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文学部唯野教授の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.35pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全51件 21~40 2/3ページ
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文芸批評、現代思想について印象批評からポスト構造主義、脱構築までコミカルかつパロディぽく、しかし実はかなりシビアに書かれている。その筆はかなり辛辣に批判的に、唯野教授の口を借りながら述べられていく。と同時に絶妙のタイミングで大学を舞台とするドタバタ劇が挿入されている。人間の集中力は概ね90分しか持続できないところを巧みに補い、読み手を飽きさせない。まさに筒井康隆の醍醐味がここに詰まっている。 | ||||
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唯野教授のコミカルで少し下品なお話と“教授”らしい大学での真面目な講義の2つのストーリーが展開される作品。目次を見る限りは講義がメインのように思えるが、どちらかというと講義の間にドタバタ喜劇がある感じだ。あっ、逆かも。ドタバタ喜劇の合間に講義があるのかも。 私は理系なので文系の講義は体験したことがない。でも、こんな劇のように面白おかしく話をしてもらえるのなら受講していて飽きないだろうなと思う。本格的に文学や批評をしている人には物足りないのかもしれないが、素人の私にとっては何かを分かって気にさせてくれた講義だった。これからの読書をさらに良いものにできそうだ。 あっ、あくまでもこれは感想だからね。批評じゃないよ。そんな畏れ多いことできないし。 | ||||
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本書は、早治大学文学部教授唯野仁が、文芸批評理論の講義をする合間に、大学内政治に絡んでドタバタギャグを演ずるというものである。 文芸批評理論の講義だけで半分のページが使われていて、読者は文芸批評理論を学び、自分の読み方の再検討を迫られる。また、著者筒井康隆による文芸批評理理論への反論も読める。 大学内政治の部分においては、大学という権威を茶化し、読者は、大学教授の俗物性を知ることができる。 一つの小説において、読者は2つあるいは3つの要素を楽しめるのである。非常にお得である。 文芸批評理論は、サマリーくらいは知っておくと、小説を分析的かつ体系的に読み、より楽しむことができるだろう。なぜおもしろいのか、つまらないのかを、過去の思想家たちの成果を使って分析できるようになるからだ。 大学内政治については、息苦しい感じられた。大学教授は、各分野においてはちょっとしたものなのだが、ポストが極端に少ないので、「裸の王様」なのである。 | ||||
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この作品は,大学という権威と文学者との間での葛藤が面白おかしく書かれています。 当時購入した際,その痛快さに心を打たれました。 そして自らへの戒めとしています。 今現在(2015年7月),芥川賞受賞者に対する様々なコメントがありますが「純文学」と「そうでない文学」との境目ってあるのかなぁと思っています。 改めてこの小説を手に取り,上記のことを考えさせられました。 大学でなくとも権威,―厳密には知ったかぶり権威&俺様権威―,って滑稽で,でも怖いですね。 只野氏ですら権威には勝てなかったのだから。 | ||||
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「大学の教授は気楽そうでいいな~」という僕の思いを粉砕した一冊。 いや教授は気楽だけどそこに至る過程は・・・いや教授になってもまだまだ・・・大学はある種の聖域だと思いきや・・・こう書くと、とんでもなく悲惨な話と思われるだろうが、そんなことは無い。 爆笑すること間違いなし! | ||||
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電車の中で読んでいて何度恥ずかしい思いをしたことか。 テンポ良く進んでいくストーリーは飽きることが無く、一気に読み終えたくなる衝動を抑えるのが大変なほど。 筒井先生の傑作の1つだと思う。 | ||||
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本の状態は安い割には良かった。 内容はタイトルが硬いのに大変読みやすく、文学初心者必読書である。 ある意味お惚けだが、これがなかったら私のような学生には退屈な文学書で、とても読み通せなかっであろう。 こんな愉しくてお下劣な文学解説書は初めてで、作者の並々ならぬ力量が感じられる。 | ||||
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主人公の唯野教授が誰かと会話をする。 頭の中で思考する。 それらの表現が絶妙な語り口で描かれている。 筒井康隆さんの文章力には脱帽である。 ただ、講義内容がかなり難解で(語り口は相変わらずおもしろいが)そこがちょっと。 星が4つなのはそこの所。 | ||||
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小説は時代を映す鏡のようなものかもしれませんが、再読して懐かしい時代の風俗が蘇ってきました。たしかに、架空の大学の出来事ですが、虚と実がないまぜになっているところが、この作品を魅力的にしている気がします。いまもって売れているのは、日本の大学のアカデミズムの内実が、変わっていないことの証左でしょうか。テリー・イーグルトンの『文学理論』と併読すると、文学理論の流れが一望で来て、批評の入門書として長く読み継がれてきたようです。しかし、私も英文科出身ですが、大学の英文科の教師からこれを読みなさいと推薦されたことは無く、意外と英文科の先生たちは、冷遇してきたのかもしれません。そこもまた興味がそそられるところです。 | ||||
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適当に読み始めましたが、とても面白かった本でした。 主人公の唯野教授(文学批評が専門)は研究の傍ら、 陰で小説も書いている。 そのことが他の大学教員(学内政治が好きで、マスコミを低俗だと語るくせに、 マスコミで取り上げられたいと願っている人びと) にばれないようにしている中で起こる数々の事件。 このようなストーリーと並行して、唯野教授による文学批評史の講義 も披露されます。この記述に感嘆しました。 文学の研究者がどのようなことをやっているか殆ど知らない私には、 現象学、構造主義、ポスト構造主義、ロシア・フォルマリズムなどが、 文学の立場からはこのように見えるのかもしれない、と勉強に なりました。 この本を読むと、哲学系の教養に耳慣れしておく ことができると思います。 | ||||
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日根野が出てくるたび恐ろしく不愉快な気持ちになります。「こんな男が誰からも殴られないですむところこそ大学なのであり、この男のこうした幼児性を肥大させ保護し続けてきたのもまた大学であったのだ。」というくだりなど、「まさにその通り」と首肯ころです。このような教授に卒業論文を提出しなくてはいけない学生が気の毒です。ディフォメされた数々の大学教授を見て、「まさかここまで酷くはないだろう」とも思うが著者に「全国どこの大学でも共通の・・・」と何度も言われては「そういえばうちの大学でも・・・」と思い当たることがあるような。ともかくくだらない「学内政治」ですがこのくだらないものを溜め込まずに作品に昇華してしまった著者の手腕には脱帽です。 | ||||
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これぞ筒井康隆! 大学の内部をここぞとばかりに暴き出し、最高のドタバタ劇を見せてくれるが、講義で描かれる唯野教授の文学批評論はしっかりとした土台があり、大学の講義のひとつとしても十分に読み応えがある。 筒井による「文学批評」「文壇」への、筒井流エンターテインメントを交えた批判であり、それがひとつの作品として面白く仕上がっているというのが、筒井康隆が筒井康隆であるゆえんである。 文学批評に詳しくない人でも十分楽しめる内容になっている点もよい。 | ||||
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昔からの筒井フリーク以外の方に筒井の名を知らしめたと聞く作品。一読すると文学批評論が載っていて、堅い文学作品に見えたのであろうか。内容は、大学の内情及び文学批評論をカリチャライズして描いたいつもの筒井らしい作品である。 一応、唯野と言う文学部の教授を主人公にした大学教職員間の醜悪な縦関係・昇進争いの暴露や唯野の口を通して語られる文学批評論がメインなのだが、これは筒井の普段の立場からの逆襲と言える。実名がすぐに分かる匿名とは思えない匿名を交えて、印象批評からポスト構造主義までの文学批評論がワザと饒舌かつ格調高く語られるが、筒井がそれらの批評論を全く信じていない事が良く分かる仕組みになっている。私の目には「虚構」と言う文字がヤケに大きく映った。実際、唯野の口を通して、こう語っているのである。 「批評家って人たちは最初から作家に負けてる」 作中の文壇ジャーナリズム批判も同工異曲である。権威に対する筒井の反発心が良く出ている。そして、これを唯野の周囲の大学の人間に関する哄笑談として描いている所に筒井の本領がある。「文学的日常精神」を基本としているとの設定が可笑しい。また、大学内部の組織や昇進機構や批評論に対する詳しい注釈が付いているが、これは目新しい試みである(特に前者)。日本の小説では、大企業や大学病院の内幕を暴いたものは幾つかあるが、大学機構そのものを描いたものは殆ど無いのではないか。私が思い付つく限りでは、趣きは異なるが、漱石「三四郎」が当時の帝国大学の雰囲気を漂わせている位である。 大学文学部や文学批評論や文壇ジャーナリズムをカリチャライズし、大学機構の紹介小説と言う新しい分野を開拓し、作家としての自負を誇示した筒井らしい作品。 | ||||
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このお話の「季刊へるめす」への初出が1987年9月というから、当時日本はバブル経済真っ盛りの時期。文学部唯野教授のお話も絶好調バブル経済にあわせるかのように、疾風怒濤の勢いでシュトルム・ウンド・ドランクしまくっている。まさに悲喜こもごもの悲喜劇パロディである。 唯野教授の文芸批評講義を受講できる我々読者は幸せである。臨場感溢れる早治大学と立智大学での唯野教授の講義の内容は、要領を得ていて、とてもわかりやすい。内容に誤りはなく(多分)、注記も充実していて、いやもう大騒ぎ。 「芥兀賞」候補になった匿名作家・野田耽二の作品「象牙」と「海霧」を読者は読むことができないのが、残念である。ちなみに本書では、筒井作品につきものの「三和土」が登場してこないがこれも少々残念である。また収録されている講義が前期のみで、後期に予定されているフェミニズム批評とか、精神分析批評が載っていないのも残念である。さらにもっというなら、榎本奈美子が最初と最後にちょこっとしか登場してこないのも少々どころか、非常に残念である。 | ||||
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この作品の一つの流れとして、主人公である唯野教授が、自分の手になる文芸作品――文学賞を受賞した――を出版する、という筋がある。 唯野教授はペンネームを用い、作品を投稿するのだが、そのペンネームは、自分の本名のアナグラムである。〈アナグラム〉。この時点からしてすでに、フロイトの臭いが、ほのかに漂ってくる。単なる気のせいだろうか? 筒井さんはフロイトの説を逆手に取った。フロイトは人が夢見る現象を本が出版される過程にたとえた。私たちが目覚めているとき、夜見る夢の材料が潜在意識に蓄えられる。これは<潜在夢>と呼ばれる。この<潜在夢>は<夢の検閲>と呼ばれる一種の<翻訳>によって、元の意味が縮小されたり、拡大されたり、あるいは完全に欠落したり、逆の意味になったりする。これが、〈顕在夢〉である。そもそも人が〈顕在夢〉を見るのは、目覚めているときには味わえない充足感を寝ているときに味わうため、<願望充足>を実現させるためだという。 筒井さんはこの本を通して、文学を読む際の心構えを説いたのではないかな、と私は思うのだ。小説にはいつも謎があり、謎を解くとなると、起源をたどらなければならない。起源をたどるための方法、批評するための方法が、この小説の形を借りた文芸批評方法論としての『文学部唯野教授』によって示されているのではないか。〈一つの比喩(たとえ)〉を挙げよう。 この作品には、太宰治の短篇小説「佳日」がパロディ化された一節がある。この「佳日」において大隅と語り手をつなぐのは、二人の共通の恩師瀬川先生である。私のカンでは、筒井さんは、大隅・語り手と、瀬川先生との間にある師弟愛に、キリスト教における師弟愛、キリストとその弟子との間にある愛を見たのだと思う。それが〈夢の検閲〉による〈翻訳〉を経て、『文学部唯野教授』の一節を形作った、と私は見る。この場合、太宰「佳日」が〈潜在夢〉、『文学部唯野教授』の一節が〈顕在夢〉だ。詳述は避けるが、「佳日」は中国と日本とがキリスト教によって友好的に結びつくことを願い、太宰が創作した作品(「惜別」のヴァリエイション)として読める(藤原耕作氏の論が私の〈潜在夢〉として残っていたことを白状する)。 附記。どなたも触れていないのは、当然過ぎて、書かないのか、あるいは、私の読みがとんちんかんに過ぎるのか、判然としないのだが、――この作品は、一章(講)〜九章(講)の構成になっているけれども、このまとまりは同時に、第十回目の講義ではないのか。私のおぼろな記憶が確かならば、十回目の講義は、フロイトがどうの、というものだった気がするのだ(いや、私の記憶違いか?)。ただしかし、私の印象からすれば、この作品からは、強烈なフロイト臭が漂ってくる、という事実だけは、指摘しておきたい。 ちなみに、太宰治と筒井康隆氏との類似性は、平野芳信氏により、すでに指摘済みである。 | ||||
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大学学長までがセクハラで捉まるなど、大学教員たちのセクハラや愚行が治まらない。 日本の将来はどうなるのかと心配だ。 退屈と怒りを同時に癒そうとて、もう一度笑いたくて、怒りたくて、本書を読んだ。 教師になる前、若いときに読んだときは、ただあははあははと笑っていたが、読み返すほど、本書は大学人の資質や本性を底の底から予測的に描き出していたのではないかと、慄然とした。 ドタバタナンセンス、せいぜいパロディとして読んだ向きは、今一度本書を警世の書として読み直すことをお薦めしたい。 | ||||
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文学評論とは何か?に気持ちよく答えてくれて、その上1990年代の大学内の様子も面白おかしく(もちろんオカシクさせる為の誇張した部分と、オカシイために誇張しない部分がフィクションとして混じっていて、その混じり方が最高!)読めます。 パロディとしても、メタフィクションとしても、もちろん小説としても面白くて1度読み始めたら止められないです。 でも、結局のところ、文学に限った話しじゃなく、それ以外の分野でも同じなトコロ、ここ日本が恐くなります。登場する権威ある大学教授やそれに類する人々の、誇張はあるけど、心の底ではそう思っていて言わないだけの様な人々が他の分野でもたくさんいますから。 できたら、いつか(筒井さんはもう書くこと無いと巻末でお話しされていますが)後期の講座分も読みたいです。 | ||||
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ちょっとしたきっかけで(「最高学府はバカだらけ」(光文社新書 石渡 嶺司著を読んで)、いったい何年(十何年、いやもっと)ぶりで、本書を手に取った。 前に読んだのは、オーバドクターで(大学教員としての)職に飢えていた頃の気がするから、ここに語られる大学人の実態はショックだった。 しかし、筒井の書きっぷりがあまりに見事で、あまりにおもしろくって、これが全く事実であるとは、みな思わなかったんだな。 あんまりのことで。 この大げさに描かれた所が面白いと。。。 そうして今度、今、大学教員のまっただ中にいる自分にはわかる。 実は、ここに書かれた事は、事実の百分の一にまで薄められているのだと。 それだけ薄めても、こうしてみな驚く、大学人のバカっぷり。 さすがの筒井も控えたのかしら、そのまんまを描くのは。 事実は小説より、バカなり、ってね。 それとも、この20年ほどでもっとすざまじくバカになってしまったのか。世の大学人と大学は。 そこらは、上に書いたの『最高学府はバカだらけ―全入時代の大学「崖っぷち」事情』あたりで検証する事なのかな。 とにかく、本作は20年の時を経てなお、幻想の大学の実態を余す事なく暴く、大学生全入時代の今こそ改めて読まれるべき好著(怪著)だと思われます。 | ||||
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物語の構成が「大学内部のドタバタ劇」と「唯野教授による文学批評講義」でワンセットになっています。 前半のドタバタ劇と後半の講義のテンションの違いが非常に印象的です。私が読んだのはハードカバー版ですが、本のカバーやレイアウト、注釈の部分まで学術書のパロディになっているところも面白かったです。 講義は純粋な講義としても楽しめるものになっていて、文学部出身の私としては当時の雰囲気を思い出しながら読んでしまいました。 同様に大学に通っていた当時の先生方の顔を思い出しては、「あの人たちもこんな馬鹿馬鹿しいことやってたのかな?」と多少本気で考えました。助手が刃物を持って暴れまわるところや、エイズ差別の部分は多少現実離れしていますが、その他いろいろな細かい部分で妙なリアリティを感じさせます。 | ||||
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本書を再読して感じるのは、本書が発表された当時の日本は 麗しくもおぞましい「バブルの時代」真っ只中にあり、 本書の採り上げる「知の世界」もその只中にあったということだ。 当時のキャンパス(人文系)では、ポスト構造主義なんだよと前フリして カタカナ(その多くはフランス語だった)のテクニカルタームを 矢継ぎ早に吼えていれば知的人物だと見られていたフシがある。 (もちろんそんな軽チャーを相手にせず、地に足をつけて 研究に励む若者もいたが、その多くは変わり者とみなされていた) そんな知的引きこもりと退廃に、 強烈な嘲笑と批判を浴びせているのが本書である。 もちろん西洋思想史を完全に理解された上で パロディ化・作品化する手腕は 知の巨人、筒井康隆ならではのものだ。 真面目な部分はためになり、 かつ抱腹絶倒の上質エンターテイメントである。 講義は前期で終わってしまっているのであるが、 後期分も読んでみたいものだ。(書かないだろうけど) | ||||
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