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(短編集)
天城一の密室犯罪学教程
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天城一の密室犯罪学教程の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全19件 1~19 1/1ページ
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手に入らなかった本が読めて良かったです。 | ||||
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文庫は本の最終形態ということばがあります。この本が最終形態になるまで15年かかりました。 その間、天城一の商業本は一冊も出ませんでした。なぜなら売れないからです。 その事実は、天城一がどんな作家であるかを間接的に暗示しています。 2005年当時、続々と送り出された日本評論社の単行本に本格ミステリマニア(この言い方にそもそも違和感を覚えますが)は驚喜しました。幻の作家(みなさんもご存じのとおり、当時天城作品はアンソロジーでしか読めなかったのです)の初作品集だったからです。 あれよあれおと言う間に「このミス」で三位となり(続刊は次々に順位を下げていったのが笑えましたが)、彼の代表作はほとんど読めるようになりました。後にも先にもこのミスを読んだのはこのときだけでしたが。 さて、当時の単行本のAmazonレビューを拝見してみると、あまり評価が芳しくないようですが、 今回は違うようです。読む人のレベルが上がったと言うことでしょうか。 わたしはそうは思いません。 天城一の作品はいま流行っている(最先端の)作品群の対極にあるからです。 天城作品の本質は、「理解や共感を求めること」や「驚天動地のトリックを演出する」ことにはありません。 昨今の作品は、過剰なまでの共感と肯定に満ちあふれています。 主人公に感情移入させ、「そうそう、こういうこと、よくあるんだよね」と読み手は満足して本を閉じます。 しかし共感とは、そこまで貴い感情でしょうか。 そして、驚天動地のトリック”だけ”がある作品。推理のための推理は、虚構だけが危うい足場の上で、伽藍のごとく積み上げられていくことの無意味さを暗示しています。 天城一のデビューは敗戦後すぐです。 総力戦の結果としての敗戦を甘受し、焼け野原から立ち直っていく中で、 現代を生きている我々とはまったく違った価値観をこの国の人々は持っていました。 たとえば宗田理などは、大人というのは信用できないと言うことが判った、という旨のことを語っています。 これまで当然のように教えられてきた既存の価値観、あるいは制度が外力によって否定され、そして変節していく信念なき人々への痛烈な批判が、天城作品の底流には色濃く流れています。 天城一の作品群は硬質で判りにくく、アイディアがそのまま置いてあるかのようだ、そう評されることがあります。 ことに若い読者の方はそう思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。 「資本主義というのは、ああいう手合いが出世するんですかね」ある作品に、こういった趣旨の台詞があります。 若い人は特にピンとこないでしょう。そもそもこの国に、資本主義でなかった時代はあったのでしょうか。 ——そうです、敗戦前の日本のことを言っているのです。 第二次世界大戦は枢軸国と連合国の、言い換えれば資本主義と全体主義の対立ともいえるべき戦争でした。 一事が万事この調子で、彼の作品は知識さえあれば、この上ない娯楽となります。おおむね70年前の知識ですが。 ある意味当然のことで、彼の作品群に快哉を叫んだのは、敗戦後娯楽に飢えていたインテリたちでした。 戦後すぐは物資がなく、質の悪い紙に印字された読みづらい印刷物を、奪い合うように読んでいた時代でした。 考えてみれば、ある意味天城作品は「古典」になりつつあるのだと思います。 「敗戦を経験した泉鏡花」とは大坪砂男を評したことばですが、同じ立場が、そのまま天城一にも当てはまるものだと思います。世の中には作品の時代背景を理解しなくても判る作品とそうでない作品があって、江戸川乱歩は前者、天城一は後者なのでしょう。 代表作である「高天原の犯罪」にはふたつの意味が込められています。ひとつはチェスタトンへの風刺、そしてもう一つが高天原、あるいはそこに住む”神”とはだれなのか、ということです。天城一が優秀なのは「秘められた意図にまったく気がつかなくてもそれなりに読める」作品をつくったということでしょう。その裏の意図、あるいは暗喩を理解した人たちが70年前にはたくさんいて、この作品は高く評価されたわけです。 天城作品を読むのは難しいことではありません。ほとんどが短篇ですので、読み流せばすぐに読めます。 ただ、真の意味で理解するには骨が折れます。「GHQなどの戦争に関する知識」そして「ニーチェ、ヘーゲルなどの哲学知識(深い理解までは不要ですが)」その他「世界史の知識全般」天城作品を面白く感じるまでには、膨大な知識が必要とされます。特に続刊になるにつれ、この傾向は顕著なものとなります。この本は比較的とっつきやすいというか、トリックにこだわっているのでミステリマニアならなんとか読めるか、というレベルでしょう。 余談ですが、数学の知識があると、彼のエッセイ的な文章もところどころ笑えます。サービス精神が乏しい作家とは、わたしは思いません。 さて、長くなってまいりましたので、老いぼれはこのあたりで筆を擱きたく存じます。個々の細かい作品についてはすぐれたレビュアーさんが語っていらっしゃると思いますので、そちらに譲ることにしましょう。 ——この15年、いろいろなことがありました。 いろいろなものを手放しましたが、天城一の作品群だけは手元に残りました。 心の慰めにはなってくれませんが、忘れがたい存在なのです。この文庫本が、賢明たる読者諸兄の「こころの一冊」となることをねがってやみません。 | ||||
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. 本書の帯には、二人の「本格ミステリ作家」の推薦文が並んでいる。 「『天城一の密室犯罪学教程』は、出版されたことが一つの事件だ」有栖川有栖 「本書は、推理小説史上にそびえ立つ巨大な記念碑だ」大山誠一郎 いずれにしろ「最大級の讃辞」と見えるが、有栖川有栖の推薦文には、少々の含みがある。それは「『天城一の密室犯罪学教程』は素晴らしい作品集だが、しかし、この長らく顧みられなかった作品が、単行本としてまとまったかたちで出版されたこと自体が、一つの事件として注目されるべきだ」という意味である。 つまり、本書は、それほどまでに「普通なら、単行本として公刊される可能性の低かった作品集」だったのだ。 天城一は、ミステリマニアの間では「本格短編の名手」として知られる、マニア好みの本格ミステリ作家だった。なぜなら、彼の、可能なかぎり無駄を削ぎ落としたかのような作品は、極めて「論理パズル」的な「ドライでストイックな硬質感の高い作品」であって、一般の「推理小説読者」が期待するような、取っつきやすい「ドラマ性(ウエットさ)」や「具体性」が希薄だったからである。 これは、天城一という人の性格や人間性と直結した「個性」であり、それを「稀有な長所」であると見て、その「希少性」に価値をおきがちなマニアからは高く評価される一方、単純に「わかりやすい面白さ」を期待する一般的な推理小説ファンには「読者に不親切な、わかりにくい作品(独り善がりな作品)」と感じられたため、好意を持って広く受け入れられるには至らなかった。 その結果、天城一は、いくつかの「研ぎすまされた傑作短編」だけが「推理小説アンソロジー」に何度も収録されたものの、ほとんど一般の読者の目にはとまらない「マニア好みの本格ミステリ作家」という、「マイナー作家」に甘んじていたのである。 本書は、そんな「マイナー作家」が、単なる「本格短編の名手」ではなく、「独自で壮大な構想」を持っていたという事実を伝えて、天城一の面目を一新した作品集だと言えよう。 天城は、単なる「凝った短編作家」だったのではなく「体系性を意図した作家」であり、彼の作品にしばしば見られる、過剰なまでに「小説的な肉を削ぎ落とした、骨格的作品」という特異な性格は、じつは「体系の一部」として構想された、いわば、その「部品」性に由来するものでもあったからなのだ。 それそのものでは、いかにも愛想の無さすぎる作品にしか見えないが、全体の構図の中に適切に配置されれば、その存在が独自の意味をもって立ち上がってくる、そんな作品である場合も少なくなかったのである。 しかし、天城一のこうした「壮大な意図」というものは、必ずしも歓迎されるものではなかった。推理小説の読者の多くは、「意図」や「意味」に重きを措かない傾向があり、彼らが求めたのは多くの場合、「驚き」であり「斬新さ」だったからだ。 例えば、天城一の代表短編である「高天原の犯罪」は、「密室もの」の歴史的な傑作であり、そのトリックは「心理トリック」に分類されるものだろう。そして、その場合にミステリマニアの評価は、その「前例のなさ=独自性」に集中して、天城一という作家の「思想性」や「世界観」を問題にする者は、ごく稀だった。 そのようなものを忖度するまでもなく、「高天原の犯罪」は「本格短編史上に残る傑作」なのだから、作者の「思想的」あるいは「文学的」な側面への忖度は、「メジャー文学」的なもの(に媚びる態度)として、かえって疎外されがちだったのである。 そして、そのために「天城一の全体像」は、長らく等閑視されてきたのだ。 本書の編者である、アンソロジストの日下三蔵は、天城一の作品が、このように、天城本人の構想した、まとまったかたちで公刊されることの意義を説いており、それはまったくそのとおりで、だからこそ、推薦者の有栖川有栖は『出版されたことが一つの事件だ』とまで言っているのだが、しかし、本書が成ったことの意義における功労は、なにも本書の「公刊」を実現した日下三蔵一人に帰するものではないだろう。 日下が「編者改題」でも触れられているとおり、天城一の作品がまとまったかたちで「再評価」されるきっかけを作ったのは、間違いなく、初出誌の墓場から天城一の作品を掘り起こしてきて、『天城一研究』や『別冊シャレード(天城一特集号)』として、天城の作品に光を当てた、同(同人)誌の編者である手塚隆幸と、『別冊シャレード』の刊行人である「甲影会」(神戸大学推理小説研究会のOBサークル)の福井良昌の二人だからである。このマニアックかつ奇特な二人がいたからこそ、天城一の作品は、息を吹き返しただけではなく、その全貌まであきらかにするきっかけまで掴めたのだ。 彼らが「天城本」を出し始めた頃、多くのミステリマニアは、すでに天城一という作家の存在だけは知っており、アンソロジーでいくつかの短編を読んではいても、その存在をさほど重用視はしておらず、天城はマニアの間でもマイナーな存在であったと言えよう。 ところが、奇特な二人が、求められもしないのに、天城一という「独自の世界観を持つ本格ミステリ作家」の作品を、次々と紹介しはじめると、二人に引き摺られるかたちで、少なからぬマニアがマニアらしい興味を強く示しはじめて、マニアの間においての限定的なブームではあれ、天城一の再評価が進んだのである(こうした再評価ブームは時おり発生する。例えば「島崎博ブーム」などもそうだ)。 そして、こうして醸成され形成されていった成果に着目して、それをほとんどそのまま公刊本に移したのが、日下三蔵の功績であった。 本書には「編者改題」には、かろうじて『別冊シャレード』の名が挙がっているだけで、手塚隆幸や福井良昌の名は挙がっていないのだが、これは不当な扱いだと、私は思う。 例えば、本書を、日下三蔵が編集して作った「著者・天城一の、単行本『密室犯罪学教程』」として刊行されていたとしても、読者は、何の不自然さも不具合も感じなかったであろう。言い変えれば、本書のタイトルが『天城一の密室学犯罪教程』といった、著者名をタイトルに含むという「不自然」なかたちになったのは、本書が「日下三蔵 編」の本であるという点を強調したがためのものだ。 いろんな作家の傑作を寄せ集めた作品集(アンゾロジー)では、「誰のどのような基準や趣味で選定がなされたのか」ということ(責任の所在)を示すために「編者(アンソロジスト)」の名を冠することは珍しくない。 しかし、本書の場合は、収録作はすべて天城一のものであり、最初から天城自身が『密室犯罪学教程』として構想したものを、その構想にそって、そのまままとめたものにすぎない。ならば、本書は「著者・天城一の、単行本『密室犯罪学教程』」として刊行される方が、むしろ「作家主義」の出版界的慣行からしても、自然だったと言えよう。 つまり、忌憚なく言えば、本書が「日下三蔵 編」の『天城一の密室学犯罪教程』という、一種独特なタイトルを持つものになったのは、日下の「アンソロジストとしての仕事」であるという側面を強調したがためだと言えるだろう。 私は、だからと言って、日下三蔵を責めたいというのではない。 いくら、手塚や福井の功績において、天城の作品が注目され再評価がなされていたとは言え、それはあくまでもマニアの間での話でしかなく、日下が公刊の企画を進めていなければ、天城の作品が、広く世に問われることもなかっただろうから、私はその意味において、日下の仕事を高く評価したいと思うのだ。 しかし、そのような、従来であれば「縁の下の力持ち」であり「黒衣」の仕事であったものの価値を、あえて世に知らしめるかたちでの本作りをするのであれば、当然、天城一再評価の「先駆者」である手塚隆幸と福井良昌の名前を記して、その功績を讃えるべきではなかったか。 単に『別冊シャレード』という同人誌があったから、天城一の再評価が始まったのではない。それを舞台にして、それまでマニアの間でもほとんど注目されていなかった作家を積極的に紹介した、無私のファンである手塚と福井の熱意と慧眼があったればこそ、天城一は多くのマニアの目の前に復活し、日下の注目も浴びたのではなかっただろうか。 もしかすると日下は、手塚と福井による再評価以前に、天城一について「特別の注目を寄せていた」と言うかもしれないが、当時を知る者の一人として、そのような説明には、まったく説得力を感じない。実際、日下が天城一に続いて公刊を実現した山沢晴雄は、天城よりもさらにマイナーな作家であったのだが、天城に続いて山沢作品を同人誌に掲載するかたちで紹介したのも、手塚と福井の二人だったのである。 彼らは、一介のアマチュアにすぎないから「私たちの先行する仕事に、なぜ触れないのだ」などという野暮な自己主張はしないのであろう。私はそれを奥ゆかしい美意識として賞賛したいと思うからこそ、彼らの知られざる功績を、是非とも紹介しておきたいと考えて、この機会に一文を草した。 例えば、アニメ作品などでテロップされ紹介されるのは、「監督」だけではなく、「作画監督」もであり、「作画監督」だけではなく「原画」「動画」「背景」などのスタッフも、でき得るかぎり網羅的に紹介する。「監督は、スタッフ代表」であって、けっして「監督一人の作品ではない」からである。 一方、出版の世界では、「本」という作品に結晶された作品は、一般には「著者」の名前でそれが刊行され、それにかかわった「編集者」や「印刷者」などの名前が記されることは稀である。 それは、出版業界においては「著者」が「作者」であるし、「それでいい」と考える「縁の下の力持ち」たるスタッフたちの「謙遜」があったからであろう。私は、その謙遜を美しいと思うのだけれど、しかし、彼らが謙遜しているからといって、彼らの存在と功績を蔑ろにするようなことは、決して許されるべきではないし、私はそうした態度を「美しくない」と思う。 だからこそ、私は、天城一の『密室犯罪学教程』の、原編者である手塚隆幸と、原刊行者とも呼ぶべき福井良昌の名前を、歴史的事実として残すべきだと、斯様に考えた次第である。 . | ||||
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. (※ 本稿は、2020年7月刊行の宝島社文庫版のレビューの転載です) . 本書の帯には、二人の「本格ミステリ作家」の推薦文が並んでいる。 「『天城一の密室犯罪学教程』は、出版されたことが一つの事件だ」有栖川有栖 「本書は、推理小説史上にそびえ立つ巨大な記念碑だ」大山誠一郎 いずれにしろ「最大級の讃辞」と見えるが、有栖川有栖の推薦文には、少々の含みがある。それは「『天城一の密室犯罪学教程』は素晴らしい作品集だが、しかし、この長らく顧みられなかった作品が、単行本としてまとまったかたちで出版されたこと自体が、一つの事件として注目されるべきだ」という意味である。 つまり、本書は、それほどまでに「普通なら、単行本として公刊される可能性の低かった作品集」だったのだ。 天城一は、ミステリマニアの間では「本格短編の名手」として知られる、マニア好みの本格ミステリ作家だった。なぜなら、彼の、可能なかぎり無駄を削ぎ落としたかのような作品は、極めて「論理パズル」的な「ドライでストイックな硬質感の高い作品」であって、一般の「推理小説読者」が期待するような、取っつきやすい「ドラマ性(ウエットさ)」や「具体性」が希薄だったからである。 これは、天城一という人の性格や人間性と直結した「個性」であり、それを「稀有な長所」であると見て、その「希少性」に価値をおきがちなマニアからは高く評価される一方、単純に「わかりやすい面白さ」を期待する一般的な推理小説ファンには「読者に不親切な、わかりにくい作品(独り善がりな作品)」と感じられたため、好意を持って広く受け入れられるには至らなかった。 その結果、天城一は、いくつかの「研ぎすまされた傑作短編」だけが「推理小説アンソロジー」に何度も収録されたものの、ほとんど一般の読者の目にはとまらない「マニア好みの本格ミステリ作家」という、「マイナー作家」に甘んじていたのである。 本書は、そんな「マイナー作家」が、単なる「本格短編の名手」ではなく、「独自で壮大な構想」を持っていたという事実を伝えて、天城一の面目を一新した作品集だと言えよう。 天城は、単なる「凝った短編作家」だったのではなく「体系性を意図した作家」であり、彼の作品にしばしば見られる、過剰なまでに「小説的な肉を削ぎ落とした、骨格的作品」という特異な性格は、じつは「体系の一部」として構想された、いわば、その「部品」性に由来するものでもあったからなのだ。 それそのものでは、いかにも愛想の無さすぎる作品にしか見えないが、全体の構図の中に適切に配置されれば、その存在が独自の意味をもって立ち上がってくる、そんな作品である場合も少なくなかったのである。 しかし、天城一のこうした「壮大な意図」というものは、必ずしも歓迎されるものではなかった。推理小説の読者の多くは、「意図」や「意味」に重きを措かない傾向があり、彼らが求めたのは多くの場合、「驚き」であり「斬新さ」だったからだ。 例えば、天城一の代表短編である「高天原の犯罪」は、「密室もの」の歴史的な傑作であり、そのトリックは「心理トリック」に分類されるものだろう。そして、その場合にミステリマニアの評価は、その「前例のなさ=独自性」に集中して、天城一という作家の「思想性」や「世界観」を問題にする者は、ごく稀だった。 そのようなものを忖度するまでもなく、「高天原の犯罪」は「本格短編史上に残る傑作」なのだから、作者の「思想的」あるいは「文学的」な側面への忖度は、「メジャー文学」的なもの(に媚びる態度)として、かえって疎外されがちだったのである。 そして、そのために「天城一の全体像」は、長らく等閑視されてきたのだ。 本書の編者である、アンソロジストの日下三蔵は、天城一の作品が、このように、天城本人の構想した、まとまったかたちで公刊されることの意義を説いており、それはまったくそのとおりで、だからこそ、推薦者の有栖川有栖は『出版されたことが一つの事件だ』とまで言っているのだが、しかし、本書が成ったことの意義における功労は、なにも本書の「公刊」を実現した日下三蔵一人に帰するものではないだろう。 日下が「編者改題」でも触れられているとおり、天城一の作品がまとまったかたちで「再評価」されるきっかけを作ったのは、間違いなく、初出誌の墓場から天城一の作品を掘り起こしてきて、『天城一研究』や『別冊シャレード(天城一特集号)』として、天城の作品に光を当てた、同(同人)誌の編者である手塚隆幸と、『別冊シャレード』の刊行人である「甲影会」(神戸大学推理小説研究会のOBサークル)の福井良昌の二人だからである。このマニアックかつ奇特な二人がいたからこそ、天城一の作品は、息を吹き返しただけではなく、その全貌まであきらかにするきっかけまで掴めたのだ。 彼らが「天城本」を出し始めた頃、多くのミステリマニアは、すでに天城一という作家の存在だけは知っており、アンソロジーでいくつかの短編を読んではいても、その存在をさほど重用視はしておらず、天城はマニアの間でもマイナーな存在であったと言えよう。 ところが、奇特な二人が、求められもしないのに、天城一という「独自の世界観を持つ本格ミステリ作家」の作品を、次々と紹介しはじめると、二人に引き摺られるかたちで、少なからぬマニアがマニアらしい興味を強く示しはじめて、マニアの間においての限定的なブームではあれ、天城一の再評価が進んだのである(こうした再評価ブームは時おり発生する。例えば「島崎博ブーム」などもそうだ)。 そして、こうして醸成され形成されていった成果に着目して、それをほとんどそのまま公刊本に移したのが、日下三蔵の功績であった。 本書には「編者改題」には、かろうじて『別冊シャレード』の名が挙がっているだけで、手塚隆幸や福井良昌の名は挙がっていないのだが、これは不当な扱いだと、私は思う。 例えば、本書を、日下三蔵が編集して作った「著者・天城一の、単行本『密室犯罪学教程』」として刊行されていたとしても、読者は、何の不自然さも不具合も感じなかったであろう。言い変えれば、本書のタイトルが『天城一の密室学犯罪教程』といった、著者名をタイトルに含むという「不自然」なかたちになったのは、本書が「日下三蔵 編」の本であるという点を強調したがためのものだ。 いろんな作家の傑作を寄せ集めた作品集(アンゾロジー)では、「誰のどのような基準や趣味で選定がなされたのか」ということ(責任の所在)を示すために「編者(アンソロジスト)」の名を冠することは珍しくない。 しかし、本書の場合は、収録作はすべて天城一のものであり、最初から天城自身が『密室犯罪学教程』として構想したものを、その構想にそって、そのまままとめたものにすぎない。ならば、本書は「著者・天城一の、単行本『密室犯罪学教程』」として刊行される方が、むしろ「作家主義」の出版界的慣行からしても、自然だったと言えよう。 つまり、忌憚なく言えば、本書が「日下三蔵 編」の『天城一の密室学犯罪教程』という、一種独特なタイトルを持つものになったのは、日下の「アンソロジストとしての仕事」であるという側面を強調したがためだと言えるだろう。 私は、だからと言って、日下三蔵を責めたいというのではない。 いくら、手塚や福井の功績において、天城の作品が注目され再評価がなされていたとは言え、それはあくまでもマニアの間での話でしかなく、日下が公刊の企画を進めていなければ、天城の作品が、広く世に問われることもなかっただろうから、私はその意味において、日下の仕事を高く評価したいと思うのだ。 しかし、そのような、従来であれば「縁の下の力持ち」であり「黒衣」の仕事であったものの価値を、あえて世に知らしめるかたちでの本作りをするのであれば、当然、天城一再評価の「先駆者」である手塚隆幸と福井良昌の名前を記して、その功績を讃えるべきではなかったか。 単に『別冊シャレード』という同人誌があったから、天城一の再評価が始まったのではない。それを舞台にして、それまでマニアの間でもほとんど注目されていなかった作家を積極的に紹介した、無私のファンである手塚と福井の熱意と慧眼があったればこそ、天城一は多くのマニアの目の前に復活し、日下の注目も浴びたのではなかっただろうか。 もしかすると日下は、手塚と福井による再評価以前に、天城一について「特別の注目を寄せていた」と言うかもしれないが、当時を知る者の一人として、そのような説明には、まったく説得力を感じない。実際、日下が天城一に続いて公刊を実現した山沢晴雄は、天城よりもさらにマイナーな作家であったのだが、天城に続いて山沢作品を同人誌に掲載するかたちで紹介したのも、手塚と福井の二人だったのである。 彼らは、一介のアマチュアにすぎないから「私たちの先行する仕事に、なぜ触れないのだ」などという野暮な自己主張はしないのであろう。私はそれを奥ゆかしい美意識として賞賛したいと思うからこそ、彼らの知られざる功績を、是非とも紹介しておきたいと考えて、この機会に一文を草した。 例えば、アニメ作品などでテロップされ紹介されるのは、「監督」だけではなく、「作画監督」もであり、「作画監督」だけではなく「原画」「動画」「背景」などのスタッフも、でき得るかぎり網羅的に紹介する。「監督は、スタッフ代表」であって、けっして「監督一人の作品ではない」からである。 一方、出版の世界では、「本」という作品に結晶された作品は、一般には「著者」の名前でそれが刊行され、それにかかわった「編集者」や「印刷者」などの名前が記されることは稀である。 それは、出版業界においては「著者」が「作者」であるし、「それでいい」と考える「縁の下の力持ち」たるスタッフたちの「謙遜」があったからであろう。私は、その謙遜を美しいと思うのだけれど、しかし、彼らが謙遜しているからといって、彼らの存在と功績を蔑ろにするようなことは、決して許されるべきではないし、私はそうした態度を「美しくない」と思う。 だからこそ、私は、天城一の『密室犯罪学教程』の、原編者である手塚隆幸と、原刊行者とも呼ぶべき福井良昌の名前を、歴史的事実として残すべきだと、斯様に考えた次第である。 . | ||||
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寡作なミステリ作家だった故天城一氏の密室講義と実作(短編)を編纂した作品。元々、密室講義の方が先順にあったが、それではネタバレになってしまうので、冒頭に10の短編を収録した由。 冒頭の短編は、島崎という刑事を主人公とした連作短編集となっており、戦後の社会情勢・イデオロギーが窺えるものの、実践編という事由であろうか、(冴えない)アイデアをポンと出しているだけで小説として練れていなくて味気ない。次いで、敬愛する乱歩への献詞が掲載され、その中で、「密室トリックを崇拝するな」、という乱歩の忠告を紹介している点が面白い。続いて、密室講義である。天城氏は「密室犯罪はメルヘン」と言い切って、10の密室犯罪の書き方を講義する(勿論、上述の10の短編に対応する)。古典ミステリの紹介(天城氏の代表作「高天原の犯罪」も含む)・批判、ミステリに関する天城氏の思惟及び本職の数学者としての数学的・経済的考察がやや高踏的に詳細に語られ興味深いが、その実践が難しい事も伝わって来る。上述の連作短編集の欠陥の一部は古典作品への技術的批判を含んでいるからだと首肯した。その後、上述した「高天原の犯罪」を含む摩耶を探偵役としたやはり10の短編を収録している。こちらは"意外な不可能状況の提出"と、密室講義で批判していたチェスタトン流の逆説を用いた"形而上学的"短編で、歯切れが悪いと言えば悪いが、「高天原の犯罪」(チェスタトン「見えざる人」の天城氏流改善)を初めとして、多くの現代ミステリのベースとなっている気がした。特に、ポーの短編と同名の「盗まれた手紙」は小説と言うよりは犯罪論理学と言うべき数学者らしい変わり種。 寡作なミステリ作家だった天城氏のミステリに関する先進的な思惟を密室講義と実作とで示した編集者の執念が光る力作だと思った。 | ||||
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出来不出来にむらがあり、面白いものもあれば 肩透かしなのもある。 簡潔な文体というが私には省略しすぎに思えた。 投げ遣りな謎解きが多い。 | ||||
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このミスで高評価だったので読んだのですが、 よくわかりませんでした。 高評価の人もいるのでマニア向けなのでしょう。 | ||||
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密室物を紹介した本を読んだときに天城一という名前が何度か出たのが印象に残りこの本を購入しました 天城さんの作品を読んだのはこの本が初めてですが、とにかく読みづらいってのが第一印象でした というのも~主義だの(今となっては)昔の偉人を例に挙げたわかりづらいたとえ話、戦争時代ネタなどがかなり多くの割合で含まれていたり読んでいても全く内容が頭に入ってきません 昔風の文章なのか短編というので極力内容を削ったのか場面を想像するのがとても難しかったです しかしトリックや解説に関しては実に面白かったです | ||||
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なかなか手に入らないと言っていた人にプレゼントしました! とても喜ばれたので、私も大満足です。 | ||||
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ようするに、密室トリックを崇拝するな、と天城はのべているのだ。 その在り方(構造)を把握すれば、いくらでも(粗)製(濫)造できる。そもそも戦前、不可能犯罪の様相をていすこのいちアイディアは、トリックとは称せられなかった。いまそれは探偵小説の神殿の最奥にすえられたかのようである。だがこれは、密室をトリックとして蒐集、分類を指揮した天才乱歩の宣伝によるのだ。さらにいえば、探偵小説はトリックが命、とテーゼをかかげた乱歩の罪というべきものである。そしてこのことは、大衆社会のいち文芸たる探偵小説の変遷(頽落)の一因ともなった。かような信念にもとづき、密室の作り方(作法)という観点から形式化、その分類を試みたのが、本書の「密室犯罪学教程 理論編」となる。 つまり「概ねその要領を会得させる」目的である「教程」の語の使用には、ある韜晦がひそんでいるのだ。端的にいえば密室「批判」である。特殊に祭りあげられた密室トリックは、諸形式の変奏、変種に還元できる。トリックを弄す(作り、解く)鋭敏な頭脳をもつものたちの特権神話(犯人、探偵、作家)は、ある構造に則ったものにすぎないとあかされる。聖別され特権化されたトリックの種をあかす(脱神秘化)。さらにいえば、その神話下では、読者はたんにトリックに操作(騙)されるものと見下されていたのだ。ほんらい読者は、不可解な謎を介して参加する、そこに意義をもつ大衆社会における自由な文芸であったはずだ。その参加とは、懐疑や批判(吟味)という自由な(科学的)精神の涵養につながっていなくてはならない。以上は「教程」の「序説」のさらに前段、乱歩批判たる「献詞」を参照すれば導きだせよう。 乱歩批判という意図にふれておけば、天才乱歩はかつてありえた、身を以て実践もした、読者の参加を構造化した、探偵小説の溌溂たる精神(科学性と文学性の止揚)を、トリック崇拝へと狭量化し、さらに趣味(美学)化したのだと断じられる。乱歩はこの堕落のなかでアイロニカルに耽美主義にすすむ。むろんこの事態は、ベンヤミンのいう政治の美学化と軌を一にしている。大衆をサド・マゾ的に操作(煽情)するファシズムの趨勢と同じゆうしていたのだった。 本書はかような文脈における密室批判である。このことをぬきに読めば、ぎゃくに読者は密室(という美学)の無意識の囚人となるだろう。この強烈な、チェスタトン流の逆説に気づかなければ、密室崇拝の「高天原」のなかで、そのメルヘンに遊ぶ=弄ばれることになる。そういう意味での「批判」なのだ。 天城によれば、本文の諸分類を越える密室トリックはもはやありえないということになる。その臨界が「超純密室」である。以上で証明終わり。語りえぬものは沈黙を。このようなロックされた密室時空をかれはメルヘンとよぶ。明晰な頭脳をもつなら手間のかかる密室殺人など犯さない。だがそんな頭脳がなければ密室殺人は犯せない。社会性とは隔絶したメルヘン(小さな物語)としてしか、こんなパラドクスは存在できないという。 そんな密室批判として書かれた処女作のひとつが「不思議の国の犯罪」であった。だがその意に反してそれは密室物の秀作とされてしまう。この皮肉から、つまりこの苦い勝利から、天城の本格的な密室批判=実作がはじまる。そのアイロニカルな性格を体現したのが警句家たる探偵摩耶正となる。その道は、密室を崇拝する欲望をパロディ化し、メルヘンの児戯さがそのまま切実な、社会的にリアルな動機となる傑作「明日のための犯罪」を経由して、その頂点、超純密室たる「夏の時代の犯罪」及び「高天原の犯罪」となるわけである。明らかなものは見えない。空気は見えない。これは無意識の密室といってよいだろう。さらにいえばイデオロギーの密室である。ここにおいてメルヘンたる密室が風刺という社会性を獲得するという皮肉に、遭遇することになる。 理論と実践(実作)を止揚した論文=小説「盗まれた手紙」を参照するならば、この「密室犯罪学教程理論編」は「実践編」たる諸短編を対応させるまでもなく、理論編じたいで密室トリックを閉じ、かつその全容を明かし解いた実践といってよかろう。この批判精神を会得することが「教程」のアプリオリな目的というべきだから。おそらくそれは、事実確認的に閉じた密室を、パフォーマティブに開く道すじをしめしているといいかえてよいとおもう。そこでメルヘン密室は社会性をえて、もっと自由なアイディアとして再生するのだと、わたしはおもう。 たとえば風太郎『誰にでもできる殺人』や横山秀夫『第三の時効』の「密室の抜け穴」はパフォーマティブな密室を活用した傑作といえる。また中井英夫『虚無への供物』も、わたしにとってはそのような傑作となる。 さてさらに贅言すれば、密室というトリックの聖別をかように批判してのちの余儀としてだが、密室は次のように構造分析することもできる。犯人、被害者、目撃者、探偵という四つのファクターを抽出し、それぞれに作為と不作為の性格をあたえるのだ。各点を結んだ四角形から分析の地図が描けるかもしれない。 とまれ、天城一単独の実質的処女作品集がこの密室ものであり、そのトリックの理論的、実践的な精華であるかのように喧伝されているというのは、この徹底的で分厚き質実をもってしても、処女短編「不思議の国の犯罪」の苦い勝利、甘い敗北の域をでていないというべきであろうか。本書は密室批判に動機づけられた密室もの、であると繰り返しておく。この批判精神という目に見えぬ出口をみないと、ひとはふたたび密室に閉じこめられるだろう。 小説という点でみれば、第二巻アリバイものが圧倒的に優れている。それはアリバイトリックが、という意味ではない。探偵小説はいちトリックの新奇さ、偏屈さにだけ命をもつのではないのだ。むしろ天城が積極的にこだわったのは「動機」であり、その「権力への意志」であるといってよく、そこで頻出するのが「自殺」となる。そして探偵たちは平凡人であり、試行錯誤しながらときに偶然に、ときに皮肉なかたちで事件を解決する。そしてときに解決に頓挫する。鉄道の時刻表をたどるアリバイの、無数の数字の社会性を糸口にして、参加というアンガージュマンのさまざまな諸相を描いたのである。探偵小説はそのように開かれてなければならないのだ。 | ||||
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いろいろな密室のパターンを類型化し、理論編と実践編に分けて著されている。学者らしく学問的にアプローチする姿勢はややもすると堅い感じだが、作者の密室への限りない愛が感じられる。とくに『高天原の犯罪』は絶妙な心理トリックで思わずうならされた。 | ||||
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著者の作品がまとめられ、商業出版されたということに、まず素直に驚き、また喜びたい。 とてもマニアックな、知る人ぞ知るといった作家なので、まさか21世紀になってこんな豪華な版で著者の作品を読むことができるとは、夢のようだ。 もともとが数学者の著者であるから、その論理的思考には定評があった。 だが、あまりに著者の頭が良すぎるため、商業作家のようなサービス精神が、特に文章に足りないところがある。 だから、しばしば説明不足で、何を言っているのか、何度か読み返さないといけないようなところがある。 登場人物のキャラクターもあまり説明されていない。 不必要なものは徹底して省く、という科学者のスタンスが作品にもよく反映されている。 そのあたりが、著者が一般受けされなかった理由であろう。 ただ、この理屈っぽさが、マニアにはたまらない魅力なのだ。 徹頭徹尾ロジックに徹した作品群は、読むのに時間と脳力をかなり必要とする。 だが、その解決に余剰のない、まぎれもない本格ミステリのひとつの見本である。 だいたい摩耶という名字からして、読者サービスをほとんど考えていない。 今回刊行された本書からはじまる作品群のなかでは、やはり最初のものだけあって、傑作ぞろいである。 どれもじっくり読むのに適している。 長編「圷家〜」も悪くなかったが、やはり本書は良い。 一押しである。 | ||||
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密室殺人ものの各種パターンを分析して、実際に作品を例示する体裁でかかれている短篇集である。天城作品は、アンソロジで2つほど(「不思議の国の犯罪」と「圷家の殺人」)読んだことがある程度だが、寡作で有名な密室もの作家として有名だ。 ちゃんとした分量の単行本だけあって、中身は実に濃い。収録されている短篇作品も、説明的な文章が非常にシンプルなので、しっかり読まないと状況を読みおとしかねないほど。少なくともビールなぞ飲みながら読む本ではない。といって、黒死館…のような読者を煙に巻く系では決してない。ちゃんと論理的なのだ。 中盤の密室犯罪についての分析は、まあ、カーとか乱歩とかの延長線上ともいえる。ちなみにこの章には、古今東西の有名な名作密室もの作品のネタばらしがいくつか含まれているので、未読の人は注意が必要。(もっとも、有名な密室ものを多量に読み込んでいるような人じゃないと、この本を手に取ることは無いような気もしますが。)本書はそういう意味でも、それなりにマニアックな本とも言えるでしょう。 | ||||
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1948年にデビューし、高い評価を受けながらも天城一名義の単著のなかった「幻の探偵作家」が2004年に発表した本書は、濃密な密室ミステリの作品と評論から成る、傑作と言えます。本書は、3つのパートから成ります。パート1とパート2は、「密室犯罪学教程」の「実践編」と「理論編」という照応した構成で、パート2で論説する9つの密室トリックの分類に対応したミステリ小説10作品が、パート1に掲載されています。読者の側から見ると、パート1で密室ミステリ10作品を満喫した後、その小説が密室トリックのどこに分類され、位置づけられているのか、パート2で講義を受けられるという仕組みです。パート2「理論編」の分類については、異論も多々あると思われますが、何と言っても、パート1「実践編」でそのトリックが「推理クイズ」ではなく、「小説」として成立していることを実証しているのが、実作者ならではの強みと言えましょう。パート2を読むと、パート1の作品をもう一度読み返したくなり、その作品の質の高さに驚嘆することとなります。パート3の「毒草/摩耶の場合」は、デビュー作【不思議の国の犯罪】を含む、名探偵・摩耶正の活躍する10の短編から成る章です。この諸作のうち、最高傑作は、と言えば、やはり【高天原の犯罪】を挙げざるを得ないでしょう。じつは、この作品については、パート2の中で、海外のある古典的名作を意識して書かれたものだ、として、トリックの核心部分に触れた記述があるのですが、それでも素晴らしい作品だと感じました。日本人でしか書けない、極めて社会風刺に満ちた作品として、後世に残る傑作であることは間違いありません。極力無駄を省き、ロジックに徹した独特の文体は、正直なところ、「難解」な部類に入るものと言えますが、ミステリをある程度読み馴らしている方には、是非とも読んでいただきたい、濃密な1冊です。 | ||||
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◆「密室作法(改訂)」 ▼〈内出血密室〉 致命傷を負った被害者が密室内に入り、息絶えたような状況 ▼〈時間差密室〉 (+)…犯行時刻後も、死体を生きていると錯覚させる (−)…犯行時刻より前に、生者を死んでいると錯覚させる →ex.〈早業殺人〉=密室を破って押し入った“発見者”が殺す ▼〈逆密室〉 (+)…犯行時刻後に、事件の決定的な物体(死体、凶器等)を密室内に持ち込む (−)…犯行時刻後に、事件の決定的な物体(死体、凶器等)を密室内から持ち出す〈密室)というと空間のトリック、という印象がありますが、じつは「時間」を利用したアリバイトリックでもある、という著者の当たり前の指摘に、今さらながら納得させられました。 | ||||
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無駄が無いゆえに難しいという作品が多く、時代性の格差や強引な展開もある為、中級者以上向けの上に人を選びます。しかしそれでも、密室好きの方には絶対に一度は読んで欲しいと思います。ただ残念なのは分類方法がまだ発展途上であることで、特に「機械密室」の「機械を使ったら機械密室」というような分類方法は強引です。「外から機械トリックで鍵を閉め密室を完成させる」のと「機械の遠隔操作で密室内の人物を殺す」のを同じタイプとして分類すべきではないでしょう。「機械密室」の作例として挙げた作者自身の作品を見ても、分類的には抜け穴から凶器が入ってきて、そして出ていく(密室からの凶器の消失)という「抜け穴密室」且つ「逆密室(−)」であるはずで、作者もこの辺には混乱があるのでは。また密室の最高峰「超純密室」を”意識下の密室”と定義したところまでは素晴らしいのですが、それを実際に小説に取り入れると自然と持ち上がる探偵側の問題に対しての、解決方法を提示できていません。超純密室が”人の意識だけ”を利用したものである以上トリックを使った証拠などどこにも存在するはずはなく、従って推理で説明がつけられたとしても実際に逮捕することなど不可能なはずなのですが、作者自身の作例や後半に収録されているある作品では、強引に解決してしまいます。もし犯人が「証拠を示せ」と言ったら、その時点で探偵側の完敗だったでしょう。とは言え以上の不満な点は不出来な読者である僕がよい教程を受けたお蔭で抱くようになったもので、以前なら「へー」と言って終わりだったと思います。 | ||||
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評価が分かれる作品だと思う。こういう作品を面白いといえれば格好がよいのだろうが、「教程」という名前通り、「教科書」を無理やり読んでいる感じで、私のように「気軽に楽しめるミステリーを楽しむ読者」にとって楽しむことができない作品だった。ただし400ページ以降の密室を分類・定義している「密室作法」は、なかなか面白かった(ただし、読書というより、論文を読んでいる感じ)。また、作者の受賞第一作「ポツダム犯罪」が、江戸川乱歩に激賞されたものの、乱歩が編集部に持ち込む際に置き引きに遭い、原稿を書き直さざるを得なかった、というエピソードには笑わせてもらった。私にとってこの作品中で楽しめたのは、以上のp400-~p419とp434-435であった。本作品は、2005年版このミスで3位を獲得した。2004年文春ベスト10ではランキング外だった。万人向けではなく、読者を選ぶ作品なので、金額を考えても、購入の際には自分にあうか否か、よく吟味することをおすすめしたい。 | ||||
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作者の天城一については、いろいろと噂を聞いていました。「短いながらも切れのある短編を書く」だとか「時刻表をつかったトリックの佳品がある」だとか良い噂ばかりを。しかし、作品はあちこちのアンソロジーに収録されているものの、それ自体が手に入れにくくなっていて、読んでみたくともなかなか読めない作家の一人でした。そんな、私にとって『幻の作家』だった天城一の短編をまとめて読めるなんて!こんなうれしいことはありません。デビューが1947年ながら、天城一の名前での本はなんとこれがはじめて(私家版などは何冊かでているようですが、まず手に入りません)というから、私が『幻の作家』と呼ぶのも、とてもよろこんでいるのもわかってもらえると思います。内容は、噂に聞いていたとおり、ムダなものはいっさいはぶいたとても短いものでありながら、短いからサッと読めるかと思うとそうでもなく、熟読が必要です。まあ、ずっと待っていたものをサッと読んでしまったんではもったいないですから、じっくりじっくりと読みましょう。本書に収録されなかった作品もまだあるようなので、それらもぜひぜひ出版してほしいものです。 | ||||
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天城一は短編の名手で名高く、数々のアンソロジーに収録された作品を擁しながらこれまでまとまった、短編集は上梓されていませんでしたそして、遂に出版されたのがこの本です。密室(不可能犯罪)推理小説の実作例がまず掲載されそれにあわせて、どのようにしてこの推理小説を書くのかという理論が解説されるという凝った作りこれが、一つ一つはとても短い枚数で収まっているのですから堪えられません | ||||
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