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闇の奥
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闇の奥の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全83件 61~80 4/5ページ
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読んでいて、「あれ、『地獄の黙示録』に似ているな」とおもったら、なんのことはない、『地獄の黙示録』は実は『闇の奥』を基に作られていたのだった。 導入部は私たちという視点だが、本編のほとんどは「マーロウ」が語る構成の一人称。マーロウの視点からコンゴの森のなかで狂っていったと思われるクルツが描かれる。象牙収集などのために欧州白人に黒人が過酷な労働を強いられていることなども描かれる。当時としては衝撃的な内容だっただろう。その衝撃を薄めるためか、あるいはコンラッドの文章のスタイルなのか分からないが、描写が直接的ではなく、あいまで象徴的なときが多い。それでこの小説は難しいという印象を与えるのかもしれない。 神話から多くの戯曲や小説が生まれたように、新しい作品を生み出す力を持つ作品というのがある。例えば、ホメロスの『オデュッセイア』からジョイスの『ユリシーズ』が生まれたように。あるいはハメットの『血の収穫』から黒澤の『用心棒』がうまれたように。 『闇の奥』からもゴールディングの『蠅の王』、村上春樹の『羊をめぐる冒険』『1Q84』、伊藤計劃の『虐殺器官』が生まれていることを考えると、『闇の奥』は現代の新しい神話といえる。 翻訳は丁寧で大変読みやすい。 | ||||
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コンラッド「闇の奥」です。コッポラの「地獄の黙示録」の翻案となった書です。ウィラードがカーツ大佐を探しに行くところですね。原題「Heat Of Darkness」。 本作は船乗りであるマーロウがアフリカ奥地で原住民を支配下に置いて、象牙の取引で権力を握るクルツを助けに行く?物語である。そこには冒険ということではなく、その時代よく知られていなかった、アフリカの原住民との出会いや衝突、白人文化から見ると奇妙な風習が描かれていて、よく知らない世界を垣間見るような好奇心に溢れた読者が手に取ったと思われる。でも、そんな好奇心を満たすような場面ばかりでなく、本書は非常に難解なのである。新訳になって読みやすくはなったのだろうけど、読みにくい。難解である。でも中篇なので、気合一発で読み進めるしかないでしょう。読み進めるうちに、クルツの精神そしてクルツとであったマーロウの精神の変化に触れることができるのですから。そしてラストのクルツの婚約者に会いに行く場面。マーロウはアフリカの闇に触れていながら、最後は人間らしい優しさといっていいのか、狂気を静め対応するのである。 本書は映画「地獄の黙示録」を見て、何なんだろうあのラスト、と思った人が読むべき書なのだと思います。それ以外興味がもてないと思います。 因みに、本書でクルツ、地獄の黙示録ではカーツ大佐を演じた、マーロン・ブラントはコッポラ監督から本書を読んでくることとやせてくることを言い渡されたのですが、本書も読まず、ぶくぶくと太って来たということは有名な話です。 | ||||
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子供の頃,「地獄の黙示録」を見てから,原作のこの本を読もうと思っていた。映画の描こうとした世界の謎を理解できるかと期待していたが謎は深まるばかり。著者は,この説明しがたき,人間の実存を感覚的に表現しようとしたのか? 船乗りが,哲学的に語る彼の冒険譚。アフリカ人を同じ人間とも認めない欧州人の徹底的な優越感・差別感覚。それと同時に持つコミュニケーション不可能性を前提としたアフリカ人への恐怖感。「象牙」というお宝へのどん欲のみで魔境と関わる会社員たち。その魔境で神となって原住民を支配するクルツ。そして,クルツも「象牙」の奴隷であることにおいて,他の”まとまな ”会社員と何もかわりない。 さらに,欧州文明の中心地ロンドンの邸宅に住む貞淑な婦人が,クルツに魅入られ神として崇め妄想に浸る姿は,アフリカの原住民のそれより,はるかにグロテスクであった。。。 最期に,これらの人々とはまるで異なる,現実的な欲望とは無縁の,狂言回しのような青年。 全ては混沌である。多くの「魅入られた」方々が翻訳されています。 | ||||
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「静養の必要あったのは、僕の体力ではなかった。安静を必要としていたのは、心だった」 『地獄の黙示録』の原案として知られる本作を読もうと思ったのは、この一節を知ってからだった。暗黒大陸アフリカのジャングルの中で、主人公は何を見、帰還後にこの肩で息をするような科白を残したのか。 わずか160ページしかない、19世紀末の物語を読み終えるのにはかなりの時間を要した。訳は古いし、語り部マーロウの独白が延々と続く観念的話法をとっているため、かなり難解。読み終えた今も本質に辿りつけていないんじゃないかと思うほどの濃密さだ。 ただそれゆえに、一人の男が未開の地で目の当たりにした、狂気と恐怖のイメージが鮮やかに浮かび上がってくる。 それは、常に霧がかったジャングルに覆われた川を遡上する小さな船だ。 マーロウはジャングルとそこに住む原住民を嫌悪し、恐怖する。だが彼は同時に、西欧の消費社会を生きる人々を唾棄する人間でもある。彼はどこにも居場所の無い男なのだ。クルツは居場所をどこにもなくしてしまった男なのかもしれない。 光の届かない、絶対的な野蛮。闇との対話をクルツは続けたが、ジャングルを照らすはずの光は、手ごたえなく闇に吸い込まれていくその恐怖。結果、光はがむしゃらに闇を支配しようとし、クルツは心を病み、あの帝国を築き上げた。川を上りながら、マーロウはクルツの辿った足跡をまさに肌で感じ取り、共鳴していく。そして、クルツの放った最期の言葉を、そっと胸にしまいこむのだ。 | ||||
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新訳で「闇の奥」を読んだ。 中野良夫の旧訳の「闇の奥」は幾分読みづらい本であったが 本書でも その読みづらさは ある意味で変わらない。となると これはやはり原作自体の難しさにあると考えるしかないと思った。 僕にとっての 本書の難しさは 結局主人公であるクルツの善悪が定まらない点にある。これは僕自身が「善悪がはっきりしないと物事の理解が難しい」という「考える力の弱さ」を露呈したと謙虚に受け止めるべきだ。 僕らにとって 何かを考えることは 「それらを区別し 何らかのラベルを貼る」という作業で終わってしまうことが多い。「分かるとは分けることだ」という言い方もあるし それは一面真理なのだろうが それだけだと「分けようとしても分けられないもの」への理解が不可能になる。その一例が 本書であり 本書の主人公であるクルツではないかと事が今回読んだ印象だ。 文化人類学を学べば 「すばらしく崇高なもの」と 「おそろしく俗物なもの」は一人の中に共存することがある点が分かる。クルツを理解するには そのような手法を取っていくしかないに違いない。 本書には救いもないし 結論も無い。どこか尻切れトンボで居心地も悪い。クルツの許嫁の大いなる誤解も滑稽だ。あるべき「悲劇」にもなっていない。それがコンラッドの 結局言いたかったことなのだろうか。ただし 結末を作者が提示していないことで 本書の読み方が自由になったことも確かだ。本書から 村上春樹が「羊をめぐる冒険」を書いたと言われるし コッポラは「地獄の黙示録」を撮った。「善悪定まらないもの」への本能的な嗜好が人間にはあるのかもしれない。 | ||||
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「闇の奥」とはいいタイトルをつけたものだ。原題は「Heart of Darkness」となる。未知への恐怖というのは、SFの世界に属するし事実、コンラッドのこの小説はSFみたいなものである。次元が低いかもしれないが、昨日のガーナ戦のサッカーを思い出した。日本が勝ったのはガーナが中二日だけのハード・スケジュールで疲れきっていたのが幸いしたという。中沢が防げきれなかった相手の重戦車なみの肉弾攻撃は、まさに「闇の奥」である。あれがアフリカのスタジアムだったらそれでも負けていただろう。でも未知への恐怖の体験は本人を成長させる効果もある。善と悪が恐怖によって泥のようにこねられて、かえって物事の本質が見えてくる。クルツは幻影でしかない。皮肉な話、恐怖がすべての人間を平等にする。ところで未知との遭遇が、未知への恐怖と同次元のもので、善と悪の混乱という初期症状を示すことは、17世紀のオランダの画家・フェルメールを見ればわかる。フェルメールの場合、”科学”がその未知との遭遇の導火線になった。詳しくは「宇宙に開かれた光の劇場」上野和男・著を読むことをお薦めする。また仮面を被ることの他人に与える”恐怖”からの”成長”という果実を得たかったら、同じ著者の「縄文人の能舞台」という本を読むこともお薦めしたい。この二つの本は「闇の奥」に入った人の恐怖を癒してくれるはずなのだ。手前味噌で失礼しました。 | ||||
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若い頃は、冒険小説だろうと思って読みました。 このレビューを書くために再読して、若い頃とは格段に違う印象をもちました。 『闇の奥』は冒険小説の形式だけれども、著者の分身ともとれるマーロウの行動や、孤独なうちに吐かれるクルツの言動は、アフリカ奥地の環境とあいまって、19世紀に植民地主義だった社会を象徴しているような印象を持ちました。 また、ポーランド生まれの著者が、商船での経験を終え、帰化したイギリスで学んだ英語で著したというところに『闇の奥』の底流にある思想が読み取れると思います。 中野訳が格調や品位があり、深く読み込めば読み込むほどに新訳よりも素晴らしいです。 | ||||
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温帯の島国で世界を論じてみても、それは所詮、ある狭い地域の中で培われた偏った常識で他人を断罪する自慰行為でしかない。ザックを背負って熱帯の闇の中に分け入り、あの冷たい夜の中に身を置いてみよう。ひと月が過ぎるころ、私たちはもはやそこから抜け出すことができなくなっている自分に気がつくことだろう。 | ||||
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翻訳が困難と言われている本書だが、中篇作品であるのにその濃度は計り知れない。 帝国主義の問題、人間の心の闇のメタファーなど、一年以上前に読んだ本なのに、 そのトグロを捲くような濃厚さは他の本の追随を許さない。 訳自体は非常に読み辛い感覚を得るが、何度でも読み直して論理的に思考を深めたい一冊。 | ||||
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読み始めたきっかけは、立花隆の「解読『地獄の黙示録』」の中で、 この小説が映画「地獄の黙示録」のベースとなっていることを知ったこと。 さらに調べれば、村上春樹の「羊をめぐる冒険」にも影響を与えているらしい。 これはもう「読むしかない」と思って読み始めた。 それにしても、文庫本にしても比較的薄い本であるが、 読み終わるまでこれほど苦労した小説を私は知らない。 狭いページに小さな文字がぎっしり詰まり、 (おそらく出版が古いために活字が欠け始めて)印刷が汚いと言う 物理的な問題もさることながら、 内容的にも文体的にも実に重苦しい。 純粋な文学的探求目的でもない限り、普通にこの本を娯楽として 読める人はそうそうはいないのではと思う。 ただ、内容的な重苦しさそのものが、他の映画や文学作品に対して 深い影響をあたえたであろうことは推測できる。 特に原著の出版当時の20世紀初頭の欧州の人々にとって、 まさに「闇」であったアフリカ大陸を生々しく描いた本は、 実に貴重だったのだろう。現に当時の欧州では商業的に成功したらしい。 「地獄の黙示録」も「羊をめぐる冒険」も、 作者の真のメッセージを探るには難しい本であるが、 いずれも他の面で楽しんで見られる/読める作品だ。 「闇の奥」がきっかけになって、 これら現代の作品に触れることができることに感謝したい。 | ||||
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アフリカ大陸には二つの大河がある。その一方のナイル川が人類に文明をもたらした大河として知られるのとは対照的にもう一方のコンゴ川(ザイール川)は文明に取り残された暗黒大陸を代表する川として残されている。近代に至ってもナイルはその源流をめぐる論争と探検の物語として読書界に迎えられたのに対し、コンゴ川については知られるところが少なかった。それはこの大河を遡った奥地が西洋による残酷で大規模な収奪のジャングルであったからである。この事実は1998年にアダム・ホックシルドの「レオポルド国王の亡霊」が刊行されるまでは広く知られることのない巨大な歴史の闇であった。(藤永茂氏の近著「闇の奥の奥」はこの大著に依拠して書かれたもののようである。) コンラッドの『闇の奥』は文庫本で162頁の短いものであるが読み易い本ではない。なぜなら読者はしばしば手を止めてそこに書かれていることの深い意味を探らなければならないと考えるだろうから。当然のことながらこの作品をめぐる論議はかまびすしい。しかし当面はそれを忘れて先へ先へと読み進めるのが賢明な読み方であろう。たしかにこの作品はコンゴにおける白人植民者の犯罪を白日の下にさらすのに大きく貢献した。反面においてはまた、著者の態度は不徹底であったと論ずる人もいる。しかし本書は何よりもまず、実際にコンゴ川を上流スタンリー・フォールズまで遡航したコンラッドの探検の書として読みたい。蒸気船からの眺めはしばしば単調であった。「その度に樹齢を知らぬ原始林が、この薄汚い別の世界の断片、変化と征服と交易と虐殺と祝福の前触れともいうべき僕等の船をじっといつまでも見送っている。」このようにこの探検者は多分に瞑想的である。そしてその思考の対象となるものはもっぱら彼の遭遇した人類の行為であり心理の内奥である。 | ||||
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これほどに陰鬱で暗い小説を私は他に知らない。読み終えてまず最初に怖ろしさを感じ、そしてその怖ろしさはクルツや原住民の描写のみによるものではなく、このような身の毛もよだつ出来事があくまでマーロウに語られる「お話」であって、航海を続ける彼ら一行の進退には一切関係せず、日常はこのまま淡々と続くという事実にもよっていた。もはや世界の終わりとも思えるような、マーロウが体験した凄絶な事件も所詮はこの世に存在した唯一つの出来事に過ぎず、この世にはまだまだ多くの「闇」がかつて存在し、これから先も起こり、そしていままさに在るという、途方の無い絶望感に打たれたのである。 クルツは謂わばヨーロッパ全体から作り出されたような人間で、文章も上手く、高度に文化的な人間だった。そのような彼が闇の中を彷徨するうちに自らも闇に同化してしまったというのは、当時、最も高度に文化的であった西欧から生まれたナチスを連想させる。1899年作である『闇の奥』は人類がどれほど文明を進歩させようとも決して蛮行を止めはせず、むしろより多くの蛮行を行う可能性があることを示したという点で、ナチスの誕生を予言していたと言っても過言ではなかろう。 『闇の奥』はアフリカを舞台にした小説でありながら位置的にも時代的にも離れた現代日本の我々に看過できない問題を突きつける。そしてそのとき我々は、この小説で描かれる地獄のような光景が存外に遠くない場所に存在するのではないかと考えさせられ、世界の闇、人間社会の闇、それから自分自身の闇の実存を認め、恐懼するのである。 | ||||
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ストーリは難しくは無いが、深い味わいがあります。 「文庫版の解説」に解説者が書いていたり、立花隆が指摘のとおり、翻訳にやや違和感があり、翻訳の古さが気になるところですが、おすすめの一冊です。 私はこの本に地獄の黙示録への疑問の答えを期待していたのですが、その意味では期待はずれでした。映画はシチュエーションを借りてかなり違うことを言おうとしていると思いました。 人物の取り上げを見ても、クルツ(カーツ)やマーロウのこの本での描写は、ややステロタイプに感じられましたが、周辺の人物は魅力的でした 映画のシーンと重ね合わせると大変深い読後感が得られました。 | ||||
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今まで数々の映画監督が映画化を試みたが、断念したと言われる作品。(「地獄の黙示録」はあくまで翻案) それほど、この作品に描かれている「闇」は深い。 「過ぎ行く船の甲板から陸地を眺めることは、なにか謎でも考えるような興味がある」と、主人公マーロウは、密林へ行く途中で語る。 船と対岸の間の流れ、そして密林の河の流れは、普通の生活をしている人々と自分達をどうしようもなく分けてしまった「一線」の象徴であるように見える。 クルツはその一線を飛び越えて、さらに奥へと踏み込んでいってしまった。 おそらくマーロウもまた一線を越えてしまったが、クルツと違い、まだここに留まり続けている。 マーロウがクルツの婚約者についた嘘は、クルツのようになりきれないことの証明である。 闇という闇を集めて凝縮して、沈黙させたような本。 語ってはいるが、じつは何も語っていないような。 そんな底なしの不安を覚える。 | ||||
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中篇小説ながら その後に与えた影響は大きかった。 映画「地獄の黙示録」がこれを原作にしている話は有名である。原作は 植民地時代のアフリカだが これをベトナム戦争時代のインドシナ半島に翻案したのが映画である。「地獄の黙示録」を哲学的な映画と評する向きがあるが それは コンラッドのお陰である。 村上春樹の「羊をめぐる冒険」にも本書が出てくるといわれている。主人公がこもる 北海道の別荘に「コンラッドの本」が出てくるが これは設定上 まず「闇の奥」と言ってよい。村上は「現代の北海道」に翻案したわけだ。 人間の心の奥に潜むものの話だ。心を「闇」というコンラッドの 奇妙な ニヒリズムが味わいである。 | ||||
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植民地主義などの作品背景はすでに他の方々が お書きになっているので、そのほかに気づいた点を。 重厚な文体の原文ゆえに、この文庫版を読むのも 私はかなり骨が折れました。ちなみに、誤訳も散見 いたしましたので、できたら原書を片手にお読みに なるのが良いと思います。 各ページに込められた情報量が凄まじいので、 二、三度お読みになるのがお勧めです。私なぞ、今 手にとっても「ここの場面・言葉はあのシーン につながっているのか」と考えさせられること しばしばです。 難解ですけれども、読後に確かな「手ごたえ」 が残る一冊だと思います。クルツの死に際の 言葉の意味は何なのか……。 | ||||
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海外への植民者たちは、従来の社会階層からはじき出された余計ものたちで、その社会から何ら希望も与えられない虚無的な人であった。ところが、海外での帝国主義に従事することが彼らに自己実現の場を与え、新たな希望が生まれる。そして、そこには理想と現実に引き裂かれる陰惨な心理ドラマが生まれるのだ。 主人公のクルツは貧乏のせいで婚約者と結婚することもできない。そこで、海外への帝国主義政策を採る貿易会社に入って、お金を稼ごうとした。クルツは順調に出世する。やがて重役に最高の自己アピールをするため、とりわけ困難な土地であるアフリカのコンゴへ赴任を希望した。だが、クルツ自身は帝国主義の大義名分「未開人に文明人のような道徳意識を持たせたい」とその現実「未開人から略奪することが会社の業績になる」とに引き裂かれる。この分裂のせいで、彼は未開人の部族間闘争に身を投じる。はたして彼の運命やいかに。 ところで、彼がその闘争に身を投じたのはもはや婚約者のためでも、出世のためでも、未開人のためでもない。恐怖のためである。恐怖とは何か。それは帝国主義のディレンマを回避するための心的装置である。クルツは自分の葛藤を引き起こす原因となった未開人を否定するために、これを恐怖として/によって烈しく攻撃する。そして、その後ろめたさが未開人の代わりとしての象牙集めという欲望を引き起こす。その象牙は会社経由で市場にのらない限り、価値がないにもかかわらず。 この植民者の心の闇は、じつは全体主義の闇につながっている。 | ||||
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「歴史的古典」という以外の読み方をするのは結構むずかしいと思われる。たしかに、黒人たちの上にカリスマ的に君臨していた白人という存在は皆無ではなかったようだが、黒人たちの側に立つ視点の取りようが(たぶん当時では)なかった以上、帝国主義批判になることはできないような気がする。 当時のヨーロッパ人にとってアフリカは「闇」であったとしても、そこで生を営んでいたひとびとにとっては闇でも何でもなく、しかもかなり高度な文明が花開いていたことはアフリカ史の研究者にとっては共通認識となっているからである。 | ||||
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ヨーロッパ人といわゆる「未開人」の場を設けて ヨーロッパ人が考える理念としての帝国主義と 現実としての暴力の帝国主義がよく分かりました。 しかし、人間の心理の奥などとかなり重いテーマが作品の底を流れていると思いました。 かなり難しい作品だと思います。 ちなみに作者コンラッドは自由自在にラテン語を英語にしてしまう技を持っていました。 そのため翻訳者をかなり悩ませています。 | ||||
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欧米ではかなり長い間この物語の解釈が論議の的となっている。例えば、マーロウは「僕はうそが嫌いだ。」と告白しながらも最後に彼はクルツの婚約者に嘘をつく。それはなぜか?著者は物語を構築しそこなったのだろうか、それとも我々読者がなにかを見落としているのだろうか?とか他にもいろいろあります。 ちなみに、個人的には翻訳の質がいかがなものかと。 クルツの最後のことばは原著では「The horror. The horror.」と記されているのだが、訳者はこれを「地獄だ。地獄だ。」と表現している。この"The horror"が何を意味するのかも上記と同じく論議の的となっているのだが、ほとんどはこれは「地獄だ。」という意味ではない点では一致している。そしてこの物語の中では緊迫感がとても重要な要素であるのだが、翻訳の時点でそれがほとんど失われてしまっているようにも思える。 例えば原著にある「The last word he pronounced is - your name」というところが、「あの男の最後の言葉といいますのはね―やはりお嬢さんの名前でした。」となる。この日本語の表現では残念ながら原著にあるような緊迫感を表現し切れていないところが痛い。 | ||||
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