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ダンス・ダンス・ダンス
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ダンス・ダンス・ダンスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.38pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全134件 41~60 3/7ページ
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この本の中で文化的 雪かきという表現がよく使われています。この本自体だらだらとあまり内容もなく まさに文化的 雪かきを読んでいるようでした。主人公がユキちゃん、ユミヨシさん、五反田君達と関わり今後どのように展開していくのか下巻に期待が持てました。 | ||||
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下巻も文化的 雪かきのような文章がだらだらと続きます。ただエピソードでキキとメイを葬ったやつは誰なのか推理小説的な要素も加わり話も急展開してゆきます。ユキちゃんも五反田君から借りた車に乗って違和感を感じたり映画を見て犯人がわかったりと超能力全開ww 最後は、結局 羊男は、なんだったのかよくわからなかったが読者にそれを委ねるって感じであえて全部判明しない終わり方でした。このぐだぐだ感がいいです。 | ||||
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バブル景気は、80年代の終りにピークを迎えました。 その直後に、私たちの社会は狂気に満ちた崩壊へと自ら飛び込んでいきます。 [ダンス・ダンス・ダンス(下)」では、一人の男の哀しい結末を通じて、時代の狂気に迫ります。 【高度資本主義社会の神話】 ポストモダンと呼ばれた思想は、もはや過去の思想のような社会批判の力を失っていた。 「哲学はどんどん経営理論に似ていった。」 無駄が美徳とされ、矛盾が経済を活性化し、ますます社会は高度化していく。 「誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだ。」 私たちの追い求めたものの正体は、メディアが作り上げた実体の無いイメージでした。 【ハワイの白昼夢】 一時的な休息のつもりで訪れたホノルルのダウンタウンで、主人公は「死の部屋」に辿り着いた。 「青い闇の中に六体の骨がぼんやりと白く浮かんでいるのが見えた」 混迷した社会を遠ざけることはできても、死の絶望から逃れることは誰にもできない。 【五反田君の告白】 おそらく解離性の精神疾患を負った彼は、なぜ自分がキキを殺したのかが分からないと告白する。 「何故僕が彼女を殺さなくちゃいけない?でも殺したんだよ、この手で」 人生における全ての矛盾を抱え込んだまま、彼は自ら命を絶った。 この悲劇の結末にある種のカタルシスを感じるのは、彼が私の身代わりであるからかもしれません。 あの時代に自分の中の「狂気」を隠蔽して生きてきた、もう一人の私自身のように思えるのです。 【キキの夢】 「あなたは自分の影法師をパートナーとして踊っていたのよ」 「私は死んでいない。もう一つの別の世界に移るの」 死に至る絶望を前提とした私たちの欲望は、決してこの社会で実現することはないのかもしれない。 もしそうだとしても、私たちの生の枠組みは乗り越えることができることを、キキは伝えようとします。 その可能性を信じることが出来れば、この不完全で偶発的な日常を受け入れ、 ダンス・ステップを踏み続けることが出来るのかもしれない。 それは誰にでもできる簡単なことだ、とキキの言葉を通じて作者は語りかけます。 多様な解釈が可能な読み応えのある作品でした。 この作品の感動が、世代や地域を超えて全ての読者に伝わることを願います。 | ||||
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本書を読んで感じたのは、今の生活がいかに安定しているように見えても、実は不確かで脆く儚いものであるということだ。 本書の主人公の「僕」は、人間的には思いやりがあり、独特のユーモアもあっていい人物と思うのだが、妻には月に住んでいるような人と言われ離婚され、30代半ばの独り身だ。「僕」は過去から人との別れを繰り返して来たようで、その度に自分の中の一部を失い、自己の存在が希薄化していったような感覚を持っている。 そんな彼が、過去、特別な体験をした札幌にある「いるかホテル」に戻るところから本書の物語はスタートする。ところが「いるかホテル」は最新のホテルに立て替えられ、以前の面影はなく、戸惑う「僕」が出会った、ホテル受付の「ユミヨシさん」、13歳の美少女「ユキ」、中学の同級生で久しぶりに再会した映画スターの「五反田君」と少し不思議な、でもなかなか素敵な関係を築くが、それは常に不安定で壊れそうな危うさが常につきまとう。 そして、物語は主人公がタイトル通り、ダンスのステップを踏むように軽やかに進み、エンディングを迎えるわけだが、この結末をどう考えれば良いのかしばし考えてしまった。「僕」にとって心の安らぎのある安定した場所に辿り着いたと考えてよいのだろうか?そうであってほしいと願いながら本を閉じた。 | ||||
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本作は青春3部作の一つである「羊をめぐる冒険」の続編となっています。 「羊をめぐる~」では三島由紀夫の自決や浅間山荘事件をモチーフとして、 70年代に蔓延したイデオロギー幻想を葬ることで一旦幕を閉じました。 高度資本主義社会を迎えた80年代を舞台に、時代の病理を探る冒険が再び始まります。 【フロント係の女の子】 誰も真剣に愛せなくなってしまっていた僕の前に、ユミヨシさんが現れた。 僕は彼女に好意を感じているが、その先に踏み出すことを躊躇している。 「何処にも行けないだろう。たぶん僕がもっと失われるだけのことだろう」 【羊男との再会】 巨大な建物に生まれ変わったドルフィンホテルの片隅で羊男に遭遇した。 「踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。」 羊男は僕に何かを教えようとしている。 【13歳の女の子】 ユキは僕が少年時代に味わった切ない気持ちをよみがえらせてくれる。 「でも、13歳の時の僕はそれほど幸せな少年ではなかった。」 【五反田君】 「本当の自分というものがわからなくなる」「致命的なんだ」 時代の寵児となった彼の告白には、何か深刻な問題が隠されている。 【コミットメントする僕】 主人公が出会う奇妙な人たちはみな謎めいていて、いろんな物事がカオスとなって僕を包み込む。 そもそも私たちは、不完全で偶発的で受動的なコミュニケーションの世界に住んでいる。 「我々がこの肉体の中に存在している限り、永遠にそうなのだ。」 下巻では登場人物の秘密が解き明かされ、主人公を取り巻く世界が開示されていきます。 それはあのバブルで狂乱した時代に隠れた、もう一つの現実のように感じます。 | ||||
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今回初めて中古本をオーダーしたのですが意外と本がきれいでした。ありがとう | ||||
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僕も主人公の真似をして《いわし》って名前の猫を飼ってました。 2年前の4月29日の朝に死んじゃいました。 音もなく雨が降る竹やぶにシャベルで穴を掘って埋めました。 | ||||
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ハラハラドキドキのラスト手前。そしてラストは良かった。最期に救いのあるベートーヴェンの曲のように。まるでベートーヴェンの「エグモント序曲」を聴いているようだった。 | ||||
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村上春樹の文章はどうしてこうも人を惹き付けるのだろうか。 これだけの世界観を築き上げるのはさすがだとしか言いようがない。 一度読み始めたら、その世界観から抜け出せなくなる。 | ||||
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急に読みたくなって読み返してみました。細かい内容はうろ覚えだったのですが、今読んでも古臭くなくて楽しめる作品だと思いました。主人公の「僕」はもちろん、五反田くん、ユキなど登場人物が魅力的に描かれているし、その上文章がいちいち格好いいと改めて思いました。 -「言葉にならないものを大事にすればいいんだ。それが死者に対する礼儀だ。時間が経てばいろんなことがわかるよ。残るべきものは残るし、残らないものは残らない。時間が多くの部分を解決してくれる。時間が解決できないことを君が解決するんだ。僕のいうことは難しすぎる?」-(下巻より抜粋) 村上作品の中では読みやすい部類の作品だと思うので、読んだことのない人はぜひ読んでみてほしいと思います。 | ||||
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職業作家になるんだとの気合いを込めて執筆された「羊をめぐる冒険」に比べ、本書は文体に自信というか、どこかリラックスした感じを受けます。 「羊をめぐる冒険」で、耳専門のモデルをしていた女の子が本作でははじめて「キキ」と名前をつけられます。 ほかにも「ユキ」「アメ」「ユミヨシさん」「五反田くん」というように、初期三部作にはなかった固有名詞が使われています。 そういった点も初期三部作と違った雰囲気を感じさせる要因になっているのかもしれません。 「羊をめぐる冒険」でいろんなものを失ってきた。 そして何かを失うたびに、そこに別の何かをくっつけて置いてきてしまった。まるでしるしみたいに。 誰かが僕のために涙を流し僕を求めている、そう感じた僕は再び「いるかホテル」へ向かう。 僕は何をするべきなのか。 羊男は言う。「踊るんだ。音楽が続く限り」 本書はそんな僕がその何かを取り戻すためにダンスのステップを踏み続ける物語 ギアがローに入り、どこに行くのかわからないにせよ状況がゆっくり動き出す。 そして一見何の関係もないものが踊り続けるうちに繋がっていく。 さて相変わらず村上春樹の小説には面白い表現や比喩がありますので、お気に入りのものを少し引用します。 「僕は唾を飲み込んだ。ドラム缶を金属バットでジャストミートしたような大きな音がした」 「彼女は少し唇をすぼめて僕の顔を眺めていた。丘の上に立って洪水の引いた後を眺めるような目つきだった」 「不吉な予感がした。馬が死んだ。インディアンの太鼓もやんだ。静かすぎる」 「綺麗な子だ、と僕は思った。じっと見ていると心のいちばん深い部分に小さな石を投げ込まれたような気がする。」 「調教済みの野菜を買った。広い畑で、たぶんその回りには鉄条網が巡らせてあることだろう。機関銃つきの監視塔があってもおかしくない。そしてその中でレタスやセロリに対して何かが行われているのだ。我々の想像を絶した非野菜的な訓練が」 | ||||
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おかしなな人間ばかり出てくるが、最終的にはみな一つの部屋へと集まっていく。 時代が狂っているとまともな人間は生き残れないんだ ギャグがおもしろい | ||||
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「ノルウェイの森」だけ最初に読んで、あとはデビュー作から順番にここまで読んできて、村上春樹の作品はHPラヴクラフトとFカフカの合体したようなものだと改めて思った(それ以外の村上が自分で影響を受けたと言っている作家は読んだことがないのでどこがどう影響を受けているのかわからない) で「風の歌を聴け」から始まった主人公の旅というか模索は、この作品で一応の終わりというか区切りがつく。学生時代から中年期の初めに至るまで現実と空想の間をふわふわしていた主人公が加齢による世間の風当たりの強さとそれに対する自身の肉体的・精神的な衰えから漸くもう空想はいいと、いい加減疲れたからこれからは現実の世界で生きていくことにした、という結論の話だと思う。要は若者のつもりでいたが自分がオッサンであることを色々と思い知らされたので、一回り若いおっぱいの大きいねーちゃんに執着するようになったみっともない男の話。それを巧みな比喩を用いてファンタジーのように仕上げている。 | ||||
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「ノルウェイの森」だけ最初に読んで、あとはデビュー作から順番にここまで読んできて、村上春樹の作品はHPラヴクラフトとFカフカの合体したようなものだと改めて思った(それ以外の村上が自分で影響を受けたと言っている作家は読んだことがないのでどこがどう影響を受けているのかわからない) で「風の歌を聴け」から始まった主人公の旅というか模索は、この作品で一応の終わりというか区切りがつく。学生時代から中年期の初めに至るまで現実と空想の間をふわふわしていた主人公が加齢による世間の風当たりの強さとそれに対する自身の肉体的・精神的な衰えから漸くもう空想はいいと、いい加減疲れたからこれからは現実の世界で生きていくことにした、という結論の話だと思う。要は若者のつもりでいたが自分がオッサンであることを色々と思い知らされたので、一回り若いおっぱいの大きいねーちゃんに執着するようになったみっともない男の話。それを巧みな比喩を用いてファンタジーのように仕上げている。 | ||||
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上巻(評価済:「オドルンダヨ」―マントラ(呪文)の力)からつづく。 マントラには効力があるが、しょせんは他から与えられたもので決定的ではないだろう。 「僕」は次に自問へ進む。(下巻28章p.51) 「音楽にあわせて踊っていたら、ここまでやってきた。僕は上手く踊っているだろうか? 僕は頭の中でこれまでの事態の進行を順番に辿り、それに対して自分がとった行動をひとつひとつチェックしてみた。それほど悪くない、と僕は思った。たいして良くはないかもしれない。でも悪くない。もう一度同じ立場に立ったとしても、僕はやはり同じように行動するだろう。それがシステムというものだ。一応足は動いている。ステップを踏み続けている。」 自問し、経過を観察し、自答する。これで決定的に次に繋がるのだろう。 評者ならマントラ風に短く「In step?」と自問したい、繋がりを信じつつ。(Am I keeping in step?の簡略版) しかし自問でも解決がつかない状況に追い込まれる。(下巻39章p.262) 「踊るのだ。すごく上手に。五反田君に電話をかけて(略)僕は受話器を床に放り投げた。駄目だ、僕にはできない。どうしてもうまくステップが踏めない。」 解決(?)に導いたのは意識が遠のくときの絶妙の直覚の声、そこに至るまでの心の状況描写がすばらしい。(同章p.268)でもこれは口にだしてはいけない言葉だったかも。 本書が気に入った人はぜひ、英語バージョンも横に置いて較べながら読むといい。世界はもっと広い。 『Dance Dance Dance』(書評済) 書評のタイトル:「dance/stepというメタファの力が強い分、本書のほうが原書より遠くへ飛べる!(ハズ)」 本書は坂口恭平著『現実脱出論』(評価済)とも波動が似ている。機会があれば合わせて読みたい本といえる。 | ||||
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何かの機会に本書が『羊をめぐる冒険』(書評済、以下前作)の続きと知り、読み始めた。 確かに前作の4年半後という設定だが、前作の登場人物で「僕」と直接に対面するのは羊男だけ。 前作を読まなくても必要な筋は要約されているので、本書だけでもストリーは面白く、充分楽しめる。(以下は本書の粗筋ではない) 前作で大切な人々を失った「僕」は、それを忘れようと必死に「文化的雪かき」仕事に「指と頭を(略)酷使する」が、たびたび、「いるかホテル」の夢を見る。 戻らねばと思いつつ、いつも恐怖(?)で足が竦(すく)む。 なんとか勇気を奮い起こして札幌の「いるかホテル」へ戻るが、そこで羊男と再会する。 羊男は前作ではまるで雪男かギリヤーク人の親戚のような野人だったが、本書ではパワーアップして知恵者の風格。 羊男から「オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。」とのマントラを受ける。 このマントラの力は例えば次のような効果で現れる。(上巻20章p.267) 「僕は目的を持ち、それによってごく自然にフットワークを身につけてきたのだ。悪くない徴候だった。踊るのだ、と僕は思った。あれこれと考えても仕方ない。とにかくきちんとステップを踏み、自分のシステムを維持すること。そしてこの流れが僕を次にどこに運んでいくのか注意深く目を注ぎつづけること。」 このマントラは足の竦みを解くのに有効なようだ。 本当は「僕」なんてどうでもいいかもしれない。 むしろ読者がどう変わるかではないだろうか?(小説にこんなことを言うのは!?) 評者の場合(参考にならないだろうが)―毎日泳ぐが、泳ぎのフォームを開発するのが主眼。 本書を読む前は、「歩くように泳ぐ」を目標にしていたが、今は「水をパートナーとして踊るように泳ぐ」に方針を変更した。 下巻(評価済:「僕は上手く踊っているだろうか?」―マントラが自問に変わるとき)につづく | ||||
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主人公は時代(発行 1988年)を"高度資本主義社会"と連呼し, "無駄遣いが最大の美徳”であり,それを政治家は”内需の洗練化"と呼ぶという. 全く驚いた. 無駄遣いなんて悪としか感じないのに,27年前,美徳だったなんて… それが”内需の洗練化”だとしたら,今は”何度資本主義社会”で”内需の何化”だろうか? しかし,当時の意識のままのヒトもいらっしゃるのでは??という疑念もある… | ||||
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実際に犯罪を犯した人が書いたような内容です。 できるだけ多くの人にこの本を購入し 読み込んで欲しいと願っています。 何が見えてくるでしょうか。 例えば 人間のつく時の『嘘』のつき方を踏まえて。 | ||||
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羊をめぐる冒険のサイドストーリー的な作品。 ミステリーの要素が多く、謎は深まるばかりで、村上春樹の作品でよく出てくる「あっちの世界とこっちの世界」というワードや表現が度々描かれている。 人が現実の世界から煙のように消えてしまう事、孤独感、虚無感。幾作品でも、村上春樹のテーマは変わることがなく、訴えるものの根幹はそこにあり、そこに共感する読者は吸引されて、どうしようもなく魅了されてしまう。 それは比喩やメタファーなのだろう。人間の拭いきれない深い哀しみの部分というか。 話は逸れてしまったが、僕はこの作品でなによりも印象に残ったのは、五反田君と僕との友情である。 躍り続けた僕によって、導かれ、相通じた二人がお互いを少しずつ理解し、共感し、好きになっていく。 主人公僕の部屋で、語り合う二人。 素敵な友情を教えてくれる。 | ||||
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人間の“生から死への遷移”の仏教的概念を物語の枠組みに使い、主人公達の生きざまを描写することで、登場人物それぞれの矜持、生活感、とりわけ人が生き続けることの苦悩を表現した小説だと感じました。 現世から、“結び目”を越えて、来世に行かないようにするには、素敵なステップを踏んで“ダンス・ダンス・ダンス”と踊るしかないのです。すなわち、現に生きている人々の世界(ドルフィン・ホテル)− 羊のコスチュームを着た魅力的人物が置かれている中間世界、“結び目”(いるか・ホテル)− 完璧な死の世界(羊男が最後に行き着く)、という設定です。 羊男が住んでいる、ドルフィン・ホテルと背中合わせの異次元世界は、仏教で“中陰(生と死の狭間)”と名付けているような、人が死んでから本当の死者の世界へ旅立つまでの中間的期間の村上春樹的表現なのでしょう。 主人公が仮親のような役割を果たさなければならなくなった少女ユキの成長(成長的妥協)の描写、主人公の恋人、札幌ドルフィン・ホテルで働く眼鏡をかけた女性ユミヨシさんの情景描写はいかにも魅力的であり、秀逸だと思います。 物語の最後、主人公とユミヨシさんがドルフィン・ホテルでブラッディ・マリーを飲みつつ羊男が元いた場所へと行くことになるのは必然なのでしょう。このお話は、傷つきながら、永遠に踊り続けなければ消えるしかない今の時代環境でこそ、より一層、際立っているのかもしれません。 もともと、主人公とユミヨシさんだけが自由に、生と死の中間まで行き、戻ってきてるのですから小説の最後では、二人は現世に戻った・・・、ことにしましょう。 | ||||
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