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Self-Reference ENGINE
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Self-Reference ENGINEの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.60pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全43件 1~20 1/3ページ
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円城塔「Self-Reference ENGINE 」読了。10年程前に買って塩漬けになっていたがようやく読み終えた。当初は何の話だか掴めず途中で諦めた。ところが昨今のAIの進展を眺めた上で改めて読み返すと大変面白かった。巨大知性体とはAIで多宇宙を介する三体も凌駕する今こそ読むべき先見の本なのかもと思えた。 | ||||
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皆さんのレビュー信じて読み切りました。 購入を促すような高評価はイタズラでしょうか。 ただただ苦痛でした。 | ||||
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1人の主人公を通して物語に入っていく自分には良さがわからず。でもそうかといって買って損したかというとそうでもなく、こういうのも「物語」なのかと自分の思い込みを払いのけてもらえました。頭の良い人ってやっぱりすごいです。 | ||||
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読み物としての面白みは皆無。 オシャレっぽいカバーで理系またはSF系ワードが散りばめられた小説を読んでる自分が好きって感じの人向けですね。 | ||||
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ひとつなぎの連作短編集。わかっているわけではないけど、よかった。 | ||||
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難解だと思えば難解だし、さらっと読めると思えば読める。結論を待つ前にあちこちに飛び跳ねる作者の脳内思考の現れを見ているのだと思えば、あるがままを読めばよいのだということに気が付くのだけれど、この思考に慣れない人というのは世の中には一定数いて、それが良いとか悪いとか、理解力があるとかないとかいう話ではなく、そういう人にはこの本の内容は不快極まりないだろうな、とは思う。 「ゴジラSP」を観てからの読書だったので、ある程度予想というか心構えができていたから楽しめた。 SFの名作だからこれを読めといきなり言われていたら途中で投げ捨てていたかもしれない。 そういう内容なのだというのはあらかじめ知っていてから手に取った方がよいかもしれない、とはお伝えしておきたい。 | ||||
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※わずかにネタバレあります。 セールの勢いで、SF作品なのかなあと勘違いしたまま買ってみました。 章ごとに"イベント"に関して、複数の登場人物たちから語られ最後に結実するのでしょう。 しかし、三つ目ぐらいの章で読むのを諦めました。 まずプロローグ。 くどい言い回しと、何か言ってるようで何も言ってない言葉遊びに自己陶酔したかのような文章が、私にはつらい。 二項定理からモリアーティー教授と話を膨らませていく所は、筆者が寝る前に 微睡みの中でふわっと思いついた内容をそのまま叩きつけてるようにしか思えませんでした。 この脈絡の無さは興味を惹かれないと只々しんどい。 紹介文にあるこの一文は、本当に的を得(射)ています。 たぶんこれを書いた人は心底紹介に困ったんでしょう。 >これはSF? 文学? あるいはまったく別の何か? 全体の2割も読んでない私が言うのもなんですが タイトルのself-reference(自己言及)から、SFっぽい皮を被った幻想風エッセイだと思いました。 | ||||
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久しぶりに小説を読みました。歳をとるにつれて物語を読まなくなっていましたが、とあるゲームアプリで勧められてこの本を読みました。一度読み終えてももう一度読みたくなる、そんな本でした。 | ||||
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この本を買った理由は二つあります。ひとつは、円城塔氏がフィリップ・K・ディック特別賞をアメリカで獲得したという事です。ディックはわたしの大好きな作家なのです。1960年代の作家ですが、今でも、いろいろな映画の原作になっています。一番有名なものは、『ブレードランナー』でしょう。『ペイ・バック』とか『トータルリコール』等も。ほんとにたくさんの映画があります。彼の原作と意識されていなくても。円城氏のこの本を読んだところ、なるほどフィリップ・K・ディックの賞に相応しいなと感じました。 そしてもう一つの理由が、日本語の本が英訳されてアメリカで賞を取ったということです。つまり、日本語がコンテキストなのです。ワールド・リタリチャーには、「ワールド・リタリチャーと複数形のワールド・リタリチャーズ」があります。単数形のワールド・リタリチャーは、それぞれの国の文学の中で「世界的な観照」に耐えられる作品を意味します。 そして、それらの国々の作品が日本語に訳される時、日本語とその言語との微妙なニュアンスの違いが生じます。完璧に日本語には訳しきれません。そんな作品をわたしが読むとき、その真実は彼らの側(書いた側)にあるのです。訳された日本語が間違っているわけではないのですが、日本語に訳しきれないということです。同じ意味を持つように表現することが困難なのです。 日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳されます。彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているのだということに。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、英語スピーカーたちはなかなかこの真実を受け入れません。 『Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。この本の根幹は時間軸が崩壊し過去も未来もぐちゃぐちゃにこんがらがっている状況です。そんな中で話が展開しています。だから、「明後日の方向」というのは、文字どおりの意味で理解されうるということですが、日本語としては、「明後日の方向」とは、「デタラメ」という意味を含んでいます。この二つの意味が相まって、日本語での本は話に厚みが出ます。が、英語では、意味が一つとなります(英語にはそんな表現方法はないと確認済み)。 あるいは、主語を明確に表現しない日本語でも我々は、何が主語かわかりますが、訳された英語では、主語が間違っていることがあります。そんないろいろな間違いに、「真実は我々の側にある」と主張できる幸せ(倒錯してますね、わたし)。とにかく、わたしが言いたいことは、文化の違いを謙虚に受け入れること。我々は、パーフェクトにお互いを理解し合える存在ではないのです。 それは、時間軸が狂った世界で、お互いが別々の違った方向に進んでいるのと同様に、時間軸の狂っていないこの現実世界でも、我々の意識は必ずしもリンクしないのだという事実。つまり、我々は、「ひとりひとりが常に異次元の世界に住んでいる」のです。 この本は円城氏の処女作のようですが、処女作にありがちな、あらゆるものが詰め込まれた装飾過剰な作品になっていると思います。第一に「イベント」が余分なのでは。イベントとは世界の時空間が混乱した瞬間のことを指しています。そのイベントが起きてからの混乱した状態の描写です。それぞれのショート・ストーリはイベントに関連していますが、イベントを中心に置かなくとも、それそれぞれの話だけで「ある時イベントが起った」という事実を暗示した方がスッキリするような……。 あとがきの解説文を読むと、円城氏はこの「イベント」というものを出汁にして、ただハチャメチャな世界を書きたかっただけだと感じます。彼は「あさっての方向」という言葉に惹かれてこの本を書きだしたのではとさえ思えます。芸術家とはそんなものでは。人々は、つい、芸術家の意図を読み取ろうと勝手に難しい理論を組み立てて「こんなことを言いたいのだ」と解説します。が、実体は、ほんとに単純な動機だと思いますよ。 ある作家は、「単なる状況をただどれだけ長く描写する事ができるかを試してみたかっただけだ。」と作品について述べています。また、画家にしても「ある色とある色の組み合わせが美しかったから、その組み合わせの美の極限を描いてみたかった。」と。わたしは芸術家ではありませんが、わたしの彫金の作品を見て、「これは何を表わしているの?」とよく聞かれました。わたしはいつも適当に答えていましたが、作品制作の動機は、「平らな面に滑らかな曲線を持った凹みを入れたら美しいだろう」と言ったような単純なものでした。 円城氏の文を読んでいると、星新一氏の影響を受けているんじゃないかと思わされます。または、落語。言葉あそび。だから、それだけに留めておけばよかったのにと。イベントを中心に添えると、勢いその説明に追われてしまいます。通常ではない世界を舞台にするのは、フィリップ・K・ディックの得意なところですが、彼の場合は、その正常でない世界が、ただ「ある」と言うだけです。そんな世界で、人々はその世界の説明を求めるではなく、普通に普通ではないことをしています。円城氏は、too much あるいはtoo lessです。つまり、通常でない事を描き過ぎる、世界を説明し過ぎる、そして、その世界に生きる人々の日常性を描き切れていない。そんな感想を持ちました。 余分ですが、ひとつ面白いことに気付きました。英語の先生と『Self-Reference Engine』のプロローグと一作目の「Bullet」を読みました。二人には感じ方の違いがあったのです。 わたしは、Bullet を読んで、この主人公の3人は、中学生くらいの少年・少女と思いました。イギリス人の先生は、「大人の男と女」と感じたようです。それは、言うことがスマートだからと。わたしは、彼らの言うことは、どことなく、コミックブックの主人公の子供たちの表現と似ていると思いましたが。実際には、13歳の少年・少女でした。 先生は(イギリス人の男性、30歳くらい)、想像の世界にスンナリ入っていけないようです。つい最近聞いたラジオ番組で、ゲームのイベントをしている人(かなり有名なようですが、名前を忘れてしまいました)が言っていました。「いろいろな国でゲームのイベントをしているが、想像の世界にスッと入っていけるのは日本人だけのようだ。」と。カフェで、「ここは列車の車室です。」と設定すると、日本ではたいてい「はあ、そうですか。」となるが、他の国では、「なぜだ。ここはカフェじゃないか。」と言いだす人が必ずいるそうです。 Bulletの中で、「リタ(少女)は頭の中に弾丸を持っているのだが、それは、母親が撃たれた時、リタが母親のお腹の中にいたからだ」、という描写がありました。先生の反応は、「頭の中に弾丸があって、彼女は死なないの?」でした。わたしは、「ああ、弾丸が入っているのか。」という反応。 それなら、過去でリタが撃たれたことになるので、明後日の方向に銃を撃ちまくるのはおかしい。過去の方向に打つべきなのではと思いました。で、読んで行くと、「リタはある時点で撃たれた。そしてその衝撃で過去の方向に押しやられ、母親の子宮に戻ってしまった。そして、この世に生まれて現在の13歳の時点に来た。この時、リタの頭の中に弾丸はあるがまだ撃たれてはいない。だから、これから彼女を撃つであろう未来の方向の人物に向けてガンをぶっ放し続けているのだ。」と。どうですか。 わたしは、「はあ、そうですか。」と思いました。先生は、「それでは、リタは2回生きているの?」って。どうでもいいじゃん、そんなこと。でしょ。 | ||||
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カートヴォネガットの翻訳でこの著者を知りまして手に取ってみました。 途中で読むのを辞めたら何だか自分に負けたような気がして、最後まで読み通しましたが、うーん。 内容の感想ではなく恐縮ですが、表現が不必要に難解なように感じてしまい、何とも疲弊してしまいました。 カートヴォネガットと方向性は全く異なります。 一つの表現としてこのようなものを否定することは望みませんが、ちょっと合わなかったかな。小難しい雰囲気が好きな方は手を取ってみてはいかがでしょうか。 | ||||
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正直言って内容の半分も理解出来なかったけど、メチャクチャ面白い。小難しい理屈を重ねたホラ話で、SF魂を強烈に感じる。オムニバス短編を22作集めて何かを表現してるのだけど、凡人の頭ではそれが理解出来ない。なのに圧倒的な面白さで、個々の物語は意外に叙情的。豊穣な読書の楽しみを十分堪能する事が出来た。 個人的に一番面白かったのは死んだ老女の家の22畳の床下から発見された22枚のフロイトの話。まあ何の意味があるのかは不明だけど、想像するだけでもおかしいではないか。上質なコントを見せられた気分になった。 まあ誰にでも勧められる類の本ではない。例えば、金田一耕助が犯罪防止に何の役にも立ってないじゃないか、とイチャモンを付けるようなマジメな人はダメだろう。これ以上ないくらいの高学歴で芥川賞まで受賞してしまった天才作家が本気でバカを書いてる。それを面白がるつもりで読書しなければ。 | ||||
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「彼女のこめかみには弾丸が埋まっていて、我が家に伝わる箱は・・・」というサマリーを見て、 『フィネガンズ・ウェイク』みたいなのが送られて来たらどうしようとビビりつつ発注。 ビビっていたのは杞憂でしたが、別の不安にかられました。 内容が無いのです。 二部構成ですが、特に一部の方は、そこで起きている事象に対し、思弁を弄ぶだけで 「一切何の解決も提示されない」 (これは読むだけ無駄と序盤で諦める人がいても仕方がない) それはそれで凄い”文芸”だけれども、全篇これでは飽きてしまうなぁ。 ・・・と読み進めて二部になると、今度はちょっとは展開があり、割りと普通に読める。 話はちょっと戻るが、”Ground256”って、吾妻ひでおの作品でこんなのなかったかな?(『不条理日記』あたりか) とにもかくにも肝は二部である。 異彩を放つ”Yedo”は面白い。 また、”Disappear”の寂寥感や”Echo”のリリカルさに、ちょっと泣きそうな気分になれる人とは 美味い酒が飲めるかも知れない。思っただけで行動には移さしませんが。 解説では明言されてないですが、”Ground256”の世界観(村)は、ディスクドライブのセクタではないか的なことを言ってますね。 ”Infinity”では「この宇宙は平面」であるとも。同作に出てくる32次元は、32ビットのことではなかろうか? 過去の書き換えなんかはお手の物なワケだし、ここで人間とされて名付けられてるのは、サブルーチンの事? いろいろ考えてみると全体的に、PC内部の話なのかも。 話は関係ないんですが、読了のタイミングで『インデペンデンスデイ』の新しいのを観たら 「超知性体」が出てきて笑ってしまった。ははは、こんなんか!みたいな。 脱線しましたが、この作品いいところも見い出せるのだが、結局のところ あまりいい時間つぶしにはならないかも知れない、これは本だ(本書で最も気にかかった表記法を拝借)。 | ||||
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用いられている語句は確かに難しいのですがそれが理解出来ないということは全くなく、楽しく読み終わりました。 しかも一晩で読み終え、読み終わった尻から再読したくなるような小説。 不思議な読後感、小説の新しい形などと言ったら大袈裟になりますが、それを言いたくなるような構成だったり工夫が成されています。 ただ何かしらが解決したり物語が完結したりはしないのでそういう意味でのカタルシスは得られないですね。 そこでの批判はあると思いますし、ちょっと小難しくてよくわからないという人にはお勧めが出来ない一冊。 読書を趣味とするような人間には何も難しくはないと思うのですがそこは人それぞれですかね。 | ||||
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真面目な顔で冗談をいう人がたまにいるが、そのようなノリで描かれており論理的な硬い文体でふざけた事が描かれている。 奇書「ゲーデル・エッシャー・バッハ」を発展させたようなところがあり「自己参照する系」について思索と論理展開を重ねるとこのようなヘンテコな世界が出現する。 文章あたりのアイデアの濃度が非常に濃く、平均的なSF小説100冊ぶんぐらいのアイデアが一冊に濃縮されている。一行読む毎に想像と思考がとめとめもなく広がり読破するにに時間と根気が必要。 要約不能であり、これ以上圧縮できないので感想を書くのも大変であるが、通常の作家であればこの濃度を希釈して書くので、ある意味すごく「お買い得」な本です。 主人公に感情移入し、情景を想像し、物語に身を委ねるタイプの本ではないので読者を選ぶが100年後にも残る傑作だと思う。(100年後には哲学書の扱いになっているかも) | ||||
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読者と作者をつなぐ言葉、僕が手にしているのはそれらを収納した黄色い表紙の本。たしかに存在している。だけども「存在していない私の非存在は、原理的に全く知られようがない。だからあなたが見ているのは私ではありえない。たとえ私が、あなたに見られていることを知っているにせよ。このことを私は多少申し訳なく感じている」とエピローグにはある。 「すべての可能な文字列」としての言葉が私なのか?プロローグには「しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保証はまったくのところ全然存在しない」とある。そう、僕は本書を読み終えたとき、あまり楽しんだ記憶がないことに気づきました。19の短編がそれぞれ断片として一つの大きな作品を構成するようになっているのですが、プロットがあくまでもプロットのままで波風立てず、物語という巨大な大渦に翻弄されつつ、作者が仕掛けたもののそれ以上に底知れぬ中心部へと言葉が一つ一つ収斂していく様をどこか冷めた目で眺めているという読者の特権を享受可能な高みまで本書は連れて行ってくれなかったのです。 数学や論理学、物理や宇宙論や量子論、無限と集合論といった様々な知的アイテムがちりばめられ、ユーモア小説、おバカSF、ボーイ・ミーツ・ガールもの、滑稽本風といったドタバタ、メタメタ、ベタベタの趣向もなかなかなものと思いましたが、一言でいうとピンチョンの作品には見られる穴、あるいは突出としてのパッションがないように思いました。 | ||||
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「難解さ」が売りの駄作の中の駄作です。見事なまでの悪文駄文のオンパレード。こんな駄作に付き合わされとはトホホ我々は、慈善家ではないゾ!【お薦め:こんなくだらないバカみたいな本より、講談社ブルーブックスの物理学関連の本を読んだ方が、より面白く、より有益ですゾ。】・・・(蛇足:関西系のワイドショー?のキャスターが、芥川賞を受賞したこの著者に、時期少し遅れてインタビューに訪れたところ、「なぜ、もっと早くインタビューに来ない!」とご本人様は、ご立腹だったそうです。大した力量もないのに、たかが芥川賞でこの鼻息の荒さ。ホントに〇鹿さんであることを、カメラの前にさらけ出してくれました。見事な証明でした。) | ||||
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独自、独自、孤高。 他では絶対に味わえない領域です。 円城塔、入門編に。 | ||||
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私は数学物理その他いわゆる理数系は全く素養がない、というか全然わからないので、この本は落語の「あたま山」とか「つぼ算」みたいな、バカ話・法螺話の集成として、面白く読みました。最初と最後がつながる(回帰する)のは、目次の構成と文庫本カバー絵からも予測ができますし。 それで読んだあとの感想は、「お話(=言葉)による、お話(=言葉)のための、お話(=言葉)についてのお話(=言葉)だなあ」に尽きます。 あと、「何でもあり」って便利(な言葉)ですね。 で、すごく個人的な感慨ですが、ラストの「エピローグ」は光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』の転輪王を思い出しました。転輪王よりも呑気で飄々として見えるのは、「何でもあり」だからエントロピーゼロも気にする必要が無いってことかなー、でもそれなら、この本(このお話)のあしゅらおうは「リタ」って名前なのもありかもなー、とか。 | ||||
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楽しく読み終えたものの、輪郭のぼんやりした時空間イメージが後味として残るためか、スッキリしないし、当然ながら感動もしませんでした。 | ||||
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AtoZ theory まで読んでこれ以上読むのは時間の無駄だと判断し本を閉じました。 読了してないため評価しようがないし星はつけられません。 星は三つですがゼロと五つ星を同時に表示する方法がないためだということをご理解ください。 中身については私の独特な読解力の低さと著者の個性ある表現力の高さがせめぎ合い お互いの中に相互理解が見い出すことを頑なに拒絶しあったのを残念に思います。 ただひとつだけ言いたいことは三人称視点の時は一人称視点の文体を引き摺らないで欲しいということです。 | ||||
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