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ノルウェイの森
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【この小説が収録されている参考書籍】
ノルウェイの森の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全558件 141~160 8/28ページ
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母にプレゼントとして買ったのですが私は読んではいません。 母が一度村上春樹さんの本を読んでみたいといっていたので買いました。 物語は面白いと母に好評でした。 | ||||
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中国語バージュンはもう読みましたが、原作を読みたいと思います。 | ||||
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初めてノルウェイの森を読んだときは17歳くらいのことになる。 そのころは本の内容がさっぱりわからなかった。登場人物は突然出現して何の前触れもなく死ぬし、脈絡のない物語展開にもついていけかなかった。物語に明確な目的がなく、まるで自分の名前を忘れてしまった旅人のように実体がなかった。全体を通して物語は希薄で内容がなく、明確なゴールを感じない小説だった。 17歳くらいのころはこのタイプの小説をまだ読んだことがなくて、理解もできず途中で読むのをやめようかなと思いながらも最後まで頑張って読んだ。本は書店で税込み500円位で購入したもので、中古でもなくピカピカの新品の本を途中で投げ捨てるわけにもいかなかった。学生のときの500円は結構高い。上下巻合わせると1000円だし、当時バイトなどもしていなかったからわりと真剣に読まざるを得なかったのだ。でも読み終わったあとは本当に金額だけの価値があるのかと思ってしまった。そう思わずにはいられないほどに内容に共感できず、物語としても曖昧なものだったのだ。 結果として、ノルウェイの森はそれから現れる数々の本のなかに埋もれることになった。当時の学生時代の時間は想像を超えて早く流れていたし、刺激に満ちていた。そのなかでノルウェイの森は曖昧で表情がなく、不完全でつかみ所のないだけの本だった。まるで葬式のように辛気臭いものだったし、ノルウェイの森なんかより楽しい本はたくさんあった。だから自然な流れとして、ノルウェイの森は本棚の隅っこに隠れるようにして置かれることになり、ちょうど登場人物と年齢が重なる「涼宮ハルヒの憂鬱」のような軽快なライトノベルやネットですぐに楽しめるアニメや、「シュタインズゲート」のような怒涛の展開をみせるノベルゲームなどに時間が費やされることになった。そうしてノルウェイの森の存在はますます影薄くなり、やがては頭からその存在を消した。だけど不思議なことにそれから数年後、ノルウェイの森は自分の手のなかに戻ってくることになる。 季節が変わって周りの人間関係も変化した。大学生になったのだ。小さいながらも自由な寮の小部屋を手に入れたし、体はもう理不尽な社会構造にも負けないものに変わっていて、頼りない骨格もずいぶんと完成された形になっていた。ふとみれば贅沢な時間の使い方をしていた時代は終わり、限定された人間との濃い関係が周囲を満たしていた。そのころにはだいぶ社会のことも考えられるような人間的な力もついていたし、客観的に自分がどれほど無力でありふれた存在かも知らしめられていた。時間の流れとは不思議なものであらゆる感情はその猛スピードで変化する時間のなかで消耗し形を変えて現在の自己を作り出していくのだ。その当時抱いていた感情はまだ17歳という無垢で未完成なものではなく、成熟に近づいて完成を求める人間としての感情だった。その流れの中で生活は大きく変化し、趣味や思考、そして風景や物事に関する価値観が変化した。だけど何かが決定的に欠けていた。それは人間としてこれからどのように成長し、社会と渡り歩き人生をまっとうするかという点だった。まさにその点が大学生という人生における岐路には重要で、もっとも答えの得にくいものだった。 大学生という時間は不思議だ。様々な価値観の人間が社会と思春期という時間の中で葛藤し道を見つけていかなければいけない。それができない人間にとって社会は冷徹で断固とした態度を取るし、いままで輝いていた人間が急に輝きを失ったり、それまで気にもかけていなかった人間が驚くほどの輝きを放ち始めたりする。その茫漠とした空間のなかでそれまで生ぬるい高校生活を楽しんでいた人間は苦しむことになるし、いくらか試されることになる。恐るべきことにそれは誰にでも平等に訪れて、成長を促し、変化を求めてくる。大学とはそういう時間なのだ。 大学生活になってレポートや研究などに忙しくなって生活が変わった。時間を大切にするようになり、モバイル端末で友人たちと限定的で濃密な人間関係を築くことになった。それと同時に世間一般で言う「自分探し」にも時間を費やすことになった。自分とは何なのか、どこから来てどこに向かうべきなのか、不明確な問い、見つからない答え・・・。 だけどそんな迷路のような日々の中でしこりのようなものを発見する。それが「ノルウェイの森」だった。大学に移って自室の段ボール箱にまだ詰まったままだったそれは、薄汚い部屋に解き放たれるとひときわ大きな輝きを放ったかのように思えた。数時間、まるで魂を異世界に引き込まれたように没頭して読み続け、文字の1つひとつ逃さず吸収し、読み終わったときにはまるで世界が一皮むけたかのように思えた。それほどまでに強い感慨が心の奥底から湧いてきた。風景が表す記号がまったく異なるものに見えた。ただ暗いだけだった夜には残酷なほどの孤独と呼吸をするのを忘れてしまいそうな奇跡的な静寂を感じたし、いままでただなんとなく食べていただけの夕食は恐ろしいほどの色彩と味わいを残していることに気がついた。すれ違う人々は他人ではなくひとりの孤独を抱えた人間になった。お盆、クリスマス、入学式、夏休み、ハロウィン、ただ漫然と過ごしたイベントは自分以外の人々にとってかけがえのない時間だったのだと理解した。まるで真夏の夜に人知れず蛇が皮を脱ぐように、静かな成長がたしかにあった。 ノルウェイの森を段ボール箱から出してから数日、大学に行く気になれず、8日間無断で休んだ。その間は部屋のカーテンを閉じて、寮の食事もろくにとらず、給湯室でカップ麺を食べて、風呂には寮の共同風呂が空いている時間ギリギリに入った。メールがなん通か送られてきていたけれど無視し、ただひたすら目の前に存在する莫大な時間を眺めた。そして自分が想像よりもはるかに死に近いところにいる存在だと気がついた。この何気ない日常も死んだ人間や、死に始めた人間にとっては貴重な意味のある時間だと思った。そして死はどこから来るのかと考えた。暗い部屋でカーテンも開けず、ずっと。 部屋に閉じこもって数日、頭はとりとめのないイメージでいっぱいだった。それまで生きてきた時間が高速で繰り返されて目の前で点滅し、究極的に引き伸ばされた時間が肉体でせめぎあっていた。そして答えのない問いの答えに近づいてきたかと思ったとき、唐突に涙があふれてきた。その涙は熱くもなく冷たくもなく、流れてくる理由もわからなかった。だけど流れてきた涙はひたすらに悲しく、あふれてくる感情は怒涛のようだった。涙を流しながらノルウェイの森を閉じてひたすらに泣いた。涙が本のページの隅を濡らしてしまって、本はいくらかフニャフニャになった。だけど決定的に何かを失った気がした。自分には縁のないノルウェイの森の登場人物たちがたどる末路や終末がひたすらに悲しく、圧倒的な感情の量に何もかも失った気がした。ノルウェイの森の登場人物たちには共感することはなかった。特別に彼らが悲劇的な末路をたどったわけでもない。けれどもそこには名状しがたい深い悲しみが存在してるような気がした。彼らの生きているのか死んでいるのかわからない希薄な生き方も、自分の存在理由を他人に求めない生き方も、すべて意味がある符号の一部だったのだ。読み終わって、何度も読み返して、彼らの生き方には共感できずとも、自分が彼らの一部になっているような気がした。それが故に本の結末が悲しく、読了後は何をする気にもなれなかった。まるで魂を本の世界においてきてしまったかのようだった。 ノルウェイの森の物語には特別な仕掛けがあるわけではなく、ただ淡々としている。まるで自分が生死という枠から抜けだして他者と自己の中間の存在になってしまったかのように観察的で非叙情的だ。だけどそれはある種の救いでもある。彼らの存在した日常は彼ら自身のものであるし、超然的な出来事が起こるわけでもなく、現実的で平坦な出来事が起きているだけだ。何もないが故に悲しく、淡々と過ぎていく時間をひたすらに大切に思う。物語の登場人物は主人公でもヒロインでもなく、ひとりの人間として存在している。その人間が何らかの悲しみを負ったとき、それに共鳴するように本の読み手も感じてしまうのだ。 まだ17歳だったころのことを思い出す。17歳の自分に理解できなくて当然だ。そのころは自分が他人と同じものでできていると知らなかった。他人と同じ心を持ち、絶えず孤独で感情的になれることを知らなかった。まだ十分な心の発達をしていなかったのだ。だけど大学生になった今なら違う。自分がありふれていて、夜の長さを知った。孤独が心の中心から水のように湧いてくることも知った。悲しみの種はすぐまわりに存在して、それが開花のときを待っていることも知った。あのころは単純に経験が足りず、他者との折り合いを知らなかったのだ。まだ青二才、行く末も知らなかった。 ノルウェイの森はある種の圧倒的な読了感がある。それはひとりの人間の生死観さえ変えてしまうものだ。だけど読んで誰もが変わるというわけではない。村上春樹の独特な排他的思考を許せる人、ノルウェイの森が持つナルシズムな思考が他者との決裂を恐れるがゆえの産物だと理解できる人、そして何よりこれまでの自分を許してやれる人、そんなひとにはまるで奇跡のような出会いがある。たぶん、この物語は歩み寄ったぶんだけ歩み寄ってきてくれる。 歳をとるごとに価値観は変わっていく。だからノルウェイの森を自分の体のように感じられる時間はもう過ぎてしまった。現在はノルウェイの森は自分から遠いところにある。村上春樹の内向的で人を寄せ付けない文章には辟易させられるし、独特のナルシズムで都合の良い展開には嫌気がさす。だけどこの物語はある時代のある瞬間を明確に切り取っている。その価値は誰にも損なわせることはできないし、きっとこれからも多くの人びとの希望になる。この物語は嫌われることを原則的に理解している。だけど物語のほうからこちらを嫌うことはしてこない。なんともおかしなやつだがそうなのだ。 この本を現在読むことはない。大学生のとき感動した本だが社会人になるときブックオフに売ってしまった。だけど不思議なことにいまこの本は手元にある。紆余曲折ある人生のなかで再びこの本を手にとったのだ。この本はブーメランのように手放しても戻ってくる。これはある種の人間にとって自分自身の分身だからだ。人に嫌われようが、好かれようがただ事実としてそこに存在する。だから嫌う人がいてもそれでいい。でもどんなひとだって人生を振り返ったとき弱気になることもある。そのときこの本は寄り添ってくれる。不完全な本、それは間違いない。だけど不完全だからこそこの世の中の圧倒的孤独を埋めてくれるように思えるのだ。 大人になったと感じた時、他者の孤独を理解したいと感じた時、そんなときに読んでみる。すると答えてくれるはず。ただ語るだけ、何も押しつけずやや独特の語り口で。 | ||||
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好きです。 いざレビューを書くと上手く言葉が出てきませんが 20代の男性に読んでほしいなぁと思いました。 | ||||
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僕が小学生の時、ランキングのテレビが金曜日の夕飯時にやっていて、毎週ノルウェイの森が一位を獲得していた。 あれから27年。ようやく僕はこの本を手にする。興奮は冷め遣らない・・・・・というように村上氏の本を読んだあと文章を書くと、書き方を真似したくなってしまうほどに、壮大な世界観が展開されるので、読む前から評価は満点です。 | ||||
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まだ読んでないけど、僕は村上春樹が理屈抜きに好きになってしまったので、この作品がたとえ空虚な内容であったとしても、喜んで読む。 何せネジマキ鳥以前の作品なので、期待度は高いし、大作なので、結果がどうあれ、わくわくしている。 | ||||
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村上春樹の文庫本は少ないのですがたまたまみて買いました これからも文庫本を増やしてほしいです | ||||
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村上春樹の文庫本は少ないのですがたまたまみて買いました これからも文庫本を増やしてほしいです | ||||
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好きな本。というより聖書に近い存在ではないかと。 初めてこの本を読んでから20年近い時間はすぎましたが、二十歳くらいの頃にこの本を読み、1年位はこの本だけを来る日も来る日も読み続け、その内、そらで全てを暗唱できるんじゃないか?という位読んでいました。 実際の所、台詞等はほとんど暗唱出来ていたと思います。 本を読んだり、映画を見たりして、これは自分のこと?と感じることはないですか? 自分を人間の屑だと思っている僕にとっては、本で言えば「ノルウェイの森」であり「限りなく透明に近いブルー」であり、映画で言えば「マグノリア」がそれなんですよね。 当時、僕はこの本を読んで、初めて自分が自分で構わないんだ。と、そう許してもらえたような気持ちになりました。 他人と密接な関係を築くことが苦手だった当時の自分にとっては、他人と関わるということは苦痛に感じることでした。 特に、誰とでも良好な関係を築かないといけない。 誰かとの関係を崩せば自分が攻撃されるかもしれない。 そんなことを心の奥底で恐れていたように思います。 けれどこの本を読んで、自分が心から大切だと思える人との出会いは奇跡のようなもので、大切だと思うからこそ思いが上手く通じ合えないことがどれだけ苦しいことなのか。ということを実感し、それ以降、全ての人と良好な関係であることは全く望まなくなりました。 そして僕は素のままの自分で人と接することを求め、また自分にとって大切な人との関係を全てにおいて最優先する。ということに疑いを持たなくなりました。 自己確立を形成するには遅すぎたのかもしれませんが、間違いなく僕という人を形作ったものの一番根幹にはこの本との出会いがあると思います。 改めて考えてみても自分にとっては一番大切な本、まさしく聖書ですね。 | ||||
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私が最初に上巻を手にとったのは、中学1年の夏期休暇、溜まっていた美術のポスターの宿題をこなそうとした時だった。 今でこそ書籍を通信販売で購入することが多くなりましたが、中学生の私は書店でこの赤・緑のカバー買いをしました。 村上春樹という新進作家の作品くらいにおもいながらページを開いたら最後ポスターをほったらかして、下巻まで読みふけってしまいました。 ありがちな青春群像物でしょう。しかし、当時のわたしにとっては言葉で伝えきれない何かを、傷をつけた作品であることは確かです。 読書においては、読む時期が大切であると今でも痛感しています。世界には、村上春樹など足元にも及ばぬ文豪、思想家がいます。 質が低下したと言われるノーベル文学賞にかすることができるか出来ないかくらいの作家と思います。 しかし、わたしにとってのベストは未だにノルウェイの森です。 | ||||
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今更と思われるが村上春樹は初めてある。特に著者への思い入れはない。上下合わせてのレビューである。 当初、書き出し、終わり、その間の展開の関係が理解できなかった。何故世界的なベストセラーとなっているか疑問であった。 自分では理解出来ないことが多くて、本レビューやネット検索により「ノルウェイの森」論を読んだ。 性描写からエロ小説と捉えるのは単純過ぎる。死者が多すぎるという意見も末梢的なものである。ある程度の年齢になると、性、死は、小説での頻度と同等とは言えないが、日常からかけ離れたものではない。登場する音楽、書物等がキザで鼻につくと感じるのも本筋ではない。 ある方の「僕」と「直子」そして「緑」との関係を説いた 村上春樹「ノルウェイの森」論 が自分には最も当てはまった。今では、世界的ベストセラーであることに納得し、何度読み返しても、話の展開を楽しめる深い作品と思う。 映画では視覚的に訴える所はあるが小説とは別物と考えたほうがよい。 | ||||
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本書の単行本には、「僕は原則的にあとがきをつけることを好まないが、おそらくこの小説はそれを必要とするだろうと思う。(←たぶん、過去に書かれた短編小説がそのままこの小説の一部になっていることなどだと思うのですが)」と最初にことわって書かれた、短い著者のあとがきがあります。 『・・・ ・・・ 僕という人間が好まれたり好まれなかったりするように、この小説もやはり好まれたり好まれなかったりするだろうと思う。僕としてはこの作品が僕という人間の質を陵駕して存続することを希望するだけである。 ・・・・』 芥川龍之介の『人生は一行のボードレールにも若(し)かない』という言葉は割と有名だと思うのですが、同じようなことを言っているように思います。 河合隼雄さんとの対談本で著者は、「自分は伝えたいメッセージがあるから小説を書くのではなく、メッセージを探すために小説を書いているような気がする」というようなことを言っているのですが、これらのことを読んでいつしか、メッセージが伝えたくて小説を書くというのは邪道なのだ、ということが分かるようになったような気がします。 こういうことをする人は、もう自分が人に伝えるべきことを知っている、と、ある意味思いあがっているのだということが。 | ||||
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僕はこの小説「ノルウェイの森」を18の歳で読んだ。 普段小説など手にしない僕が、この本を読もうと思ったのは、たまたま学校の先生がなにかのきっかけで本の話題になった時、お薦めしていたからだ。 この本を一言で言い表すとすれば、不気味な恋愛小説だ。さえない主人公ワタナベの周辺で人が次々死んでいくし、当然のようにセックスをする。 描写や雰囲気は上下巻通して、陰鬱な印象を与える。この小説を毛嫌いする人は、ただの薄っぺらい官能小説と言う人が多い。 僕は読後、心にぽっかりと大きな穴があいてしまった。そして2.3日は目の焦点が合わないような顔をしていただろう。授業中、ぼんやりと考え事をすることも多くなった。それだけの衝撃を世間知らずの18歳の僕に与えたのだ。人を愛する事の素晴らしさや、弱き心を持ちながらも強く生きようとする姿は、とても考えさせられた。しかしこの気持ちはあまりうまく表現できそうない。なぜだろう。 読者になにかしらの強烈な衝撃を与えてくれることは間違いないだろう。 | ||||
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不満なしーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー | ||||
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主人公の性行為に対する軽さには納得いかないが、上下関係読んで見て渡辺君を取り囲む環境の異質さに自分ならどう感じるかを考えされられました。 寮仲間の特攻隊や永沢くん。そしてその彼女。 大学で知り合った小林という女性。 高校時代の親友キズキとその彼女。 療養所で知りあった直子のパートナー。 それらには、どれも死が関連しているがそれぞれが死の捉え方をしていて、そんな境遇に置かれるワタナベが自分自身について考える。 特に永沢からは学ぶことが多い気がした。 私には理解し難いですが、オリジナリティあふれる物事の例え方。どれも深いです。 こういう本の内容なので最後にどんでん返しか起こってしまうのではと期待し、どんどん本の魅力にはまって行く自分がいました。 | ||||
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まず冒頭を見てみよう。これ程綺麗な文章は外には見当たらない。ただナルシスティックなのが鼻につく。綺麗でナルシスティックな文体。ここで考えなければならないのは、「この小説はこの文体でなければ書けないのか?」ということである。しばらく読むとヒントが出てくる。 「ひょっとして自分は一番肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ」これである。より意地悪く見れば、記憶自体が変わってしまっているのではないかとも疑える。そのように考えた場合、この文の直前の回想は、後の回想のどこかに挿入できるはずだか、後の回想を読んでもうまく当てはまらない。 この後から、直子の死までは、主人公・ワタナベの成長の物語である。直子と関わり、緑と知り合いその他さまざまな体験を通じて、親友・キズキの死以来ワタナベの眠っていた感情が次第に動いていく。主人公の成長を読者が感じ始めたところで、主人公は緑と結ばれ、直子が死ぬ。 「直子が死んで」第11章はこの出だしで始まる。前章までで直子は死んでいないので、唐突な印象を受ける。この後、唐突な印象を埋めるように文章が続いていくので、読者は直子が死ぬ経緯を補完できるが、それならこの出だしで11章が始まる必要はない。つまり、この出だしは意図して書かれている。何かが抜けた印象を、読者に与えようとしているのだ。 何が抜けたのかは、しばらく置く。この後ワタナベは放浪し、東京に戻ってレイコとセックスをする。このシーンを最も美しいという人がいるが、恋愛感情がない限り、年増の不美人とのセックスは、男の劣等感や罪悪感を表すものである。男の負の感情によるセックスを主題にしたものとして、桐野夏生の「グロテスク」がある。「グロテスク」では、男が年増の不美人とのセックスに耽溺した後、その女性に殺意を持ち、実行する。どんなに綺麗に描いても、そのセックスは健康的なものではない。 それではワタナベには、どんな劣等感、または罪悪感があるのか。ここで10章の最後を見てみよう。直子の退院を待っていたワタナベは、緑の告白により、緑を愛するようになる。ワタナベは混乱し、手紙でレイコに相談する。その時直子は療養所を離れ、別の施設で治療を受けていた。そしてレイコは、とりあえず直子には緑とのことを黙っているようにとワタナベに伝え、11章に続く。 ここで、何が抜けたかが見えてくる。つまりワタナベが緑を愛するようになったのが、直子に伝わったのである。そしてそれが直子の自殺の原因ではないか? ワタナベとレイコのセックスを、レイコが直子に代わり約束を守ったという解説者もいたが、ワタナベは直子を待っていないので、約束が果たされる必要はない。しかしワタナベが緑に心変りしたことが直子の自殺の原因なら、このセックスは従来の解説とは全く違った様相となる。 レイコは直子の服を着てワタナベに会いにいく。なぜレイコは直子の服を持っていたのか?それが直子の唯一の遺言だからである。なぜ直子がそんな遺言をしたのか?死んだ後に服を譲れば、レイコは直子の服を着て、ワタナベに会いにいくのが分かっていたからである。なぜレイコは、直子の服を着て、ワタナベに会いに行ったのか?それはワタナベへの贖罪、つまりワタナベが緑を愛するようになったのを、直子に知らせたことの償いだが、この償いはワタナベを共犯者にする含みがある。そしてそれが直子の本当のもくろみである。直子はレイコさんを身代わりに、約束を果たしていないワタナベに抱かれることにより、ワタナベに負い目を抱かせたのである。 「私のこと、忘れないでね…」この言葉通り、ワタナベにとって直子は、罪悪感により一生忘れられない女となったのだ。 「今どこにいるの?」 レイコとのセックスの後、緑に電話したワタナベに、緑が問いかける。 ーー僕はどこにいるんだ? ワタナベは、自分がどこにいるのかわからない。ワタナベは緑の名前を呼び続ける。緑の名を呼ぶのは、緑を愛しているからではない。ワタナベは助けを求めているのである。 ワタナベは、死の世界にも似た。、罪悪感に満たされた世界にいるのである。押し寄せる罪悪感と、自己正当化に消耗する世界。「今どこにいるの?」と尋ねた時点で、既に緑は、ワタナベを救えないことを感じている・・・ | ||||
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買って良かった。リサイクルは充分可能な本でした。これからも、あればリサイクル本を購入します。 | ||||
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http://www.amazon.co.jp/gp/product/406274869X/ref=cm_cr_ryp_prd_ttl_sol_27 | ||||
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90年代初頭、職場の本棚に置かれてあったものをすらりと読みました(当時20代)。 今冬、久方ぶりに再読し、上質な喪失感を味わいました。不惑を過ぎた自身の来し方と照らし合わせ、「小説」の魅力を再確認することができました。 何故かジャンルは異なりますが、山下達郎さん、わたせせいぞうさんの諸作品と相通じるものを感じます。歳だなも | ||||
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