■スポンサードリンク
新リア王
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
新リア王の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.08pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全18件 1~18 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
(上・下巻通してのレビューです) 『晴子情歌』の続編。ほとんど登場しなかった代議士福澤榮の回想談が延々と続きます。これはこれで面白い。現代政治・社会の教科書としてもいいくらい。仏門に迷う?影之のその後が読みたい……と思ったら、『太陽を曳く馬』に続くようです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
早い対応と、丁寧な梱包で、とても良かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
高村薫の圧巻の三部作、その中間に位置するのが「新リア王」。 上下巻込みの感想になります。 父子ふたりの会話劇が小説の基礎です。 座して会話しているだけですが、話しの内容に動きがあるのが、せめてもの救いでしょう。 ダイナミックなカタルシスは捨て去られているため、特に上巻は読むために忍耐が要ります。 前作「晴子情歌」は純文学としての豊穣と達成がありました。 しかし「新リア王」は会話劇という形態のために、反小説的な側面さえあります。 実際に後の「太陽を曳く馬」は小説としての成り立ちまで放棄されたようなもの。 「新リア王」は「晴子情歌」ほど、小説的ではなく、「太陽を曳く馬」よりは小説的なのです。 父子ふたり、また小粒な登場人物すべてが想い入れを排するような愛嬌のない者たち。 進んでいえば吐き気がするようなダメ人間です。 しかし人間の業を見続ける高村薫は、そのクズさを断罪したりはしません。 私たち読者は判断を宙吊りにしたまま、辛い読書をします。 テーマは多岐に渡ります。 中選挙区制度の中の地方の王。 その絶対的な父権性。 あるいは原子力事業というものの悲惨。 政治家が今より大粒、大物だった時代と、その瓦解。 そう、下巻では宙吊りにされた一切が音を立てて崩れ去り、「ああ、ここまでの布石はサスペンドされたものか」とハッとさせられるでしょう。 つまりはやはり高村薫は「新リア王」でサスペンスを描いて、私たちをあっといわせるのです。 とはいえ、このサスペンスにたどり着くまでには相当な我慢を強いられます。 乗り越えた読者にだけ見えるものはスケールも巨大な戦後日本社会という渦です。 今と地続きであることまでも丁寧に描きます。 日本の典型的な保守政治家を軸に、明らかにその保守性に異議を抱えた著者が軽々と断罪しない辛抱強さを魅せてくれるのです。 賛否両論あるのは当たり前。 眩暈がするような読書体験でしたが、「晴子情歌」のように万人に薦められる小説ではなく、まごうことなき問題作になっています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
名文とすばらしい洗礼された表現、こんなすばらしい本が安く入手できて、感動です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
政治家とその出自を見事に分析している。、資産家と言えども、寝るとき、死ぬときは一人。名声は瞬時に消える。親族も妻さえも裏切る。この悲劇はまさにリア王の悲劇。感銘!! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
頼まれ物でしたが、受け取りが非常に良いと満足されていました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
実はずっと本棚に眠らせたままでいましたが、読み始めたら止まりません。いや、読み始めは「まさかこの二人の語りだけでこの分厚い上下巻が続くのか?」と、若干ビビりましたが、いやいやすごいの一言です。父と息子の静かな問いかけであるのにも関わらず、読み進めるごとに興奮が襲ってきます。彰之の、そして榮の言葉を自分の内にも問いかけながら読んでしまうので、読むのに時間がかかりますが、そうせずにはいられない本なのです。軽く一気に読んで「面白かった」ですむ本ではありません。ライトな本を好む方にはおすすめしません。要集中力、どこまでも「重く」「濃厚」です。ミステリーでもサスペンスでもないのに、息が詰まるほどの緊張感。いやいやいやいや、高村薫って本当にすごい。初期の頃の作品も興奮しましたが、晴子情歌でうなり、リア王でまた圧倒。 こんな本を書く高村薫ってすごすぎです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
高村さんの3部作。傑作ですね。一般の評判はどうなのか知りませんが、古本でしたが、文句在りません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
評価は3.5です。 これより安く他所で手に入れた上巻と同程度でした。 でも3評価は・・・しのびない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上巻の第一章は、口頭での榮の政談、彰之の宗教談義だけで哲学書風に構成すると言う破天荒な出だし。第二章で、ようやく<王>と一族の考察に入り、題名に沿って来た。作者に依れば<王>を創り出す要諦は「能動」だと言う。ならば崩壊の予兆は「閉塞」か ? 下巻も榮と彰之の宗教談義から始まる。政治家とは思えぬ高邁な精神と仏教知識を持つ榮。二人の会話は相変わらず抽象的な哲学論だが、卑俗な面を見せるのは彰之と言う皮肉。早速、男女間の「閉塞」が語られる。一方、榮の政談は国政を語っていた上巻では新鮮味に欠けたが、青森を焦点にした途端、迫真性を増した。原子力発電所と建設業界、原子力船寄港と漁業補償、地方におけるインフラ整備、地方の政治風土と中央政界との関係等の諸問題が生々しく精緻に語られ、作者の筆力を再認識すると共に、舞台を選ぶ眼にも感心した。抽象論に終始した上巻より物語に求心力があると思う。特に"金庫番"英世の造形が巧み。第三章中の「息子たち」は本作の中核とも言うべき榮の回想談で、<リア王>を踏まえて、<王>の危惧は"時代が自分を追い越して行く事"、<娘>の反乱は"資本主義のニヒリズム"と喝破する。余りに時宜を得過ぎた宣託で、現代社会の根本問題に毅然と対峙する作者の孤高の姿は、最早小説家の枠を越えてしまった感がある。榮が<サクラマス>が乱舞する幻想を見るラストも印象的。もう一つの反乱分子秋道の影と合田の登場は次作(未読)への伏線だろうが、三部作がどう収斂するのか楽しみである。 小説としての成否は兎も角、社会を覆う諸問題を「政治・宗教」を切り口として描いた作者の気概と透緻した思索は読む者を圧倒する。ただし、「現代のシェークスピア」ではなく、やはり「現代のドストエフスキー」と感じたが。表紙を飾るレンブラント画「瞑想する哲学者」は、まさに本作の象徴として相応しいと映った。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「晴子情歌」の続編であるが、題名からして「現代のドストエフスキー」から「現代のシェークスピア」へと幅を拡げる意図か。重い十字架を背負った作家の宿命ではある。地方を牛耳る政治家一族、国と地方の政治と金権の関係と構造、更に宗教を絡ませて描いた骨太の作品。時代設定も私の大学生時代から社会人時代に重なるもので、物語に生々しさを感じた。「レディ・ジョーカー」で娯楽作家と言う偽のレッテルを払拭した以降の作品は作者本来のものと言え、「書きたいものを書く」との姿勢が窺え頼もしい。 榮の政談、彰之の宗教談義は口頭にしては精緻過ぎるが、これが持ち味だろう。宗教を採り入れたのは政治・現実の混迷と宗教の体系の対比の意か。作者は政治家に<空>を求めている様である。私が同時代を生きたせいもあるが、政治面は大部の割には既知の情報が多く新鮮味が無かった。それにしても、これほど実名の政治家を入れての政談は、小説なのか時事放談なのか判然とせず、「書きたいものを書く」難しさを痛感させる。一方、仏行の描写も別の意味で破天荒で、仏教の解説書以外で、仏行や教義の問題をここまで突き詰めた書物は前代未聞であろう。宗教と言うよりもハイデッガーの意識論をも持ち出した哲学書の趣き。極論すれば、本作は人間の存在意義を問うた作品である。<リア王>をモチーフにしている以上、この後、<王>榮の疑心暗鬼、後継者問題と言った俗な世界に入る筈だが、その展開及び宗教・哲学との係わりが如何に描かれるか第二章以降に期待したい。 以下は作中の齟齬と私の勝手な願望である。 ・角栄を保守本流、福田を反主流と記しているが"誤り"で、保守本流は福田の方。 ・岩手四区も俎上に載せていれば現在の政局に"just fit"だった。 ・「むつ」を話題にするなら、「非核三原則」や「安保密約」まで踏み込むべき。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
まずは上巻の感想である。 晴子と彰之の母子の物語であった「晴子情歌」続き、榮と彰之の父子物語となっている。叙事詩と言っていいほどに、語りが深く長い。政治家の一日にしても、曹洞宗の作法や教えについて、あるいは出家時代の話にしても、ここまで克明に語りつくすことが本当に必要なのか、何のために書いているのかという気になる。辛抱のない読者は最初の数十ページで投げ出してしまうかもしれない。小説の長さや改行のない文章について不平や苦痛を表明する人は多いようだ。瑣末的な事象、特に曹洞宗などに関する哲学問答に関する批判も多い。 しかし、本当にこの小説は「長すぎる」のか? 私は否と考える。それが高村氏の小説作法なのだろうと。瑣末な事柄を積み重ねることでしか見えてこないものがある。それは彼女の小説で一貫しているし、研ぎ澄まされることはあったとしても、緩むことはない。 彰之がこれ程の修行を通しても仏教的境地には達することができなかったという挫折感を書くためには、あえて冗長なる文章を連ねる必要があったか。あるいは、榮の永田町での一日も同様。政治家の一日とはどういうものか、政治家とは何を考え、どういう人種であるのかということを彫琢しようとするならば、克明な一人称的記述が適切との作家としての回答であったのだろう。 最初の数章の「くどさ」は皮膚感覚として強烈な印象的を残す。あえて瑣末という批判を覚悟で描ききった高村氏の筆力に私は脱帽する。何だか分からない力に押されて、とにかく読む進めるというのが、本書に対する読書作法か。高村氏は小説にミステリーどころか、ストーリーも求めてはいない。それを求めると裏切られることは『晴子情歌』で経験済みである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『新リア王』も何とか読了。政治と宗教をど真ん中から扱ったという点で読後感はシェークスピアというよりドストエフスキーに近い。 感想はなかなかまとまらない。一般的読者は「リビエラ」や「合田」の登場を願うようだが、もはや世界は変質している。本書を読んでいる間は、正法眼蔵でも併読しようかとさえ思ったが、高村氏の主眼が仏教にないことが下巻で明白になったので、それは止めた。ではと、ハイエク的リバタリアニズムとかケインズ主義の基本を少し補強しておこうとも考えたが、それも止めた。高村氏の主眼は、政治を扱いながらも政策の優劣とか対決にはない。2009年8月の衆議院選挙における政権交代を知った我々は、斜めから彼らの政治議論を眺めることになろうか。 宗教や政治の理念と現実、政治の真実、権力闘争、世代交代といったものよりも、この小説の主眼は父子の虚実の対話そのものにこそあり、この対話劇を楽しめない読者には本書はつらいだろうと思う。対話の果てに辿り着くのが、孤独であるというのは、どういう結末であることか。救いはあるのか。 高村氏がこの地平まで来た以上、オウムを扱った『太陽を曳く馬』が提示する世界というのも、おぼろげながら想像がつく。そこにはもはや「会話」さえ成立していないかもしれない。(まだ読んではいないが) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読み始めるとその世界に一気に引き込まれるのだが、気軽には読み始めることができない作家。しかも大作ばかりだ。居住まいを正して読め!雑念を払ってから読め!そんな声が聞こえてきそうな作家。読む側にも緊張を強いる作家。わたしにとって高村薫とはそんな作家だ。 そんな作家が選んだ題材が政治と宗教(生臭物と精進物?)。舞台は青森。日経新聞の連載を何度か読んだ限りにおいてはミステリーの要素はなし。重そうだなぁという先入観があって長い間積ん読状態にあったのだが、読み始めると結局圧倒されっぱなしのまま上下巻を読み終えてしまった。 ただ、高村の人間観・宗教観に充分浸れたものの、一度読んだだけで理解できたという自信はない・・・。 ミステリーの要素は一切なし。政治家が実名で登場し実際に起こった出来事とリンクしている部分がエンタメ的要素といえるかもしれないが、政治の世界を描くにあたっての小道具に過ぎず主題ではない。それでもこれほどの大作を書き上げる力、そして、読む側に緊張を強いながらも一気に読ませる力、決して読みやすいとは言えないが「力」を感じる文体。いい意味での「重さ」「硬さ」を感じることのできる素晴らしい作家だと思うし、他の方が仰るとおり高村薫は「純文学」作家なのだと思う。 ただ、このまま進んでいけば、新たに獲得する読者よりも、離れていく読者の方が多くなってしまい、作品を発表する場所が狭まってしまうのではないか、という余計な心配をしてしまう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
同じ時代に生きている芸術家ということで 僕は三人の人が気になっている。一人は作家の村上春樹だ。25年くらいの期間 村上と同じ時代の空気を吸いながら僕も中年になり 村上も60歳近くなった。 もう一人は映画監督の北野武だ。二作目から気になりだし ソナチネは映画館に観に行った。HANABIが ベネチアで賞を取る前の事だ。最近の北野はだいぶ変容してしまい 僕にとって少し難しい監督になりつつあるが それも同時代にお互いに生きていることの醍醐味だ。 三人目が 言うまでもなく 高村だ。 高村がサスペンス作家であると言われていることに違和感を長らく持って来た。実際 「マースクの山」を読んでいる限り かような言われ方は まずもって正当なのだと思う。但し 個人的には あまり評判にならなかった「照柿」を読んだ際に 小躍りするような興奮を覚えたものだ。「照柿」には しっかりとした純文学者としての高村の顔が見えたからだ。 それにしても 本書まで来ると 純文学としても 次第に孤高という感じが強くなっている。 題材は政治であり 宗教であるわけだ。ある意味で 極めて現代的なテーマであり ここには同時代者としての高村がきちんと見える。しかし その「語り」の特異性には すさまじいものがある。 高村の「文体」は極めて硬質だ。豪腕作家といわれるゆえんだ。しかも 本作に至っては その「硬さ」が 孤高な地点にまで行ってしまっている。ある意味で 危険高度に達しているのだと思う。とても万人向きではないし 僕も 十分打ちのめされる思いで頁をめくったものだ。 本作は サラリーマンの読む日本経済新聞に掲載されていたということは事件なのだと思う。しかも 高村と日経新聞は最後には揉めた末に連載が終わった経緯も記憶に新しい。 当たり前だ と 僕は思う。こんな孤高の純文学は 満員電車の中で 目で追うだけで読めるわけではないからだ。 高村は これからどこに行くのか。それが同時代の作家を読む醍醐味だ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
青森県政と地元で磐石の基盤を誇る政治家一家福沢家の政治家を描いた作品であり 政治や政治家というものを主題にすえた作品である。 物語は青森という田舎から出て来た政、務しか出来ない政治家福沢栄と、妾の息子として 陰湿な取り扱いを受け、仏の道に進んだ福沢庄野が久しぶりに邂逅し交互にお互いの体験を語ることで展開される。 作品は、政治家の仕事というものが福沢栄の語りという形を借りて詳細に叙述される。 その仕事とはどんなものか。 国会の開催日に政治家が何をするのか、地方の政治家にとって霞ヶ関めぐりというのが どういうものなのか、同じ議員でも内部の派閥や階級があり、大きな違いがあることなどが語られる。 地方におけるライバルとの鞘当や、どぶ板選挙の詳細などは読んでいて中々楽しい。 ライバルといえども構成員はお互い流動的な部分があり、一枚岩でない人間関係、組織関係が描かれていて中々に面白い。 また地方が時代の流れにあわせて大型プロジェクトを誘致しては時間がかかりすぎたり政治の都合で時代の流れに取り残されていく様が描かれ、そんなふうに 取り残されても仕事や金さえ手に入ればいいという地方の即物振りが鮮やかに叙述されていく。 そういった開発頼みに、実務的に開発を誘致しながらも、内心憤るしかしらない栄自身の内情の露土は読んでいて考えるものがある。 栄が苦労して2世議員として育てた息子も、栄の開発頼みへの憤りを理解せず、ポリシーを持たず即物的な結果さえ手に入ればいいんだという政治理念をもってしまったことへの失望などは親の悲哀であろうか、時代の流れだろうか。 作中、青森の陸奥小笠原開発という核関連事業に関わる話も取り上げられる、核廃棄物処理という長期の問題を考えず、即物的に原発誘致を行う地方への批判が展開されるが、これは作者自身の主張とも思われる。 作者は青森における貧乏と、それを解決するための開発優先主義の時代の功罪を見事に描き出している。 開発か未来への責任か、読者自身にも一考を迫る話である。 小説は小説に過ぎないので現実よりもはるかに単純化されているのだろうが それでもなお政治を主役にすえたという点は特筆に価する。 またもう一人の語り手である福沢庄野の坊さんの生活というものが、非常にわかりやすく丁寧に記述されており、それだけで他に例を見ず一読に値する。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「晴子情話」・「新リア王」は続編で合田刑事が出るということで入手したが、その評判からなかなか頁を開く勇気がありませんでした。新潮で連載の始まった続編「太陽を曳く馬」で実際に合田刑事が「新リア王」での福澤彰之との関わりを回想するのを読んで、やはり必読テキストと思い頁を開き、あとは一気に読了しました。「新リア王・上」は本山での岡野玲子の「ファンシィ・ダンス」の法戦式を彷彿とさせる場面で楽しめました。そして「下」に入ると、だんだん登場人物達がシェイクスピア劇のように俳優が舞台で喋っているような錯覚に陥って、榮がかわいい爺さんに思えて、わくわくしながら読んでしまいました。 ただ、「晴子情話」は「太陽を曳く馬」の第一話を読んで合田シリーズのサイドストーリーとしての意味合いを持たせてから読まないと続かなかったと思いますし、「新・リア上」も「ファンシィ・ダンス」を読んでいたから視覚的イメージが浮かんで楽しめたと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
政治家の父・榮と、宗教家の息子・彰之。シェークスピアはもとよりギリシャ悲劇の登場人物にも比肩しうる苛烈で美しく惨憺たる運命の下で、恐るべき人生を刻み続けていく福澤一族の父子。彼らの物語が鮮烈な言葉と迸るような文体によって叩きつけられ、読者はほとんど暴力的な引力で青森の茫々たる昏い雪の世界に放り込まれる。 榮と彰之の息苦しいほどに張りつめた精神、あまりにも強靭すぎる自我、執拗に粘りつくような情念の、圧倒的な重量とその密度には絶句するより他はあるまい。人間的であるということは知的であるということであった時代の思考様式には驚愕させられる。これが近代というものかと。 榮と彰之の敵は、迫り来る現代という時代であるとも読み取れる。彼らはこの得体の知れない敵に対して、近代の所産である“言葉”を武器として必死の抵抗を試みる。しかし彼らがどれほど言葉をつくして語り明かしても、彰之の息子・秋道に、それを聞くべき耳は無い。かくして父子の“言葉”は、白く虚無的な闇の中で無残にも暴力的に断ち切られる。そして、絶望の慟哭が響く。 これは近代という“言葉”の時代の終焉を物語る悲劇である。また、従来の高村作品らしさも色濃い(美貌の主人公・彰之の禁欲的で粘着質で、ある意味ヘタレな性格と行動、その代表格である合田刑事の登場、圧巻としか言い様のない緻密な状況描写)。あらゆる角度から多様な楽しみ方が可能。次回作では舞台はいよいよ現代に移る。現代を生きる現代人として心より楽しみ。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!