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ノルウェイの森
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【この小説が収録されている参考書籍】
ノルウェイの森の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全558件 121~140 7/28ページ
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上巻途中の阿美寮のあたりから引き込まれていった。 不思議と、スルスルと、「次、どうなるんだろう?」という感じに。 絶妙なタイミングで性描写が入ったのがいいのかもしれない(笑) 「生」と「性」と「死」とは…そんなことを考えながら読んだ。 答えはこの本には詳しくは書かれていない。 自分で探せということなのだろう。 余談だが、ワタナベ君ほど若い時もててみたかった… | ||||
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この人ほど世界に知られ、この人ほど評価の定まらない作家は他にいないだろう、と思う。 それ程どの作品を読んでも、私の頭にまず最初に浮かぶのは「?!」なのである。 真剣に読んでも、気軽に読んでも、何度読んでも、その時々で受ける印象が違うし、 そもそも、読後そこに描かれている世界に一区切りついたという気がしないのである。 おまえの頭が悪いからだ、と言われればそれまでだが、 読後にスッキリ感を持てない人は、私だけではないだろう。 また、読者によって印象も感想も解釈もまるで違うことがあるのもおもしろい。 「ノルウェイの森」は、作者自身が「恋愛小説」としているが、 むしろ、私にとっては、個々の存在である人と人とが共感しあい、交流し合い、 すべてを理解しあうというのはどういうことなのか、を考えさせられる小説なのだ。 (それこそが真の「恋愛小説」?) この作品は、性描写が多くストレートな表現のために、賛否両論、批判の対象にさえなるが、 私は、作品に描かれている性行為は相手を理解するための一つの手段に過ぎないと読み取っている。 (端的に言えば、元々そういうものなのかもしれないが。) 主人公はなぜか周囲の人々に気に入られ信頼され、なぜか交渉する。 すると、相手は自分の周囲に主人公の話を広め、去っていく。 主人公の噂を聞いた人が会いに来て、なぜか交渉し、また去っていく。 (一般的な「出会いー交流ー交渉」というプロセスではない) 主人公にかかわりなく、相手は皆一方的に心身ともに充実感を得て、去っていく。 『他の登場人物は、皆抱え持つ屈折に手足を縛られ、一歩も動けずにいるのだが、 主人公と心身ともに交流し感応し理解しあうことによって、その曲折を解消し羽ばたいてゆく。 主人公は相手の真の理解者であり、救い手であり、先導役でもある。』 「恋愛小説」というと濃密で甘いイメージがあるが、「ノルウェイの森」からは、 『個の存在である人としての男女の真の交流とはなにか』 というような、大真面目で壮大な印象を受ける。 (図らずも、作者の恋愛観や恋愛小説に対する姿勢を言い当ててしまっただろうか?! いやいや) だが、こうしてわかったつもりでいると、突然足元をすくわれる。 親友の彼女=自分の彼女さえ、理解しあえたかと思ったとたん、去ってゆくのだ。 あとに残された主人公は、戸惑いながら問い続ける。「なぜ?」と。 そして、読者の私も作者に問いかける。「何なの?」と。 テーマが何かを無理に考えない。 自分が常識と思っているものを作品に当てはめない。 作品に対してありきたりの完結を望まない。 これがいつのまにか、この作者の作品を読む時の私の心構えになっている。 | ||||
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ストーリーは、ヤリチンの主人公がやりまくって、挙句に「僕は孤独だ」とつぶやくだけ。 文章技術は、お洒落で40年以上経っても色あせない。 | ||||
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他人の傷口を見たい、という要求は、どこから来るのだろうか。 傷は、皮をやぶり、肉を抉(えぐ)り、組織を露呈する。すぐに、血の溜まりができていく。 60年代に、学生たちによる「全共闘」運動が起こった。「団塊の世代」 と呼ばれる突出した人口は世間の注目を浴びた。 鎮圧されたり、内ゲバなどで、次第に下火になっていった。 それから、20年が経ち、団塊世代の彼らは社会の中心となり、 80年代に、中規模の「全共闘ブーム」が起こった。 「戦中派」や「全共闘」でもなく、何を言っても、怒らない、 何を考えてるのか、わからない、「新人類」という言葉が流行った。 写真週刊誌や、裏事情スクープ雑誌などで、ヒーローの正体が暴かれ、 ブームも下火になった。 そのころ、「ノルウェイの森」が、発表された。 赤(上)、緑(下)の表紙のデザインで、これに金色を加えたら、 「クリスマスカラー」になる。 この小説は、売れに売れて、社会現象になった。 ベストセラーだから、読んでみるか、と言う人が多い、ということが、 レビューを読んでみて、わかった。 「昔の人も、地味に、なやんでいたんだな」 ということが、わかるだけでも、読む価値は、あるんじゃないかな? | ||||
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もし、「ノルウェイの森ってどんな小説?」とか、「面白いの?」と友達に尋ねられたら、上手に説明する自信はありません。 どんな小説だったのか、読み終えた今でも消化しきれていません。 面白いのかどうかといわれれば、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」のほうが確実に面白いです。 でも、美しい状況描写、一風変わったセリフ回し、全体的に漂う退廃した雰囲気に飲み込まれ、2日間没頭してしまいました。 私はハルキストではありませんし、今後も積極的に村上春樹の小説を読む意思はありませんが、彼の魅力に取りつかれている人たちの心の一端をなんとなく理解できた気分になりました。 | ||||
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小説家の確かな腕前を示す手の込んだ描写力、物語と自然に連動した場面転換、詳細に説明しながらゆっくり進める部分と思い切った場面の省略や結論をポンと先に持ってきたりする緩急のテンポの対比、一貫してわかりやすく読みやすい文章、多くの暗示。 | ||||
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小説家の確かな腕前を示す手の込んだ描写力、物語と自然に連動した場面転換、詳細に説明しながらゆっくり進める部分と思い切った場面の省略や結論をポンと先に持ってきたりする緩急のテンポの対比、一貫してわかりやすく読みやすい文章、多くの暗示。 | ||||
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誰もが悩んだり考えたり、でも答えなんてない そんな生とか死とかをテーマにした作品。 性的な描写がストレートに表現されすぎて、ポルノ小説かと思うくらいだが、 正直に、思いの丈を真っ直ぐに書くとこういう作品になるのかなぁ。 展開が単純な気もするが、 著者があえて、若者の悩みの焦点をはっきりさせ、 内容を分かりやすく書いた作品だと思えば、まぁ許せる範囲内かな。 | ||||
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何一つ確かなもののないこの世界で、それでも何かを求めて浮遊している感覚を描いている。 高校生の一番精神的に揺らいでいる時に出会った小説。 Radioheadと共に今でも大切にしている。 『ノルウェイの森』 | ||||
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この小説をはじめとする村上春樹氏の小説で、ハルキストなる方々とアンチの方々は登場人物の行き方を論理的に説明したがるが、これほど論理的分析のむなしさ、寒々しさを呼び込んでしまう小説も、日本小説史上まれであろう。それなのに、いや、それだからこそ圧倒的な陰影の深さ、感性的情報量の多さには甚だ驚くしかない小説であるという既視的でくっきりとした事実もまた、忘れ去るわけにはいかないのだ。論理的・心理的分析以前の、「現代文」のセンスだけで書ききったが、「偶然(の美点)」が味方して奇跡的な特大ホームランをかっ飛ばしてしまったような文章なのだ。この書には、小説の舞台が’60年代終わり前後とはいえ、「バブル期」の東京の(そして日本の)、実際にはそれほど表面上ギラギラしていないが、しかし充実し高揚したひとりひとりの情感が永遠に記念碑のように刻み込まれているのである。 | ||||
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随所に魅力が散りばめられた素晴らしい小説です。細やかな感性をお持ちの方におすすめいたします。本は電車の中やパスタを茹でる間に読む暇つぶしの道具とお考えの方、娯楽的大衆小説しか読んだことがない方にはおすすめしません。そのような方は有名な純文学作品をある程度読み自分で文章を言葉のレベルから読解できるようになってからこの作品をお読みください。この作品に低い評価をしている方がかなりの数いらっしゃるようですが本当に読んだのか疑問に思います。どんな意見を持つかは人それぞれ勝手です。人は本を選びますが、本の方でも人を選んでいるのではないでしょうか。この作品を罵倒する前に自分の能力、感性に疑問を持って欲しいです。 | ||||
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大学の授業の感想レポートでこの作品を読ませていただきました。 僕は今まで、アフターダーク、海辺のカフカ、ねじまき鳥のクロニクルを読んでいて、今作で村上春樹さんの小説は4作目です。 読む前、ノルウェイの森は、春樹さんの中でも特徴といえる抽象的な心理描写や何処か空想、潜在的世界に急に行ってしまう、などの読みにくいタイプの小説なのではないのかという、先入観がありました。(僕の周りやネットの評判そう思っていました) しかし、読んでみると、18〜22歳で起こる子供から大人にならなければならない社会への同化、抑圧、東京という都市に上京しての他人との人間関係、それに伴う自我の変容、ストレスなどが、この作品では描かれ、この経験はオンタイムな僕は共感を持てる部分がありましたし、誰しもが共感を持てる部分が少しはあるのではないでしょうか? そして、この小説は村上春樹さんの作品の中でも読みやすく、分かりやすいように僕は感じました。何故ならこの小説では年齢、性別、経歴、様々な立場の人物が自分の昔の話、思想を話します。その話はこの小説が進むにつれ、主人公の様々な部分に関連付けられ、読んでいるとその話が浮かんできます。ページ数も上下巻合わせ650程でしょうし、ちょうどいいぐらいだと思います。 確かにこの作品の主人公は、春樹さんの作品の中でもネガティブで病んでいる方です。病んだ人もよく出てきます。しかし、今の行き過ぎた資本主義(ネオリベラリズム資本主義)SNSなど、ネットによって監視社会化している現代に生きる僕たちにとってこのような病んだ人々は無関係で、理解できない人、共感出来ない人は余りいないのでしょうか? 春樹さんの文章力は高いですし、日本の都市化が進んだ時代の青春小説として一度読んでみてもいいのではないかと僕は思います。 拙い文章ですみません。最後まで読んでくれた人はありがとうございます。 | ||||
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この小説は多くの方々が暇つぶしに読んでいるような娯楽的大衆小説ではない。そのためこう言った純文学作品を真剣に読んだことのある人、読みたいと思っている人、文学を解する心の持ち主にしかお勧めできない。 先に断っておく私は村上春樹の作品は全て読んでいるが彼の小説、考え、ライフスタイルに陶酔する浅はかで愚かなハルキストではない。村上春樹の作品を読んだはいいものの考えることをせずにただ「この小説は考えるものじゃなくて感じるべきものなんだよ」などと戯言をかましている彼らハルキストを私は厳しく非難する。だがこの小説を読んで考えることはもちろん世界観や登場人物の心情を感じ取ろうとさえせず、ただただ理解できなかったと非難をする輩はさらに厳しく非難し罵倒さえし文学を読むに値しない者とみなす。彼らノルウェイの森を非難する者はにわか読書家か間抜けな機械じかけやろうだ。 この小説は決して雰囲気小説などではないではない。官能小説でもない。情景描写はもちろんのこと登場人物の一挙手一投足一言一句にさえ全て意味がありそれが読み取れる。 多くの人々が薄々でも理解しているだろうが、この小説で重要視されていることの一つが生と死である。この小説は途中多くの人が死ぬ作品である。その点を非難する者も少なからず見かけるが、西洋文化が多く流入してきた近代以降では小説には主題というものがつきものとなっており、主題無きもの文学にあらずといった考えが今でも文学の大前提となっている。このノルウェイの森の作品中多くの死者が出ることはいた仕方ないことである。また「なぜ彼らが自ら死の道を選んでしまったかわからない薄っぺらなストーリーだ」などと言う意見も聞こえるがそんな意見を言う者が浅はかである。確かに作品中それぞれがいかにして死にいたってしまったのかは、直接的には書かれていない。だが彼らの言動や過去、人間関係について書かれている部分を読めば大した想像力を駆使せずとも理解できるはずである。例えば直子とキズキの関係を読めばキズキの死の意味が、キズキの死後過去を踏まえて直子とワタナベの関係を読めば直子が死に至った理由が大方理解できるはずである。またワタナベが生きてはいるが死というものに取り憑かれあの世に片足を突っ込んだ状態でいたということもわかるであろう。そしていかにして生の世界へと無事戻ってきたかもわかり、ワタナベを生の世界に繋ぎ止めてくれていた緑の存在が大きいということもわかるだろう。そしてこのワタナベが半分死の世界いたことと緑の役割を考えれば最後のシーンのワタナベの台詞の意味も自ずと理解できる。 この本の装丁は村上春樹自らが手がけたものだという。これは考えすぎかも知れないが、本文中での「生は死の対極としてではなく、その一部として存在する」という箇所と緑の「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない?」という台詞、緑が作品中で生の象徴のように力ずよく書かれているところから、この本が上下巻緑と赤で装丁されいる意味が見えてくるように思える。 題名について「ビートルズのNorwegian Woodっていうのは本当はノルウェイ産の木材っていみなんだよ、だからこの題名は間違っている」などとインテリを気取っている輩も見かけるがそんな意見は愚の骨頂、アホの極みとしか思えない。本文を読めば作者がなぜ敢えてこのノルウェイの森という日本語訳の題名にしたかがわかるだろう。本文中で直子が言っている。そしてこの題名の意味するところがこの作品全体を包み込む空気である。ほとんどの文学作品について言えることだが作者がどのような意図を持って如何なる題名をその作品に付けたかと言うことは読者として必ず理解しなければならない重要な点のひとつである。 村上春樹作品の多くに認められるところだが、この作品もまた歴史や神話、小説などからの影響が見て取れる。例えば、ワタナベが直子を訪ねて阿美寮へと赴く箇所などは日本神話のイザナギ・イザナミと重なるように思える。しかし村上春樹の小説ではギリシャ神話からアイデアを得た作品も見られるので、ここはイザナギ・イザナミではなくオルペウスの方かもしれない。また緑がワタナベに語る完璧なわがまま、愛についての箇所は村上春樹も日本語訳している「おおきな木」という絵本と共通するところが見て取れる。 村上春樹の小説はクセが強いとも言われている。作品全体を好きになることは難しいかも知れないが、たった一行の言葉や登場人物のキャラクター、作品中で使用されるグレート・ギャツビーなどの小説や音楽など部分部分で誰もが惹きつけられる好きになれる箇所があること間違いない、だから作品全体を嫌いになることも難しいだろう。細かな魅力が随所に、散りばめられた至高の一冊であると私は思う。 最後に、映画ノルウェイの森は見るに値しないとんでもない駄作であることをここに高らかに宣言しよう。監督がこの小説をちゃんと読んだことがあるのかさえ疑わしい。評価できるところと言えば緑の役を水原希子にしたところだけだ。あの映画は腹立たしいことこの上ない。小説よりも先に映画を観てしまった人々が可哀想だ。原作を読む機会を多くの人から奪った無価値の愚作である。 | ||||
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この本は中学校の時の推薦図書に名前が挙がっていました。 それで読んでみました。大変感動しました。これが文学なのかと衝撃を受けました。 またもう一点、エロい場面が何度か出てきて、それが中学生の理想とするファンタジック(かつ少し病的)なエロだったので、これまたびっくりして何度も何度も読んだのを覚えています。 彼氏が死んでしまい、傷ついている女の子と……。 本命がいるのに、別の女の子とベランダでキス。 療養所がある山の森で……。 元気はつらつな、しかし複雑な過去の有る年上の女性と……。 このように、「文学」としてだけでなく、「中学生に許された合法的なエロ小説」としての価値も、この小説については語り継いでいくべきではないでしょうか。 「文学表現として必要だったエロ」と解釈できれば、ちょっとセクシャルでも、大人は許してくれるようです。 その点、この作品は文学とエロの配合が絶妙なので、「好きな本は『ノルウェイの森』です」といえば、先生からの評価が期待できるし、自身のエロリビドーの慰みにもなるのです。いいですね。 あわせて山田詠美さんの『放課後の音符』も読むといいかと思います。 やはり、文学とエロが含まれており、中学推薦図書になっているからです。 | ||||
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店長さんとても丁寧でした。思わず割引していただき嬉しかった。商売繁盛をお祈りします。 | ||||
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主人公(僕)、僕の親友キズキ、キズキの恋人直子、この3者の関係はいかにも不安定で、恐らくこのままの状態では・・・・、すべての人の心の緊張感が亢まるだけで、都合の良いソリューションはないのでしょう。 この状況に耐えられなくなった直子の恋人キズキの(或いは、キズキが本来的に持つ、余りにナイーブな心ゆえの)自死が、主人公と直子の心の奥底に決して取り去ったり薄めたりすることのできない澱を作ってしまう。主人公と直子の関係には、キズキが去り2者になることでの安定はなく、二人の心のゆれる様が丁寧に描かれております。 陳腐な言葉かもしれませんが、村上春樹の“芥川賞”的な作品もわるくない、と思いました。 | ||||
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最初は2度目に読む本ですが、もとのことはわすれている。最近記憶に問題アリ。 | ||||
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私はこの本を大学で知りました。 母が村上春樹さんの本を読んでおり、他の著書は実家の本棚にもありました。 なので自分で買いました。 人のことに興味をもたないし、自分の感情をみせないところが当時の自分に似ていました。 本心を隠して、ふわっとした言葉でまいたり、関係性の遠い人には聞かれたことに面倒くさいから嘘をついたりしていました。 優しいと期待され、わがまま、冷たいと言われ、もう多くの人から理解されなくてもいいやという生き方でした。 登場人物と共感するところがありました。 死を選んだ直子もキズキも主人公にとっては、暗闇を一緒に歩いてきた自分の一部だと思いました。 ”お前もこっちにこいよ。”とかいう友達ではないと思うし、幸せを確信し前を向いて生きてほしいです。 レイコさんとの最後の場面はあれでよかったのかな・・。 | ||||
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ヘンリー・マンシーニのディア・ハートの美しいギターの調べ…そしてノルウェイの森。ある共通の大事な友人の悲しい幕引きの後のささやかな生の証。大事な人の死がこんなに生の営みを照らし出すものであろうか。直子の死が語られた最後の美しい場面である。 残されたトオルとレイコさんという二人はその生き方の不器用さがとても似ているような気がする。この小説に登場する人間は概して生のエネルギーが希薄な儚い存在の人間が多い。その中でこの二人が生き残ったことはある意味神聖な意味を持つのではないかと思う。作者にとっても恐らく特別な存在に違いない。作品で語られる時代、それは日本人が馬車馬のように働いてその中に感傷の余地など無かったいわば、生のエネルギーで充満していた時代である。何故この時代に彼らは希薄な存在なのか、それはこれから数十年後に到来する負のエネルギーの充満するこの時代への予告めいている。 かなり遡るが例えば漱石の一群の作品においてもそういう生きることの辛さを語るものが多い。あの今に比べようも無いほど貧しいあの時代にあっては生きることの辛さを語ることはいわばごく一部の特権的な階級のいわば贅沢病とみなされたのであろう。しかし漱石の小説のネガティヴさはやはりその対照となる生のエネルギーをとても美しく赤々と照らし出す。例えば「それから」の代助が前者の代表であり、「明暗」のお延や清子、「虞美人草」の藤尾などが後者の代表である。 転じて村上春樹の上記小説に戻ると、彼らの対照として生のエネルギーに満ち溢れた緑というとても強い女性の存在がある。 「どれくらい好き?」 「春の熊ぐらい好きだよ。」 これほどcute で、jealousな言葉を掛けられる相手が恋人であることが、どれほど生きている意味を感じられることか。これほど直球で胸を焦がす台詞を私はあまり知らない。確かに多少sillyではあるかもしれない。しかしこれほど無邪気に無防備な言葉を掛けられること、それがすなわち恋人であるということの証ではないだろうか。 では直子という存在は一体どのようなものだろうか。それが今という時代を予言した存在であることは想像に難くない。生き難い世の中に自分の存在できる場所を求めてさまようのである。結局彼女は普通の日常生活のそれを見出せなくなってしまったのだ。そして精神療養に生きる場所を求める。 一体いつから日本という国は生き辛い国になってしまったのだろうか? 年も若い者たちが負のエネルギーに満ち溢れ、現世的な欲求をなくし、隠棲状態になっている現実もあるのだ。直子は何度も繰り返しトオルにいう。私が重荷ならば私のことは気にしないでと。それに対してトオルは気丈に君が重荷とは思わないと力強く答えるのである。しかし彼女の重荷から解放された現在、トオルは彼女の「私がこの世に存在したことを確かに覚えていて欲しい」という悲痛な叫びも忘却の彼方へと流し込んでいるのである。 果たしてトオルは直子のことを愛していたのだろうか、直子はトオルのことを愛していたのだろうか…。直子という存在は私の考えではキヅキという直子のボーイフレンドとともにいわば生きながらの幽霊のような存在で、愛を与えたり、受けたりする積極的な存在というものではない。なぜなら直子がトオルにこの世に存在したこといることを覚えていて欲しいというのは、とても痛切な言葉だが、彼女が生身の人間であるならば、逆にこれほどその喪失感がこれほどまでに美しく語られることはないと私は思うのだ。喪失によって存在感が逆に大きくなっているのだ。 彼女のPale Shadowは間違いなくトオルの人生に大きく影を落とし存在し続けるであろう。そして読者である私たちにもそうである。直子への不毛な愛。それは限りなく美しい。ある意味ではそれは最も純粋な愛であるからだ。トオルもそれが分かっていた。彼女が彼のことを愛することはできないと言うことを知っているのだから…。 この小説が数十年も愛される意味、それは純粋な愛というものは結局不毛であるということを教えてくれるからだと思う。それゆえ美しく、この上なく胸を打つのではないだろうか。そして聖なるものであることを…。そうちょうど愛することを禁じられた天上の女神を愛した地の民のように…。 | ||||
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母にプレゼントとして買ったのですが、私は読んではいません。 母が一度村上春樹さんの本を読んでみたいといっていたので買いました。 物語は面白いと母には好評でした。 | ||||
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