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邪宗門
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【この小説が収録されている参考書籍】
邪宗門の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.57pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全53件 41~53 3/3ページ
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1965~66に朝日ジャーナル(インテリ向け週刊誌?)に連載されたものが原本になっている。基本は新興宗教の興亡を描いている。女性教祖の経歴、後継者に恵まれて全国に信者100万まで発展し、昭和の挙国一致体制に弾圧される。明治憲法、治安維持法、反逆罪、不敬罪等々が縷々説明される。特高警察の傲慢、反体制とみなされた途端に態度を豹変させる村民、市民。非合法化されても折伏に北は樺太、南はマリアナ諸島、西は満州へと出かけてゆく。教主、幹部は獄中で終戦を迎える。教主は獄中で死ぬ。戦争直後の労働争議、学園紛争に教団は介入、弱気を助けるが、既得権益層の反感を買い、また弾圧を受ける。指導部を過激派が押さえ、武装蜂起し、全滅。それまで生き生きと近畿地方山陰の山村に花開いた人皆平等を説く宗教団体が描かれていたのに木に竹を接ぐように暴力で独立王国を宣言する。一挙に興ざめ。 武装蜂起以外は歴史によく学び、説得力がある。1960年代の進歩人としてどうしても武装蜂起を描きたかった気持ちはわかるが、惜しい。 | ||||
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戦時色濃厚になれば寄らば大樹の例えに乗じて、分派して体制側に擦り寄る「皇国救世軍」の勢いは、官憲に収監された教主不在の「本家」を圧倒する。 千葉潔の復帰をもってしても、屈折した阿礼の気丈と、千葉潔の非宗教的立ち位置が齟齬をきたし、大凡教団を盛り返すには至らない。 そして阿礼は教団の窮状に止むなく、九州博多に居を構える「ひのもと救霊会」の分派「皇国救世軍」小窪軍兵に嫁いでいく。 戦火闌になると、「ひのもと救霊会」の成年男子は戦地に駆り出され潔も外地に出征、心ある教団幹部の女子たちも慰問団や軍属として旅立ち、教団は ますます衰弱の一途を辿る。敗戦まぢかになると、戦死公報が詳らかにならず消息を絶った数名の幹部に一喜一憂する、教団継主の阿貴の姿があった。 戦後、荒廃した国土の上にうらぶれたが疫病のように蔓延る劣等感。焦土化したのは宗教精神も同じである。 戦中大政翼賛の一役を担った「皇国救世軍」の軍兵も、公職追放で一介の無一物となり生活は乱れる。妻阿礼や子供に何かと当たる日々に、二人は気 のみ気のまま家を出て、神部の教団に帰ってくる。阿礼と阿貴の姉妹関係は表向き傾らかとは言え、出征したまま消息のつかめぬ潔に対する思いは、立場 を超えた愛憎に艶かしく敵対していても教団運営には差し支えなかった。と言うのも、戦後に切り出された占領軍の社会的レジームに追いつくのに必死で 各地に散らばった信徒や、「皇国救世軍」以外に分派した「旧ひのもと救霊会」の呼び戻しに精魂を傾ける日々であったからだ。 折りよく潔は復員した。数々の辛酸を舐めた外地終戦時の繰り言を阿礼姉妹に仄めかすまでもなく、早々に潔は阿貴や教団のたっての願いから、不敬罪 で獄にあったおかげで、かろうじて生き残っ教団の老幹部と協力して分派統合の役目を引き受けることになる。教主行徳仁二郎はすでに獄死、母八重は癌 に犯され不帰の身の上であった。 潔が赴いたのは、「新興念仏宗」の教祖大見サトである。教団幹部松下幸次郎ほかの先触れがあったにも関わらず、説き伏せることもなく引き下がっていた。 ここで潔は「ひのもと救霊会」創始者行徳まさの再来を見た。宗派を誇示する装飾が一切ない朴訥な佇まいと、妙好人のような一農婦の姿である。 もともと非宗教的で孤高な自負に端座する潔であるが、近づこうにもそこは手が届かない淡い光の源であった。 旧信徒たちが序々に返り咲き、家内工場や関連会社の活性化、そこで働く組合員との協調運営も軌道に乗り食料調達もまずまず、教団の自立が日に日に 堅実になり始めた矢先、占領軍から供出米返還の命令が下る。これは全国に広がる闇米流通の摘発と米価の統制を狙った日本政府と占領軍の施策である。 教団自体は幅広い信徒間のやりくりで疚しい食料の挑発はしていない自存自衛の組織であるが、国家は疑いの目を向ける。地元警察は、継主阿貴を事情 説明とは名ばかりの事情聴取に連行し、一向に帰される風もなく、またぞろ戦前の悪夢が蘇ってくる。 旧幹部や潔らはたび重なる弾圧の兆しに恭順せず、心底業を煮やし徹底して抗戦を挑もうと画策を練る。それを横目に出戻りの阿礼は、獄舎の阿貴に内密 で潔を三代目の教主に推戴、教団の団結を図る。 全国の関連施設に使者を送り国家反逆を促し、牙城である聖地神部は旧軍の残した重火器で武装する談 に決した。しかし多勢に無勢、「ひのもと救霊会」は散発的抗戦の末占領軍に包囲されジリ貧となる。各地に派遣された幹部らは討伐された。 状況を悲観した阿礼も一人息子国雄の目前で自刃した。 潔ら幹部は落ち延びたものの、キリストが荒野を彷徨うが如く、白衣の行者となって大阪釜ヶ崎に出向き、貧民窟において餓死往生を遂げる。 ひとり蚊帳の外の阿貴は生来のポリオが嵩じ、警察病院でベッドに寝たきりとなった。窓外には焼け落ちる前の故郷の城趾が映っている・・・・・・ 高橋和巳氏は「あとがき」のなかで、「私の描かんとしたものは、あくまで歴史的事実ではなく、総体としての現実と一定の対応関係をもつ精神史であり、かつ 私の悲哀と志を託した宗教団体の理念とその精神史のとの葛藤だった」 と、苦渋のそして未決の感慨を述べている。 | ||||
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みずず書房刊、現代史資料「特高と思想検事」に、大本教教主出口王仁三郎収監時の精神鑑定記録がある。 それを読むうち、大本教弾圧を模した高橋和巳の小説「邪宗門」に思い至った。 すべてが大本教史に準えてあるわけでもあるまいが、小説構成や事象事件の転変など概ね教団史に準拠しているのではないだろうか。 千葉潔という無垢の少年を中心軸に、多彩な教団関係者が国家権力と渡り合う歴史的宿命を追いながら、殺伐たる当時の日本を大らかな郷土意識 の目線で俯瞰する対立軸を小説の根底に据えている。しかし現実は労働争議に煽られる教団関連事業と警察権力の思想統制の狭間にあって、教団は 分裂の憂き目を見る。 少年千葉潔は教団の運命の何たるかを知らぬまま、教団急進派の人物に教唆され、「練暁」の名のもとに、天皇直訴の尖兵となって伊勢神宮に赴く が、悲願達せず官憲の追手を避けて地下に潜行する。ほとぼりが冷めたその時、教団に戻った刹那に逮捕される。以後感化院を渡り歩き、教団を遠 のいた。 「ひのもと救霊会」教主 行徳仁二郎と教主婦人 行徳八重が不敬罪で官憲に収監され出獄もままならぬ折、気丈な長女 行徳阿礼は信者の多数を失い 今は非合法化された教団運営に忙殺される日々である。教団全盛時からは数年の月日が経っている。変わって迎合的で時勢を観るに便な分派である 「皇国救世軍」から政略的な和合の代償として縁談話がもちあがった。ここで、久しく教団から離れて、行方知れずとなっていた千葉潔が戻ってくる。 さて、二人の邂逅が何をもたらすのか・・・・ ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- この作品は、「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と旗幟を掲げて、日本の寒村でストイックな集団生活を営む、宗教団体の栄光と没落を書いたものではない。 人間社会の悲哀を下地に、現世の生業のなかで救われぬ魂の咆哮として、その鋒が時の権力に向かわざるを得ない宿業の数々をエピソード化し たものである。 そこで、国家権力頭脳たる司法意識のレベルたるやどの程度のものか、戯画的と思われる一章がある。上巻第十五章「公判」のくだりである。 教主仁二郎ら「ひのもと救霊会」関係者は、「治安維持法違反不敬罪」で公判廷に召喚され、主任検事の前で要旨陳述が終わり被告人尋問に及ぶ。 被告人陳述で「ひのもと救霊会」の神ながらの布教活動の経緯を、暗に告発された罪状そのものが、何ら「ひものと救霊会」の信条に抵触するわけでも ない逸話を例に上げつつ、或る時は和歌を引用しながら、祭政一致の何たるかを滔々と述べる。 これに業を煮やした主任検事が席を立ち、被告人が陳述範囲の域を超えていると不服を述べ、くだらない和歌の講義を一笑に伏そうと試みるが、やに わに教主仁二郎は一喝する。 「いま検事はこのようにくだらぬ歌と申されましたが、いま借りて例としました和歌は明治天皇の御製であります」 ・・・・時代を超えて、往々にして見受けられる、これが雇われ官憲の祭政不一致の正体である。 | ||||
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最終的に言語表現されたものが、もうこれしかないと信じるに至るかどうかを突き詰めた後、それに基づいた行動をとるということの間にある溝を渡れるか否か、高橋和巳は問い続けた作家だと思う。亡くなってずいぶん経ったため、作品が書店に並ぶことがないが、是非若い人たちに読んでもらいたいと思う。 | ||||
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「最初、砂礫敷きの細ながいプラットホームがなんの飾りもなくのびる駅に降り立ったとき、鮮明な雲の輝きが、少年の胸を撃った。・・・」 という文章で、この小説は始まる。 私は、すべての小説の中で、この小説の冒頭の部分がもっとも好きである。透き通った空気の中に立つ主人公の少年の姿が、ありありと目に浮かぶからだ。その後、少年が歩き過ぎるとともに駅員、街の人、宗教団体の人々の気持ちが語られながら、ストーリーは動き始める。大きな話が始まろうとする、小さな地鳴りとも言えるような冒頭のシーンの美しさは、ときどき読み返したくなるほど美しい。35年前に買って読んだが、毎年ぐらい読み返している。 もちろん、全体のドラマティックな展開も素晴らしい。ぜひ、多くの方に読んでもらいたいと思う。 | ||||
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この本に触れた当時,自分は高校生だった。 戦後ベビーブームのはざまの世代。 三無主義四無主義とか言われ,ベビーブーマーの創出した 熱に浮かされたようなムーブメントが一段落し, 学生運動は崩壊,ビートルズも解散した。 高校の文化部は左翼思想の残り火だけで 取り残された我々は,個人主義へ向かっていたと思う。 「知識人の崩壊」てなキャッチフレーズで 前世代の遺産としてある意味インテリゲンチャを気取っていた 高校生にとって高橋和巳の書くものは必読書のひとつであった。 イデオロギーを教義に変えその成立から崩壊まで 一気に突き進んでゆく。 | ||||
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久々に思い出した。 人生において時折手に取ってみたくなる本がある。 そういう本です。 今回は,恩田陸のQ&Aを読了して思いだした。 その前はオウム事件の時。 恩田が描く集団幻想はさらりとしていて手軽です。 これと高橋和巳を比べると怒られるかもしれないが, 何かの共通点を感じた。 小説という虚構の世界にどっぷりハマりたい人にお勧めです。 | ||||
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まず前のレビュアーの方が書いていたように、小説としての完成度と、 この作品がもたらす感動はまるで別だという点を述べておきたい。 私たちは、この作品にケチをつけようと思えば、いくらでもつけられるだろう。 構成や展開にやや強引なところがあるのは確かであると思われる。 しかし、にもかかわらず、ここに賭けられたもののあまりの切実さに、 一体、動かされない人はいるだろうか? ひのもと救霊会の五問、八誓願の迫力に、我々の同時代文学が帯びている 「漠然とした不安」などとは違う、圧倒的な苦痛と苦悩の深さを感じない人が いるだろうか? 貧困、失業、人間関係やコミュニティーからの疎外、、等々。 私たちの目の前には、今、再び、リアルで圧倒的な苦痛に満ちた世界が訪れつつある。 不安が可視化しつつある。 苦しみの理由がより具体的なものになりつつある。 弾圧される宗教のごとく、文学的な発想がないがしろにされるがゆえに、 その貴重さが無比なものになりつつある。 それはすなわち、この作品がもう一度読まれても良い時が来た、ということでは ないだろうか。 | ||||
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一時には全国で百万の信徒を抱えた新興宗教団体「ひのもと救霊会」が、戦前戦後を通じて邪宗門(邪教)扱いされ壊滅するまでを描いた壮大なスケールの叙事詩。 この「ひのもと救霊会」は実在の大本教をモチーフにはしているようだが、あとがきによれば教義・戒律等は作者自身が考えているらしい。それを知った時には正直驚いた。 なぜなら、本文で描かれる教団の組織構成や教義は非常に細かい所まで作られており、いくら実在の宗教団体等を参考にしているとはいっても、作者一人で考えているとは全く思いもしない程、リアリティのあるものだったからだ。 決して言い過ぎではなく、作者が恐ろしい程にこの本は良く出来ている。 本書は上下巻合わせて1100ページ以上、文字はビッシリで、決して読みやすい本ではない。 が、最後まで読みきった後のあの感情は、少なくとも他の小説では味わったことが無い。 本当に、良いものを読んだ。読めて、嬉しい。 | ||||
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この作品で描かれる、ひのもと救霊会は大本教との類似が指摘されるが、その大本教に関する知識のない私にとっては、どことなくキリスト教の初期に既に異端視され、徹底的に弾圧され焼き尽くされたカタリ派に似通うものがあるような気がする。「愛の宗教」とも呼ばれ、神への愛にも通ずるとして男女の愛に特別な価値を置いたというカタリ派と、既成の社会道徳にとらわれない男女の愛しあう形を認めたひのもと救霊会。また、カタリ派とひのもと救霊会の死の観念にも似たところがあるように思う。神の国の実現と人間の真の自由と解放を願う精神が権力者に憎まれ、弾圧を呼んだという点も同じであろうか。 作品の中で、日本の美しい農村風景と、一方で餓死者まで出すようなその社会構造が酷薄なまでに描かれ、救霊会はあくまで農村風土と密接に結びついているが、その宗教的理念は普遍的なものといえるのではないか。 迫害を受け、戦争で荒廃した社会状況の中、救霊会の選んだ道を愚かだと断ずるのは簡単だ。しかし、終戦を境に価値観の大転換を体験した作者は、1つの教義に殉じたこの教団をめぐる個性的な人物達を魅力的に描くことで、人間本来の生き方とは何かを問いかけているようだ。 | ||||
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本小説が、戦前政府より苛烈な弾圧を受けた、大本教を題材としていることはよく知られている。 「インテリゲンチャの苦渋」をその生涯のテーマとし、観念と人間の関わりについて問い続けた高橋和巳にとっては、宗教とは何か、というテーマは避けて通れない問題であった。 本来生き延びてはいけない生を生き延びてしまった主人公のビルドゥングス・ロマンが上巻の内容である。ここで、座禅を通じて主人公が得る悟りの内容はすさまじいものがある。 そして、下巻では、本来宗教人として最もふさわしくない主人公が教主として権力を手にする場面が描かれる。神通力を持たない、いや持ってはならない主人公の手に触れて信者の病いが忽ち癒えるのはなぜか? この場面で筆者は宗教の本質の一面を鋭く抉り出している。 しかし、魅力的な場面、作者の鋭い問題提起が現れている部分は随所にあれど、小説として成り立っているかどうかはまた別の問題である。残念ながら、教団が自己崩壊に向かう設定はいくら何でも無理がある。オウム真理教ではないのだから・・・。 ただ、本小説の与える感動は、そういった小説としての完成度とはまた別の問題であることもきちんと指摘しておきたい。 一読に値する名作であることはもちろんである。 | ||||
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大本教を題材としたと言われている、宗教や人間の生きざまを書いている大作です。 国から弾圧された事など、実際にあった歴史の重い部分を背負いながら、人間が生きていく事の意味を問いかけています。 しかし、主人公の少年などの存在は、それらをどこかで救ってくれていると感じます。 | ||||
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ひのもと救霊会は国家権力の弾圧に耐えながら終戦を迎えた。大日本帝國は敗れ、弾圧は止んだ。しかし、初代教主亡き後に教主となった千葉潔を中心とする足利正ら教団幹部は、新たなる革命への理想を抱いていた。ある事件をきっかけに救霊会はついに軍事蜂起し、役所や警察を占拠してその地方を支配する。だが革命の夢は戦後政府と占領軍にあっけなく潰され、救霊会は壊滅する。 だが潔を支配していたのは、必ずしも理想に燃える心ではない。自身が幸福になる「資格がない」という彼は決して現世を享楽できず、教主でありながら神を信じられない。潔を屍累々となることが明らかな勝算のない決起に導いたのはむしろ、滅びへの意志や世の中への怨念や復讐心ではなかったか。 救霊会が攻め滅ぼされよ!うとしているとき、信徒が潜んでいる洞窟で門外不出の奥義書の一節が唱えられる 如何にして執着をのがれんや、ただ信仰によってのみ 信仰とは何ぞや、救済なり。救済とは何ぞや、… 果たして救済とは何なのか?また、潔を支配していた心の闇の原因、彼が「神」と呼ぶものの正体、彼と深く関わり合うことになる女性たち、行徳阿礼、行徳阿貴、堀江民江、有坂卑美子のそれぞれの運命が明らかになる。 理想的な社会実現への意志や汚れのない信仰心と同時に、人間に巣くう復讐心や憎悪、残虐性、慢心、諦念などを赤裸々に描かれている。本当に人間とは何かについて考えさせられた。 | ||||
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