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Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数119

全119件 101~119 6/6ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
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No.19:
(4pt)

最後に出てくるのは作者自身?

とにかく物語を動かしてみよう、主人公らに次々と危機また危機に見舞わせてみようと、実験的に書いてみたような、設定ありきでストーリーは二の次で書いてみたような作品。
そのせいか疾走感は確かにある。が、やはり物語と登場人物に厚みが無い。最後もとうとう収拾つかなくなって、えいやとばかりにデウス・エクス・マキナを放り込んだような閉じ方。
特に最後の締めの言葉は何なんだ?初のシミタツ出演作品?
夜の分水嶺 (徳間文庫)
志水辰夫夜の分水嶺 についてのレビュー
No.18:
(4pt)

地味で、且つ異色。

シミタツでは珍しく女性を主人公にして作品。しかも古書店に勤める女性という地味な主人公で、しかも稀覯本を巡る話。およそシミタツには似つかわしくない題材と人物設定で、物語も流されるままに流れていく。
題名は主人公の女性を例えた言葉なのだが、あまり印象的に使われている風でもない。この頃のシミタツはちょっと作品に迷いを感じるのだが、特にこの作品は作者の目指す方向性が見えない当時の状況が露呈しているような内容だ。
花ならアザミ (講談社文庫)
志水辰夫花ならアザミ についてのレビュー
No.17: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

実験的な意欲作ではあるのだが

綾辻行人氏、法月綸太郎氏、歌野晶午氏、我孫子武丸氏ら4名の島田荘司推薦による作家たちの作品が「新本格」と名づけられ、ミステリ界に新本格ブームが巻き起こった。そのブームに有象無象の新本格作家が続々とデビューし、また消え去っていった。
この斎藤氏もその中の1人であるが、ちょっと毛色が違って、本格ミステリだけでなく、『魔法物語』というファンタジーのシリーズ作品も書いている。
また専業作家ではないようで、何年かに1冊の割合で細々と新作を発表している。

その少ない作品の中で「思い」シリーズといわれるミステリシリーズがあり、本作はその第1作。
推理マニアの大学生大垣は合宿先の殺人事件を見事解決して帰ってきたところだった。同じアパートに住む陣内からその一部始終を話してみろと云われ、大垣はその顛末について語る。
彼は所属するテニスサークルの夏休み合宿で吊橋を渡った断崖にある洞窟と一体となった館に行った。そこで何者かに吊橋が切られ、外界との接触を断ち切られる。それを皮切りにその館で次々と殺人事件が起こり出す。

この内容を見ても本格ミステリのコードを忠実に再現した作品であるといえよう。目新しいところでは物語の時間軸が既に探偵が事件を解決した後であるということだ。そしてそれを聞いた陣内がまんまと犯人のミスリードに嵌ってしまった探偵に代わって真相解明に乗り出すという二段構えの作品となっているところか。

しかしこの斉藤氏の諸作は実に実験性に富んだ作風である。探偵不在の状況で真の探偵が事件を解明するという趣向、探偵役が後日事件を語るということによる事件の最中における探偵役の存在意義、そういったものが見え隠れする。
しかしそのあまりに平板な文章はなんのケレン味もなく、物語にフックが感じられない。実験小説なのだろうが、何の血も通わない人々が行き来し、行動する様子をただ眺めているだけで、推理クイズに特化した作品のように感じた。

寡作家の斉藤氏の文庫作品は全作品が文庫化されているわけではないため、輪を掛けて少ない。さらにそのほとんどが絶版である。しかし書物の森を逍遥して探し当てて読むほどの価値はないというのが私の個人的な意見だ。新本格草創期の幻の作品をぜひとも読みたい方のみお勧めする作品だ。


思い通りにエンドマーク (講談社文庫)
斎藤肇思い通りにエンドマーク についてのレビュー
No.16:
(4pt)

好きな人は好きな世界

私がなぜこの作家の作品に触れたのか、そのきっかけは今となってはもはや思い出せない。『このミス』でも何度かランクインしている新本格以前のミステリ作家であり、2007年、惜しまれながら夭折した。
本書は角川書店が開催する横溝正史賞を受賞した作品である。

出版記念パーティに寄せられた深紅の薔薇に包まれたナイフとファンの1人と思しき糸越魁なる人物からの脅迫状。作者の深井慶は自作の映画化のために関係者とともに渡欧するが、その最中にロンドンで父が殺される。一行は一旦帰国するが、再び渡欧することになり、再び糸越魁の襲撃に出会う。

非常に読者を選ぶ作品だと思う。少女マンガ的な登場人物と舞台設定は女性読者の方が肌にあっているのかもしれない。今にして思えばどこか『虚無への供物』に似た雰囲気を持った作品だと云えるかもしれない。
で、終始なんとももやもやした、掴み所のない感じで物語は進むが、横溝正史賞の名に恥じないトリックも盛り込まれており、率直な感想を云えば、それだけでも本書を読む意義はあったかと救われた思いがしたものだ。
ミステリとして読んだ私は最後の最後までこの世界観に没頭できなかった。おかげで犯人はすぐに解ったのだが。逆にこの手の作品が好きな人は雰囲気にのめり込めるだろうし、そういう人はミステリ的仕掛けにビックリするのかもしれない。そういう意味では横溝賞受賞というレッテルはもはや邪魔なのかもしれない。

現在は長らく絶版で、今なら電子書籍で読めるようだ。私が持っていた文庫の表紙は天野喜孝で、実に雰囲気とマッチしている。この頃はアルスラーン戦記とかけっこう文庫の表紙は天野氏のイラストが席巻していたんだなぁと関係のない事を思い出してしまった。

時のアラベスク (角川文庫)
服部まゆみ時のアラベスク についてのレビュー
No.15:
(4pt)

罪深い一冊?

この奇妙な題名は英語ではなく、イタリア語。意味は“もしもし”。そう、電話に出る時に云うあの“もしもし”だ。レナード作品の舞台といえば、フロリダのある南アメリカやメキシコなどの中南米が多いが、本書では海を越えたイタリア。しかし地中海に面したこの国はヨーロッパでも温暖な気候であり、ラテン系民族が多くて国民性は陽気だから、扱う人物達もそう変わらないのだろう。

スポーツ賭博師であるハリー・アーノウは65歳で引退し、イタリアの地で晩年を過ごそうと計画していた。しかし儲けをくすねていたことが元締めにばれた上、FBIが元締めを逮捕するために張った罠のおかげで、命を追われるようになった。保釈されたハリーは早速憧れの地イタリアに飛び、恋人を呼び寄せるが、元締めの手下と警官も彼の後を追ってきて・・・。

主人公が66歳というのがまず驚く。1993年の作品である本書を著わした時のレナードの年齢は68歳だから、同じ年代の人物を主人公にしたようだ。このハリーは実在した詩人エズラ・パウンドに心酔しており、彼のゆかりの地であるイタリアで隠居生活を送ることを理想としているのだが、面白いことに心酔する詩人の詩をちっとも理解していないのだ。こういうミーハー心というのは日本人も往々にしてあることで、映画・ドラマや音楽や小説・エッセイなどをろくに読んでなくても「ファンです」と公言する輩はかなりいる。
大抵のアメリカ人は引退後の生活をフロリダで暮らしたがるそうだ。人生残りの日々を南国でお気楽に暮らしたいというパラダイス願望というのがあるのだろう。無論私もそういう生活に憧れるのだが、何もせずに暮らすというのが出来ないのが日本人の特徴で、退職してもなお働きたいという人が多くいる。この辺は全くアメリカ人は理解できないらしい。
このハリーの願望がそのままレナードのそれを投影しているかどうかは解らないが、風光明媚なヨーロッパというのはやはりアメリカ人にとっても憧れではあるようだ。エルキンズなんかは特にその作品を読むとその傾向が強いことがよく解る。しかし物書きとしてなかなか踏み切れないところがあるだろう。まあ、当っているかどうかも解らない勘繰りはこの辺で止めておこう。

本書でも個性的な面々が本作は出ているのだが、なんか全体的に話が散漫に感じた。レナードには珍しく、主人公のハリーがなかなか動かないキャラクターだった。賭博師という裏社会を渡り歩いた彼の老獪さはあるものの、やはり従来のレナード作品に出てくるような元シークレットサービス、元特殊部隊、警官、刑事らとは違い、肉体的な動きが少なく、知謀知略、いや正確な書き方をするならば悪知恵を働かせて戦うのではなく生き延びることを模索するキャラクターというのはある意味レナードにとっても挑戦だったのかもしれない。が、しかし本書を読むには成功しているとは思えない。

本書は当初ハードカヴァーで出た。けっこうな分量もあり、それなりに値段も高かったように思う。これは文藝春秋がレナード作品を同じ版型で出していたことを受けての出版だったのだろうが、本書が訳出された94年では既に文藝春秋は文庫へと版型を移行しており、角川書店は遅きに失したようだ。私は文庫版で本書を読んだが、実際この後同会社から出たレナード作品は『ゲット・ショーティ』以降、文庫で出版されているから、本書はあまり売れなかったのだろう。これは世の流れを読み誤った出版社側のミスでもあり、版型を決める際に中身を吟味すべきだったと思う。
海外ミステリの不況が嘆かれる昨今だが、昔から海外ミステリの出版状況を見ていた私にしてみれば、本書のようなコストパフォーマンスの低い作品をハードカヴァーで出して利益を得ようとした出版社側の怠惰も大いにあるのではないかと強く思う。
そういう意味では罪深い一冊ではないだろうか(ちょっと云い過ぎ?)。

プロント (角川文庫)
エルモア・レナードプロント についてのレビュー
No.14: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

実は金田一耕助のモデルなんです。

ディズニーキャラクターは今なお根強い人気を誇っているが、その中の1人(1匹?)、くまのプーさんはこのミルンが原作者である。
ミステリ黄金期には他ジャンルの作家もミステリを書いていると既に述べたが、なんとミルンのような童話作家でさえ、ミステリを書いているのだから、当時のミステリに対する文壇の注目度、興味の高さが計り知れよう。しかも館物である。今でいうならば、『アンパンマン』の作者やなせたかしが綾辻氏ばりに「~館の殺人」なるミステリを書くようなものか(ちょっと誇張しすぎ)。

旧友べヴリーを訪ねにふらりと彼の宿泊する「赤い館」に立ち寄った放蕩児アンソニー・ギリンガム。田園風景広がる田舎に立つその館ではなんと客の1人が何者かに殺害されるという事件が起きていた。その客は館の主の兄で嫌われ者のロバートだった。さらに当の館主は行方をくらましていた。
アンソニーはべヴリーと共に素人探偵よろしく事件の捜査に挑む。

くまのプーさんの作者によるミステリという先入観を抜きにして、本書はおよそ殺人事件を扱ったミステリとは思えないほど牧歌的にストーリーは進む。周囲に広がるのが田園風景というのもそれを助長しているが、さらに加えて素人探偵アンソニー・ギリンガムと友人ベヴリーのやり取りが面白半分に探偵ごっこをしているような感じで、緊張感の無い会話と共に捜査を進めるのがさらにその雰囲気に拍車を掛けている。
しかし本書で探偵役を務めるこのアンソニー・ギリンガムが横溝正史が生んだ名探偵金田一耕助のモデルであるというのはミステリ識者にはつとに有名である。確かにふらりと現れた放浪者がおよそ知性とはかけ離れた雰囲気を持ちながら事件を解決するというのは確かに金田一と共通するところがある。
またこのように殺人事件という忌まわしい出来事が起きていながらものどかに物語が進むというのは天藤真の作風をも想起させる。直接的・間接的にこのミルンの作風というのは今の一部のミステリ作家に何らかの影響を与えているようだ。

そして本書で明かされる真相及び犯人はけっこう驚愕するだろう。特にミステリを読み慣れた人ならばなおさらこの仕掛けは有効に働くに違いない。ミステリプロパー以外の作家だからこそこのような思いついたアクロバティックなプロットだと云える。
ただ本書は作者としては非常に不本意な形で有名である。それはハードボイルド作家かつアメリカ文学の文豪の1人と称されるレイモンド・チャンドラーが自身のエッセイ「むだのない殺しの美学」で本書を取り上げて散々にこき下ろしているからだ。曰く、リアリティに全く欠けると痛罵とさえ云える苛烈な批判である。
が、しかしながら現代の目を持って本書を読むとそれもむべなるかなと思う。

既に述べたように、ごっこのように探偵趣味に興じる二人の態度もそうながら、一番痛いのは肝心のトリックを成立させることが実に非現実だということだ。ネタバレになるので詳しくは書かないが、今のミステリ作家ならば決して犯さないであろう大きなミスを本書では犯している。それゆえこのトリック自体が成立すること自体不可能ということになっているのだ。
つまり本書はミステリプロパーが精通していない警察の捜査というものを頭の中で描き、しかも当時、そして今でも見られる道化役としての警察を物語に導入して、とりあえずこんな形のミステリを書いてみたといった感じの作品となっているのだ。

ただ上に書いたようにその作風もさることながら、日本を代表する名探偵のモデルが本書にあるだけでも少なくとも日本のミステリシーンに影響を与えているのは間違いなく、また偉大なる文豪に批判ではあるが作品を取り上げられたことでも歴史に残る1作といえよう。
ただ、この訳文の読みにくさはどうにかならないものだろうか?幾度と版を重ねている本書の歴史的意義を讃えているならば、版元はそれなりの改善をすべきだと思うのだが。


赤い館の秘密【新訳版】 (創元推理文庫)
A・A・ミルン赤い館の秘密 についてのレビュー
No.13: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

歴史的意義はあっても現代ならばごく普通の作品

ミステリ黄金期と呼ばれる1920年代から30年代にかけてはミステリプロパー以外の他分野の作家も積極的にミステリ作品を発表している。有名なところではフィルポッツの『赤毛のレドメイン家』、ミルンの『赤い館の秘密』などなど。そしてこのベントリーもその中の1人。
とはいえ、本作はその黎明期における1913年での発表であることから、厳密に云えば彼の作品は黄金期以前のものとなるが、それゆえに現在でもなおこの作品の歴史的意義が高いものとして評されていると推察される。

物語は自分の屋敷の庭で射殺体となって発見された財界の巨人と称される大物の死の真相と犯人を探偵トレントが探る物。
まず誰もが驚くのがそのタイトル。1作目にして「最後の事件」と冠されている事だ。現在のミステリファンならば「~最後の事件」とついた作品ならば誰もが名探偵の死を連想することだろう。これはネタバレにならないので敢えて述べるが、本作では探偵トレントが死ぬわけではない。この題名の由来は単純に作者ベントリーがこの作品を彼にとって最初で最後のミステリにしようと考えていたからに過ぎない。しかし現代も作品が残されていることからも解るように、望外の好評を以って作品は受け入れられ、結局ベントリーはその後も作品を著わし、結局3編創られた。

本書はミステリの歴史上、画期的な作品として評価されている。それはミステリに恋愛の要素を持ち込んだからだ。それまでの探偵は知的好奇心と探究心が突出した奇人・変人の類いのように描写され、ミステリ作家は読者に印象付けるためにその特異性のみを追求していた。それゆえ、「思考機械」と呼ばれるほどの無機質な人間までが登場することになった。しかしベントリーは探偵に恋をさせ、あまつさえ一度推理を見誤らせさえもする。つまり紙上の作り物めいたキャラクターから感情を持った、読者と変わらぬ1人の人間として描いたところにこの作品の歴史的価値がある。

しかし発表から既に100年近く経った21世紀の今、本書を読むと他の古典ミステリとの差異は見出せないかもしれない。私は大学生当時本書を読んだが、その時は幸いなことに上の事実には気づいた。おまけに古典ミステリにおいて初めて本書で感情を表す文章描写で犯人を絞り込むことが出来たくらいだ。
今あるミステリ、例えば後年クイーンがエラリーを悩める探偵にした萌芽がこの作品にあるとすれば確かに本書の歴史的意義は高いだろう。しかし、だからといってぜひとも読むべき作品であるとは声高には云えない。ミステリ好きが高じて、その源泉を辿る興味を持たれた方は読んでしかるべき作品だということに留めておこう。


トレント最後の事件【新版】 (創元推理文庫)
E・C・ベントリートレント最後の事件 についてのレビュー
No.12:
(4pt)

期待を悪い意味で裏切られる

カーによる当時アメリカで人気を博していたアニメ『トムとジェリー』を主人公にしたミステリのノヴェライズ版・・・ではもちろんない。妙な題名だがれっきとしたフェル博士シリーズである(ちなみにWikipediaで調べてみると、『トムとジェリー』はなんと1940年に既に放映開始されており、本作の発表が1942年だから符合はする)。

事件はアイアトン判事という被疑者に容赦なく死刑を判決する判事が娘の婚約者を殺したかどで自身が被疑者になるという、なかなかドラマチックな内容である。
題名の話に戻るが早川書房のポケミス版では英国版の原題を忠実に訳した『嘲るものの座』となっている。意味は解りにくいものの、まだましだ。本書の題名は文中にある容疑者となる判事が「猫が鼠をいたぶるように」被疑者を追い詰めるという表現から来ている。しかしもう少し何とかならなかったものだろうか。全く読む気をそそらない題名である。

で、本書のメインは殺人現場にいたのが判事と被害者のみという状況の中、フェル博士は本当に判事が殺ったのか否か、解き明かせるかという至極シンプルな問題だ。ここで注目したいのがあくまで容疑者の冤罪を証明するのが誰からも嫌われている人物だというところだろう。こういう趣向の作品では往々にして価値観の逆転が起こるもので、ドラマとしては読み応えがあるのだが、ここで敢えて云えば、その期待は裏切られる。カーが以前より作品に盛り込んでいた人間の予期せぬ行為が不可能・不可解状況を生むという趣向はありはするが、作品にプラスアルファに働いているかといえば、そうでもない。
後々気づくのだが、本作でカーがやりたかったのは『ユダの窓』の別ヴァージョンではないだろうか。敢えてこのような結末を取ったのはカーとしてはその作品があってこそのひねりだったと思い、自身はほくそ笑んでいたのかもしれない。が、作品としては凡作にすぎず、最後に読み終わった率直な感想は、ちょっと際どい表現になるが単純な事件を単にこねくり回して遠回りさせられただけだという感慨でしかない。恐らく読み終わった時、全ての読者が私と同じ表情をするのではないだろうか。その光景だけが目に浮かぶ。

猫と鼠の殺人 (創元推理文庫)
ジョン・ディクスン・カー猫と鼠の殺人 についてのレビュー
No.11:
(4pt)

犯人にはモデルがいたのか?

フェル博士シリーズ第1作目。設定的には『連続殺人事件』や『プレーグ・コートの殺人』や『赤後家の殺人』などでよく使われる昔から因縁のある建物で起こる怪事件を扱った作品である。
舞台は集団コレラによって閉鎖された監獄跡、通称「魔女の隠れ家」。そこには監守の末裔は25歳の時にたった一人で監獄の長官に入り、そこの金庫の中に入ってある文章を確認しなければならないという儀式があるというシチュエーション。さらに一族に纏わる古き因縁からの呪いの逸話。そして期待を裏切らずにそこで起こる密室殺人事件。どこをどう取ってもカー印のミステリである。
しかしカーの初期の作品である本書は実にオーソドックスに展開する。とはいえ、凡作というわけではなく、事件が起こる舞台の背景事情、殺人も1つではなく2つ起こる点、さらにその2つともがよく練られていることなど、色んな仕掛けが盛り込まれているのはこの作家の若さゆえの創作意欲の発露だろう。しかしやはり記憶にとどめるだけのパンチ力がないというのが率直な感想だ。

しかし最後の犯人の往生際の悪さはカー作品の中でも群を抜く。言い訳とみっともなさをこれほどまで犯人に盛り込んだのは、その頃、カーの身辺にモデルとなるような人物でもいたのだろうかと勘繰るほどだ。まさかねぇ。
私はこの作品と傑作短編「妖魔の森の家」とをよく混同してしまう。なんとなく雰囲気といい、題名といい、類似性があると思うのは私だけだろうか?

魔女の隠れ家 (創元推理文庫 118-16)
ジョン・ディクスン・カー魔女の隠れ家 についてのレビュー
No.10: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

趣向はいいが致命的なミスが…。

なんとも素っ気無い題名だが、実際のところ、この題名は正確ではない。原題は“The Case Of The Constant Suicides”といい、『連続自殺事件』が正しい題名。

スコットランドの田舎町にあるシャイラ城。この城には昔の城主が塔から自殺したという言い伝えがあった。しかもそれは亡霊によって起きたという別の言い伝えもあった。そしてまたキャンベル一族の長アンガス・キャンベル氏が塔から墜落死するという事件が起こる。事件当時、部屋は密室であったことから自殺のように思われたが、いくつかおかしい点があった。実はアンガスは直前に多額の生命保険に加入しており、自殺では保険が下りないこと。事件当夜に友人のフォーブスと言い争いをしていたこと、さらにベッドの下に見慣れない犬用のケースがあったこと。これらの状況から親族の間では他殺ではないかと思うようになり、知り合いのフェル博士に事件の調査を依頼する。
事件を再現しようと遺産相続人のコーリンが同じ状況で塔の頂上の部屋で一晩過ごすと、アンガスと同様に飛び降りてしまう。一命はとりとめたが、今度は容疑者であるフォーブスが自宅で首吊死体として発見される。

とこのように事件は全て自殺のような状況であり、これを考えると邦題はほとんどネタバレである。とはいえ、たいていのミステリ読者ならば人の死を扱った小説、しかもミステリが自殺で終るわけではないことは暗黙の了解であるから、タイトルが誤訳でしかもネタバレなどと糾弾するほどのものではない。
本作はよくカー入門書として最適だと云われている。事件の怪奇性に加え、カー特有のファルスも織り込まれており、さらには中心人物の男女2人によるラブコメ要素も盛り込まれていることから、カーのエッセンスが詰まった作品と云え、確かにその意見には頷けるところがある。

が、しかし本作には事件の解決に関わる致命的なミスがあり、これが当時でも話題になり、現在でもこの作品はその一点が汚点として残っている。
私も読んだ当初、この真相に対して不満を持った一人で、それが上の評価に表れている。もしカーを多数読んだ今、本作を読んだとしてもこれについてはカーだからという寛容さを示すことなく、今なお変わらない評価を下すだろう。
事件が不整合性を伴い、なんともちぐはぐな状況で起きたことが、実は被害者自身の意図が介入した故に起こったことという趣向は前に読んだ『緑のカプセルの謎』もそうだが、カーの作品には多数あり、それが傑作に繋がっている。つまりあくまで完全なロジックの構築で事件を解決したクイーンと違い、カーは登場人物をミステリを構成する駒ではなく、意思を持った人間として描いたからだろう。本作にもその考えが盛り込まれており、それが故、あたかも自殺事件が連続したかのように見えたという結果を生み出している妙味が味わえるだけに、このミスは非常に勿体無い。

連続自殺事件【新訳版】 (創元推理文庫)
No.9:
(4pt)

長い、長すぎる!

数あるカーの作品の中でもとりわけ分厚いのがこの作品。調べてみると500ページ以上あり、カーの他の作品でこのくらいの厚さの物は、『ビロードの悪魔』以外思いつかない。しかし『ビロード~』が厚さに比して内容も充実しているのに対し、本作は単に厚いだけと云わざるを得ない。しかしこの作品はどうしてもこの厚さになってしまう。それについては後で話そう。

本作の概要は以下のような物である。
古代アラビアの遺物を陳列する博物館でパトロール中の警官が白い付け髭をつけた不審者に襲われる。その警官はその男を倒し、応援を呼びにいこうと歩みだして、振り返るとその男は姿は消していた。事件の匂いを嗅ぎつけた警官は管理人と共に博物館内を捜査すると案の定、展示品の馬車の中に死体を発見する。なんとそれは警官を襲ったその男であったが、付け髭はなぜか白から黒へ変わっていた。しかもその死体は料理の本を携えていた。
そこへ無人の博物館に招待されたという博物館の主の娘の婚約者が現れる。警官たちは娘ミリアムを探そうとするが、この奇妙な事件はさらに様相を複雑化する。

さてなぜ本作がカーでも随一の大作であるかといえば、本作でカーが試みた趣向とは同一事件を複数の人間がそれぞれの視点で解き明かすことを主眼にしているからだ。恐らくこの趣向は先に書かれた『剣の八』を翻案としているように思われる。『剣の八』では探偵たちがいっぱい出ることで逆に事件がかき回されることを狙っていたが、本作では逆に探偵役を3人出すこと―フェル博士も含めると4人―で、それぞれの主観による錯覚を利用し、事件の意外な側面をその都度浮き彫りにしていくことを狙ったようだ。そしてそれを聞き手のフェル博士が全ての情報を統合して唯一の真実を導き出す。確かに面白い趣向であることに間違いなく、実際アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』はこの形式のミステリで傑作として今でも評価が高い。ちなみに『毒入り~』が書かれたのが1929年、本作は1936年の作品であり、カーとバークリーは交流もあったので、カーはその作品が念頭にあったに違いない。
しかし、この作品は同じ趣向を用いながらもなんとも退屈。何度も同じ事件が繰り返し語られるようになり、それがまた面白ければよいのだが、事件に派手さがないため、かなり苦痛を強いられる。しかも物語の大半を関係者の聞き込みに費やしており、さらにそれぞれの犯行が起きる時系列が入り組んでいるので、事件の大要を理解するのもかなりの熟読を要する。この辺は作者が一通りどこかで纏めてくれれば非常に助かるのだが。
やりたいことはわかるがどうにも冗長さを感じざるを得なく、カー作品全作読破を目指す人のみお勧めする作品だ。

アラビアンナイトの殺人 (創元推理文庫 118-6)
No.8: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

やっぱり合わない

囁きシリーズ第2弾。この作品を読んで、綾辻氏が目指すのはサイコサスペンスの様式で本格ミステリ的サプライズを仕掛けようということがよく解った。
前作が女学園での惨劇ならば本作は双子の美少年の周りで次々と起こる不可解な殺人事件をテーマにしている。これで綾辻氏がこのシリーズで敢えて少女ホラー漫画で取り上げそうなネタを使っているのがさらに補強された形になる。
なぜかように少女漫画チックなモチーフを使うのだろうか。それはつまりそれは美しさには影があり、それは狂おしいほど残酷なものだということだろうか。これは綾辻氏の美学そのものであるのかもしれない。

前作では閉鎖された集団の中でいつの間にか形成される社会とは違った歪んだ常識が、そして本作では子供の独特の世界観で気づかれる価値観が物語の底に流れている。そしてそれらは全てある忌まわしい記憶に起因しており、その正体こそがこのシリーズにおけるサプライズだと云える。
あと本書では綾辻氏のある作品についてリンクがなされており、その作品は未読であったが、すぐに気づき、「おっ」と思ったものだ。館シリーズぐらいしか作品世界に相関性を持たせていないように感じたが、意外と探してみるとあるのかもしれない。

こういう物語が好きな人にはこのシリーズは堪らないのだろうが、私は実はかなり苦手。館シリーズに比べて起伏が少ないストーリー展開と、まだるっこしさを感じる抑制された文体。疲れているときに読むと何度も眠気で中断してしまうように感じた。

だから上の評価は全く以って私の好みに起因する。しかしショックが与える心、記憶への影響というものを理解している今ならば、この障壁は取り除かれて、この評価は高くなるかもしれない。なのでこういうのに興味がある人はぜひ一読してもらいたい。


▼以下、ネタバレ感想
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暗闇の囁き 〈新装改訂版〉 (講談社文庫)
綾辻行人暗闇の囁き についてのレビュー
No.7: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

この世界はなんか合わない

館シリーズと双璧を成すのがこの囁きシリーズだが、私の中では館シリーズよりと比してさほど印象に残っていない。片やど真ん中のバリバリの本格ミステリであるのに対し、このシリーズはサイコサスペンス的要素を備えたミステリであることがその最たる要因だろう。綾辻行人という作家は、どんな作品でもサプライズが無ければならないという持論があり、サスペンス調のこのシリーズもその主義は貫かれており、最後にあっと驚く真相が隠されている。
しかしどうも私はこの幻想風味の文体と物語が苦手で、耽美な美しさとか妖しい魅力などよりも一向に進まない物語へのじれったさの方が先に立ってしまい、あまり楽しめなかった。私はこの手の作品の良い読者ではないのだろう。

本書は女学園で起こる連続殺人事件を事件に主題にし、転校生である主人公に起こる幼少時代の記憶のフラッシュバックが挿入される。この失われた記憶とこの連続殺人事件が大きく絡んでいるのは無論だが、当時の私としてはこの設定がどうしても解せなかった。
本書を読んだ当時は大学生の頃であり、そのときの私の記憶力はそれから十数年経った今とは比べ物にならないくらいよく、自分の子供の頃のことはよく覚えていたのだ。その自分と主人公でしかも自分より若い高校生が子供の頃の記憶を失くすだろうかという拭えない疑問が作品の世界に没入することを妨げていた。あれから酸いも甘いも経験した今なら、過大なショックによる記憶喪失というのは十分理解でき、作者のこしらえた設定も受け入れることはたやすいが、当時はそんな青二才で、しかも意固地なところがあり、全く同調できなかった。

しかし、とはいえ、女学園という舞台と人物設定が百合族物と思わせ、それに加えて学園内でひそかに行われる魔女狩りという内容も、耽美な少女ホラー漫画を思わせ(実際作者は敢えてその世界を狙ったと思うが)、当時の私が親しんでいた世界とは真逆の内容で、生理的嫌悪をも抱いたものだ。
しかしそれでもめげず私はその次の『暗闇の囁き』を読むのだが・・・。

緋色の囁き 〈新装改訂版〉 (講談社文庫)
綾辻行人緋色の囁き についてのレビュー
No.6: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

シリーズの仇花

館シリーズ第4作だが、もっとも賛否両論分かれるのが本書だろう。結論から云えば、上の☆評価が示すように私は否の立場。今まで、特に個人的に好きな『迷路館~』の後ということもあり、期待が過大になったこともあろうが、読後の裏切られた感じは作者の企みに理解を示すものの、完全には払拭できなかった。特に当時は本格ミステリはかくあるべし!というような狭量な視野しか持っていなかったのでなおさらアンフェアと感じたように思う。もしミステリを数こなした今再読すれば、この評価もあるいは、と思ったりもするが。

もともと日本家屋を舞台にしているというのも館シリーズでは異色の存在である(と思っていたら、よくよく調べてみるとそこにある別館の洋館が本書のタイトルとなっている人形館だった)。そこに住まうのが飛竜想一という作家で、なんとも情緒不安定な人物である。彼の手記によって進む物語は終始陰鬱で(まあ、館シリーズ自体、トーンが暗いのではあるが、本書はさらに輪をかけて暗く重い)、読書も思うように進まなかった記憶がある。彼の身の回りに起きる不可解な出来事と連続殺人が事件であり、精神的に追い詰められた彼が島田潔に助けを求めるというのがあらすじ。
このように改めて本書の内容を思い起こしてみると、なるほど綾辻氏はあの仕掛けを成立するために伏線を張っていたことは解る。作者の仕掛けるどんでん返しとそれに呼応して読者が得られるカタルシスは同等ではなく、双方の価値観が合意に達した時、初めて成立する物だというのが本書では新たに抱いた感慨だ。恐らく作者は新本格の旗手としてさらにその名を確固たる物にすべく、クリスティーのあの有名作が当時の斯界に投げかけた衝撃を与えんと思っていたに違いない。実際新書版のあとがきでは読者の反応を期待半分、不安半分で楽しみしているといった旨の記述があるくらいだから、この推測は的外れではないだろう。
しかし結果的にはネット上に上げられている世間一般の感想と各書評子の評価から見て、作者の期待に反する物に終ったと云える。
まあ、館シリーズに咲いた仇花として残る作品だと云えよう。

人形館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫 あ 52-21)
綾辻行人人形館の殺人 についてのレビュー
No.5:
(4pt)

ちょっと無理している感が…。

島田氏の御手洗シリーズについては感想を書いたが、その他の作品についてはすっかり忘れていたので、これから触れていくことにする。

さてガチガチの本格ミステリの御手洗物と違い、本作は女性が巻き込まれるサスペンスミステリを扱っている。
しかもなんと導入は主人公の女性がテレフォン・セックスに耽っているという、三文ポルノ小説的な設定なのだから、ビックリした。新境地を開こうと躍起になって島田氏は背伸びをしすぎているのではないかと思ったくらいだ。もはや本作の内容はうろ覚えでしかないのだが、このテレフォン・セックスが趣味という設定の割には官能的ではなかったように記憶している。後の『涙流れるままに』の方が、もっと内容的には官能小説に近かった。この辺は作者がまだミステリ作家になりたてだったこと、そしてミステリに対してストイックであったことに因るのかもしれない。

物語はこの趣味にのめりこんだ女性が夜毎、不特定の人に電話することで、ある日突然人が殺される瞬間の家にかけてしまった事から事件に巻き込まれてしまうといった物だ。人には云えない秘密の趣味がやがて自らを窮地に追い込むという点ではコーネル・ウールリッチの有名な短編「裏窓」を髣髴させる。あれが視覚的だったのに対し、島田氏は聴覚的なサスペンスを狙っているところが工夫した点といえるだろう。そしてさらに島田氏はこの偶然に対してある仕掛けを盛り込んでいる。ミステリにおける登場人物の役割という概念に新しい視点をもたらしているとも云える仕掛けだ。

しかし電話というのは古今東西ミステリによく扱われる題材だ。だから携帯電話が出た時にはあまりの便利さ、汎用性にミステリ作家達はどう処理していいものか、非常に困ったという。固定電話が被害者ならびに容疑者に犯行当時、現場不在の証明として有効に機能していたこと、文字通り顔の見えない相手とのやり取りであるという不確実性、これがミステリの効果を盛り上げていたからだ。しかし携帯電話があると、特にどこでも電話が掛けられるということで、アリバイを簡単に偽装できるし、また拉致された者が簡単に救いを求めることも出来るという利便性がサスペンス性を減じてしまっている。文明の進化とミステリとは常に犬猿の仲なのだ。さすがに最近はミステリ作家も心得ていて携帯電話があっても成立つサスペンス、逆に携帯電話だからこそ出来るサプライズなどを盛り込んだ秀作も出てきている。

脱線してしまったので話を戻すが、上に書いたように平凡なサスペンスに終始しがちな本作のような作品でも彼なりに工夫しているのが、ミステリに対する思いの強さと作家としての志の高さを感じさせるが、やはり御手洗物の後に読むと凡作と感じてしまう。本自体も薄くてすぐに読めてしまう手軽さもその一助になっているようだ。島田氏の作品をコンプリートしたいという人のみ勧める作品だ。
しかしもうそろそろ題名に付けられている「ダイヤル」の意味が解らない人達が出てきていることだろう。そんなことも含めて時代の流れを感じる作品ではある。

殺人ダイヤルを捜せ (講談社文庫)
島田荘司殺人ダイヤルを捜せ についてのレビュー
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(4pt)

別に白くなくても…。

歌野氏第2作はクローズト・サークル物、いわゆる“雪の山荘物”だ。しかし本作はほとんど印象に残っていない。確か本作も連続殺人事件で、しかも密室殺人だったようだが、機械的トリックだったので、ガッカリした記憶がある。糸や針金、ロープを使って云々の機械的トリックは説明文で滔々と説明されても理解しがたいし、解りやすく図解されても、なるほどねで終ってしまうからだ。つまり読者に推理する余地がなく、こういうトリックを考えました!という作者の品評会になってしまっているからだ。
そして本書は実にオーソドックスなミステリであるせいか、全く何も残らないという変な特徴を持つ。ほとんど話題に上らない作品でもあるのは、定型すぎて物語にコクがないからだろう。逆に云えば、前作『長い家の殺人』が凡作ながらも読者にある固定した印象を残しているのは、やはり舞台となった「長い家」の特色を活かしたトリックを採用しているからだろう。しかし本作ではそれが全くなく、単なる山中の館で起こる殺人事件に落ち着いてしまっているからだ。つまり極論すれば本作の題名は「白い家の殺人」でも「雪山の家の殺人」でも「木造の家の殺人」でも何でもいいと云える。

またやはり探偵役の信濃譲二も『長い家~』で述べたような、名探偵登場!といった期待感が実に希薄なキャラクターであることも、マイナス要因だろう。

しかし、前作が作家として力量不足を露呈した作品だとすれば、本作は凡作ながらも一連の本格ミステリの方程式に則った作品であるといえ、そういう意味では少し作家として前進したといえるだろう。その後のブレイクを知っている者にしてみれば、その道程を知っている今となっては、これほど作家として成長を作品で見守れる作家も珍しいといえるだろう。
今は変化球が多い彼の作品だが、昔はこういう教科書どおりのミステリも書いていたことを知るにはいい作品かもしれない。

白い家の殺人 (講談社文庫)
歌野晶午白い家の殺人 についてのレビュー
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アイデアはいいのだが…。

急逝した監督の代わりに途中まで制作された映画をスタッフで観て、結末を推理して完成させる。なんとも魅力的な謎ではないか。ミステリにはまだこんなアイデアがあったのかと文庫裏表紙の紹介文を読んでワクワクしたのが本書だ。しかも私は映画好きでもあるので、その期待は否が応にも高まった。

こういう趣向の小説には付き物の、映画に関するトリビア、含蓄はしかし意外とこちらの痒い所に手が届くものではなかった。我孫子氏はクラシック・ムーヴィーのファンらしく、モノクロ映画からカラーに移る頃の映画スターに関する言及が多かった。私はこの時代の映画には疎いのであまり興趣が湧かなかったのが残念なところだ。なんせ本書で初めてフレッド・アステアを知ったくらいなのだから。
そして本書の主眼であるスタッフが推理して完成させた映画の結末は特に意外性も感じなかった。まあ、収まるべくして収まったという感じだ。プロットが抜群だったのに、どんどん尻すぼみしていった、そんな印象の強い残念な作品になってしまった。

やはり映画を題材にしているからには映像ならではのミステリ手法を採用した方が映えるのだろう。本書は特にそう思った。だから私は未完成の映画をみんなで推理して結末を作って完成させるという大枠を生かしたまま、映像化した『探偵映画』を観てみたいものだ。

探偵映画 (文春文庫)
我孫子武丸探偵映画 についてのレビュー
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今こそ理解できる動機かも!?

速水三兄弟シリーズ3作目はミッシング・リンク物。連続殺人が都内各所で行われるが、その被害者はいずれも無関係の他人で、共通点が一切見当たらなかった。果たして速水三兄弟が行き着いた被害者を結ぶミッシング・リンクは常識では考えられない突拍子の無いものだった、と簡単に纏めるとこうなるだろう。
このミッシング・リンクはいい意味でも悪い意味でも、著者の遊び心が出た内容だ。私は前作『0の殺人』が実に鮮やかに騙されたこともあり、今度はどんな面白い仕掛けを見せてくれるのだろうと期待が高まっていたせいか、この真相は肩透かしを食ってしまった。
しかしこの稚気性が高く、非道徳的な真相は逆に云えば、今日性が高いかもしれない。ただこれはあくまで最大限の譲歩であり、やはりワンアイデア物の小品であるといわざるを得ないだろう。

本作以降、この速水三兄弟は我孫子作品にはお目見えしていない。作者のユーモア感覚を代弁するのに最適のキャラクターだっただけに本作で退場してしまうのが惜しまれる。最後に彼ら三兄弟に花道を渡す意味でも、いつかまた再登場願いたいところだ。

メビウスの殺人 (講談社文庫)
我孫子武丸メビウスの殺人 についてのレビュー
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ごく普通の本格ミステリ

法月綸太郎2作目で名探偵法月綸太郎初登場作品(ややこしい)の本書は実にオーソドックスなミステリ。本格ミステリの趣向の1つにクローズドサークル物を称して“雪の山荘物”と呼ぶが、これは正にそのど真ん中の設定だ。

雪山のペンションに集った人たちにはそれぞれ思惑を秘めており、そして離れの密室で殺人が置き、そこには犯人と思しき足跡が残っているのみだったという、これまた定型中の定型だ。本書は開巻してまもなくエピグラフに確か「白い僧院はいかに改装されたか」なる一文が記してあった記憶がある。これは都筑道夫のエッセイ集『黄色い部屋はいかに改装されたか』の語呂合わせだが、このエピグラフは法月氏が新本格という単語に過敏に反応していたようにも取れる。黄金期の名作を換骨奪胎して新たな本格を、という作者の意気込みが込められていると読み取るのは穿ちすぎだろうか。この時はまだ本家を読んだ事が無いので比べようが無かったのだが、後に本書の原典となっているカーター・ディクスンの『白い僧院の殺人』を読んだ時はそのシンプルな真相に思わず「あっ!」と声を上げるぐらい驚いた。しかし本書についてはそれは全く無かった。ふ~ん、なるほどねというくらいだっただろう。本稿を書くのに、色々調べたのだが、“読者への挑戦状”が挿入されていたことさえ忘れていた。
薄いので記憶を刷新するためにも一度読み直して原典と比べてみるのもいいかもしれない。

雪密室 新装版 (講談社文庫)
法月綸太郎雪密室 についてのレビュー