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ノルウェイの森
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【この小説が収録されている参考書籍】
ノルウェイの森の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全558件 81~100 5/28ページ
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もう一度読み返してみようと購入しました。村上ワールドが心地よかったです。 | ||||
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人生の節目節目で読み返したくなる、特別な小説。 読むたびにあの日の情景がよみがえってくる。 | ||||
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私は1963年生まれで本作の主人公とほぼ同時代に学生時代を経験した。それもあるだろうが、とにかく個人的に波長の合う作品でこの下巻もあっと言う間に読破した。 理屈でなく感性に訴える村上春樹の作品中でも、セックスを通じて生と死を表現した本作は極めて官能的な要素を強く感じた。今巻でも印象的なシーンが数多く、例えば主人公と一緒に死病に冒された父を看るため病院を訪れた大学生緑の服装はパンチラ必至の超ミニスカで、それで階段を上るなと言われるが堂々と見せ付けるつもりだったと言う。だが彼女は父を献身的に看病する健気な娘なのである。彼女と亡くなっていった父、そして主人公とのエピソードはエキセントリックでエロティックなものが多いが、「死」に対して「生」を象徴したものとして読めた。主人公は20歳になる前なのに多くのセックスを重ねているが、本当に大切な彼女や、緑とはセックス出来ず、手や口で性欲を処理してもらう。「ノルウェイの森」を演奏する年上女性とセックスを経験するラスト前のシーンもとても印象深かった。ここでも「セックス」が生を象徴するものとして描かれていたと思う。 毎度評しているように村上春樹は万人向けの作家ではない。本作は特に官能要素が重要な位置を占めているので、それだけで嫌悪を感じる人もいると思う。だが、「生」と「死」と言うテーマを扱うにおいては「セックス」は避けられない要素であったのだ。センスの塊のような村上作品でも白眉の出来だと絶賛したい。 | ||||
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この物語には、緑と直子という対照的な二人の女の子が登場する。 いつも太陽のように明るい緑と、悲しみをたたえた暗い湖のような直子。主人公の僕の心は、この二人の間を時計の振り子のように揺れ動く。そこに典型的な東大生のような永沢さん、その恋人のハツミさん。僕の唯一の親友で、17歳のときに自殺してしまったキヅキ…。 端的にいうと、この小説には「唐突な死」と「脈絡のないセックス・シーン」で満ちている。だからなのか、話としては正直あまり面白いとは思えなかった。 登場人物のほとんどが自殺など何らかの形でどんどん死んでしまうし、どこか内向的な主人公が女の人と出会うたびに都合よくエッチするという展開が、どうもなじめなかったからだ。モテモテなはずの主人公なのだが、その割に魅力を感じないのはなぜだろうか? そもそも青春小説でいうところの「青春」には、失われた時代への憧憬(どうけい)の意味が込められているのだろうが、この小説で語られる青春には、青臭い未熟なイメージしか感じられなかった。 主人公の僕と直子とキヅキの関係にしても、「三人でいると、それはまるで僕がゲストであり、キズキが有能なホストであり、直子がアシスタントであるTVのトーク番組みたいだった。」(上巻48頁)と表現される。 こうした二人きりになると会話が進まなくなるという危うい三角関係が頻繁に語られるのだが、その関係も登場人物の死という形であっけなく終わってしまう。 もちろん本作品にも村上さんらしい鮮烈で詩的なイメージが溢れていて、村上ファンとしては十分楽しめた。物語の冒頭で直子が主人公の僕に語る「野井戸の話」は、この物語で語られる多くの死の優れたメタファー(隠喩)になっているように思う。どこにあるか分からない井戸に突然落っこちて、誰にも知られずに死んでゆくような「ひどい死に方」である。 主人公の僕と最後にビリヤードをした夜に自殺したキヅキも、遺書もなければ、たいした動機もない静かな死だった。言わば「生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」(上巻55頁) そんな死と隣り合わせの不吉な小説世界にあって、村上さんの喪失感を表現するときの文章はとりわけ美しい。 僕と直子がキヅキを失った悲しみを癒すべく交わるシーンでは、「彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだか後ろめたいような気持になった。」(上巻61頁)と表現される。 本作品もそうだが、村上さんのデビュー作である『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』などに見る、一見読みやすく何も考えてないように書かれているが、内にどうしようもない悲しみを秘めている文章。 個人的には作品自体にあまり感情移入できなかったけれど、改めて村上さんの文章のうまさを味わえた作品だった。 『ノルウェイの森』の題名の秘密は、読まれた上で感じとってみてください。 | ||||
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何度目かの再読を終えました。風の歌とノルウェイは最も再読した作品です。どこから切り取って読んでも面白いから、というのがその理由です。ノルウェイの森は、登場人物が魅力的で、それぞれのエピソードを切り取って読んでも楽しめます。突撃隊や緑、永沢さん、レイコさん、誰も彼もが魅力的です。 この作品のテーマは、陳腐な言い回しですがやはり、生と死だと思いました。死を選択した者、あるいは死に捉えられた者、生と死の中間的な場所から還って来て、死を含んだ生を選択した僕やレイコさん。 低俗な官能小説と批判されるように、村上作品の中でも最も性描写が多く、具体的です。描写の仕方は気に入らない部分もありますが、おそらくこの作品に性行為は必要なものなのでしょう。それは、ある場面では大して意味のないゲームのような行為としてただ浪費され、違うある場面では、神聖な行為のようであったり、固辞するものであったり、通過儀礼のようであったりします。生と死というものに性行為が深く関わっているようにも思います。 初めて読んだときはさらりと読み、ふ〜んという程度でしたが、その後は自分の精神の具合やら何かの加減で違う感覚で読めます。 なぜこれ程売れたのかは、正直よくわかりません。他人に薦める人が多いというのもよくわかりません。とても他人に薦められるような種類の本ではありません。 村上作品(長編)の中では少ないリアリズム小説です。好きな作品ですが、おススメは「羊をめぐる冒険」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」などです。 | ||||
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村上春樹は万人向けの作家ではない。好きな人と同程度にアンチも存在するのは人気作家の宿命とも言えるが、基本的に雰囲気勝負の作風なので、何を言いたいのかわからない、と言う人も多いだろうと思う。彼は何かのテーマを持って、それを読者に訴えようとしているわけではないのだ。だからそれが文学だと思っている人には理解される筈はない。彼はたいてい自身の生きて来た世代をベースに小説を書いている場合が多く、それも村上春樹が理解されにくい要因の一つだと思う。だが一方、彼と同世代である私のような読者にとっては強烈にアピールするものがあり、感性が合っていると感じるのだ。又本作に関しては、私自身が入院療養中に読んだのがタイムリーだったので満点評価とするが、差し引いてもらって構わない。感性が合わない人も多数いらっしゃる筈なのだから。 それにしてもモラトリアム風大学生時代の描写は、見事にあの時代の雰囲気を表している。女性関係をのぞいて私も経験した男子大学生の生活だ。そして心を病んだヒロインの療養生活は同様の状態にあった私には痛い程伝わって来るものが表現されていたのである。 繰り返すが、万人向けではない事を前提としての満点評価である。感性が合わないと思ったら、無理に読んでも得る物はないと思う。 | ||||
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切実な、失われ損なわれてしまって二度と戻らないものたちへの痛切な思い、がテーマかなと感じました。 バブルの頃、当時20代でしたが、本屋で山積みでバカ売れしていたので、当初バカにしていました。 しかし、知人に借りて読んでみたところ、なんというか、以後ずっと考え込んでしまいました。とても印象が強いです。 その印象を崩したくないのであれから読み直してはいませんが、おそらくこれは著者個人の経験をある部分は下敷きにしていると思われ、とても切実なものを感じます。 作家の三田誠広氏は本作品を単なる通俗小説と切り捨てていましたが、そうかなあ?? 多くの人が何かを感じたからこそベストセラーになったのではないでしょうか。文学的な価値がどうなのかは知りませんが、なにか心に触れるものがある。決してカバーデザインだけで売れたのではないと思います。 読む人の年代によるのかもしれませんし、個人的な経験の有無によるのかもしれません。 話の本筋ではありませんが、個人的に ”この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ” という文が印象に残っています。 その他の村上作品は私にはあまりピンと来ませんでした。各作品のモチーフは一部共通しているところがあるのかなとは感じます。 そういうわけで、私は別に村上春樹のファンではありませんし、全作品を読んでいるわけでもありません。 | ||||
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1986年と言うと、もう30年、Generation以上も前のことだ、そして日本ではバブルが最盛期に向かおうとしていた。そんな日本に耐えられなかったのだろうか、多くの作家が日本に留まっていたのに対し、村上さんはこの年からヨーロッパに長期間移動してしまった。最初はギリシャ、そしてイタリア、いろいろと楽しい経験もしたようだけれども、そうではない経験も多くしたようだ。こうした経緯については、村上さんのエッセー「遠い太鼓」にたっぷりと書かれている。特に日本を離れたくなった契機については象徴的に、けれども切実に描写されている。 ところで上巻から読み進むと、記憶していた以上に登場人物が少ないことに驚かされる。もちろんそれは、作品が平板であることにはつながらない。高校時代の旧友の彼女であった直子、そして大学で知り合った本屋の娘である緑を中心に、話は展開していく。現在と違って、直子と緑が登場するのが1970年前後の話なのだし、回想録を描いている主人公もまだ1980年代に生きているのだから当然だけれども、インターネット、ケータイがないのでさすがに時代を感じる。けれども、それは内容が貧弱であることに、やはりならないのではないだろうか。語られている内容は、古風と言っても良いほどだけれども……。 但しここで村上さんは、バブルの日本に身を置いていたら決して描出できないものを抽出していると思う。もし、特に1980年代後半の日本に生きていたら、何を基準にして良いのか、分からなくなっていたのではないだろうか。つまり村上さんは当時の日本にいたら、この小説を書くことができなかっただろう。出版の打ち合わせ等で時折、日本に戻ってきていたようだが、帰国するたびに日本の状況がどんどん変わっていくので、恐らく不安に思っていたのではないだろうか。ひょっとしたらこのまま日本は、破裂してしまうのではないか、と……。当時は世界の先進国で日本だけが、異様な空気に支配されていた。他の国の人たちから見れば、どんなふうに映っていただろう。村上さんの当時のエッセーには、日本のバブルに関する描写が頻繁に現われる。 ヨーロッパに住んでいた時に書かれた長編が、この「ノルウェイ…」、そして「ダンス・ダンス・ダンス」である。この2つの作品は、村上さんが書いてきた作品、初期3部作、「世界の終りとハードボイルルド・ワンダーランド」から、大きく変化していると思う。村上さんは、バブルの国を離れて海外に住み、さまざまの人に出会い、そして英語を鍛え、世界に通用するような作家に成長したのではないだろうか。 | ||||
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村上さんが、1986年バブルの渦中にあった日本を飛び出して、ギリシア、イタリア等、ヨーロッパの各国を奥さんである陽子さんと渡り歩きながら書き上げた長編小説の第1作が、1987年に発表されたこの「ノルウェイの森」である。たしかこの作品は、”100パーセントの恋愛小説”、と言うコピーで発刊されたように記憶している。もちろん発刊されてからすぐに読んだのだけれども、最初に手に取った時から既に30年くらいの時間が経過しており、さすがの村上さんもこれほどケータイやインターネットが発展することは想像できず、1960年の学生当時、主人公の当時の年代、そう1980年代を超越することは不可能だ。けれども村上さんは、過去の材料を顧みながらもこの不思議な装丁の作品を、なにしろ安西水丸も佐々木マキもここにはないのだ、日本から離れた場所で捜索すると言う新たな境地で発表したのだろう。 それほど難しいプロットではない、いや記憶していたよりも単純な内容だったので、驚くほどである。けれども内容は、村上さんの他の作品がそうであるように、容易ではない。けれども「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」とは、明らかに訣別しているように思えるのだが、いかがだろうか。 この頃の村上さんはブラームスに、そうあの独白の好きな作曲家である、傾倒していたのか、第4交響曲、第2ピアノ協奏曲が登場する。この作品の背景に合っているから、と言うのも理由の一つかもしれないけれども……。 | ||||
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『ダンス ダンス ダンス』が好きでときどき読む。ところで、たまに『羊をめぐる冒険』を読むと、主人公が同じ続き物のはずがあまりに感じが違うので少し気になっていた。 最近『みみずくは黄昏に飛びたつ』の著者の告白を読んでなるほどと思った。 いわく、当時(羊のとき)できないことがいくつかあったー 登場人物にうまく名前がつけられない 三人称で書けない 三人で話すシーンが書けない アクションやセックスシーンが書けない それで本書で実験し、なんとか書けるようになった、という。 本書には性的なシーンが多いけれど、そう言われて読めば、なんだか初々しい感じがする。 | ||||
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私は"そこそこ熱心な"村上春樹のファンです。 風の歌を聴けから騎士団長迄の短編長編恐らく全て読破していますし、彼の翻訳作品も大体は読んでいます。 そんな中でもこのノルウェイの森は突出していると感じます。 言葉にはうまくできないけれど、私は暇を見つけては無意識に本棚から本書を引っ張り出してあてもなくページを開き夢中で読んでいることが多々あります。それは著者である村上春樹が、又はワタナベ君がフィッツジェラルドのグレードギャッツビーを繰り返し愛読するのと非常に似ていると思う。無論フィッツジェラルドもカポーティもカーヴァーもオブライエンも彼が訳した著名な作家の本は大体読んだがそのいずれに於いても私にとってノルウェイの森を越える作品はありません。 | ||||
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村上春樹、川上未映子著『みみずくは黄昏に飛びたつ』(書評済)を読んで、本書をまた読もうと思った。 まず最初の儀式は、ビートルズの「ノルウェーの森」を聞くこと。これで30年前にワープする。 ところで、第2章に不思議な学生寮がでてくる。本書の表現では、「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」を創設の精神とするが、うさん臭いとある。 この寮のモデルは和敬寮と思われ、明日、国会に参考人招致される、前川喜平文科省前事務次官の祖父が作ったという。 それにしても、 嘘しか放送しない放送局、 嘘しか書かない新聞、 嘘しか言わない政府、 いわば嘘の国のなかで読むと、 本書は30年前の本だがとても興味深い。 登場人物には永沢さんのような変な人もいるが、なんかみんな正直なのが不思議な気がする。 | ||||
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ネット上の表示は上巻だけとなっていますが、出品者に確認したとおり上下巻を受領しました。金銀の華やかな帯も附属しており、状態も比較的キレイで、結構でした。一千万部以上うれたという超ベストセラーですが、やはり、文庫などの再刊本よりも初版版の丸背本は雰囲気もよく、あとがきもついており、いいものだと思います。 この作品のプロトタイプである「蛍」を合わせて読むと、いわゆる〝村上ワールド〟の小説作法、つまりワールドの膨らませ方がよくわかります。 | ||||
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主人公のワタナベは、直子と緑の二人の女性を通じて、美しきものに対する深い憧れに向き合います。 人を愛することの不思議、それはまるで人生の意味を解き明かすような特別な出来事でもあります。 「ノルウェーの森(下)」は、一途な恋心を抱いていたはずの主人公が、答えのない迷宮へと導かれる姿を描きます。 【日常と恋愛の空間】 直子のもとを離れて、激しい生命力を放つ緑の視点に立った時、この日常はゆがんだ奇妙な世界に映る。 「ここがなんだか本当の世界じゃないような気がするんだよ」 私たちの日常における生活感情は、恋愛の陶酔感や性的なイメージを無意識に遠ざけようとする。 平穏な社会生活を送るには、恋愛感情は時に社会からの逸脱を伴う危険なものでもあるからです。 【理想と現実の世界】 キスギと直子は現実の世界に出ていくことを恐れ、愛し合いつつも不幸な運命を辿ってきた。 「私たちはあなたを仲介として外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ」 直子が恐れる外の世界、そして私たちがリアルな現実と呼んでいるものの正体とは、 理想を打ち砕かれながらも、世間の承認なくては生きていけないという、妥協とあきらめです。 【人を愛することの意味】 「どうしてこんな迷宮のようなところに放り込まれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです」 人を愛することを通して、その向こうに自分のほんとうの姿を発見した。 僕は死を求めた直子と、生を求めた緑の両方を同時に愛してしまった。 それは現実の世界では、そのままの形では存在できない複雑な恋愛感情だった。 暗い森の奥で、直子は自ら命を絶った。 もはや日常空間も恋愛空間も見失った。何処でもない場所に、僕は放り込まれてしまった。 「僕は今どこにいるのだ?」 この物語を読み終えて、忘れかけていた遠いかすかな記憶の恋心が蘇りました。 いつしか平凡でまともな大人になってしまった全ての人々に、この作品の感動が伝わりますように。 | ||||
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前作「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の結末で、主人公は閉鎖的な内部世界に留まり、 愛する女性の記憶を取り戻し、彼女の心を再生することを誓いました。 その誓いは本作品に託されたように思われます。 主人公は直子に導かれるようにして、外の世界から閉ざされた地へと足を踏み入れました。 そこから魂の救済に奔走する僕の物語が再び始まります。 【第1章】 直子との約束を守るために、僕は不完全な記憶と不完全な想いを自覚しつつも語り始める。 「既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかり胸に抱きかかえ、 骨でもしゃぶるような気持ちで僕はこの文章を書き続けている。」 【第2章】 17歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、同時に僕と直子の心も捉えてしまった。 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」 直子と僕は東京で運命的な出会いを果たした。 【第3章】 「その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわかならない。」 直子の異変を感じた僕は、彼女の為に献身的に尽くそうと思うが、 二十歳の誕生日の直後に、何も言わないまま彼女は僕の前から去っていった。 【第4章】 終夜営業の喫茶店で、見ず知らずの女性二人に出会った。 成り行きで小柄な方の女の子とホテルへ入り、翌日目を覚ますと彼女の姿は消えていた。 凡庸な学生生活を続けていた僕は、その時突然、自分の周りから現実感が失われていることに気づく。 「奇妙によそよそしく非現実的に感じられたが、間違いなく僕の身に実際に起こった出来事だった」 淡々とした記述を重ねながら、いつのまにか不思議な空間を作り出す展開の巧みさ。 言葉にするのは難しいのですが、村上作品ではこのような場面展開の妙が物語に躍動感を与えます。 【第5章】 直子からの手紙が届いた。 そこに書かれていたのは、自己を客観的に分析し、事実を受け入れる透徹した言葉だった。 「私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったかと思うのです」 僕はすぐさま彼女のいる山奥の療養所へと向かう。 【第6章】 社会復帰を目指す直子に、僕の想いは受け入れられなかった。 「私を理解して、それでどうなるの?」 「私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわよ」 そもそも人を愛するということがどういうことなのか、僕にはまだわからない。 人を愛するということはどういうことなのでしょうか? それはきっと、生の本質を揺さぶるような何かではないでしょうか。 「ノルウェーの森(下)」では、その「何か」を求めて、主人公のさらなる奮闘が続きます。 | ||||
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既に他でも指摘されていますが、レイコ=「虚言癖のある極度の精神異常者」とも読めることが面白いです。破綻なく二通りの読み方ができるように作られている。 レイコ=「善人」説と、レイコ=「虚言癖のある極度の精神異常者」説で。 直子に、ワタナベが緑に惹かれていることを伝えたのがレイコであると仮定して読むと恐ろしいですね。吐き気がします。直子を自殺に追い込んだのはレイコだとも読める。サイコパス・レイコ。 死の淵にあった緑の父が、「切符・緑・頼む・上野駅」とワタナベに言い残して死んでいきますね。 最後の「上野駅」のシーン、レイコが陸路で旭川へいくと言いますが本当ですかね。茗荷谷へ行くんじゃないですかね。小林緑のアパートのある茗荷谷へ。 | ||||
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生々しく私自身の感情に真っ直ぐにぶつかってくる感じがしました。最近の作品を読んでからこの作品を読ませて頂いたのですが、私はこちらの作風の方が好きだと思いました。雨の状景と梅雨の時期に読んでいたことと重なり物語が尚、身近に感じられ辛く哀しくなってしまいなかなか読み進めることが出来ませんでした。生と死が絡み合う作品で感情がかき乱されますが死ぬ前に出逢えて良かったと思える作品でした。 | ||||
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村上春樹は有名すぎて少なからず敬遠していたのだが、読んでみると好きになれた。 ミステリー小説や恋愛小説といったいわゆるエンタメ小説とは確かに違っていて、特に大きな盛り上がりもなく、盛り下がりもなく、一貫してドライな物語展開。確かに「こんな小説の何が面白いの?」という人が結構多くても不思議でない。 自分も読み始めはかなりそっけない印象を受けたし、途中ハラハラドキドキするようなこともあまりなかった。 どこかのブログで「自分は高校生の時に読んだから、ただのエロ小説としか感じなかった」という感想があったが、自分も高校生の時に読んでいたらそう思っただろう。実際主人公は次から次へとやりまくっている。 そういう意味では自分はこの小説をそれなりに良いタイミングで読めたのではないかと思う。つまり、セックスやら愛撫やらを比較的淡々と捉えられる年齢で読めたこと。それらの行為は読み手にドキドキ感を与えるわけでもなく、物語にスパイスを加えるわけでもなく、むしろ主人公のセックスは(少なくとも最初の頃は)喪失感の象徴のようなものでもあったように思える。 小説の触れ込みに、100%恋愛小説、というものがあったが、自分はこの物語にいわゆる「恋愛」と呼べるようなものは微塵も感じられなかった。自分はこれを喪失と、苦悩と、再生への糸口を掴むまでの物語である、と捉えている。 20代の頃に読んでいたら、今ほど感じられなかっただろう感覚の一つに物語への「共感」がある。 この物語の中には、ある程度の年齢であれば、多かれ少なかれ経験してきただろう(喪失感やら、虚無感やら、純粋な悲しみやらの)感覚を呼び起こす場面が結構ある(それらは人によって異なるのだろうが)。その度に主人公たちの経験に自分の昔の体験が映し出されているような気がして、そういう時は、物語の登場人物の心情よりも自分の昔の気持ちを思い起こさせる。 何にしても物語は淡々としていたが、決してつまらないということはなく、読んでいる時の心地よい感覚 (おそらく所々での共感とか村上春樹特有の言葉の編み方みたいなものによるのだろう)もあって、良い読書体験だったと思う。 | ||||
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困ったときは死とエロ、つまらない小説、性描写が気持ち悪くて見るに耐えない、恥ずかしい、、、その他の批判がレビューにあげられていて、あるレビューでは、「こんな文章を書く作者はどんな人かと思ったら、やはりナルシストだったか」というような手厳しい批判もあった。 反対に、作品を前向きに評価するレビューもある。読めば読むほど面白い、精巧な表現、哲学的な要素に富んでいる、私にとってかけがえのない一冊、読者を惹き付ける文章、など。 作者は、1979年に『風の歌を聴け』で第22回群像新人文学賞を受賞し作家デビューした。 なんでも、野球観戦の最中、ふと小説を書くことを思い付き、処女作である『風の歌を聴け』を書き始めたらしい。 その後、1982年に『羊を巡る冒険』で第4回野間文芸新人奨励賞、1985年には『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で第21回谷崎潤一郎賞を受賞した。 そのあと、短編小説、エッセイ、海外作品の翻訳などを経て、1987年9月に問題作となった『ノルウェイの森』が出版され、上下430万部を売るベストセラーとなった。 村上春樹作品に対する注目度が増し、読者層の分母数が着実に増えたことで、作品の解釈について、より多様な意見が交わされるようになったのだろうと思う。 本作品『ノルウェイの森』について、作者は以下のように語った。 「この作品(ノルウェイの森)を世に出してから、僕はみんなから恨まれているような気持ちがした」 個人的な意見を正直にいうと、作中の余剰な性描写や、登場人物の唐突な死(納得のいく説明が書かれていない)について、作者の意図が読めない。物事を理解するために、人物像と人物の関係を図式化してみるが、人物の全体像(特にその思想の範囲)を掴みきれず、私の解釈は見当違いなものだと感じてしまう。 作者が語るところによると、 「だいたいの批評が的を得ていない、見当違いなものである」と、いうことらしい。 作家の意図、もしくは意図の不在を見抜くには、その作家自身より高次元で物事を考える必要があると自分は考える。なぜなら、作家の巧妙な仕掛けや深い思想を理解するには、それ相応の理解力と分析力、思考力が求められるからだ。 そういった意味では、私は作者の本作品を理解できていないと感じる。 出版するたび、表舞台に立つたびに批評を巻き起こす作者はまれであろう。作品は日本だけでなく、世界中で批評にさらされながらも、読者数を増やし続けている。それにとどまらず、村上春樹作品がグローバルな教養になる、との意見もあるようだ。 当然ながら、多様な意見があるということは、それだけ多くの読者が手に取っているということだ。そして村上春樹作品を通しての読書体験は読者に「感じる」ことを強制させるほどの引力を持つ。低俗なセックス小説だ、意味不明、惹き付けられた、心を揺さぶられる文章だ、とそれぞれ何かしらを感じるだろう。いや、感じざるをえないし、読者を「考えさせる」ような筆運びともいえるのではないだろうか。それゆえ批評は尽きない。 私は、これからも村上春樹さんの作品の「理解できない」文脈を理解しようと頭を凝らし続けたい。 そして、私と他人の意見の違いに驚き、ときには納得したり批判したりと、村上春樹さんの作品を、周りの目を気にせず熱中するこどもみたいに純粋に楽しみたいと思っている。 | ||||
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世界的な作家である村上春樹の作品を1冊読もうと思い、ネット等で色々と調べたが、彼の所謂代表作とされる作品は時の洗礼を受けていない故、意見がまだまだ分かれているみたいだ。そこで私は評価が高いだけでなく、映画化もされた(その映画の評価はあまり芳しくないが)この『ノルウェイの森』を読んでみようと思った。 読んで大半の人間にとって印象に残るのは何よりその性的描写であろう。普通の小説・文学ではまず描かれないであろう性的描写がこの作品(というか作者の作品全部と言ってもいいくらいだが)においてあたりまえのように描写される。このことによって一部の読者に嫌悪感を抱かされるのは想像に難くない。私自身もかなり辟易とした。そういう要素をいれることを頭ごなしに否定するつもりはないが、いくら何でもいれすぎである。しかしながら、出来るだけそれをマイナスと受け取らずにレビューしたい。 この作品を評価するのはかなり難しいと思う。私がこの作品を読んで楽しめたことは事実だが、かといってどこか賞賛しようという気にはなれない。まずどういう点を楽しめたか、この作品ひいてはこの作者の世界観の特徴的なものはなにかと聞かれても私はうまく答えることができない。結局は人間関係を描いているのであろうが、物語の軸、つまり物語がどこへ向かおうとしているのか、うまく私には把握できない。物語において何か達成されるわけでもなければ、何か救われるわけでもなく、逆に何かが破滅するというわけでもない。自殺する人間が何人か出てくるが、まるでそこには悲劇的な要素がないかのようにかなりあっけなく自殺し、そこに至るまでの描写が描かれておらず、よく言えば読者の想像に任せるもの、悪く言えば描写が不足しているということになる。 結局この作品の肝はいわば「虚無感」というものであろうか。何かを達成してもそれにより我々は別段幸福になるわけではない。そのことを癖のある多数の登場人物は多かれ少なかれ悟ったみたいで、どこか刹那的に生きている、そういう印象を受ける。 しかし、色々と変化球のある作品だが、複雑な人間関係を真正面から取扱っている、という点では非常に文学的で直球なものであると思う。うまく調和できない人間関係を描いていることは確かであり、結局それに翻弄されていく人間がいる。結局はこの人間関係の不調和が、この作品の最大の肝ということだろうか?少なくとも私がページをめくろうという気にさせたのはこの不調和な人間関係が最終的にはどのような形で収斂するのか、という点にあることは確かである。(ただ、個人的にはハッピーエンドなのかバッドエンドなのかよくわからない終わり方にはあまり満足していないが。)この点で、同じく寂莫とした雰囲気で人間関係の不和を描いた夏目漱石とどこか共通しているものがある、と私は感じた。各々正反対の世界観であるが、根底にあるものの交わりは決して少なくはない。 この作品はやはり評価が分かれているらしい。名作という人間もいれば駄作という人間もいる。私個人の感想としては、名作だとも思わないし駄作だとも思わない。かといって凡作とも佳作とも思わない。才能ある作品だとは思うが、だからといって好きな作品ではない。しかし印象には大きく残る。そういう形容しがたいものがこの作品にあり、それこそがこの作品を蠱惑的たらしめているものなのである。 | ||||
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