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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数87件
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一尺屋遙シリーズ第4作目。正直、私はこの一尺屋遙という探偵に全く魅力を感じていない。長髪の、ブランド物の服を好んで着る、大分の田舎の農家の息子で花売りのトラックが愛車の、無類の日本茶好き・・・。特徴を持たせようとして、あまりに作りすぎたキャラクターだと思ってしまい、なんだか出来の悪いマンガを読まされているような感じがいつもする。
で、内容はというと、いやあ、これもまた作り物の世界だなぁと悪い意味で思わざるを得ない事件だった。例えば、島田氏の御手洗シリーズはその発想の奇抜さ―奇想―ゆえ、確かに作り物の世界だと思うのだが、その作り物を形成する物語の面白さが読者を惹きつけ、退屈させない。だからこそ、驚天動地の大トリックを披露されても、歓喜こそすれ、落胆する事はないのだ。 しかし、司作品にはその作り物の世界に面白みがないのだ。不可能趣味を形成する諸々の事象が、物語に無理を感じさせるだけになっているのだ。 なぜ、犯人は朱鷺絵に化けなければならないのか?本書の肝と云える水槽密室の、密室にしなければならない意味は? 冒頭の幻想味、事件の奇抜さ、これらを補完する真相があまりに陳腐で、物語の魅力を支えきれていない。推理小説の真相というのは、「なんだ、そんな事か」と思わせるものではなく、「うおっ、そういうことだったのか!」と読者を唸らせるものでなくてはならないのに、謎の特異性のみに腐心して、肝心の真相が腰砕けになっている。これが非常に残念でならない。 そして今回の物語の骨子を支えるのはやはり穂波朱鷺絵という謎めいた女性の存在だろう。事件の全てはこの女性を中心に回っており、作者の意図も、この朱鷺絵という人物に隠されたある特異な性格が本作で訴えたかったテーマだったに違いない。 しかしそれが全く成功していないのだ。 こういった小説作法に関する無頓着さが、私をして司氏の評価を貶めさせているのだ。 そして文章の問題。 前作の『屍蝶の沼』では三人称叙述だったが、このシリーズではワトソン役による一人称叙述に徹するらしく、そのスタイルは変わっていない。で、前作で感じた文章力の向上だが、今作では確かに前3作よりはある程度の味が出てきたものの、やはり物足りない。根本的にこの作家は一人称叙述に向いていないのではないかと思う。 しかもこの作品は純粋な意味で一人称叙述ではない(今までの作品もそうだったが)。登場人物が章ごとに代わるにつれて、三人称になったりもする―そしてその三人称叙述も“神の目”の視点なのに、登場人物の主観的描写が多く、根本的な間違いが多いのだが―。 多分物語の面白さに没頭していれば、こういう粗も全然気にならないのだろう。しかし、ところどころにこの作者の、小説の書き方、物語の語り方に納得がいかないところがあるがために、どうしても瑕として目に付いてしまう。 かなり厳しい事を今まで述べてきたが、やはり金を払って本を買った身としては代価に見合った娯楽は確実に得たい。 もっと精進して欲しい、この作家には。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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名探偵一尺屋遙シリーズの本書、オランジュ城館というフランスの城館を舞台にし、見取り図まで付け、しかも冒頭から壁を通り抜けて落下した死体、天を舞う蛇といった島田荘司氏ばりの奇想から幕開け、その後も白髪の狂った老女の登場、飄々とした探偵の登場といった横溝正史の金田一シリーズを髣髴させる幕の開け方、そして城主影平氏の、家電の買い込みと小型トラック1台分の殺虫剤を購入し、庭のあちこちに埋めるといった理解しがたい行動、等々、作者の本作に賭ける並々ならぬ意欲がひしひしと伝わり、正直、「これは!?」といった期待感があったのだが・・・。
真相を読むとどうもアンフェアのオンパレードだという印象が拭えない。 そして最初に起こる殺人事件の真相も実に呆気なく、最終章を迎える前に容易に探偵が種明しをしてしまう。 いや、これはこれでも構わないのだ。その後に起こる事件にもっと魅力があれば。しかし、次に起こる事件は過去に起こった事件と全く同じ物で、読者側にしてみれば同じトリックの使い回しのような感じを受けてしまう。 そして結末は作者の心酔する島田氏の作品に倣うかのように、またもや関係者の手記で幕を閉じる。 もしこの同じ設定を活かして島田氏が書けばどうなるだろうと想像してみる。恐らく、評価は少なくとも星1つは多くなるだろう。私が思うに、この作者には「推理」小説は書けるが推理「小説」は書けないのではないだろうか?つまり、この作者には物語が持つ「熱」を感じないのだ。「熱」とは、物語を読んで、読者が抱く悲哀感、爽快感、高揚感といった物である。これらが一切感じられない。 確かに物語を色濃くするために戦争のどさくさで日本軍が密かに行った物資横流し事件など、単純なパズルゲーム小説には終始していない。それは認めよう。しかし、それが単なる飾りにしかなっていないのだ。島田氏ならば、それ自体が非常に面白い読み物として提供してくれるだろう。ここに作者の力量の差が歴然と出てくるのだ。 奇想を作る才能は感じた。あとはそれに見合う物語力を求める。私は小説を読んでいるのだから。 最後にもう一点。題名の『蛇遣い座の殺人』、最初に出版された時は『蛇つかいの悦楽』という題名だったが、これが全く物語に寄与していない。蛇遣い座は作中では単なるエピソードとしてギリシャ神話の中での成り立ちが語られるだけである。当初、天を舞う大蛇をそのモチーフとして使う意図だったように推測するが、それはほんの末節に過ぎない。こういうところにも小説としてのバランスの悪さを感じてしまうのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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結婚式を明日に控えたケン・ブレイクは突然H・Mの要請により、隠密活動を頼まれる。予てより情報部が追いかけていた国際的ブローカー“L”の居場所を現在イギリスに滞在中の元ドイツ・スパイ、ホウゲナウアが知っており、二千ポンドでその情報を売ろうとしているので、その前にホウゲナウアの家に忍び込み、それらの情報を手に入れて欲しいというのだ。
ホウゲナウアの住む町モートン・アボットへ向かい、手違いから現地の警察に追われる身になったケンは苦労の末、ホウゲナウアの住む<カラマツ荘>に辿り着く。しかしその中で観たのは顔に微笑を湛えたまま、息を引き取ったホウゲナウアの姿だった。 道化役を演じたケンの東奔西走する姿が描かれる前半は今までのカー作品と違うドタバタスパイ劇のようで、読者はH・M卿の意図が解らぬまま、ケンと一緒に迷走させられる。やがて物語は大規模な偽札事件へと発展していくのだが、この辺の話は複雑すぎて頭に入りにくかった。 題名の「パンチとジュディ」はドタバタ喜劇の人形劇の名前に由来する。 もう一度読めば、それぞれの事柄について犯人の作為を思い浮かべながら読めるかもしれないが、それは遠慮したい。 ところで18章にて登場人物にさせられる犯人当てはもしかしたらカーなりの“読者への挑戦状”だったのかもしれない。その挑戦に私は敗れてしまったが、果たしてこの犯人を当てられる読者はいるのだろうか?恐らくカーは見破られない自信があったからこそ、今回あえてこのような挑戦状を盛り込んだのはないだろうか。だとしたら、かなりの負けず嫌いだなぁ、カーは。 しかしホウゲナウアとケッペルの殺人事件の真相はちょっとがっかりした。遠距離で起きた2つの同種殺人(どちらもストリキニーネによる毒殺)の謎が非常に魅力的だっただけに残念だった。 この二つの殺人は本作のもっとも際立つ場面であるのに、真相が明かされたら実は単なる物語の末節に過ぎなかったというのが驚いた。これがカーのケレン味なのか?いやはや・・・。 しかし本作で災難なのはケンとイヴリンの二人である。親戚とはいえ、結婚式の前日にこんな困難な仕事を頼むかね~、普通? ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『屍泥棒』で活躍したユーロポールの心理分析官(プロファイラー)クローディーン・カーターを主役に据えた初の長編。
ヨーロッパ各地で起こる連続バラバラ殺人事件。この事件を解決すべくユーロポールは心理分析官クローディーン・カーターを特捜班の一員として抜擢する。特捜班にはフランスのプラール、ドイツのジーメン、卓越たるコンピューターの技術を持つフォルカーとで結成された。 主任担当官であるアングリエは自らの名声を高めるべく、これら特捜班の功績を利用とするのだが、クローディーンの才能が自らの制御力を凌駕している事を認めざるを得ず、忸怩たる思いをしていた。内外ともに敵を作りながらも、それと気付かないクローディーンは着々と事件を解決へと導いていく。 率直に云えば、可もなく不可もない作品。職業作家としてのフリーマントルの職人技で作られた作品という印象が強い。それはこの小説で語られる事象が、ヨーロッパ各地で起こる凄惨な事件と平行して、自殺した夫に関するインサイダー取引疑惑、サングリエのユーロポールにおける自らの優位性を高めるための権謀術数など、色んな要素が絡み合っていることによる。現代の小説では1つの事件について集中的に語り、解決まで至るのはお得感もなく、また単調とみなされがちで、評価も低いだろうが、今回はかえって事件への視点がぶれ、散漫な感じを強く受けた。 あと加えて傲岸不遜なクローディーンのキャラクターがどうしても共感を得ず、辟易してしまった。つまり、主人公に魅力を感じなかったのだ。 それでは小説としての愉悦はないかといえばそうではなくて、特に時折挿入されるクローディーンの母親モニクのエピソード、クローディーンの亡父でインターポールの捜査員だったウィリアムの話などは面白く読めた。 が、ここでクローディーンが気付かされる大人の慎み深さ、謙虚さなどが稚拙すぎた。仲が悪いと思っていた父母の隠された絆の深さ、父親が家族を守るためにどんなに気高かったのか、それらを気付かされるにはクローディーンは歳をとり過ぎているのだ。 というのも心理分析官たるクローディーンがこと父母のことになると彼らの視点で物事を考えられないというアンバランスさが納得いかないのだ(もしかしたらこれが作者の狙いかもしれないが)。 バラバラ殺人事件の真相、アングリエが仕掛けるクローディーンへの罠、クローディーンの母モニクの癌闘病記、亡き父の生き様。 これらこの小説を彩る内容は小説として非常に贅沢な感じを思わせるが、一読者としてはこのうちのどれか一つに黄金が隠されていればその小説の評価は高くなる。しかし冒頭にも述べたように、フリーマントルはこれらについてあまりに職人的すぎた。感銘を受けるには内容が薄いと感じた。 次回以降は、逆に小説巧者としてのフリーマントルの旨みを感じさせて欲しいものだ。 |
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ギデオン・フェル博士となんと短編集『不可能犯罪捜査課』のマーチ警部の共演作。しかしカーの有する名探偵2人の出演は、結局狂言回しに終わってしまったようだ。
出版社を経営するスタンディッシュ大佐の屋敷、グレーンジ荘はポルターガイストが起こる幽霊屋敷と云われていた。そこで休暇を過ごしているマプラム主教、ヒュー・ドノヴァン・シニアが奇行の数々を行っている、その主教が語るにはある夜、隣家のゲストハウスに住んでいるデッピングという老人の下に有名な犯罪者が逃げ込むのを見た、ぜひとも警察と話したいということだった。警視監よりその役目を仰せつかったハドリーは自分の下に訪れたスタンディッシュ大佐と面会する直前、デッピングが頭を撃たれて殺されたとの知らせを聞く。ハドリーはたまたま自分のオフィスに来ていたフェル博士と当地に向かう。 本作はカーの初期の作品―なんとあの名作『帽子収集狂事件』の次に出版されている!―であるのに、本格推理物ではない。フェル博士は終始、推理が空回り、マーチ警部も容疑者スピネリに翻弄されて東奔西走しているだけの無能振りである。 そして象徴的なのが、いやに探偵役が多い事だ。 フェル博士とマーチ警部という二大巨頭に加え、マプラム主教であるヒュー・ドノヴァン・シニアは元犯罪研究家だし、その息子は大学で犯罪学を専攻している刑事の卵、それに加え、スタンディッシュ大佐の出版社お抱えの推理小説作家ヘンリー・モーガン(イニシャルがH. Mというのがまた面白い)まで登場とてんこ盛りである。 ここにいたって気付くのはカーなりに「船頭多ければ船、山登る」を体現したかったのだろうか。大本命であるフェル博士でさえ、真犯人に気付きはするが、仕掛けは失敗している。ごく初期の作品である本書で、既に本格推理小説を皮肉っていたのか? しかし、とにかく回り道が多く、バランスの悪い作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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なんとも評し難い作品だ。
ジャンルとしてはやはり夢枕獏氏のような伝奇に物になるのだろうか。 大学生と小学生の美少女という取合せがストーリーに潤いを与えるのならまだしも、どう考えてもロリコン大学生とありえないほど純粋な小学生との信頼関係には無理を感じる。魔力を備えたアイドル歌手やその父親が政財界のドンでしかも魔人というベタな設定に加え、ひょんなことから異世界に行き、その世界で出遭うのは二本足で歩く獣人や巨大カタツムリだったりと物語のベクトルが無秩序で理解に苦しむ。 主人公が守る美少女は熾天使の化身だという設定はまだ許せるものの、パラレルワールドにも行ってしまうという闇鍋のような設定にはノレなかった。菊池秀行氏のようにいっそ異世界に設定して物語を進める方がこちらもスイッチを切り換えて物語世界に埋没できるのだが。 作者が何を読者に仕掛けたいのか、読み取れなかった。 |
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作りが荒っぽい。全てが中の上のサブキャラみたいな存在である。
結局主人公は何もしない―せいぜい、罵倒するぐらい―で悪役は勝手に倒れるしで、まるでクーンツの2級作品のようなお話だった。 最後の、耕平が和彦を罵倒する内容、「何もかも借り物」、「どれもこれも、できそこない」、「つぎはぎだらけ」は、実は作者がこの作品の最後に感じた感想そのままではなかっただろうか? |
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長い!長過ぎる!!全てにおいて冗漫でしょう!!
クーンツは冒頭のシーンが上手い事で知られているが、それは大体50ページ前後で一段落するスペクタクルがページを捲る手をもどかしくさせるのであって、それぐらいの長さで切れ味を発揮するのに、今回はしつこくスキートの自殺未遂の顛末とマーティの妄執的な破壊シーンが続き、逆に本編が始まる前に疲労を感じてしまった。しかもクーンツ特有のどうしてそんな風になったのかを後々になって明らかにする引っ張り手法を用いているものだから、何がなんやらで、もうどうにでもなれって感じになってしまった。 設定は前に読んだ『真夜中への鍵』同様、主人公がマインドコントロールをされているという設定で新味はない。しかし催眠術というかマインドコントロールとは自ら進んで自殺するようには出来ないのが通説だったのではなかったろうか?死を暗示させない他の行為に置き換えて死を促すというのは宮部みゆき氏の某作であったが、もし近年の研究で催眠によって自殺を強要することも出来るということが判明していたとしてもこの手法はあまりに作者にとって都合よすぎていただけない。 つまり悪役のアーリマンが万能すぎて面白くないのだ。この点では応用のある宮部氏に軍配が上がる。 しかし、上下巻合わせて1,100ページ余りで語るべき話ではないのではないか?あまりにも肉付けが多すぎて推敲がされていないように思われる。この内容だと恐らく半分は削れるだろう。 小説の長大化を決して厭うわけではないが長大な話にはそれ相応のスケールの大きさがあるのに対し、今回はただ単純に登場人物が多く、それら一人一人を不必要なまでに描いた、これだけのような気がする。 |
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この頃のクーンツはなんか物語にノレない。典型的なプロットが目立つからだ。
物語の中心となる構造が、何者(物)かに脅かされる男女、その内の1人にはおぞましい過去があるのだが、そのあまりの強烈さ故に思い出せない、逃亡を重ねる2人、いくつかのニアミスを繰り返しながらやがて過去と対峙する事を決意し、敵の懐へ飛び込む、もしくはあえて危険と知りながら忌まわしい想い出の地へ赴く、その地で忌まわしき過去が全面想起され、宿敵との対決、命を失いそうな所まで行きながら辛うじて九死に一生を得る、まだ見ぬ明るい未来へ想いを馳せ、2人手を取り合いつつ物語を終える、とこういった感じだ。 今回もそう。前回の『コールド・ファイア』は前半がとびきりに面白すぎて後半―物語の性質上、致し方ないとは云え―見る見る物語のパワーが萎んでいった顕著な例であったが、今回はどうにもこうにも陰気な主人公スペンサーがストーカーにほぼ近い事―というよりストーカー行為―をある酒場で出逢った魅力的な女性に対して行う事から始まり、しかも彼が自分の名前、住所、身分証明書の類全てを詐称する究極のパソコンおたく、ハッカーでもあったという非常に好意の持てない所から出発していることもあり、物語が進むにつれ、スペンサーがヴァレリーと再会してから明るくなっていくのでエンターテインメント性が高まり、そこが『コールド・ファイア』と大きく違って、マイナスからプラスに転じていたのが良かった。 主人公の呪われた血の設定は特筆物だがやはりタイトルが示すように物語のトーンとしては暗い。 しかし冒頭に述べたような「クーンツの小説方程式」になぞらえて今後も作品を作っていくとなると小説家としては二流と云わざるを得ないなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のカー、しかも復刊ではなく新訳である。この前の『喉切り隊長』が結構面白かったのもあるし、フェル博士物でもあるということで期待したが・・・。
今回はカーネギー・ホールなどに代表される欧米の劇場が舞台ということでボックス席がどういう物かを漠然としか想像できなく、登場人物の行動の推移が何が何やら十全に理解できなかったことが大きい。 しかし、それだけでないのも確か。450ページ弱を要して殺人事件が1つ、しかもネタ的には短編小説並みのものでしかないというのが結構痛かった。 最後の最後でトリックは明かされ、なるほどと思うが、450ページを引っ張るほどの魅力は無かった。 本筋から関係のない脱線気味の笑劇もあり、カーのサービス性がどうも悪い方向に働いたようだ。 なぜ平成の世になって漸くこれが訳されたのか?この問いの答えは様々だろうなぁ。 |
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乱歩の目指す本格というものがよく解らなくなったというのが本書の正直な感想。がちがちの本格というよりも恐らくは当時乱歩は海外ミステリでよく行われていた「どんでん返し」の趣向に強い憧れを持っていたのではないだろうか。つまり一筋縄ではいかない結末を用意することに固執していたように思われる節がこの短編集では散見される。
しかしその趣向が上手く機能しているとは云い難く、はっきり云って蛇足に近い。二流の作品で終える予定が三流の作品に貶めているように思う。つまり最後の結末があまりにしょうもなさ過ぎるのだ。 ここに至り私は、乱歩は本格推理小説家としての才能は初期の短編の一握りの物にしか見られないと判断する。乱歩は本格推理小説を最も書きたがった通俗ミステリ作家だったのだ。 |
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私個人としては長編作家としての乱歩は少年期に少年探偵団シリーズで胸躍らせたあの頃で完結しており、『孤島の鬼』などの例外はあるにせよ、通俗すぎてバランスが悪いという印象しかもたないが、短編作家としての彼はワンアイデアで勝負する分、冗長でなく、しかもそのアイデアにキレがある事からかなり評価は高かった。
しかし本書に至っては短編の量産化のためかアイデアの枯渇が否が応にも窺え、小細工を変に弄するがためにギクシャクとした印象がある。各々の作品については述べないが、「恐ろしき錯誤」以降すべてが読者をどうにか欺こう、読者の考えの先を行こうと無理矢理などんでん返しを用意している分、それがなんとも痛々しいのだ。 次の『人でなしの恋』に期待しよう。 |
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通常、作家には2種類の作品がある。作者のありとあらゆる粋を結集させた渾身の作品と、印税稼ぎで仕方なく書く量産作品である。そして本書はまさしく後者で特筆すべくも無い全くスタンダードな作品に仕上がっている。
事件は4つ起こり、その内密室殺人が2つ起こる。と書くと豪勢な骨太ミステリのようであるが、内容は2時間サスペンスドラマの域を越えない陳腐なもの。犯人、というか事件の黒幕的存在も途中で判ったし、それも戦慄を憶えさせるような余韻を残す内容ではない。 どんでん返しがどんでん返しになっておらず、ミステリに日頃触れない人たちならばある程度満足できたであろう内容だ―実際、母はこれを面白いと云っていた―。 黒星警部との再会は懐かしさを感じたが、思えばこの警部が出てくる作品は傑作がなかったんだったよね。 |
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ショートショートはまあまあだったが、独り善がりで全体としては最悪。
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クーンツは時々やらかしてしまう。
やらかすというのは今まで魅力的な謎で引っ張っておきながらその実、真相や動機付け、理由などが何とも簡単に片付けられ興趣を殺がれる場合と、冒頭で魅力的な設定を提示していながら核心へ引っ張るだけ引っ張って実に呆気なく終わってしまう場合。 今回は後者。 赤ん坊を妻に殺され、数年後に元妻の子供を必ず嬲り殺しにすると誓うフリーク・ショーのボス。そしてそのカーニバルがついにやって来る―このワクワクする設定によくぞクーンツ、思い付いたなぁと感心した。また悪しき子供を産み、殺害したトラウマを持つエレンの、実の娘・息子を抱きしめたいほど可愛がりたいのにそれが出来ない葛藤などドラマも用意され、そして一方、サーカスの方では行く街ごとに第2の息子による性欲を爆発させた殺戮ショーが繰り返される模様も描かれている。単純な設定を魅力的なエピソードを加えて厚みを持たせていく筆達者ぶりに感心した…のに。 最後は、何とも簡単に終わってしまう。結局母と娘の確執は解消されたのか、それさえも解らずに敵が死ぬことで物語は幕を閉じ、大味な感じが残されるのだ。ああ、読み捨て小説の典型だな、こりゃ。 |
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クーンツは巷間ではモダン・ホラー界のヒット・メーカーで通っているが、私に云わせれば、モダン・ホラー界のジョン・ディクスン・カーだという方が最も的を射ていると思う。それほど当り外れの激しい作家なのだ。
今回はその例に準えれば外れになろう。 本作で扱っているテーマはリーインカーネーション、つまり訳せば「輪廻転生」。冒頭の少女の苦悶のシーンがその後のテーマに繋がっていくのだが、どちらかと云えば展開は凡庸でクーンツならではという特徴がない。キャロルの私生児が実は、という設定も凡百の小説に見られる「意外ではない意外性」の域を脱せず、あざといテクニックを露呈するだけに。 作者自身も書いてて面白くなくなったのだろうか、『邪教集団~』、『雷鳴の館』でこれでもかとばかり見せ付けた主人公を完膚なきまでに追い詰めていく展開が意外にあっさりと片付けられ、しかも唐突に迎えるあのエンディング。 それ以降を書いて唯一無二の結末を提示するよりもその後あの4人がどうなったのかを読者の想像に委ねる手法を敢えてとったのかは定かではないが、正直消化不足ではないだろうか。 邦題もよくよく考えれば的外れでもあり、う~ん、色々含めて凡作だなぁ。 |
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今回もサイキック物で、主人公はこれから起きる殺人事件が予見できる能力をもった女性。これが同時に事件を解決出来るような知力と腕っぷしを持ち合わせていないのがミソ。
だが今回はあまりに売れる小説を書くことに専念したクーンツのあざとさがいやに目立った。特に犯人が早々と判っているのにも拘らず、じれったく引っ張っていく嫌らしさ。マックスを犯人にも仕向けるあからさまなミスリードの数々。 それに冒頭の犯人が主人公を名指しするエピソード、あれは一体何だったの!? |
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いきなり前世(作品内では「過去世」だが)で愛し合ったであろう者同士が何の疑いもなく前世探しの旅に同行するという設定に抵抗を感じたせいか、最後までのれなかった。前世と肯定して物語はぐんぐん進むのだが、それも何だか腑に落ちなかった。
そうして読み進むうちに内面に不安がよぎり、最後にやはり現実となった。前世をテーマにした幻想小説と見せかけて実はまっとうなミステリだったと手法は良いがやはりその解決は強引だった。 |
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