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デンデラ
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デンデラの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全36件 21~36 2/2ページ
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坂東眞砂子の山姥あたりの雰囲気を期待して買ってみました。 が、小説らしい味わいも深みもなく、肉体から浮き上がって観念的なことばかり考える主人公は人形のようにスカスカで薄っぺらい。 この作家の本は初めて読みました。異色作ということなのでこれだけで判断は出来ませんが、設定から期待するような味わいはありません。老婆とは思えないくらい感覚が未熟というか…学生かお前は、みたいな。 とりあえず女性が描けているとは言えないので、桐野夏生や坂東眞砂子などを読まれている方には駄菓子みたいなもんです。 | ||||
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佐藤友哉の作品はほとんど読んでいるが、この作品が、一番つまらないと感じた。 前半こそ読めるが、後半はグダグダ。エンターテイメント作品ではない。 | ||||
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「デンデラ」と言うのは、柳田国男の「遠野物語拾遺」の中の言葉の様で、この小説も姥捨伝説の続編の形を取り、舞台は民俗学のそれになっています。 しかし、作者の語ろうとしていることは、飽く迄「現代社会」の問題点を取り上げているように思えます。 「デンデラ」は、「お山参り」で捨てられた女性たちで構成された集落です。そこに集うのは、100歳を筆頭として70歳以上の50名の女性です。この設定からして、「現代社会」の「老齢化問題」を意識しているとしか思えません。 更に言えば、「生と死」の問題にも言及しています。 とは言うものの、物語の構成は集落と羆の対決の物語になっており、その意味では「冒険小説」です。 又、「疫病」の謎解きを最後に主人公がしますが、それを見ると「推理小説」です。 ですから、いろんな要素を兼ね備えたエンターテイメントな小説として、この小説はあるのだと思います。 それだけに、いろんな楽しみ方のある、良くできた楽しい小説だと思います。 | ||||
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楢山節考が姥捨て山の話なら、このデンデラは姥捨て山の次の話。 もう設定が面白い。 姥捨て山に捨てられた70歳の老婆が、何とか自分の力で生き残り、 村に帰るわけにはいかないので、もっと山奥に密かにすみかを作り暮らし始める。 一人では寂しく何もできないので、捨てられた老婆を助けて自分の町(これがデンデラという)に連れてきて、 70歳以上の老婆ばっかりのコミュニティが形成される。 捨てた村を恨んで何とか村にかたき討ちに襲撃したい老婆もいれば、生きながらえた事を喜び、 新しいすみかで平穏に過ごしたい老婆もいる。 自分は静かに死ぬはずだったのに、無理やり?助けられて、助けられたこと自体に怒っている老婆も。 こんな50名が集まると当然派閥争いが起こるのだが、そんな事をしていると食べていけないため、 とりあえずみんなが狩りに出たり山から食べられる物を持って帰ってきたり。 そんな中、記録的な大雨で自然体系が狂い、冬眠するはずの巨大な熊が、腹をすかして人間を襲いだす。 武器も持たない老婆50名は生き残りをかけて熊と戦うのだったが…。 それに追い打ちをかけるような、疫病。老婆が血を吐きながら死んでいく。 もう老婆の生き様というか、あまりにもえぐくて醜いシーンが続き、最後はどうなるのか…と思っていたら。 どうしてこんな本買ってしまったのか?と考えたが、まあ異次元体験的な感じで面白かったですな。 | ||||
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初めてこの作家の本を読みました。 才能がずば抜けています。 70歳を越えた老婆が熊と戦うなんて奇想天外な設定なのに、 力に溢れた筆力がそうかもなと納得させます。 登場する老婆の人物設定も、私には納得できます。 年取ったからって菩薩にはなれません。 家族よりも「自分」です。 エンディングは最初は納得いきませんでしたが、 しばらくたってから、もしかしら、復讐だったのかもと思い始めました。 エンターティメント小説のはずなのに、読み終わった後も考えてしまい、 だれかと感想を話し合いたくなる作品です。 | ||||
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老婆たちの必死に生き戦う姿が描かれてますが、あまりにグロテスクに表現されるシーンが多い為辟易しました。 また、女性を軽視するような表現や、先天性の症状を持って生まれてくる子供を忌み嫌う部分の表現、が得に不愉快でした。現在もその症状で生まれている子供は沢山います。安直に書いてほしくないですね。映画ではそのような表現は慎んであると信じたいです。 もちろん映画をみるつもりはありません。 | ||||
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かつてあり得た話かもしれないという思いとファンタジーに過ぎないという思いが交錯する作品だ。 北海道ではあり得ないけれども、東北ではもしかしたら・・・・・・・ そんな気持ちになる。 つくづく食べるということの大切さと生き抜くということの過酷さが伝わってくるのだ。 | ||||
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まさにこのキーワードがしっくりと来る作品でしょう。 人捨てのその後を描いた作品なのですが 老いてもなお、人間の感情というものは むき出しというものです。 そしてそれがクマの来襲によりより深いものになります。 そして、共同体にありがちな派閥の存在。 その途中で起こるある事件により 人々がだんだんと減っていきます。 そしてそこにはちょっとしたミステリーも 含まれています。 もちろん見所は 主人公のカユが残り少なくなった デンデラを抜け、 もう戻ることはできない決死行へと 出て行く場面でしょう。 それは老齢の最後の炎のごとく 神秘的に映りました。 どうなったかは描かれてはいませんが それは読者の私たちが描くべきでしょう。 人を選ぶ作品ですが 悪くはありませんでした。 | ||||
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斉藤カユは70歳を迎えたある日、息子に背負われてやってきた山でひとり捨てられる。 そのまま死ぬのが人としてあるべき姿、と考えるカユは目をつむり、身を横たえて気を失うが死ねない。 目をさますと、自分を覗き込んでいたのは数年前から古くは数十年前、山に捨てられ、とうに「死んだはずの」老婆の群れだった。 老婆たちは話す。自分達が捨てられた者同士、密かにコミューンを作っていることをー。 先行作品と変わらずテーマは弱者に焦点が当てられている。 個人的に面白かったのは、老婆たちの会話、主人公のモノローグ。 何を成したいかも既に「自分亡き後」を想定したものばかりで、 どう自分の生き様を決めるか転じてどう自分の「死に様」をキメルか、 それに誇りを見せる様は老婆のハードボイルド。 決してすべての面において前向きな内容ではないけれど、 すがすがしさが、特に後半からは漂う。 | ||||
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会心の一作だと思う。佐藤友哉(ユヤタン)についてきて良かったと 感じさせられた作品だった。 自分の作品の中で幼い児童や少年・少女たちに襲いかかる世界の悪意、 不条理を書いてきた佐藤友哉だが、『デンデラ』に子供たちは登場しない。 描かれるのは全員、死の淵に片足を突っ込んだような老婆だけである。 そして、彼女たちにふりかかる困難も、物語の導入こそ佐藤友哉の作品に多い 「自分たちを受け入れてくれない社会」から始まっているものの、やがて悪意も 何もない、災害に近い暴力へとその焦点が移っていき、自分たちをさいなむ 現状の責任の所在を他者に求めるような展開に陥るのを、巧みに退けているように思った。 言うなれば、心も肉体も成熟した人間が小さくか弱い子供に自分を投影して 世の中を描こうとする一種のずるさを、そしていま自分が抱えている問題の 原因を自分ではなく自分以外の誰かにそらそうとする欺瞞を、この『デンデラ』で 佐藤友哉は自分にまったく許していないし、読み手にも許可していないのである。 安易にハッピーエンドとは言い切れないし、一見これまでの作品の延長線上にある 報復や反逆を再び描いたような締められ方だが、実際のところそこには、陶酔的な悲観も 大義名分のまがいものもなく、自分の中から自分をごまかすための甘えを一切 そぎ落としていった果てに、ありのままの自分が、そんな素裸の自分を力強く 肯定して突き進んでいく爽快感を感じた。 読み終えて、「よくぞ書いた」という気持ちと「まだこんなもんじゃないだろう」 という気持ちと半々。今後への期待が賞賛に若干勝ったので、星4つにとどめた。 佐藤友哉のキャリアにおいて決定的な意味を持つ作品だと思うので、氏の作品を 未読の方だけでなく、ファンの人にこそ強くすすめたい。 | ||||
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姥捨て山に捨てられた老女たちが・・・、という設定だが、 読み終わって見ると、老女じゃなくても、社会から 見放された集団であれば、何でもよかったかなとも思う。 被害者意識や、早く楽に死にたいと思う気持ち、 集団心理などが、複雑に絡み合い、圧倒的な 存在感を見せる異色の物語だ。 中程はバトルロワイヤル的なグロテスクな描写が 続くので、食傷気味になりながら、なんとか最後まで たどり着いた。でも、終わってみると、経験したことの 無いような不思議な爽快感が残った。 長編を読みなれない人(私など)には、ちょっとつらいが、 楽しめる。 | ||||
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70歳を迎えて「お山参り」をした斉藤カユと、「赤背」という熊の視点から描かれる、おどろおどろしい物語です。 「デンデラ」とは、東北地方の高冷地で、その昔、実際におこなわれていた「口減らし」のための姨捨山を指す言葉です。山中に建てられた小屋で、死を待ちながら共同生活する風習が実際にあったようです。仏の座である「蓮台」の字が当てられており、「れんだい」が訛ったものが「デンデラ」。仏の場所=墓地という意味もあるようです。 この小説の設定は、少し違います。 70歳になり「お山参り」をした老人は、冬の過酷な山中で死ぬことで極楽浄土が約束されているというルールが「村」の生活の中で教育されており、本人もそれを誇らしいこととして確実に死ぬつもりでお山へ入ります。 しかし、なんとこの過酷な山中で生き延びてしまった老婆がおり、「デンデラ」を作ってお山へ来た老婆ばかりを助け、自分を捨てた「村」を襲撃して恨みを晴らすという目的で共同生活をしています。 70年間暮らした村の掟や価値観と180度違う価値観に支配されたデンデラで、斉藤カユが何を感じ、どのように自分自身と向き合っているかが、この小説の「読みどころ」だと思います。寒さ、空腹、疲労、疫病、ケガ、熊の襲撃、仲間の無惨な死に直面しながら、納得のいく生き様、死に様を模索する老婆たちの格闘の中に、思わず自分を置いてしまう、考えさせられる良い作品です。集団心理の発生・拡大も、優れた描写が味わえます。 また、第2の視点である熊の描写も非常に斬新です。動物の本能に対する著者の理解の深さを感じさせます。 昔話調の優しく丁寧な語り口とは裏腹に、熊との格闘シーンなど、表現が非常にグロテスクですし、風呂にも入れない老婆たちの汚れた様子には気持ち悪さを感じるかもしれません。しかし、それらに寄り添えれば、それらは「脳内リアル」として自然に受け入れられると思います。★5つでお勧めします。 | ||||
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本書は姥捨て山に捨てられた五十人の老婆たちが熊や疫病もろもろと闘う物語である。発想自体は面白い。小説ならではといった上手い文章表現はないので映像向き。 主役は吉永小百合。百歳老婆は森光子。他に菅井きん、八千草薫、岸恵子、草笛光子、佐久間良子なんてどうだろう。南田洋子がいないのが淋しいけど、日本映画の黄金時代を知る女優たちの百花繚乱だ。 老婆たちのコミューンは何のメタファーなのか。捉え方で物語の読み方が変わる。 60年代に革命を夢見た学生たちにも見えるし、『エイリアン』の別バージョンにも見える。戦争で死ねなかった軍人たちが祖国に復讐を誓うところに、想定外の黒船と闘う話にも読める。 惜しまれるのは老婆たちのキャラクター構成。それこそ『バトルロワイヤル』みたいに、もっと様々なタイプを作ることが可能だったのに。 いくら設定がむかしで、女性が教育を受けてない寒村地帯が舞台とはいえ、こいつは切れ者だと思えるキャラがいない。特に、デンデラを支配する百歳の老婆にカリスマ性がなく、いまひとつ魅力が乏しいのは残念だ。 「なるほど。捨てられた老婆たちがコミューンを形成するとこうなるのだな」と感心するところもない。頭の中で考えただけという感じ。例えば村に可愛い孫を置いてきたことが気がかりな老婆が出てこないのは不自然。著者がまだ若いため仕方がないのかもしれない。 最低でも老人ホームに取材すべきだった。してこれなら、うーん。 読後に知ったが本作は『本の雑誌』09年度の一位だった。……まじですか。 | ||||
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「姥捨て・その後」という書評で読んだら、違う。 登場人物50人の名簿は、それだけでかなりの迫力はあるけれど・・・ これは老女の物語ではない。姥捨てという形に一部の社会的弱者を反映させた寓話。 たった1つの作者の油断ぽいセリフで老女の皮がはがれた。 ん?と後戻りして読み直すと、どの人物も高齢女性とは微妙にずれる。 実際の70以上のお婆さんはもっとタフかつ柔軟です。でなけりゃ、その歳まで生き抜けない。 これはどうやら、いわゆる格差問題で「自分は下らしい」と気づいてしまったロスジェネ男子の話。 凄まじいイジメ、冷たい世間、何をやってもうまくいかない、ヤケクソ、自殺願望・・・ 確かに人生は戦い、勝つ見込みがなくても前に進むのみ。でも戦い方は1つじゃないのに。 いちおう複数の選択肢は示されるが、どれも希望には遠い。 しかも無差別襲撃事件を連想させなくもない結末。かなり怖い。 同情すべき事情は見えるけど、話が通じそうもないし、ヤバそうだから距離を置こう。 そう思ってしまう自分が一番怖いのかもしれないが。 | ||||
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「でんでら野」は岩手県遠野に実在したという。姥捨て山にインスピレーションを得て創作された本作は、奇妙にすがすがしい。70過ぎの老婆の無認可秘密集落という設定のため、性の問題が皆無で、政治の問題も極小である。 物語が生と死に焦点化されて進む。どうやって生きるか。なぜ生きるか。登場人物が多すぎるが、熊の登場で、どんどん削られていく。その過程で各老婆のキャラクターが明確になってくる。生きるか死ぬかの局面で、老婆たちの驚異的な活力が発揮される。彼女たちは、さほど生に執着していない故に、強烈に生命力にあふれている。野生動物に近いのだ。 「でんでら」に未来はない。現在と過去しかない。だが「でんでら」という特殊な存在ですら、未来や希望という呪いから解き放たれることはないのだ。 | ||||
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70歳を過ぎると村から捨てられる『楢山節考 (新潮文庫)』を連想する姥捨て山で、白装束に身を包み極楽浄土を信じて疑わない斎藤カユの意識が朦朧としてきた時、聞こえてはないらない老婆の声が聞こえてきて・・・ 暴力で動いていた村から捨てられた老婆たちが女だけの共同体デンデラを形成していて、斎藤カユは望みもしないのに救出されその共同体デンデラの一員にされてしまう。しかしそこは70歳から100歳の百練千磨の老婆が人を騙して動く村で、主人公斎藤カユはこれまでの人生とは違う「生きる」意味を考えることになる。 生きていたくない筈なのに生きようとする行動に繋がる過酷なデンデラでの日々、貧しさが村を狂わせるが死にたいと願う老人が死を恐れていないわけではない。 斎藤カユを始め登場する老婆の息が聞こえてきそうなくらい描き方が丁寧なのに、生々しいわけでもない。体力も弱々しい老婆たちなのに、闘志が作品に漲り気迫が途切れることがない。 挿入される熊の襲来も、相乗効果となり、作品のスケールを大きくしている。 作品の満足度も高いだけでなく、佐藤友哉の成長からくる充実感で満たされた。 佐藤友哉は、『クリスマス・テロル―invisible×inventor (講談社ノベルス)』幕引きから3年ぶりに刊行された『鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)』が戯言から成長を感じない作品で化けてもいなかった。でも、『子供たち怒る怒る怒る』で底力を感じさせた後この『デンデラ』だっただけに読者としての充実感は非常に大きかった。 | ||||
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