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一九五二年日航機「撃墜」事件



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【この小説が収録されている参考書籍】
一九五二年日航機「撃墜」事件 (角川文庫)

一九五二年日航機「撃墜」事件の評価: 3.86/5点 レビュー 7件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.86pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全4件 1~4 1/1ページ
No.4:
(5pt)

筆者の仮説を提示した小説

1952年に起きた「もく星号墜落事故」を題材にした小説。もく星号の事故原因については、航空管制が高度指示を誤って三原山に激突したとする説、乱気流による急降下説、空中分解説などがあって、真相は謎である。

本書では刑事コロンボのように最初に「もく星号を仮想敵と見立てた米軍機による銃撃」という事実が提示される。そこから下坂と岸井が謎に迫っていくという形式を取っている。この過程が興味深いのだが、米軍が「撃墜」したという明確な証拠がない以上、結末は曖昧にならざるを得ない。

読んでいくとこれは事実なのか、それとも虚構なのか、分からなくなっていく。あくまでも、ノンフィクションではなく、筆者が考える仮説を小説の形式を使って読者に示していると考えるべきであろう。
一九五二年日航機「撃墜」事件 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:一九五二年日航機「撃墜」事件 (角川文庫)より
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No.3:
(4pt)

佳作

清張の「黒い霧」を読んでから、本作を読みましたが、問題の女性客に関する調査が加わっているため、本作は迫力が増している。そのため、興味を掻き立てられ、それでは結論はどうなのと読み進めたところ、最後に、うーんと考えさせられてしまった。読者も自分でよく考えてみてくださいねということだろうか。
事実を探求し、推論する。
人間が生きていく上で欠かせない作業であり、勉強になった。
一九五二年日航機「撃墜」事件 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:一九五二年日航機「撃墜」事件 (角川文庫)より
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No.2:
(4pt)

GHQ占領時代の謎多い事件の一つ

解説に書いてあるが、「もく星号」事件は過去2回採り上げていて、20年を経て今回で3回目であり、結果として著者最後の長編小説となった。最初はノンフィクションにこだわった作品だったが調査にも限界があって、2回目は小説という形にして自らの推理を大胆に披露した。今回は墜落機唯一の女性客をめぐっての部分を3分の1ほどに縮めて、よりストレートに「もく星号」事件の謎を解明している。結局、管制塔との交信テープが公表されるまで真相はわからないんだろう。
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No.1:
(5pt)

実録

国内初のジェット機、日本航空マーチン202型双発「もくせい号」が伊丹経由福岡行として、1952年(昭和27年)4月9日午前7時34分に荒天の中、羽田空港を離陸した。その直後の8時過ぎ、米極東空軍ジョンソン基地(埼玉県入間基地)の管制官とノースウェスト社のパイロット(副操縦士と共に米人)との交信後に、三原山外輪山(東京都大島)に衝突した。同日15時50分に米極東空軍・横田基地(東京都多摩、現在の米第5空軍司令部)からの通信を受けた米第5空軍・小牧基地(愛知県、当時の米第5空軍司令部)が航空庁に誤報を伝え、機体の発見と乗客乗員全員救助を発表させた。翌日8時半、機体の発見と乗客乗員37名全員の死亡が確認された。
 事故当時、米軍機10機が上空を訓練飛行し、離陸前に羽田空港コントローラー(米側管制官)から、上空の米軍機の存在により館山(千葉県)通過後10分間、高度2000フィートでの飛行を命じられる。通常は6000フィートでの飛行である。三原山は高さ2500フィートで、館山からは10分以内の距離に在る。悪天候下で三原山の南の差木地(東京都大島)のラジオビーコンの電波帯を頼りに飛行していたが、米軍機がもくせい号を仮想敵機として攻撃し、右補助翼タブが損傷してフラッタリングを起こし、右側に航路が逸れて三原山に衝突した。客室乗務員に異常は伝えられず、乗客はシートベルトもせずに水平飛行したまま衝突した。この米軍機の演習では、もくせい号の飛行ルートを朝鮮北軍の飛行ルートを想定している(米軍演習のシュミレーションは早朝、北側による攻勢が始まり北側が38度線を越えた制空権を維持している局面に国連軍(米軍)が南から反撃に転じた状況)。
 米側の情報の偽装により、事故原因と米軍のスキャンダルが隠蔽された。ジョンソン基地のコントローラーと、もくせい号のスチュワード機長、クレベンジャー副操縦士との交信記録テープが米軍から提供されなかった。GHQ司令部が第一生命ビル、ノースウェスト東京支社が近くの明治生命ビルにあり、交信の「東京モニター」が明治屋(明治生命、明治生命ビルとは別)にあった。「東京モニター」は、ノースウェスト社が米軍に懐疑的であったり、GHQ内での内部抗争からマッカーサー解任の後のリッジウェイが総司令官就任(1951年4月〜1952年4月)となった事が背景にあって存在したが、国会の事故調査委員会には先のテープ同様に生かされなかった。CAA(米国民間航空局)ハワイ駐在員ウェーン・ブッシュが事故4日後に三原山に現地「調査」に入り、その翌日の記事で「視察」したと表記を変え、其の後の記事でブッシュと言う名前は消された。結局米国は事故調査に協力しなかった。ICAO(国際民間航空機関)の発行した1953年の航空機事故資料には、もくせい号の事故は記載されていなかった。
 乗客の中に唯一の女性客(烏丸小路万里子)が含まれ、米軍のリード大尉が中心となって日本銀行や交易営団から盗んだダイヤの横流しを手伝ってていた。烏丸小路万里子は戦後、英仏語が出来る事から山梨県の米軍駐屯施設で働き、そこでパトロンと繋がる。目を発表の静岡県浜名湖西南に向けさせておいて機体が発見される前に、米軍が烏丸小路の持参していたダイヤの押収と事故原因に繋がる機体の破片(右補助翼タブ)を回収した。烏丸小路は三沢基地(青森県)や板付基地(福岡県)に、横領ダイヤを売り捌きに度々訪れていた。後に横領した者の内の一人のマレー大佐が横領罪で起訴され、横浜の軍事裁判で懲役10年・重労働10年・軍役剥奪・年金給与停止の判決が下された。軍法会議の判事はチェイス少将を代表に7人、検察官にはバチソン大尉等2人、弁護官にも米軍人2人が選任されていた。烏丸小路の写真は公表されなかったが、本書には掲載されている。又、日航広報部も烏丸小路に関する資料を公表しなかった。
 かつて航空機大国だった日本は1945年(昭和20年)に太平洋戦争に敗北すると、GHQによって航空機の研究・設計・製造を全面禁止された。GHQによって航空機産業を始め重工業全体を弱体化させ、日本が農業小国となって米国に経済依存し続ける様に図られた。しかし1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の勃発により(1953年休戦)、日本の旧航空機メーカーに米軍機の点検・修理の依頼が増えた。翌年の1951年(昭和26年)に民間航空会社の日本航空がGHQの意向で発足した。社長には柳田誠二郎(元日本銀行副総裁)、専務取締役に松尾静磨(元航空庁長官)が就任した。同年9月8日にサンフランシスコでの講和会議にて署名された、日本国と連合諸国との平和条約と旧日米安全保障条約が、翌年1952年(昭和27年)4月28日に発効されて日本は一応独立した。それで航空機の運航や製造の禁止の一部が解禁された。同年7月には航空法が施行された。又、其の直前の1952年2月28日には、日米安保を基にして日米行政協定が締結された。この協定は後の1960年(昭和35年)の新日米安全保障条約に付随する日米地位協定に継承されるものである。その様な背景のあった米軍の占領下において、航空管制は全て米軍により行われていた。『日航機「撃墜」』はその様な中で行われた。
 作者の松本清張は、1960年(昭和35年)に「日本の黒い霧」(文芸春秋)で最初にこの事件について発表し、其の後1972年(昭和47年)に「風の息」(赤旗、及び単行本(朝日新聞社))にて改版して発表、更に2回目の改版として1992年(平成4年)4月に本書(単行本)を出版した。その直後の同年8月4日に82歳で亡くなられた。2回の改版の理由として、1971年(昭和46年)7月30日の全日空機雫石衝突事故(岩手県岩手郡雫石町、航空自衛隊機との衝突により乗客乗員162名全員死亡)、1983年(昭和58年)9月1日の大韓航空機撃墜事件(ソ連領空侵犯に米ソ両国からの警告無く米国スパイの疑い、269人全員死亡)、1985年(昭和60年)8月12日の日本航空123便墜落事故(円高バブル形成の為のプラザ合意が9月22日にG5により発表される直前、群馬県高天原山(=タガマ・ハラン、御巣鷹山)にて524名の内520名死亡)があった事により、旧版の誤りに気付いた事による。
 一説によると、松本清張は山窩(サンカ)の出であるらしい。多民族の古代日本において、原住民族や渡来系民族で大和政権の中央の権力に従う事を嫌った人々が山へ逃げて、その存在自体を隠す様にして暮らして来た。1952年(昭和27年)に住民登録法が施行されるまで、その一部は戸籍を持たなかった。清張先生の権力に反抗する強大な力は、サンカの血が流れているからかもしれない。
 又、一説によると、部落差別の身分とされたエタの一部は、ユダヤ人である事が多いらしい。ユダヤ人は旧約聖書の時代の紀元前、神様に罪を許してもらう為に、人間・罪の代わりとして牛を犠牲にして神様に捧げた。漢字は紀元前に中国にてユダヤ人によって作られたが(漢字全てに聖書の由来がある)、犠牲と言う漢字は両方共に牛偏である。仏教が国教とされた奈良時代に、偶像崇拝を禁じる創造主(唯一神)の律法を堅く守って、サンカ同様に(或いはサンカとなって)中央の権力に従わずに山へ逃げて身を隠したり、河原者(河原人)となって牛(屠畜)や皮革加工を生業として、差別されながら生活して来た。外国では其の様な職業に対して、差別的な捉え方は全く無い。
 サンカから忍者、服部氏は秦氏(ユダヤ人)、能楽・猿楽は服部氏の子孫の観阿弥・世阿弥、河原者から芸能(能役者・歌舞伎役者)や庭師(造園)の善阿弥(室町時代。京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作)等と、追求をすればする程に奥が深い。真実は表面的な部分を見ていても解らず、深く追求した所に存在する。
 参考文献:「KE007応答せよ!大韓機事件の真実」(1994年にフリーライターの著者が自費出版された書籍をWeb版に再編したもの。http://www.isao-pw-okinawa.ecweb.jp/ke007/)。…このホームページの中に、「もくせい号事件の考察」が在る。著者は松本清張に1985年頃「KE007応答せよ!」の資料を研究されることを希望して資料を送った経緯を持っている。沖縄では、米軍機と民間機とのニアミスが頻繁に起きている。
 


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