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ねじの回転
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【この小説が収録されている参考書籍】
ねじの回転の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.77pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全33件 21~33 2/2ページ
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今後、日本語の電子書籍がもっと増えてくれるよう、強く希望します。 | ||||
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英国の田園地帯の古い貴族の邸宅に若い女性が家庭教師としてやってくる。幼い兄妹二人の世話をする彼女はある日、屋敷にいないはずの胡乱(うろん)な男女の姿を見かける。それは以前この屋敷で働いていた従僕クイントと前任家庭教師ジェスルのようだ。しかしこの二人は既にこの世にいない人物だった…。 19世紀末にヘンリー・ジェームズが著わした幽霊譚です。 100年以上も前の作品ですから、舞台設定も登場人物も大変古風です。立ち現れる二人の幽霊はただの一度も言葉を発することがなく、彼岸に逝かずにこの世にとどまり続ける理由についても語ることがありません。若き家庭教師の前に静かに謎をはらんで現れ、すっと立ち去るということを繰り返しながら、ある目的を果たすべく一歩、また一歩と、さらに近くへと忍び寄ってくるのです。 彼らが主人公に鋭く切り込むように襲いかかるという描写はありませんが、底冷えするような恐怖は、神経をきりきりと締められる若き家庭教師の心理描写で十分に伝わります。 そしてやがてこの家庭教師を襲うのは、二人の幽霊が彼女の目にしか映らないという特異な事実です。そこに彼女は、周囲の無理解が産む孤立という名の恐怖を味わうことになるのです。 そのことがこの小説を古びたものにさせないでいるように思えます。 本書は奥付によれば初版が昭和37年(1962年)。当時の古風な日本語訳文がこの古典作品に絶妙の風雅を醸し出す効果をあげているように感じます。大抵40年もの時を経た日本語文は、時代遅れな古めかしさを伴い、なかなか今の世に読むには苦しい、古色蒼然たるものになってしまうものなのですが、この作品に限っていえば、むしろより良き方向に働いたと言えるでしょう。 この訳者による別の英米古典文学を読んでみたいという気持ちにさせられました。 | ||||
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幽霊物語の体裁をとっていますが、幽霊を見たのは家庭教師だけです。そこから、家庭教師の妄想とか、創作とか、さまざまな読み方が可能になるでしょう。 突飛な読み方と思われるかもしれませんが、私は、手記を書いた家庭教師の女性、それを読み上げた初老の紳士ダグラス、さらに全体の語り手「わたし」と、三重の語りになっていること、手記がその家庭教師からダグラスへ、ダグラスから「わたし」へ手渡されたこと、家庭教師が守ろうとする兄妹、特に兄の言動などから、その手記は家庭教師の女性がダグラスに宛てたラブレター、もしくは弁明の書(なぜ私はあなたの心に踏み込めなかったのか)である、というふうに考えてみたのですが、いかがでしょうか。 | ||||
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不条理感たっぷりの内容が、タイトルにピッタリだと思いました。 こういう亡霊自体はそんなに怖くないなぁと思います。 でも、主人公の女性のどんどん追い詰められていく心理状態の描写は なかなか怖かったんじゃないかなぁと思います。 訳がかなり直訳過ぎて、日本語の単語で英文作ってるみたいでした。 文章がもっと自然なら、もっと怖さが味わえたんじゃないかと思います。 | ||||
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1898年のヘンリー・ジェイムズの作品。この様な幽霊といった不可解な物を描く作品は、娯楽作としてアイデアの一つとしてこの世界に現象させるタイプと人間心理の発露として描くタイプがある。スティーヴン・キングやエリアーデの作品やどっち付かずの不出来で不可解性が変に魅力になってしまっている作品ももちろんある。本作は短い作品ながらその境界を曖昧な物として最後まで行き着く。主人公の女家庭教師から見た、幼い子供の不可解さ。それを早熟だと相手を自分本位の見解で決め付けた視点と、噛み合わない幼い子供自身の実は無邪気なだけの見解のすれ違いを書いている様でもある。自分の常識では測れない不可解な物をモンスターとして決め付ける大人の傲慢さであり、人が大人になって得る物と失われる物を描いているのであり、その無意識的なジレンマに悩む女性の心理を描いた物でもある。前述した事に当て嵌めれば大人が作り出した幻影、強迫観念と自分の器に合わせて認識しようとする臆病で自分本位な意識の馴れ合いが生み出した幻である。もう一つの見方は子供が主体であり、子供の精神力、それがかつてこの世に生きていた人間の影響力に寄る物か、子供自身の感情の発露に寄る物なのか、実体として表れたとも取れる。そして一番単純な見方が、幽霊自体が主体でありそのかつて生きていた者の残存思念が残っていて子供達を悪徳に引き込むという物であり、しかし商品説明でよく書いてある様な悪徳非難やその恐怖を描いた単純な作品では無い。むしろ逆である。本作で作者が言いたい事はなんであろうか。決められた所に嵌っていくボルトとナットの関係の様にねじを締める様な大人の子供に対する教育の是非を問うているのか、また大人と子供の関係に限らず、善悪の基準が決められている社会に人間を押し込む事に異義を唱えているのだろうか。その全ての個々の思念が渦巻く様に回転して幻想を生み出す事を描いている様だ。「ちび黒サンボ」の虎のバターの様に渦巻いて出来上がった物が豊穣の糧であったらいいのにね。そうはならないのだな。 | ||||
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本書は1898年に発表されたヘンリー・ジェイムズの代表作。 英国郊外の古い屋敷で、若い女家庭教師が両親を失った幼い兄妹の世話をする事になるが、 そこで彼女は邪悪な男女二人の幽霊と遭遇してしまう。 その幽霊達は幼い兄妹たちにも現われているようなのだが、子供たちはそれについて何も知らないかのように振舞っている。子供たちは表面的には純真でとても良い子なのだが、陰では邪悪な幽霊たちとグルになっているらしい。そして次第に家庭教師を心理的に追いつめていく様が実に見事に描かれている。 幽霊を目撃するのはいつも家庭教師だけであり、彼女の妄想かもしれないと思ったりしながら、そして様々な謎を残したまま物語は最後まで進行していく。 翻訳に関しては所々直訳っぽい言い回しが見られたりして関心しなかったが、それを差し引いても十分楽しめる作品。また比較的短くて一気に読めるのも良い。 | ||||
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英国文学界の重鎮ジェイムズのホラー作家としての側面を代表する怪奇小説集。表題作『ねじの回転』は、実際にあった出来事に材を取り、その解釈を巡って多くの論争を呼び起こした曰くつきの一篇です。女家庭教師が勤めた田舎の古屋敷で遭遇する不可解な出来事の数々。何故、善良そうな男の子が学校を停学されたのか?彼女の前に姿を現す幽霊は何を語ろうとするのか?謎を残したまま物語は佳境に突入し、ある結末に達します。作者はわざと細部を曖昧に描写しています。その点の是非について賛否両論が叫ばれていますが、私としては謎が必ず解決を見なければならないミステリーとは違って、この種のジャンルでは読み手に解釈を委ねる手法も許されるのであり、テクニックのひとつとして充分に効果を上げていると思いますし、その不可解な迷宮性の故に永遠の名作足りえているのだと思います。 その他四篇の幽霊噺は、一人の男性を巡っての姉妹の確執・幽霊屋敷を舞台にした父娘の愛情の物語・旧家の人間関係に絡む狂気の話・作家の死後の意思が体感される物語と、何れも思わずぞっと総毛立つ心地のする逸品揃いです。 私にとっての幽霊噺の醍醐味は、生者には決して理解の及ばない死者の存在感であり、本書はその意味で最高の一級品だと思います。 | ||||
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ホラー小説にもその時代のスタイルというのがあって、読者は自分がよく読む時代のスタイルに知らず知らず慣れているのだと思う。ヘンリー・ジェームズの小説は書かれた時代がビクトリア時代というだけあって、とても古風なスタイルだ。たとえば悪い言葉とか邪悪な行いと書いてあるだけで、具体的なものが何も書かれない。きっとそれがその時代の流儀だったのだろうけれど、現代の読者が読むと具体的な表現がないことが新鮮に感じられるのじゃないか。読者はどうしても自分の想像力を使って読み進むことになる。古風なだけでなく、この「ねじの回転」はそこに書かれていないことが妙に気になる小説だ。どうして物語はあそこで終わるのか。幽霊は本当にいたのか。以前、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどのホラー小説全集を読んだことがあって、その国の文化がホラーの質に影響していることに驚いたことがある。そのときのイギリスのホラーの印象は、全体に漂う冷たい湿気、そして物語の凄みが表面に出ずにずっと奥にあることだ。この小説もそういう雰囲気があり、ぞくぞくする。「ねじの回転」は実は何十年も前に読んだことがある。今回、新しい訳が出たと聞いて再読した。原文は難解と言われているらしいが、新しい日本語訳は現代的でさくさくととても読みやすかった。 | ||||
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知的に洗練された人々が根源的な悪と、悪がもたらす恐怖について耳を傾ける、という設定になっています。名門の幼い兄妹を支配し、徹底的に堕落させる目的をもった亡霊たち。死んで後もこのような非人間的欲望をもつ亡霊の真っ暗で陰鬱な情熱、底知れぬ奈落が子供たちの前に口を空けています。亡霊を見ることができるのは幼い当人たちと、彼らを守ろうとするうら若い家庭教師だけです。精神を研ぎ澄まし、霊的な戦いを挑む家庭教師には頼むもは自分自身だけです。語り手は旧家の暖炉の前で、すでに亡き人となった家庭教師の手紙を読み上げます。語り手自身もこの事件について何も知らないのですから、いろんな憶測をもつこともできるし、家庭教師自身の妄想とさえ言えるのです。デボラ・カー主演の映画「回転」の方も、視覚や聴覚に訴えて「やたらめったら」怖かったです。 | ||||
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人間が本能的に持っている「恐怖」というものを極めて「心理学的」に解釈した傑作。当代一流の心理描写を極めたヘンリー・ジェイムズらしい作品である。深読みすればオカルトとか超常現象のあり様が垣間見える。この作品を読んだのが暇な貧乏学生の時だったので、ついついそんなことを考えてしまいました。分量は少ないですが、内容は濃密。理解に苦しむケースもあるでしょう。文学的には素晴らしい作品ですが、そんじょそこらのホラー小説と思って読むと……痛い目を見ますぞ。 | ||||
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有名な作品であり改めて紹介するまでもないでしょう。「ねじの回転」の邦訳は今までは新潮文庫版が入手しやすかったのですが、何分昔の訳であり、半分くらいしか日本語になっていないような翻訳でしたので(また、無闇に擬態語、擬音語が多い訳でもある)、この清新、正確な行方訳の出現は歓迎されます。但し、生硬な新潮文庫版の方が、幽霊の出現シーンは恐ろしかった気もします。もっとも、これは行方訳が「です、ます」調で訳したためもあるのでしょう。勉強になったのは訳者の解説。本当に幽霊が出現したのか、それともヒロインの妄想かという有名な議論があるのですが、「妄想説」はフロイトの精神分析論に立脚しているという指摘です。フロイトの精神分析論も今では覆滅されました。文学の解釈!も時代の制約を受けるものだということがよくわかります。 | ||||
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どうやら恐るべき亡霊にとりつかれた魂を救おうという話らしい。ところが恐るべき亡霊の恐ろしさが一向に伝わってこない。亡霊の恐ろしさを表す描写は極端に少なく、話者が抱く恐怖感だけが克明に伝えられるため、読者としてはその恐怖感を共有しにくい。やがて物語も半分を過ぎた頃、急速な変化が訪れ、ここから一挙に緊迫感が高まる。恐るべきものは霊の存在自体よりも、その存在に影響される人間の心理だった。途中で投げ出したくなるほど退屈な前半部分は後半の緊張感を味わうためのスパイスだったのだと得心した。同じように途中で投げ出したくなった方がいたら、騙されたと思って最後まで読んでみて! | ||||
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今は亡き先任家庭教師と召使に呪われた大きな館へ。新任女性家庭教師は幼い兄妹を彼等の呪いから守ろうと奮戦する。…ここである疑問がふと湧く:館の誰も幽霊を見ていない/見えていない、しかし女性家庭教師だけが遭遇している。何故?ある意味、恐ろしい本である。物語自体も女性家庭教師からある紳士へそしてある女性へと手に手へと渡っている為、信憑性に欠く部分もある。しかし、こういった設定がヘンリージェイムスのすごい所であり、この本を一筋縄では行かなくしていて更に面白くしている。この本は是非、原文で読んで欲しい本。お勧め。 | ||||
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