見出せなかった。『Yの悲劇』が1932年の作品で本書が1933年の作品であるから“Mad Hatter”という呼称を通じて、イギリスで何かあったのかもしれない。時間があれば今度調べてみたいと思う。 |
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東京創元社によるカーの第4短編集。本書から通常の短編に加え、ラジオドラマの脚本も併載され、ますますマニアのコレクション・アイテム度が増している。
短編は今までの3作で盛り込まれることの無かった、アンリ・バンコラン物がほとんどを占め、それに他の短編集にも収録されていたノンシリーズの歴史ミステリが1編収録されている。私は本書で初めて脚本調の作品を読んだが、これが意外に読みやすく、すんなりと頭に入ったため、案外この短編集は好きな方である。恐らくこれは装飾過多な演出と持って回った文体がシナリオという形であるため、簡略され、一切の無駄がそぎ落とされたせいだからだろう。当時の私はまだカーの訳文に難儀しており、逆にこの簡潔な文章が読書の手助けになった覚えがある。 したがって本書でも記憶に残っているのはバンコラン物を筆頭に収録された短編ではなく、ラジオドラマの方である。ラジオドラマのシナリオでありながら、古くよりカーの良作と云われ、現在でもモチーフにした作品が日本ミステリ作家の間で書かれている「B13号船室」と表題作の2編がそれだ。前者は小さい頃に読んだ本当にあった怖い話とシチュエーションが酷似しており、それが故に鮮明に記憶に残っている。後者は単純に面白かった。こういう先入観を利用したトリックは他にもあったが、これについてはすんなりと嵌ってしまった感があった。これもシナリオ調の文章が一助になったのだろう。 実は最初ラジオドラマの脚本まで収録して短編集を編むことに出版社の卑しき商売根性とマニアの香りを感じたので、嫌悪感を示していたが、結果は上に述べたように存外面白かった。逆に云えば作者のルーツを辿る意味でもこのような作品集も読むべきだと考えを改める契機になった短編集だったと云えよう。 |
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東京創元社によるカーの第2短編集。日本独自に編まれた短編集だが、本書は各編メリハリがあって好きな方である。
なんと云っても本書は表題作に尽きる。カーの中でも傑作の部類に入る短編だ。20年前神隠しにあったかのように一週間少女が失踪した事件の元となった妖魔の森の家と云われるバンガローに再びその少女がその家に入るといつの間にか姿を消していた。しかも家には鍵がかかっており、周囲はHM卿も含め、ずっと見張られていたのだ。しかも誰も出て行ったものもいないという、扱われるモチーフはカーが得意とする密室物。しかも妖魔の家なる怪奇色も施してぬかりがない。そしてそれを実にすっきりと解き明かす論理はカーにしては(?)非常に整然としており、カーの作品の最たる特徴が出た作品だ。だからこれに比べるともう1つの密室物である「ある密室」がやや強引さが目立ち、やや劣る。 その他収録されている作品のうち、「軽率だった夜盗」は数年後読むことになる『仮面荘の怪事件』の原版となる短編だし、「第三の銃弾」は逆に長編であった原版を省略したカット版で、数年後早川書房から完全版が出版された。 残りの1編「赤いカツラの手がかり」は着想が面白く、あまりのバカバカしさに苦笑を禁じえないが、後の『帽子収集狂事件』に繋がるユーモアがあり、結構好きな方である。 以上、不完全版が2編収録されているが、読んだ当時はそんなことは知らないので気にならず、むしろヴァラエティに富んだ短編集だという印象が残った。しかし本を手にとって浮かぶのはやはり表題作が醸し出す雰囲気。本書はこの1編を読むだけでも価値がある作品集と云えるだろう。 |
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ミステリ黄金期の三大巨匠といえば、クイーン、クリスティ、そしてカーであることは周知の事実である。そのうちカーについては私はミステリを読み始めた早い時期から触れていた。未だに絶版作品が多いので、全ての作品を読破したとはいえないが、ほぼ80%は読破したように思う。
で、本書はそのカーの短編集で収録作10編中6編で探偵役を務めるのがマーチ大佐。本書のタイトルはこのマーチ大佐が所属するスコットランドヤードの部署の名前。もちろん現存しない部署であるのは云うまでも無い。ちなみに基本的にこのマーチ大佐は本書のみで探偵役を務め、他の作品でも出てくるものの、単なる一登場人物に留まっている。 収録作の中で印象に残っているのは「空中の足跡」、「銀色のカーテン」、「もう一人の絞殺吏」、「目に見えぬ凶器」の4編。しかしこの4編が特に優れているというわけではなく、出来不出来を別にして今に至っても記憶に残っている作品。 まず「空中の足跡」は今読むと滑稽だろう。というよりもこれは雪の足跡トリックで誰もが一番に思いつく犯行方法だと思う。特に某作家が編んだ推理クイズ集に必ずこのトリックが収録されていたことでも有名だ。 「銀色のカーテン」は雨の中で行われた殺人事件というイメージが鮮烈に残っており、またそこで使われたトリックも納得できる。後日、同様のトリックがチェスタトンのブラウン神父シリーズのある短編で使われているのを思い出したが、シチュエーションと仕掛け方が違っている。 「もう一人の絞殺吏」は歴史ミステリだが特に読後の味わいがなんともいえない余韻を残す。個人的にはこれが本書のベストだ。ちょっとチェスタトンの作風に似ているかもしれない。 「目に見えぬ凶器」は読後当初、「いくらなんでもそれはわかるだろう!」と眉唾物として捉えていたが、その後、このトリックと似たようなシチュエーションに遭遇し(同様の犯罪が起きたというわけではない)、ああ、やっぱり気づかない物なのかと改めて考え直させられたという意味で印象深い。とはいえ、作品的には並みの部類。 語り口にかなり個性を感じたものの、なんだか子供騙しのトリック、小粒な仕掛けを大げさな表現で糊塗して、過剰に演出しているとしか思えなかった。しかし本書こそ私がカーとの最初の出会いで、以後今に至るまで、カーの未読作品に遭遇すると必ず読んでしまうようになるのだから、縁とは不思議なものである。 |
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以前、綾辻作品の中でもっとも賛否両論分かれる作品だろうと『人形感の殺人』の感想に書いたが、それと双璧を成す、いやもしくはそれ以上に賛否両論分かれるだろう作品が本書である。
吹雪舞う冬山に遭難した劇団“暗黒天幕”の一行は山中に聳え立つ洋館に辿りつく。高級な調度品に装飾された館「霧越邸」に命からがら飛び込んだ一行。しかしそれは惨劇の幕開けであったという、“吹雪の山荘物”そのままの設定。 閉ざされた館で起こる連続殺人事件で作者は綾辻行人となると、館シリーズを思い浮かべるが、本書はノンシリーズである。それについては後述するとしよう。 今回一番目立つのはペダンチックに飾られた霧越邸を彩る一流の調度類について語られる薀蓄だろう。家具、照明器具はもちろん、書斎に置かれた万年筆の類いに至るまで、全てが高級品であり、それらについて事細かに語られる。こういう内容は雑学好きには堪らなく、無論、私もその一人であった。そしてそれらの中には犯罪の煽りを受けて、無残にも壊され、また殺人道具として使用される。この勿体無さは『時計館の殺人』で次々に壊されたアンティーククロックに匹敵する。私は作中人物が、これら職人が精魂込めて作り上げた芸術ともいえる物を躊躇無く壊す、もしくは意図的に壊す行為は、なんだか綾辻氏のある哲学、美学に裏打ちされた行為ではないかと思う。例えばミステリに関する既成概念を打ち砕くとか、過去の偉大なミステリ作家が築き上げたトリックやロジックの砦を敢えて壊して、新たな本格を作るといった意気込みというか。この辺はまだ漠としたイメージでしかないので、また綾辻作品に触れた時に作品と照らし合わせて考察していきたい。 で、この作品に対する私の評価はと問われれば作者のやりたい事は理解できるものの、では作品としてカタルシスを感じられるかと云えば、そうではなく、従ってなんとも中途半端な印象を持ってしまった。ずるい云い方になるが賛成半々、否定半々というのが正直なところ。綾辻氏の持ち味である日本なのにどこか異界を舞台にしたような幻想味と一種過剰とまで思えるロジックの妙、これが実にバランスよく施されているのが館シリーズだが、このうち幻想味の方にウェイトを置いたのが本書。最後にいたり、これが豪壮な館を舞台にしながら敢えて館シリーズにしなかったわけが解る。つまりそこからして綾辻氏は館シリーズからへの分化には意識的だったのだ。とはいえ探偵役島田潔は登場しないものの、文体ならびに作中の陰鬱さを感じさせる抑制された雰囲気は館シリーズと変らないし、また文中、中村青司がデザインしたと匂わせる表現もあり、そこに作者としての迷いも感じられる。綾辻作品世界のリンクであるくらいの内容かもしれないが、私はそれだけとは受け取れなかった。 ミステリの既成概念を打ち砕くために敢えて挑戦した企み、この手の作品には過去にカーのある名作があるが、そこまでには至らなかったと感じてしまった。その後の綾辻氏の諸作で彼がどのような本格ミステリ観に基づいて作品を著していったのか、さらに追っていこう。 |
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一応第2作目が出ているがシリーズと呼ぶには憚れるのが警視庁刑事明日香井叶とその双子の兄で探偵の明日香井響が探偵役を務める殺人方程式シリーズ。
新興宗教の教祖が教壇のビルに篭って、祈りの儀式をしていたはずなのに、他のビルの屋上で頭部と左腕を切断された死体として発見された謎を探るという、本格ミステリ。しかしなんだか法月氏の某作に似ているなぁと思った作品だ。 館シリーズと本作ではどう違うかというと、館シリーズは日本なのにどこか異界に迷い込んだような味わいがあるのに対し、本作では実にオーソドックスな筆運びである。本格ミステリと呼ぶよりも本格推理小説の方が本作のイメージに合うだろう。 しかし小粒感はあるものの、実に端正な本格推理小説で、私はすっかり騙されてしまった。特に犯人を限定するある行動に対する叙述が非常にさりげなかったので、その思いはひとしおだった。 そして本書の特徴は、殺人をなすべく、本当に方程式が登場すること。通常「殺人方程式」という呼称は犯罪者が精緻に組立てた犯罪を表すロジックのことを指し示す。つまりそのロジックが数学の証明問題に類似しているから、そういう風に呼ぶのだろうけれど、本作では犯罪を成すための方程式が登場する。ちなみに方程式は数学ではなく、物理の方程式。そうと聞いて、忌避感を抱く方もいるかもしれないが、非常に有名な方程式で、しかも微分積分とかも使われていない、小学生の算数の知識で理解できますのでご安心を。 しかし、この主人公が非常に「創られた」感じがあり、感情移入できなかった。これは私の性格的な問題もあるのかもしれないが、兄弟なのに名前の呼び方がどちらも「きょう」と同じなのがいただけない。紛らわしいではないか!この辺の作者の価値観が全く解らない。なんとなく同人誌に取り上げられることを狙ったようなキャラクターである。 ぜひとも読んで欲しいとは勧めないまでも、読んで損することは無い程度にお勧めの作品である。 |
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このアンソロジーはシリーズ2冊目だが、確か原稿を公募した出版社の予想を超える応募数があったため、パート1と二つに分けて出版されたものと記憶している。従って本書は同時期の応募作によって編まれた物である。
ただ本書では当時既にミステリ作家であった司凍季氏が作品を寄せているだけで、これといった感慨は無い。が、近年になって短編集として刊行された田中啓文氏の「落下する緑」が93年刊行の本書に掲載されているのが特色といえば特色か。第1集はやはり購入者を惹きつけるためにそれなりの作品を集めたようで、また出来不出来の激しい玉石混交感もあったことで逆に特色が出てたが、第2集の本書は全体的に一定の水準の作品(プロ作家の司氏の作品も含めて)が揃えられており、可もなく不可もなくといった感じか。しかし田中氏の「落下する緑」は頭一つ抜きん出た感がある。先にも書いたが、近年になって編まれた田中氏の短編集の表題に同題が使われており、そのとき、既視感を感じ、『このミス』の解説を読んで「ああ、やっぱり!」と思ったものだった。 絵画を題材にした本格ミステリは1作は初期のこのシリーズに収録されており、そのどれもが秀作だったのを覚えている。この「落下する緑」もまた例に漏れず、味わい深い作品である。素人時代の応募作品ながら既に完成された端正さがある。 このとき(学生時分)に読んだのはこの2冊のみ。というのもその時点ではまだこの2冊しか出ていなかったのである。その後、刊行されるたびに買い続け、とうとう全15巻と特別編集版の3冊、さらにその後、二階堂氏によって引き継がれた『新・本格推理』シリーズまで買い続けた。それらの感想についてはのちほど。 石持浅海氏など、現在活躍する作家の登校時代の作品を読むにつけ、やはり後々作家になる人はその他の人たちは違う何かを感じた。プロになって短編集などに収録されない作品などもあるだろうから、資料的な意義から考えると結構貴重なシリーズなのかもしれない。 |
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島田荘司のミステリで一気にミステリ熱が再燃した私は当時、本格ミステリと名の付く物ならば何でも貪欲に読んでいたが、これもその1つ。光文社が本格ミステリを一般公募して鮎川哲也氏を選者として文庫型マガジンとしてシリーズ化した本書は、当時創元推理文庫の日本人作家作品を堪能していた私にとって、東京創元社が「鮎川哲也と13の謎」と銘打った叢書を刊行し、それに親しんでいたことと、同社が鮎川賞を設立していたこともあって、鮎川哲也=面白い本格という刷り込みがなされており、一も二も無く飛びついたものだった。
しかも当時鮎川氏は立風書房から5巻に渡る本格のアンソロジーを敬愛する島田氏と編んでいたのも、さらなる後押しとなった。今思えば当時この両巨匠は社会派推理小説とエンタテインメント小説に席巻されていた当時のミステリシーンに新本格の旗印の下、本格ミステリの復権のため、このような活動を精力的に行っており、私はその活動に同調し、そのまま乗っていったのだろう。 鮎川氏亡き後、二階堂黎人氏を編者にして『新・本格推理』と名を変え、年1回刊行されていたこのシリーズだが、現在活躍されている作家の中にもここに応募されていた方は多く、後述する以外では大倉崇裕氏、霧舎巧氏、黒田研二氏、蘇部健一氏、田中啓文氏、柄刀一氏、三津田信三氏、光原百合氏などなど、なかなか豪華なメンバーが揃う(以上、Wikipedia参照)。 その記念すべき第1集目の本書にはこのアンソロジーをきっかけにデビューした村瀬継弥氏と後の鮎川賞作家北森鴻氏の作品が掲載されており、その他には前述の島田氏と編んだアンソロジーのうち『奇想の復活』という巻に作品が載せられていた津島誠司氏、すでにプロ作家となって2、3作発表していた二階堂黎人氏、そして一昨年作品集が刊行されたアマチュア作家山沢晴雄氏の作品が盛り込まれている。 その後村瀬氏は2作ほど作品を上梓した後、活動停止状態だが、北森氏の活躍はミステリ読者なら周知の通り。両者の熱心な読者ではないのでこのアンソロジーのみでの判断になるが、読後ほっこりと温かくなる、単純な謎解きに徹していない村瀬氏の作風の方が好みだった。 一方、プロ作家二階堂氏はさすがプロだけに筆達者振りを発揮。ディクスンのHM卿を主人公にしたパスティーシュ作品でその名も「赤死荘の殺人」。 また個人的に注目していた件のアンソロジーに作品が掲載されていた津島氏は期待はずれだった。ちょっと私には受け入れがたいトンデモ本格だった。 その他別の意味で印象に残ったのは太田宜伯という作者の手による「愛と殺意の山形新幹線」。このベタな題名の作品、なんと作者は高校生!従って文章は非常に拙く、人物の性格付けにもぎこちない物を感じた(大の大人が喫茶店に入るのが苦手だという性格はこの作者が高校生だからだろう)。題名から想起されるように時刻表を用いたアリバイトリック物であり、これは選者による鮎川氏の好みと高校生による投稿という意気込みに華を添えたに違いない。 総体的な出来はまあまあというところ。今読むともっと評価は低くなるだろう。なんせこの頃の私は未来の本格ミステリ作家の登場に立ち会えるかもしれないと、かなり新本格にのめりこんでいたのでがむしゃらに手を出していたから、そのときはそれなりに楽しんだ記憶がある。 無論、一度手をつけたシリーズは最後まで読む性質の私。次に刊行された2巻も買ったのは云うまでもない。 |
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くどくなるが、この作家も創元推理文庫で作品が出ていなかったら、全く手に取ることの無かっただろう。そしてその出会いは私にとって実に有意義な物となった。
本作は脳性麻痺で車椅子生活を強いられている信一少年が成城署の真名部警部が持ち込む捜査が難航している事件を明敏な頭脳で解き明かすという典型的な安楽椅子探偵物の連作短編集。しかし特徴的なのは安楽椅子探偵を務める信一少年が身体障害児であり、それに関する社会問題も提起しているところにあるだろう。収録されている短編の初出はなんと76年と30年以上も前のことながら、90年代になってようやく人々の意識が向きだしたバリアフリー不足の問題など、障害者が社会では生きるのには厳しい状況について触れられているのが興味深い。今その視点で読むと、既に使い古された内容と感じるかもしれないが、私が本作を読んだのは90年代の初めの頃だったので、このような内容は実に新鮮で、けっこう心に響いた記憶がある(まだ純粋だったのだね)。この信一親子にはモデルがあり、なおかつ天藤氏が当時から親交の深かった仁木悦子夫婦との付き合いも手伝って、身障者を主人公にしたミステリを書いたことが解説で触れられている。 で、それだけのミステリかといえばそうではなく、収録されている作品のレベルはなかなかに高い。単純なミステリになっていなく、読後考えさせられる内容もある。 どの作品か忘れたが、特に印象に残っているのは肯定できる殺人はあるかというテーマの作品。殺人は許されるものではないという通念を覆されるような思いをしたものだ。 あとどう考えても本当のような話に思えない証人を探す話は、なぜだか未だに記憶に残っている。 そして全作品に通底するのは天藤氏の人間に対する温かい視線だろう。前にも述べたが身障者に対する社会へのさりげない問題提起に、真名部警部と信一親子との交流(母親に対するほのかな愛情も含めて)と社会的弱者に対する優しさに満ちている。この感覚は宮部みゆき氏の諸作の味わいに似ている。数十年後、作者の写真を拝見する機会を得たが、その顔は優しき微笑を湛えており、この人ならばさもありなんと思ったものだ。 無論のこと、この作家の作品を追いかけることになるが、次に手にした彼の作品が私の読書人生において5本の指に入る傑作との出会いになったのだった。 |
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CWA賞受賞でジェイムズ初期の代表作。本の厚みも1.5倍くらいになり、今のジェイムズの作風はここから本格的に形成されたと云える作品。
看護学校で起きた殺人事件をダルグリッシュ警視(実は『不自然な死体』で既に警視に昇格していた)が捜査に乗り出し、解き明かす。今まで名門の屋敷や休暇で訪れた村など、限定された場所ではありつつも、黄金期の本格をそのまま踏襲する実にオーソドックスな舞台設定であったが、本作以降、教会、出版社、原子力発電所など、舞台は色んな職場を舞台に、そこで働く、もしくは関係する人々の隠された軋轢を解き明かすという趣向に変わっていく。このような舞台設定を採用していくことで、それ以前の作品と違ってくるのは、物語が一種、業界内幕物となってくるところだろう。元々ジェイムズは確か病院の事務か経理をしていたという経歴の持ち主で、最初にこの看護学校を舞台に選んだのは自身が詳しい業界だったからというのは想像に難くない(その後調べてみたら、2作目の『ある殺意』で既に精神病院を舞台にしていた)。これはセイヤーズが自分がコピーライターとして勤めていた広告業界を舞台にした作品を書いたのと合致する、と『不自然な死体』に見られるジェイムズのセイヤーズ崇拝に拍車を掛ける理由付けとして書きたいところだが、概ね作家というのは自分の詳しい世界を舞台に作品を書く傾向があるのでこれはこじつけにすぎるというものだろう。 CWA賞受賞ということで、では何が変わったかというと特にそれほどの劇的な変化は見られず、従来から最たる特徴であったジェイムズの風景描写、人物描写、心理描写が登場人物がそれまでの作品と比べて増していることで、その分増えた結果、このようなページ数の増大に繋がったという傾向が強い。とはいえ、そこに介在する人間の悪意についてはさらに露骨に書かれ、実際その心情を登場人物がぶちまけるシーンもあり、実際に直面するとかなりドン引きだろうと思われる。 こういう誰もが殺人を犯す動機があるという作品は犯人当て趣向の作品では意外性を伴わない危険性があり、本作もそう。特に動機面についてはごく普通であり、CWA賞受賞作という前知識から期待感を持って読むと、ちょっと肩透かしを食らう感はある。実際私はそうで、それが上の☆評価に繋がっている。やはり『皮膚の下の頭蓋骨』のような、目から鱗が剥がれるような動機などあれば、もっと評価は上がるのだろうけど、初期の作品だからしょうがないか。 物語の閉じ方は降り積もった悪意が解き放たれる思いがする。知りたくない人もいるだろうから詳しくは書かないが、既にぎくしゃくして、いつ壊れてもおかしくない状態だった関係性を一旦清算し、新たなる出発を予感させる。これはその後、ジェイムズ作品で一貫して取り入れられている結末だ。 とまあ、『皮膚の下の頭蓋骨』、『罪なき血』と後の傑作を先に読んでしまったがためにその後に読んだダルグリッシュシリーズがこのような評価になってしまうのは残念なところ。原本の刊行順で読めばまた感想も変わったかもしれない。 |
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女探偵コーデリア・グレイシリーズ2作目にして最後の作品。前作とはうってかわって、今度は孤島で起こる殺人事件の捜査にコーデリアが当たるという、古式ゆかしい黄金期のミステリのような本格ミステリ風作品になっている。
コーデリアの事務所を訪れた元軍人。彼の妻は女優であり、彼女宛てに数日来から脅迫状が頻繁に届いているのだという。彼の依頼はその妻が今度古城を頂く孤島の持ち主より公演の依頼を受けた、ついてはコーデリアに滞在中の身辺保護を頼みたいというものだった。 ヴィクトリア王朝様式の古城に招かれた人々は一見裕福そうに見えるが、それぞれに問題を抱えている、とミステリの王道を行くシチュエーション。 後にジェイムズ作品を読み進めていくうちに判ってきたのだが、この誰もが何か問題を抱えた人間が一堂に会しているというのはこの作家の作品の最たる特徴である。まだ本書では古城の内部を彩る豪華な調度品や島の風景の描写も精緻を極めており、これもジェイムズ作品の特徴の1つであることが後々解ってくる。つまり本書はジェイムズが本来の創作作法に則って書いた作品であり、『女には向かない職業』の方が、ジェイムズ作品としては異色だったということになる。 前作にも増して2倍以上はあろうかというボリュームと、見開きページぎっしり書かれた文章とで、1時間に40ページくらいしか進まなかった記憶がある。そんな小説は読み疲れして、早く終われ、早く終われと呪文のように頭の中で繰り返し、苦痛を感じながら読むのが私の常だった。 本作でもそうだった。特に前半はほとんど登場人物らの相関や事情、古城ならびに島の描写に筆は費やされており、事件が起こるのは半ばぐらいだったように思う。その事件も密室殺人などといった本格ミステリならではといった派手さもなかった。しかし、コーデリアが犯人の動機を探り当てる段になって、この重厚さによって私の目の前にかかっていた靄が一気に雲散霧消した思いを抱いた覚えがある。今読んでみて、この動機がそれほどのカタルシスをもたらすかどうかは判らないが、当時は「おおっ!」と声を上げたものだ。ネタバレになるので詳細は書かないが、この動機を期待しすぎるとガッカリする方もおられるだろう。しかし私はこういうのが好きなのである。まさしくこれは好みの問題と云えるだろう。 そんなわけで私の評価は1作目よりこっちの方が上。従って1作目を気に入った方は同趣向の作風を求めると、肩透かしを食らって、さほど楽しめないかもしれない。 しかしなぜ早川書房はこのシリーズを先に文庫化したのだろう。それがために私はダルグリッシュ警部シリーズを読むことなく、このシリーズを読むことになってしまった。元々早川書房は原書の刊行順に関係なく、売れ筋の本から訳出、刊行する傾向があったので、恐らくジェイムズ作品も比較的とっつきやすいコーデリア・グレイシリーズを文庫化したに違いない。ま、そんなことをぐだぐだ考えても意味のないことなんだが・・・。 |
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英国女流ミステリの大家P・D・ジェイムズ。彼女の代表シリーズといえばアダム・ダルグリッシュ警部物が連想されるが、それと双璧を成すのが本作を1作目とする女探偵コーデリア・グレイシリーズだ。しかし双璧と成すと云えど、実際にはこのシリーズ、たった2作しかない。なのに読者の支持は非常に高く、3作目を期待する声もあるほどだ(結局書かれなかったけど)。その人気の秘密は主人公コーデリアにある。突然勤めていた探偵事務所の上司の自殺でその事務所を弱冠22歳で引き継ぐことになったコーデリア。彼女のこの若さゆえにまだ残る純粋さが時に武器になり、時に仇となり、まだ彼女にとっては狭い社会との軋轢に悩まされるその姿に多くの社会で働く女性が共感したのだろう。
そんなコーデリアが引き受けた依頼は大学を中退し、自殺した青年の自殺した理由を突き止めて欲しいというもの。最初に手がける事件として、これほどコーデリアに向いている物もないだろうと思わせる、実に上手い内容だ。 とはいえ、事件はさほど印象に残るようなものでもなく、本作の主眼はやはりこのコーデリアが世間に揉まれ、亡き上司の教えを思い出しながら、徒手空拳で事件を探っていくその姿にある。特に私は捜査の途中、コーデリアが古井戸に落ちてしまい、そこから這い上がるシーンがあるが、そこにいきなり右も左もわからないところから必死に這い出ようとしているコーデリアの心情がメタファーとなっており、非常に印象深く残っている。 また本作の歴史的価値も高く、私がミステリを読み始めた頃、世間ではサラ・パレツキーやスー・グラフトンらに代表される4F物なる、女探偵を主人公にした作品が流行していたが、本作はそのブームに乗じた物ではなく、それに先駆けること10年以上も前に書かれた本格的女探偵物だということだ。ちなみに4F物とは作者、主人公、読者、そして日本では訳者が全て女性(Female)という意味。 が、そんな名作も、当時まだミステリ読みとしてはさほど冊数をこなしていない私にしてみれば、いささか退屈を感じたのも正直な気持ち。特にこの作品は章立てが少なく、1章が60ページぐらいあったような記憶があり、細かい章立てでいつでも読み止める事が出来る日本その他の小説に慣れていた私にとって、ちょっと読みづらかった。私はどうもある区切りがないと、読み止めることが出来ない性質なのでこれにはちょっと困った。 小説には読む時期というものがある、というのが持論だが、正にこれはそういう意味では読み時期を見誤った作品といえよう。いつか機会があればもう一度読み直してみたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フィルポッツと云えば『赤毛のレドメイン家』と連想されるように、あまりそれ以外の作品については巷間に知られていない。しかし、逆にそれが仇になっていると私は思っている。
はっきり云って『赤毛~』は今読むとミステリの歴史に燦然と輝く名作かと訊かれれば、万人が万人とも首肯するとは限らないだろう。昔のミステリにありがちな冗長さを感じるし、同じアイデアでもっと優れたミステリが現在では存在しているからだ。だから『赤毛~』を読んで、「なんだ、フィルポッツとはこんなものか」と思われ、それ以外の作品に手を伸ばしていない方々が多くいると思う。しかし、私はそれは勿体無いと思う。なぜなら私は『赤毛~』よりも本書の方が面白いと感じたからだ。 本書は全く『赤毛~』とは設定が違う。なぜなら犯人は誰だという謎解きがあるわけではない。犯人は事前に解っており、探偵はその犯行を暴くために存在している。では倒叙物かと云われれば、そうとも云いきれないところがある。あえて云うならばサスペンスの部類に入るだろう。 本書の主人公は引退した刑事。彼が招待されたホテルで床に就くと闇から聞こえる子供の悲痛な叫び声。しかし子供の姿はどこにも見えなかった。気味悪がった刑事は宿泊客の1人、老婦人にその話をすると、それはこのホテルで亡くなった少年に違いないという。その婦人によればその少年は貴族の息子で、父親と付添夫とで滞在していたが、夜毎彼の叫び声が聞こえ、とうとう衰弱死してしまったのだという。元刑事はその2人が犯人に違いないと見当をつけ、犯罪を証明しようとするというのがあらすじ。 幽霊からのメッセージといささかオカルティックな導入で始まる本書の主眼はこの元刑事と犯人と目される男との頭脳戦・心理戦を楽しむ作品だ。 人間を描くという意味で、既に文学界の大家だったフィルポッツの実力は十分であり、この対決も様々な駆け引きが成され、読み物として楽しめる。『赤毛~』が視覚的に鮮烈なイメージの導入であったのに対し、本作では題名どおり「闇からの声」と聴覚的な導入であるのもなかなか興味深い。 で、本作はホラーではなく、ミステリである。従って冒頭の幽霊からのメッセージも合理的な説明がなされる。私は当時この真相が気に入らなくて、評点を1つ下げたのだが、今ならば、確かにこういうトリックはありえるなぁと思える。 ぜひ読むべきという作品ではないが、読むと意外に面白いといった類いの作品である。 |
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スコットランドヤードの敏腕刑事が休暇中の旅先で恋に落ちる。その女性は人妻であったが、彼女の夫は彼女の叔父に殺され、その叔父ロバートは行方しれず。かくして指名手配になったロバートが各地で現れるという報告が入るが、どうしても捕まえることは出来ない。そのうち、新たにピーター・ガンズなる探偵が登場して・・・というのが本書のあらすじである。
本作は乱歩が当時海外推理小説十傑に値する、と過大なる絶賛をされ、日本に紹介された作品。このフィルポッツというミステリプロパーではない作家の作品が世紀を越えて、今なお文庫で書店に行けば手に入る状況は多分にこの大乱歩の賞賛の影響が大きいに違いない。 そういう前知識があると、本書は多分肩透かしを食らうだろう。ただ、1922年という時代性を考えれば、本作はミスディレクションによる意外性と恋愛とミステリの融合を目指した画期的な作品であると云えよう。 当時イギリスで文豪として名を馳せていたフィルポッツが自身初のミステリを発表したのは60の手前と、時代的に云えば、晩年に差し掛かった頃になる。その動機についてはよく判らないが、やはりミステリ発祥の地イギリスならば、作家たる者、死ぬ前に一度はミステリを物してみたいという風潮があったのかもしれない。 で、文豪の名に恥じず、その描写力は実に絵画的。主人公の刑事が初めて事件の渦中の赤毛の女性と出逢う、夕日と彼女の赤毛が織り成すコントラストの描写など、目に浮かぶようだった。実際このシーンは本作でも象徴的なシーンとして捉えられ、私が持っている創元推理文庫版の表紙絵はそのシーンを切り取った物になっている。 イギリス中を逃げ回っては連続殺人を起こす怪男児ロバートの姿が伝聞によって伝えられるがその様子も頭の中で映像が浮かぶほどだった。特にこのロバートのまとう雰囲気は私がこの本を読んだ当時にまだ流行っていた『北斗の拳』に出てくるような不遜で怪力を誇る大男を連想させ、なんとも恐ろしい殺人鬼だと思ったものだ。本書を手に入れるとすれば、創元推理文庫版と集英社文庫版の2冊になる。後者については読んだことないのでわからないが、前者は訳が古く、かなり読みにくい感じがした。それでもなお、情景が目に浮かぶのだから、この作家の描写力はかなり高い。十分に本作を楽しむためにも、一刻も早い改訳を望む。 そして主人公の刑事は正に本作では道化役。ロバートが引き起こす惨事に常に後手後手に回り、全くと云っていいほどいいところがない。満を持して現れるピーター・ガンズなる探偵が正に全能の神の如く、この事件を解決するのである。 そしてこのガンズによって明かされる真相は実に意外。ミステリを読みなれた人ならば、予想の範疇であろうが、そうでない人にとってはなかなかに楽しめるものだろう。先に述べたが本作の主眼はミスディレクションの妙にある。これを成立させるために人妻に一目惚れする刑事を設定したと云っていいだろう。それまでの本格推理小説でかみ合うことのなかった論理性と叙情性を上手くブレンドし、それをトリックに繋げた作品だ。今で云うならば東野ミステリによく見られる仕掛けだと云えるし、その原型と云ってもいいのではないだろうか。 さて、件の乱歩、よほどこの作品を気に入ったのだろう、自作で本歌取りというか、まんま模倣をして1作作ってしまっている。これはもう人物と舞台設定を入れ替えただけといえるぐらいの出来で、しかも乱歩の代表作の1つとまでなってしまっている。ネタバレ防止のために敢えてその作品の名前を挙げないが、これはミステリ通にはかなり有名な話なので、恐らく大概の方がご存知だろう。それでもそれが茶目っ気だと許されるのも乱歩だからなのだろうけど。 |
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黒星警部シリーズ第1長編。新本格作家がよく付けるような実に衒いのない題名がついているが、ノベルスで刊行された当初は『鬼が来たりてホラを吹く』という実にふざけた題名がついていた。
さて本書もまっとうな本格ミステリ。山奥にある鬼面村(ちなみに読み方は「おにつらむら」)に訪れた黒星警部とフリーライターの葉山虹子が合掌造りの家が一夜にして消失するという奇妙な事件に巻き込まれるというお話。この作者は基本的にもうトリックは既に出尽くしているという認識が強く、これからのミステリは過去の先達が生み出した素晴らしいトリックを別の手法で料理した本格ミステリしか生まれないというスタンスにある。したがって『七つの棺』もそうだったが、本作でも過去の名作のトリックを模倣している。いわゆる本歌取りという手法なのだが、本書ではクイーンの中篇『神の灯』がそれ。そして未読の方が注意して欲しいのは本書では本家のトリックをばらしているということだ。幸いにして私の脳細胞はさほど優秀ではないので、その内容はすでに忘却の彼方にあり、多分クイーンの作品は前知識なしで読めるだろう。 黒星警部シリーズはその三枚目なキャラクターのせいもあって、ドタバタ劇風になっており、案外楽しく読める。パートナーの虹子と警部とのやり取りもほとんど漫才(ただの親父ギャグの連発だという向きもある)。殺人も起こるがどこか牧歌的に物語は進行する。 本書で起こる事件は先に述べたように、あえて前例を踏まえた上で作者なりの味付けがなされているわけだが、そのせいもあり、トリックだけでなく、舞台設定も借り物という感がしてしまう。 ただ大団円を迎えた後のツイストが効いている。これは敢えてある黄金期の作家がある作品でやった趣向を逆手に取ったものだろう(題名を書くとそれがそのままネタバレになるので止めておく)。この一つ手間をかけた味付けを私は買う。 こうやって書くと、私はどうも折原氏の真骨頂と云える叙述ミステリよりも、正統な本格ミステリである黒星警部シリーズの方が性に合うようだ。なんかまた読みたくなったなぁ。 |
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本作は当初「鮎川哲也と十三の謎」と題されたシリーズで『五つの棺』のタイトルで刊行された連作短編集だったが、文庫化になった際、2編足され、そして題名もそれに併せて変更された物。
デビュー作『倒錯のロンド』が凝りに凝った叙述ミステリだったのに対し、本作は実にオーソドックスな本格ミステリ短編集である。主人公は黒星警部で、本書が第1作目。この警部はシリーズキャラクターであり、叙述ミステリではない折原作品で主役を務める(全てではない)。 ただオーソドックスと書いているが、こだわっているのは全てが密室殺人を扱っている点だ。これは本歌取り(ほとんど題名のみだが)したジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』に倣ったものと思われる。実際、収録作の一編には「ディクスン・カーを読んだ男たち」というものさえある。 七編全てを覚えているわけではないが、この「ディクスン~」と1編目の「密室の王者」は未だに覚えていた。前者は確か某F原S太郎氏のトリック暴露本シリーズと云われる推理クイズの1つに取り上げられていたように思う。 後者は“No Smoking”の意味が印象的で、これは未だに駄洒落で使っているくらいだ(厳密に云えば、若干違うのだが)。 本書で初登場した黒星警部にも実は特徴づけが成されてあり、それは本格ミステリ好きの警官で、特に密室殺人に目がないというちょっと御茶目な男である。したがって「密室」と聞くと居ても立ってもいられなくなり、さらに単純な事件でもわざと難しく解釈してあわや迷宮入りさせようとする、実際にいれば絶対に同僚にしたくない人間ではある。 この後、黒星警部のシリーズは主に長編が書かれ、短編は確か今の時点で『模倣密室』1冊しかないはずだ。個人的にこの本は楽しめたので、出来ればこの路線でまだまだ作者には短編を書いてもらいたいものである。 |
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もうお分かりと思うが、折原一氏も創元推理文庫から作品が出ており、彼の作品の読者になるのは当然の流れであった。しかし刊行はこちらの方が先。本作は折原氏が当時江戸川乱歩賞に応募して惜しくも落選した作品。しかも受賞することで完成するという曰くつきの作品だ。そのアイデアが斬新だったせいもあり、当時の選考員の1人であった島田氏がこのまま埋もれさすには勿体無いということで、刊行されたのが本作である。賞に縁のない“無冠の巨匠”島田に見出されることがなかなか皮肉ではある。
折原氏と云えば、彼の作品の最大の特徴は叙述トリックにあると云えよう。昨今は「この作品は叙述トリックを扱ってます」ということ自体がネタバレだという声も聞くが、私は全くそうは思わない。なぜならば元々本格推理小説というのは作家対読者との頭脳ゲームであったからだ。だからクイーンは堂々と“読者への挑戦状”を自作に挿入していた。つまりこの作品で起こる事件というのは自殺ではなく、あくまで誰かがトリックを使って行った殺人ですよと読者と作者との間に前提条件があるのだ。それと叙述トリックであることを事前に断っていることに何の違いがあろう?叙述トリックが使われた作品ならば、作者が仕掛けた叙述トリックを読み解くことが読者の作者に対する挑戦である。確かに何の情報もない方が驚きは増すのは十分理解できるが、そういう人は何か面白い本はないかと他人の感想を参考にすることを止めなければならない。 閑話休題。 本作は『幻の女』という投稿作品を巡る2人の男の物語だ。主人公は作家になる夢を捨てきれず、アルバイトで糊口を凌ぎ、毎年江戸川乱歩賞に投稿しては落選している山本安雄。片や新進作家として注目を集めている白鳥翔。この2人がこの1つの作品を巡って、盗作騒動を起こす。それに殺人事件も絡んできて、物騒な雰囲気を帯びてくる。がしかしそれは実は・・・というストーリー。 さてミステリ初心者がこれを読むと、作者の仕掛けた企みに首肯しづらいのではないだろうか?これはある程度本を読んだ人でないと、この仕掛けと作者の意図を納得できないと私は思う。どういうことかというとネタバレに近くなってしまうので避けるが、一読後、私が抱いた感想は「なんか・・・ズルい」である。 でも受賞して初めてこの作品は完成するという作者の意図を当時の選考委員も汲み取って、単独ではなくとも同時受賞とさせるくらいの洒落っ気なり、粋なところを見せて欲しかったなとは思った。 作家はデビュー作にその本質があると云われるがこの言葉がこれほど当てはまる作家もないだろう。その後折原氏は数々の叙述ミステリを世に送り出すが、私はまだほとんど読みきれていない。 |
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ようやく「これは!」という作家を見出した私は早速各社の文庫目録でトレヴェニアンの作品をチェックした。非常に寡作な作家であり、その時点で入手可能な作品はハヤカワノベルスの『シブミ』と河出文庫の本作と『ルー・サンクション』の3作のみ。『このミス』1位の『夢果つる街』は絶版で長らく手に入らず、98年の復刊企画にてようやく手に入れることが出来た。この作品の感想については後日述べることにしよう。最近桜庭一樹氏が角川文庫の月間編集長になった際、新装丁で復刊されたので以前より触れやすいのでは。未読の方はぜひ読んでみて下さい。傑作です。
話は戻って、当時文庫目録に記載されていたこの作品も入手困難だった。河出文庫は老舗なのだが、書店における棚の占有率は低いため、あまり置かれていない。したがって、これも当時書店に注文して入荷してもらった。同時に『ルー・サンクション』も注文したが、目録に載ってあるにもかかわらず既に絶版だった。しかし『ルー・サンクション』は約11年後、思わぬ形で遭遇するのである。それについても後日感想に述べてよう。 さて、本書だが、いかにも昔の文庫という表紙で、しかも装丁も当時の河出文庫のデザインの1つ前の物だった。このいかにも昔の文庫という表紙とは、猛々しい筆使いの力の入ったイラストで、しかも主人公と思われる人物がまんまクリント・イーストウッド。後で知ったのだが、本作はイーストウッド主演で映画化されていたのだった。 で、感想はといえば、注文してまで手にした甲斐があった。いやあ、これぞ冒険小説だと云わんばかりの内容。優れた登山家にして美術鑑定家ジョナサン・ヘムロックはさらに殺し屋でもあるという、インディ・ジョーンズみたいな人物造形。彼が所属しているCIIに依頼されたのはアイガー北壁の登山隊に合流して、その中の裏切り者を殺せという物。いやあ、シンプルかつスリル溢れる設定ではないか。 シンプルな設定をいかに読ませるかは作者の筆運びにかかっているのだが、このトレヴェニアンという作家は非常にそれが巧みだ。『シブミ』のニコライ・ヘルとは対極にある、洒脱な主人公とそれを取り巻く特徴的かつ魅力的なキャラクター。そして実際作者自身も登山家ではないかと思わせるほどの準備段階での訓練の緻密さ、そしてもちろんアイガー登攀シーンの迫真性。自然という脅威に加えてそこに裏切り者がいるという二重の困難を織り交ぜることで、さらに物語をエキサイティングにしている。これは確かに映画向きだし、表紙の絵も手伝って、私の中でヘムロックはイーストウッドになっていた。 しかし私の貧弱な記憶力ではここまで。誰が裏切り者だったか覚えてません(爆)。しかしそれでも面白かったという余韻は未だに残っている良作である。通常ならば9点を献上するところだが、私は同作者の『夢果つる街』を読んでしまっているのでそれと同列に並べることが出来ないんですね。それくらい『夢果つる街』はお勧めです(あれ、最後は別の本の感想になっちゃった)。 |
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私の現代海外ミステリへ出発はあまりいいものとは云えなかった。気を取り直して今度はもう一方の海外ミステリ出版の老舗、早川書房の本に手を着けることにした。今度は失敗しないようにとどれにしようと迷ったが、やはりここは『このミス』に頼るのが一番だろうと、紐解くことにした。ちょうど私が『このミス』を買い出したのが’94年版で、なんとこの年は過去の『このミス』の国内・海外のランキング20位までが載せられていたので、それを参考にすることとした。で、『このミス』第1号の1988年の1位の作品が『夢果つる街』であり、その作家がトレヴェニアンだったのだ。そして彼のハヤカワ文庫の作品がこの『シブミ』である。
この奇妙な題名の作品。実は原題もそのまま“Shibumi”である。そう、これは日本の「シブミ」を体得した殺し屋ニコライ・ヘルが主人公の物語なのだ。この上下巻に分かれた作品は、まずニコライが日本の軍人と碁の名人に育てられ、日本の精神を学ぶところが上巻で描かれる。とにかくこのあたりの日本人の精神までに入り込んだ内容が実に素晴らしく、これは本当に外国人が書いたのかと何度も疑った。特に題名となっている「渋み」の極意についての説明は実に的確だ。ちょっと抜き出してみよう。 「シブミという言葉は、ごくありふれた外見の裏にひそむきわめて洗練されたものを示している。この上なく的確であるが故に目立つ必要がなく、激しく心に迫るが故に美しくある必要がなく、あくまで真実であるが故に現実の物である必要がないことなのだ」 この内容を十全に解釈することはなかなか難しいだろう。しかし何を云わんとしているかは日本人であればそれぞれ理解できるはずだ。私は「侘び・寂び」の精神だと解釈した。 またニコライは日本人の妻を娶り、自宅に庭園を持っている。この庭園とはニコライ自身がこつこつ作っている日本庭園なのだ。この日本庭園に関する作者なりの解釈も素晴らしい。 曰く、1つ1つを捉えてみれば、それは完成しているようには思えないが総体として捉えると見事な調和を醸し出している。 和の心をこれほどまで掘り下げた作家は、数年後クーンツのある作品を読むまで全く出逢ったことなかった。 そして下巻は一転してニコライの趣味ケイヴィング(洞窟探検)から始まる。つまりこれは上巻が静であったのに対し、動の下巻が始まりますよという作者からのメッセージなのだ。そしてこれが崩壊への序曲。書き忘れたが物語の骨子はローマ空港で虐殺されたユダヤ人報復グループの生き残りの女性が殺し屋ニコライに助けを求めるという物だ。この生き残りの女性ハンナの敵というのがCIAをも傘下に治めるマザー・カンパニーという巨大組織なのだ。「個」対「組織」の戦いは自然、安定した暮らしの崩壊をもたらす。 ニコライは家も日本庭園もマザー・カンパニーに破壊され、日本人の妻も失明する。 もちろんこれこそニコライが敵に報復するための行動原理になるわけだが、上巻で彼の生い立ちと彼の所有物がたっぷり詩情にも似た情感を持って語られるだけに大きな喪失感を読者に与える。これこそ作者の狙いなのだろうが、やはりなんとも哀しいものだ。 しかし、『このミス』1位は伊達ではなかったとの思いを強くした。このトレヴェニアンは寡作家でもあったので、ちょうど集めるには良かったのである。が、しかし目的の『夢果つる街』は実はこのとき絶版であったのだが・・・。 |
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