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JR上野駅公園口
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JR上野駅公園口の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.69pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全35件 1~20 1/2ページ
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父に言われ新聞に出た柳美里さんの作品で購入しました。 まあまあでした。 | ||||
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南相馬市小高区在住の女性作家柳美里さんの小説が読めて良かった。 | ||||
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華やかな大都会の裏側で、生きている人。 滋味ですが、胸に響く考えさせられる作品です。 | ||||
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最後のページに到達して「!?」となり、恥ずかしながら大急ぎで最初から読み直し、驚愕と共に読了。 これだ!詩や小説に僕が求めるのは、こういうものなんだ! 詩のように美しい筆致。描かれるのは、嘗て「運のなさ」と誤解されてきた、恐らく日本人誰しもが行き当たる宿痾と孤絶。持てる人は先送りにできたり、持たざる人は見ない振りをしてきた…。 後に2021年時点のインタビューを読み、作者が文字通り「命懸け」でこの物語を生み出した事情を知った。 この小説は破格だ。全米図書賞受賞も読み終えたいまでは、とうぜんと思える。 幾度も喪失と痛みを描いた作者は、入念な取材と共に自他の痛みを編み合わせ、これ迄と異なるフェーズに移行したと推察する。様々な企画や構想に意欲的であり得るのも、わかるような気がする。遅れた読者だけど、ついていきたい。 | ||||
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2014年の出版だが、2020年度の「全米文学賞翻訳部門」とNewyork Times紙の「今年の100冊」に選出され、評判を得ての「里帰り」となった。そこで先ず英語版を読んで、外国人読者は日本のホームレス制度?に関心を持ったに違いないと納得した。アメリカにもホームレスはいるが、行政に保護?されたりしてはいないのだろう。優秀な編集者が作家に入れ知恵して、外人受け狙いの作品に仕立て上げたのかもしれない。その意味では「成功」だ。 構想に8年かけたと言う通り、ポストモダン風に、時系列を超えた回想シーンが脈絡なく入り組んで、それを解きほぐすのが大変だ。ストークスという評論家は、「作品がどれだけ時空を超えても読者は必ずそれを時系列に並べ直す」と言っているが、ポストモダン小説は実に厄介だ。 本書もそれに劣らない構造になっている。それを読み解ける力量のある読者は、作品の確たる構造を発見して喜びに浸れるが、読み解けない読者は琴線に触れた部分を「自分に引き付けて」読み、荒っぽい感想を書く。 最初の大問題は、主人公の森某氏(語り手)がこの話を述べている時点で生きているかどうかだ。生きていないとすればいつ死んだか。注意深く読めば、語り手は冒頭から「[私は]耳で音や声を聞くことはできない」と言っていて、他の場所でも繰り返される。何で聞いているのか、魂だ。彼は2006年11月20日、上野で開催された「国際生物学賞」授賞式に臨席する天皇皇后両陛下を至近距離から拝謁した後、雨の上野公園を歩き回り、最後は上野駅2番ホームから電車に飛び込み自殺している。 「幽霊」になった語り手だから、時空を超えて随所に現れ、5年後の東日本大震災や翌年の2012年に「上野の森美術館」で開催された「ルドウーテ〚薔薇図譜〛展」を見ることが出来るのだ。 語り手はなぜ生者の傍らに付き添うことが出来るのか。それを説明するのが福島における浄土真宗門徒たちに関する話題だ。真言・天台の信者が多い福島で、新移民の門徒衆が独自の風習を頑固に維持できるのは、浄土真宗では、死者たちは死後直ちに「菩薩」の称号を得て現世に立ち返り、生者の傍で彼らを見守ると信じられているからだ。語り手が見守る相手は当然上野のホームレスたちだ。 同時に、うるさく書かれるのが、「ルドウーテの〚薔薇図譜〛展」。語り手がこうまで思い詰めるには訳がある。50代の彼が10年間近く付き合ったキャバレー「白馬車」のホステス純子だ。出張先の弘前で魔がさしたように一人で入ったキャバレーで白薔薇と共に現れた純子。語り手の生涯でただ一度の恋だった。憶病な彼は「ホステスと常連客」という一線を越えることが出来ないまま、定年退職した時、彼女に白薔薇の花束を贈ったのが精いっぱいの愛情表現だった。何といじましい男だろう。 日本の大都会に住みホームレスを見慣れている読者が、既に承知のホームレスの「実態」を読んで涙するのはあまりにもナイーブだ。日本人読者なら、作品が触れたがらないでいる点に注目すべきだ。 語りの森某氏はやむに已まれずに転落したホームレスか。絶対に違う。自分では「出稼ぎ」と称しているが、彼は「谷川体育株式会社」に40年在籍した「正社員」だった。年金を始め各種社会保障受給資格を持ち、自宅や田地も所有する平均的(あるいは平均的以上の)日本人だ。郷里には兄弟、娘や孫の他に、浄土真宗門徒たちとのつながりもあり、妻の死後ホームレスになる必然性は全くない。 語り手が告げる典型的なホームレス転落者は、「浮浪者狩り」で中学生に殺された大手不動産会社の元社員だろう。月収80万円以上稼ぎ、飛ぶ鳥落とす勢いだったが、バブル崩壊で職を失い、家を失い、元スチュワーデスの妻から離縁状を行きつけられ、路頭に放り出られた1件のみ。シゲさんは「言うも恥ずかしい行い」をしたあげくに自らホームレスを選んだのだし、食うに困らない語り手本人の動機は全く分からない。 40年に及び建築会社の正社員時代には喜びも発奮もあったはずだ。作り上げた体育施設は、形になって堂々と存在する。かつてNewyork Timesのコラムニスト、ハワード・フレンチ氏が取材した北京の「鳥の巣」オリンピック競技場建設に従事した出稼労働者は、「仕事はきつかったが、結果を孫と一緒に眺めることが出来るのは嬉しい」と言っていた。「いいことは何もなかった」と言うのは、意固地になって幸せを押しのけているのだ。 「人生にだけは慣れることが出来なかった」と述懐する彼の劣等感の一つに「無学歴」を上げるのはたやすいが、「家庭からの落脱」もそれに次ぐだろう。年老いた両親の面倒を妻に押しつけて単身赴任生活を続けているうちに、家庭や近所付き合いはしっかり者の妻を軸に回り出していた。仙台と福島は帰郷するに困難な距離ではないが、家に戻っても亭主というよりはお客様扱いで落ち着かない気分だったのだろう。 それにしてもと、再び思う。なぜ彼はこれほど厭世的になったのだろう。判らない。「なったからなった」としか言いようがない。敢えて言えばホームレスを描くのに彼を登場させた作家の失策だった、としか。 語り手の天皇批判を説く評者が多い。その理由を作者の「在日」被差別が原因だとメタ読みする人がいるが、行きすぎだ。「木を見て森を見ず」的な、断片を自分の差別意識に引き付けて読むのは作者への侮辱になりかねない。語り手は我が子に同日生まれの「浩宮」から一字を拝借して「浩一」と名付けているのだ。確かに天皇に関する記述は多い。平成天皇は同年生まれだし、戦後間もないころ郷里の原ノ町駅で群衆の一人として昭和天皇を出迎えたこと。1964年東京オリンピックの開会宣言を仙台の社員寮で聞いたこと。自殺の日に上野で両陛下を御用車の窓越しに至近距離で観たこと。としつこく書かれているが、偶然に天皇と重なり合うところがあった彼の人生経過を語る際の傍証に過ぎない。彼我の人生比較を反天皇主義の現われとするのは無理があると思う。語り手に政治信条はなく、飼い猫のエミールに直訴させたいと冗談に言ったのは、シゲちゃんだ。「天皇というと直ぐ畏敬してしまう日本人の習性を暗に批判した」と手の込んだ批評もあるが、ここまで来ると語り手の手に余る。 | ||||
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◎ | ||||
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僕には難しくて、理解出来なかった。 でも、だからといって嫌な作品では無い不思議な読後感覚。これが芸術なのかなぁ。。 解るように、成りたいと思った。 | ||||
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文章がやや散文的なのは主人公の心情、思考を表している様でよかった。 相馬の駅前で大勢が万歳と叫ぶ人。自分と同じ年に生まれ、子供まで同じ年に生まれる。 原体験から無意識に、当然の様に崇拝していた人と同じ時代を生き必死に労働し、そしてくたくたになった最後はその人の目に入らない場所に追いやられる。自分は嫁も子供も亡くなったのに という事に、天皇制云々は抜きにしてもとても悲しいものを感じた。 その後娘と孫から心配されるのは嬉しいが、先の2人が亡くなった記憶から万が一にも孫に何かある事も怖かったと思う。思い詰め上野に行ったのは、家族や悲しみから逃げたという意味もあるのかもしれない。 実際、主人公が自死した後にだが孫が津波で亡くなっている。 3世代に渡って、なんて悲しい話なんだろう。 そしてそんな事に全く関係のない、美術館へ行く余裕のある東京のマダムは今日も友人と上野でお話しをしている。 | ||||
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読んで良かった | ||||
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上野公園口には何十回も行った事があります。しかし、この小説を読んだ後に訪れる一回は、その前の何十回の上野訪問よりも深く、複雑でいて正しい眼で上野を感じることができるなと思いました。 上野の雑踏、様々な電車の行き来、あの忙しない感じが小説のリズム感と重なり、今も公園口に立たずんでいるようです。大切にしたい小説です。 | ||||
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よかった | ||||
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東京に住む、東北地方出身者には、堪らない。方言文でした。会話が沁みるねー。 柳美里さんの本では、1番好きだなぁ。 | ||||
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おそらく作者はインタビューを通してあることに気づいたのだろう。 ネタバレを避ける為にはっきりとキーワードは出さない。 それは皆が口に出す事はない、生命として逃れられないもの。 その事態に本人が気づけた時には、命を終わらしたくなるのだろう。 読み進めてそれに気付けたなら、真理の矛盾が理解できる。 その辺りがレビューで取り上げられていなかったので載せてみた。 これが裏テーマとなっていて、気づいた瞬間に散りばめられた文章が一つにまとまっていく。 とても面白かった。 | ||||
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考えさせられる作品でした | ||||
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ジャックロンドンや松原岩五郎がどん底の生活に入り込んで書いた作品を読んだことがある。 戻る場所がある者が、ちょっと足を突っ込んで、上から目線で汚い汚いと言う。 でも、それすらしないよりはずっといい。 あとがきのエピソードにあるように、ある人とない人では違うのだ。 わかり合うことはない。 才能ある人がない人の気持ちを理解することができないように。 誰かを一方的に批判するために、分かった顔をして「わたしたちが」とか言って、その時だけ利用するのは嫌だと感じた。 でも、それすらしないよりは、ずっといい | ||||
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福島は両親の故郷であり、上野公園は母親につれられて幼い頃から訪れていた場所だ。長じてからも上野駅は通学や通勤で必ず通る場所となり、子供ができてからは動物園に親子連れで訪れたりもした。そんな自分にとって馴染み深い場所が登場する本作は、読んでいてあの景色が蘇るようだった。自分の人生のただの背景だと思っていたもの。自分の人生にいつもあったもの。あったのに見ようと、感じようとしなかったもの。そんな様々なものを淡々と再び眼裏に映し出され,突き付けられるような思いを味わった。 余談だが、福島の方言がものすごくリアルだった。 | ||||
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柳美里さんの小説は知らなかったのてすが、米国の文学賞を受けたと聞いて読みました。文学的素養の高さは別に、内容に限った印象を述べます。余りに悲しい結末で、後味悪く読み終えました。主人公のモデルは実在しないことを祈ります。長男の死の部分は不条理で、急な妻の死、孫娘の死、最後に主人公の自殺は余りに酷でした。家族のために出稼ぎで働き、苦労は報われなかったのは、貧乏生活で借金取りに嘘をついた罰の因果なのか、それにしても孫娘に遠慮して家を出たくだりが理解出来ませんでした。孫娘は祖父の世話をするため、家に来なければよかった、津波にも遇わなかったのに。上野公園の山狩りの実態を訴えたかった意図は十分理解出来ます。真宗の教義、住職の話も訴えるものがありました。ただ、バラの絵展のくだりは長すぎて、意図が理解出来ませんでした。米国の文学賞を受けたのは、余りにショッキングな内容だったからなのか、真宗の教義は理解されたのか、英語の翻訳も読んでみたい気がします。 | ||||
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まさかテーマのひとつが東日本大震災とは思わなかった。読了した今日はちょうど10年前の震災の日だった。昨夜は当時の動画をいくつか見ていたが、撮影者やその周辺からの声が悲痛だった。ずっと悲鳴は続いていた。 そのほかのテーマとしては寒村の貧しさ、新天地を求めての移動、浄土真宗の意味あい、ホームレスへの対応、天皇制への批判ではなかったろうか。「挑んだり貪ったり彷徨ったりすることを一度も経験したことのない人生」と天皇家の人々は上手に批判しているように感じるは自分だけだろうか。つまり、主人公や妻、若くして死んだ人々はまさに、「挑んだり貪ったり彷徨ったり」しているのであってその対極の存在として天皇家を登場させているように感じる。ほかにも自分や亡くなった息子の誕生年をそれぞれ天皇、皇太子と一致させているところに、天皇家に対する著者の思いを感じさせる。暗喩というのだろうか。いい意味ではなく。 山狩りが平成18年(2006年)11月20日で東日本大震災が平成23年(2011年)3月11日なので、山狩りの日のJR上野駅での最後の瞬間、震災の約4年4カ月前なので、麻里の最期は幻影としか思えない。小説の手法としてはないまぜでいいのかもしれないが、厳密にいうと「あっていない」。 全体として主人公や妻の不遇な人生には同情してしまう。虚構であると思うが、あとがきにもあるように多くの取材の中で出会った事実を少し変容させているのかもしれない。しかし、それぞれの人にも楽しい時期、輝く時期は確実にあったと思う。ずっと冷たい雨が降っていたわけではないと思う。何かを際立たせるために、何かを不当に貶めてはいけないと思う。 | ||||
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主人公は昭和8年生まれの福島県相馬郡出身の男です。彼は東北の貧困農村出身者の例にもれず、高度成長期の東京に出稼ぎ労働者として家族を支えた人生を歩んできました。今はどうやら東京の北の玄関口であるJR上野駅の公園口あたりでホームレス暮らしを送っている様子です。彼の脳裏に走馬灯のように、歩んできた人生のドラマがよみがえります。 過去と現在が交互に描かれ、やがて彼自身の生死がさだかでなくなっていきます。時空を自在に超える彼は、ひょっとしてこの世の者ではもはやないのではないか。そう思うと、なにやら中南米文学のマジックリアリズムに近いものを感じて惑乱混迷の気分を味わいました。 昭和から平成にかけての70年ほどの日本の時間軸を、ひとりの男の人生に重ねるこの物語を読みながら、私はかつて見たひとつのドキュメンタリーを思い返していました。1989(平成元)年3月に放送された『NHK特集:東京百年物語』です。少し記憶がおぼろげですが、確か東京に暮らす100歳の老人の人生と東京百年の歴史を、昭和が終わった日を終着点として描いた番組です。30年以上前に見たこの番組を通じて、東京は大勢の名もなき人々が作った街であることをあらためて感じたものです。 この柳美里氏の小説は、まさに東北の名もなき男の人生と東京の歩みとを重ねながら、人を使い捨てにする街・東京の今を描く、このうえなく苦い物語となっています。あとがきで柳氏は、東京・上野のホームレスたちが、天皇陛下の行幸にあわせて排除されていくさまを実際に見聞きして小説の構想を練ったと記しています。そしてまた、主人公の出身地・福島が、東京のために電力を作る街になってしまっている現実もあわせて描きます。 この小説は昨2020年に全米図書賞受賞を受賞したことが話題になりました。そのニュースだけをきっかけとして手にした次第です。柳氏の小説を手にするのは、『 家族シネマ 』(1997年)と『 ゴールドラッシュ 』(1998年)以来、実に20年以上ぶりです。日本を見つめ続けるこの作家が今も健在だということがうれしくなりました。 | ||||
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「自分は一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた」単行本p167 天皇一族と生誕が一緒でも、まったく相見舞えることのない人生を送った主人公。一直線VS乱極線。ホームレスのホームを排除される原因となった行幸の主人公である天皇に手を振る自分がいる。尊崇VS権力への反感。この国のありようにホームレスの視線から厳しく照射している。湯浅誠曰く「滑り台社会」、あっという間に貧困に陥る社会をそう呼んでいるが、自分はそうはならないと誰が強弁できよう。絶対的貧困から相対的貧困になっても、貧困に変わることはない。 日本で出版された当時評価は低く、逆輸入で評価が上昇するってどうなのか。一番苦笑しているのは主人公であろう。 | ||||
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