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上弦の月を喰べる獅子



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上弦の月を喰べる獅子の評価: 4.00/5点 レビュー 39件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.00pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全39件 1~20 1/2ページ
12>>
No.39:
(5pt)

読書の愉しさ

書籍品質は大変美しく、価格も廉価にて、十二分に満足をいたしております。久しぶりの、夢枕獏先生の作品。今新たに、どの様な世界が展開し、拡がって行くのか、愉しみです。目次を観るだけで、異次元の世界へと引き込まれ、読むとの心、疾ります。大切な書籍を、ありがとうございました。
上弦の月を喰べる獅子Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子より
4152034076
No.38:
(5pt)

夢中で読んだが、、、

没頭して読みました。しかし、主人公に惹かれているのになかなか活躍してくれない。強くないし潔癖でもない。悩みは沢山。如来かもしれないと言われて盛り上がったが、どうなったかわからないまま終わってしまった。大切な人たちはどうなってしまったのか?スメールはどうなったのか?どうして宮澤賢治が途中から出てくるのか?私には謎だらけでした。
上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)より
4150310270
No.37:
(4pt)

仏教の宇宙観

仏教の宇宙観を元に進化と宇宙の謎を解き明かす流れに、螺旋という独特のキーワードを組み込んだ物語。下巻では、クライマックスへ至る謎が解き明かされる。日本SF大賞を受賞した力作。
上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)より
4150310270
No.36:
(4pt)

仏教の宇宙観

仏教の宇宙観を元に進化と宇宙の謎を解き明かす流れに、螺旋という独特のキーワードを組み込んだ物語。日本SF大賞を受賞した力作。
上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)より
4150305021
No.35:
(5pt)

これは〈世界〉について物語である。

.
本作は「仏教的世界観」を、壮大な異世界冒険譚として描いた作品だと言えるだろう。
しかし、多くの日本人は、「仏教」を「宗教」のひとつだと理解している点において、こうした説明は誤解されやすい。

あえて言いきってしまえば、「仏教」は「宗教」ではない。
「仏教」は、「宇宙論」的な「哲学」なのだ。つまり、「キリスト教」などに代表される「宗教」が、「宇宙的真理を語った(騙った)フィクション」であるのに対し、「仏教」は「宇宙に関する、解釈学的な哲学」なのである。
したがって「仏教」は、「真理」に肉薄しようとはするが、個々の解釈学的な「認識」をもって「真理」だとは主張しない。あくまでもそれは「真理」すなわち「悟り」に至るまでの過渡的認識でしかなく、当然「悟り」そのものではないのであり、おのずと「真理」でもありえないからである。

では、「悟り」に至った者、つまり「真理」に至った「覚者(ブッダ)」が語ったことは「真理」なのか?
無論「真理」である。ただし、その「真理」を正しく理解(解釈)できるのもまた「覚者=悟りを開いた者」に限られる。したがって「覚者(ブッダ)」ではない私たち「凡夫」が、「覚者(ブッダ)」の語る「真理」の言葉を耳にしても、それだけで「真理」を認識することはできない。私たちはあくまでも、そうした「真理の言葉」(例えば、経文や教典)に導かれることによって、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩まなければならない。すなわち「仏道修行」である。

もっとも、ここで私の言う「仏道修行」とは、あたりまえに「仏門に入って(出家して)修行をする」ということだけを意味してはいない。
私は「無神論者」であり「無宗教者」であるけれども、「この世界(宇宙)の真理を認識したい」と考え、自分なりに「探求の道」を歩んでいるという事実において、実質的には「仏道修行」者なのだ。
これは、「仏教」が一種の「真理探究の道=哲学」であって、キリスト教のような「真理を独占したと主張するフィクション」ではないからである。また、そうした意味で「仏教は無神論である」とも言われるのだ。

キリスト教のように、その教え(教義)こそが、この宇宙(=世界)についての「唯一無二の真理」であると説く「宗教」が、それを「正統教義」として独占し、それに反するいかなる考えも間違いだと断ずるのは、理の当然である。「真理」が一つであり、それと違っているところがあるのであれば、それはそこが間違いであると考えるのは、ごく自然なことだ。
だが、この場合に問題となるのは、なぜ自分たちの「教義」が「真理」だと断ずることができるのか、という問題である。

それが「真理」であり、「真理」であるが故に「この世界を救済してみせたという実績・事実」があるのであれば、それが「真理」だという、一応の証明や証拠にもなろう。しかし、キリスト教を始めとして、あらゆる「宗教」は、いまだにこの世界やそこに住む人々を救ったことがない。

イエスは同時代の人々に、間もなく訪れる「神の国」に備えて、早く悔い改めろと訴えたが、結局それは、いまだに訪れてはいない。「神の国の遅延問題」である。

では、この世界まるごとの救済ではなく、個々に救済された事実があるのかと言えば、その証拠もどこにもない。「天国」の存在も、天国へ行った人の存在も、どこにもない。それはキリスト教会や個々の信者が「ある」と主張しているだけであって、キリスト教徒以外の人にもハッキリと認識できるような、具体的かつ客観的な証拠は、どこにもないのである。そもそも、そんなものがあれば、すべての人が進んでキリスト教徒になっていたことであろう。

結局のところ、キリスト教のような「宗教」は、「証拠のない世界観=教義」を語って、それを信じろと訴えるものでしかない。つまり「妄信しろ」と訴え、「妄信する者だけが、結果として救われる」と訴えている、「信用のおけない博打的世界観」にすぎないのだ。「世界の真理」を独占的に知っていると主張する「宗教」とは、そういうものなのである。

その意味で「仏教」は、「宗教」ではない。
「仏教」は、あくまでも「世界解釈」であり、その意味で「哲学」でしかない。それ以上の、厚かましい自己評価を語ってはいない。あくまでも「私たちは、こう考えるが、どうだろうか?」ということでしかない。
そして、それが「真理」かどうかを確かめるには、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩むしかないのである。

 ○ ○ ○

さて、本作は、このような「仏教的宇宙観」を、異世界冒険譚のかたちで描いた「物語」である。それはちょうど、実在の人物としての釈迦(シッダールタ)が「悟り」を開いたのは、じつはその短い一生においてではなく、じつのところ、極めて長くて遥かな久遠からの時間の中を生まれ変わり死に変わりして、仏の教えを求める「歴劫修行」の果てに、釈迦(シッダールタ)の生の段階において、初めて「真理」に到達したのだ、とするような、教典に描かれた「物語」と、同じことなのだ。

つまり、「仏教的宇宙観」とは、客観的な数字や数式で語られてはおらず、「言葉」を用いて「物語」のかたちで、比喩的に描かれているのだ。したがって、そこに描かれた「物語」自体が、そのまま「真理」だというのではない。その物語は、「真理」の「比喩的説明」形式にすぎないのであり、キリスト教のように「マリアの処女懐胎」だとか「イエスの処刑後三日目の復活」だとかいったことを「客観的事実=現実」として「そのまま信じろ」などとは言わない。

仏教教典には、先に紹介した「輪廻転生」的な「歴劫修行」といった「お話」だけではなく、とんでもなく壮大なお話が多数登場するが、それはあくまでも、この「宇宙=世界」というものの本質であり「真理」を説明するための「喩え話」でしかなく、それをそのまま信じるべき「真理」ではないのである。
仏教においては、そうした「物語(フィクション)」を参照し、助けを借りながらながら、個々がそれぞれに、この世界の「真理」を直覚しなければならず、それは「言葉」によって他者と共有できるようなものではないのである。

したがって、本書『上弦の月を喰べる獅子』という「作品」も、そういう「仏教教典」と本質的に同じものである、と言っても過言ではない。これは、夢枕獏という作家が書いた、彼なりの、過渡的な「世界解釈」であり「世界観」なのだ。
だから、本作には、この世界の「真理」が確実に含まれている一方で、当然のことながら誤認も含まれている。すべての「仏教教典」が「真理そのもの」ではないように、本作で描かれた「比喩的世界観」も、ひとつの「仏道修行」の過程で得られた「過渡的産物」にすぎない。
しかしまた、この世のすべての認識は「過渡的産物」にすぎない。「真理」を知るのは「覚者(ブッダ)」だけだが、その「真理」は共有し得ないのであるから、「真理そのもの」は、いかなる書物にも記されてはいないのである。

では、本書に示された「過渡的世界観」とは、どのようなものであろうか。
それは、きわめてオーソドックスな仏教的思想である「すべては、そのままに救われている」というものではないかと思う。
つまり、「近親相姦」も「殺人」も、この世界の究極においては許されており、赦されている。だからこそ、それは現に存在し、そうした「不幸」と思えるものにとらわれる不幸な人も、現に存在するのである。

誰も、好きこのんで「近親相姦者」になりたいとは思わない。誰も、好きこのんで「殺人嗜好症のサイコパス」に生まれつきたいとは思わない。しかし、この世界は、あらゆる可能性に開かれており、必然的に「悪」と呼ばれる存在に生まれついてしまう、不幸な人もある。
不幸としか呼びようのない肉体を持って産まれたり、不幸としか呼びようのない環境に生まれてしまい、不幸のままに死なざるを得ない人も大勢いる。それが、この世界の「真実」なのだ。一一これは、どういうことなのだろうか?

言ってしまえば、結局のところ、この世界には「善も悪もない」のだ。
それは、人間という「種」が生き延びるために生み出した「道具的観念」であって、それ自体が「宇宙の法則」でも「真理」でもないのである。私たちは、そうした「進化論的必然性」に縛られて、物事を判断するしかないように作られているだけで、それは、あらゆるもの、例えば、別の生命体に対しても矛盾なく適用できるような「絶対的真理」などではない。だからこそ、私たちは、クジラやイルカの命をどう扱うか、ノミやシラミや命をどう扱うのが正しいのかと考えた時に、自身の「独善」を認識しないでいられないのである。

したがって、本作『上弦の月を喰べる獅子』が、「宇宙論」であると同時に「進化論」であるというのも、当然のことである。
この「宇宙(=世界)とは何か」と考えることと、「人間とは何か」と考えることは、同じであるし、それは必然的に「生命とは何か」をおのずと問うことにもなる。「世界=宇宙」を問うことにおいて、「人間中心」主義では済まされないし、それで済まそうとすれば、「認識論的限界」において独善的な決定という「教義」を持ち、それを「信仰」するしかなくなるのである。

ともあれ、そんなわけで、この「宇宙=世界」は、なにゆえにか、一定の方向に「進化」している。人間を含むすべての生命体や非生命体の「進化=変化」も、その上でのことでしかない。
しかし、なぜこの「宇宙=世界」は「進化=変化」するのだろうか。どうして「静止」してはいけないのだろうか。なぜ「寂滅」であってはいけないのか。この世界が存在しなければ、そこには「善悪」も必要なく「幸不幸」も生み出されないではないか。一一たしかに、そのとおりなのだ。

だが、現にこの「宇宙=世界」は在り、必然的にそこには「善悪」が生み出され「幸不幸」が生み出される。これを、どう考えれば良いのか。言い変えれば、本来的に「善悪」のない、必然的に「不幸」をも含み持つすべての可能性に開かれたこの「宇宙=世界」が存在するという事実は、はたして「肯定」的なものなのか、それとも「否定」的なものなのか。これは、「愛」なのか「呪い」なのか。

それが「二つのものでない」と説くところが「仏教的な宇宙観」であり、そのうえでそれを「どちらと見るか」の判断は、個々に任されている。
個々の「悟り」とは、この「無意味の意図(意味)」を問うことの先にあるのである。

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上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)より
4150305021
No.34:
(5pt)

これは〈世界〉について物語である。

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本作は「仏教的世界観」を、壮大な異世界冒険譚として描いた作品だと言えるだろう。
しかし、多くの日本人は、「仏教」を「宗教」のひとつだと理解している点において、こうした説明は誤解されやすい。

あえて言いきってしまえば、「仏教」は「宗教」ではない。
「仏教」は、「宇宙論」的な「哲学」なのだ。つまり、「キリスト教」などに代表される「宗教」が、「宇宙的真理を語った(騙った)フィクション」であるのに対し、「仏教」は「宇宙に関する、解釈学的な哲学」なのである。
したがって「仏教」は、「真理」に肉薄しようとはするが、個々の解釈学的な「認識」をもって「真理」だとは主張しない。あくまでもそれは「真理」すなわち「悟り」に至るまでの過渡的認識でしかなく、当然「悟り」そのものではないのであり、おのずと「真理」でもありえないからである。

では、「悟り」に至った者、つまり「真理」に至った「覚者(ブッダ)」が語ったことは「真理」なのか?
無論「真理」である。ただし、その「真理」を正しく理解(解釈)できるのもまた「覚者=悟りを開いた者」に限られる。したがって「覚者(ブッダ)」ではない私たち「凡夫」が、「覚者(ブッダ)」の語る「真理」の言葉を耳にしても、それだけで「真理」を認識することはできない。私たちはあくまでも、そうした「真理の言葉」(例えば、経文や教典)に導かれることによって、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩まなければならない。すなわち「仏道修行」である。

もっとも、ここで私の言う「仏道修行」とは、あたりまえに「仏門に入って(出家して)修行をする」ということだけを意味してはいない。
私は「無神論者」であり「無宗教者」であるけれども、「この世界(宇宙)の真理を認識したい」と考え、自分なりに「探求の道」を歩んでいるという事実において、実質的には「仏道修行」者なのだ。
これは、「仏教」が一種の「真理探究の道=哲学」であって、キリスト教のような「真理を独占したと主張するフィクション」ではないからである。また、そうした意味で「仏教は無神論である」とも言われるのだ。

キリスト教のように、その教え(教義)こそが、この宇宙(=世界)についての「唯一無二の真理」であると説く「宗教」が、それを「正統教義」として独占し、それに反するいかなる考えも間違いだと断ずるのは、理の当然である。「真理」が一つであり、それと違っているところがあるのであれば、それはそこが間違いであると考えるのは、ごく自然なことだ。
だが、この場合に問題となるのは、なぜ自分たちの「教義」が「真理」だと断ずることができるのか、という問題である。

それが「真理」であり、「真理」であるが故に「この世界を救済してみせたという実績・事実」があるのであれば、それが「真理」だという、一応の証明や証拠にもなろう。しかし、キリスト教を始めとして、あらゆる「宗教」は、いまだにこの世界やそこに住む人々を救ったことがない。

イエスは同時代の人々に、間もなく訪れる「神の国」に備えて、早く悔い改めろと訴えたが、結局それは、いまだに訪れてはいない。「神の国の遅延問題」である。

では、この世界まるごとの救済ではなく、個々に救済された事実があるのかと言えば、その証拠もどこにもない。「天国」の存在も、天国へ行った人の存在も、どこにもない。それはキリスト教会や個々の信者が「ある」と主張しているだけであって、キリスト教徒以外の人にもハッキリと認識できるような、具体的かつ客観的な証拠は、どこにもないのである。そもそも、そんなものがあれば、すべての人が進んでキリスト教徒になっていたことであろう。

結局のところ、キリスト教のような「宗教」は、「証拠のない世界観=教義」を語って、それを信じろと訴えるものでしかない。つまり「妄信しろ」と訴え、「妄信する者だけが、結果として救われる」と訴えている、「信用のおけない博打的世界観」にすぎないのだ。「世界の真理」を独占的に知っていると主張する「宗教」とは、そういうものなのである。

その意味で「仏教」は、「宗教」ではない。
「仏教」は、あくまでも「世界解釈」であり、その意味で「哲学」でしかない。それ以上の、厚かましい自己評価を語ってはいない。あくまでも「私たちは、こう考えるが、どうだろうか?」ということでしかない。
そして、それが「真理」かどうかを確かめるには、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩むしかないのである。

 ○ ○ ○

さて、本作は、このような「仏教的宇宙観」を、異世界冒険譚のかたちで描いた「物語」である。それはちょうど、実在の人物としての釈迦(シッダールタ)が「悟り」を開いたのは、じつはその短い一生においてではなく、じつのところ、極めて長くて遥かな久遠からの時間の中を生まれ変わり死に変わりして、仏の教えを求める「歴劫修行」の果てに、釈迦(シッダールタ)の生の段階において、初めて「真理」に到達したのだ、とするような、教典に描かれた「物語」と、同じことなのだ。

つまり、「仏教的宇宙観」とは、客観的な数字や数式で語られてはおらず、「言葉」を用いて「物語」のかたちで、比喩的に描かれているのだ。したがって、そこに描かれた「物語」自体が、そのまま「真理」だというのではない。その物語は、「真理」の「比喩的説明」形式にすぎないのであり、キリスト教のように「マリアの処女懐胎」だとか「イエスの処刑後三日目の復活」だとかいったことを「客観的事実=現実」として「そのまま信じろ」などとは言わない。

仏教教典には、先に紹介した「輪廻転生」的な「歴劫修行」といった「お話」だけではなく、とんでもなく壮大なお話が多数登場するが、それはあくまでも、この「宇宙=世界」というものの本質であり「真理」を説明するための「喩え話」でしかなく、それをそのまま信じるべき「真理」ではないのである。
仏教においては、そうした「物語(フィクション)」を参照し、助けを借りながらながら、個々がそれぞれに、この世界の「真理」を直覚しなければならず、それは「言葉」によって他者と共有できるようなものではないのである。

したがって、本書『上弦の月を喰べる獅子』という「作品」も、そういう「仏教教典」と本質的に同じものである、と言っても過言ではない。これは、夢枕獏という作家が書いた、彼なりの、過渡的な「世界解釈」であり「世界観」なのだ。
だから、本作には、この世界の「真理」が確実に含まれている一方で、当然のことながら誤認も含まれている。すべての「仏教教典」が「真理そのもの」ではないように、本作で描かれた「比喩的世界観」も、ひとつの「仏道修行」の過程で得られた「過渡的産物」にすぎない。
しかしまた、この世のすべての認識は「過渡的産物」にすぎない。「真理」を知るのは「覚者(ブッダ)」だけだが、その「真理」は共有し得ないのであるから、「真理そのもの」は、いかなる書物にも記されてはいないのである。

では、本書に示された「過渡的世界観」とは、どのようなものであろうか。
それは、きわめてオーソドックスな仏教的思想である「すべては、そのままに救われている」というものではないかと思う。
つまり、「近親相姦」も「殺人」も、この世界の究極においては許されており、赦されている。だからこそ、それは現に存在し、そうした「不幸」と思えるものにとらわれる不幸な人も、現に存在するのである。

誰も、好きこのんで「近親相姦者」になりたいとは思わない。誰も、好きこのんで「殺人嗜好症のサイコパス」に生まれつきたいとは思わない。しかし、この世界は、あらゆる可能性に開かれており、必然的に「悪」と呼ばれる存在に生まれついてしまう、不幸な人もある。
不幸としか呼びようのない肉体を持って産まれたり、不幸としか呼びようのない環境に生まれてしまい、不幸のままに死なざるを得ない人も大勢いる。それが、この世界の「真実」なのだ。一一これは、どういうことなのだろうか?

言ってしまえば、結局のところ、この世界には「善も悪もない」のだ。
それは、人間という「種」が生き延びるために生み出した「道具的観念」であって、それ自体が「宇宙の法則」でも「真理」でもないのである。私たちは、そうした「進化論的必然性」に縛られて、物事を判断するしかないように作られているだけで、それは、あらゆるもの、例えば、別の生命体に対しても矛盾なく適用できるような「絶対的真理」などではない。だからこそ、私たちは、クジラやイルカの命をどう扱うか、ノミやシラミや命をどう扱うのが正しいのかと考えた時に、自身の「独善」を認識しないでいられないのである。

したがって、本作『上弦の月を喰べる獅子』が、「宇宙論」であると同時に「進化論」であるというのも、当然のことである。
この「宇宙(=世界)とは何か」と考えることと、「人間とは何か」と考えることは、同じであるし、それは必然的に「生命とは何か」をおのずと問うことにもなる。「世界=宇宙」を問うことにおいて、「人間中心」主義では済まされないし、それで済まそうとすれば、「認識論的限界」において独善的な決定という「教義」を持ち、それを「信仰」するしかなくなるのである。

ともあれ、そんなわけで、この「宇宙=世界」は、なにゆえにか、一定の方向に「進化」している。人間を含むすべての生命体や非生命体の「進化=変化」も、その上でのことでしかない。
しかし、なぜこの「宇宙=世界」は「進化=変化」するのだろうか。どうして「静止」してはいけないのだろうか。なぜ「寂滅」であってはいけないのか。この世界が存在しなければ、そこには「善悪」も必要なく「幸不幸」も生み出されないではないか。一一たしかに、そのとおりなのだ。

だが、現にこの「宇宙=世界」は在り、必然的にそこには「善悪」が生み出され「幸不幸」が生み出される。これを、どう考えれば良いのか。言い変えれば、本来的に「善悪」のない、必然的に「不幸」をも含み持つすべての可能性に開かれたこの「宇宙=世界」が存在するという事実は、はたして「肯定」的なものなのか、それとも「否定」的なものなのか。これは、「愛」なのか「呪い」なのか。

それが「二つのものでない」と説くところが「仏教的な宇宙観」であり、そのうえでそれを「どちらと見るか」の判断は、個々に任されている。
個々の「悟り」とは、この「無意味の意図(意味)」を問うことの先にあるのである。

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上弦の月を喰べる獅子〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)より
415030503X
No.33:
(5pt)

これは〈世界〉について物語である

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本作は「仏教的世界観」を、壮大な異世界冒険譚として描いた作品だと言えるだろう。
しかし、多くの日本人は、「仏教」を「宗教」のひとつだと理解している点において、こうした説明は誤解されやすい。

あえて言いきってしまえば、「仏教」は「宗教」ではない。
「仏教」は、「宇宙論」的な「哲学」なのだ。つまり、「キリスト教」などに代表される「宗教」が、「宇宙的真理を語った(騙った)フィクション」であるのに対し、「仏教」は「宇宙に関する、解釈学的な哲学」なのである。
したがって「仏教」は、「真理」に肉薄しようとはするが、個々の解釈学的な「認識」をもって「真理」だとは主張しない。あくまでもそれは「真理」すなわち「悟り」に至るまでの過渡的認識でしかなく、当然「悟り」そのものではないのであり、おのずと「真理」でもありえないからである。

では、「悟り」に至った者、つまり「真理」に至った「覚者(ブッダ)」が語ったことは「真理」なのか?
無論「真理」である。ただし、その「真理」を正しく理解(解釈)できるのもまた「覚者=悟りを開いた者」に限られる。したがって「覚者(ブッダ)」ではない私たち「凡夫」が、「覚者(ブッダ)」の語る「真理」の言葉を耳にしても、それだけで「真理」を認識することはできない。私たちはあくまでも、そうした「真理の言葉」(例えば、経文や教典)に導かれることによって、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩まなければならない。すなわち「仏道修行」である。

もっとも、ここで私の言う「仏道修行」とは、あたりまえに「仏門に入って(出家して)修行をする」ということだけを意味してはいない。
私は「無神論者」であり「無宗教者」であるけれども、「この世界(宇宙)の真理を認識したい」と考え、自分なりに「探求の道」を歩んでいるという事実において、実質的には「仏道修行」者なのだ。
これは、「仏教」が一種の「真理探究の道=哲学」であって、キリスト教のような「真理を独占したと主張するフィクション」ではないからである。また、そうした意味で「仏教は無神論である」とも言われるのだ。

キリスト教のように、その教え(教義)こそが、この宇宙(=世界)についての「唯一無二の真理」であると説く「宗教」が、それを「正統教義」として独占し、それに反するいかなる考えも間違いだと断ずるのは、理の当然である。「真理」が一つであり、それと違っているところがあるのであれば、それはそこが間違いであると考えるのは、ごく自然なことだ。
だが、この場合に問題となるのは、なぜ自分たちの「教義」が「真理」だと断ずることができるのか、という問題である。

それが「真理」であり、「真理」であるが故に「この世界を救済してみせたという実績・事実」があるのであれば、それが「真理」だという、一応の証明や証拠にもなろう。しかし、キリスト教を始めとして、あらゆる「宗教」は、いまだにこの世界やそこに住む人々を救ったことがない。

イエスは同時代の人々に、間もなく訪れる「神の国」に備えて、早く悔い改めろと訴えたが、結局それは、いまだに訪れてはいない。「神の国の遅延問題」である。

では、この世界まるごとの救済ではなく、個々に救済された事実があるのかと言えば、その証拠もどこにもない。「天国」の存在も、天国へ行った人の存在も、どこにもない。それはキリスト教会や個々の信者が「ある」と主張しているだけであって、キリスト教徒以外の人にもハッキリと認識できるような、具体的かつ客観的な証拠は、どこにもないのである。そもそも、そんなものがあれば、すべての人が進んでキリスト教徒になっていたことであろう。

結局のところ、キリスト教のような「宗教」は、「証拠のない世界観=教義」を語って、それを信じろと訴えるものでしかない。つまり「妄信しろ」と訴え、「妄信する者だけが、結果として救われる」と訴えている、「信用のおけない博打的世界観」にすぎないのだ。「世界の真理」を独占的に知っていると主張する「宗教」とは、そういうものなのである。

その意味で「仏教」は、「宗教」ではない。
「仏教」は、あくまでも「世界解釈」であり、その意味で「哲学」でしかない。それ以上の、厚かましい自己評価を語ってはいない。あくまでも「私たちは、こう考えるが、どうだろうか?」ということでしかない。
そして、それが「真理」かどうかを確かめるには、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩むしかないのである。

 ○ ○ ○

さて、本作は、このような「仏教的宇宙観」を、異世界冒険譚のかたちで描いた「物語」である。それはちょうど、実在の人物としての釈迦(シッダールタ)が「悟り」を開いたのは、じつはその短い一生においてではなく、じつのところ、極めて長くて遥かな久遠からの時間の中を生まれ変わり死に変わりして、仏の教えを求める「歴劫修行」の果てに、釈迦(シッダールタ)の生の段階において、初めて「真理」に到達したのだ、とするような、教典に描かれた「物語」と、同じことなのだ。

つまり、「仏教的宇宙観」とは、客観的な数字や数式で語られてはおらず、「言葉」を用いて「物語」のかたちで、比喩的に描かれているのだ。したがって、そこに描かれた「物語」自体が、そのまま「真理」だというのではない。その物語は、「真理」の「比喩的説明」形式にすぎないのであり、キリスト教のように「マリアの処女懐胎」だとか「イエスの処刑後三日目の復活」だとかいったことを「客観的事実=現実」として「そのまま信じろ」などとは言わない。

仏教教典には、先に紹介した「輪廻転生」的な「歴劫修行」といった「お話」だけではなく、とんでもなく壮大なお話が多数登場するが、それはあくまでも、この「宇宙=世界」というものの本質であり「真理」を説明するための「喩え話」でしかなく、それをそのまま信じるべき「真理」ではないのである。
仏教においては、そうした「物語(フィクション)」を参照し、助けを借りながらながら、個々がそれぞれに、この世界の「真理」を直覚しなければならず、それは「言葉」によって他者と共有できるようなものではないのである。

したがって、本書『上弦の月を喰べる獅子』という「作品」も、そういう「仏教教典」と本質的に同じものである、と言っても過言ではない。これは、夢枕獏という作家が書いた、彼なりの、過渡的な「世界解釈」であり「世界観」なのだ。
だから、本作には、この世界の「真理」が確実に含まれている一方で、当然のことながら誤認も含まれている。すべての「仏教教典」が「真理そのもの」ではないように、本作で描かれた「比喩的世界観」も、ひとつの「仏道修行」の過程で得られた「過渡的産物」にすぎない。
しかしまた、この世のすべての認識は「過渡的産物」にすぎない。「真理」を知るのは「覚者(ブッダ)」だけだが、その「真理」は共有し得ないのであるから、「真理そのもの」は、いかなる書物にも記されてはいないのである。

では、本書に示された「過渡的世界観」とは、どのようなものであろうか。
それは、きわめてオーソドックスな仏教的思想である「すべては、そのままに救われている」というものではないかと思う。
つまり、「近親相姦」も「殺人」も、この世界の究極においては許されており、赦されている。だからこそ、それは現に存在し、そうした「不幸」と思えるものにとらわれる不幸な人も、現に存在するのである。

誰も、好きこのんで「近親相姦者」になりたいとは思わない。誰も、好きこのんで「殺人嗜好症のサイコパス」に生まれつきたいとは思わない。しかし、この世界は、あらゆる可能性に開かれており、必然的に「悪」と呼ばれる存在に生まれついてしまう、不幸な人もある。
不幸としか呼びようのない肉体を持って産まれたり、不幸としか呼びようのない環境に生まれてしまい、不幸のままに死なざるを得ない人も大勢いる。それが、この世界の「真実」なのだ。一一これは、どういうことなのだろうか?

言ってしまえば、結局のところ、この世界には「善も悪もない」のだ。
それは、人間という「種」が生き延びるために生み出した「道具的観念」であって、それ自体が「宇宙の法則」でも「真理」でもないのである。私たちは、そうした「進化論的必然性」に縛られて、物事を判断するしかないように作られているだけで、それは、あらゆるもの、例えば、別の生命体に対しても矛盾なく適用できるような「絶対的真理」などではない。だからこそ、私たちは、クジラやイルカの命をどう扱うか、ノミやシラミや命をどう扱うのが正しいのかと考えた時に、自身の「独善」を認識しないでいられないのである。

したがって、本作『上弦の月を喰べる獅子』が、「宇宙論」であると同時に「進化論」であるというのも、当然のことである。
この「宇宙(=世界)とは何か」と考えることと、「人間とは何か」と考えることは、同じであるし、それは必然的に「生命とは何か」をおのずと問うことにもなる。「世界=宇宙」を問うことにおいて、「人間中心」主義では済まされないし、それで済まそうとすれば、「認識論的限界」において独善的な決定という「教義」を持ち、それを「信仰」するしかなくなるのである。

ともあれ、そんなわけで、この「宇宙=世界」は、なにゆえにか、一定の方向に「進化」している。人間を含むすべての生命体や非生命体の「進化=変化」も、その上でのことでしかない。
しかし、なぜこの「宇宙=世界」は「進化=変化」するのだろうか。どうして「静止」してはいけないのだろうか。なぜ「寂滅」であってはいけないのか。この世界が存在しなければ、そこには「善悪」も必要なく「幸不幸」も生み出されないではないか。一一たしかに、そのとおりなのだ。

だが、現にこの「宇宙=世界」は在り、必然的にそこには「善悪」が生み出され「幸不幸」が生み出される。これを、どう考えれば良いのか。言い変えれば、本来的に「善悪」のない、必然的に「不幸」をも含み持つすべての可能性に開かれたこの「宇宙=世界」が存在するという事実は、はたして「肯定」的なものなのか、それとも「否定」的なものなのか。これは、「愛」なのか「呪い」なのか。

それが「二つのものでない」と説くところが「仏教的な宇宙観」であり、そのうえでそれを「どちらと見るか」の判断は、個々に任されている。
個々の「悟り」とは、この「無意味の意図(意味)」を問うことの先にあるのである。

.
上弦の月を喰べる獅子 上 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-5)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子 上 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-5)より
4150310262
No.32:
(5pt)

これは〈世界〉について物語である。

.
本作は「仏教的世界観」を、壮大な異世界冒険譚として描いた作品だと言えるだろう。
しかし、多くの日本人は、「仏教」を「宗教」のひとつだと理解している点において、こうした説明は誤解されやすい。

あえて言いきってしまえば、「仏教」は「宗教」ではない。
「仏教」は、「宇宙論」的な「哲学」なのだ。つまり、「キリスト教」などに代表される「宗教」が、「宇宙的真理を語った(騙った)フィクション」であるのに対し、「仏教」は「宇宙に関する、解釈学的な哲学」なのである。
したがって「仏教」は、「真理」に肉薄しようとはするが、個々の解釈学的な「認識」をもって「真理」だとは主張しない。あくまでもそれは「真理」すなわち「悟り」に至るまでの過渡的認識でしかなく、当然「悟り」そのものではないのであり、おのずと「真理」でもありえないからである。

では、「悟り」に至った者、つまり「真理」に至った「覚者(ブッダ)」が語ったことは「真理」なのか?
無論「真理」である。ただし、その「真理」を正しく理解(解釈)できるのもまた「覚者=悟りを開いた者」に限られる。したがって「覚者(ブッダ)」ではない私たち「凡夫」が、「覚者(ブッダ)」の語る「真理」の言葉を耳にしても、それだけで「真理」を認識することはできない。私たちはあくまでも、そうした「真理の言葉」(例えば、経文や教典)に導かれることによって、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩まなければならない。すなわち「仏道修行」である。

もっとも、ここで私の言う「仏道修行」とは、あたりまえに「仏門に入って(出家して)修行をする」ということだけを意味してはいない。
私は「無神論者」であり「無宗教者」であるけれども、「この世界(宇宙)の真理を認識したい」と考え、自分なりに「探求の道」を歩んでいるという事実において、実質的には「仏道修行」者なのだ。
これは、「仏教」が一種の「真理探究の道=哲学」であって、キリスト教のような「真理を独占したと主張するフィクション」ではないからである。また、そうした意味で「仏教は無神論である」とも言われるのだ。

キリスト教のように、その教え(教義)こそが、この宇宙(=世界)についての「唯一無二の真理」であると説く「宗教」が、それを「正統教義」として独占し、それに反するいかなる考えも間違いだと断ずるのは、理の当然である。「真理」が一つであり、それと違っているところがあるのであれば、それはそこが間違いであると考えるのは、ごく自然なことだ。
だが、この場合に問題となるのは、なぜ自分たちの「教義」が「真理」だと断ずることができるのか、という問題である。

それが「真理」であり、「真理」であるが故に「この世界を救済してみせたという実績・事実」があるのであれば、それが「真理」だという、一応の証明や証拠にもなろう。しかし、キリスト教を始めとして、あらゆる「宗教」は、いまだにこの世界やそこに住む人々を救ったことがない。

イエスは同時代の人々に、間もなく訪れる「神の国」に備えて、早く悔い改めろと訴えたが、結局それは、いまだに訪れてはいない。「神の国の遅延問題」である。

では、この世界まるごとの救済ではなく、個々に救済された事実があるのかと言えば、その証拠もどこにもない。「天国」の存在も、天国へ行った人の存在も、どこにもない。それはキリスト教会や個々の信者が「ある」と主張しているだけであって、キリスト教徒以外の人にもハッキリと認識できるような、具体的かつ客観的な証拠は、どこにもないのである。そもそも、そんなものがあれば、すべての人が進んでキリスト教徒になっていたことであろう。

結局のところ、キリスト教のような「宗教」は、「証拠のない世界観=教義」を語って、それを信じろと訴えるものでしかない。つまり「妄信しろ」と訴え、「妄信する者だけが、結果として救われる」と訴えている、「信用のおけない博打的世界観」にすぎないのだ。「世界の真理」を独占的に知っていると主張する「宗教」とは、そういうものなのである。

その意味で「仏教」は、「宗教」ではない。
「仏教」は、あくまでも「世界解釈」であり、その意味で「哲学」でしかない。それ以上の、厚かましい自己評価を語ってはいない。あくまでも「私たちは、こう考えるが、どうだろうか?」ということでしかない。
そして、それが「真理」かどうかを確かめるには、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩むしかないのである。

 ○ ○ ○

さて、本作は、このような「仏教的宇宙観」を、異世界冒険譚のかたちで描いた「物語」である。それはちょうど、実在の人物としての釈迦(シッダールタ)が「悟り」を開いたのは、じつはその短い一生においてではなく、じつのところ、極めて長くて遥かな久遠からの時間の中を生まれ変わり死に変わりして、仏の教えを求める「歴劫修行」の果てに、釈迦(シッダールタ)の生の段階において、初めて「真理」に到達したのだ、とするような、教典に描かれた「物語」と、同じことなのだ。

つまり、「仏教的宇宙観」とは、客観的な数字や数式で語られてはおらず、「言葉」を用いて「物語」のかたちで、比喩的に描かれているのだ。したがって、そこに描かれた「物語」自体が、そのまま「真理」だというのではない。その物語は、「真理」の「比喩的説明」形式にすぎないのであり、キリスト教のように「マリアの処女懐胎」だとか「イエスの処刑後三日目の復活」だとかいったことを「客観的事実=現実」として「そのまま信じろ」などとは言わない。

仏教教典には、先に紹介した「輪廻転生」的な「歴劫修行」といった「お話」だけではなく、とんでもなく壮大なお話が多数登場するが、それはあくまでも、この「宇宙=世界」というものの本質であり「真理」を説明するための「喩え話」でしかなく、それをそのまま信じるべき「真理」ではないのである。
仏教においては、そうした「物語(フィクション)」を参照し、助けを借りながらながら、個々がそれぞれに、この世界の「真理」を直覚しなければならず、それは「言葉」によって他者と共有できるようなものではないのである。

したがって、本書『上弦の月を喰べる獅子』という「作品」も、そういう「仏教教典」と本質的に同じものである、と言っても過言ではない。これは、夢枕獏という作家が書いた、彼なりの、過渡的な「世界解釈」であり「世界観」なのだ。
だから、本作には、この世界の「真理」が確実に含まれている一方で、当然のことながら誤認も含まれている。すべての「仏教教典」が「真理そのもの」ではないように、本作で描かれた「比喩的世界観」も、ひとつの「仏道修行」の過程で得られた「過渡的産物」にすぎない。
しかしまた、この世のすべての認識は「過渡的産物」にすぎない。「真理」を知るのは「覚者(ブッダ)」だけだが、その「真理」は共有し得ないのであるから、「真理そのもの」は、いかなる書物にも記されてはいないのである。

では、本書に示された「過渡的世界観」とは、どのようなものであろうか。
それは、きわめてオーソドックスな仏教的思想である「すべては、そのままに救われている」というものではないかと思う。
つまり、「近親相姦」も「殺人」も、この世界の究極においては許されており、赦されている。だからこそ、それは現に存在し、そうした「不幸」と思えるものにとらわれる不幸な人も、現に存在するのである。

誰も、好きこのんで「近親相姦者」になりたいとは思わない。誰も、好きこのんで「殺人嗜好症のサイコパス」に生まれつきたいとは思わない。しかし、この世界は、あらゆる可能性に開かれており、必然的に「悪」と呼ばれる存在に生まれついてしまう、不幸な人もある。
不幸としか呼びようのない肉体を持って産まれたり、不幸としか呼びようのない環境に生まれてしまい、不幸のままに死なざるを得ない人も大勢いる。それが、この世界の「真実」なのだ。一一これは、どういうことなのだろうか?

言ってしまえば、結局のところ、この世界には「善も悪もない」のだ。
それは、人間という「種」が生き延びるために生み出した「道具的観念」であって、それ自体が「宇宙の法則」でも「真理」でもないのである。私たちは、そうした「進化論的必然性」に縛られて、物事を判断するしかないように作られているだけで、それは、あらゆるもの、例えば、別の生命体に対しても矛盾なく適用できるような「絶対的真理」などではない。だからこそ、私たちは、クジラやイルカの命をどう扱うか、ノミやシラミや命をどう扱うのが正しいのかと考えた時に、自身の「独善」を認識しないでいられないのである。

したがって、本作『上弦の月を喰べる獅子』が、「宇宙論」であると同時に「進化論」であるというのも、当然のことである。
この「宇宙(=世界)とは何か」と考えることと、「人間とは何か」と考えることは、同じであるし、それは必然的に「生命とは何か」をおのずと問うことにもなる。「世界=宇宙」を問うことにおいて、「人間中心」主義では済まされないし、それで済まそうとすれば、「認識論的限界」において独善的な決定という「教義」を持ち、それを「信仰」するしかなくなるのである。

ともあれ、そんなわけで、この「宇宙=世界」は、なにゆえにか、一定の方向に「進化」している。人間を含むすべての生命体や非生命体の「進化=変化」も、その上でのことでしかない。
しかし、なぜこの「宇宙=世界」は「進化=変化」するのだろうか。どうして「静止」してはいけないのだろうか。なぜ「寂滅」であってはいけないのか。この世界が存在しなければ、そこには「善悪」も必要なく「幸不幸」も生み出されないではないか。一一たしかに、そのとおりなのだ。

だが、現にこの「宇宙=世界」は在り、必然的にそこには「善悪」が生み出され「幸不幸」が生み出される。これを、どう考えれば良いのか。言い変えれば、本来的に「善悪」のない、必然的に「不幸」をも含み持つすべての可能性に開かれたこの「宇宙=世界」が存在するという事実は、はたして「肯定」的なものなのか、それとも「否定」的なものなのか。これは、「愛」なのか「呪い」なのか。

それが「二つのものでない」と説くところが「仏教的な宇宙観」であり、そのうえでそれを「どちらと見るか」の判断は、個々に任されている。
個々の「悟り」とは、この「無意味の意図(意味)」を問うことの先にあるのである。

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上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)より
4150310270
No.31:
(5pt)

これは〈世界〉について物語である。

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本作は「仏教的世界観」を、壮大な異世界冒険譚として描いた作品だと言えるだろう。
しかし、多くの日本人は、「仏教」を「宗教」のひとつだと理解している点において、こうした説明は誤解されやすい。

あえて言いきってしまえば、「仏教」は「宗教」ではない。
「仏教」は、「宇宙論」的な「哲学」なのだ。つまり、「キリスト教」などに代表される「宗教」が、「宇宙的真理を語った(騙った)フィクション」であるのに対し、「仏教」は「宇宙に関する、解釈学的な哲学」なのである。
したがって「仏教」は、「真理」に肉薄しようとはするが、個々の解釈学的な「認識」をもって「真理」だとは主張しない。あくまでもそれは「真理」すなわち「悟り」に至るまでの過渡的認識でしかなく、当然「悟り」そのものではないのであり、おのずと「真理」でもありえないからである。

では、「悟り」に至った者、つまり「真理」に至った「覚者(ブッダ)」が語ったことは「真理」なのか?
無論「真理」である。ただし、その「真理」を正しく理解(解釈)できるのもまた「覚者=悟りを開いた者」に限られる。したがって「覚者(ブッダ)」ではない私たち「凡夫」が、「覚者(ブッダ)」の語る「真理」の言葉を耳にしても、それだけで「真理」を認識することはできない。私たちはあくまでも、そうした「真理の言葉」(例えば、経文や教典)に導かれることによって、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩まなければならない。すなわち「仏道修行」である。

もっとも、ここで私の言う「仏道修行」とは、あたりまえに「仏門に入って(出家して)修行をする」ということだけを意味してはいない。
私は「無神論者」であり「無宗教者」であるけれども、「この世界(宇宙)の真理を認識したい」と考え、自分なりに「探求の道」を歩んでいるという事実において、実質的には「仏道修行」者なのだ。
これは、「仏教」が一種の「真理探究の道=哲学」であって、キリスト教のような「真理を独占したと主張するフィクション」ではないからである。また、そうした意味で「仏教は無神論である」とも言われるのだ。

キリスト教のように、その教え(教義)こそが、この宇宙(=世界)についての「唯一無二の真理」であると説く「宗教」が、それを「正統教義」として独占し、それに反するいかなる考えも間違いだと断ずるのは、理の当然である。「真理」が一つであり、それと違っているところがあるのであれば、それはそこが間違いであると考えるのは、ごく自然なことだ。
だが、この場合に問題となるのは、なぜ自分たちの「教義」が「真理」だと断ずることができるのか、という問題である。

それが「真理」であり、「真理」であるが故に「この世界を救済してみせたという実績・事実」があるのであれば、それが「真理」だという、一応の証明や証拠にもなろう。しかし、キリスト教を始めとして、あらゆる「宗教」は、いまだにこの世界やそこに住む人々を救ったことがない。

イエスは同時代の人々に、間もなく訪れる「神の国」に備えて、早く悔い改めろと訴えたが、結局それは、いまだに訪れてはいない。「神の国の遅延問題」である。

では、この世界まるごとの救済ではなく、個々に救済された事実があるのかと言えば、その証拠もどこにもない。「天国」の存在も、天国へ行った人の存在も、どこにもない。それはキリスト教会や個々の信者が「ある」と主張しているだけであって、キリスト教徒以外の人にもハッキリと認識できるような、具体的かつ客観的な証拠は、どこにもないのである。そもそも、そんなものがあれば、すべての人が進んでキリスト教徒になっていたことであろう。

結局のところ、キリスト教のような「宗教」は、「証拠のない世界観=教義」を語って、それを信じろと訴えるものでしかない。つまり「妄信しろ」と訴え、「妄信する者だけが、結果として救われる」と訴えている、「信用のおけない博打的世界観」にすぎないのだ。「世界の真理」を独占的に知っていると主張する「宗教」とは、そういうものなのである。

その意味で「仏教」は、「宗教」ではない。
「仏教」は、あくまでも「世界解釈」であり、その意味で「哲学」でしかない。それ以上の、厚かましい自己評価を語ってはいない。あくまでも「私たちは、こう考えるが、どうだろうか?」ということでしかない。
そして、それが「真理」かどうかを確かめるには、個々が「覚者(ブッダ)」への道を歩むしかないのである。

 ○ ○ ○

さて、本作は、このような「仏教的宇宙観」を、異世界冒険譚のかたちで描いた「物語」である。それはちょうど、実在の人物としての釈迦(シッダールタ)が「悟り」を開いたのは、じつはその短い一生においてではなく、じつのところ、極めて長くて遥かな久遠からの時間の中を生まれ変わり死に変わりして、仏の教えを求める「歴劫修行」の果てに、釈迦(シッダールタ)の生の段階において、初めて「真理」に到達したのだ、とするような、教典に描かれた「物語」と、同じことなのだ。

つまり、「仏教的宇宙観」とは、客観的な数字や数式で語られてはおらず、「言葉」を用いて「物語」のかたちで、比喩的に描かれているのだ。したがって、そこに描かれた「物語」自体が、そのまま「真理」だというのではない。その物語は、「真理」の「比喩的説明」形式にすぎないのであり、キリスト教のように「マリアの処女懐胎」だとか「イエスの処刑後三日目の復活」だとかいったことを「客観的事実=現実」として「そのまま信じろ」などとは言わない。

仏教教典には、先に紹介した「輪廻転生」的な「歴劫修行」といった「お話」だけではなく、とんでもなく壮大なお話が多数登場するが、それはあくまでも、この「宇宙=世界」というものの本質であり「真理」を説明するための「喩え話」でしかなく、それをそのまま信じるべき「真理」ではないのである。
仏教においては、そうした「物語(フィクション)」を参照し、助けを借りながらながら、個々がそれぞれに、この世界の「真理」を直覚しなければならず、それは「言葉」によって他者と共有できるようなものではないのである。

したがって、本書『上弦の月を喰べる獅子』という「作品」も、そういう「仏教教典」と本質的に同じものである、と言っても過言ではない。これは、夢枕獏という作家が書いた、彼なりの、過渡的な「世界解釈」であり「世界観」なのだ。
だから、本作には、この世界の「真理」が確実に含まれている一方で、当然のことながら誤認も含まれている。すべての「仏教教典」が「真理そのもの」ではないように、本作で描かれた「比喩的世界観」も、ひとつの「仏道修行」の過程で得られた「過渡的産物」にすぎない。
しかしまた、この世のすべての認識は「過渡的産物」にすぎない。「真理」を知るのは「覚者(ブッダ)」だけだが、その「真理」は共有し得ないのであるから、「真理そのもの」は、いかなる書物にも記されてはいないのである。

では、本書に示された「過渡的世界観」とは、どのようなものであろうか。
それは、きわめてオーソドックスな仏教的思想である「すべては、そのままに救われている」というものではないかと思う。
つまり、「近親相姦」も「殺人」も、この世界の究極においては許されており、赦されている。だからこそ、それは現に存在し、そうした「不幸」と思えるものにとらわれる不幸な人も、現に存在するのである。

誰も、好きこのんで「近親相姦者」になりたいとは思わない。誰も、好きこのんで「殺人嗜好症のサイコパス」に生まれつきたいとは思わない。しかし、この世界は、あらゆる可能性に開かれており、必然的に「悪」と呼ばれる存在に生まれついてしまう、不幸な人もある。
不幸としか呼びようのない肉体を持って産まれたり、不幸としか呼びようのない環境に生まれてしまい、不幸のままに死なざるを得ない人も大勢いる。それが、この世界の「真実」なのだ。一一これは、どういうことなのだろうか?

言ってしまえば、結局のところ、この世界には「善も悪もない」のだ。
それは、人間という「種」が生き延びるために生み出した「道具的観念」であって、それ自体が「宇宙の法則」でも「真理」でもないのである。私たちは、そうした「進化論的必然性」に縛られて、物事を判断するしかないように作られているだけで、それは、あらゆるもの、例えば、別の生命体に対しても矛盾なく適用できるような「絶対的真理」などではない。だからこそ、私たちは、クジラやイルカの命をどう扱うか、ノミやシラミや命をどう扱うのが正しいのかと考えた時に、自身の「独善」を認識しないでいられないのである。

したがって、本作『上弦の月を喰べる獅子』が、「宇宙論」であると同時に「進化論」であるというのも、当然のことである。
この「宇宙(=世界)とは何か」と考えることと、「人間とは何か」と考えることは、同じであるし、それは必然的に「生命とは何か」をおのずと問うことにもなる。「世界=宇宙」を問うことにおいて、「人間中心」主義では済まされないし、それで済まそうとすれば、「認識論的限界」において独善的な決定という「教義」を持ち、それを「信仰」するしかなくなるのである。

ともあれ、そんなわけで、この「宇宙=世界」は、なにゆえにか、一定の方向に「進化」している。人間を含むすべての生命体や非生命体の「進化=変化」も、その上でのことでしかない。
しかし、なぜこの「宇宙=世界」は「進化=変化」するのだろうか。どうして「静止」してはいけないのだろうか。なぜ「寂滅」であってはいけないのか。この世界が存在しなければ、そこには「善悪」も必要なく「幸不幸」も生み出されないではないか。一一たしかに、そのとおりなのだ。

だが、現にこの「宇宙=世界」は在り、必然的にそこには「善悪」が生み出され「幸不幸」が生み出される。これを、どう考えれば良いのか。言い変えれば、本来的に「善悪」のない、必然的に「不幸」をも含み持つすべての可能性に開かれたこの「宇宙=世界」が存在するという事実は、はたして「肯定」的なものなのか、それとも「否定」的なものなのか。これは、「愛」なのか「呪い」なのか。

それが「二つのものでない」と説くところが「仏教的な宇宙観」であり、そのうえでそれを「どちらと見るか」の判断は、個々に任されている。
個々の「悟り」とは、この「無意味の意図(意味)」を問うことの先にあるのである。

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上弦の月を喰べる獅子Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子より
4152034076
No.30:
(4pt)

数式ではなく、言葉で宇宙を表現しようとした、夢枕獏にしか書けない物語

夢枕獏の仏教SF小説である。

というか、仏教的世界観で宇宙や進化を表現している小説なのである。

テーマは螺旋。

宇宙も進化も、人も物も、すべて螺旋が司っているという発想から、すべてが構築されている。

恋人を学生運動の内ゲバで失い、戦場カメラマンとなった螺旋蒐集家と、妹を失った宮沢賢治が、宇宙の子宮たる須弥山に登る主人公のうちに双人とし宿るという設定である。

大変構築な小説であり、章立ても第1章には新月を意味する『朔』、最終章の第10章には満月を意味する『望』、そして第2章から第9章には胎児の変化を意味する名が与えられている。

そして章の間には、禅問答からインスパイアされたような「螺旋問答」と、作者自身の考察を披歴する「螺旋論考」が挟まれている。

自由奔放に想像力のままに書いているようでいて、実は驚くほど綿密に計算され緻密に構築されているのである。

作者は「あとがき」で、この作品は「ぼくにし書けなかった物語である」と述べている。

宇宙を数式ではなく言葉で表現したい、というやむにやまれぬ欲求からこの小説は生まれたとも。

それは、確かに成功している。

90%以上は。

残りの10%が不満であるとするのは、宮沢賢治の対称的な位置に、学生運動の内ゲバで恋人を失った戦場カメラマンを配したからである。

ここだけが、どうにも安直で安易で薄っぺらなものに感じてしまう。

ただ、そうであったとして90%は圧倒的なのであるが。
上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)より
4150310270
No.29:
(5pt)

わたしにとっては、まさにバイブルです

内容は本当にすばらしいと思います。
”樹”との対話や、
”野に咲く花は幸せであろうか?”という問いかけは、
戦慄を誘います。

ただ、宮沢賢治や、南無妙法蓮華経のマントラ(?)が出てきますので、
人によっては、生理的に合わない方もおられるかもしれません。
わたし自身は、最初から最後まで、何度読み直したか覚えていないくらい読み込んでいます。
夢枕獏という作家の「主著」と呼んで差し支えないと思います。
上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)より
4150305021
No.28:
(5pt)

わたしにとって、まさにバイブルです

内容は本当にすばらしいと思います。
”樹”との対話や、
”野に咲く花は幸せであろうか?”という問いかけは、
戦慄を誘います。

ただ、宮沢賢治や、南無妙法蓮華経のマントラ(?)が出てきますので、
人によっては、生理的に合わない方もおられるかもしれません。
わたし自身は、最初から最後まで、何度読み直したか覚えていないくらい読み込んでいます。
夢枕獏という作家の「主著」と呼んで差し支えないと思います。
上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)より
4150310270
No.27:
(1pt)

駄作です。

あまりに面白くなかったので途中で読むことを諦めました。
上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)より
4150305021
No.26:
(1pt)

残念ながら「駄作」だと思います。

あまりに面白くなかったので途中で読むことを諦めました。
上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子 下 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-6)より
4150310270
No.25:
(5pt)

人生を変えた本です

獏さんの螺旋の話は、私の人生を変えた概念だと思っています。この本を読んでなければ、ヘーゲルの螺旋的発展段階の法則を理解出来なかったかもしれません。
上弦の月を喰べる獅子Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子より
4152034076
No.24:
(5pt)

人生の教科書

傑作❗️宮沢賢治を絡めながらのストーリーに宮沢作品を見たことない私は心配だったのですが問題なく楽しめました。読後心の中のなにかがずっと泣いているのです。そうか、誰もがきっと心の中に棲み着いている物があるのですね。
今後宮沢作品を色々楽しもうかと思います。夢枕作品はまだこの作品の余韻を響かせておきたいので少しお休みします。
上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)より
4150305021
No.23:
(5pt)

タイトルかっこいい

あるサイトで紹介されていて、上弦の月を喰べる獅子 というかっこいいタイトルに惹かれて購入しました。タイトル通り内容も実に複雑、幻想、美麗、混沌といったような具合です。SFというジャンルになっているようですが、こてこてのサイエンティフィックな感じは無く、でも舞台がフィクションではあるという感じで、少なくともレーザー光線が飛び交う戦場をビームサーベルで乗り越えるというような作品ではありません。
勝手なイメージですが本に限ってはレビュー次第で買うかどうかを決定的に左右されるという人はなかなかいないと思いますし、書くべきことが思いつかないので(自分への言い訳ですが、おそらくそれを自在に表現できる人は全く同じ作品を書くことができる人であり、たぶんそういう人はいないでしょう)レビューはこんなもんにしますが、自分としては非常に豊かな読書の時間になったと感じているにもかかわらず不当なまでに評価を下げられているために、より多くのレビューが参考として役立つべき上巻のページではなく、この下巻側のページにレビューを付けておきたく思います。
上弦の月を喰べる獅子〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)より
415030503X
No.22:
(5pt)

神がかりのような壮大な作品

三島草平は大学紛争で学内が荒れまくった時代、実は過激派メンバーだった恋人を闘争で亡くした。そのトラウマをひきずって戦場カメラマンになった彼は末期の胃がんを患っている。脳の海馬には戦場で爆撃にあった際に入り込んでしまった石片が残っていて、そのせいか時々幻覚のようなものを見る。そしてその幻覚はいつも螺旋の形を取っているのだった。ある日、仕事でとあるビルに出かけた彼は、あるはずのない螺旋階段をそこに見る。その螺旋は宇宙かと見まがうようなはるか上空まで伸びていた。彼は呼ばれるようにその螺旋を上って行ったのだが・・・。

ひと昔さかのぼった時代のある東北の冬、農業指導者でもある詩人は(明らかに宮沢賢治を暗示している)二荒山の奥の斜面に巨大な螺旋を見る。それは直径5メートルもある巨大なオウム貝の化石だった。過酷な厳寒に悩まされ、思うように農業の収穫は上がらずひんぱんに飢餓に直面する日々、しかも彼は最近、最愛の妹を亡くしていた。彼自身も結核をかかえていた詩人は、導かれるようにその貝の螺旋の中に入っていった・・・。

海岸で目をさました男は、自分が完全に記憶を失っているのに気がついた。おぼろげに過去のものらしい記憶がよみがえるが、何のことかわからない。彼は年老いた両親と兄、妹の4人家族に拾われ、アシュヴィンという名前をもらって妹シェラの婿のようになる。その世界では、海から続々と魚が上陸し、渦巻き状の螺旋虫が生息する世界だった。海岸の上方には気の遠くなるような高く広大な大地が開けていて、海から来た生物はすべて上を目指して上がっていくようである。家族に「上には何があるのか?」ときいても両親には曖昧にされ、兄、妹は知らないと言うばかり。ある日、妹を取られたと嫉妬に狂った兄ダモンは両親を惨殺し、彼にも迫ってくる。「上に行こう。上には別世界がある。」と彼は妻となった妹と手を取りあってどんどん上へ上へと登り出すのだが・・・。

アシュヴィンの話を中心として、他の時空の2つの話が時々織り込まれて進みます。まずその世界観に圧倒されました。この現代の地球とは異次元に、またははるかな別宇宙に存在しているかのような世界の描写が実在感を持って迫ってきます。他のレビューアさんが書いておられたのを読んで、この小説がSF大賞受賞作だと知りましたが、SFというよりは、幻想小説、哲学的宗教的文学作品といった方が近いような・・。著者は宮沢賢治の作品をはじめとして、遺伝子学、多彩な仏典やリグ・ヴェーダ、ウパニシャッドをはじめとしたインド哲学、インド神話をかなり読み込んでおられるのだと思います。あとがきで著者は「これは天についての物語である」と書かれています。また、「これは進化の物語である」とも、「数式を使わずに、言葉、表現、言い回しによって宇宙を語ることはできないのだろうか」とも。登場人物たちの姿や人生を借りていますが、描こうとされたのは真理や宇宙なるものだったのではないでしょうか。

ストーリーの間には、禅問答のような難解な哲学的理論が展開され、このあたりで投げ出してしまう人も少なくないかもしれません。自分は作品の持つ迫力に当てられて、1日で一気読みしてしまいました。著者自身が述べておられるように「物語の方が書き手に降りてきた」と。どうしてこのように壮大な話が書けるのだろうか、稀に見る素晴らしい作品だと思います。
上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)より
4150305021
No.21:
(5pt)

正直手に入らないものと

けっこー古いのは知りつつ、ある知人の贈答に一冊購入しました。

内容は読んでいただかないとなんともですが(苦笑

夢枕獏の中でも自分が最も好きな一冊でもあります。
上弦の月を喰べる獅子Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子より
4152034076
No.20:
(1pt)

全く面白くない!

らせんがどうのこうのと言ってるが訳がわからない。
半分ぐらい頑張って読んだが、あまりのつまらなさにびっくりして読むの辞めました。
上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)Amazon書評・レビュー:上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)より
4150305021

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