■スポンサードリンク
薔薇の名前
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
薔薇の名前の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.15pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全104件 41~60 3/6ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
浅学な私にとっては、皮肉と破滅の伝奇ミステリの良作。 著者が昔入手した中世の写本に書かれていた事件というプロローグから引き込まれます。 イタリアにあった特殊な建築の大図書館を舞台にした連続殺人、真相は禁断の古書にまつわる、というのが、本好きにはたまりません。 探偵、推理や事件解決の行為を嘲笑ってるかのよう。 事件の真相も、エーコ氏がよく笑う人というエピソードを読んで納得。 映画版は、原作の面白さがロクにないので、そもそも観る意味がないかと。 原作は、現実的に、迷宮は迷いやすいようにどう作られてるか描かれています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
イタリア語のような、どちらかというとマイナーな言語の世界(業界)では、 この程度の、できの悪い学生の訳としか考えられないものでも、出版されてしまうのか! とにかく、日本語が酷い! 著者のウンベルト エーコに失礼な翻訳である。 これが日本翻訳文化賞を獲ったというのも信じられない。 評価委員達は本当に本書を読んだのか? まともな翻訳が出ることを期待したい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これは邦訳が出る前に英訳で読んだが、何だか面白くなかった(よく分からなかった)。 映画も観たが何だかよく覚えていない。 いまつらつら考えるとバカミスである。 スコラ哲学というのはバカバカしいもので、そういうものと手を切ったから近代があるのである。 ロマン主義は中世好きだが、要するにノスタルジーである。 私は特に興味はない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
河島 英昭という翻訳者はマキャベリの君主論でもそうだったが 訳が非常に下手である それも言語的な訳のまずさと、内容理解の不足によるまずさが相まって 非常に退屈な出来に仕上がっている かろうじてストーリーだけ追える程度である 今後も、この翻訳者は避けたほうが無難だろう | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
映画は、10年以上前にビデオを借りて見たことがあるのですが、やっと原作に手を出しました。 今までも読みたいと思いつつ、図書館で手にとってはやめ、本屋さんでも、やっぱり分厚い・・・とめげていました。 知り合いのフランス人によると、「ダヴィンチコードと似てるけれど、もっと宗教的で、もっと深くて、もっと知的だ」と。 ただ、あまりに宗教色が濃いので、日本人にはちょっとなじみがなくて読みづらいかもしれない、とのことでした。 そう思って読み始めたら、意外と読みやすかったですが、宗教色が強いことと、ちょっと読むのに時間をかけすぎて 内容を忘れたところもあり、話がわからなくなってしまったりしました。 結局、誰が死んで、なぜそうならなければならなかったのか? など、ピンとこない、というか、わかったのですが、もう一度読み直した方がいいかも、という感じです。 面白いけれども、日本の作家の本しか読まない人にはちょっと勧め難いかなと思いました。 ただの娯楽では済まされないようで。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書の時代背景はルネサンス後のイタリアです。 キリスト教には全くと言っていいほど興味のなかった私ですが、 発売当時世界各国の賞を総なめにしていたという評判に裏切らない、 重厚な内容に圧倒されました。 入院中に読んでいた本ですが、おかげで単調な生活が楽しかったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書は、イタリアの時代小説のような一面もあり、ある程度歴史的文脈を押さえておかないと分かりにくいと思いますので、この場をおかりして、簡単にその文脈の説明をさせていただきたいと思います。ネタバレはありません。おそらくイタリアの方にとってさえ、一部の歴史の愛好家、専門家をのぞくと、このような説明は必要なのでは、と失礼ながら思ってしまいます。ウベルティーノ・ダ・カザーレやベルナール・ギーという名前を聞いて、あああの人か!というくらいの知識を持っている方が主要な読者として想定されていると思います。ウィリアム・オッカムって誰?というような方には、すいませんが、かなりしんどいと思います。ですから、この本が、訳注も全くありませんし、日本でベストセラーになったのはちょっと不思議な感じがします。 舞台は1320年くらいですが、まず、その前の1200年代まで遡る必要があります。その頃、神聖ローマ皇帝、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世と、ローマ教皇の対立が激化していました。フリードリヒ2世は、ドイツと南イタリアを領地として持っていました。要するに、北イタリアとローマを中心とするバチカンの領土を挟み込んだ広大な領土をもっていたわけです。それ以前から長い時代、神聖ローマ皇帝とバチカンは激しい覇権争いをしていましたから、フリードリヒ2世はこの機会に北イタリアとバチカンの領土をも併合し、今のドイツとイタリアを合わせたような大帝国を作ろうとします。長年の教皇とローマ皇帝の対立に永遠の終結をもたらそうとしたわけです。自前の軍隊を持たないバチカンにとってはとてつもない危機的状況です。 しかしこの争いになんとバチカンは勝利します。どうやって?ドイツ系のシュタウフェン朝と対立していたフランス王権を味方につけたのです。そこでご褒美として、南イタリア、シチリアは、フランスのアンジュー家の領地になり、シュタウフェン家は断絶し、神聖ローマ皇帝位は空位時代に入ります。 ところが、だからといって、バチカンに我が世の春が訪れたわけではありません。その結果フランス王権が、バチカンを脅かすほど、強くなってしまったのです。今度はフランス王権が、バチカンを配下にしてしまおうとします。バチカンの持つ世俗権力を奪い、教皇をフランス王家直属の司教のようなものにしようとします。とうとうその圧力の結果、バチカンは、長年の本拠地ローマを離れ、フランスのアヴィニョンに移らざるえなくなってしまいます(14 世紀初頭)。 そして、バチカンにとって泣きっ面にハチの状況ですが、空位だった神聖ローマ皇帝位に新たな後継者が決まり、新たにバチカンとの対立関係にはいります。皇帝は今回は、神学の側面からもバチカンに攻撃を与えます。それ以前からそれなりの影響力を持っていた、異端か異端でないか微妙な立ち位置の、宗教運動(清貧派)の応援をしたのです。それは、フランシスコ会という修道会の一派なのですが、この一派は、簡単にいうと、バチカンでさえ何も所有してはいけない、という主張をするのです。キリストや使徒が何も所有していなかった、ということがその根拠です。これは多くの財産を抱えて膨れ上がっていた当時のバチカンの在り方への間接的な批判を含んでいます。この主張が正当となれば、莫大な富を有しているバチカンは間違っていることになり、ひいてはバチカンは世俗権力を失うことになり、挙句の果てに、ローマ教皇は、フランス王家の望みどおり、フランス王家直属の司教のような地位に落ちぶれざるえなくなってしまいます。このような宗派は複数存在していて、本文中で、フラティチェッリとかドルチーノ派と呼ばれているのも、それに含まれます。ドルチーノというのは一個人の名で、そのような主張を掲げて、いわば壮大な一揆のようなものを起こして有名になりました。このようなグループは、膨大な富をもつバチカンの腐敗を苦々しく思う人々の支持を暗にえていて、それなりの支持を広げていたのです。 ここまで読んでいくとバチカン側は袋叩きにあってるような感じですが、当時の教皇ヨハネス22世はかなりのやり手で、この危機的な状況にもかかわらず、バチカンの勢力を拡大していました。先述の清貧派には、異端宣告を下し、その勢いに歯止めをかけようとします。ただ、この清貧派は、それなりに民衆的な支持を得ており、これに異端宣告を下すことは、バチカンの指導的な地位を、不安定化するという側面もあるわけです。この辺りの論争は「清貧派論争」などと呼ばれています。 この状況の中、清貧派が属していたフランシスコ会と、バチカンの間にも、緊張が走ります。同派が異端宣告を受ける少し前に、フランシスコ会は総会でその異端とされた思想を肯定するような決議を採択していたのです。ということで、バチカンは、そのフランシスコ会の総長に、アヴィニョンの教皇庁へ来るよう呼び出しをかけます。「お前はあの異端たちをどう思っているのか?」と問い正すためでしょう。「異端です」と答えると、巨大なフランシスコ会そのものが、分裂し崩壊してしまう恐れがあります。この異端とされた清貧派の主張は、あの有名なアッシジの聖フランチェスコの教えに最も忠実であることは、誰も否定できないからです。この異端を完全否定しては、フランシスコ会はそのアイデンティティーそのものを否定することになってしまうのです。しかしだからといって、総長が「異端ではない」と答えて、バチカンと正面から対立すると、フランシスコ会そのものが異端扱いされかねません。その他、そもそも、そのような試問さえ行われず、招待された総長が、どさくさにまぎれて、アヴィニョンで殺されてしまうのでは、という危惧さえあったのです。 さてここからはフィクションとしての『薔薇の名前』の中の話に入ります。ということで、それに先立って、バチカンの代表と、フランシスコ会の代表たちが、中立的な修道院で事前協議のようなものを行うことになりました。その修道院が、『薔薇の名前』の舞台となっている修道院です。その修道院の宗派(ベネディクト会系のクリュニー派)が、各勢力から適度な距離を保っていたからでしょう。また、その修道院には、先の世俗の富を否定する思想の最大の理論家ウベルティーノ・ダ・カザーレ(歴史上、実在した人物)がおり、このウベルティーノは、その高い人徳から、バチカンも一目置かざるえない大人物でしたが、そのような状況も、この修道院が調停の場を選ばれた理由でしょう。 しかし、そのような修道院で、その事前協議の直前になって、謎の自殺?殺人?が起こります。どこかの勢力が圧力を事前にかけたのでしょうか?バチカン?フランス王?皇帝?それ以外のどこか? しかし事件の真相はまったく分かりません。これは困ったということで、歴史上の哲学者ウィリアム・オッカムの学友でもある高い知性の持ち主の修道士ウィリアムが、事件の解決のために、その修道院に招かれます。そしてその修道士の付き人である、修道士見習いアドソが、この『薔薇の名前』の主人公で、彼の手記が『薔薇の名前』本文ということになっています。これくらいのことを抑えておけば十分です。後はみなさんでお楽しみください。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
キリスト教を信仰している方や、聖書の知識・キリスト教史の知識がある方は問題ないかもしれませんが、その辺りの内容が分かりづらいです。 しかし、とても面白かった。 その時代に思いをはせながら、じっくり腰を据えて読みた1冊です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私には上下巻で長かった物語でした。 描かれている世界観、僧院の風景等、いろいろとイマジネーションがわく作品でした。 映像化されているので、そちらを見てみたくなりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この小説の背景がキリスト教神学と修道院でありとても難解且つ複雑であったが、当時の社会情勢も懇切丁寧に 描かれており良かった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上巻の感想と同様であったが、DVDを見れば理解し易いと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
”全宇宙とは、神の指でかかれた一巻の書物である・・” ウンベルト・エーコが、古書店で見つけた書物(メルクのアドソの手記を、ある修道院長が書き写したもの)をイタリア語に翻訳したもの、という体裁である。手記の内容は、年老いたメルクのアドソが、見習い修道士だった頃に、北イタリアの修道院で起こった事件、名も知らぬ農家の娘との一夜などを回想するものとなっている。 物語は中世。日本の南北朝時代に、朝廷が南朝と北朝に分裂したように、ヨーロッパでも、カトリック教会が分裂した時代があった。ローマとアヴィニヨンで別々の教皇が立てられ(その後。3人に教皇が増えたりするが、1417年マルティヌス5世の選出で終息する)、異端審問や魔女狩り、宗派論争で混沌とした時代があった。それらを超克して、ヨーロッパはようやくルネサンスを迎えるが、物語は、分裂以前の疑心暗鬼な時代を描いている。 パスカヴィルのウィリアム(フランチェスコ会修道士)とメルクのアドソ(ベネディクト会の見習い修道士)は、ホームズとワトソンの役柄である。ローマ教皇庁と皇帝派は、かねて世俗の権利をめぐって争っていた。教会の清貧を説くフランチェスコ会は、皇帝側の支持を得ており、教皇から危険な存在と思われる一方で、同じカトリック宗派として、ローマ教皇庁との関係悪化を避けたいとも考えていた。アヴィニヨンのローマ教皇庁で、フランチェスコ会の総長ミケーレと教皇側との会談が組まれることになったが、アヴィニヨンでのミケーレの身の安全を確認する(最悪の場合、そのままミケーレは捕縛され、異端者として処刑される危険があった)ために、両派に中立な場所にて、予備会談をする必要があった。北イタリアのベネディクト会修道院が選ばれ、フランチェスコ会総長ミケーレとベルトランド枢機卿が会談をすることになった。その準備として、フランチェスコ会からパスカヴィルのウィリアムが派遣されたのだが、到着の前日に、修道院では修道士が死亡していた。何しろ大事な時期である。その死亡事故の調査を、修道院長から依頼され、ウィリアムは引き受けることになったが、事件は止まらず、修道士の怪死が続く。 やがて、修道院に教皇側の一行が到着。枢機卿のほか、冷酷な異端審問で名をはせたドミニコ会修道士ベルナール・ギー、枢機卿の護衛と称して、精強なフランスの弓兵隊などを連ねていた。予備会談の最中にも事件が起こる。異端者の発覚と”告白”、修道士の怪死が結びつき、フランチェスコ会と教皇との調停は失敗する。ついにミケーレの身の安全は保証されなかった。教皇側一行が修道院を去った後、ウィリアムは殺人事件の調査に本腰をいれていく。迷宮構造となっている文書室の秘密の部屋。キリスト教世界では到底受けいられないような内容が記された書物をめぐり、事件が繰り返されていく。謎解きは、記号だらけ。 映画版よりも当然、活字の方が内容は濃い。特に、異端審問で裁かれる側は哀れである。多くの平信徒は、異端と正統の区別が付かない。苦しい日々をなんとか過ごしている人の素朴な信仰と、教会の財産や権威は、どこかで対立するものなのだ。その対立軸において、「笑い」がひとつの鍵である。写字室での、ホルヘとウィリアムの会話が、その後の展開(というか、もっと言えば、中世の暗黒から、ルネサンスへの道筋)を暗示している気がした。異端審問がそうであるように、「恐怖」を煽り、支配するためのツールとして利用する。一方、「笑い」の背景にあるものは、もっと自由な批評精神である。権威とかではなくて、社会風刺のような「笑い」にこそ、開かれた人間の進歩がある。ウィリアムは、文書を読むために老眼鏡を利用している。迷信だらけの世の中で、とてもユーモアがあり、科学的である。世の中が暗く感じるときに、「恐怖」からは何も解決はされず、むしろ、その状況を「笑い」で克服することが、大切なのだ。「笑い」とは科学的手法の源泉なのかも。物語の後半クライマックス。<アフリカノ果テ>で、一連の怪死事件の黒幕と対峙した際の会話シーンで、なぜかマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画『華氏911』や『シッコ』などを思い出した。ドキュメンタリーとはいえ、かなり風刺が効いている。(映画の内容はホントだとしたら、)悲惨な現実を跳ね返すには、「笑い」は強力なツールになる。そして、為政者が、いかに国民に「恐怖」を植え付けるのかが描かれる。現代も、中世と構造は変わらないのだなぁと感じた。スターリン時代然り、北朝鮮然り。それと比べれば、アメリカ合衆国や日本は、ルネサンスである。多様な意見が、堂々と言え、自由な勉学が可能なのだから。とはいえ、自由すぎるのも苦痛だ。命がけで、貪るように知識を得ようとした、14世紀のカトリックの修道士たちが、今日の、情報の氾濫を目にしたら、どう感じるだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
友人の面白いとの薦めで読みました。 中世14世紀の僧院での怪事件をホームズ役フランシスコ会修道士とワトソン役のベネディクト会見習い修道士(物語の語り手)が解決する話。 そこに宗教的な事柄が多数絡められています。カトリックの派閥対立とか、異端とは・清貧とは何ぞや?とか。 難しい(かつ失礼ながら興味を持てない)話が多く出てくるし、登場人物が外人名だから誰が誰だかわかりにくい(だから登場人物表しおりが付いてる)ので、正直読んでてツラかった。 最初のはしがきとプロローグでいきなり挫折しそうになり、オイオイっこれ本当にオモロイのか? と心配になってアマゾン書評をみたら、評価高かったので安心したぐらい。 下巻のアマゾン書評数が上巻に比べて少ないのは、上巻で挫折した人が多いからか? 友人が最初はあえて上巻しか持って来なかったのも、挫折を予測してたから? などと邪推してしまった。(その推理は正しいのかもですが...) 宗教的な問答では、キリストが笑ったか? の論争とか。 (それなりに笑ってたに決まってるやろっとツッコミながら読んでた) それに対する言で 「きっと笑わなかっただろう。なぜなら、神の子の名にふさわしく、全て知っていれば、私たちキリスト教徒が後年にどのような事をするのかぐらいはお見通しであっただろうから...」 なんてのは深いなぁと感じた。 上巻2/3頃からやっと面白くなってきた...と思ったら、下巻でカトリックの派閥対立話等でまたやや辛くなり、 なんかよくわからん動機(中世キリスト教の世界では十分に動機たりえるそうです)の主犯との攻防でやや盛り上がって終了。 「最も残酷なのは、自分の事を正しいと信じて疑わない人である」なんて言葉を強く思い出す内容でした。 薦めてくれた友人に対してもね... 推理小説はあまり好きでないし、キリスト教にも興味ないから、通常であれば120%読むことはない本なので、 そういうの読んで視野を広げれたという点は良かったです。 それにしても色々な事柄に対する表現がくどいなぁ〜と感じました。 まぁ正直なところ、 オモロイ箇所 <<<・・・<<< ツライ箇所 ということで、★★☆☆☆ とさせて頂きます。 理系・日本史専攻・仏教徒の評価とお考え下さい。 それから、この作品はショーン・コネリー主演で映画化されてるそうです。 ショーン・コネリーは好きなんでちょっと見てみたくなりました。 あと、解らない言葉や読み不明の漢字が多数だったんで調べながら読みました。 解らないことをWikiで調べたらドンドン派生して、そっちが止まらなくなったりしてました...。 まぁ勉強にはなったけど。 以下が調べた語の一部です。 ---ティンパヌム--- 建物入口上にあり、横木とアーチによって区画された装飾的な壁面のことで、半円形か三角形をしている。 ギリシャ・キリスト教建築においては、ティンパヌムに宗教的情景が描かれているのが通例。 (上巻最初のティンパヌム描写がやたらくどくて辟易した...) ---修道会--- キリスト教の西方教会における組織。カトリック教会においては教皇庁の認可を受けて、キリスト教精神を共同生活の中で生きる、誓願によって結ばれた信徒の組織。修道会の会員は修道者といわれる。 ---フランシスコ会--- 13世紀イタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称。無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動。 居住する家屋も食物ももたず、人びとの施しにたよったところから「托鉢修道会」ないし「乞食僧団」とよばれ、どの教会管区にも属さず、ただローマ教皇にのみ属した。 ---ベネディクト会--- 現代も活動するカトリック教会最古の修道会。戒律は「服従」「清貧」「童貞(純潔)」。ベネディクト会士は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれた。 ---癩病人(らいびょうにん)--- ハンセン病患者のこと。この名称は差別的と感じる人が多いために、歴史的文脈以外では、一般的に避けられている。 この本では病気により社会から隔絶された人々を示して使われています。 聖書にでてくる皮膚病がどの病気を指しているのかは諸説あるそうで、聖書での最近の訳はこの語を使わずに「重い皮膚病」としているそうです。 ちなみに、ハンセン病の伝染力は非常に低く、治療法が確立しており、重篤な後遺症を残すことも自らが感染源になることもないとの事。 ---枢機卿--- カトリック教会において、教皇の助言者たる高位聖職者。教皇選挙権を持つ。 ---アナーニ事件--- 1303年、フランス国王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世をイタリアの山間都市アナーニで捕らえた事件。 アヴィニョン捕囚を引き起こして教皇権に対する王権の優位を確立した。 この事件・結果は教皇権力の衰退と王権の伸張を印象づけ、近世絶対王政にいたる重大な一里塚となった。 ---アビニョン捕囚--- キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョン(フランスの南東部に位置する都市)に移されていた時期(1309〜1377年)を指す。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻はさすがに読ませどころが多い。いや、読む人が読めば読ませどころは全編に横溢しているわけだが、ひたすらエンターテインメントを求める向きには、その仕掛けがもどかしい。そんな僕のようなけしからん(?)読者にとっても、下巻は読ませどころが多いのだ。 実在した異端審問官ベルナール・ギーとの対決、徐々に全貌を現す玉虫色の真相、そしてカタストロフィー。最後のそれに、俗人である僕は横溝正史の『八つ墓村』を思い出さずにはいられない。うん、ストーリーだけ見るとこれは『八つ墓村』だな。記述者アドソのビルドゥングスロマンであり、師となるウィリアムはホームズというより金田一耕助だ。 つまり、ミステリとしての仕立ては実に“記号的”である。分かりやすい。その砂糖菓子のような骨組みに、目が眩むような知のデコレーションが重層的に施されている。作者のたくらみには文字通り「舌を巻く」が、それを味わい尽くすほどの肥えた舌を僕は残念ながら持っていなかった。だからせめて、「こういうものを面白がる人たちもいるんだ」という理解は示しながら、読み飛ばしていった。例えるならそれは「現代音楽を鑑賞する姿勢」に近かったろう。 読了後、ジャン=ジャック・アノーの映画をあらためて観ると、難解な現代音楽を実に要領よく咀嚼しているなあと感心した。もちろんそこに物足りなさを覚える原作ファンはあるだろうが、これだけの作品世界をいちいち具体的な「画」に置き換えていった丁寧な仕事には、頭が下がる。なんてことは映画のレビューに書くべきですね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
好みでいえば、好きなタイプの小説ではない。現代アメリカ文学の大家ジョン・アーヴィングを枕頭の書とする僕は、圧倒的な物語が展開するディケンズ的な小説が好みだ。だから、モダニズム文学の首魁ジェイムズ・ジョイスみたいな「知の叙事詩」ともいうべき小説は、好みではないのである。本書をジョイス的と呼ぶのはいささか乱暴という気もするが、エーコはジョイスに大きな影響を受けているらしいので。 それでも本書を読もうと思ったのは、ミステリファンとして踏破しないわけにはいかないひとつの高峰であることは確かだから。そしてシャーロキアンとしては、ホームズもののパスティーシュにやはり関心を持たないわけにはいかなかったから。もちろんパスティーシュとか、あるいはメタミステリとか、そういう分かりのいいレッテルを貼って片付けるにはあまりに手ごわい小説であることは、充分承知している。 今、上巻を読み終えてこのレビューを書いている。キリスト教史や中世の西洋史、哲学、思想などの知識があるほうが楽しめる、というのは多くの方がここで書いておられる通り。もちろん知らなくてもミステリとして楽しめる、というのもまあその通りだろう。しかし予備知識はいらないにしても、それらに対する興味、関心、好奇心はあったほうがいい。僕には正直それらが欠如していた。「分からないことは分からないでいいや」というスタンスで読んで、結局少々退屈なまま上巻終了。 でもひとつ思ったのは、宗教上の相克において何が異端で何が正統か、また何が善で何が悪かというようなことは、何が残って何が残らなかったかという問題に過ぎないのではないか、ということ。圧倒的な情報量に触れながら、たったそれだけのことに感心しているのは情けない気もするけれど、下巻のミステリとしての面白さに期待しつつこのへんで―― | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
映画はずいぶん前に見ていたのですが、本は難解そうで敬遠してました。 知り合いのイタリア人が「絶対読むべき本、エーコは読者を選ぼうとして最初の数ページはわざと難解に書いている」と聞き、挑戦しました。 これを聞いてなかったら、最初の数ページで本当に振り落とされそうに。 でもそれをこれをのり超えると、これでもかというほどの、知的な会話が展開されもう夢中になりました。 それは禅問答にもつうじるものがあります。 読んでいるというよりは、ウイリアムの傍らで聞いている・・自分も参加している臨場感! 中世ヨーロッパや宗教論に興味がなくとも充分楽しめます。 読んでる途中から、再読したくなる本、一度目はこの会話を楽しみ、次は実際に議論されてることを学びたい気持ちに。 借りるのではなく、蔵書したい本です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本を読む楽しみをこれほどまでに、味わえる書はざらにないだろう。しかも、サブテーマとなっているのも、書に対する愛である。恐れ入りました。しかし、いかんせん、この作者は作家としての活動が短すぎた。惜しまれる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私も含めて日本人はあまり深く知り得ない時代背景がとても楽しいです。 「磁力と重力の発見」の全3冊の中の2巻にルネサンス初動期の話もあわせてお勧めします。 この物語の背景になっている、ヨーロッパでは失われアラブ世界で保存されていた アリストテレスのなどギリシヤ哲学の知とアラブ世界の技術的な知などを いっきに吸収しはじめた、まさに知の変革期です。 この事件の起きた理由、時代に反発する黒い影が何故そんなに抵抗したのかも納得できます。 物語の主人公の師ウィリアムはシャーロックホームズばりの 実証的な捜査方法を取りますがこれは、この時代に初めてあらわれた実験で 物事を検証しようという科学的な姿勢と深くかかわってます。 何がいいたいかと言うと、時代背景がわかると何十倍もおもしろく エーコがまさに「私はこの時代で描いた」と言った意味もズシンとくると思います。 手始めに「磁力と重力の発見」山本義隆著はものすごくお勧めですっ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
オリジナルは1980年リリース。邦訳はかなり遅くて1990年1月25日リリース。ミステリーの世界で孤高の存在である本作は、ミステリー読破を目指す者にとっては百名山の如く、踏破せずには死ねない一冊とされ、読了後、その思いはますます深まった。作者ウンベルト・エーコは、イタリアの記号論哲学者、小説家、中世研究者として有名だが、もういくつか加えて説明しておくと、エーコの卒業論文は『聖トマスの美的問題』であって、この作品の時代である1327年というのは彼の最も専門とするところである。そしてもう一つ、『三人の記号 デュパン、ホームズ、パース』という本をトマス・シービオクと共著していて生粋のシャーロキアンでもある。 何と言っても圧巻なのはその構造だと思う。生粋のシャーロキアンらしく、主人公に『バスカヴィル』のウイリアムとその弟子(助手)アドソを配しているが、誰しも連想するのはシャーロック・ホームズとワトソン博士だろう。そして長老には、『幻獣辞典』等で有名なホルヘ・ルイス・ボルヘスから取ったと思える盲目の師ブルゴスのホルヘを設定している。また、実在の人物である有名な異端審問官ベルナール・ギー(ドミニコ会士)やフランシスコ会士カサーレのウベルティーノを登場させてくる。原書はラテン語・ギリシア語・中高ドイツ語の原語のセンテンスやフレーズがその原語の表記のまま使われていて、その上に中世キリスト教の在様が重畳的に組み合わされる。正に知の迷宮とも言えそうなストーリーである。 ストーリーについては未読の方のために触れないが、強く感じるのはウンベルト・エーコの『本』に対する愛情だ。中世修道院のスクリプトリウムの文書館3階の構造などは正にエーコの想像した『本の宇宙』のようですらある。その本の宇宙を彷徨うウイリアムとアドソはまるでその宇宙を彷徨うのを楽しんでいるかのような感じすらする。『キリストの清貧』や『キリストにおける笑い』そして『薔薇の名前』の意味における謎など、仕掛けられた知の迷宮の素晴らしさに『恐るべしウンベルト・エーコ!』と唸ってしまう。やはり読まねば死ねない一冊である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
名訳との世評をずっと疑ってきた。驚くほど大量の初歩的な訳語・表記の選択ミスがあるからだ。大家といえども教養に限界はあるのだから責められないとも言えるが、最小限に抑える手はあったはず。現に、最新作『バウドリーノ』は歴史学者がチェックしたと仄聞する。それくらいのことをしないとエーコの学識には拮抗しえない。 重版のあいだに訂正はされているのだろうか。版元は早急に徹底的に手入れをした文庫版を出す義務がある。訳者が偉すぎる、あるいは偏屈にすぎるとこういう仕儀になり、読者がワリを食うという悪弊の典型である。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!