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薔薇の名前
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薔薇の名前の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.15pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全104件 61~80 4/6ページ
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読んでよかった! 八重洲の丸善(オアゾ)には、松丸本舗という、書店内書店がありまして、松岡正剛氏がプロデュースしているわけですけど、ときどき、ここへ行くと、めまいに襲われることがあります。まさに、知の迷宮といった様相です。 「薔薇の名前」に登場する迷宮とも、通じるような気がしました。 で、「薔薇の名前」。 書き手が名も無き女性と寝てしまう(修道士なのに!)というところから俄然、おもしろくなります(読み手が下世話だから……)。この本は宗教、善と悪の問題、富と貧困の問題、さらに男と女、そして性の問題を扱っています。その点で、「ダ・ヴィンチ・コード」も、基本は男と女、性の問題と宗教をからめたテーマだったと思い出しました。同じようなテーマだけど書き方はまったく違います。 例えが悪いですが、「ダ・ヴィンチ・コード」をダ・ヴィンチの時代の人が書く、という設定にすれば、「薔薇の名前」みたいになるだろうと思います。 面倒な「清貧論争」の部分であるとか、宗教と「笑い」の議論なども出てきて、読者はあっちこっちに振り回されます。 中世は暗黒時代というよりも、宗教と国政、階級と自由のせめぎあいが行われていたんだなあ、と感じます。異教徒と戦う以前に、同じキリスト教内での覇権争いが激しく、そこに国王(兵士を要している)との関係がからむからややこしい。 国王は法律を作り、民をおさめ、軍事力を増強し、商業を活発にします。一方、宗教は人々を安定させ、一つにさせる一方で、異端者を排除しようとします。でも、異端者を排除する一方で、異端者の力を借りて国力を増強させようと考える王もいたでしょう。そこで、宗教レベルの戦いと国レベルの戦いが、人々を巻き込んでいくわけです。 ここに登場する名も無き薔薇、つまり村の女性のように生きることに必死で無学な人々に対して宗教は開かれた存在ではなく、そうした人たちを飛び越えて、教義は、国法の上に位置していることになります。 司法が裁く前に宗教が裁くのです。「そんなことは知らない」と言っても、どうにもならない。ひどい話です。 その後、近代国家になるときに、私たちは諦めたんですね。宗教と現実を統合するわけにはいかない、と。 で、この割り切りによって、法律を中心とした法治国家が主となっていき、やがてはその法律をも人々の手によって民主的に作ることが可能になっていった。権力を国王だけに集めず(当然、宗教だけにも集めず)、分散しようとした。同時に人々は教育の重要性に気付き、幅広い教養を身につけるようになっていく……。 「わたしは記号の真実性を疑ったことはないよ、アドソ。人間がこの世界で自分の位置を定めるための手掛かりは、これしかないのだから」(下巻 P371) と、バスカヴィルのウィリアム(フランチェスコ会修道士)は言います。これは著者の言葉でもあるのでしょう。 たまたま、清貧論争にも興味があったので、この本には当時の宗教と政治の関係が、いろいろ綴られていて、そこもおもしろかったですね。1300年代にもなると「キリストは財布を持っていた」とか「キリストは笑わなかった」といったテーマで、深刻な議論が起こっていたと本書はのべています。 このあとに、ルネサンスが起こるんですね。 しかしながら、日本では私も含めて、面食らうような宗教観、歴史観によって作られた舞台で起こるミステリーですから、最初はなかなかとっつきにくいかもしれませんが、刺激的な作品です。 なお、この作品中でしばしばウィリアムが言及するロジャー・ベーコン(または、ロジャー・ベイコン、Roger Bacon)の本は、日本語ではズバリという翻訳書がなさそうです。どういう文脈で飛行機などを予言したのか、確認したいところですが……。 | ||||
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1990年初版のロングセラーである本書ですが、気になる点が一つ。 相前後して上下巻を購入したのに、 上巻には【38版】、下巻には【30版】との奥付が。 8版の差が何部なのかは分かりませんが、 上巻だけで読むのを断念した方の数字が含まれていることは間違いなさそう。 だとすれば残念な話で、できれば上下巻読破してもらいたいもの。 そんなことを念頭に、本レビューを綴りました。 【やはり事前準備は必要なのでは…】 1327年にイタリアにある僧院で起きた、 奇怪な連続殺人事件の謎を巡る本書ですが、 小説の記述には、注釈はなく、 当時の政治的・宗教的な背景をある程度知っていることが 前提に書かれているように思えます。 ネット検索でも結構ですので、 軽く下調べをしてから読むことをオススメします (もちろん紙ベースの資料を当たっていただいても結構です)。 ちなみに、本書の文体そのものはそれほど難解ではないと思いました。 学術論文ではなく、あくまで「小説」として書かれていますから。 【映画を観てから読むのも一興】 本作品は映画化され、1987年に日本公開されています。 原作が翻訳されていなかった当時、私は劇場に足を運びました。 私は映画を観たうえで、小説を読んだわけですが、 映画で物語の結末を知っていても、 原作小説の面白さが損なわれるということはなかったと思います。 むしろ私は、犯人や犯行の手口は記憶していても、 肝心の「動機」を忘れてしまっていたため、 原作小説でその深い意味合いを読むことができて良かったと思います。 この「動機」、宗教的な理由に基づくものなのですが、 映像ではうまく伝わりにくかったのでは。 −−というのは、自分の記憶力の悪さを棚に上げた意見かもしれませんが。 (下巻に続く) | ||||
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(上巻からの続きです) 【ある意味で膨大な無駄のある小説だが…】 本書は、下調べをしてから読んだ方がよい、と先述しましたが、 じつはこの小説、ミステリとしての筋立てを追うだけなら、 物語の社会背景など知らなくても読むことができます。 何やら難しげな宗教論争の場面を斜め読みしても、 どんな事件が起き、犯人は誰で、といった ミステリとしての骨格は読み取ることができるでしょう。 でも、それではこの作品を楽しむことはできないのではないかと思います。 歴史的には短編として誕生した推理小説ですが、 近年書かれるようになった本書のような大長編推理小説は、 ミステリとしてのストーリーとは別に、 物語の世界を構築するために、 作者が大量の言葉を尽くして記述するという傾向があるように思います。 それは、ミステリの本筋だけを楽しみたい読者にとっては 無駄な記述に映るでしょうが、 こうした作品はミステリの骨格に纏わされたかなり厚手の衣 −−作者が構築した作品世界に身をゆだねながら、 謎解きを楽しむという読み方ができると思いますし、 それも推理小説の楽しみ方の一つといえるのではないでしょうか。 日本の作家では京極夏彦の京極堂シリーズがそうした傾向の作品だと思います。 【薔薇の名前という題名について】 なぜ本作品の題名は、「薔薇の名前」なのか。 その表層的な意味(登場人物の誰かを指している)は、 すぐに理解できるところですが、 それ意外にも深い意味が隠されているようです。 その点は、「普遍論争」をキーワードに調べてみると より一層本作品を楽しめるのではないかと思います。 | ||||
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記号学の泰斗が書いたミステリとして著名な作品だが、読む前から単なる衒学的作品ではないかと言う懸念があった。初っ端からその不安が的中する。14世紀のイタリアを中心とする中世ヨーロッパ史、特に宗教史について造詣を持たない読者は門前払いと言う態度なのだ。また、探偵役の修道士ウィリアムの観察眼や推理法はホームズもののパロディで、この点でもガッカリさせられた。作者が本当にミステリを書こうとしたのか否か疑念が湧く内容で、作者自身の宗教史観・記号学の自省的考察を披瀝するために戯れに物語を捻り出した感が強い。 岩壁沿いの修道院で起きる事件の模様は殆ど語られず、代りに読者は当時のキリスト教諸派の対立や神学上の解釈の相違や院内の衆道関係等を延々と聞かされるハメになる。そして、修道院内の建物には秘密の通路が複数あったり、"魔法の薬草"や鏡で幻覚を起こす等、子供騙しの手法が堂々と使われる。表面的にはペダンティックな装いだが、内実は子供向けの冒険小説の趣きである。作者の専門を活かした筈の暗号も断片的過ぎる上にコケ脅しで、現代暗号理論からすれば幼稚極まりない。作中で強調される"迷宮"に陥っているのは読者や探偵役で無く、作者ではないかとの思いを強く覚えた。キリスト教における異端論争・教義対立などミステリ・ファンにとっては興味の埒外である事は自明だろう。 結末に到ってもミステリ的趣向が皆無で、徒労感・脱力感しか覚えない。ミステリを知らない碩学の書いた壮麗なる駄作と言えよう。 | ||||
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教皇とフランチェスコ会の教義をめぐる対立、会内部での暗闘。さらには皇帝を後ろ盾としたフランチェスコ会は、教皇側と、有数の文書庫で名高い修道院において、会談を持とうとする。フランチェスコ会の使節団の一人として、修道院に到着したパスカヴィルのウィリアムは、そこで一連の殺人事件に出会うことになる。 通常のミステリーならば、読み始めればたちまちのうちに、以上の事情をたやすく察するだろう。だが本書の場合には、読者はその事実を把握するためには、溢れかえる当時の著名人士の名、ヨーロッパ史いや中世教会史上に著名な事件の連呼、列挙される異端の網の目等々、の間を泳ぎまわらなければならない。相当注意して読んでいても、改めて前のページを読み返さざるを得ないことが何度もあった。 一言で言って、大変読みにくい。だが、幹から横に伸びた枝の形は美しい、鋭い。細い枝に咲いた花は香しい。 懺悔とはどのようなものとして感じられるか。修道士にとって、女とは、どのようなものとしてありえたのか。そんなことに触れた個所がある。異端とはどのような形で生じるのか。庶民にとっては、どんな形で異端と出会うことになったのか。異端であるとは当時にあってどのようなことであったか。異端審問とはどんなものであったか。人は弱さにどのように対処したかが、恐怖に支配された時どうなるのかが述べられる。会派が、修道院がどのように相争うかが考察される。 確かに殺人事件は解決される。だが読み終わって感じるのは、一つの修道院の殺人事件の記述が、キリスト教の諸相の複合的な記述に重なっているということである。キリスト教の諸相とは、ヨーロッパの精神そのものであり、目をとめた文章の端々から、(キリスト教的)人間の全体が立ち上がってくる。どのページを開いても、興趣が尽きない本である。 | ||||
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かなり量のある文章、上巻のみで挫折する人も多いようです。 中世のヨーロッパ、僧院、それを取り巻く景色をイメージできないと 読み進めることは難しいでしょう。 しかし読み終えた後には、中世の世界をのぞいた満足感が得られると思います。 | ||||
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「それを決める明確な基準はない」 「なしうる最大のことは、もっとよく見つめることだ」 「わたしたちの精神が想像する秩序・・・手に入れたあとでは、梯子は投げ棄てなければいけない。 なぜなら、役には立ったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。 ・・・昇りきった梯子は、すぐに棄てなければいけない」 「見せかけの秩序を追いながら、 本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであった」 「可能性を全面的に織りこんだ必然的存在・・・ 神の絶対的全能とその選択の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しい」 「過ギニシ薔薇(=神)ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」 | ||||
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「それを決める明確な基準はない」 「なしうる最大のことは、もっとよく見つめることだ」 「わたしたちの精神が想像する秩序・・・手に入れたあとでは、梯子は投げ棄てなければいけない。 なぜなら、役には立ったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。 ・・・昇りきった梯子は、すぐに棄てなければいけない」 「見せかけの秩序を追いながら、 本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであった」 「可能性を全面的に織りこんだ必然的存在・・・ 神の絶対的全能とその選択の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しい」 「過ギニシ薔薇(=神)ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」 | ||||
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英訳は省略(削除箇所)が多いので日本語訳より良いとは言い切れません。 ギリシャ人とラテン語について盛り上がれる本です。 宗教部分と人名部分を端折って読むとサクサク進んで面白いです。 ヨーロッパのお城めぐりをしたからでしょうか、情景は目に浮かびました。 | ||||
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もう語り尽くされているので、簡潔に。 何度読んでも面白い本、というのは実に貴重だ。そうそうめぐり合えるものではない。読む年齢によって、知識が増える分、また感想も違ってくるが、面白いことには変わりがない。最初に読んだとき、横文字に弱い者として、ミステリーとして読むには日本人は不利だと思ったが、意外とそうでもないのかも。 思いっきりミーハーなことを書けば、探偵役のウイリアム修道士がとってもに魅力的。修道士らしからぬ発言の数々及び行動は、ちょっとエリス・ピーターズの「カドフェル」と重なるかな。 映画ではショーン・コネリーが演じていて、これもなかなか良い出来だ。原作の最後の場面、大人になったアドソが現地を訪れるシーンがあれば完璧だったのだが。 | ||||
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本作品の舞台は中世イタリア。欧州最大規模の蔵書を誇る辺境の修道院。宗教会議の会場となるその修道院で修道士が変死体で発見される。 修道院院長は元異端審問官のウィリアムにその調査を依頼、ウィリアムが弟子のアドソを連れてこの修道院に姿を現すところから話は始まる。 第2、第3の事件が起こり、修道院は混乱。開催された宗教会議も決裂となるなか、ウィリアムは調査をすすめ真相に迫る・・。というのが大筋。 迷信渦巻く中世において、理性的に科学に基づいて捜査をすすめるウィリアムの知性と師に質問を重ねる弟子アドソの姿が印象的。 ミステリーや歴史ものというよりも、私は著者のエーコが現代社会に対する警句を発している評論のような印象を受けた。 作品のなかでは信仰や学問をテーマに印象的な師弟間のやりとりが交わされる。 「唯一の過ちを考え出すのではなく、たくさんの過ちを想像するのだよ。どの過ちの奴隷にもならないために」 「純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」 「純粋さのなかでも何が、とりわけ、あなたに恐怖を抱かせるのですか?」 「性急な点だ」 「恐れたほうがよいぞ、アドソよ、預言者たちや真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人びとを自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして、破滅へ至らしめるからだ。」 「真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理だからだ。」 ウィリアムのこれらのセリフこそエーコのメッセージそのものであると思える。 思いが純粋で、切実であるほどに、生じる「性急さ」や「不寛容さ」こそ、エーコ(=ウィリアム)が警告する「不健全な情熱」であり、この事件の真犯人であると思えた。 善意や正義の持つ両面性、自由に生き、考えることの難しさについて深く考えさせられる作品です。 | ||||
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1980年のウンベルト・エーコの作品。14世紀のイタリアのベネディクト派僧院が舞台。主人公はドイツ人の見習いの修道士アドソと師匠のイギリスから来たバスカヴィルのフランチェスコ会修道士ウィリアム。ウィリアムはある使命を持ってこの僧院を訪れる。その重要な任務は物語を追う毎に明かされていく。14世紀の西洋のキリスト教世界の権力争いと腐敗。異端審問による迫害とヨハネス教皇派とルードヴィッヒ皇帝派の争い、各会派入り乱れての混沌とした状況が背景にある。そういう背景がありミステリー部分がまた非常に魅力的。主人公達は僧院内で起こった事件の捜査を僧院長に依頼されるのだが、僧院長を始め何か彼らは大きな物を隠そうとしている。そんな中、次々とヨハネの黙示録の記述に擬えて殺人事件が起こるという展開。事件の根源である僧院の主人公達には入る事を許されていない文書館、キリスト教世界で最大の蔵書を誇り、しかも数学的に計算された迷宮の様な造りになっており、各種言語のあらゆる書物が初めて入る人間にはどういう基準で配置されているか分からない、また侵入者を惑わす物質的仕掛けもあるという、館物ミステリーや暗号解きや本好きには堪らなく魅力的になっている。また主人公アドソの肉欲の罪と本能の間で揺れ動く、悩める見習い修道士の恋の心情の描写や彼の夢の描写は驚嘆する程上手い。そしてアドソの実にせつなくも儚い青春と成長の物語でもある。そして彼は師匠とは違う愛の形を求める。最後の所、大勢は始めは一致団結する様にも見えたが結局は惨めにもうろたえ、かの人は満ち足りて笑い、ウィリアムは失われる物に涙し、アドソは師匠の安否を気遣った。この三者三様の行動に人間の全てが語られているといっても過言では無いと思います。あと、私はキリスト教が古代ギリシアで既に全盛にあった人類の叡智を退化させたと思っているし、この考えは一般的かもしれないがエーコもそういう考えが基盤にあり本作を書いているとも思う。だが私はかと言って宗教が必ずしも悪いとは思わないし、叡智の前進が必ずしも人々の幸せに繋がるとは思わない。叡智とは人間が人間たる思考するという事が始まりであり、自分が世界の中心であると思う事を証明している。つまりは思考するとは人間が自己中心である事の証なのだ。人間の本質がその様な物であるから、様は均衡の問題であり、観念や意味になる前の個々の事象を記号として数式化しても人間は自分の卑小さを自覚するに過ぎないし精神の拡がりを潰えさす事であると思う。(下巻に続く) | ||||
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「一場の夢は、一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない」(本文より) 一流の学者が描く、一流のエンターテイメント。 舞台は中世、修道院。 シャーロック・ホームズとワトソンのような関係の師弟修道士が、文書館をめぐる殺人事件に挑む。 大筋はこんなところだが、もちろんこれだけではない。 エンターテイメントでもあり、学術的でもあり、ミステリーと記号論と歴史と宗教学を同時に含んでいる。 本の迷宮をめぐる物語は、その本自体もまた迷宮のようで、人によって、見方によって、さまざまな読み方ができる。 個人的に、おもしろいと思ったのは、この本の構成。 遠い昔に書かれた書物を、現代の著者が見つけて、訳出していくという作りになっている。 語り継がれて、失われて、そうしたことがめぐりめぐって、今この手元に本がある。 ふだんはうっかり忘れているけれど、多くの伝承や物語に、わたしたちはそうやって出会っているのである。 本の本の本、とでもいうべき多重構造が、なんともさすがというべきか。 学術でもいいし、娯楽でもいい。 そんな本はめったいにないので、たとえぶ厚くてびっくりしても、物語の迷宮に迷いこむ価値はあると思う。 | ||||
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神学に関する議論は難しいですが、ストーリーを追うだけなら、とっつきやすく 思ったよりもさくさく読み進めることが出来ました。 表面的なところだけ見れば、何かを手元に留めておきたいという執着が招く 破滅というキーワードで登場人物やそれぞれのエピソードを括ることが出切る のでしょう。 でも、それだけの物語かというと? | ||||
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記号学者エーコの処女小説であり,おそらく最高のミステリー.週間文春は,20世紀のミステリーの第2位にこの作品を選んだ. 中世の修道院を舞台に,連続殺人の犯人を修道僧ウィリアムが追うというサスペンスであるが,中世のキリスト教社会,異端思想,反キリスト,神学論争,文書館と書物,迷宮と暗号,そして記号と事物を巡る考察…まさに記号学者らしい衒学の書でもある. とにかく,ラストでウィリアムが語ることの内容が秀逸である.非常に巧くまとめていて,思わず唸ってしまった. そして,作中の「第五日目」の最後の一文,その重み,悲しみを,是非味わって頂きたい. | ||||
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ボリュームもあり、簡単に読める本ではないが、面白さは超一級。間違いなく、今までの人生で読んだ本の中で、最高の1冊(上下で2冊)である。ただし、中世ヨーロッパ文化に対するある程度の関心は必要である。それがないと、最後まで読み続けられないかもしれない。 舞台は中世、イタリア北部の陰鬱な修道院、季節は晩秋、登場人物はほぼ僧侶ばかりと、ひたすら「重厚」ムードだが、スリルありサスペンスありホラーありユーモアもあり、読み始めたら止まらない。難解な神学論争などは、まずは飛ばして先に進んでも問題はない。作者の創造した世界に浸って、「小説」というものの楽しさをじっくりと味わうことのできる作品である。 | ||||
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本書は暗黒時代とも呼ばれる中世イタリアの修道院で起きる連続殺人事件の謎を 修道士ウィリアムと若い修練士アドソが解き明かしていく歴史ミステリー。 ホームズとワトソンを連想させる師弟コンビが徐々に事件の謎を解明していくという、 探偵小説の王道ともいえる形式をとっており、 特に冒頭で修道士ウィリアムが脱走した馬について推理する場面は、 ホームズのパロディーの様でもあり、思わず苦笑してしまう。 しかし本書は単なる推理小説ではなく、 キリスト教における清貧論争や異端などについてのペダンティックな議論や記述が延々と繰り返され、 全てを十分に理解するには、かなりの教養が必要とされる。 本書は歴史ミステリーの傑作として名高い反面、 読解困難かつ読了困難な難攻不落小説としても有名であるが、 暗黒時代の迷宮の謎を解明させる苦難を実感するのには丁度良いのかも・・・ (上巻を頑張って読めば、下巻は比較的容易に読めます) 中世イタリアの神秘なる世界へ入り込んだかの様な貴重な読書体験を味わえるだけでも十分に読む価値あり。 | ||||
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読了後いろんなことを差し押さえて脳裏に浮かんだのは「ついにあの「薔薇の名前」を読み終えてやった」であった。エベレスト単独無酸素登頂に成功したかのようなすごい達成感を味わえるので一読をおすすめしたい。キリスト教にまつわる宗教的知識、中世ヨーロッパの歴史的背景に精通していればさらに無上の読書体験が得られるのかも知れないが、まっさらな状態でもなんとかなった。「これは歴史ミステリなんだ」と強く念頭に置いて、複数挿入される事件解明停滞部分を怒涛の勢いに任せて読み切ってしまう。「フーコーの振り子」や「前日島」(共に文春文庫)よりは難易度が低い印象があった。さらに物語性が強い。13世紀のイタリアが舞台なのだけれど、オカルト的な興味が手伝ってか、現代の物語を読んでいるかのようにスムースに読み進めることができた。「ちょっとかしこくなったかも」と思えるオマケつき。 | ||||
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宗教を題材にした名作といえばダビンチ・コードがあるが 本書はそれ以前に書かれたミステリー。 ウンベルト・エーコの小説は難解さで理解しがたい書もあるが、 とにかく、一気に読まないと登場人物と宗派の関係が分かりにくくなる。 宗教においてのもう一つのタブーって、 こういうこともあったのかということが描かれている。 いろんな解釈はあるが、最後のどんでん返しは面白いとは思う。 | ||||
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中世ヨーロッパ、険しい山の上にある不気味な僧院、断崖と一続きに聳え立つ異形の建物。情景に冒頭からそそられ、僧院の見取り図と文書館の迷路が一気にその世界に引き込む。踏み込んだらもう逃げられない。…この臨場感。想像力の逞しい方には特にお薦め。 欲望の渦巻く僧院で起こる数々の不可解な事件。複雑なパズルを一つずつ解いていくような手応えがある。さすが記号学者。 それにしても、人間の愚かさを見せつけられた気がして、宗教界って…というより、人間社会って進歩がないなあ、と悲しい思いがしたのは私だけだろうか。 | ||||
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