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シンセミア
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【この小説が収録されている参考書籍】
シンセミアの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.38pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全36件 21~36 2/2ページ
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世間の評価が高いのに知人で推奨する人がいない不思議な本ゆえ文庫化を待っておりました。一気に読んじゃったけど正直、面白くない。感情移入できる人物ゼロ。胸糞悪いエピソード満載。なのに放り出す気にならず一気読み。 いかにもありそうな裏歴史という風情のせい?エセ・ドキュメンタリー的な手腕ってこと? 議員に何か頼む人がホントにいるなんて信じらんない都会の浮動票にはまったく実感がない。ゆえに興味深い「地方のボスと取り巻き、その反乱」という構図が、実は面白かったのかな。なんだかだまされたよう気もします。 とりあえず、知らぬは仏の少女の体内に宿る命に救いが見えた気はするんですが。 これが文学として評価されるとは、マジヤバイぞ日本の今。 いえ、社会の話です。文学畑の話じゃなくて。 | ||||
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ようやく文庫になったよ。全四冊。ジャック・レヴィと、マイケル・エメリックの解説と、年表と、人物相関図がついてお得です。 山形県に実在する「神町」を舞台として、黒幕パン屋、悪徳市議、ロリコン警官、やくざ、のぞき屋サークルの面々・・・が複雑に絡み合い、物語が進行する。出来事の連なりは重層的で、歴史的重みがあり、人物の相関は複雑である。その点、フォークナーのヨクナパトーファ物語と似ていると言えなくもない(というか、wikipediaによるとこの作品はよく大江健三郎とか中上健次とかの作品と比較されるらしいが、この二人がフォークナーから大きな影響を受けている)。一点、ぜんぜん違うのは、なんだか登場人物がみな低俗で軽薄なことである。かつわがまま。のぞきなんていうのは、最も低俗で軽薄でわがままな犯罪の部類に入ると思うが、この町を背後で動かしているのはのぞき屋サークルである。この点、「神町」は救いがなく、癒しようがない。そういえば、のぞきを取り締まる側―――町の守護者たるべき警官も軽薄で変態である。例えば: <中山正は思いきり肛門の臭いを嗅いだ―――見ること以上に時間を掛けて、ゆっくりと何度も何度も鼻から臭気を吸い込んだ。少女の汚れた肛門の臭い―――中山正はこれを世界中の何よりも愛していた。少女の肛門が放つ悪臭だけが、彼の心を癒してくれた。> 阿部和重は、くそまじめな文章に時折こういうおげれつな部分を挿入して、登場人物を軽薄で低俗に見せ、物語に矮小化しようとしている。けど、これを読んで「なんだよロリコンのエロ小説かよ、けっ」って思う人は多分あまりいないはずだし、21世紀に生きるぼくらとしては、そんな「悪臭だけが」癒しであるようなげんなりするような世界がなんだか現実ではないかと思えてしまうかもしれない。現実のパロディのようでいて、圧倒的な現実感があって、ミニマルでかつ壮大な、不思議な傑作である。 | ||||
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渡部直己『不敬文学論序説』の文庫本にだけ付いている補説で、妙に評価が高いので文庫化を気に読んでみました。渡部氏は作中の田宮家と天皇家の系図的相関関係を元に、この本を「不敬」な天皇小説として評価しているらしい。なるほど、『ニッポニア・ニッポン』も書いていた。 たしかにここにはスガ秀実氏いうところの「偽史的想像力」たっぷりだし、戦後日本の権力のありさまが批判的に描かれてもいる。しかし強調されているのは、その『視覚』的な側面。「見る−見られる」という弁証法的関係に留まらず、監視、盗撮、幻覚、現実から目を逸らすこと、見たくないものが見えること、映像にだけ欲情すること、などなどといった「見ることの変奏」が奏でられている。それは、耳や鼻はともかく目だけは失いたくない、という拷問される者に象徴的に描かれるが、登場人物は全員、いわば『視覚』的な人間で、おどろくほど見ることにこだわっているのだ。 これは天皇制なんていう、もう抜け殻でしかないことよりもずっと重要な、「見ないという選択肢がない」という現代的な権力の問題だと思いますが、いかに? | ||||
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一度たがが外れてしまった悪意の侵攻を見事に描いている。 小さな村社会の中で起こっていること事態が現実性を深めているのかもしれない。 この小説は阿部公房的な閉塞世界を描くことが目的ではなく、 むしろ現実社会の中での人間の悪意を描くことが目的なのだと思う。 そういう意味では、神町を神秘的なものではなく、 どこにでもありうる一つの小さな町に見せる工夫が、 もう少しあっても良いのかと個人的には思う。 人間が2人以上集まると生きるためには必要のない感情が生まれる。 | ||||
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一度たがが外れてしまった悪意の侵攻を見事に描いている。 小さな村社会の中で起こっていること事態が現実性を深めているのかもしれない。 この小説は阿部公房的な閉塞世界を描くことが目的ではなく、 むしろ現実社会の中での人間の悪意を描くことが目的なのだと思う。 そういう意味では、神町を神秘的なものではなく、 どこにでもありうる一つの小さな町に見せる工夫が、 もう少しあっても良いのかと個人的には思う。 人間が2人以上集まると生きるためには必要のない感情が生まれる。 | ||||
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ややこぎれいにまとめてしまった感じはあるものの、暴走する狂気の連鎖がすさまじい。人間の悪意というのはやっぱりときとして、反吐がでるほどに醜悪で、醜悪な人間ばかりを配置したこの作品も、どこか危なく、ある意味で、ぎりぎりの均衡を保った爆弾みたいな感じだ。 しかし、「グランド・フィナーレ」でも思ったが、終わりかたがあいかわらず不気味。グランドフィナーレも、そのタイトルとは裏腹に本当の終わりはこのあとにくるから、ある意味じゃ終わらないんだけれど、 シンセミアも終わりはない。たぶん、べつの作品で語られるんだろうけれど、神町をテーマにした一連の作品群、ますます興味深い。 | ||||
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ここ十年の日本の文学の中でも最高傑作である、らしい。もっとも、阿部和重に言わせれば、高橋源一郎の「日本文学盛衰史」が最高傑作、ならしいけれど。 無冠の帝王と言われた阿部和重がえがいた1600枚。しかも、このシンセミアでさえ、三部作のうちのひとつでしかない、という。 内容的には、一見したエンタメでありながらも、純文学としての節度を保っている。強固な文体とゴシック体の文字で表せる凶悪な心理描写、80人以上の登場人物、おまけに、まともな人間はいない。ロリコン、盗撮サークルなどなど、本当にいい人が全然いない。ドラッグと暴力とセックスにまみれた小さな街の中で繰り広げられる群像劇、上巻しか読んでいないけれど、きっちり話はまとまるらしい。 読もう。 | ||||
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ここ十年の日本の文学の中でも最高傑作である、らしい。もっとも、阿部和重に言わせれば、高橋源一郎の「日本文学盛衰史」が最高傑作、ならしいけれど。 無冠の帝王と言われた阿部和重がえがいた1600枚。しかも、このシンセミアでさえ、三部作のうちのひとつでしかない、という。 内容的には、一見したエンタメでありながらも、純文学としての節度を保っている。強固な文体とゴシック体の文字で表せる凶悪な心理描写、80人以上の登場人物、おまけに、まともな人間はいない。ロリコン、盗撮サークルなどなど、本当にいい人が全然いない。ドラッグと暴力とセックスにまみれた小さな街の中で繰り広げられる群像劇、上巻しか読んでいないけれど、きっちり話はまとまるらしい。 読もう。 | ||||
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「ニッポニア・ニッポン」、「シンセミア」、「グランド・フィナーレ」と、つづけてみてくると、阿部和重のロリータ・コンプレックスがジグザグにスパークしていくことに気づく。ふりかえれば、「インディヴィジュアル・プロジェクション」ですでに、仕事場にときどき遊びにくるモギリのオバハンの娘の小悪魔ぶりが顔をのぞかせていた。ぼくは個人的に彼の趣味判断に賛成だが(*)、その政治的選択をつかみあぐねている。あんまりアモラルだから。とはいえ、ただのロリコンになりはてて破滅するには早すぎる。それならば阿部は、一体ぜんたい、何をたくらんでいるのか?なんとか閃いた!今後、阿部和重は、彼なりのやり方で「美少女教育」にむかうのかもしれない、と。「文学の終焉」を嘆いてみせる猿芝居をここで上演する教養も神経もないし要らないが、それにしたって嫁入り前のだいじなだいじな女の子たちの読み物にはほんとうにろくなものがないではないか。「細雪」のようなものは現在絶無。ただし今後どうかわらんぜ。この推論があたっていれば、次回作は、お嬢様学校のノーブルな娘さんたちが教師にバレないようにはにかみながら回し読みする啓蒙小説でなければつじつまが合わないことになる。阿部和重に、オルタナティヴな「恋愛レボリューション21」(モーニング娘。)が描けるだろうか。「つんく党独裁」を阻止できるだろうか。(*)「Berryz工房」の握手会行っちゃった!イェーイ。(土産=マンガ本=「らんま1/2⑫」) | ||||
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「ニッポニア・ニッポン」、「シンセミア」、「グランド・フィナーレ」と、つづけてみてくると、阿部和重のロリータ・コンプレックスがジグザグにスパークしていくことに気づく。ふりかえれば、「インディヴィジュアル・プロジェクション」ですでに、仕事場にときどき遊びにくるモギリのオバハンの娘の小悪魔ぶりが顔をのぞかせていた。ぼくは個人的に彼の趣味判断に賛成だが(*)、その政治的選択をつかみあぐねている。あんまりアモラルだから。とはいえ、ただのロリコンになりはてて破滅するには早すぎる。それならば阿部は、一体ぜんたい、何をたくらんでいるのか? なんとか閃いた!今後、阿部和重は、彼なりのやり方で「美少女教育」にむかうのかもしれない、と。「文学の終焉」を嘆いてみせる猿芝居をここで上演する教養も神経もないし要らないが、それにしたって嫁入り前のだいじなだいじな女の子たちの読み物にはほんとうにろくなものがないではないか。「細雪」のようなものは現在絶無。ただし今後どうかわらんぜ。この推論があたっていれば、次回作は、お嬢様学校のノーブルな娘さんたちが教師にバレないようにはにかみながら回し読みする啓蒙小説でなければつじつまが合わないことになる。 阿部和重に、オルタナティヴな「恋愛レボリューション21」(モーニング娘。)が描けるだろうか。「つんく党独裁」を阻止できるだろうか。(*)「Berryz工房」の握手会行っちゃった!イェーイ。(土産=マンガ本=「らんま1/212」) | ||||
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阿部和重について個人的に思うことは、いつも内面にふつふつと何かがに沸き立つ感覚と、演劇的ともいえる客観的な自意識との不可思議なバランスである。「シンセミア」も長編で多くの登場人物が、街を襲う洪水をクライマックスに巻き込まれていくが、映画のような複雑なストーリーの組み合わせをわくわくしながら読むことができた。だが、読者としてはそれぞれの人物に共感はあまり出来ないのだ。それはあえてそのように作者に仕組まれているように、読者はそれを遠くから眺めているような感覚が残る。登場人物の思いはそれぞれすれ違っていて、神町がすべてに影響する閉塞感と、入り組んでやり場のなくなった悪意とが入り混じっている。その違和感は大きなドラマツルギーとしてして、読む人間からも消化不良のように沸いてくる。阿部和重はその意味で素晴らしく意地悪な作家だ。 | ||||
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阿部和重について個人的に思うことは、いつも内面にふつふつと何かがに沸き立つ感覚と、演劇的ともいえる客観的な自意識との不可思議なバランスである。「シンセミア」も長編で多くの登場人物が、街を襲う洪水をクライマックスに巻き込まれていくが、映画のような複雑なストーリーの組み合わせをわくわくしながら読むことができた。だが、読者としてはそれぞれの人物に共感はあまり出来ないのだ。それはあえてそのように作者に仕組まれているように、読者はそれを遠くから眺めているような感覚が残る。登場人物の思いはそれぞれすれ違っていて、神町がすべてに影響する閉塞感と、入り組んでやり場のなくなった悪意とが入り混じっている。その違和感は大きなドラマツルギーとしてして、読む人間からも消化不良のように沸いてくる。阿部和重はその意味で素晴らしく意地悪な作家だ。 | ||||
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阿部和重氏の大作がいよいよ完成。戦後アメリカがパン食を給食にすることで大量の小麦粉を日本に流入させてきた実情を踏まえ、神町の進駐軍との関わりで、白い粉(小麦粉)による利権を獲得してきた「パンの田宮」と白い粉(マリファナ)による利権を獲得してきた「麻生興業」「笠谷建設」の初代・二代目が、のどかな田舎神町で暗躍してきたいきさつを冒頭に述べ、いきなり2000年夏の三つの事件・事故による死をもって始まる本作は、猥雑な高揚感に満ちている。三代目の青年たちの関わる盗撮、暴力、いじめ、そして次々に襲いかかる地震、洪水、停電……スリリングでスピード感溢れる展開は、息つく間も与えない。 この構造は、ドストエフスキーの「悪霊」を思わせる。片や1840年代の自由主義者が生み出した60年代の虚無的な青年たち。片や戦後のアメリカ支配により暗躍したヤクザたちが生み出した幼稚で暴力的で変質的な青年たち。ニコライ・スタヴローギンの崇高なヒーローぶりに比べて田宮博徳も中山正も松尾丈士も情けなさすぎる平成の男たちなのだが、2000年「神町」を旧約聖書のノアの方舟になぞらえる阿部氏の手腕は並々ならぬ才能に溢れており、彼が平成文学のヒーローであることは間違いない。 | ||||
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阿部和重氏の大作がいよいよ完成。戦後アメリカがパン食を給食にすることで大量の小麦粉を日本に流入させてきた実情を踏まえ、神町の進駐軍との関わりで、白い粉(小麦粉)による利権を獲得してきた「パンの田宮」と白い粉(マリファナ)による利権を獲得してきた「麻生興業」「笠谷建設」の初代・二代目が、のどかな田舎神町で暗躍してきたいきさつを冒頭に述べ、いきなり2000年夏の三つの事件・事故による死をもって始まる本作は、猥雑な高揚感に満ちている。三代目の青年たちの関わる盗撮、暴力、いじめ、そして次々に襲いかかる地震、洪水、停電……スリリングでスピード感溢れる展開は、息つく間も与えない。 この構造は、ドストエフスキーの「悪霊」を思わせる。片や1840年代の自由主義者が生み出した60年代の虚無的な青年たち。片や戦後のアメリカ支配により暗躍したヤクザたちが生み出した幼稚で暴力的で変質的な青年たち。ニコライ・スタヴローギンの崇高なヒーローぶりに比べて田宮博徳も中山正も松尾丈士も情けなさすぎる平成の男たちなのだが、2000年「神町」を旧約聖書のノアの方舟になぞらえる阿部氏の手腕は並々ならぬ才能に溢れており、彼が平成文学のヒーローであることは間違いない。 | ||||
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阿部和重が『シンセミア』で達成したのは、個人の生死を完璧に社会的諸関係の結果として描ききる力技であった。これは驚くべき達成である。〈個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである〉から。 この作品に先行するモデルとしてドストエフスキーの『悪霊』が上げられる。この傑作とまともに取り組んだのはその批評能力のピークにあった壮年期の小林秀雄であったが、「『悪霊』について」は、スタヴローギンの縊死の場面を提示したところで未完に終わっている。『罪と罰』におけるスヴィドリガイロフの自殺の場面と同様に、ドストエフスキーは何ら説明を述べていないのであるが、小林は説明しようとして放棄してしまったように見える。 ところで、中上健次の『地の果て 至上の時』で浜村龍造の縊死の場面を読んだ時、これは、あれだ、スタヴローギンの場面と同じだ、と直覚した。中上健次は、壮年期の小林が未完のまま放棄した到達点を引き受けて決着をつけてしまった。 小林が、ドストエフスキーに関するいくつもの力作を未完のまま放棄したのは、批評能力の欠如のためではない。社会に対する働きかけを断念し、批評作品の制作を自己目的化してしまうに至った姿勢がそのような事態を招いたのだ。 中上健次が決着をつけたのは、何らかの解決概念を提示した、ということではない。放置されたがゆえに謎としてとどまっていたシーンを、作品制作を通じて社会に働きかけるという姿勢を保ち続けることによって、次々と突破したのだ。宗教、すなわち死者に対する債務感情から開放されるには、他に方法はないであろう。 阿部和重の高度な達成は、今後、作家が社会とどのような関係を切り結ぶか、規定してしまうのではないだろうか。 | ||||
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阿部和重が『シンセミア』で達成したのは、個人の生死を完璧に社会的諸関 係の結果として描ききる力技であった。これは驚くべき達成である。〈個人は 、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の 所産なのである〉から。 この作品に先行するモデルとしてドストエフスキーの『悪霊』が上げられる。この傑作とまともに取り組んだのはその批評能力のピークにあった壮年期の小 林秀雄であったが、「『悪霊』について」は、スタヴローギンの縊死の場面を 提示したところで未完に終わっている。『罪と罰』におけるスヴィドリガイロ フの自殺の場面と同様に、ドストエフスキーは何ら説明を述べていないのであるが、小林は説明しようとして放棄してしまったように見える。 ところで、中上健次の『地の果て 至上の時』で浜村龍造の縊死の場面を読 んだ時、これは、あれだ、スタヴローギンの場面と同じだ、と直覚した。中上 健次は、壮年期の小林が未完のまま放棄した到達点を引き受けて決着をつけて しまった。 小林が、ドストエフスキーに関するいくつもの力作を未完のまま放棄したの は、批評能力の欠如のためではない。社会に対する働きかけを断念し、批評作 品の制作を自己目的化してしまうに至った姿勢がそのような事態を招いたの だ。 中上健次が決着をつけたのは、何らかの解決概念を提示した、ということではない。放置されたがゆえに謎としてとどまっていたシーンを、作品制作を通 じて社会に働きかけるという姿勢を保ち続けることによって、次々と突破した のだ。宗教、すなわち死者に対する債務感情から開放されるには、他に方法は ないであろう。 阿部和重の高度な達成は、今後、作家が社会とどのような関係を切り結ぶか、規定してしまうのではないだろうか。 | ||||
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