■スポンサードリンク
冬に子供が生まれる
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
冬に子供が生まれるの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.71pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全5件 1~5 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
学がないのか、回りくどく、よく分かりません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
中盤までは読みながら混乱する場面をちりばめながら、ストーリーに引き込まされる。 読みにくいと感じる人もいるかもしれないが、先の見えない展開としてはのテクニックに翻弄される。 それなのに、終盤にかけて結末が想像できるようになってくると突然ありきたりの展開になってしまって、ここまでの長編でのアプローチが色あせてしまう。 前半は期待大きかっただけに終わりに近づくにつれ残念な気持ちになる。 今までの著者の面白さとはちょっと違った作風を狙ったのかもしれないけど、刺さらなかった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
もともと超技巧派投手でしたが本作はこの作品のなかにも書かれている通り「右利きなのにあえて左投げ」しかもアンダースローで投げている、という感じです。直木賞をとられているので出身は「エンタメ系」だと思うのですがかなり純文学路線に寄せています。 「肉体と精神の不滅」「善と悪の永遠に終わらない戦い」「曖昧なままの結末」「輪廻」「広大で重厚な宇宙観」「孤独な修行」などインド・ヒンドゥー哲学の匂いもしました。 大ヴェテランなのに実験作ともいえる小説を直木賞受賞後第一作に持ち込む作者と編集者、出版社の熱意にはたして読者が応えられるのかがポイントとなる作品でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
記憶があいまいな登場人物に合わせて、あやふやではどちらにもとれるような表現が目立ちます。話の中心が定まらない感じが続く。探りながら読むことになるので、読書のリズムがあまり良くない。 このような中心をはぐらかす書き方はテクニックの一つだと思うけど、こういう手法を、ワクワクすると感じるか、回りくどいと感じるかは人それぞれ。自分はどちらかというと後者。 「月の満ち欠け」「身の上話」など筆者の作品は大変面白かったので、これも期待して読んだけど普通でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
佐藤正午の直木賞受賞作「月の満ち欠け」(岩波書店、2017年)以来の新作、本の帯に書かれた文章をそのまま書けば、「さらなる代表作が誕生!」とある。大変な期待をもって読み始めた。 「月の満ち欠け」は、衝撃が大きくて、熱中して読んだ作品だった。純粋な愛、ひたむきな愛というものを、このような形で表現できるのか、という驚きによるものだった。それは転生譚であり、私の乏しい読書体験のなかでは、三島由紀夫の「豊饒の海」(新潮文庫)を想起させるものだった。 さて、この「冬に子供が生まれる」は、丸田優、丸田誠一郎、佐渡理という小学生以来の仲良しの友人(大きな体験を共有した友人)、そして、中学生からこのグループに加わった杉森真秀の4人が主人公で、彼らは高校時代と不慮の事故を経て疎遠になっていき、40歳も間近になっている。それぞれの記憶や手紙により、4人の過去から現在までが「私」によって再構成される。しかし、その大事な核心的な事実は、不透明で混濁しており、何が物語の上で、本当であるかを確定することは難しい。 読み進むにつれ、私は、再び三島の「豊饒の海」を想起してしまった。「豊饒の海」の最後で、綾倉聡子は、松枝清顕を知らないと言い、それにより物語の基礎が失われてしまい、私は愕然としたものだ。この本は、基礎が失われるのではなく、現れないような感じだ。そして最終章まで辿り着く。そして、最終章で、「私」は、物語の基礎をなす、「真実」に辿り着けたのだろうか。 最終章を読み、私は、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を思い起こした。それは、このようなイメージである。 「彼の呼吸はとまりました。 彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。彼は女をゆさぶりました。呼びました。 抱きました。 徒労でした。彼はワッと泣きしました。 たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。 そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。 そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。 花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。 彼はもう帰るところがないのですから。 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。 」(坂口安吾「桜の森の満開の下」講談社文芸文庫、129頁) 私にとって、この作品は、流れるような物語には読み応えがあり、さまざまなイメージを喚起するものはあるが、その物語の核心は霧の向こうにある。物語を書くことによる、「私」の再生がテーマなのだろうか。自分で読み直してみても、よくわからないレビューになったが、私はこの作品の価値や本質を掴めていないのだろう。評価は標準点としての☆3つとした。これは私の書いた62番目のレビューである。2024年2月2日読了。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!