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星の子



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
星の子
星の子 (朝日文庫)

星の子の評価: 3.71/5点 レビュー 147件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.71pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全95件 61~80 4/5ページ
No.35:
(5pt)

記憶に残る本でした。

普段ミステリーを好むので結びを予想しながら読んでしまいましたがある意味面白い終わり方で考えてしまいました。ちーちゃんはどうやっても芦田愛菜さんに変換されてしまいましたが。回りくどい表現はなく読みやすいかと。信じる、がクローズアップされてますが、私は宗教と衣食住の対比がとても表現されていることに注目しました。ちーちゃんの美味しいものへの欲とか。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.34:
(4pt)

映像化は不可能なのでは?

今村夏子はめちゃくちゃ面白いんだが、ではどこが面白いのか?と聞かれると答えにくくて、お話は、なんだか牧歌的であり、童話みたいでもあり、大きな事件は起こらず、でも、明らかに不条理文学で、カフカの「変身」ならグレーゴル・ザムザは毒虫になるからこそわかりやすいが、ちーちゃんはふつうの人間なのに、あきらかに父母とはべつの生き物で、ラスト、流れ星がちーちゃんにみえ、それを伝えるのだが、父母にはみえず、みえるわけもなく、ずっとみえないはずで、それは、なんなのかといえば、希望とか未来とか、まあ、色々なのだろうが、おそらく互いにみてる世界が違っているので、理解するには薬を飲まされたり、催眠術をかけられたりしなければ、つまり、いまのままのちーちゃんはきえないと理解できない深刻孤独断絶にもかかわらず、ここはあたたかくて、というそういう場所を今村夏子は書いているので、この、文字でしか表現できない精密精緻繊細な世界が映画化されるとはびっくりで、もうそれは、想像できない手法で日常自体が不条理であることを描き切った傑作になるか、たんにストーリイをなぞっただけの、クソツマラナイ駄作になるかの二択しかない、それ自体、なかなか不条理
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.33:
(5pt)

面白い

以前にこちらあみ子、むらさきのスカートの女、と読みまして、
主人公たちが周囲に笑われたり変な目で見られたりしながらも、
一方で、自分の意志で生きているような感じが好きだったりして、面白いなぁと思っていました。
今回も素晴らしい空気感にため息をつきながら、時に笑いながら読みました。
公園にいた主人公の両親について主人公が語った際につぶやいた友人とその彼氏のセリフにかなり笑いました。
映画化されるとのことで、この独特の雰囲気を作者以外の方が表現するというのはとても難しそうな気がしますが、
映画は映画でまた別のものができて、それはそれで面白いんだろうなぁとぼんやり楽しみにしています。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.32:
(5pt)

不幸とは何か。悪とはなにか。

主人公視点では幸せな暮らしであるが、外野視点では可哀想な状況である。主人公自身がそのギャップに気づき始める分岐点で物語が終了する。
作者は主人公の暮らしを幸せそうに描いていた。私はカルトに悪印象しかなく、内面の内輪での繋がりの強さを意識したことがなかった。愛に不足していたり孤立を恐れる現代人にとってこの作品で描かれている人との繋がりは理想的な環境であるようにみえた。その環境は主人公にとっては善であるが、外野からみると悪なのである。
一番の不幸は主人公の幸せが外野からみると不幸であるということである。
また、一番の悪は相手にとっての善が主人公にとっては悪であるかもしれないということである。つまり、アンパンマンやその他ヒーロー映画のように完璧に善と悪が別れている訳ではないということである。

私はこの作品のラストをどう解釈するか悩み、二回読み返した。二回とも家族愛というよりは恐怖や悲しみを感じた。
1回目は貧困や娘を手放したくない気持ちから一家心中をするラストと思った。それは両親がお風呂を気にしていなかったり、娘が帰りたいといっても帰さなかったり、海路さんたちのくだりの描写があったからである。
2回目は最初の方のページを読んだ時に、ラストと同じような描写があり、考え方が変わった。
この時点で主人公は15歳。姉が家を出たのは16歳。薄々自分がこの環境に違和感を感じているが否定をすることはできない。また両親も娘を手放したくないという気持ちが強く、娘にしがみついていたと感じた。家族一緒もういることは出来ないということが描かれた悲しい描写であると感じた。

一般的にカルトは悪を象徴するものであるのにこんなに温かな物語を描いていることに驚きがあり引き込まれた。あまり普段小説は読まないが、作者の他作品も読んでみたい。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.31:
(4pt)

あっという間に読了しました

王様のブランチ、読書コーナーにて「芦田愛菜主演で映画化決定」のナレーションを聞き気になりたまたま出先で見かけた書店へ。
見つけられなかったのでこちらにてサンプルを読み、いつも製本されたものを手にするので本を買う気でいましたが、すぐにでも読みたくなりKindle版デビューしました。

現在私は21歳ですが、幼少期暴力やネグレクトを受けていました。
10歳、中学生の時は毎年、児童相談所がやってきて「一時保護施設施設に行かないか、」「殴られてるでしょう?」と言いに来ます。登校班や学校では、いつもなぜか冷ややかな目で見られ居心地は悪く友達もいませんでした。
ですが私は殴ってきた母のことも、いっ見て見ぬふりする父のこともかばい、なにもされてない。と言っていました。
そして今になっても一人暮らしをする気にはなりませんし、結婚するなら婿入りがいい、早くこの2人を楽にしてやりたい、と思う日々です。
私もやはり心の中で
「この2人は私がいなければどうなってしまうか」
「私が守ってあげよう」
「私もこの人たちがいないと生きていけない」
「私の出来が悪いせいで、母は私を殴り、父は逃げてしまうようになったから。」
と思っているからです。

自分語りのようになってしまいましたが
この作品の中盤のシーンにて、私も主人公に強く共感してしまい少し胸が痛くなりました。
そして、とても自分の心と向き合う時間にもなりました。

「芦田愛菜が主人公で映画化」
という言葉に惹かれ購入しましたが、久々に本を読むいい機会になりました。
昼に購入し、あっという間に読了しました。

これからたくさん本を読もうと思うきっかけになりましたし、自分の心と向き合ういい機会にもなりました。

思えば、私の両親は、主人公のように私を愛してもいないだろうし愛された記憶もないけれど、でも私はこれからもこの家を離れる気はありません。
考えさせてくれてありがとう。作者様。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.30:
(5pt)

読みやすい。

一気に読んでしまいました。
宗教について、宗教に関わる人の気持ちについて、家族の気持ちについて、色々なことを読後に自然と考えだしました。
終わり方がとても好きです。最初に読んだ時は落丁してるのかと思いました。結果とてもいい終わり方だったなと思える不思議な幸せな終わり方だと感じました。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.29:
(5pt)

星の子

とても保存状態が良く
これから読んでゆく楽しみを
感じつつ読み進めて行きたいです。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.28:
(4pt)

子を思う親の気持ち、親を思う子の気持ち

決して不幸じゃないと思うのです、この親子。お互いを思いやって、痛いくらい辛いです。文章の中に、主人公が客観的に見てしまう【親】の部分があるのですが、泣くのをこらえるのが精一杯くらい辛かったです。物語自体、淡々と進み、終始ふわっとした感じの物語です。ですが、考えるところが沢山ありすぎて。昔観た映画の「ライフイズビューティフル」の感覚に近いような気がしたのですが...私だけでしょうね。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.27:
(5pt)

「ウイルスに負けない体を作ろう」は宗教の喩えかもしれない

本の帯の「主演 芦田愛菜」に惹かれて,今村夏子さんの『星の子』を読んだ。中学3年生の林ちひろが主人公の,新しい宗教を信じる家族の物語である。印象に残ったのは,南先生が「ウイルスに負けない体を作ろう」というプリントを読む場面である。「誰もがウイルスに感染するとは限りません。ではなぜウイルスに感染する人としない人がいるのでしょう。その違いは一体何なのでしょう。……免疫力。」著者が意図したことか,そうでないことかは分からないが,この「ウイルス」を「宗教」という言葉に読み替えると,何か宗教を暗示しているような気がした。「神聖な場所で見る神聖な星は人の運命を変える力を」持つ。ラストは,年に一度の星々の郷の宿泊施設で,主人公と両親が夜空を見上げ,みんなで流れ星を見るまで,いつまでも星空を眺めつづけた,という場面で終わった。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.26:
(5pt)

優しいけど痛い

胸がぎゅっとするほど辛いシーンもあるのですが、主人公目線で淡々と進んでいくのが不思議と心地良く、あっという間に終わってしまいました。見たことあるようで、でも全く見たことの無い日常のカケラを、繋ぎ合わせたお話し。

読後の感想は人によって違うと思います。

二連休の前の日とか、体は疲れてるけどトロンと読書したい時にオススメの一冊。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.25:
(4pt)

ラストの解釈は人による

宗教という難しいテーマを、否定も肯定もせず淡々と描いている。確かに、物心ついたときには既に家庭の中にはこの新興宗教が入り込んでいた主人公にとってその存在を疑問に思わないのは当然である。
思春期になるといくつかの出来事をきっかけに自分の親がおかしいのでは?と思い始める主人公も結局教団のイベントに参加し続けていて、そういう家に産まれると案外そんなもんなのかもなと思わされた。
印象的なラストは賛否あるようだが、私はこの終り方がとても気に入っている。
奇妙な宗教にどっぷりの親が、けれど主人公を愛する気持ちは宇宙より大きいのを感じたし、全ての始まりもまた主人公への愛故だったわけだ。
しかしそれがよくわかるシーンであると同時に、不穏な空気も漂わせている。
何度も繰り返される流れ星の会話と、少しずつ近寄る両親。これが娘を解き放ち叔父夫婦へ預ける決意の表れなのか、はたまた離したくない一心で忍び寄る影に攫わせるつもりなのか。
読み手に委ねる終わり方ではあるが、個人的にはハッピーエンドであってほしい。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.24:
(4pt)

ある一家(主人公)を多面的な視点から描いた本

次女の健康上の問題から新興宗教団体に属する事となった家族の変化と、それを取り巻く社会(学校、近隣住民、親戚)からの多面的な視点から描いた本です。周囲からすると異常に見える信仰上の行動が、当の本人からすると若干の違和感を感じながらも生活の中に組み込まれているさま、周りとのギャップを感じながらもそれを受け入れていかざるを得ない子供心境など、ストーリーや文体は淡々としているのですが、読者に何かを感じさせる、そんな内容になっています。周囲(マジョリティー)からすると異常な事も当の本人(マイノリティー)からは普通となっており、それを感じながらも何とか上手く行きていく子供の姿には考えさせられるものがあります。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.23:
(5pt)

胸がかき乱される物語

一見淡々としたわかりやすい文章から、主人公の負うものの過酷さが逆に鮮明に見えてくる。
読み進めるうちに胸がかき乱されて、基本的には心優しい人々がうまく生きていけないことや、自分自身の中にしかない答えをなかなか見つけられないことへの虚しさを覗き込んでいるような気持ちになりました。
さまざまな解釈ができる深い表現でこの作者、この作品のファンになりました。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.22:
(4pt)

〈普通の人々〉の生活世界

(※ 本稿は、本書初版単行本のレビューの再録です)

今村作品は、『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』に続いて3冊目。
本書『星の子』は、芥川賞候補作になった作品だが、前の2冊に比べると、しごく真っ当な小説に仕上がっていて、若干の物足りなさを感じた。

題材的には「新興宗教」を扱っており、語り手は新興宗教の信者家族の娘で、たしかにその少し変わった家族の様子や、周囲との軋轢なども描かれているので、そこに何か意味慎重なもの、特殊なものを読み取ろうとする人もいるのだろうが、私としては、これはごく普通の家庭の、ごく普通の素直な娘の、意外に波乱の無い「小市民的生活」を描いた小説だと感じた。

信仰宗教だから何か「おかしい」はずだとか、周囲との軋轢がもっとあるはずだとかいうのは、信仰宗教に対する先入観による色眼鏡的な評価であって、少なくともこの小説は、そのような「世間並みの偏見」の上には書かれておらず、普通に新興宗教を信じ、周囲との若干の軋轢をさほど大きな問題とは考えず、自分たちの信じたものに素直に生きている人たちの物語だと、私にはそう思えた。

かく言う私も、幼い頃から新興宗教に入信した家庭の子供であったし、大人になってからは、あるきっかけで信仰批判者に転じたのだけれども、しかし、だからと言って、新興宗教の信者たちが、世間並みにまともで、世間並みにいい人たち、いや、世間並み以上にいい人が多い、という評価は、今も変わっていない。

私が宗教や信仰を批判する場合、そこで問題にするのは、いわゆる知識階級の人たち(つまり、指導者階級)の論理的一貫性の問題であって、普通の信者には、もともとそんなものを求めはしない。なぜなら、普通の人は、新興宗教の信者であろうと、無宗教者であろうと、論理的一貫性なんてことなど問題にもしなければ、そもそも考えたこともないからである。

例えば「私は宗教なんか信じません」と言っている人の大半が、なにかの危機的な局面では、心の中で「神さま、どうかここだけは助けてください」と祈ったり、観光で有名神社の境内などに入ると何か「清浄感」を感じたり、結構しばしば無根拠に自分の直感を信じたりなどしているのだから、そんな人が新興宗教の信者を特別視するのは、他ならぬ自分も、そして他人をも見えていない証拠であって、論理的一貫性なんてものについては考えたことのない証拠なのである。

そして、そんなふうに「世間の普通の人々」を見ている私からすれば、本作の主人公やその家族は、非常にまともで素直な「暖かい家族」だとしか言いようがない。
たしかに、その宗教の部分に引っかかってしまう人(近親者)がいるというのは避けられない事実だが、それは家族を含めた「他人に期待するものの違い」として、仕方のないことなのではないか。
それはちょうど「面食い」といっしょで、そこにこだわるかこだわらないかは、所詮は個人の避け得ない個性の問題で、良し悪しの問題ではないからである。

私の場合、宗教には厳しいが、それは宗教に完璧を求めるから厳しいのであって、宗教を見下しているから厳しいのではない。
普通の信者のように、結果オーライではなく、首尾一貫して欠けるものがない真理を体現するものとしての宗教を求めるから、新興宗教は無論、世界宗教だって、ぜんぶ基本的にダメだ、となるのであって、人間が完璧でないのは初めから分かっていることだし、だからこそ、普通の人に求めるのは、そういうところではないのだ。

本書に描かれた主人公の家庭は、とても素敵なそれであり、主人公はとても素敵な、家族想いのお嬢さんだと思う。それでは、文学にならないとでも思うのなら、それも文学についての「権威主義的な偏見」だと、私は思う。

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 

【補記】(2019.07.12)

以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。
つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。
なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。

『こちらあみ子』(2)
『あひる』(4)
『星の子』(3)
『父と私の桜尾通り商店街』(5)
『むらさきのスカートの女』(1)

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 あなただって変な人:今村夏子論(拡張版)
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』

本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。

現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。

今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。

おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。

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 ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』

今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。

本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。
しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。

さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。

例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。

これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。
「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。
また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。

そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。
これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。

つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。

私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。

それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。

つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。

私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。

しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。

今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。

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私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。

よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。

しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。

「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。
「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。

例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。
なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。

「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。
そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。
しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。

「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。
彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。

「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。
「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。

「モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。

「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。

こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。

たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。
もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。

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星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
4022514744
No.21:
(4pt)

〈普通の人々〉の生活世界

今村作品は、『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』に続いて3冊目。
本書『星の子』は、芥川賞候補作になった作品だが、前の2冊に比べると、しごく真っ当な小説に仕上がっていて、若干の物足りなさを感じた。

題材的には「新興宗教」を扱っており、語り手は新興宗教の信者家族の娘で、たしかにその少し変わった家族の様子や、周囲との軋轢なども描かれているので、そこに何か意味慎重なもの、特殊なものを読み取ろうとする人もいるのだろうが、私としては、これはごく普通の家庭の、ごく普通の素直な娘の、意外に波乱の無い「小市民的生活」を描いた小説だと感じた。

信仰宗教だから何か「おかしい」はずだとか、周囲との軋轢がもっとあるはずだとかいうのは、信仰宗教に対する先入観による色眼鏡的な評価であって、少なくともこの小説は、そのような「世間並みの偏見」の上には書かれておらず、普通に新興宗教を信じ、周囲との若干の軋轢をさほど大きな問題とは考えず、自分たちの信じたものに素直に生きている人たちの物語だと、私にはそう思えた。

かく言う私も、幼い頃から新興宗教に入信した家庭の子供であったし、大人になってからは、あるきっかけで信仰批判者に転じたのだけれども、しかし、だからと言って、新興宗教の信者たちが、世間並みにまともで、世間並みにいい人たち、いや、世間並み以上にいい人が多い、という評価は、今も変わっていない。

私が宗教や信仰を批判する場合、そこで問題にするのは、いわゆる知識階級の人たち(つまり、指導者階級)の論理的一貫性の問題であって、普通の信者には、もともとそんなものを求めはしない。なぜなら、普通の人は、新興宗教の信者であろうと、無宗教者であろうと、論理的一貫性なんてことなど問題にもしなければ、そもそも考えたこともないからである。

例えば「私は宗教なんか信じません」と言っている人の大半が、なにかの危機的な局面では、心の中で「神さま、どうかここだけは助けてください」と祈ったり、観光で有名神社の境内などに入ると何か「清浄感」を感じたり、結構しばしば無根拠に自分の直感を信じたりなどしているのだから、そんな人が新興宗教の信者を特別視するのは、他ならぬ自分も、そして他人をも見えていない証拠であって、論理的一貫性なんてものについては考えたことのない証拠なのである。

そして、そんなふうに「世間の普通の人々」を見ている私からすれば、本作の主人公やその家族は、非常にまともで素直な「暖かい家族」だとしか言いようがない。
たしかに、その宗教の部分に引っかかってしまう人(近親者)がいるというのは避けられない事実だが、それは家族を含めた「他人に期待するものの違い」として、仕方のないことなのではないか。
それはちょうど「面食い」といっしょで、そこにこだわるかこだわらないかは、所詮は個人の避け得ない個性の問題で、良し悪しの問題ではないからである。

私の場合、宗教には厳しいが、それは宗教に完璧を求めるから厳しいのであって、宗教を見下しているから厳しいのではない。
普通の信者のように、結果オーライではなく、首尾一貫して欠けるものがない真理を体現するものとしての宗教を求めるから、新興宗教は無論、世界宗教だって、ぜんぶ基本的にダメだ、となるのであって、人間が完璧でないのは初めから分かっていることだし、だからこそ、普通の人に求めるのは、そういうところではないのだ。

本書に描かれた主人公の家庭は、とても素敵なそれであり、主人公はとても素敵な、家族想いのお嬢さんだと思う。それでは、文学にならないとでも思うのなら、それも文学についての「権威主義的な偏見」だと、私は思う。

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 

【補記】(2019.07.12)

以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。
つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。
なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。

『こちらあみ子』(2)
『あひる』(4)
『星の子』(3)
『父と私の桜尾通り商店街』(5)
『むらさきのスカートの女』(1)

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 あなただって変な人:今村夏子論(拡張版)
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』

本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。

現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。

今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。

おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。

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 ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』

今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。

本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。
しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。

さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。

例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。

これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。
「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。
また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。

そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。
これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。

つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。

私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。

それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。

つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。

私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。

しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。

今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。

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私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。

よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。

しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。

「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。
「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。

例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。
なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。

「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。
そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。
しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。

「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。
彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。

「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。
「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。

「モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。

「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。

こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。

たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。
もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。
星の子Amazon書評・レビュー:星の子より
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No.20:
(4pt)

買いです。

数時間で読み終えてしまいますが、作中のいたるところに伏線であったり、余白であったりが織り込まれているので、読後に曰く言い難い余韻が残ります。
星の子 (朝日文庫)Amazon書評・レビュー:星の子 (朝日文庫)より
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No.19:
(4pt)

初めての作家の初めての作品

初めての作家の初めての作品を読了。宗教にはまる両親と、自分との葛藤が興味深く描かれている感じです。このテーマで小説が一冊書けるんですね。他の作品も読んでみたくなりました。
星の子 (朝日文庫)Amazon書評・レビュー:星の子 (朝日文庫)より
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No.18:
(5pt)

少女視点の物語であることを忘れてはいけない

ラストは怖い。
読み終えた瞬間震えた。

主人公ちひろの小学生から中学生時代の視点で物語は進む。
後年の回想や第三者視点の三人称のようなものはなく、最長でも中三時に小学生時代を回想した内容や母の育児ノートで知った事実しか出てこない。

そんな視点の中では、両親は霊感商法にハマって貧乏になってはいるが、幸せそうに見える。
教会の子供たちはみんな素直で、お互い過ちがあったら謝り合えるし、集会は学校よりも楽しく過ごせる。
ちひろ視点では、「おまじない商法+自己啓発セミナー」みたいなもので、悪い印象はないのだ。

小中学校で同じ学校に通う友達もいるので、引っ越してもほぼ同じ地域にいると見られる両親は近所の評判になっているはずで、学校でいじめもあったはずなのだが、ちひろ視点ではそういう描写はない。
中三時に、あこがれだった男性教諭から傷つけられても、クラスメイトはすごくいい子たちばかり(ちひろ視点)なのだ。

しかしもちろん、外には妹夫婦の人生を救おうとする叔父たちもいる。
両親がハマっていく状況を見ていて止められなかった姉は、高校にいかなくなり自傷行為を思わせる状況の末、家出してしまう。

外から見れば、不幸な家庭の不憫な子供であるちひろなのだが、当の本人は両親大好きで今の状況をあえて崩したくはない。
とはいえ、中三にもなると両親の行動の異常さは感じていて、外の人の視点も気にはしている。
叔父の家族は過去の強硬手段とは一転して粘り強く両親と話を重ね、ちひろにも優しく手を伸ばす。
ちひろにとっては分岐点的な状況で物語は終わる。

とくに何も起きない。

モンスターが姿を現すまでが恐ろしいホラー映画のように、ここで終わるから怖い。
両親や姉のその後やちひろの成長後が描かれていたら、モンスターが現れた後の興ざめな結末にしかならないだろう。
星の子 (朝日文庫)Amazon書評・レビュー:星の子 (朝日文庫)より
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No.17:
(4pt)

面白かった

「え?おわり?」
と思ってしまった私は、話にオチがあることに慣れてしまっているのだろうか。

ハラハラドキドキ、最後にドンデン返しの裏切りですっきり…と言った類の小説はたくさんあるが、『星の子』は違う。
一人の少女の生活の一片が語られている、そんな感じだ。
主人公ちひろの人生は、小説が終わっても静かに続いていくのである。
星の子 (朝日文庫)Amazon書評・レビュー:星の子 (朝日文庫)より
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No.16:
(4pt)

何を信じる?

病気がちな女の子として産まれたちーちゃん。か弱い娘をどうにかしたくて新興宗教にどっぷりとはまる両親。そんな家庭環境に生まれた時からおかれてるちーちゃんは、両親を信じ、友達を信じ、宗教の仲間を信じる。

新興宗教側から見た日常を描くと、こんな感じになるのかなと想像する。新興宗教を弾劾する作品ではない。一般的に胡散臭いものと思われるものでも、当事者からしてみれば純粋な存在である。チャラチャラした男を好きになるのも、そこに信じる何かがあるわけで、信じることについては、新興宗教も人を好きになること、友達と過ごす日常も、等しく人間の純粋な気持ちが生み出すものだ。

偏見とは自分勝手な概念だ。ちーちゃんのニュートラルな行動を見ると、偏見を持たないことがどれだか難しいのか思い知らされる。
星の子 (朝日文庫)Amazon書評・レビュー:星の子 (朝日文庫)より
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