■スポンサードリンク
文学部唯野教授
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
文学部唯野教授の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.35pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全51件 1~20 1/3ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
学生時代以来、30数年ぶりに読みました。相変わらず面白かったです。前回読んだのは大学生時分でしたが、今回は社会人数十年やってからなので、大学教員たちの悲哀をよりリアルに感じとることができました。当時、大学の先生と本書で描かれた大学教員の生態について意見交換をしましたが、誇張は入っているもののかなり実態に即している、という回答でした。権力闘争や嫉妬に満ち溢れたドロドロとした世界を笑い飛ばすように書いた抱腹絶倒の小説で、大学のリアルを知るには格好のテキストです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本当の知識人による日本の大学内部の話。パロディーらしいが著者の読書量が半端では無いことを物語る。それで持って飽きさせない哲学、文学の知識。エンターテイメント力も含んでいる為一気に読み通せた。自信を持って推薦出来る名著だと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
またよろしくお願いいたします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
全9章からなり、各々の前半は文学のアカデミズム面でのパロディで後半は諸文学理論の要約といったもので構成される。後半の理論と前半の物語とは若干関連しているかもしれない。表現としては、情景や人物の描写が極めて少ない。ヒロイン(?)の描写も希薄で絵に描いた餅のようだ。文末の処理として、動詞の過去形と「である」或いは現在形が半々ほどになっており、それがテンポの良さ・速さをもたらしているだろう。また、講義での発話が改行無しで一気呵成に綴られているのも対比的な効果が現れている。更に時系列上に単線的な進行の比較的単純なプロットや大胆な省略もそれに与している。「フィルムのフリッカー」はピンチョン『重力の虹』でのパーフォレーションへのイメージを想起させる。 文学理論は文芸批評と重なる部分が多いように思う。文学と文芸はやや異なるようで、文芸のほうは韻文と散文を含む言語芸術作品を指し、文学は文芸を含めその周辺領域である理論や批評をも包括するもののようだ。 私は小説の芸術性のひとつを以下のように考える。書かれたもの(もっと言えば出版されたもの)という権威性と、それに対するような虚構性との均衡・緊張が指摘できる(やはりセルバンテス『ドン・キホーテ』がその嚆矢だろう)。その内容が全く虚偽或いは矛盾であったとしても書かれたものは継続して存在する。例えば「現在のフランス国王はハゲである」や「この文はウソである」といったものは、内容が著しく空疎或いは実践的有用性が希薄であっても、それが鉱物上や繊維質の上や電磁・電子的に記録する際にそれほど厳密な規制を受ける訳ではなく、小説作品としてその内容・プロットが空疎・矛盾していても出版・流通においても原理的にはそのように扱われ得る。この点は比較的新しい芸術である小説(ノヴェル)と古典的芸術である建築とでは反する。その点に関連し、(芸術的)建築は現在でも権威性を纏い、小説はその特色として反権威主義的だと言える。逆に言えば、虚偽或いは矛盾した建築を築こうとすれば観念的傾向を帯びるだろう。(建築家、隈研吾『反オブジェクト』と併読するのも面白いかもしれない。) 事実判断および価値判断は言語を媒介として為される。言語活動は日常での話し言葉(会釈といった身体的表現もそれに準ずる)から法的拘束力を持つ自白や署名まで様々なレベルでの行為があり、また内的行為としての思考にも言語はその媒体として重要だ。また、確かヴィトゲンシュタインが言っていたと思うが、言葉各々に価値付けがあり(より良い言葉・より悪い言葉)それら言葉間に位階的秩序を形成し半ば暗黙のそれを習熟することも言語活動に伴うらしい。つまり、日常生活での言語活動においてはどのような言葉を選択するかという価値判断が常に伴う。言語活動での内容と表現には各々事実判断と価値判断が伴いそれらが綾をなす、と言えるだろう。我々は常にそのような言語活動の内部にいる。 セルバンテス『ドン・キホーテ』は、騎士道物語(ロマンス)に没頭した挙句に実際に騎士として行動し失敗し嘲笑される壮年の郷士の物語として提示される。ここでは物語の形式を用いながら物語の悪影響が誇張して提示されており、物語に対しての自己批判的な態度が窺われる。このようなある種の矛盾した構造が、近現代小説の特色だと言え、それを虚構により大胆に提示することが文学性の一つだと思える。また、現実の言語の恣意性や曖昧さを虚構により暴き出し、既存のイデオロギーやプロパガンダへ批判的吟味を帯びた眼差しを向け、そこにある問題を(問題と対決するのでなく)ずらし脱臼する言語的技術や思考モデルを養うことに寄与する可能性があるだろう。 ちなみに宗教について述べると、主に二つの機能が指摘される。集団における行動規範と歴史的位置付け。神が死んだ(か老衰したか瀕死であるなら)何らかの代替が必要だろう。それが近代自然科学の精神か功利主義倫理学か近代法体系かそれらの寄せ集めか判らないが、そのようなものに精通しているであろう人物に人々は眼差しを向ける(自ら学術文献を精読し比較し吟味する人は少数だろう)。ここで言語活動に厳密化を求めると、その反動として神秘主義的傾向を帯びるという現象が出来することが屢々ある。 以下、文学理論部分のキーワードだと思われるものを書き出してみる。 第一講 印象批評 中産階級の教養としての文学 古い美学理論:カント、ヘーゲル、シラー 象徴・シンボルの利用 印象批評:経験主義 伝統・秩序 常識・コモン センス派 常識の曖昧さ 内在批評(⇔外在批評) 規範批評:(批評家の)理想的な小説との比較 第二講 新批評・ニュークリティシズム スクルーティニー派:吟味 緻密な分析 歴史、心理学、文化人類学など社会的問題との関連を考察→政治性 卓越主義的文学観(と反する文学の悪影響) 『生・ライフ』(と反する遊びの文学) 作品のモノ化 実践批評 ニュークリティシズム:アメリカで発展 行動心理学 詩を批評 技術的分析 科学的合理主義のパロディ アカデミズム体制への迎合 第三講 ロシア・フォルマリズム 異化⇔自動化 形式を重視 ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』 誤読 プロレタリア文学:社会主義リアリズム 第四講 現象学 フッサール:意識の問題 1.意識する対象が存在する場合と存在しない場合がある 2.意識自体が意識する対象となる 純粋意識・先験的主観性→現象学的還元 純粋現象の科学 主観などない 原信憑 判断中止 確かなものはない 直観的な把捉=イデア・形相・エイドス デカルト:コギト ブレンターノ:外部知覚・内部知覚→心理学 ジュネーヴ学派:作者の深層精神の構造・体験や認識の構造 積極的解釈の拒否 サルトル ハイデガー 第五講 解釈学 ハイデガー:ブレンターノ(心理学的)→フッサール(現象学)→ディルタイ(生の哲学) 存在する対象⇔現存在 『存在と時間』:非本来性⇄本来性 現存在=実存 世界と世界内存在 道具的存在者と事物的存在者 道具的存在性と事物的存在性 配慮的気づかいと顧慮的気づかい 現存在と共現存在と共存在 世界との対話→自然崇拝 自己の死の了解『先駆的了解』→自己の全体性の把捉・新たな可能性 時間性:『過去を見つつ現在にある未来』 歴史:現存在、宿命と運命→ナチスへの接近 歴史からの逃避 フッサール『超越論的現象学』⇄ハイデガー『解釈学的現象学』→ガダマー(『真理と方法』) ガダマー:文学の背景→不安定性 伝統 第六講 受容理論 読者 理想の読者 同時代の読者 『内包された読者』 不確定箇所:図式、具体化、 空所→想像力 準拠枠 否定作用→現実への問い・批判意識 バルト『テクストの快楽』 第七講 記号論 ソシュール言語学:恣意性 差異の体系 ラングを対象とする 共時的研究 パース:イコン、インデックス、シンボル タルトゥー学派:記号の体系、語義の体系、造形的形象の体系、韻律の体系、音素の体系 圧縮 マイナスの手法 第八講 構造主義 フライ『批評の解剖』:文学の体系化 五種の主人公→五種のジャンル 神話、恋愛小説・冒険小説・伝奇小説、悲劇・叙事詩、喜劇・リアリズム小説、諷刺・アイロニイ 神話への回帰(カフカ、ジョイス) 文学=すべての人間の願望のあらわれ 宗教的な文学観 レヴィ=ストロース:『神話素』 神話=普遍的な構築物 物語学・ナラトロジイ 言語構造に似た構造により文学を分析 ジュネット『物語のディスクール』:『失われた時を求めて』を研究 物語言語(テクスト)・物語内容(ストーリー)・語り(ナラティブ) 五つの分類:順序・持続・頻度・叙法・態 第九講 ポスト構造主義 記号表現と記号内容との分断 言葉の意味=言葉の戯れの副産物 網の目としての言葉の錯綜=テクスト デリダ:イデオロギー=フィクション 特権的記号による位階秩序→イデオロギー・形而上学⇔網の目としてのテクスト 対立するイデオロギーを利用 『カフカ論』:批評=創作 バルト『S/Z』:バルザック『サラジーヌ』の構造分析 (位階秩序⇔)並列的・並置 『テクストの快楽』:規範的言語表現⇔人工的・露見的言語表現→それらの断層→快楽 政治的挫折→遊びの場としてのエクリチュール ポール・ド・マン:言語は隠喩的→全ての理論がフィクション 文学=虚構性の自認 何を書いているか どのように書いているか なぜ書いているか・なぜ読んでいるか この三つ或いは四つが重要なように思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ときどき批評家で名の通った方が「筆のすさび」?で小説や詩を発表することがありますが、仲間うちでの褒め合いはともかく、一般的な読者の場で高く評価された例はあまり聞かないですね。逆に小説家の方がやはり「筆のすさび」的なノリで書いた文芸批評や文学論議は、思わず膝を乗り出して読みたくなるような面白いものがありますね。 途中から小説などを書き始める方は、本当は批評家や大学の先生ではなく、創作家、作家で身を立てたかった方たちなのかな?とは思いますが、文章力の差異、才能の違い、といえばそれまでなのかも知れませんね。 「唯野教授」については、内容の真偽是非をあれこれほじくり返すのは野暮。なるほどなあ、そうかそうだったのか、とか、面白いけどなんか胡散臭そう、と思いつつメタ批評の小説を読むことの楽しさというものを十全に味わうことができればそれが全てかなと思います。 天才と呼ばれる筒井康隆氏であればこそ、なし得たウルトラ文学批評小説なのでしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
だいたいこの本の構想のきっかけとなったというテリー・イーグルトンの『文学とは何か』という分厚いぶあつーい本はわたしのごとき莫迦には過ぎたる洗礼でありまして、確か序文だか何かには「高校生も読んでいる」との一文がありましたがそんな高校生がいてたまるか。あれでも難解な文学理論が平易に説明されているとのことでしたがわたしが夢うつつのあわいへ百度も船を漕いだ挙げ句に読み終えたあと記憶に残っていたのはなぜか作者のイーグルトンさんが水着姿を披露していた部分に爆笑したというどうしようもなく阿呆なメモリーだけでありまして、しかしそんなわたしがすらすらぺらぺらごくごくと読めてしまったのだからこの本における唯野教授の講義は凄い。こんな教授がいてくれたなら、半醒半睡の夢見心地で自動筆記のごとき無茶苦茶なノートを何ページも作り上げるという無駄な芸術行為を繰り広げる機会もずっとずっと少なくなっただろうに。はあ。現実はつまらんものですね。 しかしこの本の凄いとこはそれだけでなくて、というか全部すごいんだけど、何よりも構成が素晴らしい。エンターテインメントとして完璧ではないでしょうか。どんどんわれらが主人公たる唯野教授が艱難辛苦の困難混沌へと否応なく突っ走らされていき、あらゆる事件のエントロピーがどんどん集積されていくその様に一切の無駄はなく、素晴らしく完成された戯曲のごとき趣が漂っております。 ですがまあなんと言ってもわたしがこの本を大好きなのはのべつ幕なしのギャグやらパロディーの連発にありますな。まるで読者に顎関節症と腸捻転をもたらさんとしているがごとくに襲い来る怒涛の饒舌。これを読んだ日にはしばらく唯野教授のべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらべらなことばが頭の中を駆け巡り耳を犯しノイローゼになって窓から飛び出し夢幻の砂漠を森羅万象のパレードを率いて進むこと必至、とまでは言いませんが、彼が小説史上でもまれに見る特異なキャラクターであることは間違いないでしょう。あなたも彼の饒舌の虜になってしまえばよい。ぜひ読みましょう。読みなさい。読め。 あっ、そうだった。もし唯野教授の饒舌がお気に召したならば、というか絶対お気に召すでしょうが、同じ作者の『歌と饒舌の戦記』も手にとってみてね。唯野教授のごとき人物が何を間違ったか三人も登場する、まっこと騒がしくやかましく五月蝿くにぎやかなお話であります。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
現実-虚構間を行き来する人(日常、講義、非日常、日常ループ) ポスト構造化までの構造化プロセス(人間至上) (感情のもつれ、教授の村八分、タテマエ、一杯のかけそばetc) 時間を持て余した貴族的な読者は気づく。 「言語に意味はない=記号表現、記号論の戯れにすぎない」 エクリチュールというテクストから快楽、パロディ、言ゲームを得る。 --------------------------------------------------------------------------------------- 【ある文学1】 Set ・イデオロギー、支配的な解釈の群 ・人間の心、論理の集合的存在(神話素) ・現代人の宗教と科学を装った文学理論と科学 ・期待、裏切り、規則、偶然、逸脱、日常的なパターン、異化 ・空所、虚構 →知の断片と断片、推測、予想 →隠されたつながり、パターン、構造 →読者(内包された読者) →「不確定箇所」=「空所」の部分の創造(随伴) →社会的制約、狭い解釈での常識 →「たくさんいる作品解釈者」のひとりにすぎない →作者-読者の共同作業 →慣習的言葉で構造化したがる 【文学2】 ・架空超読者(あらゆる社会の拘束から自由、純粋、客観的) →枠の中に収まりきらない多様な解釈 ・空時法、順序、置換(不等時法) ・物語を物語る物語 --------------------------------------------------------------------------------------- 1章 印象批評 2章 新批評 3章 ロシア・フォルマリズム 4章 現象学 5章 解釈学 6章 受容理論 7章 記号論 8章 構造主義 9章 ポスト構造主義 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
輝いて見えた大学生活も、今となっては選考を間違えた、文学をいちから学びたい……筒井康隆さんの作品に出逢ったのを機にそんな欲求に駆られる日々を送っておりました。 ドラマ、映画に没頭し、読書は後回し。そんな日々が嘘のように、今では筒井さんの本が生活のメインに。 私のように構造主義のこの字も知らない人間にも、唯野教授がやさしい言葉にユーモアを混じえて教えてくれるので、どこからどこまでが現実なのか分からなくなります。まさに虚構の中の虚構。 あれ?ここは大学の講義室だっけ? あ、唯野先生のお目見えだ。今日はどんな講義をしてくれるのだろう……とワクワクしながら一言一句、味わいながら読了しました。 私にとっての唯野教授は紛れもなく筒井康隆さんです。 ラストはいつものことながら鳥肌が立ちました。かっこいい……と、思わず叫び、復読。今度はため息をついてうっとり。ところで本の価格、安すぎませんか?? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
アウトサイダーだからこそ描ける大学内政治と文学批評講義の両輪で物語の物語が進んでいき一挙両得です。 滑稽で洒落乙で軽妙な語り口で虜にされてしまい次の章へ次の章へとページが進み期待が増すばかりです。 娯楽要素もあり普通に読んでいて楽しいですし大学の渡世の仕方も垣間見させてくれて為になります。 大学教養課程以前に是非手に取って読んでみたい一冊です。高校生にもおススメです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物語の中で、実際に大学の講義があり、文芸批評理論を順序立てて、非常に手際よく、丁寧に解説してくれる、類まれな小説です。注も充実しており、小説の形をした解説書のようです。 直木賞を何度も落選させられ、不本意な文芸批評に晒された作者が、文芸批評を学んだ成果のお裾分けであり、転んでもただでは起きない筒井氏の面目躍如とした作品だと思います。 筒井氏のその後の作風に多大な影響を与えた名作だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
抱腹絶倒とは正にこのことである。小生も文学部出身なので、中に出て来る講義は馴染みのあるもので懐かしかった。総復習をした感がある。個人的には、全く個人的には主人公とヒロイン榎本奈美子のロマンスをもう少し交えて欲しかった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
いやはや、これは面白い。 大学のなかで行われる政治的な駆け引き。ドタバタ劇。 手塚治虫の漫画を文字にしたようなユーモア。 そしてなにより唯野教授による文学理論の講義・・。印象批評からポスト構造主義まで、テンポよく駆け抜けていきます。こんな講義あったらほんとに聞いてみたい。 筒井氏自身の視点もかなり反映されているなあと思う。 というか、こんな小説のスタイルがそもそも可能なのか! 非常に有名にも関わらず今まで読んでこなかった。筒井氏から学べることはとことん吸収するぞ、と、これを読んで誓うのでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書が単行本で出版された直後以来、ほぼ30年ぶりの再読。当時話題になった文学批評の講義 よりも、今となっては大学や大学教授に対する風刺のほうが面白く感じる。文学批評の講義は、 イーグルトンの『文学とは何か』を読めば事足りるが、以下に引用するような大学の風刺、特 に事務(局)長の説明は的を射ていると驚く人も多いのではないだろうか。よくもここまでご 存知で、と感心してしまった。それが次の一節。 事務長というのは大学では蔭の学部長と言われている存在であり、教授会に提出する資料をほ とんど自分で作り、学内の重要な会議にはたいてい出席する。裏の権力機構を持っているから 発言力があり、叙勲の申請などをやってもらわねばならぬ関係上、学長以下学内も誰もがこの 事務長にだけは頭があがらない。特にこの成田はなが年教務主任をやり、一方ではちょいとば かり研究もしてきたため、裏権力を利用してちゃっかりと教授にまでなってしまっていた。事 務長が教授になる例は他大学でも多い。(60~61頁) 事務長は、事務局長、教務課長等の別の名称で呼ばれているかもしれないが、みな同じように 権力を振り回し、学長をはじめ学部長、教授たちに対して威張ったり怒鳴ったりしている。そ の理由が本書の再読により氷解した。この30年、大学が変わっていないことを痛感。本書の風 刺が古くなるには、まだ時間がかかるかもしれない。 補足。なお、本書は当時の大学教授・文芸批評家への風刺にもなっている。蛇足かもしれないが 若い読者のために書いておく。 ・慎本教授(40頁) → 栗本慎一郎、・股辺直己(122頁) → 渡辺直己 ・東部教授(136頁)→ 西部邁 ・このほかに浅田彰、柄谷行人が風刺の対象になっている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
文学部での顛末は、ネタバレになるので避けるが、文学批評部分を飛ばして読んでも楽しめる。 この本を手に取ったのはかなり昔のことだが、執筆当時の文学部の状況をコミカルに描いている。 本書のあとがきにも名前を出して謝辞が出来ないということも書いており、これはジョークと半分、リアルが半分といったところだろう。 この作品は『大いなる助走』などの作品に出てくる、いわゆる「饒舌体」の流れにあると言えるだろう。つまり、登場人物がセリフはもちろん心象風景を話しドタバタ劇を演じると言った形式を指すと言えばよいのだろうか? とりあえず、この本はそういった表現方法で話が進み、文学部を取り巻く環境をコミカルに描くパートと、学生に文学批評理論を教えるパートに分かれる。文学批評理論の部分はテリー・イーグルトン著『文学とは何か』と、執筆前後あたりに著者はハイデガーの現象学を入院中に読み、それを下敷きにしたという。 その内容を唯野教授は作中で講義をするが、十分な内容で面白い。 確か、印象批評に始まり、ニュークリティシズム、厳密には区切れないとしてノースロープ・フライの『批評の解剖』、フッサールやハイデガーの現象学、レビ・ストロース、ロラン・バルト、ミッシェル・フーコーをはじめとする構造主義、ポスト構造主義と展開して行く。 唯野教授のサブテキストの『一杯の掛けそば』分析や、唯野教授とは関係が無いが、俵万智の『サラダ記念日』のヤクザバージョン、ピアーズ著『悪魔の辞典』の筒井版などコメディー、ブラックユーモアも書けるが、一方、七瀬シリーズのようなシリアスなストーリーも書ける稀代の作家の一人ではないだろうか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
基本はメモ。1990年刊行で50万部のベストセラーだという。今では考えられない。「文学部不要論」のようなものが出て、反論が出て、という状況ではあるが、まあそういう議論を載せる新聞自体が力を失ってきているように思うし、小説家なり文学者なりの言葉というのが説得力を持たなくなっているというか、そんな印象。 まあ、印象批評というか伝記批評しかない世界が正しいとは思わないが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
講義の部分は最後ちょっと眠くなりましたが、饒舌人間唯野教授のドタバタ劇は堪能しました。大学は学問をする所、という幻想がガラガラと崩れ落ちました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
浅学非才な私如きのレビューだから、最低の印象批評にすらなっていないと思う。素人の読書感想文と思ってもらえば良い。カリカチュアされた大学教授達の俗物性と、至極分かり易く書かれているが文学批評理論の高尚さのギャップが凄まじく、20世紀に書かれたとは思えぬほど今読んでも破壊力がある。やはり筒井康隆は天才と言うよりないだろう。恐らく筒井康隆自身が受けた批評が如何に論理性の欠如したものであるか辛辣に批判しているものと思われ、ほとんど実名に近い形でやり込めている箇所も見られるが、当人が読んでもグウの音も出ないのではあるまいか。こんな狂人に近い天才作家はアンタッチャブルであり、実際筒井康隆はそういう扱いを受けて来ているように思う。 いやホントに自分でこんな感想文を書いててレベルの低さが恥ずかしくなって来る。この本を書いた筒井康隆は凄い。ただただ絶賛しておこう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
早治大学文学部の唯野教授は今日も今日とて文学批評史の講義で忙しい。そんな教授は、朋友・牧口助教授が、フランスに公費留学しているはずなのに、いつのまにやら東京に舞い戻っていて自宅に隠れていることを知ってしまう。大学にばれたら大ごとだと唯野教授は必死にこの事実を隠そうとするのだが、唯野教授自身、実は小説を執筆していることを大学に内緒にしている。その小説が芥兀賞の候補になってしまったからさぁ大変。受賞などしようものなら、他教員たちのやっかみの対象になること必至だ…。 ----------------------------- 学内での危うい立場をなんとか取り繕うと東奔西走する唯野教授のドタバタ劇を一方の柱に、そして教授が講義する文学批評理論の変遷史(印象批評→新批評→ロシア・フォルマリズム→現象学→解釈学→受容理論→記号論→構造主義→ポスト構造主義)がもう一方の柱となった痛快無比、抱腹絶倒の小説です。 学内に展開する笑劇は、教員間の妬み嫉み、足の引っ張り合い、現ナマの応酬など、生々しくもそら恐ろしい展開を見せます。執筆当時(1990年)はまだなかったインターネットのハイパーリンク風の脚注が付されていて、「雑務助手」だの「専任助手」だの「学部長選挙」だのといった学内用語が次々と解説されていきます。その内容たるや、大学教員のキャリアがその研究能力ではなく学内の政治力学によって大いに左右されるという赤裸々かつ身もふたもない事実の連続です。かなりの部分、現実に起きている学内ポリティクスの数々を下敷きにしているようで、それを思うと笑いも凍り付きます。 唯野教授自身、清廉潔白な御仁ではありませんが、彼がキャンパス内の人づきあいに右往左往する姿は滑稽を通り越して哀れな感じがします。 一方、唯野教授の講義内容は(おそらく)かなり本格的で、私はそのすべてを十分に咀嚼消化できたとは到底言えません。言語学の知識が多少はあるので、記号論から構造主義に至るあたりはかろうじて理解できたとは思うものの、フッサール現象学からハイデガー解釈学へ至る道のりは私には大変な急勾配で、読み進めるのは青息吐息。でも仮にこうした文学批評の手練手管を自家薬籠中の物にできたとして、そんな風に文学を読み進めて楽しいのかな、という疑問が渦巻くばかりです。 こんなこと書くと、「自分が面白かった、面白くなかっただけの印象批評に執着している」(40頁)と揶揄されてしまうかもしれませんが。 ただ少なくともこれだけは言えます。私は『文学部唯野教授』を大いに楽しんだ、と。 --------------------------------- ◆廣野 由美子『』(中公新書) :唯野教授が講義する文学批評理論を『』にあてはめて見ていく大変知的興奮に満ちた書です。ロシア・フォルマリズムの「異化」やポスト構造主義の「脱構築」、また「受容理論」はこの書では「読者反応批評」の名で紹介されています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本は主人公である唯野教授の日常と、唯野教授による批評理論入門講義で成り立っています。この本は大学教授の世界の驚くべき舞台裏を描く小説であると共に、批評理論のわかりやすい入門書でもあります。 この小説で描かれる大学の裏事情は、とにかく汚いものです。そして唯野教授の同僚や知人たちも、鼻持ちならない人物ばかりです。小説の展開を盛り上げるために誇張して描かれていると思われるところは多々ありますが、こうした出来事や人物は日本各地の大学に実在しているのだろうなと思いました。 唯野教授にとっては地獄のような日常とは対照的に、唯野教授が作中で行う文学講義はとてもわかりやすくて爽快です。唯野教授の講義内容は以下の通りです。 第一講…印象批評 第二講…新批評 第三講…ロシア・フォルマリズム 第四講…現象学 第五講…解釈学 第六講…受容理論 第七講…記号論 第八講…構造主義 第九講…ポスト構造主義 ご覧の通り、文学入門としてのみならず哲学入門としても参考になる内容でした。特に構造主義の説明がわかりやすかったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小説としても、現代文学講義としても とても面白かったです。 現代文学を俯瞰的に、コンパクトに講義してくれているので 記号論、構造主義、ポスト構造主義など 知りたいけど、とっつきにくかった文学論に興味が持てました。 もちろん、個々の解説は紙面の関係だったりで 十分な説明ではないですが、ノリが軽い主人公の大学教授が 本書で語ってくれるくらいの親しみやすさのほうが、 堅苦しくなくて、頭に入ってきます。 この手の手法でベストセラーになったメタ小説としては 哲学講義をしてくれる「ソフィーの世界」などがありました。 物語としての面白さと、分かりやすいコンパクトな講義という 2つを両立させる必要があるため、著者の力量が求められます。 若手だと、読者の信用を得にくいし ベテランの作家だと、今度は評論家から反発されるし どちらにせよ作家にとってはこの手の作品はリスク覚悟で 執筆されたのかと思われます。 物語部分と講義部分がちゃんと分かれているのも 良かったです。 文春文庫から「文学部唯野教授のサブ・テキスト」が出てるので そちらも読んでみようと思います。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!