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ダンス・ダンス・ダンス
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ダンス・ダンス・ダンスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.38pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全134件 61~80 4/7ページ
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丁寧な包装で、良かった。しかし、ちょっと、アーバン傾向が強く、いかにも、中古という感じが気になった。 | ||||
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まともな読者なら、「いるかホテル」と「ドルフィン・ホテル」が同じ名前だとは思わないだろう。「小さなみすぼらしいホテル」の名前を「高級都市ホテル」が引き継いだということなのだが、まやかしである。そう、この小説は、まやかしである。それを言うなら、すべての小説はまやかしなのだが。「僕」は、ドルフィン・ホテルのカウンター係の「眼鏡がよく似合う感じの良い女の子」に目を付けて、いつか寝てやろうと思った。その後に起こる様々なできごとは、彼女と寝るための長ったらしいお膳立てのようなものである。「ドルフィン・ホテル」のエレベーターから降りて、羊男が住む「いるかホテル」の部屋に通じる闇を経験するのは、カウンター係のユミヨシさんと「僕」だけである。繋がっている、らしい。「寝る」ために。天才写真家の「アメ」は明らかに認知症であり、子育てを放棄された「ユキ」は、「僕」よりもよほどしっかりしたことを話し、とても13才だとは思えない。またまた、「片腕のない」詩人。あいかわらず「自分のことしか考えない人間」の「僕」にまんまとはめられる「五反田君」、誰に殺されたのか謎のままの「メイ」、その他、ずさんな箇所は多々あるが、作品中でほのめかしているようにこれは「夢」であり、「お伽噺」であり、「童話」であり、「永遠のアドレセンス」なのだ。『ノルウェイの森』でも「アドレセンス」という言葉を一度だけ使っている。作者は、細かいことにあまり目くじらをたてるなといいたいんだろう。最後に「僕」は、ユミヨシさんと寝ることができて、めでたしめでたし、である。 | ||||
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羊男との再会。羊男の正体。 そして彼は何を求め社会をさまようのか。 カフカの審判を彷彿とさせる取り調べを受け、釈放される。 不条理。 『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』そして『羊を巡る冒険』の読書経験があればすぐに世界にはいりこむことができるだろう。 下巻に期待。 | ||||
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村上春樹の作品にしては珍しく、いろんな所(東京、ハワイ、箱根、横浜)を飛び回る物語だった。 (村上春樹の作品はどこか特定の場所に留まって時間を過ごす事が多いように思う。ハードボイルドやカフカなど) 本作は今までの三部作で失われた自分の居場所を求めさまよった結果、それを見つける話だ。 これは発表された時代を鑑みればわかる。 70年代、学生運動から何も変える事が出来なかった挫折感、それを引きずり、どこへ向かえばいいのかわからなくなってしまった大人達。(彼らは結果として「金」に走り、それがバブルにつながる) 主人公はそんな時代背景を体現している。 表現の仕方が春樹的だが、テーマはそんな感じではないかと思う。 羊男はどうしていなくなったのか? 最後の骨は何を暗示するのか? という疑問が残るが、じっくり考えたい。 疾走感のある物語で、まえの三部作を読んでいれば面白いだろう。 | ||||
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村上春樹の鼠三部作の最終作。チャンドラーのロング・グッドバイとの類似性も見られなくはないですが、基本的には村上春樹節全開で、神秘的な魅力に満ちています。 資本主義社会への嫌悪感というテーマは今読んでもうなずかされる面が多く、年代的にも最後の抵抗の書としても読めます。 今回の霊媒的(?)ヒロイン、ツンデレクール、お嬢さまで特殊能力持ちの美少女13歳というユキのキャラクター造形には、のちのライトノベルジャンルの萌芽を感じますw ハードボイルドや村上作品からライトノベルへの系譜はたしかにありますね。 | ||||
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P21(単行本)『僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変わった人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。僕は僕としてごく必然的に、ごく自然に存在している。それはもう自明の事実なので、他人が僕という存在をどう捉えたとしても僕はそれほど気にはしない。他人が僕をどう見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。 ある種の人間は僕を実際以上に愚鈍だと考えるし、ある種の人間は僕を実際以上に計算高いと考える。でもそれはどうでもいいことだ。それに「実際以上に」という表現は、僕の捉えた僕自身の像に比べてということに過ぎないのだ。彼らにとっての僕はあるいは現実的に愚鈍であり、あるいは計算高い。それは別にどちらでもいい。たいした問題ではない。世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。』 | ||||
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帯びは無かったが、カバー、本体に日焼け、擦り傷、折れ傷等もなく満足。 | ||||
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帯はなかったがカバー、本体に日焼け、擦り傷。折れ傷等もなく満足。 | ||||
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最新作を読み終えて、ふと、この作品と似ていると思った。 死と向き合う主人公、三十代、過去の仲間の喪失、新たに共に生きる希望としての恋人、立ち向かい帰還する。 これらのプロットが酷似していて驚く。 そして、私はこの作品が実は村上作品の中で一番好きだったのだが、新作も同じように愛すべき作品となった。 そうか、村上さんは一度、この時期に立ち向かおうとしていたのだ。 過去の愛すべき人たちを失い、多くの「死」を経験し、これからの「死」も予感しながら、 それでも愛する人と共に生きようとする覚悟。それが、2つの作品を結びつけている。 もう一度、それを試みた結果、主人公は少しだけ歳をとり、「不惑」を目前としているがまだ迷っている。 いずれ「不惑」に達した主人公を描くことがあるかもしれない。 今、それを期待している。 | ||||
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主人公がいくつかの出会いと別れを経験し、試練をくぐり抜け 本当に大事なものを見つける、そんな物語だと思います。 主人公が出会った人々はそれぞれ魅力的で、主人公は強く惹かれます。 が、一人を除いては、主人公は己を浪費するだけで 自身を癒すことはできず、過去と同じ事を繰り返しで別れるだけでしょう。 自身を癒し、さらなる高みにともにいける人を、 様々な暗示や、誘惑に振り回されながら発見するんです。 村上氏は、カラマーゾフの兄弟のような総合小説を書きたいと よく言及されていますが、この本はその走りだと思います。 | ||||
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羊をめぐる冒険で一度完結した「僕と鼠もの」シリーズの続編です。 上下巻合わせると850ページほどになるシリーズ最長編となっていますが、 内容的にも他と比べ一番エンターテイメント性が高くなっているように思いました。 前作までは主人公である僕に、どこか浮世離れしたイメージを強く持っていましたので 僕と自分を重ねるような読み方はしていなかったのですが、共感できる部分がいくつかあり感情移入することができました。 現実に留まるどこか寂しいラストは切なくなりました。 | ||||
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素晴らしい小説の予感(上巻)が、まさしく実感となり大きな感動を呼んだ。これはとてもいい小説だと思いました。村上ワールドの可能性とスケールの大きさを感じた。本著(下巻)で、まさかこのような展開になるとは思わなかったけれど見事というほかない。 ハワイで突然見かけたキキを追って辿りついた部屋で遭遇した白骨化した光景はいったい何だったのか・・・。やや、ミステリアスな色合いが膨張しているように感じたが、最終章では見事に羊男の存在する“いるかホテル”へと繋がった。 この小説が今生のみならず、古代にまで遡る宇宙的スケールで人間の存在と意義について問いかける哲学的な命題に立ち向かう、斬新で挑戦的な取り組みであったことを強烈に印象づけた。いつだったか、村上春樹が何かの対談で作家中上健次のように“路地”という概念を持ち合わせない書き手として、いかに壮大な視点で小説世界を実現できるか、と云うことについて熱く語っていたことを想起させた。 なるほど、この小説ではそのスケールという点においても一つの可能性を示し、文学として成功していることを実証したとも云える。 個人的には下巻での展開としてロシア文学的な重層性と厚みを持たせるのかと予想していたのだが、それとはまったく違ったいわば輪廻転生に繋がる宇宙的時空間を縦横に走り抜ける(ダンスする)ように文学の壮大な可能性と広がりを見せつけられたように思う。このような展開になろうとは誰もが予想できなかったのではないか。 とにかく、読み手の気持ちをひきつけ“一気に読ませる”後半の筆力はさすがに圧倒的で素晴らしい。ぼくはそう思う。 | ||||
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これは凄いぞ、素晴らしい小説の予感・・・。これぞ村上ワールドの真骨頂とでも云えばいいのか、本著(上巻)を読んだだけでもとても大きなスケールを感じる。 物語は北海道の札幌に存在する小さなホテル「いるかホテル」での高級娼婦キキとの出会いと別れその詳しい経緯からはじまる。ここでもあの羊男が登場するけれど、それ以外は特別な設定が用意されているわけでもなく、80年代のありふれたフリーライターの日常ということ以外にないのではないか。だから、云ってみれば70年代の洗礼をまともに経験し高度資本主義社会の只中でPR雑誌や一般誌のフリーライターとして仕事をしている"僕"の自分さがしの物語のようでもある。 キキを失った喪失感に戸惑いながら"僕"は再びドルフィン・ホテル(いるかホテル)を訪れるが、高度資本主義社会を象徴するようにホテルは新しく生まれ変わっていた。だが、"僕"はかつての建物と同じ場所に同じ名称のまま生まれ変わったそのホテルで、奇妙な出来事やいろいろな人と出会うことになる。 ドルフィンホテル受付の女性ユミヨシさん、写真家で母親であるアメに一人そのホテルに置き去りにされた美少女ユキ、中学の同級生で人気俳優の五反田君、五反田君の映画「片想い」に共演していたキキのシーン、五反田君を介して知り合った高級娼婦メイの死、二人の刑事の拘置所での取り調べ、ユキの父である作家牧村拓といった人物たちと羊男が云うように次々と繋がっていくのだ。いるかホテルで羊男に遭遇した"僕"は彼から確実なステップで踊りつづけることを示唆される。つまり、それは現実を確実に生きる(ステップする)という意味なのか・・・。 この作品では高度資本主義社会というフレーズが何回か繰りかえされる。システム化されたその日常において、"僕"はどことなく空虚なものを感じながら虚脱感に支配されているように思える。ライターとしての仕事さえ“文化的雪かき”といい自らその存在意義を見いだせないでいる。 この作品にスケールの大きさを感じるのは、高度化された資本主義社会の中で埋没しそうな人間の存在と意義について、どのように向き合い描くことができるかという哲学的な命題への挑戦ととらえることができるからかもしれない。 さてさて、すでに読みはじめているけれど下巻ではいかなる展開が用意されているのだろう・・・。大いに楽しみな一冊であることは間違いない。 | ||||
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1988年、私はまだ中学生でした。 そして高校生になって『ノルウェイの森』を読んだ後に、 この『ダンス ダンス ダンス』も読んでいたみたいです。 久しぶりにこの本を手にとって読んだことさえ忘れていました。 最初のうちは。 そしてある場面を読んで、唐突にこの本を読んだ時の記憶を思い出したのです。 悩んだりイライラしたり、永遠に続くように感じた閉塞感のある10代だった時には、 正直、この本が訴えかけるものにリアリティがなかったのです。 だから読んだことさえ忘れていたのです。 でも今40代になり、34歳の「僕」が感じる孤独や喪失感、そして時間の 流れや主体性というものがどれだけ脆く儚いかを 感じます。村上さんが紡ぎだす一つ一つの言葉が 自分の感情を揺さぶります。 村上さんの本を読むと、忘れていた自分に再会するような気がします。 さてそれとは別に、もしあの時代を知らない今の若い世代が 本書を読むとするならば、80年代後半の日本社会を知る 資料的な材料になることは間違いないでしょう。 当時の青山の紀伊国屋で買い物をしてローストビーフのサンドイッチを 作ったり、マセラッティを乗り回したり、港区のマンションに住むこと。 「僕」や「五反田くん」がうんざりしながらもその中で 欲望を解消するしかない時代。今の日本からは遠く隔たっています。 そこそこ金持ちが集まる私立高校でさえ、夏休みのバケーションに ハワイなどの海外に行く人はクラスで二人か三人でした。 それも開業医のお嬢さんなどひとかけらのひとたちです。 だから、「僕」や「五反田くん」がどんなに嫌悪したとしても、 その生活行為は圧倒的な優位さをもっていたのは確かなのです。 80年代を知らない世代がどんな風に読むのか 話してみたいです。 | ||||
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とりたてて長い付き合いというわけでもなく(率直にいうと短い)、深い信頼で 結ばれているかというと、そうでもない。しかし好意を抱いていたのであれば、 その浅深や大小には関係なく、やらなければならないことがある。決して相手の ためではなく、自分のために。たとえ後で裏切られることになったとしても。 | ||||
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大幅にスケールアップした傑作。すべてが解決したわけではなかった。大事なモノが 失われたままだった。それを探すために北海道を訪れ、巻き込まれるようにハワイを 経由したあと、事実を受け入れる。失ったものは二度と取り戻せない。失わないために 再び、北海道に向かう。過去に決別し、現在を護り、未来に一歩、足を踏み出すために。 | ||||
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印象的なセンテンス、ハッとさせられる形容詞が次々と現れます。 リズミカルな言葉を体の中に入れると自然に読み手は踊らされています。 村上氏の小説は、言葉のリズム感が気持ちよく読み始めるとなかなか本を閉じることができません。 自分の中のどこかに良い刺激を与えているのだと感じます。 『ダンス・ダンス・ダンス』と付けられたタイトルの意味が読み終えて納まりました。 体をくるくる回転させながら最初の位置に戻ってくる、ダンスのようです。 いるかホテルに旅の途中に帰って行ったキキ。 彼女を探し終えたとき、曲は止み『羊をめぐる冒険』が、ようやく終わるのです。 ある種の体験を比喩的に描いている、ような感じがしてなりません。 | ||||
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面白い小説です。 『羊をめぐる冒険』の続編であることが冒頭で示されています。 『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』は3部作とされていますが、2作目以降、読み始めて暫くして、あれっという感じで繋がりが見えてくる構成でした。 『ダンス・ダンス・ダンス』は「羊をめぐる冒険」の後日談が綴られ、僕は34歳になっていることが語られていて、しばしば年齢の問題が登場します。 随分とはっきりした打ち出し方をしています。 上巻は、いるかホテルの夢告或いは啓示から冒険に続きがあることを感じ取ります。 普段の生活で、私達は様々な啓示(らしきもの)を受けます。 良い知らせや悪い知らせ。吉、凶。今日の運勢。正夢。偶然。 このスピりチュアルな現象も現実として存在しているのですが、私達暮らしている現実の中には含めていないのではないでしょうか。 村上氏は、啓示等を手掛かりに現実と妄想が一体化している捕らえようとしているように映ります。 主人公である僕は、様々な啓示を受け、それに突き動かされ、新たなサインを得ていきますが、様々なことが一度に起きて判別できない状態が続いています。 確かにぼんやりとではあるのですが、そういう状況に私たちは住んでいるのかもしれないと感じます。 一見非現実的な物語ですが、普段見逃している部分を指し示している作品のように思えます。 | ||||
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昔『ノルウェイの森』単行本の上巻が出た時、半分も読まないうちに村上春樹は心の動きがディープすぎて僕には合わないと投げ出しました。それからかなりの時は過ぎ、文庫本化されている本作を何気に本屋で買いました。選んだ理由は装丁のイラストがとても気に入ったからです。本作の先駆けとなる『羊をめぐる冒険』を読まずにいきなりこちらから読み始めましたが、すばらしい村上ワールドにすんなり入っていけました。それまで村上作品を構えて見てましたが小説の中に入るのはとても簡単なことだったんですね。いままで数年ごとに四回読み返しました。読み返すたびに新しいことや別のことを見つけます。(というかわかりました。)小説は変わらないのでたぶんその数年で自分が変わったんでしょうね。ほとんどの村上作品を読みましたがこのダンス・ダンス・ダンスが一番です。ユキを思い出す夏になると読みたくなる物語です。 | ||||
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村上作品の中で個人的に好きなのは、この一冊。 自分が悩んでいたことと一致したことと、舞台が札幌のため、臨場感があった。 羊男って、今の草食男子みたいだ。 主人公が出会う女の子や恋人が自分に似ていて気持ち悪かった。 物書きの苦悩もよく理解できたし、主人公の友達は、その後延々と村上作品で美男子として苦悩することになる。 札幌暮らししていると、ダンスダンスダンスの生活に似てしまう。まるで春樹に呪いをかけられたように。 春樹は、河合隼雄が気付いたように小説で夢を見てる。それも深層に入って、こちら側にリンクしてくるからやっかいだ。 言われなくても苦悩してるから、ほっといてくれと言いたくなるが、同じ感性だからつい読んでしまう。 これからは女子を殺さないようにね(^-^) | ||||
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