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単独行者
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単独行者の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全17件 1~17 1/1ページ
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先ず、ほぼ一気読みでした。(孤高の人も一気読みでしたが) 臨場感:アラインゲンガー(読者は加藤文太郎目線になり、加藤文太郎になってしまう。…加藤の胸の苦しさ、歩行、五感さえも伝わる) 孤高の人(前者が等身大の一人称としての加藤に対し、加藤と加藤を取り巻く社会や人物を見守りながら読み進める形式です。) 形態:「アラインゲンガー」がドキュメンタリーであるなら、「孤高の人」は視聴率の高いNHK朝の連ドラ。 内容:前者:登場人物が限られており、等身大の加藤の目に映る人物のみの描写。/ 後者:登場人物は多く時代や社会、国内情勢、恋愛、ドロドロした人間模様、加藤以外の人物のストーリーも描写。 加藤を含め、両作品に登場する人物は同一でありながら、性格が違えば、出来事の結果までのプロセスもかなり違う。 両作品ともに、見方は違えど、名作に変わりはありません。どちらもかなりのページがあり読み応えがあります。 オススメの図書:前者が「垂直の記憶(山野井泰史)」に近く、後者は「氷壁(井上靖)」に近いかな。 山ヤのかたは、勇気付けられると思います。最後にアラインゲンガーを読まずして、加藤文太郎は語れないですね。 | ||||
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中学生の時とつい最近「単独行」を読みました。 私なりに加藤文太郎像ができているので本作では違和感を覚えた。 結局は心理描写の創作に終始し、架空の人物や幽霊まで登場させるが、 期待した当時の服装装備や地形の描写は補足されていなかった。 大槍からの転落も疲労からならわかるが、ルートミスはありえないと思う。 文章は読みにくくないのが唯一の救いでしょうか。 昔すぐ閉じた「孤高の人」を読んでみますか。 「単独行」をまだ読んでいない人は、本作を先に読むのはやめたほうがいいと思います。 | ||||
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すばらしい内容でした。読後小生も遭難して手の指をほとんど失いました。 もう一度読みたいです。沢木耕太郎さんの「凍」もお勧めです。 | ||||
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不世出の単独行者・加藤文太郎の自伝。500頁を一気に読んだ。 著者は1996年刊の『白き嶺の男』(新田次郎文学賞受賞)で加藤のことを書いているが、 その刊行にあたってもう一度、加藤の物語を書くと宣言をしていた。 10数年を経て、その約束を果たしたのが本書である。 内容はコテコテの山描写がこれでもかと続く。加藤の山に向ける執念と内面の変化を余すところなく描いていく。 ひとりの人間としての強さも弱さも、そしてパーティを組まない単独行者としての苦悩。 加藤がなぜ単独行にこだわるのか、その答えがほんの少し理解できたような気がする。 『単独行』の著作で有名な加藤文太郎を描いた作品には、新田次郎の『孤高の人』があるが、 個人的にはおそらくこの作品を超えるものはないと思っていた。 しかし、谷甲州のこの作品を読んで、改めてそれを“超えた”作品に出会えたと確信した。 鳥肌が立つような重厚感をもった作品を書き上げた作者に、感謝したい。 | ||||
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高いところは嫌いだ。長距離を歩くのも、山に登るのも疲れるから嫌だ。 だが、なぜか山の物語に惹かれる。 加藤文太郎という日本の登山の歴史に名を残した男の物語。谷甲州は小説家なのだから、この物語はドキュメントではなく小説として読むべきなのだろう。 だが、実際の加藤の行動や登山に至るきっかけなどについては詳細に調査した上で描かれているに違いない。 だからある程度の部分は実際に「加藤文太郎」という男が行なった行動を正確にトレースしていることは間違いないだろう。 意外だったのが、彼が山に登り始めたのは道を歩くことの延長であった、ということ。 歩いて歩いて歩き尽くして、残ったのが山しかなかった。だから山に登ったのだということ。 近所の道を散歩しているときなど、ふと加藤文太郎がやってしまったように、この道が山に通じてしまうのではないかと突然の妄想にとらわれることがある。 やはり谷甲州は面白い。 | ||||
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90年前こんなすごい登山者がいたのに感動です。仕事を持ち、休暇を使いながら、槍、剣、穂高の厳冬期登山を成し遂げた。冬の北鎌尾根遭難はとても残念です、1人で登っていたら…と強く思いました。 | ||||
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90年前こんなすごい登山者がいたのに感動です。 仕事を持ち、休暇を使いながら、槍、剣、穂高の厳冬期登山を成し遂げた。 冬の北鎌尾根遭難はとても残念です、1人で登っていたら…と強く思いました。 | ||||
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登山経験者向けの本だという風に感じました。そういうのがお好きの方は是非ともどうぞ。 | ||||
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プロローグにおける加藤主導による北鎌尾根への突入及び遭難を匂わせる記述は、「孤高の人」における宮村健(吉田登美久)主導による突入及び遭難を否定して、新たな加藤文太郎像を描こうとしていることを宣言している。「孤高の人」は、「単独行なら決して遭難しない」加藤を描くために、遭難の2年前に加藤が吉田氏を誘った登山記録を削除し、遭難の責任を吉田氏にかぶせた。それが吉田氏への侮辱であることは当然としても、加藤の超人性を前面に出すことも、決して登山家としての加藤をきちんと描いているとは言えないのではないか、おそらくそんな問題意識で書かれたものが本書であり、当時の登山の状況をふまえた加藤の登山への取組みを描きつつ、ある程度納得のいく形で北鎌尾根への突入に至るまでを描こうとしている。ただし新資料があるというわけでもないようなので、「孤高の人」が「人間としての加藤」を描こうとしたものだとするならば、作者としての推測を交えつつ、より納得できる形での「登山家としての加藤」を描こうとした、ということなのかもしれない。 | ||||
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プロローグにおける加藤主導による北鎌尾根への突入及び遭難を匂わせる記述は、「孤高の人」における宮村健(吉田登美久)主導による突入及び遭難を否定して、新たな加藤文太郎像を描こうとしていることを宣言している。 「孤高の人」は、「単独行なら決して遭難しない」加藤を描くために、遭難の2年前に加藤が吉田氏を誘った登山記録を削除し、遭難の責任を吉田氏にかぶせた。それが吉田氏への侮辱であることは当然としても、加藤の超人性を前面に出すことも、決して登山家としての加藤をきちんと描いているとは言えないのではないか、おそらくそんな問題意識で書かれたものが本書であり、当時の登山の状況をふまえた加藤の登山への取組みを描きつつ、ある程度納得のいく形で北鎌尾根への突入に至るまでを描こうとしている。 ただし新資料があるというわけでもないようなので、「孤高の人」が「人間としての加藤」を描こうとしたものだとするならば、作者としての推測を交えつつ、より納得できる形での「登山家としての加藤」を描こうとした、ということなのかもしれない。 | ||||
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紹介文には「史実をもとにした真実の加藤文太郎像を、山岳小説の名手・谷甲州が、渾身の力で描ききる大作。」と書かれていますが、読んだ感じではフィクションの要素が強かったです。ただ、どこから本当で、どこからがフィクションなのか非常に曖昧で、疑心暗鬼の状態で読むことになったのでのめり込めなかったです。新しい文献が発見されたとかそういうこともなかったようで、加藤氏の「単独行」に心の葛藤を付け足した感じでしょうか。装備がどうのこうのというより、「その時彼は何を考えていたのか?」にスポットを当ているのではないでしょうか。確かに「孤高の人」よりは史実に基づいてはいると思います。ただ、読み物としては「孤高の人」の方が面白かったです。文章は登山家にありがちなハードボイルド系というか「魂の歌を聴けっ」って感じの熱いものでした。歩く速度の件を本書ほど熱く、詳細に語った書籍は読んだことがありません。前述のとおり「心」の描写に重きを置いているので山行の描写が途中で終了していることがあり、どうなんだろうと思いました。一人称で語ってるかと思いきや突然俯瞰で第三者(著者)目線で語りだす部分が多くて読んでて疲れた。多分、一人称の部分は過去の文献の加藤氏の言葉を引用しているのかなあと思いながら読みました。「加藤=正義」と分かりやすく描かれているので作者が「加藤文太郎が好き」という想いはヒシヒシと伝わってきましたが、小暮写真館に続いて「分厚い本にアタリ無し」のイメージを強くする作品でした。 | ||||
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紹介文には「史実をもとにした真実の加藤文太郎像を、山岳小説の名手・谷甲州が、渾身の力で描ききる大作。」と書かれていますが、読んだ感じではフィクションの要素が強かったです。ただ、どこから本当で、どこからがフィクションなのか非常に曖昧で、疑心暗鬼の状態で読むことになったのでのめり込めなかったです。 新しい文献が発見されたとかそういうこともなかったようで、加藤氏の「単独行」に心の葛藤を付け足した感じでしょうか。装備がどうのこうのというより、「その時彼は何を考えていたのか?」にスポットを当ているのではないでしょうか。 確かに「孤高の人」よりは史実に基づいてはいると思います。ただ、読み物としては「孤高の人」の方が面白かったです。 文章は登山家にありがちなハードボイルド系というか「魂の歌を聴けっ」って感じの熱いものでした。歩く速度の件を本書ほど熱く、詳細に語った書籍は読んだことがありません。 前述のとおり「心」の描写に重きを置いているので山行の描写が途中で終了していることがあり、どうなんだろうと思いました。 一人称で語ってるかと思いきや突然俯瞰で第三者(著者)目線で語りだす部分が多くて読んでて疲れた。多分、一人称の部分は過去の文献の加藤氏の言葉を引用しているのかなあと思いながら読みました。 「加藤=正義」と分かりやすく描かれているので作者が「加藤文太郎が好き」という想いはヒシヒシと伝わってきましたが、小暮写真館に続いて「分厚い本にアタリ無し」のイメージを強くする作品でした。 | ||||
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厳冬期の北アルプスに挑んで消息をたった登山家 加藤文太郎の登山スタイルの由来を加藤の経歴を追うことで探ったノンフィクションです。はじめは,里歩きから入り,夏山,そして,冬山へ。困難なことへ挑んでいくアスリート的な気概を感じました。加藤の偏屈な性格もそれに拍車をかけます。アルプスやその気象条件の険しさが丁寧に描かれていて,登山を描いた小説として読み応え十分でした。 | ||||
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大正末から昭和初期にかけて活躍した登山家、加藤文太郎、新田次郎の『孤高の人』のモデルとして知られる人物に取材した、極めてノンフィクション性の高いフィクションです。資料を徹底的につきあわせて書かれた、二段組、502ページの堂々たる大作と言えますが、ダレ場がないためすいすい読めます。 読み始めから独特の違和感があるのは、山岳小説には通常あまり記載されたない、細かい心理描写、特に人間同士の感情的行き違いや、こだわりなどを相当書き込んでいることです。 山岳小説は町中の物語と違って、書くことが多いのです。気象、地面の状態、装備、残った食料、時刻、登山者の体力状況など、それを全部書き込むと、心理描写の方は重要なポイント以外は削りこまざるをえません。 が、ここで削られているのは、この時代、今と大幅に違ったはずの装備の問題です。終盤、加藤が遭難する場面でザイルをいつまでも捨てない描写に、わたしはそのザイルの今と違って圧倒的に重いはずの重量と材質が知りたくてたまりませんでした。しかし作家が記載するのは、この時なぜ彼がザイルをそこまで運んだのかという心理なのです。 作者が興味を持っているのは、加藤がなぜ単独行者になったのか、なぜ雪山にこだわったのか、なぜ遭難したのか、それが彼のどういった心理によるものなのか、なのです。運や技術的問題ではありません。この辺、読者の好みにより、評価が違ってくると思われます。 事実を丹念に追い徹底的に実在の人物心理に迫ろうとしたため、ここで描かれる加藤は変わった人、特別な天才のイメージではなく、わりといるちょっと嫌な奴となっていますが、その分親しみが持てます。 | ||||
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大正末から昭和初期にかけて活躍した登山家、加藤文太郎、新田次郎の『孤高の人』のモデルとして知られる人物に取材した、極めてノンフィクション性の高いフィクションです。資料を徹底的につきあわせて書かれた、二段組、502ページの堂々たる大作と言えますが、ダレ場がないためすいすい読めます。 読み始めから独特の違和感があるのは、山岳小説には通常あまり記載されたない、細かい心理描写、特に人間同士の感情的行き違いや、こだわりなどを相当書き込んでいることです。 山岳小説は町中の物語と違って、書くことが多いのです。気象、地面の状態、装備、残った食料、時刻、登山者の体力状況など、それを全部書き込むと、心理描写の方は重要なポイント以外は削りこまざるをえません。 が、ここで削られているのは、この時代、今と大幅に違ったはずの装備の問題です。終盤、加藤が遭難する場面でザイルをいつまでも捨てない描写に、わたしはそのザイルの今と違って圧倒的に重いはずの重量と材質が知りたくてたまりませんでした。しかし作家が記載するのは、この時なぜ彼がザイルをそこまで運んだのかという心理なのです。 作者が興味を持っているのは、加藤がなぜ単独行者になったのか、なぜ雪山にこだわったのか、なぜ遭難したのか、それが彼のどういった心理によるものなのか、なのです。運や技術的問題ではありません。この辺、読者の好みにより、評価が違ってくると思われます。 事実を丹念に追い徹底的に実在の人物心理に迫ろうとしたため、ここで描かれる加藤は変わった人、特別な天才のイメージではなく、わりといるちょっと嫌な奴となっていますが、その分親しみが持てます。 | ||||
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読中、読後の最初の印象は作品の良し悪しというよりも、単独行者(以下「アラインゲンガー」)は小説かノンフィクションかどちらなのか判断に迷うということだ。アラインゲンガーの読者の多くは、その前に、新田次郎氏の「孤高の人」を読んでいると思う。まず、孤高の人とアラインゲンガーの加藤像があまりにもかけ離れていることに強い違和感を持ちながら読んだ。読み始めて、最初に覚える加藤像の違いは、その性格である。孤高の人の加藤文太郎は人との交流を大変苦手とし、わずかなコミュニケーションも図れないのに比べて、アラインゲンガーの加藤はまったくそうではなく、登山会の仲間との交流も多く、それほど特別に、孤立した人物には見えない。アラインゲンガーの加藤像は、孤高の人のそれとはまったく正反対のものであり、作者がことさらに、孤高の人の加藤氏や吉田氏のイメージを覆すことに躍起となっている印象が強く残る。アラインゲンガーが2010年10月号の雑誌「山と渓谷」にも紹介されているが、孤高の人での吉田氏のイメージが実際とかけ離れているため、そのイメージを変えることが吉田氏を知る人にとってはどうしても必要であったとされている。吉田氏のイメージがこれだけ違うのはいいとして、それにしても、では、なぜ新田氏が描いた吉田氏が(作中は宮村氏)、アラインゲンガーの吉田氏とはこれだけ異なる描写となっているのか、その理由、説明はどこにもない。このように、孤高の人とアラインゲンガーの加藤氏や吉田氏の人物像があまりにも違うため、どちらが真実なのかわからないというのが正直な印象だ。あくまでも、両方とも小説というならば、さまざまな作者の創作があるはずだ。両作者とも、山岳ノンフィクションの傑作、沢木耕太郎の「凍」のように、主人公から詳細のインタビューをしているわけでなく、両氏とも参考となる文献として、加藤氏の「単独行」をあげており、情報の多くをそれから取っていると思われる。にかかわらず、アラインゲンガーの加藤像は、孤高の人とはまったく逆であるため、アラインゲンガーがノンフィクションのように感じてしまうのである。また、孤高の人では、加藤の社会人としての成長の過程や日本が全体主義へと傾倒していく社会情勢が描かれている。また、加藤氏や宮村氏(吉田氏のモデル)のそばには女性も登場し、小説として読むのに、非常に充実した物語構成になっており、読むものを飽きさせない。それに比べてアラインゲンガーはほぼすべて登山一色で物語が進行する。いずれにしても、アラインゲンガーも山岳小説として読めば、読み応えは十分である。 | ||||
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読中、読後の最初の印象は作品の良し悪しというよりも、単独行者(以下「アラインゲンガー」)は小説かノンフィクションかどちらなのか判断に迷うということだ。アラインゲンガーの読者の多くは、その前に、新田次郎氏の「孤高の人」を読んでいると思う。まず、孤高の人とアラインゲンガーの加藤像があまりにもかけ離れていることに強い違和感を持ちながら読んだ。読み始めて、最初に覚える加藤像の違いは、その性格である。孤高の人の加藤文太郎は人との交流を大変苦手とし、わずかなコミュニケーションも図れないのに比べて、アラインゲンガーの加藤はまったくそうではなく、登山会の仲間との交流も多く、それほど特別に、孤立した人物には見えない。 アラインゲンガーの加藤像は、孤高の人のそれとはまったく正反対のものであり、作者がことさらに、孤高の人の加藤氏や吉田氏のイメージを覆すことに躍起となっている印象が強く残る。アラインゲンガーが2010年10月号の雑誌「山と渓谷」にも紹介されているが、孤高の人での吉田氏のイメージが実際とかけ離れているため、そのイメージを変えることが吉田氏を知る人にとってはどうしても必要であったとされている。 吉田氏のイメージがこれだけ違うのはいいとして、それにしても、では、なぜ新田氏が描いた吉田氏が(作中は宮村氏)、アラインゲンガーの吉田氏とはこれだけ異なる描写となっているのか、その理由、説明はどこにもない。 このように、孤高の人とアラインゲンガーの加藤氏や吉田氏の人物像があまりにも違うため、どちらが真実なのかわからないというのが正直な印象だ。 あくまでも、両方とも小説というならば、さまざまな作者の創作があるはずだ。両作者とも、山岳ノンフィクションの傑作、沢木耕太郎の「凍」のように、主人公から詳細のインタビューをしているわけでなく、両氏とも参考となる文献として、加藤氏の「単独行」をあげており、情報の多くをそれから取っていると思われる。にかかわらず、アラインゲンガーの加藤像は、孤高の人とはまったく逆であるため、アラインゲンガーがノンフィクションのように感じてしまうのである。 また、孤高の人では、加藤の社会人としての成長の過程や日本が全体主義へと傾倒していく社会情勢が描かれている。また、加藤氏や宮村氏(吉田氏のモデル)のそばには女性も登場し、小説として読むのに、非常に充実した物語構成になっており、読むものを飽きさせない。それに比べてアラインゲンガーはほぼすべて登山一色で物語が進行する。 いずれにしても、アラインゲンガーも山岳小説として読めば、読み応えは十分である。 | ||||
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