■スポンサードリンク
Self-Reference ENGINE
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
Self-Reference ENGINEの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.60pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全10件 1~10 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
1人の主人公を通して物語に入っていく自分には良さがわからず。でもそうかといって買って損したかというとそうでもなく、こういうのも「物語」なのかと自分の思い込みを払いのけてもらえました。頭の良い人ってやっぱりすごいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本を買った理由は二つあります。ひとつは、円城塔氏がフィリップ・K・ディック特別賞をアメリカで獲得したという事です。ディックはわたしの大好きな作家なのです。1960年代の作家ですが、今でも、いろいろな映画の原作になっています。一番有名なものは、『ブレードランナー』でしょう。『ペイ・バック』とか『トータルリコール』等も。ほんとにたくさんの映画があります。彼の原作と意識されていなくても。円城氏のこの本を読んだところ、なるほどフィリップ・K・ディックの賞に相応しいなと感じました。 そしてもう一つの理由が、日本語の本が英訳されてアメリカで賞を取ったということです。つまり、日本語がコンテキストなのです。ワールド・リタリチャーには、「ワールド・リタリチャーと複数形のワールド・リタリチャーズ」があります。単数形のワールド・リタリチャーは、それぞれの国の文学の中で「世界的な観照」に耐えられる作品を意味します。 そして、それらの国々の作品が日本語に訳される時、日本語とその言語との微妙なニュアンスの違いが生じます。完璧に日本語には訳しきれません。そんな作品をわたしが読むとき、その真実は彼らの側(書いた側)にあるのです。訳された日本語が間違っているわけではないのですが、日本語に訳しきれないということです。同じ意味を持つように表現することが困難なのです。 日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳されます。彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているのだということに。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、英語スピーカーたちはなかなかこの真実を受け入れません。 『Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。この本の根幹は時間軸が崩壊し過去も未来もぐちゃぐちゃにこんがらがっている状況です。そんな中で話が展開しています。だから、「明後日の方向」というのは、文字どおりの意味で理解されうるということですが、日本語としては、「明後日の方向」とは、「デタラメ」という意味を含んでいます。この二つの意味が相まって、日本語での本は話に厚みが出ます。が、英語では、意味が一つとなります(英語にはそんな表現方法はないと確認済み)。 あるいは、主語を明確に表現しない日本語でも我々は、何が主語かわかりますが、訳された英語では、主語が間違っていることがあります。そんないろいろな間違いに、「真実は我々の側にある」と主張できる幸せ(倒錯してますね、わたし)。とにかく、わたしが言いたいことは、文化の違いを謙虚に受け入れること。我々は、パーフェクトにお互いを理解し合える存在ではないのです。 それは、時間軸が狂った世界で、お互いが別々の違った方向に進んでいるのと同様に、時間軸の狂っていないこの現実世界でも、我々の意識は必ずしもリンクしないのだという事実。つまり、我々は、「ひとりひとりが常に異次元の世界に住んでいる」のです。 この本は円城氏の処女作のようですが、処女作にありがちな、あらゆるものが詰め込まれた装飾過剰な作品になっていると思います。第一に「イベント」が余分なのでは。イベントとは世界の時空間が混乱した瞬間のことを指しています。そのイベントが起きてからの混乱した状態の描写です。それぞれのショート・ストーリはイベントに関連していますが、イベントを中心に置かなくとも、それそれぞれの話だけで「ある時イベントが起った」という事実を暗示した方がスッキリするような……。 あとがきの解説文を読むと、円城氏はこの「イベント」というものを出汁にして、ただハチャメチャな世界を書きたかっただけだと感じます。彼は「あさっての方向」という言葉に惹かれてこの本を書きだしたのではとさえ思えます。芸術家とはそんなものでは。人々は、つい、芸術家の意図を読み取ろうと勝手に難しい理論を組み立てて「こんなことを言いたいのだ」と解説します。が、実体は、ほんとに単純な動機だと思いますよ。 ある作家は、「単なる状況をただどれだけ長く描写する事ができるかを試してみたかっただけだ。」と作品について述べています。また、画家にしても「ある色とある色の組み合わせが美しかったから、その組み合わせの美の極限を描いてみたかった。」と。わたしは芸術家ではありませんが、わたしの彫金の作品を見て、「これは何を表わしているの?」とよく聞かれました。わたしはいつも適当に答えていましたが、作品制作の動機は、「平らな面に滑らかな曲線を持った凹みを入れたら美しいだろう」と言ったような単純なものでした。 円城氏の文を読んでいると、星新一氏の影響を受けているんじゃないかと思わされます。または、落語。言葉あそび。だから、それだけに留めておけばよかったのにと。イベントを中心に添えると、勢いその説明に追われてしまいます。通常ではない世界を舞台にするのは、フィリップ・K・ディックの得意なところですが、彼の場合は、その正常でない世界が、ただ「ある」と言うだけです。そんな世界で、人々はその世界の説明を求めるではなく、普通に普通ではないことをしています。円城氏は、too much あるいはtoo lessです。つまり、通常でない事を描き過ぎる、世界を説明し過ぎる、そして、その世界に生きる人々の日常性を描き切れていない。そんな感想を持ちました。 余分ですが、ひとつ面白いことに気付きました。英語の先生と『Self-Reference Engine』のプロローグと一作目の「Bullet」を読みました。二人には感じ方の違いがあったのです。 わたしは、Bullet を読んで、この主人公の3人は、中学生くらいの少年・少女と思いました。イギリス人の先生は、「大人の男と女」と感じたようです。それは、言うことがスマートだからと。わたしは、彼らの言うことは、どことなく、コミックブックの主人公の子供たちの表現と似ていると思いましたが。実際には、13歳の少年・少女でした。 先生は(イギリス人の男性、30歳くらい)、想像の世界にスンナリ入っていけないようです。つい最近聞いたラジオ番組で、ゲームのイベントをしている人(かなり有名なようですが、名前を忘れてしまいました)が言っていました。「いろいろな国でゲームのイベントをしているが、想像の世界にスッと入っていけるのは日本人だけのようだ。」と。カフェで、「ここは列車の車室です。」と設定すると、日本ではたいてい「はあ、そうですか。」となるが、他の国では、「なぜだ。ここはカフェじゃないか。」と言いだす人が必ずいるそうです。 Bulletの中で、「リタ(少女)は頭の中に弾丸を持っているのだが、それは、母親が撃たれた時、リタが母親のお腹の中にいたからだ」、という描写がありました。先生の反応は、「頭の中に弾丸があって、彼女は死なないの?」でした。わたしは、「ああ、弾丸が入っているのか。」という反応。 それなら、過去でリタが撃たれたことになるので、明後日の方向に銃を撃ちまくるのはおかしい。過去の方向に打つべきなのではと思いました。で、読んで行くと、「リタはある時点で撃たれた。そしてその衝撃で過去の方向に押しやられ、母親の子宮に戻ってしまった。そして、この世に生まれて現在の13歳の時点に来た。この時、リタの頭の中に弾丸はあるがまだ撃たれてはいない。だから、これから彼女を撃つであろう未来の方向の人物に向けてガンをぶっ放し続けているのだ。」と。どうですか。 わたしは、「はあ、そうですか。」と思いました。先生は、「それでは、リタは2回生きているの?」って。どうでもいいじゃん、そんなこと。でしょ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
カートヴォネガットの翻訳でこの著者を知りまして手に取ってみました。 途中で読むのを辞めたら何だか自分に負けたような気がして、最後まで読み通しましたが、うーん。 内容の感想ではなく恐縮ですが、表現が不必要に難解なように感じてしまい、何とも疲弊してしまいました。 カートヴォネガットと方向性は全く異なります。 一つの表現としてこのようなものを否定することは望みませんが、ちょっと合わなかったかな。小難しい雰囲気が好きな方は手を取ってみてはいかがでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読者と作者をつなぐ言葉、僕が手にしているのはそれらを収納した黄色い表紙の本。たしかに存在している。だけども「存在していない私の非存在は、原理的に全く知られようがない。だからあなたが見ているのは私ではありえない。たとえ私が、あなたに見られていることを知っているにせよ。このことを私は多少申し訳なく感じている」とエピローグにはある。 「すべての可能な文字列」としての言葉が私なのか?プロローグには「しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保証はまったくのところ全然存在しない」とある。そう、僕は本書を読み終えたとき、あまり楽しんだ記憶がないことに気づきました。19の短編がそれぞれ断片として一つの大きな作品を構成するようになっているのですが、プロットがあくまでもプロットのままで波風立てず、物語という巨大な大渦に翻弄されつつ、作者が仕掛けたもののそれ以上に底知れぬ中心部へと言葉が一つ一つ収斂していく様をどこか冷めた目で眺めているという読者の特権を享受可能な高みまで本書は連れて行ってくれなかったのです。 数学や論理学、物理や宇宙論や量子論、無限と集合論といった様々な知的アイテムがちりばめられ、ユーモア小説、おバカSF、ボーイ・ミーツ・ガールもの、滑稽本風といったドタバタ、メタメタ、ベタベタの趣向もなかなかなものと思いましたが、一言でいうとピンチョンの作品には見られる穴、あるいは突出としてのパッションがないように思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
楽しく読み終えたものの、輪郭のぼんやりした時空間イメージが後味として残るためか、スッキリしないし、当然ながら感動もしませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
AtoZ theory まで読んでこれ以上読むのは時間の無駄だと判断し本を閉じました。 読了してないため評価しようがないし星はつけられません。 星は三つですがゼロと五つ星を同時に表示する方法がないためだということをご理解ください。 中身については私の独特な読解力の低さと著者の個性ある表現力の高さがせめぎ合い お互いの中に相互理解が見い出すことを頑なに拒絶しあったのを残念に思います。 ただひとつだけ言いたいことは三人称視点の時は一人称視点の文体を引き摺らないで欲しいということです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
文章も表現もどこか小難しくて人によっては数ページで捨ててしまいたくなるような本です。 私も最初はそれに近い感情を覚えました。 しかしそれも読んでいくうちに慣れていくはずですので、合わないけどどうしても読みたい人にとっては少しだけ忍耐が必要な小説です。 内容については私感ですが、ありがちなお話を小難しい言葉と知識で修飾したものだと感じました。 その為、内容の出来を重視する方にとっては駄作になり得るかもしれません。 とにかく小難しい話が好きという方は一読するべきだと思いますが、そうでない方は店先で数ページ流し読みしてから買うかどうかを考えることをオススメします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私自身、SFに精通しているわけではないのが盲点なのか・・・ 作者の意図がよくわかりませんでした。 ただ、技巧は優れているのだと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「Boy's Surface」を読んでその斬新な作風に興味を持ち、 デビュー作である本作を手に取った。一応、近未来に出現する巨大知性体群によって時空を歪められた多次元宇宙世界を描いた連作短編集であるが、それらを断章とする長編とも取れる。だがいずれにせよ物語の意匠がハッキリとせず(これが作風なのであるが)、単に未成熟さを感じるだけの発展途上の作品との印象を受けた。 「Boy's Surface」の巻末の参考文献でボルヘス「伝奇集」が挙げられている。ボルヘスの特徴の一つは、連続的で均一性を持つと考えられている<時間>という概念への疑問提示及び<循環性>(<再帰性>)への拘りである。本作はその影響を受け過ぎており、独自性が発揮出来ていないと思う。例えば、冒頭編「Bullet」は一見シュールな創りだが、ボルヘス的要素を除くと単なる「Boy meets girl」の青春物語である。これを語りのスタイル(「ライ麦畑」に似ている)で誤魔化しているとの印象を免れない。続く「Box」は、まさに<再帰性>をそのまま描いただけである。平易な事柄を、ワザと数学・プログラミング上の概念・用語で説明して難解感を与える演出も目立つが、これは作者の個性であり私的には割と気に入っている点でもある。巨大知性体群が哲学者・思想家・科学者達のメタファーであるらしい事が分かって来ると可笑しみも湧くが、"くすぐり"が弱い点が無限<循環>構造を持つ本作を中途半端で茫洋とした物にしていると思う。 「Boy's Surface」と合わせ、作者は「小説における作者と読者」の位置関係の<循環性>を追求しているように映った。「チューリング・マシンは読者の想像力の方 ?」という程の意味合いである。即ち、知生体を自分のメタファーだと考える読者がいても不思議ではないが、少数だろう。その意味で、本作は読者の想像力を掻き立てるには未だ没個性との感を抱いた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品は 海外の難解なSFをある程度読んでいないと 読むことすら苦労させられる本です。 というよりもこの本に明確なストーリーは 存在しないといっても過言ではないです。 この本の特徴は まず全編通して物語が 「断片状」だということ。 それがこの本が難解だと 言わしめる要因となっているのだと思います。 それと明確なストーリーのなさですね。 ただし、若干関連があるといえば 関連のあるキーワードも見られるので てんでバラバラというわけではないのです。 そう、過去の世界にしても未来の世界にしても つながりは少々は見られるのですから。 この本は あまり深く考えないで読んだほうが いいのかもしれません。 「意味」を見出せる本ではないのです。 他のSFのような常識が まったくといっていいほど通用しない 作品なので。 何かを得ようとはしないで ひたすら読み進める、 それに尽きる本です。 付き合い方を間違えると ムカッとくる本です。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!