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相剋の森
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相剋の森の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.21pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全28件 21~28 2/2ページ
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| 「山背郷」を熟成させたのが「邂逅の森」。「相克の森」は純粋なオリジナル。 「地球を守れ」等といったスローガンを好み、植林の林の中を四駆でやってきてバーベキューをしてゴミは持ち帰ろうなんていうような都会人的自然保護。 この本では、都会人的自然保護の危うさを登場人物の会話で語らせすぎているように感じる。 エピソードやユニークな人物が散りばめられていて縦糸が用意されているのに、それを有機的に結ぶ横糸が少ない。ストーリーの全体の展開によるメッセージ性が弱い。 「相克の森」そのものが都会的な語りという手法で著者のメッセージを伝えることになり、邂逅の森の重厚さを失っているように感じた。 主人公の女性心理を描写するのには苦労したのだろうなぁ。でも冗長では・・・ こういった問題はルポとして直截に描いた方がもっと伝わるのではないだろうか。 | ||||
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| 本書は、’04年上半期「第131回直木賞」を受賞した『邂逅の森』とほぼ併行して書かれ、3ヶ月ほど先行して発表された姉妹編である。 『邂逅の森』が、大正年間を中心とした東北の旅マタギ(クマ猟師)の青年、松橋富治の波乱の半生を描いた作品だったのに対して、本書は現代の東北地方における、彼の曾孫に当たる世代のマタギたちと自然との葛藤を描いている。 仙台のタウン誌の編集長をつとめる佐藤美佐子は秋田県で開催された「マタギの集い」に取材で参加して、「今の時代、どうしてクマを食べる必要性があるのでしょうか」と、素朴な発言をして参加者たちから冷たい視線を浴びる。そして閉会後、彼女はあるフリーの動物カメラマンから「山は半分殺(の)してちょうどいい」と告げられる。それは何を意味しているのだろう・・・。やがて恋人と破局してタウン誌を辞め、フリーのライターとなった美佐子は、この言葉を理解しようと本格的な取材を始める。 里におりてきたクマを捕獲し、発信機を取り付け再び山へ戻す活動をしているNPO法人、一方でそうして捕獲したクマを「有害駆除」の名目で射殺せざるを得ない役場の立場、「有害駆除」の許可が下りなければクマ狩りができないマタギたち、動物愛護・自然保護団体からの抗議。取材を重ね、答えを模索する美佐子は、やがて新潟県の山奥の集落でマタギの頭領をつとめる滝沢を訪ねる。 現代のマタギたちの生活を肌で取材するうち、美佐子の内に、彼らに対する親近感がわいてくる。クライマックスは彼女が実際に春のクマ狩り「巻き狩り」に同行し、マタギたちと共に猟場である過酷な自然に身を置く場面である。ひとり道に迷い、山中に取り残された美佐子が見たものは・・・。 タイトルの『相剋』とは、「両者が互いに勝とうとして相争うこと」(広辞苑)であるが、本書は、美佐子の目を通して、現代に生きるマタギたちの姿を描き、今、東北の森で実際に起こっていることを活写することにより、「自然との共生」などとは簡単に言い切ることのできない人間とクマ・森・自然との関わりを問いかけている。 | ||||
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| 「漂泊の牙」で開花し、「邂逅の森」で完成した熊谷文学が何故に…? 残念な作品です。「…半分殺してちょうどいい」というテーゼを一心に、なぜ著せなかったのであろうか。多くを語らんばかりに、話がボケてしまったように感じました。 松橋富治の話は、別の場を設けて欲しかった。 | ||||
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| 熊谷達也さんは東北などを舞台に、 自然と人間の関係のあり方をテーマにした作品を多く書かれている方ということで、 いつかは読んでみたい作家の一人でした。 今回、私はこの本で初めて熊谷さんの作品に触れましたが、 正直、私にマタギの話なんかが読めるのだろうかという不安があったのも事実です。 しかし、読んでいくうちに自然を相手にする男達の骨太な生き方に心が打たれました。“熊がかわいそう”“自然と共存”などと唱えるのは実は現実が見えていない証拠で、 無知な者が甘ったれた環境保護を訴えているだけなのかもしれない。 私は根本から自然に対する見方を改めなければならないのかも・・・。主人公が人生を変えるきっかけとなる言葉 「山は半分殺してちょうどいい」 これに対する私の答えは今はまだ出ないけど、 玲子先生の“人間が狩猟によって動物をとってもびくともしないだけの豊かな自然の実現。これが私の理想” この言葉は胸に響きました。 熊谷さんの他の著作にも触れつつ、この言葉に対する理解を深めていきたいと思います。 | ||||
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| 「邂逅の森」から時が過ぎ、「ウエンカムイの爪」の少しあとの現代が舞台です。この3作すべて良い作品だとは思いますが、この「相剋の森」が、ストーリー性、全体の構成、心理描写など飛びぬけて心にしみてくる作品でした。セリフも含めて。 自然と共に生きていく人間は自然と共に死んでいく人間でもあります。自然保護のあり方も含めて、様々な角度から現代の人間を考えることができました。もちろん、単純に読んでも面白い。お薦めの一冊です。 | ||||
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| 昨日熊谷氏の『相克の森』を読んだ。一週間前に『邂逅の森』を読み、ここのレビューに書いた。 気になることがあり、今朝再び、赤坂氏と熊谷氏の対談(『朝日』9月7日と14日)を読み返した。『邂逅の森』は、「神話」(もともとは井上ひさしの評)の世界であり、『相克の森』は、「マタギ的世界の最終局面」(赤坂)と言われている。『相克』は、現代のマタギの世界に現代女性である主人公が入り込んでいく物語である。もちろん「マタギ的世界」も、「神話」的なマタギ世界からは大きく変貌している。しかし、この主人公の設定は、『邂逅』の主人公の息子、まさしく「マタギになりたいと言った、彼の息子」(僕のレビュー)の孫として設定されている。対談によると、この2作は同時並行で書かれたそうである。 だとするなら、『邂逅』の世界を「神話」的世界だなどと言ってはいけないのではないか。赤坂氏がいつも言うように「内なる異文化」として、いままさに生きている世界なのではないか。『相克』の主人公の内にマタギの血が流れていたように、僕は、僕のうちに、東北のこの森の、何かに共鳴するものを持っていることをまざまざと感ずる瞬間がある。それは僕にとって「神話」ではない。 いつの時代を、あるいはどこ探しても、自然と人間が融和し平和だった時代などない。自然と人間はギリギリの危ういバランスの中で存在してきた。今はやりの「共生」などを叫ぶ人々のうさんくささは、『相克』の登場人物(大学教授)のいうとおりだろう。しかし、確かにここ数十年、そのバランスは大きく崩れてきたのは確かだ。 『邂逅』と『相克』の間にある物語が読みたい。 | ||||
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| 山が好きな人間、自然と共生したい人間は、一読する価値がある。 我々が普段の生活で、見過ごしがちなものを著者は、丁寧にわかりやすく描写している。 けして忘れては、いけないことがある。お子様がいる人にはお子様に自然や命の尊さを教える教本にもなりうる。 | ||||
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| 仙台のタウン誌の編集長美佐子は、マタギの集いに出席し、熊を殺すことに対し疑問を持つ発言をする。その会場で彼女は熊を追い続ける動物写真家吉本に出会う。吉本の言葉「山は半分殺してちょうどいい」が彼女の心襞に何かを打ち込む、タウン誌をやめ東京に戻った美佐子は、フリーランスになり、動物愛護のNPOとマタギの双方を追いかける。自然を舞台にした骨太な物語、いつの間にかマタギを理解する女性に成長していく女性を描く、所々雑な感じがあるが、全体的には良く描かれた作品。面白かった | ||||
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