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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数170件
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とにかく物語を動かしてみよう、主人公らに次々と危機また危機に見舞わせてみようと、実験的に書いてみたような、設定ありきでストーリーは二の次で書いてみたような作品。
そのせいか疾走感は確かにある。が、やはり物語と登場人物に厚みが無い。最後もとうとう収拾つかなくなって、えいやとばかりにデウス・エクス・マキナを放り込んだような閉じ方。 特に最後の締めの言葉は何なんだ?初のシミタツ出演作品? |
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シミタツでは珍しく女性を主人公にして作品。しかも古書店に勤める女性という地味な主人公で、しかも稀覯本を巡る話。およそシミタツには似つかわしくない題材と人物設定で、物語も流されるままに流れていく。
題名は主人公の女性を例えた言葉なのだが、あまり印象的に使われている風でもない。この頃のシミタツはちょっと作品に迷いを感じるのだが、特にこの作品は作者の目指す方向性が見えない当時の状況が露呈しているような内容だ。 |
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綾辻行人氏、法月綸太郎氏、歌野晶午氏、我孫子武丸氏ら4名の島田荘司推薦による作家たちの作品が「新本格」と名づけられ、ミステリ界に新本格ブームが巻き起こった。そのブームに有象無象の新本格作家が続々とデビューし、また消え去っていった。
この斎藤氏もその中の1人であるが、ちょっと毛色が違って、本格ミステリだけでなく、『魔法物語』というファンタジーのシリーズ作品も書いている。 また専業作家ではないようで、何年かに1冊の割合で細々と新作を発表している。 その少ない作品の中で「思い」シリーズといわれるミステリシリーズがあり、本作はその第1作。 推理マニアの大学生大垣は合宿先の殺人事件を見事解決して帰ってきたところだった。同じアパートに住む陣内からその一部始終を話してみろと云われ、大垣はその顛末について語る。 彼は所属するテニスサークルの夏休み合宿で吊橋を渡った断崖にある洞窟と一体となった館に行った。そこで何者かに吊橋が切られ、外界との接触を断ち切られる。それを皮切りにその館で次々と殺人事件が起こり出す。 この内容を見ても本格ミステリのコードを忠実に再現した作品であるといえよう。目新しいところでは物語の時間軸が既に探偵が事件を解決した後であるということだ。そしてそれを聞いた陣内がまんまと犯人のミスリードに嵌ってしまった探偵に代わって真相解明に乗り出すという二段構えの作品となっているところか。 しかしこの斉藤氏の諸作は実に実験性に富んだ作風である。探偵不在の状況で真の探偵が事件を解明するという趣向、探偵役が後日事件を語るということによる事件の最中における探偵役の存在意義、そういったものが見え隠れする。 しかしそのあまりに平板な文章はなんのケレン味もなく、物語にフックが感じられない。実験小説なのだろうが、何の血も通わない人々が行き来し、行動する様子をただ眺めているだけで、推理クイズに特化した作品のように感じた。 寡作家の斉藤氏の文庫作品は全作品が文庫化されているわけではないため、輪を掛けて少ない。さらにそのほとんどが絶版である。しかし書物の森を逍遥して探し当てて読むほどの価値はないというのが私の個人的な意見だ。新本格草創期の幻の作品をぜひとも読みたい方のみお勧めする作品だ。 |
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私がなぜこの作家の作品に触れたのか、そのきっかけは今となってはもはや思い出せない。『このミス』でも何度かランクインしている新本格以前のミステリ作家であり、2007年、惜しまれながら夭折した。
本書は角川書店が開催する横溝正史賞を受賞した作品である。 出版記念パーティに寄せられた深紅の薔薇に包まれたナイフとファンの1人と思しき糸越魁なる人物からの脅迫状。作者の深井慶は自作の映画化のために関係者とともに渡欧するが、その最中にロンドンで父が殺される。一行は一旦帰国するが、再び渡欧することになり、再び糸越魁の襲撃に出会う。 非常に読者を選ぶ作品だと思う。少女マンガ的な登場人物と舞台設定は女性読者の方が肌にあっているのかもしれない。今にして思えばどこか『虚無への供物』に似た雰囲気を持った作品だと云えるかもしれない。 で、終始なんとももやもやした、掴み所のない感じで物語は進むが、横溝正史賞の名に恥じないトリックも盛り込まれており、率直な感想を云えば、それだけでも本書を読む意義はあったかと救われた思いがしたものだ。 ミステリとして読んだ私は最後の最後までこの世界観に没頭できなかった。おかげで犯人はすぐに解ったのだが。逆にこの手の作品が好きな人は雰囲気にのめり込めるだろうし、そういう人はミステリ的仕掛けにビックリするのかもしれない。そういう意味では横溝賞受賞というレッテルはもはや邪魔なのかもしれない。 現在は長らく絶版で、今なら電子書籍で読めるようだ。私が持っていた文庫の表紙は天野喜孝で、実に雰囲気とマッチしている。この頃はアルスラーン戦記とかけっこう文庫の表紙は天野氏のイラストが席巻していたんだなぁと関係のない事を思い出してしまった。 |
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タイトルを見ると綾辻行人氏の館シリーズを思わせるが、さにあらず。叙述ミステリの第一人者折原氏による館物ではなく、叙述ミステリである。
ミステリ講座を開いているロートル作家が再び世に大作を問わんと執筆活動に専念するため、山小屋に閉じこもる。そこへ現れた若く美しい女性。彼女は作家志望者で自分の書いた作品を男に見てもらいたいがためにその小屋を訪れたのだった。 その女性と親しくなり、英気を養った男は活発な創作意欲を発揮し、『螺旋館の殺人』なる自信作を見事完成させ、出版担当者に渡すが、その担当者は電車で移動中に居眠りしてしまい、原稿を紛失してしまう。 後日、ある女性が『サーキュラー荘の謎』という作品で新人賞を受賞する。その女性はなんと男を訪れた作家志望の女性であり、受賞作は彼の『螺旋館の殺人』そのものであった。そして受賞者は浴室で死体となって発見される。 とまあ、『倒錯のロンド』から派生した姉妹編のような作品だ。もともと折原氏は『倒錯のロンド』に始まる「倒錯」シリーズを三部作で構想しており、すでに2作目の『倒錯の死角』まで発表していた。本書はしかしそのシリーズの番外編と位置づけられており、「倒錯」シリーズにカウントされていない(ちなみに3作目は『倒錯の帰結』)。 作中に主人公のロートル作家の手になる『螺旋館の殺人』が断片的に挿入されるが、これが片手間で書かれたとしか思えないレベルの物で、読者の期待に応える出来ではない。一応本家綾辻氏を意識した文体で書かれているが、出来栄えは悪い。これでよく再起を賭けたものだと思うくらいだ。 御得意の作家志望者を軸にした盗作疑惑ミステリはその後、事実が二転三転はするものの、読んでてどうでもよくなってくる。最後のエピローグの落ちは個人的には不要だと思う。綾辻氏張りの館物を期待した読者は全くの肩透かしを食らうだろうし、折原氏の叙述トリックを期待した読者は物足りなさを感じるだろう。 折原氏の作品はどれも設定が似ているので続けて読むには面白みが半減してしまう。あの手の話が読みたいなぁと思った頃に読むのが得策だろう。 |
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火村・有栖川コンビシリーズの1作。本書はこのシリーズの第1作ではないが、私が読んだのはこれがシリーズ最初の1作だった。
私は基本的に文庫化されないと読まないというのは先の『マジックミラー』の感想にも述べたが、本書は第1作の『46番目の密室』よりも先に文庫で刊行された。 というのもこの作品は当時カドカワ・ミステリ・コンペ(通称「ミスコン」)というイベントで文庫書下ろしで発表された作品。確か10人くらいの作家に書き下ろし作品を書いてもらい、読者から優れた作品を選んでもらうといった内容だったと記憶している。この企画は恐らく好評であれば定期的に行われる予定だったのだろうが、結局1回で終ってしまった。また最終的にこの「ミスコン」でどの作品が1位に選ばれたのか寡聞にして知らない。 サルヴァトール・ダリを心酔する宝飾チェーンの社長が殺された。死体はフローとカプセルの中で発見され、彼のトレードマークであるダリ髭が無くなっていた。この事件に犯罪社会学者火村英生とアリスのコンビが挑む。 まず私はこの火村・アリスコンビは『月光ゲーム』、『孤島パズル』、『双頭の悪魔』のコンビと勘違いしていた。従ってかなり期待値が高かった。なぜなら両方とも作者同名の登場人物が出るので、この勘違いは私だけではないと思う、絶対! そんな大きな勘違いの下、読んでいたせいか判らないが、特に印象は残らなかった。髭が無くなるというのはこの作品の前に読んでいた天藤真氏の『鈍い球音』のトレードマークの髭のみ残して失踪するという逆パターンを想起させ、奇抜さを覚えず、逆に二番煎じだなと思ったくらいだ。 この作品でミスコンなる読者投票型イベントで上位を獲得しようともし作者が考えていたとしたら、自分の人気に胡坐をかいた行為であるとしか思えないのだが。 モチーフとなるダリもあまりストーリーに寄与しているような感じではなかったように思う。もう1つのモチーフ、繭を象徴するフロートカプセルは今でも鮮明に覚えている。 本書を読んだ私は当時大学生であったが、工学部に所属していた私はレポートに追われる毎日で、睡眠不足の毎日を送っていた。そんな中、本書に出てきたフロートカプセルはなんとたった20分浸かるだけで、9時間の熟睡と同じ効果が得られる(確か)という画期的な装置と紹介されており、一読、これはぜひ欲しいと思い、今に至る。またその分読書に時間を当てられると思ったりもした。 この本を読んでもう15年以上は経つが、今でもあるのだろうかこのフロートカプセル。結婚し、自分の時間がなかなか取れない日々、もしあればぜひとも欲しいアイテムではあるのだが。 という風にミステリとしての出来よりもこのフロートカプセルに思考が行ってしまう、そんな作品だ。 |
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この奇妙な題名は英語ではなく、イタリア語。意味は“もしもし”。そう、電話に出る時に云うあの“もしもし”だ。レナード作品の舞台といえば、フロリダのある南アメリカやメキシコなどの中南米が多いが、本書では海を越えたイタリア。しかし地中海に面したこの国はヨーロッパでも温暖な気候であり、ラテン系民族が多くて国民性は陽気だから、扱う人物達もそう変わらないのだろう。
スポーツ賭博師であるハリー・アーノウは65歳で引退し、イタリアの地で晩年を過ごそうと計画していた。しかし儲けをくすねていたことが元締めにばれた上、FBIが元締めを逮捕するために張った罠のおかげで、命を追われるようになった。保釈されたハリーは早速憧れの地イタリアに飛び、恋人を呼び寄せるが、元締めの手下と警官も彼の後を追ってきて・・・。 主人公が66歳というのがまず驚く。1993年の作品である本書を著わした時のレナードの年齢は68歳だから、同じ年代の人物を主人公にしたようだ。このハリーは実在した詩人エズラ・パウンドに心酔しており、彼のゆかりの地であるイタリアで隠居生活を送ることを理想としているのだが、面白いことに心酔する詩人の詩をちっとも理解していないのだ。こういうミーハー心というのは日本人も往々にしてあることで、映画・ドラマや音楽や小説・エッセイなどをろくに読んでなくても「ファンです」と公言する輩はかなりいる。 大抵のアメリカ人は引退後の生活をフロリダで暮らしたがるそうだ。人生残りの日々を南国でお気楽に暮らしたいというパラダイス願望というのがあるのだろう。無論私もそういう生活に憧れるのだが、何もせずに暮らすというのが出来ないのが日本人の特徴で、退職してもなお働きたいという人が多くいる。この辺は全くアメリカ人は理解できないらしい。 このハリーの願望がそのままレナードのそれを投影しているかどうかは解らないが、風光明媚なヨーロッパというのはやはりアメリカ人にとっても憧れではあるようだ。エルキンズなんかは特にその作品を読むとその傾向が強いことがよく解る。しかし物書きとしてなかなか踏み切れないところがあるだろう。まあ、当っているかどうかも解らない勘繰りはこの辺で止めておこう。 本書でも個性的な面々が本作は出ているのだが、なんか全体的に話が散漫に感じた。レナードには珍しく、主人公のハリーがなかなか動かないキャラクターだった。賭博師という裏社会を渡り歩いた彼の老獪さはあるものの、やはり従来のレナード作品に出てくるような元シークレットサービス、元特殊部隊、警官、刑事らとは違い、肉体的な動きが少なく、知謀知略、いや正確な書き方をするならば悪知恵を働かせて戦うのではなく生き延びることを模索するキャラクターというのはある意味レナードにとっても挑戦だったのかもしれない。が、しかし本書を読むには成功しているとは思えない。 本書は当初ハードカヴァーで出た。けっこうな分量もあり、それなりに値段も高かったように思う。これは文藝春秋がレナード作品を同じ版型で出していたことを受けての出版だったのだろうが、本書が訳出された94年では既に文藝春秋は文庫へと版型を移行しており、角川書店は遅きに失したようだ。私は文庫版で本書を読んだが、実際この後同会社から出たレナード作品は『ゲット・ショーティ』以降、文庫で出版されているから、本書はあまり売れなかったのだろう。これは世の流れを読み誤った出版社側のミスでもあり、版型を決める際に中身を吟味すべきだったと思う。 海外ミステリの不況が嘆かれる昨今だが、昔から海外ミステリの出版状況を見ていた私にしてみれば、本書のようなコストパフォーマンスの低い作品をハードカヴァーで出して利益を得ようとした出版社側の怠惰も大いにあるのではないかと強く思う。 そういう意味では罪深い一冊ではないだろうか(ちょっと云い過ぎ?)。 |
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ディズニーキャラクターは今なお根強い人気を誇っているが、その中の1人(1匹?)、くまのプーさんはこのミルンが原作者である。
ミステリ黄金期には他ジャンルの作家もミステリを書いていると既に述べたが、なんとミルンのような童話作家でさえ、ミステリを書いているのだから、当時のミステリに対する文壇の注目度、興味の高さが計り知れよう。しかも館物である。今でいうならば、『アンパンマン』の作者やなせたかしが綾辻氏ばりに「~館の殺人」なるミステリを書くようなものか(ちょっと誇張しすぎ)。 旧友べヴリーを訪ねにふらりと彼の宿泊する「赤い館」に立ち寄った放蕩児アンソニー・ギリンガム。田園風景広がる田舎に立つその館ではなんと客の1人が何者かに殺害されるという事件が起きていた。その客は館の主の兄で嫌われ者のロバートだった。さらに当の館主は行方をくらましていた。 アンソニーはべヴリーと共に素人探偵よろしく事件の捜査に挑む。 くまのプーさんの作者によるミステリという先入観を抜きにして、本書はおよそ殺人事件を扱ったミステリとは思えないほど牧歌的にストーリーは進む。周囲に広がるのが田園風景というのもそれを助長しているが、さらに加えて素人探偵アンソニー・ギリンガムと友人ベヴリーのやり取りが面白半分に探偵ごっこをしているような感じで、緊張感の無い会話と共に捜査を進めるのがさらにその雰囲気に拍車を掛けている。 しかし本書で探偵役を務めるこのアンソニー・ギリンガムが横溝正史が生んだ名探偵金田一耕助のモデルであるというのはミステリ識者にはつとに有名である。確かにふらりと現れた放浪者がおよそ知性とはかけ離れた雰囲気を持ちながら事件を解決するというのは確かに金田一と共通するところがある。 またこのように殺人事件という忌まわしい出来事が起きていながらものどかに物語が進むというのは天藤真の作風をも想起させる。直接的・間接的にこのミルンの作風というのは今の一部のミステリ作家に何らかの影響を与えているようだ。 そして本書で明かされる真相及び犯人はけっこう驚愕するだろう。特にミステリを読み慣れた人ならばなおさらこの仕掛けは有効に働くに違いない。ミステリプロパー以外の作家だからこそこのような思いついたアクロバティックなプロットだと云える。 ただ本書は作者としては非常に不本意な形で有名である。それはハードボイルド作家かつアメリカ文学の文豪の1人と称されるレイモンド・チャンドラーが自身のエッセイ「むだのない殺しの美学」で本書を取り上げて散々にこき下ろしているからだ。曰く、リアリティに全く欠けると痛罵とさえ云える苛烈な批判である。 が、しかしながら現代の目を持って本書を読むとそれもむべなるかなと思う。 既に述べたように、ごっこのように探偵趣味に興じる二人の態度もそうながら、一番痛いのは肝心のトリックを成立させることが実に非現実だということだ。ネタバレになるので詳しくは書かないが、今のミステリ作家ならば決して犯さないであろう大きなミスを本書では犯している。それゆえこのトリック自体が成立すること自体不可能ということになっているのだ。 つまり本書はミステリプロパーが精通していない警察の捜査というものを頭の中で描き、しかも当時、そして今でも見られる道化役としての警察を物語に導入して、とりあえずこんな形のミステリを書いてみたといった感じの作品となっているのだ。 ただ上に書いたようにその作風もさることながら、日本を代表する名探偵のモデルが本書にあるだけでも少なくとも日本のミステリシーンに影響を与えているのは間違いなく、また偉大なる文豪に批判ではあるが作品を取り上げられたことでも歴史に残る1作といえよう。 ただ、この訳文の読みにくさはどうにかならないものだろうか?幾度と版を重ねている本書の歴史的意義を讃えているならば、版元はそれなりの改善をすべきだと思うのだが。 |
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ミステリ黄金期と呼ばれる1920年代から30年代にかけてはミステリプロパー以外の他分野の作家も積極的にミステリ作品を発表している。有名なところではフィルポッツの『赤毛のレドメイン家』、ミルンの『赤い館の秘密』などなど。そしてこのベントリーもその中の1人。
とはいえ、本作はその黎明期における1913年での発表であることから、厳密に云えば彼の作品は黄金期以前のものとなるが、それゆえに現在でもなおこの作品の歴史的意義が高いものとして評されていると推察される。 物語は自分の屋敷の庭で射殺体となって発見された財界の巨人と称される大物の死の真相と犯人を探偵トレントが探る物。 まず誰もが驚くのがそのタイトル。1作目にして「最後の事件」と冠されている事だ。現在のミステリファンならば「~最後の事件」とついた作品ならば誰もが名探偵の死を連想することだろう。これはネタバレにならないので敢えて述べるが、本作では探偵トレントが死ぬわけではない。この題名の由来は単純に作者ベントリーがこの作品を彼にとって最初で最後のミステリにしようと考えていたからに過ぎない。しかし現代も作品が残されていることからも解るように、望外の好評を以って作品は受け入れられ、結局ベントリーはその後も作品を著わし、結局3編創られた。 本書はミステリの歴史上、画期的な作品として評価されている。それはミステリに恋愛の要素を持ち込んだからだ。それまでの探偵は知的好奇心と探究心が突出した奇人・変人の類いのように描写され、ミステリ作家は読者に印象付けるためにその特異性のみを追求していた。それゆえ、「思考機械」と呼ばれるほどの無機質な人間までが登場することになった。しかしベントリーは探偵に恋をさせ、あまつさえ一度推理を見誤らせさえもする。つまり紙上の作り物めいたキャラクターから感情を持った、読者と変わらぬ1人の人間として描いたところにこの作品の歴史的価値がある。 しかし発表から既に100年近く経った21世紀の今、本書を読むと他の古典ミステリとの差異は見出せないかもしれない。私は大学生当時本書を読んだが、その時は幸いなことに上の事実には気づいた。おまけに古典ミステリにおいて初めて本書で感情を表す文章描写で犯人を絞り込むことが出来たくらいだ。 今あるミステリ、例えば後年クイーンがエラリーを悩める探偵にした萌芽がこの作品にあるとすれば確かに本書の歴史的意義は高いだろう。しかし、だからといってぜひとも読むべき作品であるとは声高には云えない。ミステリ好きが高じて、その源泉を辿る興味を持たれた方は読んでしかるべき作品だということに留めておこう。 |
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いまや現代女流作家の代表格となっている宮部みゆき氏。デビューしたての当時は同時期にデビューした高村薫氏が高村薫女史という呼称で呼ばれたのに対し、宮部みゆき嬢とかミステリ界の歌姫などと呼ばれていたのが非常に懐かしい。
私が彼女の作品を読んだのは既に『火車』まで刊行されており、その評価は既に固まっていた時期。一連の創元推理文庫の日本人作家シリーズの一角にこの作品は名を連ねられていたが、当時私は本格ミステリの方に傾倒していたこともあって、どうも毛色が違うなぁと思っていたことと、ブルーのバックに赤いボールペンのような物で殴り描きされたような表紙絵がなんとも食指を動かされず(ちなみに今出回っている文庫本とは絵が違う)、ずっと買うのを躊躇していたが、『火車』が93年版の『このミス』に2位にランクインしたことを契機に手にとってみたのがこの作家との出会いだった。 開巻していきなり高校野球児の焼身死体というショッキングな幕開けで物語は始まるが、そこから物語のトーンは一転してライトノベル調になる。もはや有名なので誰もが知っていると思うが、この作品は警察犬を引退して蓮見探偵事務所に変われることになったシェパード犬マサの一人称視点で物語が描かれるのだ。つまり語り手は犬という大胆な構成で物語は進行する。 一人称叙述というのは作家の方なら誰もが知っていると思うが、実は非常に難しい。なぜなら主人公が関与した事柄でしか物語を進行させられないからだ。既に賞を受賞していたとはいえ、実質的にはデビュー前である宮部氏がいきなりその一人称叙述に挑戦し、しかも語り手は人ならぬ犬という二重のハードルを課していることに作家としての意欲よりも不安が先に立った。 この文体についての感想は、よく健闘したなぁというのが正直な感想だ。綱渡りのような物語進行を感じ、物語そのものよりも作者が馬脚を現さないかとヒヤヒヤしながら読んだ記憶がある。しかしやはりこの奇抜な叙述を押し通すのは難しく、途中で三人称叙述を採用せざるを得なくなっているのは致し方ないところか。 また大げさな比喩も気になった。物語に溶け込むようではなく、どちらかといえば、ページを繰る手を止めさせて、どんな例え?と考えさせるような比喩だ。大げさ度でいえば、チャンドラーを想起させるが、味わいは全く逆で、実に軽く、ライトノベル調をさらに助長させていると感じた。 物語は焼身死体の高校野球のエースの家出した弟ともに進行する。内容は昔よく挙げられていた高校野球に纏わる不祥事の隠滅もあるが、さらに大きな陰謀もある。それがタイトルの由来ともなっているのだが、作者のストーリーのための設定という枠組みから脱しきれてなく、その嘘に浸れなかった。 今まで書いたように宮部氏のデビュー作である本書は実は私にとってはそれほど面白かったものではなく、むしろネガティブに捉えられていた。恐らく『火車』の高評価が私に過大な期待をもたらしたのだろうとも思う。しかし読後感は悪くなく、前向きな気持ちにさせられる爽やかさは感じ取った。 この作品を読んだからこそ、続く『魔術はささやく』、『レベル7』が面白く読めたのは事実。この2作品のテーマに挙げられた作者の嘘を許容する下地が本作を介して私の中に出来上がったといえる。そういう意味では宮部ワールドを理解するための毒味役ともいうべき作品なのかもしれない。 |
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カーによる当時アメリカで人気を博していたアニメ『トムとジェリー』を主人公にしたミステリのノヴェライズ版・・・ではもちろんない。妙な題名だがれっきとしたフェル博士シリーズである(ちなみにWikipediaで調べてみると、『トムとジェリー』はなんと1940年に既に放映開始されており、本作の発表が1942年だから符合はする)。
事件はアイアトン判事という被疑者に容赦なく死刑を判決する判事が娘の婚約者を殺したかどで自身が被疑者になるという、なかなかドラマチックな内容である。 題名の話に戻るが早川書房のポケミス版では英国版の原題を忠実に訳した『嘲るものの座』となっている。意味は解りにくいものの、まだましだ。本書の題名は文中にある容疑者となる判事が「猫が鼠をいたぶるように」被疑者を追い詰めるという表現から来ている。しかしもう少し何とかならなかったものだろうか。全く読む気をそそらない題名である。 で、本書のメインは殺人現場にいたのが判事と被害者のみという状況の中、フェル博士は本当に判事が殺ったのか否か、解き明かせるかという至極シンプルな問題だ。ここで注目したいのがあくまで容疑者の冤罪を証明するのが誰からも嫌われている人物だというところだろう。こういう趣向の作品では往々にして価値観の逆転が起こるもので、ドラマとしては読み応えがあるのだが、ここで敢えて云えば、その期待は裏切られる。カーが以前より作品に盛り込んでいた人間の予期せぬ行為が不可能・不可解状況を生むという趣向はありはするが、作品にプラスアルファに働いているかといえば、そうでもない。 後々気づくのだが、本作でカーがやりたかったのは『ユダの窓』の別ヴァージョンではないだろうか。敢えてこのような結末を取ったのはカーとしてはその作品があってこそのひねりだったと思い、自身はほくそ笑んでいたのかもしれない。が、作品としては凡作にすぎず、最後に読み終わった率直な感想は、ちょっと際どい表現になるが単純な事件を単にこねくり回して遠回りさせられただけだという感慨でしかない。恐らく読み終わった時、全ての読者が私と同じ表情をするのではないだろうか。その光景だけが目に浮かぶ。 |
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フェル博士シリーズ第1作目。設定的には『連続殺人事件』や『プレーグ・コートの殺人』や『赤後家の殺人』などでよく使われる昔から因縁のある建物で起こる怪事件を扱った作品である。
舞台は集団コレラによって閉鎖された監獄跡、通称「魔女の隠れ家」。そこには監守の末裔は25歳の時にたった一人で監獄の長官に入り、そこの金庫の中に入ってある文章を確認しなければならないという儀式があるというシチュエーション。さらに一族に纏わる古き因縁からの呪いの逸話。そして期待を裏切らずにそこで起こる密室殺人事件。どこをどう取ってもカー印のミステリである。 しかしカーの初期の作品である本書は実にオーソドックスに展開する。とはいえ、凡作というわけではなく、事件が起こる舞台の背景事情、殺人も1つではなく2つ起こる点、さらにその2つともがよく練られていることなど、色んな仕掛けが盛り込まれているのはこの作家の若さゆえの創作意欲の発露だろう。しかしやはり記憶にとどめるだけのパンチ力がないというのが率直な感想だ。 しかし最後の犯人の往生際の悪さはカー作品の中でも群を抜く。言い訳とみっともなさをこれほどまで犯人に盛り込んだのは、その頃、カーの身辺にモデルとなるような人物でもいたのだろうかと勘繰るほどだ。まさかねぇ。 私はこの作品と傑作短編「妖魔の森の家」とをよく混同してしまう。なんとなく雰囲気といい、題名といい、類似性があると思うのは私だけだろうか? |
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なんとも素っ気無い題名だが、実際のところ、この題名は正確ではない。原題は“The Case Of The Constant Suicides”といい、『連続自殺事件』が正しい題名。
スコットランドの田舎町にあるシャイラ城。この城には昔の城主が塔から自殺したという言い伝えがあった。しかもそれは亡霊によって起きたという別の言い伝えもあった。そしてまたキャンベル一族の長アンガス・キャンベル氏が塔から墜落死するという事件が起こる。事件当時、部屋は密室であったことから自殺のように思われたが、いくつかおかしい点があった。実はアンガスは直前に多額の生命保険に加入しており、自殺では保険が下りないこと。事件当夜に友人のフォーブスと言い争いをしていたこと、さらにベッドの下に見慣れない犬用のケースがあったこと。これらの状況から親族の間では他殺ではないかと思うようになり、知り合いのフェル博士に事件の調査を依頼する。 事件を再現しようと遺産相続人のコーリンが同じ状況で塔の頂上の部屋で一晩過ごすと、アンガスと同様に飛び降りてしまう。一命はとりとめたが、今度は容疑者であるフォーブスが自宅で首吊死体として発見される。 とこのように事件は全て自殺のような状況であり、これを考えると邦題はほとんどネタバレである。とはいえ、たいていのミステリ読者ならば人の死を扱った小説、しかもミステリが自殺で終るわけではないことは暗黙の了解であるから、タイトルが誤訳でしかもネタバレなどと糾弾するほどのものではない。 本作はよくカー入門書として最適だと云われている。事件の怪奇性に加え、カー特有のファルスも織り込まれており、さらには中心人物の男女2人によるラブコメ要素も盛り込まれていることから、カーのエッセンスが詰まった作品と云え、確かにその意見には頷けるところがある。 が、しかし本作には事件の解決に関わる致命的なミスがあり、これが当時でも話題になり、現在でもこの作品はその一点が汚点として残っている。 私も読んだ当初、この真相に対して不満を持った一人で、それが上の評価に表れている。もしカーを多数読んだ今、本作を読んだとしてもこれについてはカーだからという寛容さを示すことなく、今なお変わらない評価を下すだろう。 事件が不整合性を伴い、なんともちぐはぐな状況で起きたことが、実は被害者自身の意図が介入した故に起こったことという趣向は前に読んだ『緑のカプセルの謎』もそうだが、カーの作品には多数あり、それが傑作に繋がっている。つまりあくまで完全なロジックの構築で事件を解決したクイーンと違い、カーは登場人物をミステリを構成する駒ではなく、意思を持った人間として描いたからだろう。本作にもその考えが盛り込まれており、それが故、あたかも自殺事件が連続したかのように見えたという結果を生み出している妙味が味わえるだけに、このミスは非常に勿体無い。 |
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数あるカーの作品の中でもとりわけ分厚いのがこの作品。調べてみると500ページ以上あり、カーの他の作品でこのくらいの厚さの物は、『ビロードの悪魔』以外思いつかない。しかし『ビロード~』が厚さに比して内容も充実しているのに対し、本作は単に厚いだけと云わざるを得ない。しかしこの作品はどうしてもこの厚さになってしまう。それについては後で話そう。
本作の概要は以下のような物である。 古代アラビアの遺物を陳列する博物館でパトロール中の警官が白い付け髭をつけた不審者に襲われる。その警官はその男を倒し、応援を呼びにいこうと歩みだして、振り返るとその男は姿は消していた。事件の匂いを嗅ぎつけた警官は管理人と共に博物館内を捜査すると案の定、展示品の馬車の中に死体を発見する。なんとそれは警官を襲ったその男であったが、付け髭はなぜか白から黒へ変わっていた。しかもその死体は料理の本を携えていた。 そこへ無人の博物館に招待されたという博物館の主の娘の婚約者が現れる。警官たちは娘ミリアムを探そうとするが、この奇妙な事件はさらに様相を複雑化する。 さてなぜ本作がカーでも随一の大作であるかといえば、本作でカーが試みた趣向とは同一事件を複数の人間がそれぞれの視点で解き明かすことを主眼にしているからだ。恐らくこの趣向は先に書かれた『剣の八』を翻案としているように思われる。『剣の八』では探偵たちがいっぱい出ることで逆に事件がかき回されることを狙っていたが、本作では逆に探偵役を3人出すこと―フェル博士も含めると4人―で、それぞれの主観による錯覚を利用し、事件の意外な側面をその都度浮き彫りにしていくことを狙ったようだ。そしてそれを聞き手のフェル博士が全ての情報を統合して唯一の真実を導き出す。確かに面白い趣向であることに間違いなく、実際アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』はこの形式のミステリで傑作として今でも評価が高い。ちなみに『毒入り~』が書かれたのが1929年、本作は1936年の作品であり、カーとバークリーは交流もあったので、カーはその作品が念頭にあったに違いない。 しかし、この作品は同じ趣向を用いながらもなんとも退屈。何度も同じ事件が繰り返し語られるようになり、それがまた面白ければよいのだが、事件に派手さがないため、かなり苦痛を強いられる。しかも物語の大半を関係者の聞き込みに費やしており、さらにそれぞれの犯行が起きる時系列が入り組んでいるので、事件の大要を理解するのもかなりの熟読を要する。この辺は作者が一通りどこかで纏めてくれれば非常に助かるのだが。 やりたいことはわかるがどうにも冗長さを感じざるを得なく、カー作品全作読破を目指す人のみお勧めする作品だ。 |
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東京創元社によるカーの第3短編集。これも独自に編まれた短編集で、ノンシリーズが2編の他にフェル博士物、マーチ大佐物、HM卿物とカーの作品のほとんどの探偵が出ており、かなり贅沢な印象を持つが、各編の中身はさほどでもない。
この中で印象的だったのは実はノンシリーズの2編だったりする。表題作と「黒いキャビネット」がそれに当たるが、というのも双方とも事件とは別の真相が含まれており、それが私の琴線に触れたところが大きい。具体的に述べると未読者の興を殺ぐから避けるが、現実と虚構のリンクという趣向が当時の私は好きだったのだろう。 その他、岬の突端で死んでいた死体のところには被害者の足跡しかなかった「見えぬ手の殺人」、監視の中で起きた銃殺事件で、犯人はある男を示していたという「ことわざ殺人事件」、針のような物で脳を刺され女性が死んだが凶器が見つからない「とりちがえた問題」、トンネルの中で失踪した女性の謎を描く「外交的な、あまりにも外交的な」、突然奇行を振舞った男の失踪の謎を解き明かす「ウィリアム・ウィルソンの職業」、『赤後家の殺人』の原版とも云える呪われた部屋で起きる事件、「空部屋」。闇から聞こえるささやき声とガス中毒殺人未遂に逢いそうになった女性を助けるHM卿の事件、「奇蹟を解く男」と怪奇色や不思議な事象をモチーフにした短編が多いが、あまりそれらは記憶に残っていない。 というのもまだカーを読み始めて間もないこの頃はそのエキセントリックな作風にまだ馴染めていなく、しかもフェル博士、HM卿といったカーのシリーズ探偵もこの短編集で初めて出逢ったため、性格とその面白さが全くといっていいほど掴めてなかった。また加えて読みにくい訳文(改訳を強く要請する!)も手伝って、あまり楽しめた記憶がない。しかしそれでもこの後、A型気質ゆえの執着心で読み続け、現代に至ってもカーの未読本が復刊、刊行されると手を出しているのだから、三つ子の魂百まで(?)というのはよく云ったものだ。 |
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囁きシリーズ第2弾。この作品を読んで、綾辻氏が目指すのはサイコサスペンスの様式で本格ミステリ的サプライズを仕掛けようということがよく解った。
前作が女学園での惨劇ならば本作は双子の美少年の周りで次々と起こる不可解な殺人事件をテーマにしている。これで綾辻氏がこのシリーズで敢えて少女ホラー漫画で取り上げそうなネタを使っているのがさらに補強された形になる。 なぜかように少女漫画チックなモチーフを使うのだろうか。それはつまりそれは美しさには影があり、それは狂おしいほど残酷なものだということだろうか。これは綾辻氏の美学そのものであるのかもしれない。 前作では閉鎖された集団の中でいつの間にか形成される社会とは違った歪んだ常識が、そして本作では子供の独特の世界観で気づかれる価値観が物語の底に流れている。そしてそれらは全てある忌まわしい記憶に起因しており、その正体こそがこのシリーズにおけるサプライズだと云える。 あと本書では綾辻氏のある作品についてリンクがなされており、その作品は未読であったが、すぐに気づき、「おっ」と思ったものだ。館シリーズぐらいしか作品世界に相関性を持たせていないように感じたが、意外と探してみるとあるのかもしれない。 こういう物語が好きな人にはこのシリーズは堪らないのだろうが、私は実はかなり苦手。館シリーズに比べて起伏が少ないストーリー展開と、まだるっこしさを感じる抑制された文体。疲れているときに読むと何度も眠気で中断してしまうように感じた。 だから上の評価は全く以って私の好みに起因する。しかしショックが与える心、記憶への影響というものを理解している今ならば、この障壁は取り除かれて、この評価は高くなるかもしれない。なのでこういうのに興味がある人はぜひ一読してもらいたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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館シリーズと双璧を成すのがこの囁きシリーズだが、私の中では館シリーズよりと比してさほど印象に残っていない。片やど真ん中のバリバリの本格ミステリであるのに対し、このシリーズはサイコサスペンス的要素を備えたミステリであることがその最たる要因だろう。綾辻行人という作家は、どんな作品でもサプライズが無ければならないという持論があり、サスペンス調のこのシリーズもその主義は貫かれており、最後にあっと驚く真相が隠されている。
しかしどうも私はこの幻想風味の文体と物語が苦手で、耽美な美しさとか妖しい魅力などよりも一向に進まない物語へのじれったさの方が先に立ってしまい、あまり楽しめなかった。私はこの手の作品の良い読者ではないのだろう。 本書は女学園で起こる連続殺人事件を事件に主題にし、転校生である主人公に起こる幼少時代の記憶のフラッシュバックが挿入される。この失われた記憶とこの連続殺人事件が大きく絡んでいるのは無論だが、当時の私としてはこの設定がどうしても解せなかった。 本書を読んだ当時は大学生の頃であり、そのときの私の記憶力はそれから十数年経った今とは比べ物にならないくらいよく、自分の子供の頃のことはよく覚えていたのだ。その自分と主人公でしかも自分より若い高校生が子供の頃の記憶を失くすだろうかという拭えない疑問が作品の世界に没入することを妨げていた。あれから酸いも甘いも経験した今なら、過大なショックによる記憶喪失というのは十分理解でき、作者のこしらえた設定も受け入れることはたやすいが、当時はそんな青二才で、しかも意固地なところがあり、全く同調できなかった。 しかし、とはいえ、女学園という舞台と人物設定が百合族物と思わせ、それに加えて学園内でひそかに行われる魔女狩りという内容も、耽美な少女ホラー漫画を思わせ(実際作者は敢えてその世界を狙ったと思うが)、当時の私が親しんでいた世界とは真逆の内容で、生理的嫌悪をも抱いたものだ。 しかしそれでもめげず私はその次の『暗闇の囁き』を読むのだが・・・。 |
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館シリーズ第4作だが、もっとも賛否両論分かれるのが本書だろう。結論から云えば、上の☆評価が示すように私は否の立場。今まで、特に個人的に好きな『迷路館~』の後ということもあり、期待が過大になったこともあろうが、読後の裏切られた感じは作者の企みに理解を示すものの、完全には払拭できなかった。特に当時は本格ミステリはかくあるべし!というような狭量な視野しか持っていなかったのでなおさらアンフェアと感じたように思う。もしミステリを数こなした今再読すれば、この評価もあるいは、と思ったりもするが。
もともと日本家屋を舞台にしているというのも館シリーズでは異色の存在である(と思っていたら、よくよく調べてみるとそこにある別館の洋館が本書のタイトルとなっている人形館だった)。そこに住まうのが飛竜想一という作家で、なんとも情緒不安定な人物である。彼の手記によって進む物語は終始陰鬱で(まあ、館シリーズ自体、トーンが暗いのではあるが、本書はさらに輪をかけて暗く重い)、読書も思うように進まなかった記憶がある。彼の身の回りに起きる不可解な出来事と連続殺人が事件であり、精神的に追い詰められた彼が島田潔に助けを求めるというのがあらすじ。 このように改めて本書の内容を思い起こしてみると、なるほど綾辻氏はあの仕掛けを成立するために伏線を張っていたことは解る。作者の仕掛けるどんでん返しとそれに呼応して読者が得られるカタルシスは同等ではなく、双方の価値観が合意に達した時、初めて成立する物だというのが本書では新たに抱いた感慨だ。恐らく作者は新本格の旗手としてさらにその名を確固たる物にすべく、クリスティーのあの有名作が当時の斯界に投げかけた衝撃を与えんと思っていたに違いない。実際新書版のあとがきでは読者の反応を期待半分、不安半分で楽しみしているといった旨の記述があるくらいだから、この推測は的外れではないだろう。 しかし結果的にはネット上に上げられている世間一般の感想と各書評子の評価から見て、作者の期待に反する物に終ったと云える。 まあ、館シリーズに咲いた仇花として残る作品だと云えよう。 |
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本作もCWA賞受賞でジェイムズ初期の代表作とされている。前回同賞を獲った『ナイチンゲールの屍衣』から名作『女には向かない職業』を間に挟んで発表された本書で再度受賞だから、この頃のジェイムズはまさに油が乗り切っていたと云えるだろう(ちなみに原書刊行は75年)。
今回もダルグリッシュは静養先で事件に巻き込まれる。よく休む警部だなぁと思われないよう、ジェイムズは一応ある設定を施しており、それはダルグリッシュが死の宣告を受けていたというもの。悪性の白血病に侵され、余命わずかと云われ、治療に専念していたら誤診だったという、なんとも滑稽な導入部である。療養休暇が余ったので、知り合いの神父から相談事があるとの依頼を受けて彼が勤める身体障害者の療養所へ向かい、そこで事件に巻き込まれるというのが本書のあらすじ。日本人だと誤診と解った時点で休暇を取止め、職場復帰するのだが、英国人は折角貰った休日だから有難く活用させていただこうと休むんだなあ。御茶の時間なども大切にするし、これが英国人と日本人の人生における余裕の持ち方の違いか。 で、件の神父は死んでおり、なんだかきな臭いものを感じたダルグリッシュはそこに留まり、色々調べると、そこで疑わしい死亡事故が頻発していることが解ってくる。しかもそこにはその施設の創立者が閉じこもって、餓死したといわれる黒い塔があり、さらに経営者の病気を奇跡的に治したと云われるルールドの水なるものも登場する。なんだかカーの作品みたいな曰くつきの伝承が語られるのが今までのジェイムズ作品に無い特徴だ。この舞台設定を意識してか、物語の語り口もどこか幻想味を帯びているような感じがし、なんだか靄がかかっているかのような雰囲気で進む。 しかしこれが非常に私には苦痛だった。かねてより何度も書いているがジェイムズの文体はうんざりするほどの情報量にあり、今回は登場人物もさらに多く、おまけに特殊な舞台設定でもあるので、人物の説明、描写、舞台の説明、描写がもうページから文字がこぼれんばかりに書かれている。初めから終わりまで全て見開き2ページが真っ黒だった記憶がある。しかもさらにページ数は増し、ポケミス刊行当時、最も厚い本であったらしい。その後、ジェイムズの作品は長大化し、この記録を自ら打ち破っていく。 とにかく陰鬱で重く、しかもなかなか進まない話に私はなんども本を投げ出そうかと思った。その後も色んな本を読んできたが、特にこの本は苦痛が先立ったのを肌身で覚えている。 ただ救われたのは意外な真相だったこと。それとダルグリッシュが犯人によって命を奪われそうになり、本書のモチーフとなる黒い塔に救われるシーンだ。ここで前半描写されたある特徴が一助となり、ダルグリッシュが難を逃れるのだが、こういう布石が最後にちゃっかりと活かされる小説というのを私は非常に好むのだ。 ずっと陰鬱だが、最後はなんだか明るい幕切れで、通常ならば終り良ければ全て良しと前面肯定的になるのだが、本書の場合は本当に気がめいる読書で、読み終って本当にほっとした作品だった。 |
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両手首を切断された男の死体がボートの中で見つかり、たまたま休暇を利用してその場所を訪れていたダルグリッシュが捜査に当たるというのが大筋。題名はこの両手首を切られた死体を指しており、わざわざその状態に焦点を当てているならば、作品の謎は犯人は誰かに加えて「なぜ死体は両手首を切断されたのか?」という謎が言及されるわけだが、あまりこの理由について目が開くようなロジックが展開されるのではないというのが正直なところ。
本作はこのダルグリッシュシリーズ、いやジェイムズ作品全般において、私にとって1,2を争う印象に残らない作品である(もう1つは『ある殺意』)。もう漠然とした印象しか残っていないのだが、なんだか文章が上滑りしたような感じがし、珍しくすいすい読め、さらにジェイムズ作品の中でもページ数の少ない作品であることもその原因だと云えるだろう。 あとこれは後にセイヤーズのピーター卿シリーズを読んでから気づくのだが、ジェイムズはセイヤーズをリスペクトしており、本書の題名もセイヤーズの『不自然な死』に由来して(あやかって?)いるらしい。そして最後のクライマックスシーンはセイヤーズの某傑作でのシーンをそのまま拝借したとのことで、これは云われてみて気づいたことである。 ちなみにセイヤーズの『不自然な死』は私にとっては非常に満足する作品だったが、そのオマージュのような本作の評価は上の通り。古今英国女流ミステリ作家の対決は本家が上だったといえよう(まあ、まだこの頃は駆け出しだったんだけどね)。 |
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